レスター諸侯同盟がその歴史に幕を下ろし、アドラステア帝国の東部諸州として再編されてから、しばらくの月日が流れた。帝国の統治は、旧同盟領の有力貴族たちの協力を得る形で、比較的穏やかに進められていたが、フォドラ全土を覆う戦乱の暗雲は、依然として晴れる気配を見せなかった。
その日旧同盟の交易と文化の中心であったグロスタール家の領都に、一人の訪問者が静かに到着した。淡い緑色の髪を風になびかせ、その身には戦士としての機能美と、どこか気品を感じさせる戦装束を纏った女性――ベレスだった。彼女は、エーデルガルト皇帝より正式な許可を得て、そして一つの重要な使命を胸に、この地を訪れたのだ。
グロスタール家の壮麗な館、その一番大きな応接間には、ベレスの来訪を知り、急ぎ集まった懐かしい顔ぶれが揃っていた。グロスタール家の若き当主として、領地の復興と安定にその辣腕を振るうローレンツ。彼の傍らには、相変わらず気だるげな雰囲気を漂わせながらも、その瞳には領民を思う確かな優しさを宿すヒルダ。妹を養うために子供頃より苦労しながらも、常に友情に篤く常に前向きな楽天家な聖人ラファエル。そして、コーデリア家の再興と魔道の研究に没頭する日々を送るリシテア、騎士としての道を模索し続けるレオニー、領内の治安維持と芸術の振興に尽力するイグナーツ、そして領地の片隅にある教会で、傷ついた人々の心を癒やすことに静かな生きがいを見出していたマリアンヌ。
クロードはパルミラに行ってしまったが、金鹿の学級の仲間たちがそれぞれの立場で、それぞれの責任を背負い、再び一つの場所に集ったのだ。
「ベレス先生! よくぞお越しくださいました。いやはや、貴女があのデアドラで帝国軍を率いていた時は肝が冷えましたが…こうして再びお会いできて、光栄の至り!」
ローレンツが少し大人びた、しかし昔と変わらぬ自信に満ちた口調でベレスを迎えた。その言葉には、かつての敵将への敬意と旧友との再会を喜ぶ純粋な気持ちが混じっていた。
ベレスは集まった仲間たちの顔を一人一人見渡し穏やかな、しかし確かな力強さを込めた微笑みを浮かべた。
「みんな、久しぶり。元気そうで、本当に良かった」
その短い言葉には彼女の万感の想いが込められていた。
和やかな再会の挨拶もそこそこにベレスは本題を切り出した。その瞳は楽しげな再会の場のものから、フォドラの未来を見据える指導者のそれへと、静かに、しかし確かに変わっていた。
「みんな、今日は集まってくれてありがとう。単刀直入に言います。私はあなたたちの力を借りに来ました」
ベレスのその言葉に、部屋の空気が一瞬で引き締まる。
「ご存知の通り、帝国は今、ファーガス神聖王国、そしてレアのセイロス聖教会との、最後の戦いを迎えようとしています。この戦いに勝利しフォドラに真の平和を取り戻すため私はあなたたちに、もう一度私と共に戦ってほしい」
ベレスはそこで一度言葉を切ると、エーデルガルトから託された約束を口にした。
「この要請は、皇帝陛下の正式な許可を得ています。そしてこの戦いで功績を挙げた者には、帝国として相応の報奨…場合によっては、新たな領地の加増や、自治権の拡大も約束されています。これはあなたたち同盟の民の、今後の生活と未来を守るための、またとない機会にもなるはずです」
ベレスのその言葉を聞き終えるとローレンツは腕を組み深く長い息を吐いた。彼の表情はベレスの提案を歓迎するというよりは、むしろ深い苦悩に満ちていた。
「…ベレス殿。貴女のそのお気持ち、そして帝国が我々に示してくれた配慮には感謝する。だが」
ローレンツはきっぱりとした口調で言った。
「我々同盟の民はもう戦いに疲れ果てている。デアドラでの敗戦は、我々の力を、そして何よりも心を大きく削いだ。今我々がなすべきはこれ以上の戦いに身を投じることではなく、この疲弊した土地と人々を癒やし復興させることではないのか? そもそも帝国軍の力があれば遠くないうちに王国も屈するだろう。僕らが出る必要は本当にあるのだろうか?」
