タルティーン平原での最終決戦が迫る数週間前。アイスナー領の作戦司令室には、フォドラの未来を左右するであろう帝国の最高首脳部が集結していた。中央には、平原の詳細な軍事地図が広げられ、エーデルガルト、ヒューベルト、そしてベレスが、これから語られるであろう作戦の全容を、固唾を飲んで待っていた。
教鞭を執るのはもちろんカシアンだった。彼は頭巾を目深にかぶり、教会の使者から「悪魔」と恐れられた知略の全てを、今、この場にいる指導者たちに開示しようとしていた。その手にした指揮棒が、地図上の一点――レア率いる教会軍の想定進軍経路――を、確信をもって指し示した。
「さて、皆さん。これより対教会・王国軍との最終決戦における、我が軍の基本戦略についてご説明します」
カシアンの声はいつものように抑揚に乏しかったが、その奥にはこの戦いを勝利に導くという、揺るぎない自信が満ちていた。
「まず我々が対峙する敵の、最大の脅威とは何か。それはレア自身、そして彼女が生み出した『白きもの』とその眷属たちの存在です」
カシアンは、壁に貼り出された、斥候が命がけでスケッチしたであろう化け物たちの想像図を指し示した。
「レア本人が変じる『白きもの』の脅威は、第一に、その圧倒的な耐久力と質量攻撃。そして第二に、回数に制限はあるでしょうが、広範囲を焼き尽くす炎のブレスと、戦場を自在に移動する飛行能力です。彼女の血と紋章石によって生み出された他の教会幹部の白き獣たちも、能力的には多少劣るでしょうが、これとほぼ同様の能力を持つと想定すべきでしょう」
彼はヒューベルトから寄せられた諜報部隊の報告書に目を落とす。
「偵察及び、王国から逃れてきた者たちの証言を統合すると、幹部級の白き獣は、およそ5体。そして王都での儀式によって生み出された、竜と魔獣の能力が不完全に混ざった化け物が、約100体。これに狂信的なセイロス騎士団の兵士が加わる。これが我々が正面からぶつかることになる敵戦力の全容です。…はっきり申し上げて、この戦力とまともに平押しで戦えば、まず間違いなく負けるでしょう。仮に幾つかの幸運があったとしても、甚大な被害は免れません。」
カシアンのその冷徹な分析に、司令室の空気が一層重くなる。
「なので我々が取るべき策は一つ。まずは敵の統率と足並みを、徹底的に崩すこと。そして奴らが持つ厄介な能力…特にその機動力を可能な限り封じ、無力化すること。これがこの戦いにおける最優先事項となります。
また先に申し上げますが、空爆部隊は爆弾の保管場所と戦場となる平原の距離が長いため、多くは活用できません。竜のブレス攻撃で想定外に爆発する可能性もありますしね。」
カシアンはそこで一度言葉を切り、エーデルガルトとベレスの顔を交互に見つめた。
「レア本人を怒らせ正気を失わせ、こちらの思う壺へと誘い込むための策は別途お二人にはお伝えします。確実に成功するとは言えないものですけどね。」
彼の瞳が悪戯っぽく、冷ややかに光る。
「まずは彼女が率いる化け物たちの動きを、いかにして鈍らせるか。その具体的な方法です」
カシアンは指揮棒で再びタルティーン平原の地図を叩いた。
「この平原には幸いなことに、いくつもの細く深い川が流れています。そしてこの平原には強い風が吹きやすい、という天候予測のデータも出ています」
彼は事前にペトラの飛行部隊や、アビスの者たちを使って集めさせた膨大な気象データを指し示した。
「我々はこの川を、予め堰き止めるのです。決戦の前夜まで工作部隊を動員し、複数の川の上流に、土嚢や岩を使った簡易的なダムを築き川の水を堰き止める。そして敵が進軍を開始したタイミングで、そのダムを一斉に決壊させる。そうすればこの平原の北部は一瞬にして、足首まで浸かるほどの広大な泥濘地へと姿を変えるでしょう」
カシアンは頭巾の下で満足げに口角を上げた。
「白き獣や化け物たちは、確かに強大な力を持っている。ですがその巨体故の『質量』が、泥濘の中では、逆に彼らの動きを著しく阻害する最大の弱点となる。また戦闘経験が少ないものも多い。足を取られ身動きが取れなくなった巨体など、もはやただの大きな的に過ぎません。そこを我々の弓部隊と、魔道部隊で、一方的に叩く。これが我々の描く、勝利への第一歩です。その為こちらの騎馬や重装部隊の方々は、降りて歩兵として戦っていただくことになります。」
そのあまりにも大胆で狡猾な作戦に、エーデルガルトは息を呑み、ヒューベルトは感心の唸り声を漏らした。ベレスだけがカシアンから一生目を離してはいけない、そしてカシアンに首輪をつけるべきか少し真剣に検討していた。
戦いの盤面はまだ駒が並べられる前から、既にカシアンの頭脳の中で帝国軍有利へと傾けていた。
