タルティーン平原に響き渡っていた剣戟の音は、徐々に確実に帝国軍の勝利を告げる鬨の声へと変わっていった。カトリーヌとツィリル率いる教会軍の最後の抵抗部隊が、ベレスと黒鷲の学級の面々の前に完全に沈黙したのだ。エーデルガルトは、後方から全軍に追撃と掃討を命じ兵士たちは勝利を確信して雄叫びを上げた。
だがその勝利の喧騒の中帝国軍本陣近くの、先ほどまでレアがベレスたちと激闘を繰り広げていた戦場の一角で、新たな異質なる脅威が姿を現した。
同士討ちの輪から外れたのか、あるいは本能的に何かに引き寄せられたのか、数匹の狂った化け物がよろめきながらその場所へとやってきたのだ。
「まだいたのか…!」
近くにいた帝国兵が警戒の声を上げるが化け物たちの行動は不可解だった。彼らは兵士たちには目もくれず、ただレアが激しく戦い、その神聖なる血を流したであろう地面へと、そのおぞましい顔を近づけ始めたのだ。そしてまるでそれが極上のご馳走であるかのように、その土を血の匂いが染み込んだ地面ごと貪るように食べ始めた。
その異様な光景に誰もが言葉を失う。
やがて化け物たちは顔を上げその血走った瞳を一直線にベレスと、そして彼女の隣に立つカシアンへと向けた。
「グルオオオオオッ!」
飢えと渇望に満ちた咆哮を上げ化け物たちは、自身へのダメージなど一切省みず、ただ二人だけを執拗に狙い、突撃してきた。
「下がって、カシアン!」
ベレスは天帝の覇剣を閃かせ迫りくる化け物を次々と返り討ちにしていく。その強さは圧倒的で化け物たちは瞬く間にその数を減らしていった。
一方カシアンはベレスの背後に守られながらも必死に後方へ逃げ回りつつ、その類稀なる頭脳を高速で回転させていた。
(おかしい…)
最初はこれもレアが我々の足を止めるための時間稼ぎとして、最後の最後に突撃させた手駒なのだと考えた。だが化け物たちの行動はあまりにも不可解だ。なぜすぐ近くにいる皇帝エーデルガルトという最大の標的を完全に無視する? なぜ地面を食べるなどという奇行に及んだ? そして何より、なぜこれほどまでに、私とベレスにだけ執着する…?
カシアンの心に拭い去れない違和感が、警鐘のように鳴り響いていた。
そして彼は思い至る。レアの血、ベレスの血、そして…自らに流れる
「……女神の、血…?」
カシアンの口から戦慄を帯びた呟きが漏れた。
その彼の最悪の推測を裏付けるかのように、帝国の斥候兵の一人が、血相を変えて駆け込んできた。
「ご報告! 教会軍本陣に、異変アリ! 内部から崩壊した化け物たちが、味方であるはずの白き獣に襲い掛かり…そして今、その大群が、レア元大司教が逃げ込んだ本陣の方角へ向かって、一斉に突撃を開始したとの報せです!」
その報告がカシアンの中で全ての点と点を一本の線で結びつけた。
自分とベレスのあの忌々しいレアと同じ、淡い緑色へと変わってしまった髪。化け物たちが求めていたのは、より神聖でより濃密な「女神の血」。そしてその血を持つ者は、今やこの戦場にいる自分とベレスも含まれる。
「…不味い…!」
カシアンは瞬時にそう理解した。
彼は最後の化け物を斬り伏せたベレスの手を有無を言わさず掴んだ。
「ベレス! 行くぞ! ここから離れる!」
その声には、いつもの冷静さはなく、明確な焦りが滲んでいた。
「え? どうしたの、カシアン。急に」
ベレスはカシアンのそのただならぬ様子に、戸惑いの表情を浮かべた。
「化け物が女神の血を求めています」カシアンは早口に的確に、自らの推測を告げた。
「絶対とは言えませんが化け物の群かレアが餌として私たちをも狙ってくる。ここに留まるのは危険すぎる。逃げる準備です!」
カシアンは近くにいた帝国兵に矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「動ける馬、いや飛竜を、数騎でいい! 大至急、ここに用意させろ! それからユーリスかバルタザールに伝えろ! 備蓄庫にある、私が『例のもの』を、全部急いで持ってこさせるんだ!」