ローレンツの言葉はグロスタール家の当主として、そして同盟の未来を背負う者としてのあまりにも現実的で切実な問いかけだった。ヒルダやマリアンヌも彼の言葉に静かに頷いている。これ以上の血が流れるのを誰も望んではいなかった。
ベレスはローレンツのその言葉を静かに真っ直ぐに受け止めた。そしてゆっくりと首を横に振った。
「ローレンツ、あなたの言うことはもっとも。ですが私たちがこれから戦おうとしている相手はもはや王国軍というだけのものではありません。そしてこれは単なる人間同士の戦争ではありません。」
ベレスの瞳に先の最終決戦で目の当たりにした、あの悪夢のような光景が蘇る。
「皆さんも、噂では聞いているかもしれません。先の帝国と教会との戦いで、レアが人の理を超えた力を使ったことを。彼女は自らの信者をおぞましい化け物へと変貌させ、兵器として使役した。私たちが対峙したのは純白の鱗に覆われ、竜と魔獣が混ざった肉体を持つ三匹の化け物でした」
ベレスの言葉に、部屋の空気が凍りついた。リシテアやイグナーツは息を呑む。
「そしてその三匹は、レアにとって、殿…つまり自らが安全に撤退するための、使い捨ての時間稼ぎとして投入できる程度の戦力でしかなかった。考えてみてください。もし彼女が全軍を投入したら? 次の戦いでは三匹どころではない。数十匹のあるいはそれ以上の化け物の軍勢が、そして何よりもレア自身が変貌したという、あの伝説の竜や化け物がまとめて我々の前に現れるとしたら…?」
ベレスの声は静かだったがその言葉が描く未来はあまりにも絶望的だった。
「それはもはや帝国一国の力だけで対処できる脅威ではありません。王国も同盟も関係ない。フォドラ全土が彼女の狂気に満ちた『浄化』の対象となり、全てが破壊され、更地と化すかもしれない。…ローレンツ、ヒルダ、皆さん。これはフォドラに生きる全ての人間の、未来を賭けた戦いになります。」
ベレスのその言葉は金鹿の仲間たちの心に深く突き刺さった。ローレンツは唇を噛み締めヒルダは顔を青ざめさせ、リシテアはその小さな拳を固く握りしめていた。彼らが想像していた戦争とは次元が違う。これはフォドラという世界の存亡そのものが問われる戦いなのだ。
「…そんな馬鹿げた話が…」ローレンツが絞り出すように言った。しかし彼の瞳にはベレスの言葉が紛れもない真実であることを悟った、深い戦慄の色が浮かんでいた。
「…ですがベレス殿。そのような、神話に出てくるような化け物を相手に我々人間に一体何ができるというのですか…?」
ベレスはローレンツのその問いに天帝の覇剣の柄を強く、そして確かな温もりを感じるように握りしめた。そして集まった仲間たちの顔を一人一人見渡し、その瞳に揺るぎない決意の光を宿らせてきっぱりと言い放った。
「…ええ、一人では無理かもしれません。帝国だけでも難しいかもしれない。ですが」
彼女の声に、力がこもる。
「ここにいる皆の力が、そしてフォドラに生きる全ての人々の意志が一つになれば、きっとどんな絶望的な未来だって、乗り越えられるはずです。私はそう信じています。だからこそ私はあなたたちの力が必要なのです。もう一度私に力を貸してくれませんか? フォドラのそして私たち自身の未来のために」
ベレスのその魂からの叫びは金鹿の仲間たちの心を強く確かに揺さぶった。ローレンツはしばらくの間天を仰ぎ、深く、深く考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げベレスに向き直った。その瞳には貴族としての誇りと、フォドラの未来を憂う者としての確かな覚悟が宿っていた。
「…やれやれ。貴女という方は神話のような話が多かったですが、ついに竜とは。ベレス殿」
