タルティーン平原での死闘が終結しフォドラ全土を覆っていた戦乱の嵐がようやく過ぎ去ってから数週間が経過した。アイスナー領の領主の館、その一番大きな執務室では、ベレスが一人山と積まれた戦後処理の書類に、黙々と目を通していた。
彼女の領主としての仕事ぶりは実に的確で見事なものだった。戦時中から彼女はカシアンがどのような考えでこの領地を運営しどのような未来を描いていたのかを、誰よりも近くで見て理解していた。彼の残した緻密な計画書とベレス自身の持つ驚異的なまでの能力、そして何よりも人々を惹きつけ、その心を一つにまとめる天性のカリスマ性はこの疲弊した領地の復興を驚くべき速さで軌道に乗せていた。
領民たちからの評判もすこぶる良かった。彼らはベレスのその穏やかで人間味あふれる統治を心から歓迎していた。
「ベレス様なら、カシアン様みてえに戦争中に、いきなり『合理的』とか言って家の壁をひっぺがして兵器の材料にしたりしねえから安心だ」
「ええ、本当に。収穫した作物を見て、『これは素晴らしいタンパク源だ』なんて分析するんじゃなくて『美味しそうね』って、にこやかに笑ってくださるもの」
「カシアン様も根は悪いお方じゃねえんだろうが…ちいとばかし、イカれたことをなさるからなあ。その点ベレス様は、我々と同じ心を持った優しいお方だ」
彼らはベレスの中に失われた平穏な日常と人間らしい温かさを見出し彼女を新たな領主として、心から慕っていた。領民から見ればカシアンなんて台風などと変わらない。
その日の全ての執務を終え窓の外が夕暮れの茜色に染まり始めた頃。ベレスは侍女が用意してくれた簡素だが温かい食事の乗った盆を手に取ると、一人、執務室の奥にある隠し扉を開け地下深くへと続く螺旋階段を慣れた足取りで降りていった。
ひんやりとした空気が彼女の肌を優しく撫でる。辿り着いたのはカシアンが聖域としていた秘密の酒蔵。そしてそのさらに奥深く外界の光も音も届かない、最も静かな一室。
部屋の中央にはガルグ=マクの石工が、カシアンの指示でくり抜いたという、滑らかな岩肌を持つ石の棺が静かに安置されていた。そしてその中でカシアンはまるで長い旅の疲れを癒すかのように穏やかな表情で、深い、深い眠りについていた。
先の最終決戦でレアを討ち滅ぼすための最後の罠として、彼は自らの血を大量に抜き、それを餌として使った。女神の血の影響をその身に宿していた彼にとって、その代償はそれなりに高かった。彼の体はその力の大きな揺らぎに耐えきれずベレスがかつてそうであったように、長い休息を必要としていたのだ。
ベレスはカシアンが眠る石の棺の傍らに置かれた椅子に音もなく腰を下ろした。
「カシアン、ただいま。今日の仕事も、全部終わったよ」
彼女は眠り続ける彼に、優しく、いつものように語りかける。
「今日は西の畑の収穫がすごく良かったんだ。皆、とても喜んでた。あなたの計画通り、新しい水路を作ったおかげだね。ありがとう」
ベレスは持ってきた食事をゆっくりとどこか楽しそうに食べ始めた。その傍らにはカシアンが最も大切にしていたであろう、年代物の極めて高価な葡萄酒の瓶が置かれている。彼女は慣れた手つきでコルクを抜くとその芳醇な香りを楽しみながら、一人、グラスにそれを注いだ。
「ユーリスがあなたの悪口を言ってたよ。『あの旦那がいない方が、領地は平和なんじゃないか』なんて。でも本当は皆あなたのことを心配してる。早く起きてまた無茶なことを言い出すのを、どこかで待ってるんだ」
彼女はくすくすと笑いながらカシアンの秘蔵酒を一口、味わった。その芳醇で複雑な味わいは彼の魂そのものに触れているかのようで、ベレスの心を温かく満たした。
