ベレスと「一緒に料理をする」という奇妙な約束を交わした数日後、カシアンは一枚の羊皮紙を手に、セテスの執務室の扉を叩いた。厳格で知られるレアの右腕であり、士官学校の運営にも深く関わるセテスは、カシアンにとって、レアほどではないにせよ油断のならない相手だ。彼の鋭い目は、常にカシアンの行動や言動の裏を探ろうとしている。
「失礼します、セテス様」
許可を得て入室すると、セテスは山積みになった書類の中から顔を上げた。その表情は、いつも通り厳格で、感情の起伏を読み取るのは難しい。
「カシアンか。何か用かな?」
「はい。野外活動の実施に関する申請書をお持ちしました。ご確認いただけますでしょうか」カシアンは丁寧な、しかしどこか事務的な口調で言い、手にしていた羊皮紙をセテスの前に差し出した。
セテスは黙って申請書を受け取ると、鋭い視線でその内容に目を通し始めた。カシアンの提出する書類だ、何か裏があるのではないか――彼の表情には、そんな警戒心が滲んでいる。申請書の隅々まで、念入りにチェックしているのが見て取れた。
申請書の書式は完璧だった。活動目的の欄には「士官学校生徒(希望者参加形式)に対する、野外環境下における行軍中の調理技術および食料管理に関する実践訓練」と、教育活動として極めて真っ当な内容が記されている。活動場所は「大修道院近郊の指定演習林」、期間は「日帰り」、引率責任者はもちろん「カシアン」本人。一見したところ、カシアンが担当する兵站学や生存術の授業の一環として、何ら不自然な点はないように思えた。
しかし、セテスの目は、申請書の「必要物品リスト」の項目で、わずかに細められた。
「…ふむ、訓練用食材…小麦粉、干し肉、各種野菜、香辛料、保存用容器……」リスト自体は妥当に見えるが、その量の記述が目に留まった。
「『数十人分相当』、か」
日帰りの、それも希望者参加形式の訓練にしては、この食材の量はやや多いのではないか? セテスは眉間に皺を寄せ、申請書から顔を上げてカシアンを見た。カシアンが過去に企画した突飛なイベントや、彼の合理主義が行き過ぎて時折見せる奇行を思い返せば、この「数十人分の食材」が、何か別の、予期せぬ目的に使われる可能性も否定できない。
「カシアン、この食材の量は、日帰りの訓練にしては少々過剰ではないか? 具体的にどのような訓練内容を想定しているのだ?」
セテスは疑念を隠さずに尋ねた。
カシアンは、セテスの指摘を予期していたかのように、落ち着き払った様子で答えた。
「はい、セテス様。今回の訓練では、単に調理を行うだけでなく、様々な状況…例えば、限られた水での調理法、保存食の作成と管理、大人数分の食事を効率的に準備する手順などを、複数のグループに分かれて実践する予定です。そのため、試行錯誤や失敗も考慮に入れ、食材は多少余裕をもって見積もっております。もちろん、余剰分に関しては、訓練終了後に適切に処理し、決して無駄にすることはございません。ご懸念には及びません」
カシアンの説明は理路整然としており、教育的な配慮に基づいているように聞こえた。セテスはなおもカシアンの顔をじっと見つめ、その言葉の真偽を探ろうとしたが、カシアンの無表情な顔からは、何も読み取ることはできなかった。申請書の他の部分には、怪しい記述や計画の穴は見当たらない。
セテスは内心で(この男のことだ、何か裏があるかもしれんが…)と思いつつも、形式上、この申請を却下するだけの明確な根拠を見つけることはできなかった。
「……よかろう」しばらくの沈黙の後、セテスは渋々といった様子で口を開いた。
「内容については確認した。目的、場所、期間、いずれも形式的には問題ないと判断する。申請を承認しよう」
彼はペンを取り、申請書に承認のサインを書き込んだ。「ただし」と、彼はカシアンに鋭い視線を向けた。
「活動中は生徒の安全管理を徹底し、決して問題を起こさぬよう、厳に注意することだ。もし何かあれば、君の責任を問うことになるぞ」
「御意。肝に銘じます」カシアンは恭しく頭を下げた。「ありがとうございます、セテス様」
彼は承認された申請書を丁寧に受け取ると、一礼してセテスの執務室を後にした。重厚な扉が閉まり、一人廊下を歩き出す。セテスの疑念の視線は感じていたが、計画の第一段階はクリアした。カシアンの口元に、ほんのかすかな、しかし確かな満足感を示すような笑みが浮かんだ。
