金鹿の学級の教室には、いつもと違う種類の緊張感が漂っていた。先日提出した課題――鷲獅子戦での雪辱を期して、各々が知恵を絞って考案した『対ベレス戦術私案』のレポートが、今日、カシアンによって返却されるのだ。あの規格外の強敵をどう攻略するか、という難題に挑んだ成果が、今、明らかにされようとしていた。
カシアンは、分厚い羊皮紙の束を抱えて教室に入ってきた。その表情からは、評価の内容を窺い知ることはできない。彼は無言で教壇に立つと、早速レポートの返却を開始した。
「ヒルダ」
「はーい…」気だるげに返事をしたヒルダに渡されたレポートには、赤いインクで大きく「38点」と書かれていた。「えーっ、ひどーい! ちゃんと書いたのに!」
「ローレンツ」
「むん!」自信満々に受け取ったローレンツだったが、記された「45点」という数字を見て絶句する。「な、なぜだ!? 私の考案した、騎士道精神に則った正々堂々たる包囲殲滅陣が、この程度の評価だと!? 信じられん!」
「ラファエル」
「おう!」元気よく受け取ったレポートは「62点」。「おお! まあまあだな! 次はもっと頑張るぞ!」
「レオニー」
彼女のレポートは「75点」。「よしっ! やっぱり実践的なのが一番だよな!」とガッツポーズ。
「リシテア」
彼女は「92点」という高得点に、小さく頷き満足げな表情を見せた。「当然です。努力と理で、攻略の糸口は見つかります」
「クロード」
飄々とした表情で受け取ったクロードのレポートには「95点」と記されていた。彼は点数を見ると、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。「へえ、なかなかお目が高いじゃないか、センセ?」
次々とレポートが返却され、教室は生徒たちの様々な反応でざわつき始めた。高得点を取って喜ぶ者、予想外の低得点に不満を漏らす者、互いの点数を見せ合って慰め合う者、悔しがる者…。悲喜こもごもの声が飛び交う。
「なあ、どんなこと書いたんだよ?」「リシテア、やっぱりすごいな!」「なんで俺の評価がこんなに低いんだ! カシアン先生の採点基準が分からん!」
ひとしきり教室が騒がしくなった後、自分のレポートを吟味していたイグナーツが、恐る恐る手を挙げた。
「あ、あの、カシアン先生。よろしいでしょうか?」
カシアンが視線で促すと、イグナーツは続けた。
「大変失礼かとは存じますが、このレポートの採点基準について、もう少し詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか? 点数にかなり幅がありますが、先生は具体的に、どのような点を重視して評価なさったのですか? やはり、独創性でしょうか? それとも実現可能性…?」
イグナーツの問いに、他の生徒たちも興味津々といった様子でカシアンに注目する。確かに、点数のばらつきは大きく、その基準は誰にとっても謎だった。
カシアンは、集まった視線を意にも介さず、こともなげに答えた。
「採点基準か。それは非常にシンプルだ」
彼は一瞬間を置いて、教室全体を見渡すと、衝撃的な事実を、まるで今日の天気の話でもするかのように、平然と告げた。
「まず、前提として、私は採点していない」
「「「え?」」」
「このレポートは全て、黒鷲の学級の担任である、ベレス本人に見せ、彼女に採点してもらった。私に剣での戦い方など理解できないからな。」
その言葉が理解されるまでに、数秒の静寂があった。そして次の瞬間、教室は文字通り爆発したような大騒ぎになった。
「えええええええ!?」「ベ、ベレス先生に!? 本人に!?」」「う、うそでしょ!? まじで!?」「ってことは、俺が書いたあの恥ずかしい作戦名とかも全部読まれたってことか!?」」「私の考えた弱点分析も…!?」「あああ、もうおしまいだ…」
生徒たちは驚愕し、顔面蒼白になったり、頭を抱えたり、羞恥心で赤面したりしている。特に、ベレスの弱点を突くような策や、奇抜な作戦を書いていた生徒たちは、生きた心地がしないだろう。
カシアンは、パニック状態に陥った生徒たちを冷ややかに見下ろしながら、淡々と続けた。
「評価基準は、『ベレス自身が読んで、その策が自分に対して有効だと感じたか、あるいは、実行されたら厄介だと感じたか』。ただそれだけだ。彼女が『これは面白い』『確かにこれは効くかもしれない』『実行されたら面倒だ』と判断したものは高得点。逆に『全くの無意味だ』『こんなものは簡単に対処できる』『非現実的で話にならない』と判断したものは低得点となっている。これ以上なく実践的で、公平な評価基準だと言えるだろう?」
カシアンの説明は、正論ではあったが、生徒たちにとっては悪魔の囁きのようにしか聞こえない。
そして、彼は仕上げとばかりに、冷酷な事実を突きつけた。
「もっとも」
カシアンはわずかに口角を上げたように見えた。
