道徳以外を教えます   作:マウスブン

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教育

帝国軍との激しい戦闘、自らが作り出した化け物たちとの共食いという地獄、何回かの空爆でのダメージを経てレアの巨体は、その代償として数本の脚と、のたうち回っていた尾の何本かを失っていた。だがその歩みは止まらない。彼女の魂を焦がす根源的な飢餓感。それを満たす「女神の血」の香りを辿り彼女はついに帝国軍の本陣前までたどり着いた。

 

そこは先ほどまで彼女自身が、ベレスやエーデルガルトと死闘を繰り広げていた場所だった。大地には自らの流した金色の血がまだ生々しく散乱している。

(…勿体ない)

怪物の頭部の一つがそう思考した。己の神聖なる血が、こうして無為に大地に吸われるなどあってはならない。彼女はその血が染み込んだ地面ごと巨大な顎で貪るように食べ始めた。

 

だがその土を喰らった瞬間レアの複数の意識が嫌悪と怒りに染まった。土の中に何かが混じっている。かつての同胞たちの亡骸のなれの果て、紋章石の塊だ。

(…これは毒だ…!)

それらは今の彼女にとってこの飢餓感を増幅させるだけの紋章石は、もはやご馳走の上にまかれた毒に等しい。

「貴様らァッ!!」

怪物のいくつかの口が周囲で警戒態勢を取る帝国軍の兵士たちに向かって、意味のない怒りの咆哮を上げた。

 

だがその怒りとは裏腹に怪物のより獣に近い他の頭部はその行動を止めなかった。地面に散らばる紋章石も構わず、ただ本能のままに女神の血が染みた土を食べ続ける。

「止めないか、この愚か者めが!」

レアの理性を保つ頭部が自らの体の一部であるはずの他の頭部へと命令するが、もはやその統率は完全には取れていない。飢餓感という絶対的な欲求が、彼女の理性を上回っていた。

 

大方の血と紋章の石を食べ終えてしまった、その時だった。本陣の奥深くから自分とは異なる、そして抗いがたいほどに香しい「女神の血」の匂いが、風に乗って漂ってきた。

(…あちらか!)

怪物の全ての頭部の意識が、一斉にそちらへと向いた。そして本陣の奥深くへと、その巨体で突き進んでいく。バリケードをなぎ倒し天幕を踏み潰し、ただひたすらに匂いの元へと。

 

やがて彼女は匂いの源泉らしき場所にたどり着いた。そこにカシアン本人の姿はなかった。だが地面にばらまかれた血から、女神の血の香りが強く放たれている。そしてその周囲には黒く鼻を突くような異臭を放つ水たまりが大量に置かれていた。

怪物は理解よりも本能に従った。ただ女神の血を、その周辺にあるものを、手当たり次第丸ごと何度も、その巨大な顎で飲み込んでいった。

だが今度のご馳走には、あの忌まわしい紋章石は混じっていなかった。その事実にレアは安堵し少し満足した。

 

「―――そこまでよ、レア」

 

その安堵の隙を突くように。

凛とした皇帝としての揺るぎない威厳を込めた声が響き渡った。

怪物が顔を上げるとその少し離れた場所に、一人の女帝が静かに微動だにせず立ちはだかっていた。

アドラステア帝国をその双肩に担うエーデルガルト。

彼女の瞳には恐怖も憐憫もなかった。ただフォドラの未来のために、目の前の「災厄」を自らの手で討ち滅ぼすという、鋼のような決意だけが静かに燃えていた。

 

 

 

 

 

エーデルガルトの声は氷のように冷たく絶対的な勝利を確信した者の響きを持っていた。彼女はアイムールを静かに構え、目の前で最後の「食事」を終え、そのおぞましい巨体をこちらへ向けようとする異形の怪物――レアの成れの果て――を、ただ真っ直ぐに見据えていた。

 

「…無様なものね。かつてフォドラの全てをその手に支配した者が、今や自らの作り出した化け物と混ざり、その果てにこのような醜悪な姿に成り果てるとは」

 

怪物の竜に近い頭部の一つが、憎悪に満ちた唸り声を上げた。

「黙れ、裏切り者め…!私の作った秩序や安寧を崩壊させたのは貴様らではないか」

 

「秩序ですって? あなたが長年かけて築き上げたのは、人々を無知の中に閉じ込め紋章という名の呪縛で縛り付けるだけの歪んだ支配に過ぎないわ。その偽りの楽園は、フォドラの失われたこの1000年は今日ここで完全に終わりを告げるのよ」

