道徳以外を教えます   作:マウスブン

64 / 95
嫉妬

ガラテア領を制圧しその地を新たな爆薬原材料の供給拠点とすべく、カシアンが多忙な日々を送るようになってから数日が経過した。捕虜となったイングリットは領主の館の一室に軟禁されていた。彼女は窓から見える故郷の空をただぼんやりと眺めることしかできない無力感と、これから先の見えない運命への不安に苛まれていた。

 

その日の午後重い扉が開く音がして、イングリットは警戒するように顔を上げた。そこに立っていたのは、頭巾を目深にかぶり、その表情を窺い知ることのできないカシアンと、そしてそのカシアンの腕に、まるで自分の所有物であるかのようにぴったりと寄り添い、片時も離れようとしないベレスの姿だった。ベレスの緑色の髪は、薄暗い部屋の中でも鮮やかに輝き、その瞳はイングリットの姿を認めると、ほんの一瞬だけ鋭く、そして何かを値踏みするかのように光った。

 

「イングリット殿。息災でしたか」

カシアンの声はいつものように抑揚がなく感情が読み取れない。彼はベレスを伴って部屋の中へと入ってくると、イングリットが座っていた硬い木製の椅子の向かいに、もう一つ椅子を引き寄せ、ベレスをそこに座らせてから、自分もその隣に腰を下ろした。その一連の動作はあまりにも自然で、そしてベレスに対する彼の無意識の庇護欲のようなものが垣間見えるかのようだった。

 

イングリットはそんな二人の姿に、胸の奥がチクリと痛むのを感じながらも、騎士としての誇りを保とうと、毅然とした態度でカシアンを見返した。

「…カシアン先生。ベレス先生も。何の御用でしょうか。私のような捕虜に、何かお話でも?」

その声には隠しきれない皮肉と、そしてかつての師と友人に対する複雑な感情が滲んでいた。

 

カシアンはイングリットのその言葉を意に介する様子もなく、淡々と本題を切り出した。

「単刀直入に申し上げましょう、イングリット殿。貴女の故郷、このガラテア領は現在我が軍…いえ、アドラステア帝国軍の厳格な管理下に置かれています」

その言葉に、イングリットは唇を固く結んだ。分かっていたことではある。だが、改めてこうして宣告されると、その現実は重く彼女の肩にのしかかった。

 

「ご存知の通りガラテア領は長年、貧困に喘いでいました。先の戦乱と今回の我々の侵攻によって、領内の食料や物資の欠乏は、さらに深刻なものとなっていました。放置すれば多くの領民が飢え、あるいは病に倒れることになる。それは私もそしておそらくは貴女も、望むところではないはずです」

カシアンの言葉は、冷徹なまでに現実的だった。

 

イングリットは思わず顔を上げた。

「それで…! 領民たちは…彼らはどうなるのですか!?」

その声には、故郷の民を案じる切実な響きが込められていた。

 

「ご安心を」カシアンは静かに続けた。

「我々はガラテアの民を見捨てるつもりはありません。ただし無償の援助というわけにもいきません。彼らには我々が指定する『仕事』に従事してもらうことになります。その労働の対価として、彼らが生きていくのに十二分な量の食料と、生活に必要な最低限の物資を、帝国から支給することを約束しましょう。飢えることも、凍えることもない生活を、です」

 

「仕事…? いったい何をさせるというのですか…?」イングリットは、訝しげな表情で問い返した。

 

カシアンは頭巾の下で微かな笑みを浮かべたように見えた。

「このガラテア領、そして隣接するカロン領には、フォドラの未来を左右する極めて貴重な『資源』が眠っているのです。一つは私が開発を進めている新型爆薬の製造に不可欠な、高品質な硝石と硫黄。そしてもう一つは…これはまだ調査段階ですが、アビスに封じられた禁書にはこの地の古い地層からは、『黒く燃える水』…我々の知らない、新たなエネルギー源となる未知の液体燃料が採掘できる可能性があるとありました。」

彼の瞳が科学者のような探究心と、戦略家としての冷徹な計算の光でギラリと輝いた。

「ガラテアの領民たちには、これらの資源の調査、採掘、そして運搬といった仕事に従事してもらうことになります。もちろん過酷な労働にはなりますが、その見返りは保証しましょう。彼らが自らの手で自らの未来を切り開くための、最初のステップとなるはずです」

