道徳以外を教えます   作:マウスブン

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失ったものとこれから

アイスナー領(旧カシアン領)の領主の館、その一番陽当たりの良い一室は、カシアンの執務室兼、そしていつの間にかベレスとの共有の居室となっていた。デアドラでの激戦とその後の慌ただしい日々からようやく解放され、二人だけの穏やかな時間が流れていた。窓の外では、アビスの者たちが復興作業に汗を流す活気ある声が微かに聞こえ、この地が確かに息づいていることを感じさせる。

 

カシアンは山と積まれた報告書や、王国各地から集めさせた情報が記された羊皮紙に目を通しながらも、その意識の半分は隣の長椅子で静かに本を読んでいたベレスへと向けられていた。彼女の穏やかな横顔、ページをめくる指先の微かな動き、そして時折彼の存在を確かめるかのように向けられる優しい視線。その全てがカシアンの心を彼自身も気づかぬうちに温かく満たしていた。

 

やがてベレスは読んでいた本を静かに閉じると、その緑色の瞳でじっとカシアンを見つめた。その瞳の奥には何か大切な少しだけ打ち明けにくい秘密を語ろうとする深い思慮の色が浮かんでいる。

 

「…カシアン」

「はい、何でしょう、ベレス」

カシアンは彼女のその真剣な眼差しに読んでいた羊皮紙から顔を上げた。

 

「あなたに話しておかなければならないことがあるの。『女神』について」

ベレスの声は静かだったが確かな決意を秘めていた。

 

その言葉が出た瞬間カシアンは読んでいた羊皮紙をテーブルに置くと、椅子から立ち上がり、ベレスの元へと静かに歩み寄った。彼はベレスの前にゆっくりと片膝をつくと、彼女の顔を覗き込むように、そしてその言葉を遮るように穏やかだが有無を言わせぬ響きで言った。

 

「女神、ですか?…ベレス、何を言っているのです」

カシアンは、そっとベレスの頬に手を触れた。その瞳には深い愛情と、そして絶対的な確信が宿っている。

「女神なら…ここに、私の目の前にいるではありませんか」

 

そして彼はベレスの華奢な体をまるで世界で最も尊い宝物にでも触れるかのように、優しく力強く抱きしめた。

 

「え…っ!? か、カシアン!?」

ベレスはカシアンのそのあまりにも突然の、そしてあまりにも甘い言葉と行動に、一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。心臓が早鐘のように激しく鳴り響くのが自分でも分かる。

「ち、ちがう! 違う、カシアン! そういうことじゃない…!」

彼女はカシアンの胸の中でもごもごと必死に抗議の声を上げたが、その声は恥ずかしさと喜びで上擦っていた。

 

「違いませんよ」

カシアンはベレスを抱きしめる腕にさらに力を込め彼女の耳元で囁いた。その声はいつもの彼からは想像もつかないほど熱く甘かった。

「貴女は私の女神だ。この荒みきった私の心を救い生きる意味を与えてくれた、ただ一人の…。」

 

その言葉はベレスの心の奥深くに温かい光のように染み渡っていった。だが彼女が伝えたいことは、それだけではなかった。

「う、うん…ありがとう、カシアン…。でも本当にいた、私の中にいた、不思議なものについて、あなたに知っておいてほしいんだ。私がなぜ天帝の剣を扱えるのか。そしてなぜ私の髪の色がこうして変わってしまったのか…」

ベレスはカシアンの腕の中から顔を上げ潤んだ瞳で彼を見つめ返した。その真剣な眼差しにカシアンはようやく、彼女が伝えようとしていることの重要性を理解したようだった。

 

「…そういうことでしたか」

カシアンは少しだけ照れたように、しかしすぐに真剣な表情に戻るとベレスを抱きしめていた腕を解き、彼女の隣に静かに腰を下ろした。そして彼女の言葉を一言一句聞き漏らすまいとするかのようにその瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「…分かりました、ベレス。話してください。貴女が経験してきた全てを私が聞きましょう」

 

ベレスはカシアンのその真摯な態度に深く頷くと長年彼女の中だけで存在し続けた、もう一人の大切な存在についての記憶をゆっくりと丁寧に紡ぎ始めた。

 

「私がまだ父さんと傭兵として各地を転々としていた、幼い頃から…私は、時々、不思議な夢を見ていた。夢の中は戦場で大勢の人たちが戦っていた。そしてガルグ=マクに来る前に王座に座る小さな女の子に出会った。」

ベレスの瞳は遠い過去を見つめているかのようだった。

 