 

「貴様ら人間がお母さまを奪ったのであろうがぁぁぁ!!」

レアはもはや言葉での問答を不要と判断した。彼女の六つの頭部全てがその巨大な顎を大きく開き、エーデルガルトをそしてその後方に控える帝国軍の全てを、その神聖なる炎のブレスで、根こそぎ焼き尽くさんと、膨大な魔力を練り上げ始めた。

 

だがその魔力が頂点に達し、灼熱の炎が放たれる寸前。

「ぐっ…おぉっ!?」

レアの巨体の内側からまるで灼熱の鉄でも押し付けられたかのような、凄まじい激痛と熱が爆発的に発生したのだ。炎を吐くどころではなくなってしまう。

彼女の複数の口から炎ではなく、黒い煙と言葉にならない苦悶の呻きが漏れ出した。

 

炎を吐くのを止めても内側からの燃えるような痛みは一向に収まる気配を見せない。それどころかますますその熱を増し、彼女の存在そのものを内側からじわじわと焼き尽くしていく。

 

「がぁ…な、なんだ…これは…。何を食わせた、貴様…!」

レアはその体の中からの未知の苦痛に生まれて初めて、本能的な恐怖を感じながら叫び悶えた。

 

エーデルガルトはその苦しみ悶える怪物の姿を冷徹に、どこか憐れむように見下ろしながら、はっきりとその答えを告げた。

「―――石油よ。あなたが過去にその手で禁止した技術の一つ」

 

エーデルガルトの声には確かな勝利の響きが込められていた。

「先ほどあなたが喰らったあの黒く異臭を放つ水。カシアン卿がこの日のために用意していた最後の『贈り物』。彼は少し前にあなたか化け物集団が女神の血の匂いに釣られて見境なく周囲のものを喰らうであろうことを見抜いたのよ」

 

エーデルガルトは一歩前に進み出た。

「私が見た石油の実験では、ほんの少量でも相当な時間燃え続けていたわ。あなたのその巨体に入った量だと…一体いつまで燃え続けるのかしらね?」

その言葉はまるで冷徹な科学者が実験動物の最期を観察するかのような、無慈悲な宣告だった。

 

「おのれ…おのれ、カシアン…!あの、悪魔め…!」

レアは怒りながらも体内で燃え盛る炎のダメージに悲鳴を上げた。内側から燃え盛る炎は彼女の神聖な力をもってしても、もはや消すことはできない。肉体が魂が、ゆっくりと確実に灰へと変わっていく。

 

(水…!そうだ、川の水だ!)

その絶望的な苦痛の中でレアの本能が唯一の活路を叫んだ。彼女はその巨体を苦痛にのたうち回らせながらも強引に反転させると、先ほど自らが渡ってきたあの川の方角へと来た道を戻ろうとし始めた。

 

エーデルガルトはその逃走しようとする怪物の姿を冷ややかに見据えた。そして背後に控える全軍に向かって皇帝としての、最後の最も力強い命令を下した。

 

「全軍、追撃!あの化け物にとどめを刺しなさい!」

 

「「「オオオオオオッッ!!」」」

皇帝のその号令に、帝国軍の兵士たちから地鳴りのような、そして勝利を確信した鬨の声が上がる。彼らは槍を構え剣を抜き放ち傷つき内側から燃え盛る巨大な怪物へと最後の追撃を開始した。

千年の長きに渡りフォドラを支配してきた女神の代行者の、あまりにも惨めで絶望的な最後の逃走劇が始まった。

 

 

 

 

タルティーン平原の戦いは、もはや一方的な蹂躙へとその姿を変えていた。

その光景をカシアンは、ベレスと共に乗る飛竜の背の上から静かに見下ろしていた。彼は飛竜を操るベレスの背後から、その体を優しく抱きしめ眼下で繰り広げられる、自らが仕掛けた罠の最終段階を冷徹なまでの観察眼で見つめていた。高度を保っているためか、あるいは地上の混乱と血の匂いに狂ったか、竜の鼻も空にいる彼らの存在までは気づかなかったらしい。

 

「グオオオオオオッ!」

内側から燃え盛る炎の苦痛にレアは絶叫を上げながら本能的に川の水を目指して、来た道を引き返そうとしていた。だがその退路は帝国軍によって完全に断たれていた。

 

