道徳以外を教えます   作:マウスブン

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タルティーン平原につかの間の静寂が訪れた。雷霆のカトリーヌと、若き信徒ツィリル、そして彼らに従った最後の抵抗勢力が、ベレスと黒鷲の学級の面々の前に完全に沈黙したのだ。戦場の喧騒が遠のき、後に残されたのは血と鉄の匂い、そして勝者であるはずの帝国軍の兵士たちのどこか虚しい表情だけだった。

 

カシアンは後方の丘の上から馬を寄せカトリーヌたちが倒れた場所で静かに佇むベレスとエーデルガルトの元へと向かった。彼の頭巾の下の表情は窺えないがその足取りにはこの無益な、しかし避けられなかった戦いを終えたことへの複雑な感慨が滲んでいた。

 

「…ごめん、カシアン」

ベレスはカシアンの姿を認めると力なく、申し訳なさそうに言った。

「レアを…逃した。私の力が及ばなかった」

彼女の声には知り合いをその手にかけた悲しみと、元凶であるレアを取り逃がしたことへの悔しさが入り混じっていた。

 

しかしカシアンはそのベレスの言葉に、静かに首を横に振った。

「いえ、ベレス。貴女のせいではありません」

彼の声は彼女を労わるように、穏やかだった。

「あれだけ消耗させれば、もうあの竜の姿で自由に空を飛ぶことなど、しばらくはできないでしょう。それに彼女の最も忠実な懐刀であったカトリーヌを討ち取れた。戦果としては十分すぎるほどですよ」

カシアンはベレスの肩にそっと手を置き、その健闘を称えた。

 

「戦況はどうなっているの、カシアン卿?」

エーデルガルトが皇帝としての冷静さを取り戻し尋ねた。

 

「順調です」カシアンは平原の各所で繰り広げられている戦闘の様子を一瞥し、的確に報告した。

「弓兵部隊に与えた策が功を奏しレアが生み出した化け物たちは、今や同士討ちでその数を大きく減らしています。統率を失った彼らは、もはや脅威ではありません。また我々に合流してくれた旧同盟領や、旧王国の軍隊の者たちも…イングリット殿やフェリクス殿、ローレンツ殿といった、かつての生徒たちが中心となり、見事な戦いぶりを見せてくれています。戦局は完全に我が軍の優勢です」

 

その報告にエーデルガルトは、ようやく安堵の息を漏らした。

「そう…。皆、よくやってくれているようね」

彼女は戦場の遥か北西方へと視線を向けた。そこにはレアが逃げ込んだであろう教会軍の最後の本陣があるはずだ。

「分かったわ。全軍にしばしの小休止を。負傷者の手当と陣形の再編を急がせなさい。それが終わり次第、このタルティーン平原北部に陣取る教会本陣へ向けて、全軍、最後の総攻撃を開始します!」

エーデルガルトはヒューベルトや他の指揮官たちにも、その決意を伝えるべく力強く指示を飛ばし始めた。

 

兵士たちが勝利を確信した鬨の声を上げ慌ただしく動き出す。その喧騒の中でカシアンは隣に立つベレスにだけ聞こえるような低い声で静かに語りかけた。

「…ベレス。先程は…その、ソティス殿の真似などをさせてしまい、すみませんでした。貴女の心に余計な負担をかけてしまった」

彼の声には自らの策が彼女に与えたであろう精神的な痛みを、彼なりに気遣う響きが込められていた。

 

ベレスはカシアンのその言葉に、ゆっくりと顔を向けた。そしてふわりと、どこか吹っ切れたような穏やかな微笑みを浮かべた。

「ううん、カシアン。謝らないで」

彼女の声は静かだったが、その瞳には、一点の曇りもない、確かな光が宿っていた。

 

「あの時私はただ、ソティスの真似をしていただけじゃない。確かに口調や態度は彼女を演じていたかもしれないけれど…あの瞬間、私の心の中では本当にソティスが、一緒に戦ってくれていた気がする」

ベレスは、自らの胸にそっと手を当てた。

「『全く、世話の焼ける娘じゃのう。だが、お主の選んだ男と、そして未来のためじゃ。この我も、少しばかり力を貸してやろう』って。…そんな風に彼女が笑って私の背中を押してくれた。そんな気がしたんだ」

