レスター諸侯同盟の領都デアドラが陥落し、盟主クロードが降伏を宣言してから、早くも一週間が過ぎようとしていた。帝国軍は、デアドラとその周辺地域の治安維持と、暫定的な戦後処理に追われていたが、その間にも帝国本国からは新たな行政官や補給部隊が続々と到着し、同盟領の統治体制は着実に帝国側のものへと塗り替えられつつあった。そして本日、帝都アンヴァルと、ここデアドラの帝国軍本陣との間で、正式な停戦協定と、同盟の帝国への編入に関する調印式が、厳粛な雰囲気の中で執り行われた。これにより長きに渡りフォドラの一角を占めてきたレスター諸侯同盟は、その歴史に幕を下ろし、アドラステア帝国の幾つかの州として再編されることが決定した。
帝都から派遣された文官たちが、クロードをはじめとする同盟側の貴族たちと、戦後処理の具体的な細目を詰めている間、エーデルガルトは、このデアドラ攻略戦で目覚ましい戦功を挙げた将兵たちを労い、その功績を讃えるためのささやかな、しかし意義深い表彰の場を設けることにした。場所はデアドラの港を見下ろす、かつては同盟の評議会が開かれていたという壮麗な大広間。今は帝国軍の旗が掲げられ、皇帝の威光を示すための設えが急ごしらえで整えられている。
広間には帝国軍の主要な将校たち、そしてこの戦いで特に活躍した兵士たちが、緊張した面持ちで整列していた。エーデルガルトは、皇帝としての威厳を湛えた真紅の礼装に身を包み、玉座に代わる豪奢な椅子に腰掛けている。その隣には、腹心ヒューベルトが影のように控え、式次第の進行を冷静に見守っていた。
「――以上、デアドラ攻略戦における、各部隊の功績をここに讃える!」
ヒューベルトが、抑揚のない声で最後の部隊への賞賛の言葉を読み上げると、広間は大きな拍手に包まれた。兵士たちの顔には、激戦を生き抜いた安堵と、勝利の喜び、そして皇帝からの直接の労いに対する誇りが浮かんでいる。
「さて、これよりは、個人に対する戦功の表彰に移る」
エーデルガルトがよく通る声で宣言すると、広間の空気は再び引き締まった。誰もが、この戦いで最も大きな功績を挙げたであろう人物の名が呼ばれるのを、固唾を飲んで待っていた。
「デアドラ攻略戦において、我が軍の先頭に立ち、その比類なき武勇をもって敵陣を切り裂き、勝利への道を切り開いた者。そして何よりも、同盟軍盟主クロードを、見事打ち破りし者――」
エーデルガルトは、そこで一度言葉を切り、玉座からゆっくりと立ち上がった。彼女の紫水晶の瞳が、誇らしげな、そしてどこか個人的な親愛の情を込めた輝きを宿して、列席者の中の一点へと注がれる。
「ベレス=アイスナー殿! 前へ!」
その名が呼ばれた瞬間、広間は再び万雷の拍手と、称賛のどよめきに包まれた。兵士たちは、口々に「ベレス様!」「さすがは女神の剣!」「我らが英雄!」と、彼女の武勇を讃える声を上げた。
ベレスはその称賛の声にも落ち着いた様子で一歩前に進み出ると、エーデルガルトの前に進み、深々と一礼した。彼女もまた、今日の日のために用意されたのであろう、動きやすさを重視しながらも気品のある、淡い緑色の生地を用いた戦装束に身を包んでおり、その姿は戦場での勇猛さとはまた違う、凛とした美しさを漂わせていた。
エーデルガルトはベレスの前に立つと、その肩に優しく手を置き、皇帝としてではなく教え子として、そして心からの友としての温かい言葉を贈った。
「ベレス先生。あなたの力なくしてこのデアドラ攻略は成し遂げられなかったでしょう。帝国を代表して、そして私個人として、心からの感謝を。本当にありがとう」
その言葉と共にエーデルガルトはベレスに帝国の最高勲章の一つを授与した。ベレスは、その輝かしい勲章を静かに受け取り、再び深く頭を下げた。
