道徳以外を教えます   作:マウスブン

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偵察

アイスナー領の城壁の上、ベレスは一人、静かに西の空を眺めていた。日が傾き始め空は柔らかな橙色に染まっている。王国との最前線であるこの地にも、戦いの合間には、このような穏やかな時間が流れることがあった。彼女はカシアンが立案した敵後方への攪乱作戦に赴いた、ユーリスやイエリッツァ、そしてベルナデッタたちが率いる各偵察部隊の帰りを静かに、その瞳の奥には確かな信頼を宿して待っていた。

 

やがて西の街道から土煙と共に一団の兵士たちの姿が見えてきた。先頭に立つ小柄な影は、紛れもなくベルナデッタだった。かつては自室に引きこもりがちだった彼女も、この5年という歳月と、カシアンとベレスによる指導、何よりも仲間を守りたいという強い意志によって、今や一部隊を率いる立派な弓兵隊長へと成長していた。その足取りにはまだ少しばかりの臆病さが残ってはいるものの、指揮官としての責任感が、彼女を確かに前へと進ませていた。

 

「ベルナデッタ、おかえりなさい。任務ご苦労様」

ベレスは城門で部隊を出迎えると、その労をねぎらった。

 

「は、はい! ベレス先生! ただいま戻りました!」

ベルナデッタは敬礼しながらも、その声には任務をやり遂げたという達成感が滲んでいた。

「ご報告します! 我々の担当区域に出現した、例の…竜と魔獣の混ざった化け物1体お呼び教会の兵士、いずれも討伐完了いたしました! こちらの被害は、負傷者数名のみで死者はおりません!例の策も上手くいきました。」

その報告は簡潔で見事なものだった。

 

「そう、よくやってくれたわね。お疲れ様」

ベレスは穏やかに微笑んだ。ベルナデッタはその笑顔に安堵したように、ほっと息をついた。そして少しだけ誇らしげに付け加えた。

「あ、あの…今回の討伐、私も、少しだけですけれど…カシアン先生の策や、そのやり方が、分かってきたような気がするんです」

「ふうん?」

「敵を、ただ正面から打ち破るんじゃなくて…地形を利用して、有利な場所へ誘い込んだり、罠と弓の連携で、相手が力を出す前に動きを封じたり…。カシアン先生が、いつも仰っていた『効率的な殲滅』っていうのが、こういうことなのかなって。…まあ、先生のやり方は時々、いえいつもすごく意地悪で怖いですけど…」

ベルナデッタは、かつて自分が実験台にされた「爆音玉」と「腐臭草」の悪夢を思い出したのか、少しだけ身を震わせた。それでも時々と表現したのは間違いなく彼女の善性によるものだ。

 

ベレスは、その言葉に、くすくすと笑みを漏らした。

「そうね。彼のやり方は確かに少し意地悪かもしれない。でも皆が無事に帰ってくるためには、それも必要なことだから」

彼女の言葉には、カシアンへの絶対的な信頼が込められていた。

 

ベルナデッタは、深く頷いた。

「は、はい! 他の部隊も、上手くやっているみたいです! 最近、帝国からこちらへ来てくださった、あのシャミアさんという弓の名手の方や、イグナーツさんの部隊も、見事な連携で敵を追い返したと聞きました!」

「そう、みんな、頼もしいわね」

 

ベレスは誇らしげに報告するベルナデッタの頭を、優しく撫でた。

「本当にご苦労様、ベルナデッタ。今日はもうゆっくり休んで。ああ、そうだわ」

ベレスはまるで素晴らしいアイデアでも思いついたかのように、ぱっと顔を輝かせた。

「あの倉庫にカシアンが隠している秘蔵のお酒が、まだいくつか残っているはずだから、良かったら皆で飲んで。頑張った貴女たちへの私からの褒美よ。…ベルナデッタのお母様たちにも、何本か送って差し上げてもいいから」

 

「えっ!? い、いいんですか、ベレス先生!?」

ベルナデッタはその思わぬ褒美に、目を丸くして喜んだ。カシアンの酒が貴族たちの間でどれだけ値が張るものか、彼女も噂には聞いていたのだ。

「あ、ありがとうございます! きっと母も喜びます! あの…それでカシアン先生は、お加減はいかがですか…?」

ベルナデッタは恐る恐る、この領地のもう一人の主の様子を尋ねた。

 

その問いにベレスの口元に楽しげな、少しだけ意地悪な笑みが浮かんだ。

「もう大分元気。今は自室で、私が選んだ恋愛小説を読んで、感想文を書いてる頃。少し仕事を許可したらすぐこれだから。」

 

「れ、恋愛小説の…感想文…ですか…?」

ベルナデッタはそのあまりにも想像のつかない光景に、完全に思考が停止した。あのカシアン先生が? 恋愛小説を? 感想文?

彼女はベレスのその悪戯っぽい、しかしどこか幸せそうな笑顔を見て、そしてその言葉の裏にある、二人だけの特別な事情を彼女なりの鋭い勘で瞬時に察知した。

(こ、これ以上、深入りしたら、絶対にヤバいやつだ…!)