 

そしてベレスはカシアンの手を、そっと優しく握りしめた。

「だから大丈夫。それにあなたの策を実行するためなら、私は何にだってなれる。女神にだって、そして時には…あなたの隣に立つ、ただの悪魔にだって、ね」

 

ベレスのその言葉はカシアンの心の奥深くに確かな楔として打ち込まれた。彼女はただ守られるだけの存在ではない。彼の罪も彼の策も、その全てを理解し受け入れた上で、共に未来を歩むことを決意した唯一無二の伴侶なのだ。

 

カシアンはベレスのその言葉と、彼女の瞳に宿る深い愛情に、何も言うことができなかった。ただ握られたその手を、力強く、そして感謝を込めて握り返すだけだった。

二人の間にはもはや言葉は不要だった。

平原の向こう、教会軍の最後の砦へと二人は静かに揺るぎない決意を込めて、その視線を向ける。フォドラの夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。

 

 

 

 

 

竜と化したレアは傷ついた巨体を引きずるようにして、戦場からの撤退を開始した。飛べる時には低空を飛び、それもままならぬ時は大地を走り、多くの血を地面に垂れ流しながらも、ただひたすらに後方に設けた教会軍の本陣を目指した。

だがその道中で彼女が目の当たりにしたのは、自らが作り上げたはずの「聖なる軍勢」が無様に崩壊していく地獄絵図だった。

帝国の弓兵部隊が放った紋章石の欠片によって暴走を始めた化け物たちは、もはや敵も味方もなく飢えた獣のように最も近くにいる動くものへと襲いかかっていた。それを止めようとする白き獣にも食いつき正気を保った兵士たちが、やむなくかつての仲間に刃を向ける。同士討ち。それは軍隊という組織にとって最も忌むべき、そして最も士気を削ぐ行為だった。

 

(…立て直さねば。本陣に戻り次第動けるメイジや修道士を総動員し負傷者を治療させ、このものたちの狂乱を鎮めねば…!王都に戻って再戦を挑むか、戦闘を継続するかはその後だ)

最早頼れるものは自分しかいないレアは焦燥感に駆られながらようやく見えてきた本陣の白銀の旗へと、最後の力を振り絞った。

 

だが彼女がたどり着いた本陣で待ち受けていたのは安息とは程遠い、新たな絶望の光景だった。天幕は引き裂かれ物資は散乱し、そして何よりも負傷兵の手当てにあたっていたはずの、非戦闘員である修道士やメイジたちの亡骸が、あちこちに無残に転がっている。つい先ほどまでここで激しい戦闘があったことを、その光景は雄弁に物語っていた。

 

「…誰か、誰かいないのですか!」

竜の姿のままレアは怒りと混乱に満ちた声を張り上げた。すると本陣の奥かろうじて形を保っている天幕の陰から数人の教会兵が震えながら姿を現した。

「レ、レア様! ご無事でしたか!」

「レア様…!」兵士はレアの前に跪くと、絶望的な報告を口にした。

「シルヴァンが…ゴーティエのシルヴァンが、裏切りました…!」

 

「―――なんですって?」

レアはその報告に一瞬思考が停止した。シルヴァン。あの女好きで軽薄で、だがディミトリや王国への忠誠だけは本物だと思われた男が?

レアは兵士の言葉を信じられないまま、本陣の奥へとその巨体を進めた。

 

 

 

 

【回想:一週間前・王都フェルディア 教会拠点】

 

レアの脳裏に1週間前の光景が、鮮やかに蘇る。

ディミトリの死の仇を討ちたいと、たった一人で王都の教会までやってきた、あのシルヴァンの姿が。

『レア様、どうか俺を教会の軍に入れてはいただけませんか。あのディミトリの無念を、この手で晴らしたいのです』

そう言って頭を下げるシルヴァンの瞳には深い悲しみと、確かな憎悪が宿っているように見えた。自身の領土とロドリグの領土を安定化させるため兵は連れてこれなかったと言う説明も筋が通る。

 

