道徳以外を教えます   作:マウスブン

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ベレス無双3

デアドラの空は、前日の熱狂的な戦勝祝いの喧騒が嘘のように、静かで穏やかな陽光に包まれていた。しかし帝国軍が臨時の司令部として使用している、かつての同盟評議会の会議室の空気はその穏やかな外気とは裏腹に重く、そして何とも言えない緊張感と、若干の気まずさで満ちていた。

 

部屋の中央に置かれた大きな円卓。その上座にはアドラステア帝国皇帝エーデルガルトが、眉間に深い皺を刻み、腕を組んで座っている。その隣には腹心ヒューベルトが、いつものように無表情を装いながらも、その瞳の奥には隠しきれない疲労と、目の前の事態に対する複雑な感情を浮かべて控えていた。そして円卓の向かい側には、この会議のもう一人の重要人物――急遽、アビスの隠れ家から呼び出されたジェラルト=アイスナーが、大きなため息を何度も繰り返しながら、苦虫を噛み潰したような顔で座っていた。彼もまた、昨日の「事件」の報をユーリス経由で聞き、娘の大胆すぎる行動に、頭痛を覚えずにはいられなかったのだ。

 

そしてその三人の視線が集中する先に、問題の二人――カシアンとベレスが並んで座っていた。カシアンは頭巾を目深にかぶり、その下ではおそらく、昨夜からの動揺と混乱、そして何よりも強烈な羞恥心で顔を赤らめたり青ざめたりを繰り返しているのだろう、落ち着きなく指先を弄び、視線をテーブルの上の木目に固定したまま、一言も発しようとしない。まるで嵐が過ぎ去るのを息を潜めて待つ小動物のようだ。

一方彼の隣に座るベレスは、そんなカシアンの狼狽ぶりなど全く意に介さない様子で、むしろ昨日の出来事が全て彼女の思惑通りに進み、そしてその後カシアンと二人きりで過ごしたであろう宴の続きも心ゆくまで楽しんだのだろう、その大きな緑の瞳は満足感と幸福感でキラキラと輝き、口元には終始、穏やかで幸せそうな笑みが浮かんでいた。その手はテーブルの下で、カシアンの震える手をしっかりと、そして優しく握りしめている。

 

重苦しい沈黙を破ったのは、やはりエーデルガルトだった。彼女はじろりとカシアンを一瞥した後、努めて冷静な、しかしその声には隠しきれない非難の色を滲ませてベレスに問いかけた。

「ベレス先生。単刀直入にお聞きします。昨日の、あの…表彰式の場での、あなたの行動。あれは一体、どういうおつもりだったのですか? 事前に何の相談もなく、あのような…公衆の面前で、カシアン卿にあのような…その…『求婚』をなさるとは。帝国軍の将兵たちの士気は確かに異常なほど高揚しましたが、同時に、少なくない混乱と、そして私を含め、多くの者を当惑させたことも、ご理解いただいているはずです」

エーデルガルトの言葉は、皇帝としての立場と、そして何よりもベレスという存在に対する個人的な感情が複雑に絡み合い、どこか詰問するような響きを帯びていた。

 

しかしベレスはエーデルガルトのその言葉にも全く動じる様子を見せず、あっさりと答えた。

「ええ、皇帝陛下。もちろん、私の行動で皆さんを驚かせてしまったことは理解しています。申し訳ありません。」

彼女は殊勝な態度で頭を下げたが、その表情には反省の色など微塵も感じられない。そして、悪びれる様子もなく、その衝撃的な行動の理由を、堂々と語り始めた。

「ですが、私にも考えがありました。まず最近カシアンに、大量の『お見合いの手紙』が、帝国の貴族の方々から届いていました。」

ベレスは隣でびくりと肩を震わせたカシアンの顔を、ちらりと楽しそうに見つめながら続けた。

「カシアンはその知略と戦功で、帝国内でも注目を集めてしまいました。そんな彼を自らの家に取り込もうと画策する貴族が後を絶たなかった。…ですから、昨日のあの場でカシアンは『私のもの』であると、フォドラ全土に、いえ、女神にまで高らかに宣言することで、一網打尽にしました。」

ベレスはまるで世紀の大発見でもしたかのように、誇らしげに胸を張った。

 

