帝都デアドラが陥落し、レスター諸侯同盟が事実上、帝国の版図に組み込まれてから数ヶ月。フォドラ全土を覆う戦乱の嵐は、依然として止む気配を見せなかったが、帝国軍の最重要拠点となったガルグ=マク大修道院には確かな活気が戻りつつあった。特にカシアンが拠点とする西の領地と、この大修道院を行き来するアビスの者たちにとっては、ここが新たな生活の拠点となっていた。
その夜アビスの一角にある、かつては薄暗い溜まり場であったが、今はユーリスの指示で小綺麗に改装された大広間では新作の酒ができたとかで、カシアン、ベレス、そしてアビスの主要メンバーたちがささやかな、しかし盛大な宴を開いていた。
「やっぱ、カシアンの旦那が持ち込んだこの酒は最高だぜ! こそこそ売ってる安物とは格が違う!」
バルタザールが巨大な樽からエールを豪快にジョッキへと注ぎながら、上機嫌で叫んだ。彼の声に応えるように広間に集まったアビスの傭兵たちからも、威勢の良い歓声が上がる。
テーブルにはアビスの料理自慢たちが腕を振るった、見た目は武骨だが滋味深い料理の数々――猪の丸焼き、香辛料の効いた煮込み、そして山と積まれた黒パンやチーズが所狭しと並べられている。カシアンはベレスの隣で、自身が醸造した年代物の葡萄酒を静かに味わいながら、その喧騒をどこか満足げに眺めていた。ベレスもまた少しだけ頬を赤らめカシアンの腕にそっと寄り添いながら、ハピやコンスタンツェと楽しげに談笑している。その表情は女神の力を宿す戦士のそれではなく、ただ愛する人と仲間たちに囲まれた、幸せな一人の女性の顔だった。
宴もたけなわとなりテーブルの上の料理もカシアンが解放した酒樽も、そのほとんどが空になろうとしていた頃。話題は自然と彼らの新たな本拠地となった、このガルグ=マク大修道院のことに移っていった。
「しかしよぉ」と、年かさの顔に古い傷跡のある元盗賊の男が、赤らんだ顔で口を開いた。
「俺たちは、もう何年もこのアビスで暮らしてきたが、このガルグ=マクの地下ってのはまだまだ奥が深い。俺たちですら知らないような秘密の通路や、忘れ去られた区画が、今もどこかに眠ってるって噂だぜ。中には何か奇妙な『法則』が働いてて、特定の条件を満たさねえと通れねえ道なんてのもあるらしい」
その言葉にユーリスが興味深そうに頷いた。
「ああ、聞いたことがあるぜ。昔アビスのさらに奥深くを探検しようとした命知らずがいたがそいつは二度と戻ってこなかった。ただの壁にしか見えない場所が、特定の月の満ち欠けの時にだけ通路になるとか、奇妙な歌を歌うと開く扉があるとか…まあ、眉唾物の与太話だがな」
カシアンはその会話に静かに耳を傾けていたが、ふと、手に持っていた葡萄酒のグラスを置き、真剣な眼差しでその男に問いかけた。
「…君たちが知らない道や法則とやらを、教会の人間…特に、レアやセテスのような、あそこの中枢にいた連中は知っていると思うかね?」
その問いに広間の空気が一瞬だけ静まり返った。男は少し考えるように顎に手を当てた後、確信に満ちた声で答えた。
「…ああ、カシアンの旦那。そりゃあ知ってるものも多いと思うぜ。あの連中は俺たちなんかより、ずっと長く、深く、この大修道院の秘密に関わってきたはずだからな。俺たちが知らないような聖墓や、あるいはもっとヤバい場所へと繋がる秘密のルートを、いくつか確保していたとしても何の不思議もねえ」
カシアンはその言葉に黙って頷いた。そしてグラスに残っていた葡萄酒を一気に呷る。彼の頭脳はアルコールによって弛緩しながらも、同時にある一つの極めて現実的で、致命的な可能性を導き出していた。
(…もし教会の奴らに、レアに、そのルートを使われたら…? 奴らが、我々の全く予期しない場所から、このガルグ=マクの心臓部に、奇襲を仕掛けてきたとしたら…? 今の我々の防衛体制では、それを完全に防ぎきることは極めて困難だ。)
カシアンの背筋を冷たい汗が流れた。それは戦いへの恐怖ではなく自らの計画に存在する、見過ごしていた「穴」に対する戦略家としての本能的な戦慄だった。
彼はテーブルの上に置かれていた飲みかけのエールのジョッキを掴むと、それを再び一気に飲み干した。そしてアルコールの勢いを借りるかのように、バンッ!と大きな音を立ててジョッキをテーブルに叩きつけた。
「よし!!」
カシアンのその突然の大声に広間にいた全員が、驚いて彼を見た。カシアンはその視線を一身に浴びながら、その瞳に酔っ払い特有の、しかしどこか天才的な狂気を宿した輝きを浮かべて高らかに宣言した。
「決めたぞ、諸君! 今度はガルグ=マクの地下道に、我々が知りうる限りの、考えうる限りの沢山の罠を仕掛けてやろうではないか!
