レスター諸侯同盟の領都デアドラでの衝撃的な「公開プロポーズ」と、その後の慌ただしい調印式、そしてエーデルガルトたちとの別れから数日。カシアンとベレスは、アビスの者たちが守る西の領地――彼らの新たな拠点へと、二人きりの帰路を辿っていた。道中は驚くほど穏やかで、戦いの喧騒も、陰謀の影も、今はどこか遠い世界の出来事のように感じられた。ベレスは終始ご機嫌で、カシアンの腕を片時も離そうとはせず、時折、彼が淹れてくれたハーブティーの思い出話や、これからの二人の生活への期待を、キラキラとした瞳で語りかけていた。カシアンは、そんなベレスの言葉に、いつものように冷静な相槌を打ちながらも、その頭巾の下の表情は、以前よりもずっと柔らかく、そして彼女の無邪気な笑顔に知らず知らずのうちに自身の口元も緩んでいることに、まだ気づいていないようだった。
長い旅路の末、ようやく見慣れた領地の入り口を示す簡素な木の門が見えてきた時、カシアンは違和感を覚えた。門の上に掲げられた領地の名を示す看板が、以前の「カシアン領」ではなく、何やら新しいものに掛け替えられている。そしてカシアン領の看板は無造作に捨てられている。また門の周辺には、いつもよりも多くの人影が見え、何やら騒がしい音楽のようなものまで微かに聞こえてくる。
「…? 何かあったのでしょうか、ベレス。私が留守にしている間に、何か祭りでも…?」
カシアンが訝しげに首を傾げると、ベレスは「さあ?でも楽しそう。」と、無邪気に微笑んだ。彼女のその反応に、カシアンは一抹の不安を覚えながらも、馬を進めた。
門を潜り町の中心部へと続く道を進むにつれて、カシアンの不安は確信へと変わっていった。そしてその確信は、やがて彼のこめかみをピクピクと痙攣させるほどの、強烈な頭痛の予兆へと変化していった。
町の広場という広場には色とりどりの布や、どこから集めてきたのか、不揃いだが賑やかな花々が飾り付けられ、まるで収穫祭か何かの前夜のような浮かれた雰囲気に包まれていた。そして、領主の館へと続く道の両脇には、アビスの住人たちや、この町で新たな生活を始めた領民たちが、まるで王侯貴族の凱旋でも出迎えるかのように、手作りの旗(その多くには、なぜかカシアンの似顔絵とハートマークが描かれている)を振り、奇妙な楽器を鳴らし、そして何よりも、カシアンとベレスの姿を認めるや否や、割れんばかりの歓声を上げ始めたのだ。
「カシアン様!ベレス様!ご帰還おめでとうございます!」
「ヒュー!領主様ご夫妻のおなーりー!」
「結婚おめでとう!末永くお幸せに!」
その歓声の中心にいたのは言うまでもなくユーリス、バルタザール、ハピ、そしてコンスタンツェといったアビスの主要メンバーだった。彼らはカシアンとベレスがデアドラで「結婚の約束」を交わしたという噂(その多くは面白おかしく脚色され、アビスの者たちによって瞬く間に領内に広められていた)を聞きつけ、カシアンの留守の間に、総力を挙げてこの盛大な歓迎の準備を進めていたのだ。
「…ユーリス!貴様、一体これはどういう騒ぎだ!?」
カシアンは群衆をかき分けて進み出てきたユーリスの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで問い詰めた。その頭巾の下の顔は、おそらく怒りと羞恥で真っ赤になっていることだろう。
「それに、あの門の看板! なぜ『アイスナー領』などという、私の与り知らぬ名前に変わっているのだ!?」
ユーリスはカシアンの剣幕にも全く動じる様子はなく、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて答えた。
「へっ、カシアンの旦那も、隅に置けねえじゃねえか。デアドラであんな派手なことやらかしといて、今更何を照れてるんだ? これは俺たちアビスの連中からの、ささやかな結婚祝いってやつよ。看板の名前も、そりゃあ、領主様が『カシアン・アイスナー』になるってんなら、領地の名前も名字に合わせるのが筋ってもんだろう?」
「け、結婚祝いだと!?誰がそんなものを頼んだ!それにアイスナー領などという名前を勝手に…!」
カシアンは反論しようとしたがその言葉は隣で目をキラキラと輝かせ、満面の笑みを浮かべているベレスの姿によって虚しく遮られた。
