道徳以外を教えます   作:マウスブン

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生存者

戦乱の嵐がフォドラの空から去り数ヶ月が過ぎた。アイスナー領(旧カシアン領)の領主の館は、復興の槌音とアビスの者たちと領民たちの活気ある声に包まれ、新たな時代の確かな息吹を感じさせていた。

 

その日カシアンの執務室の重厚な扉を、一人の衛兵が緊張した面持ちで叩いた。

「カシアン様。旧ファーガス王国より、お客様がお見えです。イングリット様、メルセデス様、アネット様、アッシュ様、そして、フェリクス様が…」

 

衛兵が名を告げ終える前にカシアンは読んでいた羊皮紙から顔を上げた。その頭巾の下の瞳がわずかに細められる。懐かしい、そしてあまりにも重い名前の羅列。彼らが揃って一体何のために。

 

「…分かった。客間へお通ししろ。丁重にな」

カシアンの短い指示に衛兵は一礼して退出していった。カシアンは深いため息を一つ、静かに吐き出した。隣でカシアンの仕事を手伝っていたベレスが、心配そうに彼の顔を覗き込む。

 

「面倒なことにならなければ良いのですが」

カシアンはそう言って立ち上がるとベレスの肩を安心させるように軽く叩き客間へと向かった。

 

客間には5人の元青獅子の学級の生徒たちが硬い表情で座っていた。5年という歳月と過酷な戦争は彼らを学生から歴戦の戦士へと変えていた。しかしその瞳の奥には拭いきれない疲労と、何よりも故国と主君を失った深い喪失の色が暗い影のように宿っていた。

 

「皆さん、よくお越しくださいました。今日はどのようなご用件で?」

カシアンはあえてリラックスした体で彼らの前に静かに腰を下ろした。ベレスもまた彼の隣に音もなく座り、その緑の瞳でかつての教え子たちを悲しみと慈しみを込めて見つめていた。

 

沈黙を破ったのはフェリクスだった。彼はその鋭い瞳でカシアンを真っ直ぐに射抜き単刀直入に心の底からの問いをぶつけた。

「カシアン先生。俺たちは聞きたいことがあって来た。…なぜ、俺たちは負けた? なぜ王国は帝国に敗れたんだ?」

その声には怒りや憎しみというよりは、あまりにも大きな敗北という現実を前に、その理由をその真実を、どうしても知らなければならないという切実な響きが込められていた。

 

カシアンは彼らのその真剣な眼差しを受け止め、しばらくの間黙っていた。

(…面倒なことだ。だが彼らはその答えを得るまで、ここを動くつもりはないらしい)

カシアンは内心で舌打ちしつつも傍らに控えていた侍女に、静かに命じた。

「お客様方に、お茶と何か温かいものを。…長話になるからな」

 

やがて温かいハーブティーと焼きたてのパン、そしてチーズがテーブルに並べられる。だが誰もそれに手を付けようとはしなかった。ただカシアンの言葉を待っていた。

カシアンはカップを手に取ると、その湯気を見つめながら静かに、まるで過去の歴史を講義するかのように淡々と語り始めた。

 

「なぜ王国が敗北したか、ですか。…理由は、一つではありません。それは地理と歴史、そして何よりも『人』という複数の要因が複雑に絡み合った必然の結果だったと私は分析しています」

 

カシアンは立ち上がり、壁に掛けられたフォドラ全土の大きな地図を指し示した。

「まず地理と、それに根差した国力の問題です。ファーガス神聖王国はご存知の通り国土の北半分が厳しい寒さと積雪に見舞われる、決して豊かとは言えない土地です。農業生産力は低く、それはそのまま国力、特に長期戦を支える兵站能力の脆弱さに直結する」

「そして南に目を向ければ、アリアンロッドという強大な軍事拠点と西方教会。彼らは長年王家に対し半ば独立した、あるいは公然と反抗的な態度を取り続けてきた。つまり王国は常に北の貧しさと南の反乱分子という、二つの大きな爆弾を内側に抱えていたのです。これら全ての領地を合算できたとしても、元々広大で豊かな土地を持つ帝国との国力差は歴然としていました」

 

カシアンの言葉は冷徹なまでに客観的だった。イングリットは故郷ガラテアの貧しさを思い出し唇を噛みしめる。

 

「次に歴史と人の問題です」カシアンは続けた。

「王国はあの『ダスカーの悲劇』によってあまりにも多くのものを失いすぎた。王家だけでなく国政を担うべき有能な貴族、そして軍の中核を担うべき熟練の将軍たち…。その損失は国家の背骨を砕くに等しいものだった。ロドリグ殿のような経験豊かで忠義に篤い重臣がいたことは不幸中の幸いでした。ですが彼一人では、あまりにも荷が重すぎた」

カシアンは青獅子の若者たちへと視線を移した。

「あなた方が次代を担うべく必死に育ち立ち直ろうとしていた、まさにその最中にこの大戦は始まってしまった。あなた方は確かに個々の戦闘能力も高く、そして何よりもその身に宿す紋章の力は強大でした。ですがそれだけでは戦争には勝てない。兵を動かし補給を管理し敵の策を見抜き、そして時には非情な決断を下す…そういった泥臭く実戦的な『戦争の経験』があなた方には、そして王国全体に決定的に不足していた。…それにしてはあなた方は本当によく戦った方だと思いますよ」