だが彼女の語りかけに返事はない。ただ彼の穏やかな寝息と蝋燭の炎が静かに揺れる音だけが、部屋に響いていた。
ベレスは飲み干したグラスを静かに置くと、ふぅ、と一つ、小さなため息をついた。
「……返事、ないや」
その声には隠しきれない寂しさが滲んでいた。
(…私が眠っていた間、カシアンも、ずっとこんな気持ちだったのかな)
彼が一人でどれほどの孤独とどれほどの不安を抱えながら、自分を待ち続けてくれていたのか。その想いの深さと重さを彼女は今、自らの体験として痛いほどに理解していた。
そしてベレスはふと何かを決意したように静かに立ち上がった。彼女は部屋の入り口に視線を送り誰もいないことを確認する。そしてカシアンの眠る石の棺の縁にそっと腰を下ろした。
彼女はカシアンの穏やかな寝顔を愛おしそうに慈しむように見つめた。そして何のためらいもなく自らの唇の端を、小さく、しかし確かな強さで、くい、と噛み切った。ぷくりと真紅の血の玉が滲み出る。
ベレスはその血が滴り落ちるのも構わずゆっくりとカシアンの顔に自分の顔を近づけた。そして彼の冷たい唇に自分の温かい唇を、そっと、深く重ね合わせた。
彼女の中に今も息づく女神の力が込められた聖なる血がカシアンの口の中へと、ゆっくりと、そして確かに流れ込んでいく。
それは彼が彼女のためにしてくれたことへのささやかな、何よりも深い愛情が込められた返礼の口づけだった。
(早く、良くなりますように)
(そして、早く、目を覚まして)
(…カシアン、あなたの声が、聞きたいから)
ベレスは心の奥底でそう強く強く願いながら、眠り続ける愛しい人の唇に、自らの全てを、そして未来への祈りを静かに注ぎ込み続けるのだった。
月明かりが地下の小部屋のその神聖で、そしてあまりにも人間的な愛の光景を誰にも知られることなく、ただ優しく照らし出していた。
帝都アンヴァルに構えられた皇帝執務室。その広大な机の上にはフォドラ全土から寄せられる戦後復興の報告書や、新たな統治体制に関する法令案が、山のように積まれていた。エーデルガルトは皇帝として、その一つ一つに目を通し、決断を下していく。その傍らには、常に影のように寄り添う宰相ヒューベルトが膨大な情報を整理し、主君の判断を補佐していた。
フォドラを覆っていた戦乱の嵐は確かに止んだ。だが戦いが終わったからといって平和な日常がすぐに訪れるわけではない。むしろ戦後処理という地味で何よりも困難な新たな戦いが始まっていた。
「…以上で、旧王国領の食糧支援に関する第一次計画は完了です。次は旧同盟領の貴族たちの処遇についてですが…」
ヒューベルトが抑揚のない声で次の議題を切り出そうとした時、エーデルガルトは、ふっと息をつきペンを置いた。
「ええ、分かっているわ。ですがヒューベルト、それより厄介な問題が…」
彼女の紫水晶の瞳には深い疲労と、それ以上に厄介な問題を前にした、純粋な悩みの色が浮かんでいた。
「一つだけ、どうしても頭を悩ませる課題があるのよ」
ヒューベルトは主君のその言葉に静かに頷いた。彼もまたその「課題」の存在を、重々しく認識していた。
「…先日の、対教会・王国戦における、戦功報告の件ですな」
「ええ、そうよ」エーデルガルトはこめかみを押さえた。
「最終的な集計が出たと聞いたわ。…それで、筆頭は?」
ヒューベルトは、手にした報告書を、感情を殺した声で読み上げた。
「はっ。各部隊の損害、討ち取った敵将の数、そして戦局への貢献度を総合的に判断した結果…戦功第一位は、カシアン=アイスナー卿、と相成りました」