「その子は私よりもずっと幼く見えるのに、いつも玉座にふんぞり返ってとても尊大な口調で話してた。人の事を人間、なんて呼んでね。最初は夢の中のただの不思議な友達だと思ってた。でもあの子は…ソティスは違った」

 

「ガルグ=マクに来て盗賊に襲われたあの時…私が意識を失いかけた瞬間、ソティスは時間を巻き戻して私を救ってくれた。何が起きたのか分からなかったけれど確かに『時』が戻る感覚があった。それからも私が危険な目に遭うたびに、何度も私を助けてくれた。その度に『また我の力を使ったな、この大馬鹿者め!』って、口では悪態をつきながらも、その声はいつもどこか心配してくれているようだった」

 

「彼女と話すのは大体私の頭の中だけだったけれど…私は決して一人じゃなかった。彼女がいたから、私は傭兵としても教師としても道に迷わずに進んでこられたんだと思う。彼女は時に厳しく時に優しく私に色々なことを教えてくれた。朧気ながらだったけどフォドラの歴史のことも紋章の秘密も…そして人が生きるということの意味も」

 

ベレスの声は徐々に悲しみの色を帯びていく。

「そしてあの封じられた森で…ソロンに、絶体絶命の窮地に追い込まれた時、ソティスは…私を救うために自らの存在そのものを、私と一つにすることを選んだ。『我が半身よ、お前の中で我もまた生きよう』…そう言って彼女は私と融合し…その意識は深い眠りについた。彼女の最後の言葉、彼女から託された力の温もりだけを私の心に残して…」

 

ベレスの瞳から一筋の涙が静かに流れ落ちた。

「それ以来私の髪の色は変わり天帝の剣の真の力を引き出せるようになった。でもそれと引き換えに私の頭の中で響いていた、あの尊大で、でもどこか温かいソティスの声は、もう二度と聞こえなくなってしまった。…時々無性に寂しくなるんだ。あの声が聞きたくて」

 

ベレスは自身の内に秘めていた全ての想いをカシアンに語り終えた。彼女は涙を拭うこともせずただ静かに、カシアンの反応を待っていた。

 

カシアンはベレスの話を最後まで黙って真剣な眼差しで聞いていた。彼の頭巾の下の表情は窺えない。だが彼がベレスの話の全てを、その痛みも感謝も喪失感も深く理解し、受け止めていることはその佇まいから十分に伝わってきた。

 

やがてカシアンはゆっくりと口を開いた。その声はどこまでも優しくベレスの心の傷を包み込むような、温かい響きを持っていた。

 

「……そうですか。貴女の中にはずっと…ソティスという一人のかけがえのない存在がいたのですね」

 

カシアンはベレスの涙をそっと自分の指で拭ってやった。

「彼女は貴女を救うためにその全てを貴女に託した。そして今もなお貴女の中で生き続けている。…それは決して悲しいだけのことではないはずです。貴女は彼女の想いも力も、そして未来も全て受け継いでいるのですから」

 

そしてカシアンはほんの少しだけ悪戯っぽい、しかし心の底からの優しさを込めた笑みを浮かべると、ベレスにこう提案した。

 

「…ならばベレス。今度この領地で一番陽当たりが良くて静かで綺麗な花が咲く場所に、そのソティス殿のための小さなお墓でも作りましょうか。立派な墓石などはいりません。ただ綺麗な石を一つ置いて、貴女が好きだった花を植える。そして貴女が寂しくなった時には、いつでもそこを訪れて、彼女と話せるように。…どうです? なかなか良い考えだとは思いませんか?」

 

カシアンのその言葉はベレスにとって、何よりの慰めとなった。そうだソティスは消えてしまったわけじゃない。私の中に確かに生きている。そしてカシアンはその見えない存在のことも、私と同じように大切に思ってくれている。

「…うん…!」

ベレスは、涙で濡れた顔で、しかし心の底からの笑顔で、力強く頷いた。

「ありがとう、カシアン。…ありがとう…!」

 

カシアンはそんなベレスの頭を優しく、そして愛おしそうに撫でた。部屋には穏やかな午後の光と二人の間に流れる確かな愛と信頼の空気が、静かに満ちていた。

 

 

 

 

 

牢獄というにはそこはあまりにも開放的で陽光すら差し込む一室だった。ガラテア伯爵領での敗戦の後、イングリットは武装解除され、ここ「アイスナー領」の一室に軟禁されていた。監視はついているものの敷地内の決められた区域であれば、ある程度の自由行動も許されている。それは捕虜というよりは客人としての扱いに近いものだったが、彼女の心は鉛のように重かった。