兵士たちが慌ただしく駆け出していく。カシアンはその場で待つ間、自身の腰に下げていた水筒の水を、一気に飲み干した。そして何のためらいもなく、腰の短剣を抜き放つと、自らの左腕を、深々と切り裂いた。
「カシアン!?」ベレスが驚きの声を上げる。
カシアンはその痛みに顔一つ歪めることなく流れ出る自らの血を、空になった水筒の中へと、直接注ぎ込み始めた。
「…知ってますか、ベレス」
カシアンは血を流しながらまるで講義でもするかのように淡々としていた。
「7、800ミリリットル程度なら、たとえ失ったとしても、大人の人間は、そう簡単には死なないものなんですよ。…ええ、これも有効な『餌』になるはずです」
その瞳には新たな恐るべき策謀の光が宿っていた。ベレスはそのカシアンの狂気じみた彼らしい合理性に貫かれた行動に、ただ息を呑んで見つめることしかできなかった。
彼らの最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
タルティーン平原、北部に位置した教会軍の本陣。そこはもはや軍の拠点としての体をなしていなかった。阿鼻叫喚の宴が過ぎ去った後の、静かでおぞましいまでの沈黙。引き裂かれた白銀の旗、踏み潰された天幕、そして夥しい数の原型を留めぬ肉塊。
レアが自らの手で生み出した化け物たちと、そして彼女自身が互いを喰らい合い、そこに立っている生きものは、もはやただ一匹しか残っていなかった。
辛うじて難を逃れた一部の兵士は恐怖に駆られて戦場から逃げ出したが、多くの兵士は、その狂乱の渦の中でただただ無慈悲に踏みつぶされ、あるいは自らが信じた女神の成れの果てに食い荒らされた。
そしてその全ての死と絶望を喰らって新たに生まれた「それ」は、神話の時代のどの魔獣とも、あるいは歴史のどの書物にも記されていない、冒涜的なまでの異形の怪物だった。
白き竜の鱗とおぞましい獣の甲殻がまだらに融合した巨大な胴体。そこからは昆虫のようでもあり獣のようでもある、十本近くの歪な脚が大地を不気味に掴んでいる。背中からは意味もなく何本もの尻尾がまるで意思を持っているかのように、のたうち回っていた。
そして何よりも異様なのは、その胴体から生える五、六個もの頭部だった。ある頭は竜の威厳を辛うじて残し、ある頭は獣の狂気を宿し、またある頭は人の苦悶の表情を浮かべたまま、それぞれが異なる方向を向き異なるうめき声を上げていた。
それは紋章石を大量に取り込み、レアの体と化け物たちが女神と紋章石の影響で勝手に結合した末路だった。
その巨体を見ても元が化け物だったのか、レアだったのか、もはや誰にも区別がつかなかった。
ただ一つ確かなことがある。
その怪物の魂の奥底には、元の化け物たちが抱いていた、全てを喰らい尽くさんばかりの、巨大な飢餓感が渦を巻いて燃え盛っていた。
だがその狂乱の渇望のさらに奥深く。
その怪物の中心でレアの自我は辛うじて保たれていた。彼女は自らが何へと成り果てたのかを、そして自らが何をしたのかを明確に理解していた。そしてその理解は、彼女の魂を怒りと憎悪と、何よりも深い自己嫌悪で内側から焼き尽くしていた。
(私は…私は、何を…)
異形の怪物はゆっくりとその巨体を起こすと、破壊し尽くされた自らの本陣からよろめきながらも一歩踏み出した。
その時南から吹いてきた風が一体の頭部の鼻腔を微かにくすぐった。
それは香しい、あまりにも香しい香り。
かつて自分が持っていた、そして今、自分が最も渇望しているあの神聖なる「女神の血」の香りだった。
怪物の全ての頭部の瞳が一斉に南――帝国軍がいる方角――へと向けられた。
飢餓感が全ての思考を塗りつぶす。あの香りの元へ行けばこの渇きは満たされる。この欠落した魂は、再び完全なものとなれる。
