カシアンがベレスの献身的な看病の末、長い眠りから目覚めてから一ヶ月が経過した。帝都アンヴァルではフォドラ全土を巻き込んだ長きに渡る戦争の終結を祝う式典と、それに続く論功行賞が、数日間に渡り盛大に執り行われていた。
そして最終日、皇帝エーデルガルトが臨席する大広間は、帝国の未来を担う貴族や将軍たちで埋め尽くされ誰もが固唾を飲んで、この戦争最大の功労者への褒賞の発表を待っていた。
「―――以上をもち各部隊への表彰を終える。最後に同盟との戦いと教会の戦いにおいて最大の戦功を挙げフォドラに真の夜明けをもたらした者への、特別な褒賞を私自ら発表する」
玉座から立ち上がったエーデルガルトの声が、静まり返った広間に響き渡った。
誰もがその名が誰であるかを知っていた。カシアン=アイスナー。その悪魔的な知略でレアの狂信の軍勢を打ち破り、帝国の勝利を決定づけた、あの異端の英雄。彼には公爵の位とフォドラで最も豊かと言われる領地が与えられるだろうと誰もが噂していた。
だがエーデルガルトの口から告げられた言葉は、彼らの予想を良い意味で裏切るものだった。
「戦功第一位、カシアン=アイスナー、及び、その妻ベレス=アイスナーの両名に、アドラステア帝国は、ガルグ=マク大修道院、及びその周辺一帯の土地の、完全なる統治権を与えるものとする!」
その瞬間広間は大きな困惑に満ちたどよめきに包まれた。
「ガルグ=マクだと?」「確かに重要な拠点だが、褒賞としては、あまりにも…」「戦功一位の成果としては、少なすぎるのではないか…?」
貴族たちの間からそんな囁き声が漏れ始めた。
しかしエーデルガルトはそのざわめきを片手を軽く上げて制した。
「静粛に。私の言葉は、まだ終わってはいない」
彼女は広間の隅で、いつもと変わらぬ頭巾を目深にかぶり、ベレスの隣で静かに佇んでいるカシアンを真っ直ぐに見据えた。
「カシアン卿、ベレス殿。あなた方には土地だけを与えるのではない。かつてセイロス聖教会が、その歪んだ教えで人々を縛り付けた、あの大修道院の地に、あなた方自身の理想とする全く新しい『学校』を自由に創設する権利を与える!」
エーデルガルトの声に力がこもる。
「そのための補助金は帝国が、十二分に用意することを約束しよう。そして何よりもこのアドラステア帝国とフォドラ全土における、未来の『教育』の一端を、正式にあなた方に授けます!」
そのあまりにも異例の褒賞に、今度こそ広間は先程とは比較にならないほどの驚愕と、そして理解を超えた事態への騒めきに包まれた。
「教育、だと…?」「あの『悪魔』に、帝国の教育を?」「陛下は、ご正気か…?」
そんな騒動の中、ハンネマンは既に卒倒して介抱されている。
だがエーデルガルトはその混乱すらも計算のうちとでも言うように、満足げな笑みを浮かべていた。
カシアンとベレスはその褒章を静かに恭しく受け取った。
その夜。帝都の喧騒から離れた静かな宿屋の一室。
カシアンとベレスは、暖炉の前に置かれたソファに並んで腰掛け、今日の出来事について、ゆっくりと話し合っていた。
「…やれやれ。あそこで公爵の位などというものを貰っても、貴族としてのマストの仕事や、面倒な付き合いが増えるだけで、邪魔ですからね。エーデルガルト陛下も、なかなか気の利いたことをしてくれたものです」
カシアンは心底ほっとしたように、そしてどこか楽しそうに言った。彼にとって名誉や地位など、自らの合理的な生活を阻害する足枷でしかなかった。
「それでカシアン。新しい学校のことだけど」
ベレスがカシアンの肩にそっと頭を預けながら、尋ねた。
「あなたは、どんな場所にしたい?」
カシアンは暖炉の炎を見つめながら、その瞳に未来への確かな光を宿らせて語り始めた。
「そうですね。まずは私が持つ『技術』を惜しみなく教えようと思います。紋章の有無に関わらず、誰もが学べる工学、医学、そして天文学。人々が自らの知恵と力でこの世界を豊かにしていくための、実践的な知識です。レアが長年封印してきた、本当の意味での『力』を、次の世代の者たちに、私は伝えたい」
そのカシアンの言葉にベレスは静かに頷いた。そして彼女自身の何よりも大切な想いを、カシアンに語りかけた。
