道徳以外を教えます   作:マウスブン

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ディミトリ

帝国軍との激戦に敗れカシアンという忌まわしき男の策略によって手勢の多くを失ったレアは、残存するセイロス騎士団の精鋭と共に、傷ついた体を引きずるようにして王都フェルディアへの撤退路を辿っていた。その表情には敗北の屈辱と、自らの計画を根底から覆されかねない新たな脅威への深い焦燥の色が浮かんでいた。王国で再起を図り狂信の軍勢を整え、再び帝国、そしてあの男に鉄槌を下す。その一心だけが彼女を前へと進ませていた。

 

しかし王都を目前に控えた古びた街道の隘路に差し掛かった時、彼女の行く手を阻むように一団の軍勢が静かに、しかし有無を言わせぬ威圧感を放って待ち構えていた。掲げられた旗印は青き獅子。ファーガス神聖王国の、それもディミトリ王子が直々に率いる部隊だった。

 

「…ディミトリ王。それにロドリグも。これは一体どういうことです? 帝国の追っ手を警戒し、我らを迎えに来てくれたのですか?」

レアはあくまで冷静に問いかけた。だがディミトリたちの纏う空気は、決して歓迎のそれではないことを、彼女は瞬時に感じ取っていた。ディミトリはただ黙ってその蒼い瞳でレアを射抜くように見つめ、その隣に立つロドリグは礼儀正しいがどこか温度のない表情で、馬から降りてレアの前に進み出た。ドゥドゥーは主君の背後で巨大な斧を手に、まるで石像のように微動だにせず佇んでいる。

 

「レア様。お待ちしておりました」

ロドリグの声は穏やかだったが、その響きには抗うことのできない響きがあった。

「長旅、そして帝国との激戦さぞお疲れのことと存じます。そのようなところ、大変申し訳ございませんが…少しばかりお話をお聞かせいただきたい儀がございます。よろしいですかな?」

 

ロドリグはレアの返事を待つことなくセイロス騎士団の兵士たちに視線で合図を送った。その視線は彼らにこれ以上近づくことを暗に禁じている。そしてレアを近くの今は使われていないであろう小さな見張り小屋へと丁重に、しかし逆らうことを許さぬ様子で案内し始めた。ディミトリとドゥドゥーはその両脇を固めるように無言で付き従う。まるで敬虔なる大司教を護衛するというよりは、危険な罪人を連行するかのように。

 

見張り小屋の中は埃っぽく冷たい空気が満ちていた。ロドリグはレアが粗末な木の椅子に腰を下ろすのを見届けると、その向かいに静かに立った。ディミトリとドゥドゥーは、部屋の唯一の出入り口を塞ぐように、その背後に立つ。

 

「それでお話とは何です、ロドリグ」レアは苛立ちを隠さずに尋ねた。

ロドリグは、まず当たり障りのない問いから切り出した。

「先の帝国軍との戦いの様子、お聞かせ願えますかな。敵の戦力、そして指揮官は…」

 

「帝国軍は皇帝エーデルガルトとベレス、そしてあの忌まわしきカシアンという男が中心でした。そして彼らの力は、我々の予想を遥かに超えていた。…それだけです」

レアは忌々しげに吐き捨てた。そしてロドリグの目を真っ直ぐに見返し、その声に冷ややかな響きを込めて言った。

「ですがロドリグ。貴方が本当に聞きたいことは、そのような戦況報告などではないのでしょう?」

 

その言葉にロドリグの表情からわずかに残っていた穏やかさが消え失せた。彼は深く重い息を一つ吐くと本題を切り出した。

「…左様。レア様、単刀直入にお伺いいたします。最近王国の各地、特に敬虔な信者が多く住まう村や町で…貴女は、一体何をなされておいでか。その目的と真意をお聞かせいただきたい」

 

ロドリグの声には明確な非難の色が宿っていた。

「いくら王国が混乱してるとは言え、我々の耳にも入っております。セイロス聖教会の方々が各地で人々を集め熱心な説法を行っておられる、と。そしてその説法の後には女神の『祝福』であるとして、何か特別な液体を信者たちに分け与えていることも…我々は存じております」

 

ロドリグはそこで一度言葉を切り、決定的な事実を揺るぎない確信を込めて突きつけた。

「そしてその『祝福』とやらを受けた者たちの一部が…原因不明の熱病に倒れ、あるいは正気を失い、そして…中には命を落とした者まで出ているという事実もです」

 