そしてその香りの先にいるであろう二人の顔が、レアの憎悪に満ちた意識に鮮明に浮かび上がった。ベレス。そして何よりも元凶であるあの男。
怪物の五、六個ある全ての口が、まるで一つの意志を持ったかのように大きく大きく開かれた。レアの憎悪と化け物たちの飢餓は同じ結論を出したのだ。それぞれの口から異なる音階の同じ憎悪に満ちた絶叫が一つの名となってタルティーン平原全体へと響き渡った。
「「「「「カァシァァァァァンッッ!!!!!」」」」」
その絶叫を合図に巨大な異形の怪物は、その十本近い脚を不気味なまでに協調させて動かし始めた。大地を揺るがし瓦礫を踏み砕き、ただひたすらにあの香しい血の匂いがする方角へと一直線に、その破壊的な進軍を開始した。
フォドラの未来を賭けた最後の戦いは、今や、国の存亡を賭けた戦争などという、生易しいものではなくなった。
それは神を喰らった怪物が、自らの飢えを満たすためだけに全てを破壊し尽くそうとする、終末の始まりを告げる、絶望的な狩りへと、その姿を変えようとしていた。
タルティーン平原に一つのあまりにも巨大な絶望が、その歩みを進めていた。
教会軍の本陣があった場所からレアが成り果てた異形の怪物は、ただ一人帝国軍の陣営を目指してゆっくりと確実に前進を開始した。もはや彼女に付き従う者は誰もいない。彼女自身がその狂気と飢餓によって、自らの軍勢を喰らい尽くしてしまったのだから。だが今の彼女に軍勢など不要だった。彼女の目的はもはや戦争の勝利などではない。このフォドラを自らの手で一度、更地へと戻すこと。ただそれだけだった。
「敵、前進! 攻撃用意!」
帝国軍の陣営から指揮官の怒号が飛ぶ。その声に応え最前線に配置された弩台部隊と魔道部隊が一斉に火を噴いた。帝国が改良を重ねた巨大な鉄矢が、唸りを上げて怪物の巨体へと突き刺さり、色とりどりの攻撃魔法が、その歪な肉体を焼き凍らせ引き裂かんと炸裂する。
だが無意味だった。
矢はその分厚い鱗と甲殻に弾き返され、あるいは深々と突き刺さっても、その巨体を止めるには至らない。魔法は確かにその肉を焼くが、怪物は痛みを感じているそぶりすら見せず、炎を纏ったまま、その歩みを止めない。火力も物量もこの圧倒的な質量と生命力の前には、あまりにも無力だった。それはもはや足止めにすらなっていなかった。
やがて怪物はカシアンの策によって泥濘地と化していた、タルティーン平原を流れる川の一つに差し掛かった。そう考えたわけでもないだろう。ただ目の前に川があったから渡る。その程度の本能的な行動だった。怪物は泥水を派手に跳ね上げながら川を渡り始めた。かつての化け物たちであれば渡ることは不可能だったであろう、その深くぬかるんだ川。だが十本近い強靭な脚を持つ今の巨体ならば、もはやそれは障害ではなかった。
「「―――今です!」」
だがその瞬間をマリアンヌとアネットは待っていた。川岸の茂みに隠れ、共に潜んでいた数名の魔道士たちと共に、彼女らはその全ての魔力を、一点に集中させた。彼女らの持つ、英雄の遺産と氷の魔力が最大限に解放される。
彼女の号令一下、川の水が凄まじい速度で凍りついていった。怪物の足元から広がる氷は瞬く間にその巨大な脚を捉え、身動きを完全に封じ込める。
「グ…オ…?」
怪物のいくつかの頭部が初めて困惑したような声を上げた。その動きが少しだけ止まった。
だがその中心に宿るレアの自我はこの程度のことを障害とすら認識していなかった。
「……無駄なことを」
怪物の竜のそれに近い頭部の一つが、そう呟いた。そして次の瞬間。レアは自らの体が氷に囚われダメージを受けることも厭わずに、その巨大な口から灼熱の炎のブレスを、自らの足元…凍りついた川だった氷塊へと、容赦なく放ったのだ!
ゴオオオオオオッ!!
ジュウウウウウウウッ!!
