道徳以外を教えます   作:マウスブン

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注意:R-15


誤算

タルティーン平原はもはや戦場ではなく、地獄そのものの様相を呈していた。レアが生み出した、人の心を持たぬ化け物の軍勢。彼らは帝国軍という明確な敵へたどり着けず、また帝国の弓矢部隊が撃ち込んだ紋章石の欠片によってその歪な魂の均衡を崩された。その結果、ただ自らの内に渦巻く根源的な何かへの飢餓感に突き動かされるだけの、狂った獣の群れへと成り果てていた。

 

「グオオオオオッ!」「ギシャアアアアッ!」

彼らは何かに飢えていた。その飢えは食欲という生易しいものではない。自らの存在そのものが欠落しているかのような魂の渇望。その渇きを満たすため、彼らは最も近くにいる動くものへとその牙と爪を向け始めた。かつての仲間であるはずの同じ化け物たちへと。同士討ち。それは狂った獣たちの救いのない殺戮の連鎖だった。

 

「静まれ!愚か者ども!敵は帝国軍ぞ!」

その地獄絵図を止めようと、理性を保った教会幹部の白き獣たちが、必死に号令を飛ばす。正気の残った教会の兵士たちもまた狂った化け物を打ち取ろうと、その槍を向ける。だが一度狂気に囚われた獣の群れを、もはや誰にも止めることはできない。素質もないのに紋章の欠片を幾つも体に取り込み、女神の血と理性と運で無理やり保っていた正気が崩れたのだ。

 

「ガアアアアッ!」

一匹の特に巨躯の化け物が、それを制止しようとした白き獣へと猛然と襲いかかった。白き獣はその神聖なる力で化け物を薙ぎ払おうとするが、狂乱した獣の動きは予測がつかず、その鋭い牙がついに白き獣の肩口に深々と食い込んだ。

 

ザクリ、という鈍い音と共に白き獣の体から神聖な気を帯びた血が噴き出す。そしてその血を、その肉を、その魂の欠片を口にした瞬間。

化け物の動きが、ぴたり、と止まった。

その血走った瞳に一瞬だけ歓喜と、何よりも深い「理解」の光が宿った。

 

(…これだ…)

 

化け物は自分が何に飢えていたのかをついに理解した。この満たされることのなかった渇望の正体を。この体の内側から響く魂の叫びの意味を。

それは紋章石の塊という不完全品ではない完全な存在への渇望。より本来のあるべき姿に近いものへの、本能的な飢え。

 

教会幹部の白き獣はこの化け物にとって、極上の「ご馳走」だったのだ。紋章石の「欠片」や「欠陥品」ではなく、女神に近い血と肉という「本物」こそ自分に必要なものだ。

化け物は恍惚とした表情で白き獣の腕にさらに深く喰らいついた。そしてその一体の行動が引き金となった。他の化け物たちもまた本能的に理解したのだ。自分たちが本当に求めるべきものが何であるのかを。彼らのぎらつく瞳はもはや帝国兵ではなく、最も近くにいる、より神聖な血を持つ者――白き獣たちへと一斉に向けられた。

 

一方その頃。平原の別の戦場で竜の姿のまま傷ついた体を引きずり、必死に本陣へと戻ろうとしていたレアは、その悲劇にまだ気づいていなかった。彼女の体からは先のベレスたちとの激闘で負った無数の傷口から金色の輝きを帯びた神聖な血が大地へと滴り落ちていた。

 

彼女が飛び地を走ったその道筋は、彼女の血によって一筋の禍々しいまでの香りを放つ道標となっていた。

 

その血の香りを一匹の同士討ちの輪から外れただ飢えに苦しみ、大地を彷徨っていた化け物が偶然にも嗅ぎつけた。

くんくんとその獣じみた鼻を鳴らし化け物は地面に顔を近づける。そしてレアの血が染み込んだ土を、まるでそれが世界で最も美味なものであるかのように、その土ごと貪るように食べた。

 

次の瞬間化け物の全身を、雷に打たれたかのような凄まじい衝撃と歓喜が貫いた。

(…おいしい…!)