あの禁酒法を作ったババアに、この私が天誅を下してやろう!」
そのあまりにも突飛でカシアンらしい提案に一瞬の静寂の後、アビスの者たちから割れんばかりの歓声と雄叫びが上がった!
「そうこなくっちゃな、カシアンの旦那!」バルタザールがテーブルを叩いて喜ぶ。
「へっ、面白い。このガルグ=マク全体を、俺たちのための巨大なネズミ捕りに改造するってか。悪くねえ、実に悪くねえぜ!」ユーリスも、不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「まあ! 素晴らしい防衛思想ですわ! 敵が来る前に、その進路をことごとく断つ!わたくし芸術的なまでに美しく、そして残酷な罠を考案して差し上げますわ!」
コンスタンツェも扇子を広げ、興奮気味に語る。
「…また面倒なことになりそうだけど…まあ、教会の偉そうな連中が、罠にハマって慌てふためくところを想像すると、ちょっとだけ、面白いかも」
ハピの口元には微かな笑みが浮かんでいた。
ベレスはそんな熱狂的な仲間たちとその中心でどこか得意げに、そして酔っ払って上機嫌になっているカシアンの顔を呆れたような愛おしさに満ちた表情で見つめていた。そして深いため息を一つ。
(…もう、この人がこういう顔をしている時は、何を言っても無駄だものね)
カシアンは禁酒法という悪法を敷いた愚か者を懲罰する妄想だけで完全に気分が良くなったのか、近くにいたまだ若い帝国兵の肩を掴むと、呂律の回らない口調だが有無を言わせぬ響きで命じた。
「おい、きみぃ! すぐエーデルガルト皇帝陛下と、ヒューベルト殿のところへ伝令に走ってくれたまえ! 『カシアンより、緊急の防衛体制強化に関する極めて重要な提案あり。つきましては、ガルグ=マク地下における、大規模な防衛設備の設置及び改修の裁可を、大至急、お願い申し上げる』…と、そう伝えるんだ! いいか、一字一句、間違えるなよぉ…?」
「は、はひっ! た、ただちに!」
若い兵士はカシアンのその真剣な剣幕と酒の匂いに圧倒されながらも、必死に敬礼すると夜の闇の中、帝都アンヴァルの方角へと全力で駆け出していった。
広間には新たな極めて悪趣味な計画への期待と興奮が渦巻き、宴は夜が明けるまでさらに騒がしく熱く続いていくのだった。
あの熱狂的な宴の夜からきっかり一週間が経過した。ガルグ=マク大修道院の地下深くに広がる薄暗く埃っぽい通路には、カシアンの心の底からの、誰にも聞かせることのできない深いため息が、何度も何度も響き渡っていた。
(……なぜあんなことを言ってしまったんだ、私は……)
カシアンは手にした設計図に目を落としながらも、その思考は一週間前の自身の愚行に対する、後悔と自己嫌悪で満ちていた。そうだ、確かにあの夜、カシアンは酔っていた。アビスの者たちに勧められるがままに振る舞い、呷った自慢の秘蔵酒。それらがカシアンの冷静な判断力を見事にそして完璧に麻痺させたのだ。
その結果がこれだ。「ガルグ=マクの地下道に、沢山の罠を仕掛けてやろうではないか!」などと一体どの口が言ったのか。ガルグ=マクがどれだけ広いのか、どれだけのルートがあるのか、罠に手間がかかるのか、それらすべてを見落とした案だった。
だがもはや後戻りはできなかった。酔っ払いの戯言で済ませるには、事態はあまりにも大きく、正式なものになりすぎていた。
あの夜、が半ば呂律の回らない状態で派遣した伝令は、驚くべき忠実さでその任務を遂行したらしい。数日後、帝都のヒューベルト殿から届いた返書には極めて簡潔にこう記されていた。
『カシアン卿の提案、拝読。ガルグ=マク要塞の防衛力強化は喫緊の課題であり、卿のその先見の明と迅速な行動力には、陛下も深く感心しておられる。地下道の改修に関する裁可は全面的に許可する。必要な物資は、帝国軍の兵站網を最大限に活用し可及的速やかに貴殿の元へ送り届けるものとする。フォドラの未来のため、卿のさらなる奮闘に期待する』
と。
(…今更「あれは酔った上での戯言でした。面倒なので中止で」などと、口が裂けても言えん…!)