その言葉が狭い見張り小屋の空気を凍りつかせた。レアはロドリグのその告発に表情一つ変えなかった。ただゆっくりとまるで長い間被っていた仮面を、ようやく脱ぎ捨てるかのように、深いため息をついた。

 

「……ふふ。思ったよりも、早く気づかれてしまいましたか」

レアの口元に慈愛の聖女のそれではない、冷徹な支配者の歪んだ笑みが浮かんだ。

「もう少しだけ、このファーガス王国という駒は有効に利用させていただけると思っていたのですがね。実に残念です」

 

その言葉は彼女が王国を、そしてそこに住まう人々を自らの目的のためとしか見ていなかったことを、何よりも雄弁に物語っていた。

 

「レアッ!!」

ディミトリが抑えきれない怒りに声を震わせ、一歩前に踏み出した。

 

しかしそれよりも早くレアは動いていた。彼女はもはや何の躊躇もなく、その手にした聖なる剣を抜き放つと、目の前のロドリグに向かって、神速の一閃を放った!

キンッ!という甲高い金属音と共に、ロドリグが咄嗟に抜いた剣がそれを受け止める。火花が散り、二人の間に凄まじい衝撃が走った。

 

「貴様らもまた女神の意思を理解できぬ、愚かな人の子ということですか。ならばもはや言葉は不要!」

レアは叫ぶとディミトリ、ドゥドゥーをも巻き込み、人間業とは思えぬほどの速度と剣技で猛然と襲いかかった。

「この場であなたたち全員を、女神の御名において裁いてくれる!」

 

そしてその見張り小屋の中での戦闘が始まったのと時を同じくして、外で待機していたセイロス騎士団が、突如としてそれまで同盟を結んでいたはずの王国軍の兵士たちへと、一斉に襲いかかった。王国兵たちの間に、混乱と悲鳴が広がる。

街道には剣戟の音と怒号、そして断末魔の叫びが響き渡った。

 

レアの狂信はついに王国という最後の砦さえも自らの手で破壊し、フォドラ全土を血と混沌の渦へと完全に叩き込もうとしていた。ディミトリたちとレア、かつての協力者たちの戦いの火蓋が、今この見張り小屋で切って落とされた。

 

 

 

 

レアとの会談場所であった見張り小屋での戦闘から、数時間が経過していた。ディミトリは数人のまだあどけなさの残る顔をした王国軍の少年兵と共に、夜の森の深い闇の中に息を潜めていた。月明かりすら届かぬ木々の下、湿った土と血の匂いが混じり合い、絶望的な空気が彼らを支配していた。周囲からは松明の光とディミトリの名を呼ぶ教会兵たちの声が、まるで絞首刑の縄のように徐々に、確実に彼らのいる場所へと狭まってくるのが分かった。もはや逃走は不可能に近かった。

 

「…ロドリグ…ドゥドゥー…」

ディミトリは唇を噛み締め、その名を静かに深い悔恨を込めて呟いた。あの忠実なる盾、ドゥドゥーは見張り小屋でディミトリを庇い、その巨体に何本もの剣を受けながら最後の最後まで敵兵を道連れにして力尽きた。そして父のように彼を導き時には厳しく叱咤してくれたロドリグもまた撤退の際にディミトリの逃げ道を確保するため自ら殿となって敵陣に突撃しその命を誇り高く散らせたのだ。

 

彼らの死はディミトリの心に新たなより深い憎悪の炎を灯していた。王国を裏切り民を欺きかけがえのない忠臣たちを奪ったレア。あの女もこの手で必ず…。

 

だがその憎悪に満ちた思考は隣から聞こえてくる、か細い嗚咽によって中断された。見るとまだ十代であろうか、一人の少年兵が恐怖に耐えきれず必死に声を殺しながらも、肩を震わせて泣いていたのだ。

その姿を見た瞬間、ディミトリの脳裏に遠い日の記憶が蘇った。ダスカーの悲劇。炎と煙、そして死体の山の中で何もできずにただ泣き叫ぶことしかできなかった幼い自分自身の姿。

(…ああ、私も昔はこうだったな…)

ディミトリは少年兵の震える肩にかつての無力な自分を重ねていた。そして彼の心に新たな、そして最後の決意が固まった。

 