レアも他の教会幹部も彼のその突然の申し出をすぐには信用しなかった。幾度となく色々な角度からの質問や厳しい面談を行い行動を監視した。彼の過去、ディミトリとの関係、そして帝国への憎悪の根源。だがシルヴァンはその全てに淀みなく、そして実に説得力のある「嘘」で答え続けた。またシルヴァンが時折リラックスした様子で女性の教会関係者を口説く様子を見て、呆れたように問題ないとお墨付きを与えていた。その為彼の心の奥底に潜む本当の目的を見抜けた者はいなかった。

 

最後まで雷霆のカトリーヌだけが「あの男の目は、どこか信用がなりません」と、その女と戦士の勘とも言うべき鋭さで渋い顔をしていた。だがレアや教会の人間が見ても、ガルグ=マクでの生徒時代とやってることが変わっていない。帝国や王国側へ連絡を取るそぶりすらなかった。そしてディミトリの死で心に傷を負った若者の純粋な復讐心だと、最後には彼女も了承してしまったのだ。

そしてこのタルティーン平原の戦いにおいて教会の人員不足も相俟って、彼は教会の一人として、戦場の一角に配置されるほどの信頼を得ていたはずだった。

 

 

 

 

 

【現在:タルティーン平原 教会本陣】

 

レアがたどり着いた本陣の奥では、シルヴァンによるおよそ一時間に渡る最後の抵抗を終えようとしていた。彼はレアたちが前線で戦っている隙を突き、この本陣の最も無防備で重要な部分――負傷兵の治療と、部隊の回復を担う、修道士やメイジたち――を、ただ一人で潜入し襲撃した。その結果教会の後方支援能力は致命的なまでの打撃を受けていた。

だがその代償としてシルヴァン自身も駆けつけた教会兵たちに完全に包囲され、その体は無数の傷で覆われ、もはや立っているのがやっとというボロボロの状態だった。

 

竜の姿のままレアは、そのシルヴァンの前に静かに降り立った。

「…なぜです、シルヴァン」

レアの声は静かだったが、その奥にはマグマのような怒りが煮えたぎっていた。

「なぜこのような真似を…!」

 

シルヴァンは口の端に溜まった血をぺっと吐き捨てると最後の力を振り絞るように、不敵な、そしてどこか悲しげな笑みを浮かべた。

「…へっ、ディミトリが逃がした少年兵たちがいてねぇ。あんたが俺の友達を殺したってことは、俺は最初から全部知ってたんすよ、レア様?

あのディミトリが、死ぬ直前、あの子たちを逃がすためにどんな嘘をついたか教えてやるよ。『俺は一人なら逃げ切れる』…イノシシの癖に上手な嘘をついたよなぁ」。

(…ああ、もう少し腹を割って話しておくべきだった。)

 

「…! いや、ですがどうやって…! どうやって、あれほどの尋問を嘘をつき続けることができたのですか! 必ずあの面談と監視の中では、ぼろが出るはず…!」

レアは信じられないといったように叫んだ。

 

シルヴァンの瞳に一瞬だけ遠い日の親友を思う、優しい光が宿った。そして彼は再びレアを真っ直ぐに見据え、心底おかしそうに声を上げて笑った。

「はっ、はは…! レア様。俺はずっと嘘をつき続けて生きてきたんですよ。この忌々しい紋章のおかげでな。面倒事を避けるため、そして何よりも本当の自分を誰にも見せないために、ずっと女にだらしがない放蕩息子の問題児を演じてきた。…そんな俺が親友の最後の嘘より、もっと大きな上手い嘘をつけなくてどうするよ」

その言葉は彼の人生を賭けた嘘について、最後の独白だった。

 

レアは軍の立て直しや王都への撤退が不可能になった事を悟った。そしてそれ以上にシルヴァンの言葉と、その瞳の奥にある人間としてのあまりにも深く強い覚悟にほんのわずかな恐怖と、遥かに上回る巨大な怒りを感じた。

「この…人間が…!」

 

竜の鋭い爪が一閃した。

シルヴァンの体はその一撃の前に、為すすべもなく力なく崩れ落ちた。彼の瞳から最後の光が消えていく。だがその口元には満足げな、そしてどこか親友に再会できたかのような、穏やかな笑みが浮かんでいた。自分らしく嘘を吐き敵へ見せつけてやったのだ。

彼もまたその命と引き換えに、王都や自領民の保護、そして何より主君であり友への最後の忠誠を果たしたのだった。




彼の最後の嘘は「レア様」です
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