それは先ほどの白き獣の血肉とは比較にすらならない。もっと根源的で濃密で神聖な味。魂そのものが震えるほどの至上の味。

(…もっと…もっと、欲しい…!!)

 

化け物は完全に理解した。そしてその血痕が点々と、一つの方向へと続いていることにも。その香りの先にはこの至上の味の源泉があるに違いない。

その血痕はレアが戻った道。すなわち教会軍の本陣へと、一直線に繋がっていた。

 

「グルオオオオオッッ!!!!」

 

化け物は天に向かって新たな意味を持つ咆哮を上げた。それはもはや苦痛や狂気のそれではない。獲物を見つけた狩人の歓喜と、抑えきれない渇望の雄叫びだった。

その歓喜の声や血の香りに呼応するように平原の各地で同士討ちを繰り広げていた他の化け物たちの多くが一斉に動きを止め、そのぎらつく瞳を声のした方角へと向けた。彼らもまたその声と、風に乗って運ばれてくる竜の巨体の血の香りから真の獲物の存在を、本能的に悟ったのだ。

 

タルティーン平原の化け物の群れは、今、その全ての飢えと渇望をただ一つの目標へと収束させた。

彼らは帝国軍の兵士たちには目もくれず、ただひたすらにあの血の道標が続く先――レアがいるであろう教会軍の本陣へと、地鳴りのような足音を立てて一斉に進軍を開始した。

 

レアが自らの狂信によって生み出した最も忠実であるはずだった兵器は、今や彼女自身を喰らい尽くさんとする、最も恐るべき飢えた狩人の群れと化していた。

彼女の最後の、そして最大の誤算がまさに彼女自身の喉元へとその牙を剥こうとしていた。

 

 

 

 

教会軍の本陣はもはや司令部としての機能を完全に失っていた。レアは傷ついた竜の姿のまま、引き裂かれた天幕の中で、一人、次の手を思考していた。その巨大な体からは未だに血が流れ続け、大地を汚している。

 

(…どうする…)

レアの思考は焦りと、そして千年に及ぶ彼女の生涯でも経験したことのないほどの、深い絶望の中で堂々巡りを繰り返していた。この戦場から撤退し傷ついたこの身と失われた力を回復させるには、おそらく何年、いや十年という歳月が必要になるだろう。そして一度失った狂信の軍勢を、再びこれほどの規模で用意することも不可能に近い。

かと言ってこのまま戦いを続けても勝算はあまりにも低い。カシアンという悪魔の知略、ベレスの力、そして結束した帝国の軍勢。それらを前に今の自分はあまりにも無力だった。

 

一体、どうしたものか。

彼女がその答えの出ない問いにただ歯噛みしていた、その時だった。

 

「グルオオオオオオオオオオオッッ!!!!」

 

背後から今までとは明らかに質の異なる地響きのような、そして何よりも飢えと渇望に満ちたおびただしい数の咆哮が一斉に響き渡った。

レアはその不気味な声に、はっと我に返った。

(うるさい…!)

帝国軍がついにこの本陣まで攻め込んできたのか。レアは苛立ちと共に、その巨大な体をゆっくりと振り返らせ戦場に目をやった。

 

そして彼女は自らの黄金色の瞳に映った光景を、信じることができなかった。

そこにいたのは、帝国軍ではなかった。先ほどまで同士討ちを繰り広げていたはずの、自らが作り出した、あの「化け物」の軍勢。その全てが、今やその狂った瞳をただ一つの目標――この本陣、いや、この私自身――へと向け大地を揺るがし、涎を垂らしながら、猛然と突撃してきていたのだ。

 

「…静まりなさい! 愚か者ども! 敵はあちらです!」

レアは残された正気の教会兵たちに本能的な恐怖に駆られながらも、威厳を保って命じた。兵士たちは主君の命令に従い槍を構え魔法を詠唱し、迫り来る化け物の群れへと攻撃を開始する。

 

だが化け物たちはその攻撃をまるで意に介さなかった。槍がその身に突き刺さろうと、魔法がその肉を焼こうと、一切の被害を無視して、ただひたすらにレアに向かって突撃してくる。その瞳にはもはや理性のかけらもなく、ただ純粋な抗いがたい「飢え」だけが不気味に燃え盛っていた。