そのあまりにも大胆不敵な独占欲に満ち溢れた理由に、エーデルガルトは絶句し、ジェラルトは再び深いため息をつき、ヒューベルトはこめかみを押さえた。

「わ、私は! 私は、ちゃんと断っていました! 全ての手紙に、丁重にきっぱりと、『結構です』と返事を書いて! それに、そもそも私は貴族などという面倒なものにい関わるつもりも、ましてや貴族の誰かと結婚するつもりも…!」

カシアンがようやく我に返ったかのように、顔を真っ赤にして必死に反論しようとした。しかしその言葉はベレスの次の、さらに破壊力のある一言によって、無残にも遮られた。

 

「そうね、カシアン?」ベレスは小首をこてんと傾げ、潤んだ大きな瞳でカシアンの顔を下から覗き込むようにして甘えるような声で言った。

「でもね、あなたが5年前、あのガルグ=マクで、レアと戦う直前に、何の保証もない私を、ただ『一緒にいたい』という私の言葉だけを信じて、あなたの『軍』に、半ば強引に迎え入れてくれたじゃない? あの時、あなたは私の手を取って、こう言ってくれた。『これがベレスの『私は、あなたと、一緒にいたい。』への私の回答です。あなたと一緒にいられますね』って。…あれは私にとって、何よりも嬉しい『約束』だったの」

彼女の声は徐々に熱を帯びていく。

「私はもう我慢できなかった。あなたが他の誰かのものになるかもしれないなんて。あなたを誰にも渡したくない。……ダメだった?」

最後の言葉は囁くように甘えるような響きで、カシアンの耳元へと届けられた。その瞳にはカシアンを射抜くような強い意志と、そして彼を求める切実な想いが溢れていた。

 

「うぐっ……」カシアンはベレスのその言葉と、彼女の瞳の力に完全に言葉を失った。5年前の約束。そして彼女の剥き出しの純粋な想い。彼の合理的な思考も長年培ってきた皮肉な態度もその前では何の役にも立たない。彼はベレスのそのあまりにも真っ直ぐな愛情表現に、完全にノックアウトされてしまったのだ。顔はもはや茹でダコのように真っ赤になり、視線は意味もなく天井を彷徨っている。

「………問題ありません……」

かろうじて絞り出したその言葉は、もはや降伏宣言に等しかった。

 

「やった!」ベレスはカシアンのその返事に、満面の笑みを浮かべ、勝利のガッツポーズを小さく決めた。そして再びカシアンの手をぎゅっと握りしめる。

 

「問題あります!」

そのどこか甘ったるい空気を切り裂くように、エーデルガルトが、ついに我慢の限界に達したかのように声を荒げた。

「ベレス先生! いくらなんでも、それはあまりにも…! 皇帝である私の前で、しかも帝国軍の将兵が見守る中で、そのような個人的な感情を優先した行動を取るなど許されることでは…!」

彼女の声には皇帝としての威厳と、そして何よりもベレスのその行動に対する個人的な動揺と怒りが込められていた。

 

しかしベレスはそんなエーデルガルトの剣幕にも、全く怯む様子を見せない。むしろきょとんとした顔で首を傾げると自信満々に言った。

「大丈夫、事前に調べて前例を見つけたから。」

 

「前例ですって…?」エーデルガルトはその言葉の意味を測りかね眉をひそめた。

 

その時今まで沈黙を守っていたヒューベルトが、まるでタイミングを見計らったかのように静かに口を開いた。

「…陛下。誠に申し上げにくいことではございますがベレス殿のおっしゃる通り、歴史書を紐解きますと、確かに戦勝を祝う宴の席やあるいは凱旋式の場において、将軍や英雄がその功績を讃えられ、そして同時に愛する者との結婚を誓い民衆から祝福を受ける、といった事例は、フォドラの歴史上少数ではございますが確かに存在いたします。特に古代の英雄譚などにはそのような劇的な逸話が多く見受けられますな。…それが現代の帝国の儀礼として適切かどうかは、また別の問題ではございますが」

ヒューベルトは淡々と的確に歴史的事実を述べた。その言葉はベレスの行動を擁護するものではなかったが、同時にエーデルガルトがそれを頭ごなしに否定することも難しくさせる、絶妙なものだった。

 

ベレスはヒューベルトのその言葉に得意げに胸を張った。

エーデルガルトはヒューベルトのその思わぬ援護射撃(?)に、ぐうの音も出ず、ただこめかみを押さえて深いため息をつくしかなかった。隣では、ジェラルトが「…はぁ…うちの娘が、本当に、本当に申し訳ない…」と、心底疲れたような声で頭を抱えている。