「みんな、ありがとう! カシアン! 私たちの結婚を、こんなにたくさんの人がお祝いしてくれてる!」
ベレスはカシアンの腕を掴んだまま飾り付けられた広場や、手作りの旗を振る領民たちを嬉しそうに見回している。その純粋な喜びようにカシアンはもはや何も言う気力を失い、ただ深いため息をつくしかなかった。
さよならカシアン領、こんにちはアイスナー領。
「さあさあ、領主様ご夫妻! こちらへどうぞ! 今夜はアビス特製の料理とカシアンの旦那が隠し持ってた秘蔵の酒で、盛大にお祝いと参りましょうや!」
バルタザールがカシアンとベレスの背中を豪快に押し領主の館へと続く道へと促す。館の入り口には、コンスタンツェが「まあ、カシアンもベレスも、本当に素敵ですわ! このヌーヴェル家のコンスタンツェが、お二人の輝かしい未来を心から祝福させていただきますわよ!」と、いつものように芝居がかった口調で、その瞳には確かな喜びの色を浮かべて出迎えた。ハピだけは「…まあ、皆が幸せそうだから、いっか…」と気だるげだがその口元には微かな笑みが浮かんでいた。
その夜カシアン領――いや、もはや領民たちの間ではすっかり定着してしまった「アイスナー領」の領主の館の広間は、アビスの者たちとカシアンを慕う?領民たちによる、手作りだが心のこもった、そして何よりも騒がしい結婚祝いの宴で夜遅くまで熱気に包まれた。
テーブルにはアビスの料理自慢たちが腕を振るった、見た目は武骨だが滋味深い料理の数々――巨大な猪の丸焼き、魚介と野菜の豪快な煮込み、少し焦げたが香ばしい黒パンなどが所狭しと並べられ、樽からはカシアンが隠していたはずの年代物のエールや葡萄酒が、まるで泉のように振る舞われていた。なおカシアンの秘蔵酒は領民皆の合意の元勝手に持ち出されている。
カシアン自身はこの悪夢のような、しかしどこか温かい状況に頭を抱え隅の方でジェラルトから「父親としての話」という名の尋問を受けていたが、ベレスはそんなカシアンの苦悩などどこ吹く風、アビスの子供たちに囲まれ彼らが歌う即興の結婚祝いの歌に手拍子を打ちながら、心の底からこの賑やかな宴を楽しんでいた。彼女の左手の薬指にはデアドラの表彰式でカシアンに嵌めた銀の指輪とお揃いのものが、ランプの光を受けて控えめに、輝きを放っている。
そしてその宴の席で誰からともなく囁かれ始めたカシアンの新たな二つ名。それは以前彼を恐怖と畏敬の対象としていた『アビスの悪魔』という呼び名にほんの少しだけだが決定的な変化を加えたものだった。
「おい、聞いたか? カシアンの旦那の新しい通り名だよ」
「ああ、なんだって? 『アビスの悪魔』じゃなかったのか?」
「それがよぉ、今じゃこう呼ばれてるらしいぜ。『女神に従う悪魔』ってな!」
「ぶはははっ! そりゃあ傑作だ! あのカシアンの旦那が、ベレス様に完全に尻に敷かれてるってことか!」
「だがよ、あのベレス様の幸せそうな顔を見てると、悪魔もたまには人を幸せにできる、なんて思っちまうぜ」
その噂は酒の勢いも手伝って、瞬く間に宴の参加者たちの間に広まっていった。『女神に従う悪魔』。それはカシアンの冷徹な知略と、ベレスへの深い愛情(あるいは彼女の尻に敷かれているという現実)を絶妙に、どこかユーモラスに表現したアビスの者たちらしい、最高の「祝福」の言葉だったのかもしれない。
カシアンはその新たな何とも不名誉な二つ名を耳にし頭痛をさらに悪化させながらも、ベレスの心からの幸せそうな笑顔を見た時、まあ、これくらいは甘んじて受け入れても良いのかもしれない、と、ほんの少しだけ本当にごく僅かにそう思ったのだった。
アイスナー領(旧カシアン領)の領主の館の広間は、夜が更けるのも忘れ、アビスの者たちと一部の領民による盛大な「結婚祝い」の宴がますます熱気を帯びて続いていた。カシアンが隠していた(つもりの)秘蔵の酒は、バルタザールやユーリスによって次々と樽の底を突き、アビスの料理自慢たちが持ち寄った豪快な料理も、陽気な歌声と手拍子の中で見る見るうちに消費されていく。