彼はそう言ってふっと笑みを漏らした。それはいつもの自信に満ちたものではなく、どこか吹っ切れたような、清々しい笑みだった。
「ですがその『化け物』の話が真実ならば、もはや選択の余地はありません。このローレンツ、そしてグロスタール家に連なる全ての者たちの力を、フォドラの未来のために、そして何よりも、貴女という無謀な友人のために貸して差し上げましょう!」
ローレンツのその言葉を皮切りに、ヒルダがリシテアが、そして他の仲間たちもまた、それぞれの言葉でベレスへの協力を誓った。彼らの間には、もはや帝国も同盟もない。ただフォドラの未来を憂い、そしてかつての師であり友であるベレスと共に戦うことを決意した、金鹿の仲間たちの熱く固い絆だけがそこにはあった。
ベレスはそんな彼らの姿に心の底からの感謝と、そして未来への確かな希望を感じ、力強く頷き返すのだった。フォドラ全土を巻き込む最後の戦いに向けて新たな、そして最も頼もしい仲間たちが、今、再び彼女の元へと集結した。
レスター諸侯同盟領が帝国の版図に組み込まれ、ベレスが旧金鹿の学級の仲間たちを説得し来るべき最終決戦への協力を取り付けた頃。アイスナー領の領主の館、その一番奥深くにあるカシアンの執務室は、まるで時が止まったかのように、異様な静寂に包まれていた。
最後に他の誰かがこの部屋の扉を開けてから、既に数週間が経過しようとしていた。カシアンは、あのベレスたちが同盟領へと向かった日から、この一室に完全に引き籠っていた。扉の前にはユーリスやハピが心配して毎日運んでくる、スープや黒パンといった保存のきく食事がほとんど手つかずのまま冷たくなって積み重ねられている。時折中から微かに羊皮紙をめくる音や、炭筆が何かを走り書きする音、そして低い呻き声のようなものが聞こえてくるだけで、彼が生きていることをかろうじて示していた。
部屋の中は混沌という言葉ですら生ぬるい、知的な嵐が過ぎ去ったかのような惨状を呈していた。床にもテーブルにも、壁という壁にも、ありとあらゆる資料が散乱し貼り付けられている。セイロス聖教会の禁書庫から持ち出された教義の矛盾点を突く文書、神話の時代に語られる女神と眷属の戦いの記録、帝国軍の最新の兵力配置図、各国で開発が進む新型兵器の性能諸元、そして英雄の遺産の伝承とその弱点に関する考察…。それらが無数の赤い線や複雑な数式、そしてカシアン自身の殴り書きのようなメモによって、まるで巨大な蜘蛛の巣のように結びつけられていた。
そしてその混沌の中心でカシアンは一人、ソファに深く身を沈めるようにして横たわっていた。その瞳は虚空を見つめ焦点が合っていない。食事も睡眠も生命維持に必要な最低限以下しか取っていないのだろう、その頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれ、もはや生気というものが感じられない。だが彼の頭脳だけはその肉体の衰弱とは裏腹に、常人の理解を遥かに超える速度と熱量で休むことなく回転し続けていた。
彼の頭の中では来るべき最終決戦――帝国・同盟連合軍対、レア率いる王国・教会連合軍との戦いが、寝ても覚めても、それこそ無限に、繰り返し、繰り返し、シミュレーションされていたのだ。
【シミュレーション 01:正攻法による殲滅戦】
帝国軍の重装部隊を前面に押し出し、ロングアーチ部隊による援護射撃で敵の進軍を阻む。ベレスとエーデルガルトを遊撃部隊の核とし、敵陣の側面を切り崩させる。
…結果:失敗。レアが召喚した「化け物」の群れ(想定数:最低30体)の圧倒的な突破力の前に、重装部隊の防衛線は崩壊。ロングアーチも化け物の硬い甲殻の前には有効打を与えられず、次々と破壊される。ベレスとエーデルガルトらは善戦するも、数の暴力の前に消耗し、戦線は瓦解。帝国軍、死傷率7割を超え、敗走。