 

イングリットはカシアンのその言葉に複雑な表情を浮かべた。爆薬の原材料、未知の燃料…。それらが何を意味するのか彼女には完全には理解できなかったが、それがフォドラの未来を大きく変える可能性を秘めたものであること、そして自分の故郷がそのための「道具」として利用されようとしていることは漠然とだが感じ取れた。しかし領民たちが少なくとも飢えずに済むという事実は、彼女にとって僅かな救いでもあった。

 

その時カシアンがまるでピクニックにでも来たかのように、傍らに置いていた革製のカバンから、丁寧に包まれたいくつかの塊を取り出した。

「…さて、難しい話はこれくらいにして、少し休憩でもしませんか。ちょうど昼食時でしょう。私が今朝方、試作してみたサンドイッチがあるのですが、よろしければご一緒にいかがですかな? ベレスもお腹が空いているでしょう?」

カシアンはこともなげにそう言うと、ワックスペーパーを開き、中から現れた分厚いサンドイッチをベレスとイングリットの前に一つずつ差し出した。香ばしく焼かれたパンの間には厚切りの燻製肉とシャキシャキとした新鮮な野菜、そして風味の良いチーズがたっぷりと挟まれており食欲をそそる良い香りが漂ってくる。

 

イングリットはそのサンドイッチを見て一瞬だけ目を丸くした。かつてガルグ=マクでカシアンが時折振る舞ってくれた、あの無骨だが驚くほど美味しいサンドイッチ。その記憶が鮮明に蘇る。まさかこのような場所で、再びそれを口にすることになるとは。

 

ベレスはカシアンのその申し出に嬉しそうに顔を輝かせると、早速サンドイッチを手に取り、大きな口で頬張り始めた。

「美味しい、カシアン!」

彼女はそう言いながらカシアンの口元に自分がかじったサンドイッチの端を差し出す。その仕草はあまりにも自然で、そしてイングリットの目の前でこれ見よがしに行われているかのようだった。

 

イングリットはその光景を目の当たりにし、胸の奥がチリチリと焼けるような、形容しがたい感情に襲われた。嫉妬…という言葉だけでは言い表せない、もっと複雑でそして苦しい感情。かつて自分もこんな風に無邪気に喜んで食べていたはずなのに。そして彼との間には他の誰にも邪魔されない、何気ない時間があったはずなのに。今では自分の立場や戦争のことがどうしても頭をよぎってしまう。

 

カシアンは頭巾の下でやれやれといった表情を浮かべながらも、彼女が差し出したサンドイッチを、特に抵抗することもなく受け入れ、その小さな口から直接かじり取った。そして満足そうに頷いている。

「ふむ、今回のハーブの配合もなかなか悪くないようですね。貴女にそう言ってもらえると、作った甲斐があったというものです」

その二人のやり取りはあまりにも親密で、イングリットの存在などまるで眼中にもないかのようだった。

 

イングリットは悔しさと悲しさと、どうしようもない孤独感に唇を噛み締めた。カシアンの作るサンドイッチは確かに美味しい。だが今の彼女にはどうしようもない苦味が感じられた。

 

カシアンはそんなイングリットの内心の葛藤にも、そしてベレスのあからさまな独占欲にも全く気づいていないようだった。彼はベレスが自分の肩に寄りかかってくるのをごく自然に受け入れながら、イングリットに向かって、さらに言葉を続ける。

「…そういえば、イングリット殿。貴女も、以前は私の作るこの手のものを、随分と気に入って食べてくれていましたね。特にあのベリーのジャム。あのジャムも近々新しい配合で試作してみようと思っているのですが…完成したら、また味見でも…」

カシアンのその言葉は彼なりの善意であり、単に昔の記憶を口にしただけ、ただ少し可愛がっただけのつもりだ。本当に悪い人。

 

だがその言葉はベレスの内に潜んでいた嫉妬の炎に決定的な油を注ぐ結果となった。

ベレスはカシアンの肩に寄りかかったまま、イングリットの顔を射抜くような鋭い視線でじっと見つめた。そしてカシアンの腕に絡みついていた自分の腕に、さらにぎゅっと力を込めると、まるでカシアンは自分だけのものだとでも主張するかのように、彼の頬に自分の頬をすり寄せた。その瞳の奥にはイングリットに対する明確な敵意と、カシアンへの強い独占欲が、隠しようもなく燃え盛っていた。