 

「おのれ…!」

レアは自らの兵器が完全に制御不能に陥ったことを悟った。彼女は力を振り絞り、その巨大な顎から、灼熱の炎のブレスを化け物たちの先頭集団へと叩きつけた。

ゴオオオオッ!という轟音と共に数体の化け物が炎に包まれる。だがそれでも彼らの突撃は止まらない。燃え盛る体でなおもレアへと向かってくる。

 

そしてついにその時は来た。

先頭を走っていた一匹の化け物がレアの巨体に飛びかかり、その傷口に鋭い牙を深々と突き立てた。

 

「グウウウウウウウウッッ!!」

レアの体から神聖な血が、奔流のように溢れ出す。

 

化け物はその血をその肉を貪るように喰らった。そしてその瞳に至上の歓喜と、完全な理解の光が宿った。

 

(おいしい…)

(ああ、そうだ…これだ…俺の魂に、足りなかったのは、これだったんだ…)

(もっと…もっと欲しい…!これさえあれば、私はもっと完全な存在になれる…!これが必要だ…!)

 

その一体の行動が引き金となった。

他の化け物たちもまた、我先にとレアの巨体へと殺到し、その純白の鱗に次々と牙を立て肉を喰らい血を啜り始めた。

さらにその地獄絵図は、さらなる狂気の連鎖を生んだ。レアの血肉を喰らい、その神聖な力の一端を取り込んだ化け物を、その隣にいた別の化け物が、今度はその仲間へと襲いかかり喰らい始めたのだ。少しでも女神の血を求めて。

 

教会兵たちは、そのあまりにもおぞましく冒涜的な光景を前にも必死にレアを守ろうと化け物たちに攻撃を加え続けた。だが化け物たちは、もはや彼らの攻撃など全く気にしない。彼らの目にはもはや主君であるレアの姿すら映っていない。ただ目の前にある至上の「餌」だけを、本能の赴くままに貪り続けていた。

 

「やめ…なさい…」

レアの意識が急速に遠のいていく。自らが作り出した、信仰が厚く最も忠実であるはずだった信徒たちに、その身を喰い荒らされる。これほどの皮肉がこれほどの絶望がこの世にあるだろうか。

(お母さま…私は…こんな…ところで…)

 

だがその意識が完全に途絶える寸前、レアの魂の奥底から千年にも及ぶ強烈な自我と、抑えきれない怒りの炎が再び燃え上がった。

(…ふざけるな…! 私がこんな化け物に…喰われるなどと…!)

 

彼女は最後の力を振り絞り、自らに噛みつく化け物たちの肉を、今度は自らの鋭い牙で食い返した!

「グギャアアアアアアアアアアアッ!!!!」

竜の咆哮は悲鳴ではなく怒号だった。彼女の黄金色の瞳は狂気の色を宿し口からは炎のブレスが噴き出し、周囲の化け物を焼き払う。

 

喰われながらも喰らい返す。

神聖な血と異形の肉が飛び散る、凄惨な光景が繰り広げられた。レアは自らに群がる化け物たちの手足を食い首を刎ね飛ばし、その魂を怒りの炎で焼き尽くしていく。

 

(貴様らのような竜のなりそこないに、お母さまから貰ったこの血と肉を奪われてたまるか!)

 

彼女の体は化け物たちの牙によってズタズタに引き裂かれていく。だが彼女もまた怒りと狂気を糧に、次々と襲い来る化け物を食い荒らしていく。もはやそこにはかつての威厳も理性もなかった。ただ本能のままに殺戮と捕食を繰り返す、巨大な異形の化け物がいるだけだった。

 

教会の兵士たちは、そのあまりにも衝撃的で理解を超えた光景を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。自分たちの信じてきた女神の代行者が、今や血塗られた狂気の権化と化し、自らの生み出した化け物たちと食らい合う地獄絵図。

 

レアの咆哮と化け物たちの断末魔の叫びがタルティーン平原に最後まで、絶望的なまでの音響として鳴り響いていた。

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