「…顔を上げろ」

ディミトリの声は静かだったが王としての威厳を確かに宿していた。少年兵たちははっとしたように顔を上げ、ディミトリを見つめる。

「これより私がここから飛び出し敵の注意を引きつける。お前たちはその隙にここから北へ向かって走れ。森を抜け、街道に出て、味方と出会うまで走れ。そして援軍を呼んでこい。これは王としての命令だ」

それは自らの命を囮とする決死の作戦だった。

 

しかしそのディミトリの言葉に先ほどまで泣いていた少年兵が涙を拭い震える声で、きっぱりと反論した。

「い、いえ、陛下! それはなりませぬ! 我々が…! 我々が囮になります! ですから、王は…陛下だけは、どうか、お逃げください!」

他の少年兵たちもそれに続くように次々と頷いた。「そうだ!」「我らの命など、陛下に比べれば!」「どうか、ご決断を!」

彼らの瞳には恐怖と同時に王と王国への、純粋で揺るぎない忠誠心が燃えていた。

 

そのあまりにも健気で無謀な彼らの言葉にディミトリの口元からふっと、乾いた笑いが漏れた。それは諦観のようでもあり彼らへの深い愛情のようでもあった。

「…ふん。教会の兵士を一人も倒せぬお前たちが、何を言っている」

ディミトリは愛用の槍を手にゆっくりと立ち上がった。

「それに勘違いするな。俺は一人ならば、この程度の包囲網たやすく逃げ切れる。お前たちのような足手まといがいては逆に動きにくいだけだ。これをもってサッサと援軍を呼んで来い。」

その言葉は王としての傲慢さを装った彼なりの最大限の優しさであり、嘘だった。

 

ディミトリは呆然とする少年兵たちに王家のマークの付いた装飾品を渡すと、それ以上何も言わせなかった。彼は森の茂みから、まるで怒れる獅子が檻から解き放たれたかのように猛然と飛び出した!

「うおおおおおおおおおおっ!!」

雄叫びと共に、ディミトリの槍が閃き、彼の存在に気づいていなかった教会兵数名が、悲鳴を上げる間もなく命を散らした。

「ディミトリだ! ディミトリがいたぞ!」「囲め! 何としても逃がすな!」

教会兵たちの注意は一斉にディミトリへと集中する。彼はその圧倒的な力で敵兵を薙ぎ払いながらも、次々と現れる敵兵によって徐々に包囲されていった。

 

その隙をついて少年兵たちは涙をこらえディミトリのその最後の命令を胸に刻み、北へ向かって必死に走り出した。

ディミトリは押し寄せる敵兵の波と戦いながら、ちらりと闇の中へと消えていく彼らの小さな背中を見送った。そして彼の心の中に決定的な理解が訪れた。

 

ロドリグもドゥドゥーも、そしてかつてダスカーの悲劇で先に死んでいった者たちも。彼らは敵への憎しみにも燃え、何故だと嘆きながら死んでいった。そこに間違いも誤りもない。

だが今の自分と同じで、復讐を生存者に引き継いでほしいとは思わなかっただろうと気づいた。敵への恨みも憎しみもあったがそれ以上にただひたすらに自分が守りたいと願う者に「生きてほしかった」のだ。その純粋な想いのために彼らは自らの命を盾にしたのだ。

 

(…みんなに会えたら聞いてみるか…)

ディミトリの瞳から一筋の涙が静かに流れ落ちた。だがその表情に悲壮感はない。むしろどこか吹っ切れたような穏やかな笑みさえ浮かんでいた。彼は槍を固く握りしめ自分を囲む教会兵たちを、静かにしかし確かな覚悟を込めて見据えた。

「さあ、来い。…俺の命、そう安くはないぞ」

 

その言葉は復讐に燃える王でもあり、また託された者たちの想いを背負い未来を繋ぐために戦う王の言葉だった。夜の森にディミトリの最後の抵抗を告げる、激しい剣戟の音が、いつまでもいつまでも響き渡っていた。

 

 

 

 

ディミトリが夜の森にその命を散らし最後の抵抗の火が消え果ててから、一時間が経過していた。レアが仮の拠点としていた見張り小屋の周辺は、戦闘の喧騒が嘘のように静まり返っていたが、その空気は血と鉄の匂いで重く、おびただしい数の亡骸が、月明かりの下で無残な影を落としていた。