「…でしょうね」
エーデルガルトはもはや驚きもしなかった。あのタルティーン平原での常軌を逸した策略の数々。レアを内側から焼き尽くした石油の罠、狂った化け物をさらに狂わせた紋章の矢、そして何よりも敵の奇襲部隊を完全に予測し、それを逆用して壊滅させた地下迷宮の罠。そのどれもが彼の頭脳なくしてはあり得なかった。
「それでヒューベルト。問題は、その報酬よ」
エーデルガルトは、再び深いため息をついた。
「もちろん戦功第一位の者には、帝国の法と慣習に従い、それにふさわしい名誉と地位を与えるのが、皇帝としての務め。通常であれば、公爵の位と広大な領地を与えて然るべきでしょう。…そして対同盟戦でのベレス先生の戦功一位の件も合わせて褒美を与えないといけない。」
「左様でございましょうな」ヒューベルトも同意する。
「ですが、考えてもみて」エーデルガルトは、頭を抱えた。
「あの二人、特にカシアン卿が、公爵の地位などというものを心から喜ぶと、あなた本気で思う?」
「…万に一つも、あり得ますまい。むしろ非合理的で面倒な儀礼が増えるだけだと、心底迷惑そうな顔をするのが目に見えております」
「そうでしょう!?」エーデルガルトは、思わず声を荒げた。
「あの男は、間違いなく、貴族の付き合いなどというものが、フォドラで最も下手な人間の一人よ! 晩餐会に招待すれば料理の成分を分析し始め、舞踏会に呼べば人々の動きを力学的に考察する。下手をすれば他の貴族を捕まえて『紋章の遺伝的欠陥について、語り明かそうではないか』などととんでもない問題を起こしかねないわ!」
エーデルガルトのその想像にヒューベルトですら、わずかに顔を引きつらせた。その光景はあまりにも容易に鮮明に想像できてしまった。
「ですが、陛下」ヒューベルトは冷静に現実を指摘する。
「その一方でこれほどの戦功を挙げた者に対し、帝室が相応の報奨を与えなければ、他の将兵や、帝国に与した貴族たちに、大きな失望を与えることになります。陛下の威信に関わる問題です」
「分かっているわ、そんなことは…!」
エーデルガルトは再び椅子に深くもたれかかり呻いた。与えれば、必ずや問題を起こす。与えなければ皇帝としての威信が揺らぐ。まさに八方塞がり。
「ああ…困ったものね…」
彼女は窓の外の青空をどこか恨めしげに見上げた。
「…まあ、カシアン卿が、あの最終決戦の後しばらくの眠りについてくれた事が、不幸中の幸い、というべきかしらね。おかげでこの頭の痛い問題を、少しだけ先延ばしにできているのだから」
その言葉には気遣いと為政者としての冷徹な計算が、複雑に同居していた。
だがそのつかの間の安堵も長くは続かない。ヒューベルトが、新たな報告書を静かに、彼女の前に差し出した。
「陛下。アイスナー領のユーリス殿から、先程届いた定期連絡です。…ベレス殿の実に『献身的』な看病の甲斐もあり、カシアン卿の回復は進んでいる、と。大きな怪我でもないので、おそらく後一か月もすれば起きるかと予測します。」
「……そう」
エーデルガルトは、その報告書から目を離せないまま短く力なく応じた。
タイムリミットは刻一刻と迫っている。カシアンという帝国最大の功労者にして最大の問題児への「報酬」という、この国で最も厄介な難問の答えを彼女は彼が目覚める前に、見つけ出さねばならなかった。
執務室には皇帝の深くて重い終わりなきため息だけが静かに響き渡っていた。
なおカシアンは一人の望みにより、数週間後に無事目を覚ますことになる。帝国の平穏は短い。
次話は明日。