その感動的な光景を広間の隅の方で、腕を組み、壁に寄りかかるようにして立っている一人の男が、まるで他人事のように、そしてどこか退屈そうに眺めていた。カシアンだった。彼もまたこの表彰式に「その他大勢の功労者の一人」として呼び出され、先ほど「カシアン殿。貴殿の献策と、後方支援における貢献に対し、これを授ける」という、ヒューベルトによる極めて事務的な言葉と共に、小さな銀の功労賞のようなものを半ば押し付けられるように渡されたばかりだった。受け取ったメダルは、既に彼の外套のポケットの奥深くに仕舞い込まれ、その存在すら忘れ去られていた。
ベレスの晴れがましい表彰が終わると、カシアンは学生時代にハイネマンの授業で培った「偉い人の話を聞き流すモード」へと移行した。彼はエーデルガルトが次に予定されている王国・教会との最終決戦への決意を表明し、兵士たちの士気を鼓舞する熱弁を振るっている間も、その内容には全く耳を貸さず、むしろ視線は広間の天井の緻密な装飾模様の幾何学的分析や、窓の外を飛ぶ鳥の飛行軌道の力学的考察、あるいは今夜の夕食には何を作ろうか、といった極めて個人的かつ実利的な思考に没頭していた。彼にとって、このような儀礼的な式典は、時間の浪費以外の何物でもなかったのだ。
エーデルガルトの長い演説がようやく終わり、兵士たちの士気が最高潮に達したところで、ヒューベルトが再び前に進み出て、最後のプログラムを告げた。
「――これにて、皇帝陛下からのお言葉を終わる。最後にこのデアドラ攻略戦において最大の戦功を挙げられた、ベレス=アイスナー殿より、全軍に対し、お言葉を頂戴したい!」
その言葉に、広間は再び期待に満ちたどよめきと拍手に包まれた。誰もが女神の力を宿す英雄が、一体どのような勇ましい言葉で、彼らをさらなる勝利へと導いてくれるのか、胸を高鳴らせていた。ベレスならきっと、何か素晴らしいことを言って、この式典を感動的に締めくくってくれるに違いない――皆がそう思っていた。
ベレスはゆっくりと広間の中央に設えられた小さな演台へと進み出た。簡素な拡声器のような魔法の品が置かれている。彼女は一度深呼吸をし、集まった兵士たちの顔を一人一人見渡した。そして静かに口を開こうとした、その瞬間。
彼女の視線が、ふと、広間の隅で相変わらず退屈そうに壁に寄りかかり、今にも欠伸でもしそうな勢いで上の空になっているカシアンの姿を捉えた。
その瞬間ベレスの口元に、ほんのわずかに、待っていたとばかりに笑みが浮かんだように見えた。
そして彼女はマイクに向かって何かを語り始める代わりに、そのカシアンに向かって、右手で「こっちへ来て」とでも言うように、くいっ、くいっ、と手招きのジェスチャーを送ったのだ。
そのあまりにも予想外の行動に、広間の空気は一瞬にして静まり返った。兵士たちは、何が起こったのか理解できず、ただ呆然とベレスと、そして彼女が手招きしている先のカシアンを交互に見つめるばかり。エーデルガルトも、ヒューベルトも、驚きを隠せない表情でベレスを見ている。
カシアン自身もまた、ベレスのその不可解なジェスチャーに、ようやく現実世界へと意識を引き戻されたようだった。彼は自分のことだと気づくのに数秒を要し、そして(私か? なぜ? 一体何のために?)とでも言いたげな、心底不思議そうな、そしてどこか面倒くさそうな表情を浮かべながらも、周囲の注目と、何よりもベレスの無言の圧力に抗うことはできず、やれやれといった様子で重い腰を上げ、のろのろとした足取りで、広間の中央、ベレスが待つ演台へと近づいていったのだった。