(まずは、食材と場所の確保は完了、か。さて、次は…)
彼の頭の中では、既に次の計画が動き出しているようだった。
その日の早朝、大修道院近郊の演習林入り口には、カシアンと青獅子の学級の生徒たちが集合していた。空は快晴だが、生徒たちの表情はどこか浮かない。なぜなら、彼らの背中には、通常の訓練とは比較にならないほど重そうな荷物が括り付けられていたからだ。中には訓練用の武具に加え、カシアンが「訓練で使う」と言って用意させた大量の食材――小麦粉の袋、干し肉、野菜、調味料などが詰め込まれている。
「本日の訓練は、『行軍中の調理訓練』だ」カシアンは集まった生徒たちを前に、淡々と告げた。「午前中は、この荷物を背負ったまま、指定されたルートを行軍する。距離は約20キロメートル。午後は、行軍の目的地にて、各自が運んできた食材を使用し、野外での調理訓練を行う。以上だ。質問は?」
「に、20キロですか!? この荷物で!?」アネットが悲鳴に近い声を上げる。
「まあ、訓練だと思えば…」イングリットは覚悟を決めたように言うが、その表情は硬い。
「へえ、面白そうだね。ちょっとしたピクニック気分…ってわけにはいかなそうだけど」シルヴァンは軽口を叩くが、額には汗が滲んでいる。
ディミトリは黙って前を見据えている。ドゥドゥーはその隣で、主君と自分の荷物をしっかりと背負っていた。
質問が出ないのを確認すると、カシアンは「では、出発する」と短く告げ、自らも最後尾につき、行軍を開始した。
行軍は、生徒たちの予想以上に過酷なものだった。太陽が昇るにつれて気温は上がり、背中の荷物が肩に食い込む。道は舗装されているわけではなく、森の中のぬかるんだ道や、急な丘の斜面を登り下りしなければならない。
体力に自信のあるディミトリやフェリクス、騎士としての鍛錬を積んでいるイングリットは、比較的しっかりとした足取りで進んでいたが、それでも額には玉の汗が光っている。シルヴァンは早々に軽口を叩く余裕をなくし、時折悪態をつきながらも必死についていく。アッシュは真面目に歩いているが、体力的にはやや辛そうだ。メルセデスは、遅れがちなアネットを励ましながら、自身も懸命に歩を進めている。ドゥドゥーは、その巨躯に似合わず、淡々と、しかし着実に歩き続けていた。
カシアンは、最後尾で生徒たちの様子を冷静に観察しながら、一定のペースで歩いていた。彼は重い荷物を背負っているはずなのに、疲れた様子を全く見せない。時折、遅れそうな生徒に「ペースを維持しろ」「呼吸を整えろ」と短い指示を飛ばすだけで、それ以上の手助けや励ましの言葉はなかった。
昼過ぎ、ようやく一行は目的地である川辺の開けた場所に到着した。生徒たちは、ゴールした瞬間に荷物を放り出し、へなへなと地面に座り込んだ。
「つ、疲れた…もう一歩も動けない…」アッシュがぜえぜえと息を切らす。
「足が…足が疲れちゃったわ~…」メルセデスもぐったりとしている。
「お腹すいた…何か食べたい…」アネットは半泣きだ。
誰もが、これでようやく休憩と食事にありつけると思っていた。しかし、そんな甘い期待は、カシアンの非情な一言によって打ち砕かれた。
「休憩はそこまでだ」カシアンは、座り込んでいる生徒たちを見下ろし、冷ややかに言った。「これから調理訓練を開始する。各自、班に分かれ、割り当てられた食材と調理器具を確認し、準備に取り掛かれ。日没までに食事を完成させ、後片付けまで終えるぞ」
「「「えええええーーーーっ!!?」」」
生徒たちから、この日一番の悲鳴が上がった。疲労困憊の体で、今から調理をしろというのか。
「鬼だ…あの人、絶対鬼だよ…」シルヴァンが地面に突っ伏したまま呻いた。
だが、カシアンの指示は絶対だ。生徒たちは文句を言いながらも、重い体をなんとか起こし、調理の準備を始めた。
カシアンは、各班を回りながら、野外での調理に関する実践的な知識と技術を指導していった。
「火起こしは効率が命だ。少ない枝で、いかに火力を安定させるか考えろ。風向きを読め」
「川の水はそのまま飲むな。必ず煮沸するか、私が教えた方法で浄化しろ。腹を壊せば、戦闘能力はゼロになる」