「うん、それはとても素晴らしいことだと思う。でもねカシアン。私はそれだけじゃない場所にしたい」
ベレスの声は穏やかだったが、その奥には、この長い戦いを生き抜いた彼女だからこその、深い祈りが込められていた。
「帝国も、王国も、同盟も関係なく、様々な場所から来た者たちが、お互いの国の文化や、人々の暮らし、そして何よりも、人の心の痛みを、共に学び、分かち合えるような、そんな場所にしたい。…もう二度と、私たちが経験したような、悲しい戦いが起こらないように」
カシアンはベレスのその緑の瞳の奥に、かつて自分を救ってくれた、あの温かい光を見たような気がした。彼はベレスの手を優しく、そして強く握り返した。
「…ええ、そうですね、ベレス。その通りだ」
彼の声には深い納得と彼女への揺るぎない愛情が満ちていた。
「ならば、その『人の心』を教えるのは、貴女の役目です。…かつてこのどうしようもないほどに捻くれて、人の心を理解できなかった私に、辛抱強く、そして優しく、その温かさを教えてくれたように。今度は、新しい生徒たちにも、教えてあげてください。…ベレス先生」
カシアンのその言葉にベレスは、世界で一番幸せな生徒のように、最高の笑顔で、力強く頷き返すのだった。
フォドラの未来を照らす新たな学び舎の鐘の音が二人の心の中には、もう確かに聞こえ始めていた。
その日の夜。
カシアンが山積みの書類整理を終えようやく一息つこうと食堂へと向かうと、そこには彼のためだけに用意された豪勢な、しかしどこか異様な雰囲気を放つ晩餐が待っていた。
テーブルの中央にはぐつぐつと音を立てる滋養に富んだすっぽんの鍋。その隣には香ばしい匂いを漂わせる肉厚なうなぎの蒲焼き。そしてとろりとした粘り気が見るからに精の付きそうな山芋のすりおろし。
カシアンはその完璧なまでに精の付く料理のラインナップを目の当たりにし顔をひきつらせた。そしてその料理をにこやかな、しかしその瞳の奥は全く笑っていない表情で運んできた愛する妻の顔を見つめた。
「……ベレス。これは、一体どういうことなんだ…?」
彼の声は震えていた。
ベレスはカシアンの向かいの席に優雅に腰を下ろすとまるで当然のことのように、きっぱりと言い放った。
「今までは戦争中だから、子供ができることは避けていたでしょう。でももう終わったから今夜からは頑張ろうと思って」
その論理はある種正しいがあまりにも直接的で反論の余地がなかった。
「そ、そういうことは、もう少しゆっくりと、時間を置いてだな…!」
カシアンはしどろもどろに反論しようとしたがベレスの次の言葉が、彼の全ての逃げ道を完全に塞いだ。
「いいの?」
ベレスはその頬を夕焼けのように真っ赤に染めながらも、その瞳には確かな決意を宿して言った。
「いつもの服、神祖の服、訓練服、従者の服…。それから、新しいタイツも、ちゃんと準備済みだよ?」
「……」
カシアンは完全に言葉を失った。いつの間にそんな周到な準備を…。彼の頭脳はベレスのそのあまりにも大胆で計画的すぎる行動に完全に処理能力の限界を超えていた。
ベレスはそんなカシアンに小首をこてんと傾げ、有無を言わせぬ、最後の一撃を放った。
「それでカシアン。…どうするの?」
カシアンは愛する妻のその真剣な眼差しとテーブルの上に並べられた滋養満点の料理、そして何よりも彼女が用意したという恐るべき「衣装」の数々を、数秒間、交互に考えた。そして観念したように、深くて長いため息を一つ。
彼は目の前のすっぽん鍋を確かな覚悟を込めて見つめると震える手で箸を取り、そして人生で最も重い響きを込めて言った。
「……いただきます」
その言葉を聞いたベレスは満足げに勝利を確信して力強く頷いた。
「―――うん」
その夜アイスナー領の領主の館にどのような歴史が刻まれたのか。それはカシアンとベレス、二人だけの大切な秘密となった。
後書き:おしまいです。90話、56万文字、長くなったもんだ。番外編は土曜日に投稿しますが、ストーリーとしては完結とします。長い間ありがとうございました。2026年の新作が楽しみです。
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