主役の一人であるはずのカシアンは、その喧騒の中心から少し離れたテーブルで、既に完全に酔いつぶれ、ぐったりと突っ伏していた。彼の周囲には空になったエールのジョッキや、謎の蒸留酒が入っていたと思われる小さな瓶が、まるで戦場の後のように散乱している。アビスの者たちは、日頃のカシアンによる理解困難な訓練や実験に対する鬱憤を晴らすかのように、あるいは純粋に彼らの新たな「領主夫妻」の門出を祝う気持ちからか、代わる代わるカシアンに酒を勧め、その結果がこれだった。
「おい、カシアンの旦那! まだまだ夜はこれからだぜ! 起きろって!」
バルタザールが、その巨体でカシアンの肩を揺さぶるが、カシアンは「うぅ…」と呻き声を一つ漏らしただけで、ピクリとも動かない。
「ちぇっ、もう完全に出来上がってやがるな。酒には強いと思ってたが、さすがに今日の量は堪えたか」
ユーリスが、やれやれといった表情でカシアンの様子を眺める。
コンスタンツェも扇子で口元を隠し、「まあ、カシアンも、たまにはこのように羽目を外されるのもよろしいのではなくて? …もっとも、わたくしのお相手としては、少々情けない姿ではございますけれど」と、いつもの調子で言いながらも、その目にはどこかカシアンを心配するような色が浮かんでいた。
ハピだけは、「これで静かになるなら、別にこのままでもいいんだけど…」と、気だるげに呟いた。
何人かのアビスの屈強な傭兵たちが代わる代わるカシアンを起こそうと試みた。肩を揺すり大声で呼びかけ、しまいには軽く頬を叩いてみたりもしたが、カシアンはまるで魂が抜けたかのように全く反応を示さない。その様子を遠巻きに見ていたジェラルトは、深いため息をつき「やれやれ、うちの娘も、面倒な奴を亭主に持っちまったもんだ」と頭を抱えていた。
その時だった。宴の輪の中心で、アビスの子供たちや女性たちと楽しそうに踊っていたベレスがふとカシアンの惨状に気づき、少しだけ頬を赤らめほんのりとした酒の匂いを漂わせながら、彼の元へとふらり、と近づいてきた。彼女もまた祝いの酒を勧められるままにいくつか杯を重ね、心地よい酩酊感に包まれていたのだ。
「カシアン?」
ベレスは突っ伏しているカシアンの背中にそっと手を置きその耳元で囁くように優しく呼びかけた。その声は普段の彼女からは想像もつかないほど甘くそしてどこか色香を帯びている。
「カシアン、こんなところで寝てたら風邪ひくよ? 」
すると今まで誰が何をしてもピクリとも動かなかったカシアンの体が、ほんのわずかに反応を示した。彼の耳が微かに動き、そして「ん……べ、れす…?」と、掠れたがはっきりと彼女の名前を呼ぶ声が、その唇から漏れ出たのだ。
その瞬間、周囲で固唾を飲んで見守っていたアビスの者たちから、一斉に「「「ひゅーーーっ!!」」」という、盛大な囃し立てと口笛が鳴り響いた!
「おいおい、見たかよ! 俺たちがいくら起こそうとしてもダメだったのに、ベレス様の一声で起きやがったぜ!」
「さすがは『女神に従う悪魔』様だな! 女神様の声には逆らえねえってか!」
「ごちそうさまでーす!」
ユーリスやバルタザールはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、カシアンをからかう。
ベレスはそんな周囲の野次など全く意に介さない様子で優しくカシアンの体を支え起こすと、その腕を自分の肩に回させ、ゆっくりと立ち上がらせた。
「ほら、カシアン、しっかりして。大丈夫、私が部屋まで連れて行ってあげるから」
「ん……べれすぅ……あったかい……」
カシアンは完全に呂律が回っていない状態で、どこか安心しきった子供のように、ベレスの肩に頭をぐりぐりと擦り付けている。その姿はもはや『悪魔』の威厳など微塵も感じさせない、ただの酔っ払いだった。
「足元がふらついてる。気をつけて、カシアン」
ベレスはカシアンのそのだらしない、しかし彼女にとっては愛おしい姿にくすくすと笑いながらもしっかりと彼の体を支え、広間の喧騒を後に二人だけの寝室へと続く廊下を、ゆっくりと歩き始めた。その後ろ姿をアビスの者たちは温かい、そして面白がるような拍手と歓声で見送っていた。
ジェラルトだけはその光景を何とも言えない表情で見つめ、再び深いため息をつくのだった。
部屋に戻るとベレスはまずカシアンを寝台に丁寧に横たえた。そして戸棚から水差しと清潔な杯を取り出し彼の枕元に置くと、その体を優しく揺すった。