カシアンは広間中の注目を一身に浴びながら、そして内心では(一体全体、何のためにこんな面倒な場所に呼び出されたのだ…? スピーチの小道具にでも使われるのか?)などと、千々に乱れる思考の中、ベレスが待つ演台へと、重い足取りで近づいていった。その頭巾の下の表情は、誰にも窺い知ることはできないが疑問と警戒心で歪んでいたことだろう。
ベレスはそんなカシアンがようやく自分の数歩手前まで近づいたのを確認すると、逃がさないとばかりに、その細腕でカシアンの左腕を優しく、有無を言わせぬ強さでがっしりと掴んだ。そして彼をそのまま演台のすぐ隣、自分と並ぶ位置へと、半ば強引に導いた。カシアンはベレスのその行動の意図が全く読めず、ただ困惑した表情で彼女を見つめ返すしかなかった。
ベレスはカシアンの腕を掴んだまま、集まった帝国軍の将兵たち、そしてエーデルガルトやヒューベルトといった帝国首脳陣に向き直った。その表情は、先ほどまでの穏やかさとは打って変わり、どこか緊張した、しかし確かな決意を秘めた輝きを宿している。広間は水を打ったように静まり返り、誰もが固唾を飲んで彼女の次の言葉を待っていた。
「皆さん」ベレスの声が広間全体へと響き渡った。その声は普段の彼女からは想像もつかないほど、明瞭で力強かった。
「まずはこのデアドラ攻略戦における、皆さんの勇気と献身に、心からの感謝を述べさせてください。多くの犠牲と困難を乗り越え、我々はレスター諸侯同盟を打ち破り、フォドラの統一と平和への大きな一歩を、今日、確かに踏み出すことができました。この勝利は、皇帝陛下の揺るぎない指導力と、ここにいる兵士一人一人の力、そして何よりも、この戦いで散っていった多くの仲間たちの尊い犠牲の上に成り立っていることを、私たちは決して忘れてはなりません」
ベレスのスピーチは簡潔ながらも、戦いの厳しさと、仲間たちへの感謝、そして勝利の重みを的確に捉えた、見事なものだった。兵士たちからは、共感と称賛のどよめきが起こり、エーデルガルトも満足げに頷いている。
(ふむ、なかなかどうして、大したスピーチではないか。いつの間に、このようなことを…)
カシアンは隣で堂々と語るベレスの姿に、内心でわずかな驚きと、そしてどこか誇らしげな感情を覚えていた。彼女の成長は彼の予想を遥かに超えている。
ベレスはそこで一度言葉を切り、深呼吸を一つした。そして広間の空気が再び期待と緊張感で満たされるのを感じながら、彼女は今度は少しだけ個人的な、しかしその瞳にはさらに強い決意の色を浮かべて、言葉を続けた。
「…そして、皆さんに、もう一つだけ。これは私事ですが…この場で発表させていただきます」
その言葉に広間は再びざわめいた。私事? この場で? 一体何を? 誰もが、彼女の次の言葉に注目する。カシアンもまた、ベレスのその言葉に、(なんかあったかな?)と、一抹の疑問と不安を覚えずにはいられなかった。
そしてベレスは、そのカシアンの不安が的中したことを、あるいはそれ以上の衝撃を、その場にいた全ての人々にもたらす行動に出た。
彼女は掴んでいたカシアンの腕をさらに強く引き寄せると、何のためらいもなく、彼の胸に自分の体を預けるようにして、ぎゅっと強く抱きしめたのだ。そして驚きと混乱で完全に思考が停止し、目を見開いたまま硬直しているカシアンの顔を、その両手で優しく包み込むと――。
彼の唇に、自分の唇を、深く情熱的に重ね合わせた。
「………………………………え?」
カシアンの頭の中で、何かが音を立てて砕け散ったような感覚。理解が、全く追いつかない。目の前で起きていることが、現実のこととして認識できない。ベレスが? 私に? キスを? この、大勢の将兵が見守る、公式の場で? なぜ? どうして? 何のために?
