道徳以外を教えます   作:マウスブン

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家族

レア率いるセイロス騎士団本隊を退け残された三匹の化け物の討伐も終え、その数日後、戦場の喧騒は遥か遠のきアイスナー領の領主の館、その一番大きな執務室は、再び静けさを取り戻していた。しかしその静寂は以前の穏やかなそれとは異なり戦いの後処理という地味で膨大な量の仕事がもたらす、張り詰めた空気に満ちていた。

カシアンは執務机の上に山と積まれた羊皮紙の束――負傷した兵士のリスト、消耗した武具や食料の在庫表、そして帝国本国へ提出するための詳細な戦闘報告書――に、うんざりした表情で目を通していた。彼の頭の中ではあの宴で、なぜあんな大言壮語を吐いてしまったのかという後悔と、しかしその結果としてセテス率いる奇襲部隊を壊滅させ、レアを撤退に追い込むという、あまりにも出来すぎた戦果を挙げてしまったことへの、自己嫌悪とも自己満足ともつかない複雑な感情が、未だに渦巻いていた。

 

(…全く、酔った上での戯言が、まさかここまで大きな結果に繋がるとはな。私の計算では、あの罠はあくまで防衛用、時間稼ぎと悪ノリの産物だったはずだ。人生とは、そして戦争とはかくも非合理的なものか…)

カシアンは深いため息をつきこめかみを押さえた。頭痛がする。

 

そんな彼の元へベレスが淹れたてのハーブティーを二つのカップに注ぎ、盆に乗せて静かにやってきた。彼女はカシアンの隣の椅子に腰を下ろすと一つを彼の前にそっと置いた。

「カシアン、少し休んだら? ずっと働きっぱなし。顔に隈ができてる」

ベレスの声は彼の疲労を優しく労わる響きを持っていた。

 

「…ありがとう、ベレス。だが恐らく次に大物の仕事が待ち構えているからな」

カシアンは彼女の気遣いに感謝しながらも、目の前の書類の山から視線を外すことができない。その時、ふと、机の隅に無造作に置かれている、一つの豪奢な木箱が目に入った。箱の蓋には、アドラステア帝国の双頭の鷲の紋章が、見事な彫刻で施されている。それは昨日エーデルガルト皇帝直々の使者によって、わざわざ帝都アンヴァルから届けられたものだった。

 

ベレスはその箱に気づくと楽しそうにそれを手に取った。

「あ、これ。届いてたんだね。エーデルガルトからの、例の」

彼女は箱をカシアンの目の前にことりと置くと、嬉しそうにその蓋を開けた。中には深紅のビロードの布が敷かれ、その上に帝国最高の職人がその技術の粋を集めて作り上げたであろう、白金と宝石で装飾された見事な勲章が鎮座していた。それはガルグ=マクを防衛しセイロス騎士団の奇襲部隊を壊滅させたという、カシアンの「偉大なる功績」を讃えるために、特別に贈られたものだった。

 

ベレスはその勲章を指先でそっと撫でながら、カシアンの顔を覗き込むようにして悪戯っぽく微笑んだ。

「良かったね、カシアン。すごいじゃない、これ。帝国の勲章だ」

その声には純粋な称賛と何よりもこの勲章が与えられた本当の理由を知っている者だけが共有できる、秘密の響きが込められていた。

 

カシアンはベレスのその言葉と彼女の瞳の奥に宿る楽しげな光に、ついに我慢の限界に達したかのように大きな深い諦観に満ちたため息をついた。

「……全部分かってるくせに、よく言いますよ、貴女は」

彼の声は拗ねた子供のように力なく響いた。

「私があの夜どれほど愚かな酔っ払いだったか。そしてこの勲章がどれほど身に余る、そして居心地の悪いものか。貴女が一番よく知っているはずだ」

 

カシアンは椅子に深くもたれかかり天井を仰いだ。

「英雄? とんでもない。私はただの後先考えずに大風呂敷を広げ、そしてその尻拭いのために運良く敵の裏をかいただけのただの道化ですよ。それを周りは『稀代の戦略家』だの、『帝国の守護神』だの、とんでもない誤解をして…。この勲章など私の愚かさを永遠に記録するための、皮肉な記念碑のようなものです」

その言葉には偽りのない自己嫌悪とどうしようもない状況への諦めが滲んでいた。

 