 

数日前帝都アンヴァルで発行されたという新聞の束が彼女の部屋に届けられた。インクの匂いがまだ新しいその紙面には、帝国の破竹の勢いを伝える勇ましい見出しと、王国軍の苦戦を伝える記事が並んでいた。そしてその2面に彼女の心を抉るような無視できない記事があった。

 

『対同盟戦での英雄ベレス様、カシアン・アイスナー卿と婚約へ』

 

イングリットはその文字の羅列を何度も目で追った。カシアン先生がベレス先生と…。頭では理解できた。あの二人の間にはガルグ=マクにいた頃から、どこか特別な絆のようなものが存在していたように思う。先生が命を賭してベレス先生を庇ったことも、ベレス先生がカシアン先生の腕を片時も離さなかったという噂も全てがこの結論へと繋がっていたのだろう。それでも胸の奥がチクリと痛むのはなぜだろうか。それは恩師が幸せになることへの喜びだけでは説明がつかない、もっと個人的で切ない痛みだった。

 

(カシアン先生は、私にとって恩師だ。…そう、それだけのはずなのに…)

かつて父が勝手に進めようとした彼との縁談。あの時は騎士としての道を優先したいと強く願った。あの時先生に相談した時のこと彼が「可愛いと思う」と口にした時の、自分の胸の高鳴る鼓動。そして感謝の印として、家に伝わる指輪を贈った時の、受け取ってくれた時。あれはただの感謝や尊敬だけだったのだろうか。彼の知性、時折見せる不器用な優しさ、そして何よりも、自分の本質を見抜いてくれるかのような鋭い眼差しに、いつの間にか淡い恋心にも似た感情を抱いていたのかもしれない。だがその想いは、この新聞の一記事によって、あまりにもあっけなく、そして決定的に打ち砕かれたのだ。ベレス先生には敵わない。あの二人の絆の深さは、誰よりも自分が知っているはずだから。

 

そんな複雑な想いを抱えたまま数日が過ぎたある日の午後、部屋の扉が控えめにノックされた。

「イングリット、私です。少し、お話ししてもよろしいかしら?」

穏やかで聞き慣れた声。扉を開けると、そこにはメルセデスが、心配そうな、しかし優しい微笑みを浮かべて立っていた。彼女もまた、王国を離れ、この地に身を寄せている。

 

「メルセデス…! どうぞ、入って」

イングリットは驚きながらも友人の訪問を心から喜んだ。二人きりでゆっくりと話すのは本当に久しぶりだった。

メルセデスは部屋に入るとイングリットの隣に静かに腰を下ろし、彼女の手をそっと握った。

「イングリット、顔色が優れませんね。…やはり、辛いのでしょう?」

 

その優しい言葉と温もりにイングリットの心の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたような気がした。

「メルセデス……」

彼女の声は震えていた。

「ええ、辛い…。騎士として故郷を守れなかったことも、こうして捕虜となっていることも…。でもそれだけじゃないの。この戦争が、一体何のために、誰のために行われているのか、もう私には分からなくなってしまった。あちらでは帝国を悪だと認識してたけど、こちらにも穏やかな生活は残ってる。そしてかつての友たちが、敵と味方に分かれて殺し合う。…それが、私たちが目指した未来だったのかしら…?」

 

イングリットの瞳から、一筋の涙が頬を伝った。

「覚えてる? ガルグ=マクでの日々を。アネットと三人で、夜遅くまで他愛ないおしゃべりをしたこと。ディミトリ様やフェリクス、シルヴァン、アッシュ…皆で汗を流し、時にはぶつかり合いながらも、騎士になるという夢を追いかけた訓練の日々。あの頃は確かに悩みもあったわ。グレンのこと、家のこと、騎士としての自分の未熟さ…。でも、それは未来への希望に繋がる、幸せな悩みだった。皆で一緒に、何か大きなことを成し遂げられると信じていた。…カシアン先生のあの風変わりだけど刺激的な授業も…戦術や兵站について、先生と真剣に議論した時間も、私にとってはかけがえのないものだった。あの頃はこんな未来が来るなんて、想像もしていなかった」

 