 

カシアンはベレスのその突然の行動の変化に、「ん? どうかしましたか、ベレス? 急に甘えて…」などと、相変わらず間の抜けたことを言っている。

牢屋の中にはカシアンの作るサンドイッチの香ばしい匂いと、ベレスの放つ独占欲のオーラ、そしてイングリットの胸を締め付ける複雑な感情が入り混じった奇妙で、どこまでも張り詰めた空気が重く漂い続けていた。

 

 

 

 

 

カシアンとベレスがガラテア領から自らの領地へと帰還し、捕虜となったイングリットの処遇や、確保した鉱物資源の活用計画などに忙殺される日々が数週間ほど続いた。その間にも、カシアンの名声――あるいは悪名と呼ぶべきか――は、彼が意図せぬ形で、しかし確実に帝国中に広まりつつあった。コルネリアという長年の脅威を排除し、難攻不落と噂されたアリアンロッドを陥落させ、さらには王国軍の一個方面軍を壊滅に追い込んだ謎の指揮官。紋章を持たず出自も不明ながら、その知略と戦術眼はフォドラでも屈指であり、「灰色の悪魔」と「アビス」を従え絶大な武力を自在に操るという。

 

そのような噂は当然ながら帝国の野心的な貴族たちの耳にも届いていた。彼らにとって、カシアンという男は得体の知れない脅威であると同時に、自らの家門の勢力拡大のための、またとない「駒」あるいは「縁戚」となり得る存在として映った。

結果としてカシアンの元には帝都アンヴァルの有力貴族や地方の富裕な新興貴族たちから、まるで嵐のように「お見合い」の話が舞い込んでくるようになった美しい娘や、あるいは未亡人となったばかりの魅力的な女性たちの肖像画が、見合い相手の釣書と共にカシアンの執務室のテーブルを日々賑わせるようになったのだ。

 

「…またですか。今度はどこの家のどなたです? 正直もう釣書を見るのも、返事を書くのも、時間の無駄だとしか思えないのですがね」

カシアンはあちらこちらから届けられた新たな見合い相手のリストを、頭巾の下で深いため息と共に見下ろしていた。彼はこれらの見合い話を、彼の合理的な思考に基づき、あるいは単に面倒くさいという理由で片っ端から丁重に、断固として断り続けていた。彼にとって政略結婚などという非効率的で、個人の自由を束縛するだけの旧時代の悪習(と彼が思うもの)に付き合う気は、毛頭なかったのだ。

 

そんなカシアンの苦悩をベレスは執務室の長椅子に腰掛け、膝の上で小さな犬を撫でながら、その緑の瞳の奥には微かな棘を隠して見つめていた。

彼女はカシアンが次々と見合い話を断っていることは知っていたし、彼が自分以外の女性に本気で心を動かすことなどあり得ないと信じてはいた。だがそれでも毎日のように届けられる美しい貴婦人たちの肖像画や彼女たちの輝かしい家柄、そしてカシアンの「妻」の座を狙うそのあからさまな欲望は、ベレスの心の中に無視できないさざ波を立て続けていた。

 

ある日の午後、カシアンが特にうんざりした様子で山積みになった釣書を暖炉の火にくべようとしているところに、ベレスはそっと近づいた。そして、彼がまさに火をつけようとしていた一枚の美しい肖像画――金髪碧眼の、いかにも名門貴族の令嬢といった風情の女性が描かれている――を、ひょいと取り上げた。

「…この人は、カシアンのどこが気に入ったんだろうね?」

ベレスの声は平坦だったがその言葉の端々には、隠しきれない不機嫌さが滲んでいた。彼女は肖像画の女性の完璧な微笑みを、値踏みするような、あるいは敵意にも似た視線でじっと見つめている。

 

カシアンはベレスのその言葉と彼女の瞳の奥に揺らめく微かな炎に、ようやく何かがおかしいと気づき始めた。彼は暖炉に釣書を投げ込む手を止め、困惑したような表情でベレスを見返した。

「…ベレス? どうかしましたか? その女性は、確か…東方の、ワインで有名な領地を持つ伯爵家のご令嬢だったかと。」

彼の言葉はいつものように飄々としていたがベレスの機嫌がなぜ悪いのか、本気で理解できていないようだった。

 