炎が氷を溶かし、沸騰させ、凄まじい水蒸気が爆発的に立ち上る。同時にその熱は氷に囚われた怪物自身の脚をも焼き、おぞましい肉の焼ける匂いが戦場に広がった。
だが怪物はその苦痛に顔を歪めることもなく、ただ目的のためだけにその行動を遂行した。分厚い氷は内側からの超高熱によって瞬く間に溶け、あるいは砕け散り、レアは焼け爛れ、煙を上げる自らの脚を、氷の檻から力ずくで引き抜いた。
そして再び歩みを再開する。
帝国軍の兵士たちは、そのあまりにも常軌を逸した光景に言葉を失った。自らの体を焼いてでも、前進を止めない。あれはもはや生物ではない。ただ破壊のためだけに動く、災害そのものだ。
タルティーン平原はもはや人の手による戦争の舞台ではなかった。そこは一体の、そしてあまりにも巨大な怪物が、ただ自らの目的のためだけに、全てを蹂躙し破壊し尽くす、終末の光景そのものだった。
そして彼女の前に新たな「餌」が現れた。
先の戦いで暴走し同士討ちを繰り広げていた化け物たちの中で、白き獣の血肉を喰らい、その力の一端を取り込んだ者たち。彼らは目の前に現れた、より濃密でより神聖な「女神の血」の香りに、その狂った本能を完全に支配された。彼らは帝国軍に協力したわけではない。ただその根源的な飢えに、忠実だっただけだ。
「グオオオオッ!」
数匹の化け物が我先にとレア(化け物)へと襲いかかり、その焼け爛れた脚に、鋭い牙を突き立てた。
だがレアはその攻撃に怯まなかった。むしろその瞳のいくつかの頭部に宿る理性の光が歓喜に歪んだ。
「…そうか。貴様らも喰われたいか。ならばくれてやる」
レアは自らに噛みつく化け物の首筋に今度は自らの牙を深々と突き立て、その肉を魂を喰らい返した。
恐怖に歪む帝国軍の兵士たちの目の前で、怪物同士が互いを喰らい合うという地獄の共食いが始まったのだ。
その常軌を逸した光景の中、ローレンツが貴族としての誇りを振り絞るように叫んだ。
「あの化け物が、仲間に気を取られている今こそ、奴の動きを止めるのだ! ラファエル殿、私に続け!」
「おう!」
ローレンツとラファエルはそれぞれの手勢を率いて怪物たちの共食いの輪へと、決死の覚悟で突撃した。彼らの狙いは怪物の巨体を支える、あの焼け爛れた脚。槍が突き立てられ、斧が叩きつけられ、怪物の脚から、さらに夥しい量の血が流れ出す。
だがレアは気にしなかった。彼女はローレンツたちの攻撃による痛みすらも、自らの糧とするかのように、目の前の化け物を次から次へと喰らい殺し尽くしていった。
そして最後の化け物を喰らい終えた時、彼女の体には更なる変化が訪れていた。喰らった化け物たちが持っていた、無数の紋章石の塊と、そしてごく僅かな女神の血。それらが彼女の体内で融合し暴走を始める。
(足りぬ…まだ足りぬ…!)
飢餓感は満たされるどころか、更に、更に、強く、彼女の魂を苛んでいた。
また紋章石が増えすぎた影響か、彼女の体に何本も生えていた尾の一本が、ぴくりとも動かなくなっていることにレアは気づいた。それは力の過剰摂取による、肉体の拒絶反応だった。
邪魔だ。
そう理解するとレアは自らの竜の頭部の一つを、その動かなくなった尾の付け根へと向けた。そして何のためらいもなくその尾を、自らの口で力任せに引きちぎったのだ。
ブチッ!という鈍い音と共に、巨体の一部が切り離され、大地へと落下する。
そのあまりにも凄惨で自己破壊的ですらある光景をローレンツもラファエルも、そして全ての帝国兵が、ただ呆然と見つめるしかなかった。
レア(化け物)は自ら引きちぎった尾の傷口から、血をだらだらと流しながらも、全く意に介する様子もなく、再び前進を再開した。
その瞳はもはやローレンツやラファエルなど映してはいない。ただひたすらに、あの香しい「女神の血」の香りがする方角――カシアンとベレスがいるであろう、帝国軍の本陣だけを、見据えていた。
それでも必死に戦っていたローレンツやラファエルを、まるで道端の小石でも蹴飛ばすかのように置き去りにして、怪物はその絶望的な進軍を続けていく。