「カシアン、少しだけ起きて。水を飲んだ方がいい」
「んん……みずぅ…?」
カシアンはうっすらと目を開け焦点の定まらない瞳でベレスを見上げた。ベレスは、彼の頭をそっと支え、杯に注いだ水をゆっくりと彼の口元へと運ぶ。カシアンは、まるで雛鳥が親鳥から餌をもらうかのように、こくこくと素直に水を飲み始めた。その無防備な姿は普段の彼からは想像もつかないほど幼く、そしてどこか可愛らしかった。
水を飲ませ終えるとベレスは濡れた布でカシアンの額の汗を優しく拭ってやり、そして彼の寝顔をじっと見つめた。少しだけ赤らんだ頬、緩んだ口元、そして穏やかな寝息。それは彼女だけが知る、カシアンの素顔だった。
(…本当に、世話の焼ける人)
ベレスは心の中でそう呟きながらも、その表情は愛おしさで満ちていた。彼女、カシアンの緑色の髪を指でそっと梳きながら、囁くように話しかけた。
「ねえ、カシアン。少しだけ、話さない?」
彼女の声は少しだけアルコールのせいかいつもよりも甘く、そして彼の心の奥深くに染み入るような響きを持っていた。
「ん……べれすの、こえ……きもちいい……」
カシアンはまだ半分夢の中にいるかのように、呂律の回らない声で答えた。その瞳はうっすらと開かれているものの、どこか遠くを見ているようだ。
「ふふっ、ありがとう」ベレスは嬉しそうに微笑んだ。そして彼女はカシアンの手に自分の手を重ね、優しく握りしめながら、少しだけ真剣な表情になって尋ねた。
「カシアン…私と結婚して、後悔していない…?」
その声にはほんのわずかな不安の色が滲んでいた。デアドラでのあの劇的な求婚は、彼女自身の強い意志と、勢いによるものだった。カシアンはあの場で「はい」と答えてくれたけれど、それは本当に彼の本心だったのだろうか。素面のカシアンはウソを言わずとも誤魔化す言い分を作れるが、酔った彼になら、もしかしたら隠していた気持ちを聞き出せるかもしれない…。
カシアンはベレスのその問いにしばらくの間、何かを考えるように黙り込んでいた。やがて彼の唇からぽつり、ぽつりだが確かな響きを持った言葉が紡ぎ出された。その声は酔っているせいで少し舌足らずだったが、そこには嘘偽りのない、彼の心の奥底からの想いが込められているように、ベレスには感じられた。
「……こうかい……? するわけ、ないだろ……」
彼はベレスの手を、弱々しいながらも、きゅっと握り返した。
「…おれは…ずっと、ひとりで、いきてきた…。だれも、なにも、しんじられなかったし…なにかに、きたいしても、むだなんだと、おもいしらされてた……。でも…おまえだけは…ベレスだけは、ちがったんだ……」
カシアンの瞳から一筋の涙が彼の意思とは関係なく、はらりと流れ落ちた。それは彼が長年心の奥底に封じ込めてきた孤独と、そしてベレスという存在への渇望が生んだ純粋な涙だったのかもしれない。
「おまえが…おまえが、そばにいてくれるなら……おれは、なんだってできるきがするんだ……。だから…いなく、ならないで……。むしろ…おれなんかで、ほんとうに、よかったのか…? ベレスは…もっと、ふつうの、やさしいおとこが、よかったんじゃ…ないのか……?」
最後の言葉は彼の自信のなさ、そしてベレスへの深い愛情が生んだ切実な問いかけだった。
ベレスはカシアンのその言葉と彼の瞳から流れ落ちる涙に、胸が締め付けられるような、そして同時にどうしようもなく愛おしいという感情でいっぱいになった。彼女はカシアンの頬を優しく両手で包み込むとその涙を自分の指でそっと拭ってやった。
「ううん、カシアン」ベレスの声は、慈愛に満ちていた。
「私が欲しいのはカシアンだけ。あなたがいいの。あなたと一緒ならどんな未来だって、きっと乗り越えていけるって、信じてるから」
カシアンはベレスのその言葉にまるで救われたかのように、安堵のため息を漏らした。そして彼女の胸に顔をうずめた。
「……べれす……すきだ……だいすきだ……」
その言葉は酔っ払いの戯言ではなく彼の魂からの、偽りのない叫びだった。
ベレスはカシアンのその言葉をただ黙って何よりも大切な宝物のように、その胸に深く深く抱きしめた。部屋には二人の穏やかな寝息と、窓から差し込む月明かりだけが静かに満ちていた。