会議室の空気はもはや何が何だか分からない、混沌としたカオスな状態へと突入し始めていた。その中心でベレスだけがカシアンの手を握りしめ、幸せそうな笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 

会議室の空気はベレスの爆弾発言とカシアンの消え入りそうな肯定によって、もはや混沌という言葉ですら生ぬるい、一種の祝祭的なパニック状態へと突入していた。

 

そんな中これまで苦虫を噛み潰したような顔で黙りこくっていたジェラルトが、ついに重い口を開いた。その声は戦場の喧騒を切り裂く彼の力強いそれとは程遠く、深い疲労と、娘への呆れ、そして目の前で繰り広げられる茶番劇に対する諦観が複雑に絡み合った、何とも言えない響きを持っていた。

 

「……はぁ……。ベレス、お前なぁ……」

ジェラルトは未だにカシアンの腕をがっしりと掴み、満面の笑みを浮かべている娘の顔をじろりと睨みつけた。その視線には父親としての威厳よりも、むしろ「この先どうしたものか」という途方に暮れたような色が濃く浮かんでいた。

「まあ、カシアンを選んだってんなら、俺も今更とやかく言うつもりはねえ。お前が本気でそうしたいってんなら、親として反対する権利もねえだろう。だがな…」

ジェラルトは、こめかみを押さえながら言葉を続けた。

「もう少し、こう、やり方ってもんがあっただろうが……。よりにもよってこんな…帝国軍の将兵が見守る、公式の表彰式の場でいきなり求婚だぁ? おまけに返事も聞かずにキスから始める奴があるか。心臓に悪いにも程があるぞ。俺の寿命が何年縮んだと思ってやがる」

その言葉には娘の大胆すぎる行動への純粋な困惑と父親としての心配、そしておそらくはこれから先の苦労を予感させる、ある種の諦めが込められていた。

 

ベレスはジェラルトのその言葉に、悪びれる様子もなく、屈託のない笑顔を向けた。

「でもカシアンはプロポーズしてもきっと「戦争中で死ぬかもしれないから終わってから」などと理屈をこねて先延ばしにする。でもあの場でキスすれば流石のカシアンも「後で回答する」などと言って逃げられない。それに皆に祝福してもらえた方がカシアンも覚悟が決まるでしょう?」

彼女のその言葉は的を射ていたがジェラルトにとっては頭痛の種を増やすだけだった。

 

「その『覚悟』とやらが、見ていてあまりにも急だから言ってるんだ、俺は」

ジェラルトは今度はベレスに腕を掴まれたまま、未だに魂が半分抜け殻になったかのように呆然としているカシアンへと、呆れ果てた視線を向けた。カシアンはベレスの突然の行動と周囲の熱狂的な祝福(?)によって、完全にキャパシティオーバーを起こし、口を半開きにしたまま、焦点の定まらない目で虚空を見つめている。その姿はかつて数々の戦場で冷徹な知略を巡らせ、敵軍を恐怖のどん底に叩き込んだ稀代の戦術家とは到底思えない、哀れなほどに頼りないものだった。

「おい、カシアン。いつまで腑抜けた顔をしてやがる。少しはしゃんとしろ、しゃんと。これから先お前さんは、そいつの…いや、ベレスの旦那になるんだぞ。そんな情けない顔でこの先やっていけると思ってるのか?」

ジェラルトの言葉は叱咤のようでもあり、あるいは憐憫のようでもあった。

 

カシアンはジェラルトのその言葉にびくりと肩を震わせ、ようやく現実世界へと意識を引き戻されたようだった。彼は慌てて姿勢を正そうとしたが、ベレスに掴まれた腕がそれを阻み、何ともぎこちない動きになる。そしてジェラルトの厳しい、しかしどこか心配そうな視線を受け止めるとかろうじて言葉を絞り出した。

「も、申し訳…ございません、ジェラルト殿…。その…あまりにも、予想外の事態の連続で…私の処理能力を、完全に…」

しどろもどろになるカシアンの姿に、ジェラルトは再び深いため息をついた。

 

「…まあ、いい。今更何を言っても詮無いことだ」

ジェラルトは半ば諦めたように首を横に振ると、カシアンの肩を今度は父親としての覚悟を促すように強く、どこか温かく叩いた。

「だがな、カシアン。お前さん、うちの娘を貰うってんならそれ相応の覚悟ってもんが必要だぞ。いいか、よく聞け。知ってるだろうがベレスはな、見かけによらず頑固で一度こうと決めたらテコでも動かねえところがある。それにお前さんへの求婚もそうだが、たまにとんでもねえことを平気でしでかす。それでも本当に大丈夫なんだな?」