タルティーン平原の戦場は泥と血、そして絶望的なまでの轟音に支配されていた。カシアンの策によって堰き止められていた川が決壊し、平原の北部は広大な泥濘地と化していた。レアが生み出した「白き獣の」や、おぞましい化け物たちは、その巨大な質量とアンバランスで慣れない体故に、逆に足を取られその自慢の突進力を完全に殺がれていた。その上でレアが一人で帝国軍本陣へ突っ込んだため、教団兵たちは統率が取れずに混乱していた。
「…好機だ」
帝国軍の弓兵部隊その一角でシャミアは静かに、その瞳の奥に狩人としての冷徹な光を宿して呟いた。泥濘の中でもがく化け物たちを前に、この場においてのみ身軽な徒歩である自分たちの方が遥かに機動力で勝っていた。だがチャンスはそう多くはない。以前の偵察での試行で必要量は理解できたが、この決戦のために用意された特殊な矢弾の数も限られた数しか用意できるものではない。
シャミアの視線の先、化け物たちの軍勢の中心にいる幹部級の白き獣たちは、その意識を地上ではなく、上空へと向けていた。ペトラが率いる帝国軍の飛行部隊が、彼らの頭上を旋回し、威嚇するように急降下を繰り返している。おそらくはカシアンが開発した「爆撃」の再来を警戒しているのだろう。化け物どもが空の脅威に気を取られ、火のブレスなどで対応することを先決とし地面を這う自分たち人間を、さほど脅威と感じていないのが、シャミアには手に取るように分かった。
そしてその時は来た。
ペトラの部隊が大きく旋回し陽光を背にして一瞬その姿を眩ませた。それに反応し地上の化け物たちが、一斉に空に向かって威嚇の咆哮を上げる。その巨体が大きくのけぞり、無防備な口内を天に晒した、まさにその瞬間。
「―――今!」
シャミアの短く鋭い号令が飛んだ。
彼女の指揮下にある、帝国軍でも屈指の腕を持つ弓兵たちが一斉に矢を放つ。その矢の先端にはシャンバラや帝国で保管され、カシアンの指示で加工された禍々しい光を放つ紋章石の欠片が固く装着されていた。
ヒュンッ!という鋭い風切り音と共に十本の矢が、放物線を描いて化け物たちの群れへと吸い込まれていく。泥濘と混乱の中、全ての矢が的を射たわけではない。外れたものも多くあった。だが狙いすまされた数本の矢は、咆哮を上げていた何体かの化け物たちの、大きく開かれた口の中へと、寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
(…お前たちに罪はない。運がなく、選択を…信じるものを間違えただけだ。)
シャミアは矢を放ちながら心の中で静かに呟いた。当然反対意見はあった。だが偵察での正面での戦闘結果が良くなかった。そして紋章学の権威であるハンネマンがこの化け物たちを分析し、下した結論が彼女の脳裏をよぎる。「彼らはもはや、人として救う術はない。その歪んだ生命活動を停止させることこそが、唯一の慈悲だ」と。
「全隊、後退!」
シャミアは矢を放ち終えるなり、即座に部隊に後退を命じた。彼らはまるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく迅速に後方の味方陣地へとその姿を消していった。
(せめて、苦しむ時間が短いことを祈る)
そしてシャミアたちが後退してからわずか数分後。
戦場の中心で異変が起こった。
「グ…ギ…ギャアア!!!!!」
矢を飲み込んだ数体の化け物が、突如として苦悶の絶叫を上げた。元々レアの血はごく少量で紋章石の力で無理やりその形を保っていた、極めてアンバランスな存在。その体の中にさらに異物として紋章石の欠片が侵入したのだ。彼らの体内で制御不能となった魔力が暴走を始めた。
肉が、骨が、おぞましい音を立ててさらに歪な形へと変質していく。彼らはもはや痛みと狂気で我を忘れ、その破壊衝動を、最も近くにいる存在へと向け始めた。
「グギ…ギ…!イ…タイ…! ロ…ス!」
暴走した化け物は、隣でもがいていた、同じ化け物の仲間へと、その鋭い爪を振り下ろした。同士討ちが始まったのだ。
「静まれ! 我が声が聞こえぬか!」
統率役であった教団兵が命令を下すが、もはやその声は届かない。暴走した化け物は隣の白き獣にさえも襲いかかり、その純白の鱗に深々と牙を突き立てた。白き獣たちが血を流し合う。
戦場の中心でレアの軍勢は内側から崩壊を始めていた。シャミアらの放ったたった数十本の矢が千の軍勢にも勝る、恐るべき混乱と破壊を敵陣にもたらしたのだ。
その光景を遠く離れた丘の上から、カシアンはただ静かに冷ややかに見つめていた。規模の大小はあるが、弓部隊による紋章石の欠片を食わせる作戦は、うまく機能していた。また紋章の欠片付きの矢を化け物の口に入れられない場合、化け物の肉体に矢を打ち込み、化け物の部分を増やさせ、最低限でも体のバランスを更に崩させて身動きを取れないようにさせていた。彼の描いた盤面の上で、駒は完璧にその役割を果たしていた。