ベレスはそんなカシアンの珍しく弱気な姿にくすくすと鈴を転がすように笑った。彼女はカシアンの隣にさらに身を寄せると、その緑色の髪が彼の頬をくすぐるほどの距離で彼の顔を覗き込んだ。

「ふふっ、ごめんごめん。そんなに落ち込まないで、カシアン」

彼女の声はどこまでも優しく包み込むような温かさに満ちていた。

「でも私はそれでいいと思うよ。カシアンがどんな理由でもその結果たくさんの兵士の命が救われて、私たちが今こうして無事にここにいられる。それは紛れもない事実なんだから」

 

そしてベレスはまるで大切な秘密を打ち明けるかのように、その唇をカシアンの耳元へと寄せ囁いた。その声は甘く彼だけのものであることを示す、特別な響きを持っていた。

 

「それにこれでまた一つ、私とカシアンだけの、誰にも言えない、大切な『秘密』が増えたね」

 

その言葉は魔法のようにカシアンの心に深く温かく染み渡っていった。そうだ秘密だ。このあまりにも滑稽で人間臭い彼の失態と功績の真相。それを知っているのは世界でただ一人、目の前にいるこの愛しい女性だけなのだ。

その事実は彼が感じていた自己嫌悪や世間からの過剰な評価に対する居心地の悪さを、不思議なほどに、すうっと軽くしてくれた。それは彼と彼女だけが共有する特別な絆の証のようにも感じられた。

 

カシアンはゆっくりと顔をベレスの方へ向けた。そして彼女のその悪戯っぽい愛情に満ちた笑顔を見てつられるように、ほんの少しだけ本当にごく僅かに口元を緩ませた。

「…全く、貴女には、敵いませんね」

その声にはもう先程までの弱々しさはなくいつもの彼らしい皮肉と、そしてベレスへの深い愛情が複雑に溶け込んでいるかのようだった。

 

彼はベレスと共有するこの新たな「秘密」を、胸の奥深くにある、誰にも触れさせることのない宝箱へとそっとしまい込んだ。そして目の前に置かれたまだ湯気の立つハーブティーを、ようやく一口静かに味わうのだった。その味はいつもの何倍も甘く心に染みるような気がした。

 

 

 

 

その夜アイスナー領の領主の館の一室は珍しく、心地よい喧騒に包まれていた。部屋の中央に置かれた大きな木のテーブルの上には、お世辞にも洗練されているとは言えないが、見るからにボリューム満点で食欲をそそる料理の数々――分厚く切られた猪肉の香草焼き、魚介と野菜を白ワインで煮込んだ豪快な鍋、そして少しだけ焦げ目のついた、焼きたての黒パン――が所狭しと並べられている。そして何よりもテーブルの中央で存在感を放っているのは、カシアンが大切に保管していたはずの、年代物の琥珀色をした蒸留酒のずんぐりとした陶器の瓶だった。

 

そのテーブルを囲んでいたのはこの領地の主であるカシアンとその傍らにぴったりと寄り添うベレス、そして腕を組み鷹のような鋭い目で、どこか楽しそうに二人を眺めているジェラルトの三人だった。

 

「ふむ、この猪肉の焼き加減、なかなかどうして、悪くないじゃないか」

ジェラルトは大きな肉の塊をナイフで切り分けながら、満足げに唸った。

「お前さんが教えたにしては随分とまともな味付けだ。ベレス、お前、料理の腕を上げたな」

その言葉には娘の成長を喜ぶ父親としての、素直な気持ちが込められていた。

 

「うん。カシアンが、手伝ってくれたから」

ベレスは嬉しそうに微笑むとカシアンの皿に甲斐甲斐しく肉を取り分けてやる。カシアンはジェラルトのその余計な一言に、頭巾の下でわずかに眉をひそめたが、ベレスのその行動にすぐに表情を緩ませた。

 

「ジェラルト殿」カシアンは目の前の大きな酒瓶の封を、恭しい手つきで切りながら言った。

「こちらを、どうぞ。私の秘蔵の一本です」

彼はジェラルトのグラスに琥珀色の液体をとくとくと注いだ。芳醇な極めて度数の高そうなアルコールの香りが部屋にふわりと漂う。

 

ジェラルトはその香りを深く吸い込むと、ニヤリと口の端を吊り上げた。

「へっ、ようやくお出ましか。お前さんがこれを出すのを首を長くして待っていたんだぜ」

彼はグラスを掲げカシアンとベレスと軽く打ち合わせると、その強い酒をまるで水でも飲むかのように、しかし味わうように喉へと流し込んだ。

「…くぅーっ! 効くなぁ! やはり、お前さんの作る酒は最高だ」

 