「干し肉は固いが、水で戻して細かく刻み、野菜と一緒に煮込めば良い出汁が出る。小麦粉は水で練って、焚き火で熱した石の上で焼けば簡易的なパンになる」
「大人数分を作るには、役割分担が重要だ。火の番、水汲み、食材の下ごしらえ、調理、それぞれ責任者と担当者を決め、連携しろ」
彼の指導は、あくまで実用的で、効率を重視したものだった。生徒たちは、疲労と空腹、そして慣れない野外調理に悪戦苦闘した。火がなかなかつかなかったり、水をこぼしたり、野菜の切り方が雑になったり、味付けに失敗したり…。それでも、互いに協力し、励まし合い、カシアンの時折飛んでくる的確な、そして容赦ない指摘を受けながら、懸命に作業を進めていった。
メルセデスとアッシュが率先して下ごしらえを手伝い、アネットがカシアンの指示を懸命にメモしながら読み上げ、イングリットとディミトリが力仕事である薪割りをこなし、ドゥドゥーが黙々と重い鍋の見張りをし、フェリクスは意外にも手際よく魚を捌き、シルヴァンは口だけは達者に応援(?)しながら手伝っている。
そして、日は傾きかけた頃、ようやくいくつかの料理が形になった。見た目は決して洗練されているとは言えない、武骨な野外料理だ。しかし、大なべでぐつぐつ煮込まれた具だくさんのスープ、香ばしく焼かれた串焼きの肉、そして少し焦げたが温かい手作りパン。それらは、生徒たちの努力の結晶だった。
「できたー!」「やったー!」
完成した料理を前に、生徒たちから歓声が上がる。彼らは輪になって座り、互いの班が作った料理を分け合いながら、遅い昼食を食べ始めた。
「うまいっ!」「ああ…生き返る…!」「自分たちで作ったから、余計に美味しいね!」
疲労困憊だったはずの生徒たちの顔に、笑顔が戻る。行軍の辛さも、調理の苦労も、この一口の温かい食事で報われたかのようだった。和やかな会話と笑い声が、川辺に響く。
カシアンは、そんな生徒たちの輪から少し離れた場所に一人座り、自分の分の食事を黙々と口に運んでいた。彼の表情は相変わらず読み取りにくいが、その視線は、食事を楽しむ生徒たちの姿に向けられている。この過酷な訓練を通して、彼らが何を感じ、何を学んだのか。それを静かに観察しているかのようだった。
厳しい行軍とその後の共同作業が生んだ達成感と、仲間と共に食べる温かい食事。それは、カシアンが意図したかどうかは別として、青獅子の生徒たちにとって、忘れられない経験となっただろう。
青獅子の学級の生徒たちは、午前の過酷な行軍と悪戦苦闘の調理を終え、ようやく人心地ついていた。カシアンの指導のもと、昼食の片付けを済ませた後は、しばしの休息を挟み、木陰に集まって比較的軽い内容の授業が行われた。それは、地図の読み方の応用や、簡単な応急処置の復習といったもので、午前の体力的な負荷とは打って変わって、頭を使う静かな時間だった。生徒たちの間にも、ようやく疲労回復の兆しが見え始めていた。
しかし、その穏やかな時間は、夕暮れが近づくにつれて終わりを告げた。日が西に傾き、空と川面がオレンジ色に染まり始めた頃、訓練場所である川辺の開けた場所に、森の茂みをかき分けて人影が現れ始めたのだ。それは、カシアンからの事前の呼びかけに応じた、他の学級の生徒たちだった。
最初に姿を見せたのは、皇帝の赤を纏った黒鷲の学級の生徒たち。級長エーデルガルトを先頭に、ヒューベルト、フェルディナントといった面々だ。そして、彼らを率いる担任のベレスも、カシアンの隣にいつの間にか立っていた。黒鷲の生徒たちは、大きなバスケットや水筒などを協力して運んできている。
続いて現れたのは、金鹿の学級の一団。級長クロードが、ヒルダやリシテア、レオニーたちを連れてやってきた。彼らもまた、果物の入った籠や、リュートのような楽器、そしていくつかの食料袋を抱えている。どうやら、カシアンは今日の「野外訓練」に合わせて、他の二学級にも事前に声をかけ、この時間、この場所に集まるよう根回しをしていたらしい。
「え…?」「黒鷲と金鹿のみんな? なんでここに…?」「先生、これは一体…?」
突然の他の学級の登場に、青獅子の学級の生徒たちは驚き、何が起きているのか理解できずにざわめき始めた。今日の訓練は青獅子の学級だけのはずではなかったのか?