彼の合理的な頭脳は、このあまりにも非合理的で、感情的で、そして何よりも予測不可能な事態を処理しきれず、完全にフリーズしてしまっていた。
ベレスのキスは長かった。それは彼女が長年カシアンに抱いてきた、言葉にできなかった深い愛情と、彼を失うかもしれないという恐怖を乗り越えた安堵、そして何よりも彼と共に未来を歩みたいという切なる願いの全てが込められた、魂のキスだった。広間は水を打ったように静まり返り、ただ二人の唇が触れ合う微かな音と、ベレスの荒い呼吸だけが、その異様な空間に響いていた。
やがてベレスがゆっくりと唇を離した時、カシアンはまだ、完全に魂が抜けたかのように呆然と立ち尽くしていた。その顔は、驚きと、混乱と、そして生まれて初めて経験する、強烈な感情の奔流によって、珍しく真っ赤に染まっている。
ベレスはそんなカシアンの表情を愛おしそうに、そして少しだけ悪戯っぽく見つめると、懐から小さなベルベットの箱を取り出した。そしてその箱をパカリと開け、中から現れた、シンプルなデザインだが、中央にはめ込まれた小さな宝石が控えめな輝きを放つ銀の指輪を、カシアンの目の前に差し出した。
そして彼女はその潤んだ大きな緑の瞳でカシアンを真っ直ぐに見つめ、震える声で、しかしその言葉には一切の迷いもなく、はっきりと、そして高らかに宣言した。
「カシアン。……私と、結婚してください」
その瞬間カシアンの頭の中の何かが、完全に焼き切れた。結婚? 私と? この状況で? 彼の思考は、もはや論理的な繋がりを完全に失い、ただただ目の前のベレスの顔と、彼女が差し出す指輪、そして彼女の言葉だけが、無限ループのように脳内を駆け巡っていた。彼は何かを言おうとして口を開閉させたが、言葉にならない、うめき声のような音しか出てこない。
しかしベレスはそんなカシアンの返事を、辛抱強く、そして確信に満ちた表情で待ち続けていた。彼女の瞳には絶対に変わらない意志と恐ろしいほどの決意が宿っているようにすら見えた。
カシアンはもはや正常な判断能力を完全に失っていた。だが彼の口から本心が、か細く、しかし確かに、一つの言葉が漏れ出た。
「…………はい」
その一言が、広間に響き渡った瞬間、数秒間の、まるで世界が止まったかのような完全な静寂が訪れた。そして、次の瞬間。
「「「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」」」」」」
帝国軍の兵士たちから、地鳴りのような、いや、それ以上の、天を衝くかのような凄まじい歓声と、祝福の怒号が、まるで火山が噴火したかのように爆発した! 一部の女性兵士や、感受性の強い若い兵士たちからは、感動のあまりか、あるいはあまりの衝撃に耐えきれなかったのか、悲鳴に近い叫び声も上がっている!
「ベレス様!カシアン様!おめでとうございます!」
「式典で何やってんだ!」
「結婚だ!結婚だ!」
「あははははは!」
「まさか、こんなところでプロポーズとは!」「おめでとう!」「なんだこれは!」
黒鷲の学級の元生徒たちもまた、それぞれの形でこの衝撃的な展開に反応していた。ドロテアは両手で口を押さえ、何というべきか、頭がショートしたままだ。フェルディナントは、最初こそ呆気に取られていたものの、すぐに「これは…!誠にめでたい!エーギル家の名において、お二人の未来を祝福申し上げる!」と、熱く叫んだ。カスパルは「すげえ!すげえよ、ベレス先生!カシアンの旦那も、やったな!」と、興奮して拳を振り上げ、リンハルトは「やれやれ、これでまた面倒事が増えそうですねぇ…ですが、まあ、退屈はしなさそうだ」と、欠伸をしながらも、どこか面白そうにその光景を眺めていた。ベルナデッタは、あまりの衝撃に卒倒しかけていたが、ペトラが隣でしっかりと支えていた。ヒューベルトだけは、その眉間に普段の三倍はあろうかという深い皺を刻み、「…全く…こちらの心労をどこまで増やすつもりだ…」と、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえていたが、その口元には、ほんのわずかに、本当にごく僅かに、苦笑とも安堵ともつかないような、複雑な笑みが浮かんでいた。
そしてエーデルガルト=フォン=フレスベルグは――。
彼女は玉座のあった場所でただ一人、微動だにせず立ち尽くしていた。その美しい顔は蒼白になり、紫水晶の瞳は信じられないものを見るかのように大きく見開かれたまま、目の前で繰り広げられる光景を、まるで夢でも見ているかのように、ただ呆然と見つめているだけだった。カシアンはともかく、ベレスが、あのベレスが、こんなにも大胆な行動に出るとは。そしてその相手がよりにもよって、あのカシアンとは。彼女の頭の中は、驚愕と、混乱と、そしておそらくは、言葉にできないほどの深い、深い衝撃によって、完全に真っ白になっていた。
広間は祝福の歓声と兵士たちの興奮した熱気、そして一部の者の悲鳴と絶叫によって、もはや収拾のつかないカオスな状態へと突入していた。その中心でベレスはカシアンの手を取り、彼の指に、誓いの証である指輪を、優しく、そしてしっかりと嵌めてやるのだった。カシアンは依然として魂が半分抜けたような表情で、その全てをされるがままになっていた。