酒が三巡ほどした頃だろうか。ジェラルトは少しだけ赤らんだ顔でカシアンの顔をじろりと睨みつけた。その目にはいつもの悪戯っぽい光が宿っている。

「それで、カシアンよぉ。改めて聞かせてもらうが、うちの娘に、あのデアドラで、大勢の前であんな派手なことをさせちまって…その、なんだ。ちゃんと、責任を取る覚悟ってもんはできてるんだろうな?」

その問いは父親としての、そしてこの家の家長としてのカシアンに対する最後の確認だった。

 

「も、もちろんでございます、ジェラルト殿…」

カシアンは、ジェラルトのその視線に、まるで蛇に睨まれた蛙のように背筋を伸ばし、しどろもどろに答えた。彼の隣では、ベレスが「父さん、カシアンをいじめないで」と、カシアンを庇うように言いながらも、その手はテーブルの下でしっかりとカシアンの手を握りしめている。

「カシアンは、私のものなんだから。ジェラルトにも誰にも、渡さない」

その言葉はカシアンを庇っているのか、あるいは彼に逃げ場はないと宣言しているのか、ジェラルトにもカシアンにも判断がつきかねるところだった。

 

ジェラルトはそんな二人の様子に腹を抱えて笑い出した。

「ぶはははっ! 聞いたか、カシアン! お前さん、完全に尻に敷かれてやがるじゃねえか! 偏屈で問題児だったお前さんが、な!」

彼は愉快でたまらないといった様子でカシアンの肩をバンバンと叩いた。

 

やがて夜も更け酒も進むにつれて会話は昔話へと移っていった。ジェラルトが、傭兵団時代の武勇伝や、カシアンがまだ若かった頃の奇行の数々を面白おかしく語り始める。ベレスはそんな父の話を目を輝かせながら聞き、時折カシアンの顔を覗き込んでは楽しそうに笑っていた。カシアンは、ジェラルトによって次々と暴露される自身の黒歴史(?)に、頭を抱えたり、必死で弁明したりしながらも、その表情はどこか穏やかで、この温かい時間を心から楽しんでいるようだった。

 

「…そういえば、ベレスがまだ、これくらいの背丈だった頃にな…」

ジェラルトは手で子供の身長を示しながら懐かしそうに目を細めた。

「あいつ、俺が少し目を離した隙に森で迷子になっちまってな。半日かけて探し回って、ようやく見つけたと思ったら熊と睨み合って、一歩も引かねえんだ。あの時の肝っ玉の据わり方は、さすがに俺も舌を巻いたぜ」

 

「ジェラルト、その話はもういい」ベレスが少し恥ずかしそうに頬を赤らめる。

カシアンはその話を聞きながらベレスの横顔を愛おしそうに見つめていた。

 

やがてジェラルトが酔いつぶれてテーブルに突っ伏し穏やかな寝息を立て始めると、部屋には再び静寂が戻った。ベレスもまた心地よい疲労感と、酒の酔い、そして何よりもカシアンが隣にいるという安心感からか、彼の肩に頭を預け、すやすやと寝息を立て始めていた。

 

カシアンは眠ってしまった二人の顔を交互に、そして静かに見つめた。一人は自分に戦い方と、生き抜く術を叩き込んでくれた、偉大な傭兵。もう一人は自分の閉ざされた心に光を灯し、愛という感情を教えてくれた、かけがえのない存在。

(…家族、か)

カシアンは生まれて初めてその言葉の意味を、温かい実感と共に噛みしめていた。彼の胸の奥からこれまで感じたことのないような穏やかで、そしてどうしようもないほどの幸福感が確かに込み上げてくる。

 

彼は自分の肩で眠るベレスの緑色の髪をそっと撫でた。そして彼女を起こさないように、細心の注意を払いながら彼女の額に優しく、そして感謝を込めたキスを、一つだけ落とした。

 

窓の外では満月がまるで彼らのこのささやかな何よりも幸せな家族の団らんを、祝福するかのように優しく輝いていた。フォドラの戦乱はまだ終わらない。だが少なくとも今この瞬間この部屋の中だけは、世界で一番平和で温かい場所に違いなかった。

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