そんな生徒たちの困惑をよそに、カシアンは静かに立ち上がり、青獅子の学級の生徒たちに向き直った。彼の隣では、ベレスが静かに佇み、その様子を見守っている。彼女の表情は乏しいが、どこかこの状況を理解し、受け入れているような雰囲気がある。
カシアンは落ち着いた声で言った。
「諸君、午後の座学はここまでとする。そして、これより、本日の訓練の総仕上げとも言うべき、新たな訓練を開始する」
彼は集まってきた他の学級の生徒たちを一瞥してから、再び青獅子の生徒たちに向かって宣言した。
「名付けて、『軍隊における宴の効用と実践に関する訓練』だ」
「え…? 宴の…訓練…?」アネットが聞き返す。
「宴会…ですか? 他の学級も一緒に?」アッシュも戸惑いを隠せない。
生徒たちの困惑が深まる中、級長であるディミトリが、強い意志を宿した目でカシアンの前に進み出た。
「カシアン先生。失礼を承知でお尋ねします」
ディミトリは礼儀正しく、しかし厳しい口調で問い質した。
「これは一体、どういうことでしょうか。他の学級の方々までお呼びして…このような『宴』を開くことが、正式に許可されているのですか? 事前の説明にはありませんでしたが」
級長としての責任感と、教師の独断専行ではないかという懸念が、彼の言葉にはっきりと表れていた。
カシアンは、ディミトリの真摯な問いかけに対し、動じることなく懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、セテスの承認印がはっきりと押された、先日提出した野外活動の申請書だった。
「心配は無用だ、ディミトリ」
カシアンはその申請書をディミトリにも見えるように掲げた。
「今日のこの場所での活動、すなわち『行軍中の調理訓練及びそれに付随する野外活動』は、セテス様より正式に承認を得ている。申請内容には日没後の活動継続も含まれており、大修道院の規定上、深夜0時までは活動が認められている。何ら問題はない」
あくまで訓練の一環である、という体裁を彼は崩さない。
「では、この『宴』も訓練の一部だと…?」ディミトリが重ねて問う。
カシアンは頷いた。
「その通りだ。軍隊という組織において、『宴』は単なる慰安や娯楽のためだけにあるのではない。過酷な任務の後には兵士たちの士気を高揚させ、仲間同士の結束を強める効果がある。また、リラックスした場での情報交換は、時に公式の報告よりも重要な意味を持つこともある。異なる学級の者たちが共に準備し、語り合うことは、互いの理解を深め、将来的な連携を円滑にする上で、必ずや有益となるだろう。これも重要な訓練の一環だ」
彼は、もっともらしい理由を淀みなく述べた。
ベレスも、カシアンの説明に同意するかのように、小さく頷いている。彼女は既に黒鷲の生徒たちに指示を出し、持ち寄った食材を広げたり、火の準備を手伝ったりし始めており、明らかにこの「宴の訓練」に協力的だった。
そして、カシアンは最後に付け加えた。
「ただし、この訓練への参加は完全に任意とする。今日の行軍と調理で疲労している者もいるだろう。もし、この『宴の訓練』に参加することを望まない者がいれば、遠慮なく申し出て構わない。今から大修道院へ帰っても、今日の訓練評価に影響はない。参加は、あくまで希望者のみだ」
カシアンはそう言うと、既に和やかに騒がしく宴の準備を始めている黒鷲と金鹿の生徒たちの方へと視線を移した。クロードが早速シルヴァンをからかい、リシテアがフェルディナントと何やら言い争い、ヒルダが木陰で休もうとしているのをレオニーが引っ張っている。ベレスは黙々と、しかし手際よく準備を進めていた。
青獅子の学級の生徒たちは、困惑と疲労、そしてわずかな好奇心の中で、選択を迫られていた。この周到に仕組まれた、奇妙な教師と協力的なもう一人の教師による「宴の訓練」に、彼らは参加するのだろうか、それとも…。夕暮れの川辺には、三つの学級の生徒たちが集い、これから始まるであろう不思議な夜への期待と不安が入り混じった、独特の空気が満ち始めていた。