ジェラルトの言葉は娘の性格を的確に容赦なく分析し、カシアンに最後の確認を迫るものだった。その瞳の奥には娘を嫁に出す父親としての一抹の寂しさと、目の前の男への複雑な信頼と期待が入り混じっているようだった。

 

カシアンはジェラルトのその真剣な眼差しと、彼の言葉の裏にある深い愛情を感じ取り、そして隣で「うん、私、頑固」などと、全く悪びれずに頷いているベレスの顔を見つめた。彼女の瞳はカシアンへの絶対的な信頼と愛情でキラキラと輝いており、その笑顔は彼にとって何物にも代えがたい守るべき宝物のように思えた。

カシアンは意を決したように深く息を吸い込んだ。そしてジェラルトに向き直り、その声にはまだ微かな震えが残っていたものの、はっきりと確かな意志を込めて答えた。

「…………はい。覚悟は、できております……多分」

最後の「多分」という、彼にしては珍しい弱気な一言が彼の内心の不安と、それでもベレスと共に歩むことを決意した、その覚悟の重さを如実に物語っていた。

 

そのカシアンの返事を聞いたベレスは、まるで世界で一番幸せなのは自分だとでも言うように、笑みを浮かべるとカシアンの腕にさらに強く自分の体を寄せた。そして空いている方の手でカシアンの頬にそっと触れると、確かな愛情を込めて言った。

「大丈夫だよ、カシアン。私がちゃんとカシアンのこと、守ってあげるから」

今苦しんでるのは誰のお陰だと思っているのか。その言葉は今のカシアンにとって、心強いのか、それとも新たな頭痛の種が増えただけなのか判断に苦しむところだった。

 

それでもまだ満足したりないのか、ベレスはまるで素晴らしいアイデアでも思いついたかのように、ぱっと顔を輝かせると楽しそうに言った。

「あ、そうだ! カシアンって、名字がないよね? 」

「ええ、孤児だったから覚えてません。」

「じゃあ私の名字をカシアンにあげる! これからはカシアン=アイスナー! いいでしょう?」

彼女はカシアンの返事も待たずに、一人で納得したようにうんうんと頷いている。

 

カシアンはベレスのそのあまりにも自由奔放な提案に、もはや反論する気力も、そしてその必要性すら感じなくなっていた。彼はただベレスのその幸せそうな笑顔を見つめ、まるで遠い世界の出来事を聞いているかのように力なく、しかしどこか安堵したような声で答えた。

「…………はい、私はカシアン=アイスナーです」

もはや彼にとって名字が何になろうと、そんなことは些細な問題でしかなかった。ベレスが喜んでくれるならそれでいい。彼の合理的な思考は、ベレスという存在の前では、いとも簡単にその機能を停止してしまうらしい。

 

もう一人のアイスナーであるジェラルトは、そのカシアンとベレスのやり取りの一部始終を、まるで出来の悪い喜劇でも見ているかのような、何とも言えない表情で見つめていた。ここまでの混沌はジェラルトの人生でも今まであるはずもなかった。そしてついに我慢の限界に達したかのように、あるいはこの先の二人の未来を思い、深い、深いため息を天に向かって吐き出した。そのため息には父親としての心配、安堵、諦め、そしてほんの少しの寂しさが複雑に温かく溶け込んでいるかのようだった。

 

 

 

 

ジェラルトの深いため息がようやく少しだけ落ち着きを取り戻しかけていた会議室の空気を再び揺らした。エーデルガルトは未だにこめかみを押さえ、ヒューベルトは無表情ながらもその眼鏡の奥の瞳が何かを激しく分析している。そしてカシアンはベレスに腕をしっかりとホールドされたまま、もはや諦観の境地に至ったかのように、遠い目をしていた。

 

そんな中、当のベレスだけはカシアンとの結婚が決まり、しかもカシアンが「カシアン・アイスナー」になることを決定したことで幸福感の絶頂にいた。彼女はにこにこと顔を輝かせまるで素晴らしいことを思いついたとばかりに、エーデルガルトに向き直った。

 

「そうだ、エーデルガルト!」

ベレスは皇帝陛下に対するものとは思えぬほど親しげな、そして悪びれない口調で切り出した。

「対同盟戦での戦功一位のお祝いだけど、少しだけ待ってもらってもいい?」

その言葉にエーデルガルトは「は?」と眉をひそめる。デアドラ攻略戦の功労者への表彰は先ほど終わったばかりであり、ベレスがその筆頭であったことは言うまでもない。その褒賞について、今、このタイミングで何か注文があるというのだろうか。