 

レアは見張り小屋の一室で腕を組み、静かに戦況報告を待っていた。その白い戦装束には返り血が点々と付着しているが、女の表情に疲労の色は見られない。ただその瞳の奥には冷たい苛立ちだけが渦巻いていた。

 

やがて一人の幹部が息を切らしながらも恭しく部屋に入りレアの前に跪いた。

「レア様、ご報告いたします。ディミトリ率いる王国軍の反乱分子は、先程、その悉くを殲滅。完全に壊滅させることに成功いたしました」

 

幹部のその報告にレアは眉一つ動かさなかった。

「…それで? 我々の損害は?」

その問いに、幹部の顔が一瞬苦渋に歪んだ。

「…はっ。それが…ディミトリ、ロドリグらの最後の抵抗は我々の予想を遥かに超えており、教会の軍にも、想定以上の被害が出ました。特に…」

幹部は言い淀みながらも、最も報告し難い事実を口にした。

「長年教会に仕え、レア様より『祝福』を賜り、白き獣へとその身を変じた幹部の方々も…数名が、彼の者らの槍の前に命を落とされました…」

 

「ああ、全く忌々しい…!」

レアは忌々しげに舌打ちしその白い手でテーブルを強く叩いた。その声にはディミトリという抵抗勢力を排除したことへの安堵よりも、自らの貴重な駒を失ったことへの純粋な怒りが込められていた。長年かけて育て上げ忠誠を誓わせた白き獣たち。彼らはただの兵士ではない。レアの計画を遂行するためのかけがえのない手足だったのだ。

 

「申し訳ございません」幹部は深く頭を垂れた。

「つきましては、これより追撃の準備をさせ、逃げ延びた残党を一人残らず掃討いたしますが…」

 

「いいえ」

レアは冷ややかにきっぱりと遮った。

「追撃など、もはや不要です。それより王都です」

彼女の瞳がディミトリたちが来た方角――王都フェルディアの方向を鋭く見据えた。

「ロドリグやあの者たちが何の備えもなく、ただ無策に私に反旗を翻したとでも思いますか? 彼らが王都に戻らなかった時、必ずや何らかの『置き土産』を王都に残しているはずです。次の王位継承者、あるいは我々の行動を糾弾する声明文か…いずれにせよ、そのような厄介の種は芽吹く前に根こそぎ潰しておくのが先決です」

レアの思考は常に冷徹で先の先まで読んでいた。

 

「全軍に告げなさい」レアは立ち上がり、有無を言わせぬ口調で命じた。

「これより我々は直ちに王都フェルディアへと進軍する。夜明けと共に王都を完全に制圧し反乱の芽を一つ残らず摘み取るのです。急ぎなさい」

 

「はっ! ただちに!」

幹部は力強く応えると足早に部屋を出て行こうとした。その背中にレアは命令を投げかけた。

「…ああ、それからもう一つ」

レアの口元に何か邪悪な考えを思いついたかのような、微かな笑みが浮かんだ。

「先程の戦いで命を落とした、白き獣たち…あの者たちの亡骸は、一体たりともその場に残さず、全て丁重に持ち帰りなさい。…ええ、後の大切な『再利用』のために、ね」

 

その言葉に含まれたぞっとするような響きに、幹部は一瞬背筋に冷たいものが走るのを感じたが、それに疑問を呈することなどできるはずもなかった。

「…は、はっ! 御意のままに…!」

彼は震える声でそう応えると逃げるようにして部屋から退出していった。

 

一人残されたレアは窓の外に広がる死の静寂に包まれた戦場を見下ろした。作戦は失敗し、長年の部下セテスも恐らく死んだ。王国軍もこの手で潰した。それでも、それでも、お母さまとフォドラを諦めることだけはできない。その瞳にはもはや人間的な感情は一切なく、ただ自らの悲願を達成するためだけに、どこまでも冷酷に効率的に全てを計算し尽くす、神を名乗る超越者の底知れぬ狂気だけが暗く、そして深く渦巻いていた。

彼女のこの決断が王都フェルディアに、そしてフォドラ全土にどのような新たな悲劇をもたらすのか。それはまだ誰にも予測できない、恐るべき未来の始まりを告げていた。




次話は水曜日です。
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