彼女は新聞の片隅に目を落とした。

「カシアン先生と、ベレス先生が…。お二人が結ばれるのは、喜ぶべきことだと思う。本当に。でも…」

イングリットは言葉に詰まり俯いた。

「カシアン先生は、私にとって…本当に不思議な人だった。恩師であり、命の恩人でもある。…あの人が、時折見せる優しさや、常識にとらわれない発想に、私は…ただ、憧れていたのかもしれない。ううん、もっと何か別の…特別な感情を抱いていたのだと、今なら分かるわ。でもそれはもう終わったこと。…ただもっと、あの頃のようにベレス先生や他の皆と一緒に…戦いではなくて、もっと友達や勉強、そして恋愛で悩んだり笑ったりできる、そんな幸せな時間を…過ごしたかっただけなのかもしれない…」

それは騎士としての彼女ではなく、一人の少女としての偽らざる本音だった。報われることのなかった淡い想いと、失われた平和な日々への痛切なまでの憧憬が彼女の言葉の端々から滲み出ていた。

 

メルセデスはイングリットのその言葉をただ黙って深く共感するように聞いていた。彼女自身もまた幼いころに弟と離れ離れになり、今度は愛する弟と再会するために故郷を離れた。争いで多くのものを失ってきたのだから。

やがてメルセデスはイングリットの手を優しく握り直しゆっくりと口を開いた。その声は聖母のように穏やかで全てを包み込むような優しさに満ちていた。

 

「イングリット。あなたのその気持ち、痛いほどよく分かりますわ。争いは本当に多くのものを私たちから奪っていく…。夢も、希望も、そして時には、大切な人との絆さえもね」

メルセデスは窓の外に広がる、戦火の傷跡がまだ残る空を見つめた。

「私もね、エミール…私の弟のこと、そしてアネットや、王国に残してきた友人たちのことを思うと胸が張り裂けそうになる時があるの。どうしてこんなことになってしまったのかしらって…。でもイングリット、私たちは決して一人ではないのよ」

彼女の瞳には深い悲しみの色が浮かんでいたが、それでもイングリットに向ける微笑みは絶やさなかった。

 

「カシアン先生のこと…あなたのその複雑な想いは、きっと誰にも否定できない、あなただけの大切な宝物なのだと思うわ。それが恋だったのか、尊敬だったのか、分からなくてもいいじゃない? あの人が、あなたにとってかけがえのない存在だった、その事実は変わらないのだから。そしてカシアン先生とベレス先生…あのお二人は、きっと、この戦乱の世にあって、互いにとって唯一無二の光なのでしょうね。ベレス先生の存在が、彼を大きく変えたのね。それはとても素敵なことだと思うの」

メルセデスの言葉はカシアンとベレスの関係を温かく肯定し、イングリットの心の整理をそっと促すようだった。

 

「そしてあなたが憧れた『悩める幸せな時』…それはもしかしたらこの戦いが終わった先に、また別の形で訪れるのかもしれないわ。いいえ、私たち自身の手でそれを作り上げていくのよ。もうあの頃のようにただ夢を見るだけの少女ではいられない。私たちも強くならなければ。自分の足で立ち、自分の意志で未来を選び取っていくの」

メルセデスは、そっとイングリットの肩を抱き寄せた。

 

「だからイングリット。今は辛いかもしれないけれど、顔を上げて。あなたは一人じゃない。私たちがいるわ。そしてあなたが守ってきたガラテアの民も、きっとあなたの帰りを待っているはずよ。この戦いが終わった時あなたが胸を張って故郷に帰り、そして本当に幸せな未来を掴むために、私たちにできることを一緒に探していきましょう?」

 

メルセデスの言葉はまるで温かい光のように、イングリットの傷ついた心を優しく包み込んでいく。イングリットはメルセデスの肩に顔をうずめ、声を上げて泣いた。それは悲しみの涙ではなく、長年胸の奥に溜め込んでいた苦しみと、そして友人の優しさに触れた安堵の涙だった。そしてその涙の中には、微かに、しかし確かに、新たな決意の光が宿り始めていた。

 

「イングリットは自分の感情よりも、愛する人の幸せと、そして領主や騎士としての立場や誇りを選んだ。私はそんなあなたと友達で嬉しいわ。」

 

カシアンへの想いは美しい思い出として胸にしまい、これからは騎士として、一人の人間として、この厳しい現実の中で、自分自身の力で未来を切り開いていくのだ、と。

窓の外では、夕陽が西の空を茜色に染め上げ戦乱の続くフォドラの地にも、いつか必ず訪れるであろう平和な未来を、静かに予感させているかのようだった。二人の少女の友情は、この過酷な時代の中でさらに強く美しく輝き始めていた。

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