「全バリスタ隊、放て!」「投石機、狙いは奴の頭部だ!」「魔道部隊、足を狙え! これ以上、一歩たりとも前には進ませるな!」

フェルディナンドとヒューベルトの的確な指揮のもと帝国軍の総攻撃が逃走する怪物へと集中する。巨大な鉄矢がその焼け爛れた肉体に深々と突き刺さり投石機から放たれる巨岩がその複数の頭部の一つを砕く。

 

コンスタンツェやリンハルト、ドロテアといった魔道に長けた者たちが中心となり、魔法攻撃をそのボロボロになった脚へと集中させ行動を鈍らせていく。

 

空からはクロードやイングリットらが、そしてベルナデッタやイグナーツは弓矢を放ちレアの急所へと攻撃を加えて動けなくする。

 

ユーリスらがレアが戻ろうとする川への道筋に爆弾を次々と並べ、起爆の準備を整えている。

 

川はリシテアやマリアンヌが既に上流も下流も凍らせている。レアが川へ行くための道には近くにあった岩や瓦礫などをカスパルやレオニーが並べている。

 

四方八方からの激しい攻撃が、怪物の巨体を何度も何度も打ち据える。

 

レアはどんどんボロボロになっていき、その動きは明らかに鈍くなってきている。もはや彼女の命運が尽きるのは、時間の問題だった。

 

カシアンはその地獄絵図のような光景を飛竜の上から静かに眺めながら、ぽつり、と、どこかしみじみとした口調で呟いた。

「…酷い戦いですが…みんな、本当に成長しましたね」

 

その言葉には彼にしては珍しく純粋な感嘆と、そして教師としての喜びのようなものが滲んでいた。

カシアンがこの最終決戦のために帝国軍に与えた策は時間がなかったため、ただ一つ。『女神の血を餌に石油を飲ませ、内側から焼き尽くす』という、悪魔的な奇策のみ。

だが今、眼下で帝国軍が展開している、バリスタによる集中攻撃、進路を予測した上での爆弾の設置、そして弱点である脚や急所への攻撃の徹底といったこの組織的であまりにも効率的な追撃戦術は彼が直接指示したものではなかった。それらは全てエーデルガルトやヒューベルト、そしてかつて彼が教鞭を執った元生徒たちが自らで考え実行したものだったのだ。カシアンは自身かベレスの血液で再び罠を用意する準備を考えていたが、必要が無さそうだ。

 

「教育者として最も輝かしく喜ばしいことの一つは生徒たちがその教えをただなぞるのではなく、自らの力で発展させ、そしていつの日か教えた師の想像すら超えていく。その瞬間に立ち会えた時でしょう。教会の方には理解してもらえませんでしたが…ええ実に、実に、素晴らしい。」

カシアンは確かな実感を込めて続けた。

 

彼のその言葉にベレスは飛竜の手綱を握りしめたまま静かに力強く頷いた。

「……うん。私も、そう思う」

彼女の声は穏やかだったが、その奥にはカシアンへの深い共感とそして彼への愛情が込められていた。

 

「彼らはあなたの戦い方を学んだ。でもそれだけじゃない」

ベレスはカシアンの肩に、そっと自分の頭を預けた。

「彼らはあなたのそのやり方と、自分たちが守りたいもの…エーデルガルトの理想や、王国の仲間たちの想い、同盟の未来…そういうものを自分たちの中で融合させて、そして自分たちだけの戦い方を見つけ出したんだと思う。それはあなたが、ただの戦術だけじゃなくて生き抜くための『考え方』そのものを、彼らに教えたからだよ」

 

そしてベレスはカシアンの顔を覗き込むように、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。

「…それは私も同じ。あなたと出会って私も変わった。ただ戦うだけじゃなくて考えて、未来を選び取ることの大切さを知った。そして何よりも…」

彼女はカシアンの胸にその顔をうずめた。

「…あなたというかけがえのない、守りたいものができた。だから私も強くなれたんだよ」

 

ベレスのその言葉はカシアンの心の奥深く彼自身も気づいていなかった、最も柔らかい場所へと、温かく、そして静かに染み渡っていった。

(…そうか。私が、彼女に教えていたようで…本当に、多くのことを教えられていたのは、私の方だったのかもしれないな)

カシアンは初めて心の底からそう思った。

 

彼はベレスの緑色の髪を優しく、そして愛おしそうに撫でた。眼下ではレアの最後の断末魔の叫びが平原に虚しく響き渡り静寂が訪れようとしていた。

フォドラの長かった戦いの歴史が、今まさに終わった。

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