 

ベレスはそんなエーデルガルトの訝しげな表情など全く意に介さず自信満々に、どこか楽しそうに続けた。

「私はこの後の対王国・教会でも必ず戦功一位を取る。だからその時のお祝いと、今回のお祝いを、まとめたい。それでね、…一生大切に使えるような、特別な結婚の記念品を用意して!」

彼女の言葉はあまりにもマイペースで、そしてあまりにも突拍子がなかった。戦功一位を二度取ることを当然のように宣言し、その上で結婚の記念品を皇帝に要求するなど、常識では考えられない。

 

「い、一生ものの…結婚の記念品ですって…?」

エーデルガルトはベレスのそのあまりにも斜め上を行く要求に、さすがに言葉を失った。彼女の紫水晶の瞳が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、口元がかすかに引き攣っている。隣のヒューベルトも普段の冷静沈着な仮面の下で、わずかに眉をピクリと動かしたのが見て取れた。ジェラルトに至っては、再び深いため息をつき、「もう知らん…」とでも言いたげに天を仰いでいる。カシアンはもはや反応する気力もないのか、ただただベレスの横で虚無の表情を浮かべていた。

 

エーデルガルトは数秒間の沈黙の後、ようやく我に返ったように、震える声でベレスに問い返した。

「ベ、ベレス先生…。確かにあなたのこれまでの戦功は、帝国にとって計り知れないほど大きなものです。それは認めます。ですが…その、まだ勝利してもいない戦いの戦功を前提として、しかも結婚の記念品を要求するというのは、いくらなんでも…その…前例が…」

彼女の声は皇帝としての威厳と、ベレスという規格外の存在に対する困惑と、そして何よりもカシアンへの同情(?)が複雑に入り混じり、しどろもどろになっていた。

 

しかしベレスはそんなエーデルガルトの動揺などどこ吹く風、というように、きょとんとした顔で首を傾げた。

「そう? 大丈夫。私かカシアンが勝つから。だから記念品は絶対に必要。ね、カシアン?」

ベレスはカシアンの腕をぎゅっと握りしめ絶対的な信頼を込めた笑顔を彼に向けた。カシアンは、その笑顔に何かを言う気力も失せたのか、ただ力なく「…はい、ベレスの言う通りです…」と、もはや操り人形のように頷くしかなかった。

 

エーデルガルトはベレスのその悪びれない態度とカシアンの完全なまでの陥落ぶりを見て、もはや抵抗する気力を失った。この二人に常識や前例など通用しない。そして何よりもベレスのその規格外の戦闘能力とカシアンの底知れない知略は、これからの帝国にとって、絶対に手放すことのできない力なのだ。ここで彼女たちの機嫌を損ねるのは、得策ではない。

(…ええい、今のベレス先生は無敵、ろくなことにならないのは分かりきっているのだから!)

エーデルガルトは内心でそう叫ぶと観念したように、そしてどこかやけくそ気味に、大きく息を吐き出した。

「……分かりました、ベレス先生。あなたのその…自信と、カシアン卿への深い愛情に免じて、その途方もない要求を、特別に承諾しましょう。対王国・教会戦で見事戦功一位を収めた暁には、お二人の結婚を祝し、帝国が総力を挙げて、素晴らしい結婚の記念品を、必ずやご用意いたします。…それでよろしいですね?」

その声には皇帝としての威厳よりも、むしろ「もう好きにしてくれ」という諦めの色が濃く滲んでいた。

 

「ありがとう、エーデルガルト!」

ベレスは顔を綻ばせて喜んだ。そしてカシアンの腕を掴んだまま、ぶんぶんと前後に大きく揺さぶる。カシアンは、その勢いにされるがまま、まるで柳の枝のように揺れていた。

「楽しみ、どんな記念品かな!」

ベレスは一人で未来の幸せな光景を思い浮かべ、うっとりとした表情を浮かべている。

 

エーデルガルトはその光景を、もはや何も言う気力もなくただ遠い目で見つめていた。ヒューベルトはそっと懐から小さな手帳を取り出し、何事かを、真剣な表情で書き留め始めた。

 