「君たちが必死で考え出したそれらの策は、これで全て、ターゲットであるベレス本人に詳細に知られてしまったわけだ。ご存知の通り、彼女は一度理解した相手の戦術に対しては、即座に対応策を編み出すことができる。つまり…」
彼は絶望に打ちひしがれる生徒たちを見渡し、宣告した。
「君たちが時間をかけて考案したこれらの『対ベレス戦術』は、残念ながら、もう未来永劫、彼女には一切通じないだろうな。骨折り損のくたびれ儲け、というやつだ。ご苦労だった」
カシアンの言葉は、教室にとどめの一撃を与えた。生徒たちはもはや騒ぐ気力もなく、呆然自失としている。クロードでさえ、苦笑いを浮かべて天を仰いでいる。ローレンツに至っては、魂が抜けたように白くなっていた。
教室に漂う深い絶望と、かすかなカシアンに対する怒りの気配を意にも介さず、カシアンは満足げに頷くと、次の授業の準備を始めるのだった。彼の常識外れの教育は、今日もまた、生徒たちの心に深い爪痕を残したようだった。
金鹿の学級に衝撃と絶望を与えたレポート返却から数日後。カシアンは、自身の研究や次の講義の準備の合間を縫って、ベレスの姿を探していた。先日のレポート採点では、彼女にかなりの手間をかけさせてしまったという自覚があった。カシアンの合理的な思考は、受けた労力に対しては相応の対価を支払うべきだと結論付けていた。
彼は、黒鷲の学級の教室近くで、ちょうど授業を終えて出てきたベレスを見つけた。
「ベレス」
カシアンが声をかけると、ベレスは静かに彼の方を向いた。その表情はいつも通り凪いでいる。
「先日は、金鹿の学級のレポート採点を引き受けてくれて助かった」
カシアンは、彼にしては丁寧な口調で切り出した。
「君の詳細な評価のおかげで、生徒たちにとっても、私にとっても、非常に有意義な結果を得ることができた。感謝する」
ベレスは小さく頷いたが、特に言葉は返さない。
カシアンは続けた。
「つきましては、その労に対して、何か私から礼をしたいと考えているのだが。何か希望はあるだろうか? 私に可能な範囲であれば、できる限り応えようと思う。例えば、必要な研究資料の提供や、あるいは…金銭的な報酬でも構わないが」
カシアンとしては、情報や物資、金銭といった、実用的で合理的な「対価」を想定していた。それが彼にとっての、最も分かりやすい感謝の表現方法だった。
しかし、ベレスはすぐには答えなかった。彼女はカシアンの申し出を聞くと、少しの間、じっと彼の顔を見つめたまま、何かを考えているようだった。彼女の大きな瞳の奥で、どのような思考が巡っているのか、カシアンにも読み取ることは難しい。先日食べた牛肉の包み焼きのことか、それとも初めて口にした強烈な酒のことか、あるいは全く別の何かか…。
しばしの沈黙の後、ベレスは静かに、しかし迷いのない、はっきりとした声で言った。
「……それなら、一緒に料理がしたい」
「…………料理?」
予想もしなかった言葉に、カシアンは思わず聞き返した。彼の眉が、ほんのわずかに、ピクリと動いた。彼の思考回路が、ベレスから提示された非合理的な要求を処理しきれずに、一瞬フリーズしたかのようだった。金でもなければ、情報でもない。ましてや、彼が得意とする戦術指南でもない。「一緒に料理をする」? それがお礼の希望だというのか?
ベレスは静かに頷いた。
「はい。先生の作るものは、変わっている。…でも、この前も食べた、あの牛肉の包み焼きは、美味しい。だから作り方を知りたい。そして一緒に作ってみたい」
彼女の言葉は訥々としていたが、その中には明確な意志と、カシアンという個人への興味が込められているように感じられた。それは、単なる食欲だけではない、もっと個人的な、コミュニケーションへの欲求のようにも思えた。
カシアンは、ベレスの真意を探るように、彼女の瞳をじっと見つめ返した。なぜ、料理なのか? もっと実利的なものを求めるのが、合理的ではないのか? しかし、目の前のベレスは、真剣な表情で彼の返事を待っている。彼女の持つ、常識や合理性では測れない部分が、またしてもカシアンの予測を超えてきた。
カシアンは小さく息をついた。彼の合理的な思考は、この要求の非効率性を指摘していたかもしれない。だが、同時に、ベレスという存在に対する彼の個人的な興味、あるいは、彼女にだけ見せるわずかな「特別扱い」の感情が、その合理性を上回った。
カシアンは、少しの間を置いて、承諾の意を示した。
「料理、ですか。構いませんよ。ただし、私の調理法は一般的なものとはかなり違う。手順も効率重視で、見た目や繊細さには欠けるが、それでもよければ」
「はい。それでいい」ベレスは小さく、しかし満足そうに頷いた。
「では、日時や場所、必要な材料など、詳細は後日改めて相談しましょう」
カシアンは、どこか落ち着かないような、それでいて新しい課題を与えられたような、複雑な心境で言った。
こうして、ガルグ=マク大修道院の異端な教師と、寡黙な元傭兵の教師との間で、「一緒に料理をする」という、ささやかな、新たな約束が交わされた。