【シミュレーション 13:拠点防衛と消耗戦】
ガルグ=マク要塞、あるいはアイスナー領の堅固な防壁に籠り敵の消耗を待つ。地下に仕掛けた罠を最大限に活用し、敵の兵站を断つ。
…結果:失敗。レアは兵站など意に介さず、化け物たちによる波状攻撃を数週間に渡り継続。こちらの物資と兵士の精神が先に尽きる。最終的には、竜と化したレア自身が、城壁ごと全てを焼き尽くし、ジ・エンド。
【シミュレーション 30:ベレスを囮としたレアへの一点集中奇襲】
ベレスを囮とし、レア本人が前線に出てきたところを死神騎士とアビスの精鋭による別動隊が奇襲、その首を狙う。
…結果:失敗。レアは罠を看破。あるいは、たとえ奇襲が成功したとしても、彼女の周囲には常にカトリーヌや白き獣も多数存在し、致命傷を与える前に返り討ちに遭う確率、92.8%。
カシアンはそのシミュレーション結果を、脳内で即座にゴミ箱へと放り込んだ。
【シミュレーション 127:外交と内部工作】
王国内の反教会勢力や、レアのやり方に疑問を抱く貴族を扇動し、内側から切り崩す。
…結果:時間切れ。セイロス教の支配が長かったため、レアの狂信的な支配は当面の間のみならば保てる。切り崩しが成功する前に、こちらの戦力が尽きる。
一時間に数回、カシアンはソファからおもむろに身を起こすと、震える手で近くの羊皮紙に、新たな数式や奇妙な陣形図、あるいはただ一言「ダメだ」「これでも足りない」といった絶望的なメモを書き殴っては、再び思考の海へと深く、深く沈んでいく。
彼の頭脳は、あらゆる可能性を試しあらゆる変数を考慮し、勝利への道を模索し続けていた。敵の化け物の数、その能力、行動パターン。味方の兵士一人一人の特性、武器の性能、士気の変動。天候、地形、そして戦場で起こりうる、あらゆる偶然という名の不確定要素まで。その全てを彼の脳内シミュレーションは冷徹に無慈悲に再現し、そしてそのほとんどが「敗北」という二文字で終わる。
(足りない…何かが、決定的に足りない…)
カシアンはもはや肉体的な疲労すら感じなくなっていた。ただ彼の精神だけが勝利という一点を目指して、終わりなき計算の迷宮を彷徨い続けている。それはフォドラを救うためでも、帝国の勝利のためでもない。ただ彼が愛する女性が、そして彼女と共に生きる未来が、レアという狂気の神によって踏みにじられるのを、阻止するため。ただそれだけのために。
そして引き籠ってから数週間が経過した、ある日の夜明け前。
数えきれないほどの敗北と絶望的な計算の果てにカシアンの思考が、ついに一つの「解」にたどり着いた。
その瞬間彼の虚ろだった瞳に悪魔的な、あるいは狂気じみた決意の光が、ギラリ、と宿った。
カシアンはまるで長い悪夢から覚めたかのようにゆっくりとした動きで、ソファからその痩せこけた体を起こした。足元がおぼつかず、一度よろめいたがすぐに壁に手をついて体勢を立て直す。
彼は部屋に散乱する資料には一瞥もくれず、ただまっすぐに執務机の引き出しへと向かった。そしてその奥から一枚の、何も書かれていない真っ新な羊皮紙と上質なインク、そして彼が最も気に入っている万年筆を取り出した。
(…これらだな)
彼の頭脳はもはや迷っていなかった。カシアンは震える手でインク壺の蓋を開け、ペン先にインクを浸すと、真っ新な羊皮紙の上に静かに力強く、その恐るべき計画の第一歩を記し始めた。
その文字はもはや戦術家のそれではなく、フォドラの運命そのものを、自らの意志で書き換えようとする、神への挑戦者のようでもあった。窓の外では、夜明け前の最も深い闇が、彼の決意を祝福するかのように静かに広がっていた。
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風花雪月と同じ世界で来るとは思ってなかった。