ベレスは一しきり喜びを爆発させた後、ふと何かを思い出したように、エーデルガルトに向き直った。

「それでエーデルガルト。まだ何か話し合うことはある? なければカシアンとこれからのことについて、もっと色々『相談』したいのだけれど」

その『相談』という言葉が具体的に何を意味するのか、エーデルガルトもヒューベルトもジェラルトも想像するだけで頭痛がしそうだった。

 

エーデルガルトは力なく首を横に振った。

「…いいえ、ベレス先生。もう、何もありません。今日の会議はこれで…お開きとしましょう。ええ、そうしましょうとも」

彼女の声は心底疲れきっていた。

 

「そう、分かった!」ベレスはにっこりと微笑むと「それじゃあ、カシアン、行きましょう!」と言い、もはや何の抵抗も示さないカシアンの腕をまるで大切な戦利品でも運ぶかのように、力強く引きずるようにして会議室の出口へと向かって歩き出した。その足取りは軽く鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌だった。カシアンはまるで連行される罪人のように、あるいはこれから始まるであろう新たな試練に身を委ねる殉教者のように虚ろな目でベレスに引かれていく。

 

バタン、と二人の姿が扉の向こうに消えると、会議室にはしばしの間、重い沈黙が流れた。その沈黙を破ったのはジェラルトの深くて、どこか遠い目をした呟きだった。

「……はぁ……。まあ、なんだ。あれはあれでベレスも…カシアンも幸せそうではあるんだがな…。それにしても今回のベレスのあの行動力と妙なところで大胆不敵なところは…どう考えてもカシアンの影響としか思えん…」

ジェラルトはカシアンがこの場にいないことを承知の上で、確信に満ちた声でそう言った。かつてのベレスは確かに感情表現が乏しくどこか掴みどころのないところはあったが、ここまで周囲を振り回し自らの欲望に忠実な行動を取るような娘ではなかったはずだ。カシアンという常識の枠にとらわれないある意味で純粋で、底知れぬ知性を持つ異質な存在と深く関わることで、ベレスの中に眠っていた何かが良くも悪くも覚醒してしまったのかもしれない。

 

エーデルガルトはジェラルトのその言葉に静かに頷いた。

「…ええ、そうかもしれませんわね、ジェラルト殿。カシアン卿のあの常識を破壊するような思考と行動力は、良くも悪くも周囲に強烈な影響を与える。ベレス先生もまた、彼のその特異性に強く惹かれ、そして影響を受けているのでしょう。…それが帝国にとって吉と出るか凶と出るか…」

彼女の言葉は未来への不安と、どこかその混沌とした状況を愉しんでいるかのような複雑な響きを帯びていた。

 

ヒューベルトは手帳から顔を上げ冷静な分析を口にした。

「カシアン卿の知略と、ベレス殿の戦闘能力。この二つが完全に融合し、かつ両者の間に強固な信頼関係…いえ、それを超えた『絆』が生まれたとすれば、それは我々帝国にとって計り知れないほどの戦力となるでしょう。ですが同時にその力はあまりにも強大で、そして予測不可能。我々の制御を離れ暴走する危険性も常に考慮に入れておく必要がございます」

彼の言葉はいつものように的確で冷徹だった。

 

ジェラルトはそんな二人のやり取りを腕を組みながら聞いていた。そして最後に父親としての、また長年戦場を生きてきた傭兵としての実感を込めた言葉を漏らした。

「…まあ、どっちに転ぶにしろ、退屈だけはしねえだろうな。これじゃあ、まだしばらく死ねねぇな…」

その乾いた声はどこか娘たちの未来を温かく見守るような、優しい響きを伴って静まり返った会議室に虚しく響いていた。

 

 

 

最後にベレスのプロポーズ計画の概要

対カシアン

目的: カシアンとの未来を確定させ、全ての恋敵や見合い相手を排除する。

 

分析: カシアンの最大の弱点は、予測不能な真正面からの愛情表現である。生まれてからカシアンは善意や愛情を殆ど知らない。

 

戦術: 帝国軍の将兵と皇帝が見守るという絶対に逃げられない状況(キルゾーン)を設定し、そこにターゲットを誘い込み、奇襲(キス)からの最後通牒(プロポーズ)で、彼の理性を完全に機能停止させ逃げ道を無くして、返事を迫る。

 

カシアンの常識にとらわれず目的達成のためには時に非情な手段すらも厭わない思考様式。悪魔的なまでの戦略をベレスが「愛を成就させる」という、極めて個人的な目的のために完璧に応用し、生徒が先生を越えた瞬間でした。




次回は水曜日です。
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