タルティーン平原の戦場は、カシアンの策略によって混沌の坩堝と化していた。同士討ちを始めた化け物の軍勢、それを鎮圧しようと消耗する白き獣たち、そしてその隙を突いて猛攻を仕掛ける帝国軍とその協力者たち。そして混乱した隙を見つけて時折空爆を加える空の部隊。戦いの趨勢は、刻一刻と確実に帝国軍へと傾きつつあった。
その崩壊しかけた教会軍の陣形を、文字通り力ずくで切り裂いて、二つの影が白きものとなっているレアの元へと駆けつけた。一人は獅子のごとき金色の髪を振り乱し、その手にした英雄の遺産「雷霆」を閃かせながら、帝国兵を薙ぎ払う女騎士、カトリーヌ。そしてもう一人は小柄な体で、主を守るという一心だけで、無我夢中で槍を振るう少年、ツィリルだった。
「レア様! ご無事ですか!」
カトリーヌはレアに近寄ると自分の背後で暴れ狂う化け物たちと、そして何よりもレアを追い詰めていたベレスと黒鷲の学級の面々を鋭い眼光で睨みつけた。
見れば、レアの体は満身創痍だった。長時間に及ぶベレスたちとの激闘でその純白の戦装束は自らの血で赤く染まり、呼吸は浅くその動きもまた先程までの神懸かり的なものではなく明らかに精彩を欠いていた。
「カトリーヌ…ツィリルまで…。なぜ、こちらへ。あなたたちの持ち場は…」
レアは苦しげに息をつきながら、二人のその無謀な行動を咎めようとした。
「もはや持ち場も何もありません! このままでは、全軍が壊滅いたします!」
ツィリルが悲痛な声で叫んだ。
「レア様、どうか、どうかお聞き入れください! ここは、我々が食い止めます! ですからあなた様だけでも、どうか本陣へとお戻りください!」
「何を馬鹿なことを…」
レアはそのあまりにも無謀な提案に力なく首を振った。自分を見捨て自らが盾となる。それは彼女も望まない部下の行動だった。
「あなたたち二人だけであの者たちを止められるとでも…? 無駄死にするだけです!」
「無駄死にではありません!」
カトリーヌはきっぱりと言い放った。その瞳にはレアへの絶対的な信仰と、自らの命を捧げることへの一切の迷いもなかった。
「我らの命は、全てレア様のために! 教会は、そしてフォドラは必ずや再起できます! どうか我らの最後の願いを、お聞き届けください!」
カトリーヌとツィリルはレアの前で最後の願いを込めて頭を垂れた。その揺るぎない忠誠心と、覚悟を目の当たりにし、レアはしばらくの間、逡巡した。だが自らの体の限界と、そしてこのままでは共倒れになるという冷徹な現実が、彼女に苦渋の決断を迫った。
「……分かりました。…分かりました、カトリーヌ、ツィリル。…一時、撤退します」
その声は、震えていた。
レアは最後の力を振り絞り極度の疲労からか、その体はぐらりとバランスを崩した。それでも彼女は何とか天へと飛び立つと傷ついた翼で、後方の教会軍本陣へとその姿を消していった。
残されたのはカトリーヌとツィリル、そして彼らに付き従う一部セイロス騎士たち、そしてまだ制御の効く化け物たちだけだった。
彼らの前にベレスと、エーデルガルトに率いられた黒鷲の学級の面々が、有無を言わせぬ圧力をもって前進してきた。
「カトリーヌ、ツィリル」
ベレスの声は静かだったが、その瞳には深い悲しみの色が浮かんでいた。
「武器を捨て降伏しなさい。命までは取りません」
だがカトリーヌとツィリルはその言葉に静かに首を横に振った。
「断る」カトリーヌは雷霆を構え直した。「我らは、レア様を信じる。あの方の正義を、そして未来を!」
「そうだ! レア様のために戦って死ねるなら、本望だ!」ツィリルもまた、震える手で槍を握りしめ叫んだ。
「……そうか」
ベレスはその言葉に全ての覚悟を悟った。彼女は天帝の覇剣を確かな重みをもって構え直した。
「ならば、仕方ない」
ベレスのその言葉を合図に黒鷲の学級の生徒たちが、一斉に残された最後の抵抗勢力へと襲いかかった。戦いはもはや一方的だった。数の上でも力の差においても、カトリーヌたちに勝ち目はなかった。
だが彼らは最後まで戦うことをやめなかった。レアが安全に撤退するための貴重な時間を稼ぐためだけに。
それから30分もしないうちに。
カトリーヌとツィリルたちが響き渡らせていた最後の剣戟の音は完全に止んだ。雷霆のカトリーヌも、若き信徒ツィリルも、そして彼らに従った全ての兵士たちも、その言葉通り主君への忠誠を胸に、その命を誇り高く散らせていった。
レアは確かに本陣へと戻ることができた。だがその代償として彼女は最も忠実な僕たちを二人、永遠に失うことになったのだ。