 

ベルナデッタは背筋に冷たいものを感じながらも、必死で笑顔を作ると、乾いた笑い声を上げた。

「あ、あはは…そ、そうですか! それは、な、何よりです! え、ええと、では、わ、私は部下たちの手当がありますので、こ、これで失礼します!」

彼女は、もはや一刻も早くこの場から逃げ出したいといった様子で、慌てて踵を返し、部下たちの元へと駆け出していった。その背中は、どこかカシアンへの同情と、そして自らの危機回避能力への安堵に満ちているようだった。

 

ベレスはそんなベルナデッタの慌てふためく後ろ姿を、楽しそうに、そして愛おしそうに見送っていた。そしてカシアンが今頃、執務室でうんうん唸りながら、慣れない恋物語の感想文に頭を悩ませているであろう光景を想像し、くすりと、幸せそうな笑みを漏らすのだった。

 

 

 

 

 

夜の森はアッシュにとって安息の地であると同時に決して気の抜けない敵地でもあった。木の葉が風に擦れる音、遠くで鳴く夜鳥の声、その全てが彼を追う教会兵の足音ではないかと、その神経を鋭く苛んでいた。

 

数週間前、彼の所属していた王国軍の部隊は王都などからの避難民を受け入れていた。王都からのディミトリ王が帝国に殺されたの報告は兎も角、王国民を化け物にしていることを問いただすと、突如として教会から「帝国に通じた裏切り者」という濡れ衣を着せられ問答無用で攻撃を受けた。熾烈な戦闘の中で共に戦っていたギルベルト殿や、大切な友人であるアネットとは完全に散り散りになってしまった。生きているかどうかすら分からない。

そして何よりも絶望的だったのは敵の戦力だった。人の理を超えた化け物、人の形を辛うじて保ちながらも獣の力を持つ半魔獣の兵士たち。新たに力を得た者たちには練兵を兼ねた戦場が必要だった。そして彼らの前では王国軍の残存兵力など赤子の手をひねるように蹂躙されていった。

 

「生き残らなければ、何も始まらない」

 

アッシュの脳裏にかつてガルグ=マクで教えを受けた、あの風変わりな教師の声が蘇る。カシアン先生。彼の授業は騎士道を重んじる者にとっては受け入れがたい、非情であまりにも合理的なものだった。だが今、この死と隣り合わせの逃亡生活の中で、アッシュの命を繋ぎとめているのは、皮肉にもあの時学んだ生存術の数々だった。

 

追手の視線を欺くため、あえて川の中を歩いて匂いを消す。足跡を残さぬよう岩場や硬い地面を選んで移動する。食べられる野草と毒草を見分け、渇きを癒すための安全な水源を見つける。そして何よりもこの地域の詳細な地理的情報。かつてカシアンがまるで自分の庭を語るかのように淀みなく説明していた、隠れるのに適した洞窟や、敵が警戒を怠りがちな獣道。それらの知識がアッシュを今日まで生き永らえさせていた。

運が良かったのか、それとも先生の教えが生きたのか。生と死の狭間においてその答えなどどうでもよかった。

 

数週間に及ぶ逃亡生活の末、アッシュは森の奥深く苔むした大木の根元にできた、天然の隠れ家のような洞に身を潜めていた。体力は限界に達し空腹と疲労で意識は霧がかかったように朦朧としている。だがまだ生きている。その確かな実感だけが、彼を支えていた。

ぼーっとする意識の中、彼は雨露を凌げるこの小さな空間に感謝しながら、ただ時の過ぎるのを待っていた。

 

その時だった。

サワ、と近くの茂みが揺れる音。アッシュの全身に緊張が走った。誰かいる。それも、一人や二人ではない。複数人の足音。

(…追手!)

アッシュは息を殺し震える手で、腰に差した唯一の武器である短剣の柄を握りしめた。見つかれば、終わりだ。どうかこのまま通り過ぎてくれ…。

 

だがその願いも虚しく、足音は彼の隠れ家のすぐ近くでぴたりと止まった。そして物陰の入り口を覆っていた蔦がゆっくりと、しかし躊躇なく取り払われる。アッシュは最期の瞬間を覚悟し、目を固く閉じた。

 

「ふん。やはり、この付近で隠れられるとしたら、ここか」

 

聞こえてきたのは教会兵の怒号ではなかった。どこか聞き覚えのある、抑揚のない妙な自信に満ちた、あの男の声だった。

アッシュは、恐る恐る目を開けた。そこには頭巾を目深にかぶり、腕を組みながら、まるで答え合わせでもするかのように、こちらを見下ろしている男の姿があった。その顔の上半分は影になっていて見えないが、その声と佇まいは、忘れるはずもなかった。

 

「……せん、せい…?」

アッシュは朦朧とする意識の中で、か細く、そして信じられないといった声で呟いた。カシアン先生。あの人が、なぜ、ここに?

 

カシアンはアッシュのその姿を一瞥すると、特に驚く様子も見せず静かに頷いた。そして背後に控えていた、屈強な兵士たちに事務的な口調で命じた。

「誰かこいつも連れて行ってやれ。アネットらと同じ、生存者だ。手当が必要だろう」

 

アネット…。その言葉はアッシュの限界寸前だった心に、温かい光のように染み渡った。アネットも無事だったのか。生きているのか。

その事実にアッシュの心の中で張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

(…ああ、よかった…)

安堵感がまるで温かい毛布のように全身を包み込み、そして彼の意識は、深い、深い闇の中へとゆっくりと沈んでいった。最後に感じたのは誰かに優しく力強く体を抱え上げられる感触だけだった。

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