「ふーん…」ベレスは肖像画から視線を上げると、今度はカシアンの顔をじっと見つめた。そして、少しだけ拗ねたような、子供っぽい口調で言った。

「カシアンはこんな、いかにも『お姫様』感じの人が好き?」

その言葉は明らかな嫉妬だった。普段は感情をあまり表に出さない彼女がこれほどまでに分かりやすく不満を露わにするのは珍しい。

 

カシアンはベレスのそのあまりにも直接的な問いかけと彼女の瞳に宿る「嫉妬」という、彼にとっては未知に近い感情の光に、ようやく、本当にようやく事態の核心を理解し始めた。彼の合理的な頭脳が目の前のベレスの感情と、この数週間続いていた見合い話の奔流とを繋ぎ合わせ、一つの結論を導き出したのだ。

(…ははーん。ベレスは、私が他の女性と見合いをすることに…いや他の女性から私に関心が寄せられているという事実そのものに、不快感を覚えている…ということか。これは…いわゆる、『嫉妬』?)

周回遅れでようやく気付き、何故か得意げにカシアンはベレスのその人間らしい感情の動きを、まるで貴重な研究対象でも観察するかのように、また少し愛おしいという複雑な光を宿らせていた。

 

「ベレス」カシアンは努めて穏やかな声だが隠しきれない優しさを込めて言った。

「貴女は私が他の誰かと一緒になるかもしれないと、そう心配しているのですか?」

 

ベレスはカシアンのその言葉に図星を指されたように、ぷいと顔をそむけた。しかしカシアンの腕を掴む彼女の指先には、ぎゅっと力が入っている。

「…別に心配していない。カシアンが誰を選ぼうと、カシアンの自由」

その言葉とは裏腹に彼女の声は微かに震えていた。

 

カシアンはそんなベレスの強がりを微笑ましく思いながら彼女の隣にそっと腰を下ろすと、その小さな手を優しく握りしめた。

「ベレス。私は、貴女以外の誰かと共に生きるなどということは、もはや考えられませんよ。このカシアンの心も、そしてこのカシアンの未来も、全ては貴女だけのものです。他の誰にも渡すつもりはありません」

彼の言葉は真摯で揺るぎなかった。

 

ベレスはカシアンのその言葉にゆっくりと顔を上げた。その瞳にはまだ少しだけ不安の色が残っていたが、カシアンの真剣な眼差しと彼の手の温もりに徐々に心が解きほぐされていくのを感じる。

「…本当?」

「ええ、本当ですとも」

 

そしてベレスはカシアンの胸にそっと頭を預け甘える仕草を見せた。その姿は戦場で女神の力を振るう勇ましい彼女とは全く違う、ただカシアンにだけ見せる、無防備で愛らしい一面だった。

「…なら、もうあんな釣書見ないでほしい。他の人がカシアンのことを見るのも、…嫌だ」

その声は独占欲と、そしてカシアンを失いたくないという切実な想いに満ちていた。

 

カシアンはベレスのその言葉と彼女の髪から香る優しい匂いに、胸の奥が温かくなるのを感じながら、彼女の頭を優しく撫でた。

「分かりました、ベレス。これらの見合い話もそのうち自然と収まるでしょう。いくら恋愛と戦争では全てが許されると言っても、私が見向きもしないとなれば、彼らも諦めざるを得ませんからね」

彼の声にはどこか楽観的な響きがあった。彼にとって貴族たちの政略的な思惑など気にする内容ではない。

 

しかしベレスはカシアンのその楽観的な言葉を聞きながら、ふと何かを思いついたかのように顔を上げた。その緑の瞳には悪戯っぽい、何か素晴らしい名案を思いついたキラキラとした輝きが宿っていた。

「…ううん、カシアン。もっと確実で『効果的』な方法を閃いた」

彼女はカシアンの顔をじっと見つめ、自信に満ちた笑みを浮かべて言った。

「お見合いの話を永遠に、綺麗さっぱり終わらせるための、とっておきの『良い考え』がね…!」

 

カシアンはベレスのその言葉と彼女の瞳に浮かぶ、どこか不穏なしかし魅力的な輝きに、一瞬だけ言いようのない予感を覚え背筋に微かな悪寒が走ったが、気のせいだと思うことにした。

 

後になって、この時のことをカシアンは止めるならこの時だったと何度も思い出すことになった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。