カシアンは今回ばかりは頭をかきむしりたくなった。王国とガルグ=マクの間にアイスナー領やガラテア領がある以上、彼らがガルグ=マクを攻めてくる可能性は低い。北の火山を踏破してくるとも考えにくい。そもそもアリアンロッドまで抑えられた王国側が今更ガルグ=マクを急襲する戦略的価値は低い。どう補給線を結ぶつもりなのか。
だがヒューベルトはカシアンの提案を、彼の卓越した戦術眼に基づく深謀遠慮だと完全に誤解している。その結果帝国からの潤沢すぎるほどの物資支援――大量の鉄材、木材、火薬の原材料、そして何故か最新式の魔道実験装置まで――が、既にアビスの倉庫に山と積まれてしまっている。
もはや、やるしかなかった。
「カシアン様ー! こちらの落とし穴、深さはこれでよろしいですかな? 落ちた奴が二度と這い上がってこれないように、底に逆茂木も仕込んでおきましたぜ!」
地下通路の先からバルタザールの、やけに楽しそうな声が響いてくる。
「ええ、結構です! だがバルタザール、その横に、もう一つ偽の浅い落とし穴も掘っておきなさい! 油断して飛び越えた先が本命の奈落の底、という二段構えにするのです! 敵の絶望をより深く演出するためにね!」
カシアンは自らの不本意な状況を振り払うかのように、あるいはどうせやるなら完璧に、悪趣味にやり遂げてやろうという、彼らしい歪んだ職人気質に火がついたのか、的確に悪辣な指示を飛ばした。
そうだ、やるしかないのなら、やるのだ。このガルグ=マクの地下を、女神レアですら足を踏み入れるのを躊躇うほどの、世界で最も凶悪で、芸術的なまでに美しい死の迷宮へと変貌させてやる…!
こうしてカシアンの酔った上での大言壮語から始まった、ガルグ=マク地下大改造計画はアビスの者たちと、帝国から派遣された一部の工兵、そしてカシアン自身の狂気じみた情熱によって恐るべき速度で進行していった。
ベレスはそんなカシアンの苦悩と一度やると決めたら徹底的にやり抜く彼の性格を、誰よりも理解していた。彼女はカシアンが設計した複雑な罠の図面を持ち前の驚異的な記憶力で瞬時に把握すると、アビスの者たちや工兵たちに具体的な作業手順や人員配置を的確に分かりやすく指示して回っていた。カシアンが「設計者」であるならば、ベレスはまさにその無茶な設計を実現させるための、優秀すぎる「現場監督」だった。
彼女の的確なマネジメントのおかげで混沌としていた現場は驚くほど効率的に機能し、罠の設置作業は面白いように進んでいった。
そして彼らが作り出す罠はまさに多種多様、悪趣味の極みであった。
【落とし穴】
これは最も古典的でありながら、最も基本的な罠だった。だがカシアンの手にかかれば、それは単なる穴ではなくなる。バルタザール率いる肉体労働班が掘り進める巨大な落とし穴は、深さもさることながら、その形状も緻密に計算されていた。一度落ちれば壁面が滑りやすく決して這い上がることのできない角度。底には、鋭く尖らせた鉄杭が、まるで巨大なハリネズミのように無数に植えられている。そしてその上には巧妙に偽装された薄い木の板と土が被せられ、一見しただけでは、普通の通路と何ら変わりないように見えた。
【水計・火計】
ハピはその特異な魔力の感知能力を活かし地下水脈の流れを正確に特定していた。そしてその水脈の一部を、カシアンが設計した水門へと誘導する。特定の通路に設置された仕掛けを踏むと、水門が一気に解放され、濁流が侵入者を飲み込み、あるいは別の罠が待ち受ける場所へと押し流す仕組みだ。
さらにその水路の先にはカシアンが最も得意とする火計が待ち受けている。通路の壁に仕込まれたパイプから、高濃度のアルコール、あるいは燃えやすい油が噴射され、水浸しになった敵兵を文字通り炎の海で蒸し焼きにするのだ。
「…水と油と火。ふふ、実に美しい化学反応だとは思いませんか」と、カシアンは設計図を眺めながらうっとりと呟いていた。
【電気・落石】
コンスタンツェは自身の魔道工学の知識を遺憾なく発揮していた。彼女が設計したのは帝国から送られてきた魔道水晶と、カシアンの奇妙な金属部品を組み合わせた、強力な電撃トラップだった。特定の床パネルを踏むか、あるいは先ほどの水計によって通路が水浸しになると、壁に刻まれた複雑な魔道回路が起動し、半殺しの雷撃が広範囲に放たれるのだ。
「まあ! この青白く輝く破滅の光! なんとエレガントでそして絶望的に美しいのでしょう! これぞ、ヌーヴェル家の叡智の結晶ですわ!」
彼女は試作品が放つ眩い閃光に、恍惚とした表情を浮かべていた。
そしてそれらの罠を突破したとしても、頭上からは巨大な岩石や、鋭利な金属片を満載した鉄の檻が、無慈悲に降り注ぐ。単純だが確実な殺傷能力を持つ落石トラップは、兵士たちの手によって、通路の天井という天井に着々と仕掛けられていった。
カシアンとベレス、そしてアビスの者たちが、それぞれの狂気と才能を遺憾なく発揮し、ガルグ=マクの地下を悪夢のテーマパークへと作り変えていく。その光景はもはや防衛設備の設置というよりは、一種の芸術活動に近いものがあったのかもしれない。慈悲があるとすれば、半殺しで多分即死まではしないという1点のみ。
カシアンはこのどうしようもない状況を、そして自らが引き起こしたこの壮大な悪戯を、いつしか本気で楽しみ始めている自分に気づき、頭巾の下で再び深いため息をつくのだった。この騒動は一体どこに着地するのだろうか。彼自身にも予測がつかなかった。