その言葉は彼にしては珍しい素直な労いの響きを持っていた。アッシュやアネットは、その言葉にわずかに俯いた。

 

そしてカシアンは最後の、そして最も核心的な問題を静かに容赦なく指摘した。

「…しいて、もう一つ最大の敗因を挙げるとするならば」

彼は、集まった5人の顔を、一人一人見渡し、そして言った。

「クロード殿やヒューベルト殿、あるいは…私のような戦いというものをただの数字と駒の動きとして捉え勝利のためならばいかなる手段も躊躇しない…そういう頭脳労働を専門とし、そしてそれを好んで行うような人材が、残念ながらあなた方の中にはいなかった。それも最後の決定的な差となったのでしょうな」

 

その言葉にフェリクスの肩がぴくりと動いた。彼はカシアンのその言葉を否定することができなかった。そうだ、俺たちは戦士だった。騎士だった。だが戦略家ではなかった。

「…つまり俺たちは戦う前から、その土台で負けていたということか」

フェリクスの声は掠れていた。

 

イングリットは悔しさに顔を歪ませながらも反論の声を上げた。

「ディミトリは誰よりも民を思い、正義のために戦われました! その気高いお心は決して間違ってなど…!」

「ええ、その通りでしょう」カシアンはイングリットの言葉を遮った。

「ですが、イングリット殿。残念ながら戦争というものはどちらも正義を掲げています。その結果正義ではなく単に強い方が勝つ。それをあなたも理解されているのでは?」

 

カシアンのその静かな問いかけに、イングリットはもはや何も言い返すことができなかった。

客間には重い沈黙が満ちていた。カシアンが語ったのは、彼らにとってあまりにも苦く、そして受け入れがたい現実だった。だがその言葉の一つ一つが、紛れもない真実であることを、この場にいた誰もが心の奥底では理解していた。

ベレスはそんな彼らの間に漂う、どうしようもないほどの喪失感と悲しみを、ただ黙って、その身に受け止めるように静かに座っているだけだった。彼女にもかけるべき言葉が見つからなかったのだ。

フォドラの夜明けは、まだ全ての者にとって等しく訪れているわけではなかった。

 

 

 

 

カシアンが語ったあまりにも冷徹で否定しようのない王国の敗因。その言葉は客間に集った元青獅子の学級の生徒たちの心に、重い石のように沈んでいった。彼らは皆それぞれの胸の中でその言葉の真実を噛みしめ反芻し、そして受け入れようと必死にもがいていた。

 

長い長い沈黙だった。暖炉の薪がはぜる音だけがやけに大きく部屋に響く。

その沈黙を再び破ったのはフェリクスだった。彼はテーブルの上の、手つかずのまま冷めていく紅茶を、その鋭い瞳で睨みつけるように見つめていた。

「…カシアン先生」

フェリクスの声は先ほどよりも低く、そしてどこか挑戦的な響きを帯びていた。

「…もし先生が俺たちの立場だったら、どうした? このどうしようもない状況をどう切り抜けた?」

その問いはもはや敗戦の将への詰問ではない。むしろ自らが持ち得なかった「知略」というものへの純粋な好奇心とわずかながらの敬意すら含んでいるかのようだった。

 

カシアンはフェリクスのその問いに少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに頭巾の下で、ふむ、と一つ頷いた。

「私なら、ですか。…そうですねぇ」

彼はまるで難解な詰将棋の盤面を前にしたかのように、数秒間腕を組み目を閉じて思考を巡らせた。そしてゆっくりと目を開けるとあくまで「思考実験」であるという体でその恐るべき、そしてあまりにも現実的な二つの可能性を語り始めた。

 

「まず、大前提として、私は王国の政治の内情など部外者に過ぎません。これから申し上げるのは、あくまで外部から得られる情報と合理的な推測に基づいた、机上の空論に過ぎない、ということをご理解いただきたい」

カシアンは、そう前置きをすると、一つ目の可能性を淡々と述べた。

「私であれば、まず教会と完全に手を切ることを決断したでしょう。そして帝国のエーデルガルト皇帝との、直接的な和平交渉の席を設ける。もちろんただ頭を下げて許しを乞うのではありません。交渉です」

彼は指を折りながら、その具体的な内容を説明する。

「王国南部の、アリアンロッドを含むいくつかの領地を帝国側へ割譲する。その見返りとして王国の独立と王家の存続を認めさせる。さらにエーデルガルト皇帝が掲げる、紋章制度の改革や教会の特権剥奪といった『改革』の一部を王国側も受け入れる姿勢を見せる。…エーデルガルト皇帝は、確かに覇道を突き進んではいますが無意味な殺戮を好む人間ではない。彼女には教会以外にも同盟や、何よりも『闇に蠢く者』という、多くの敵がいました。王国が彼女の掲げる大義の一部を受け入れ、そして実利的な領地まで差し出せば彼女はそれを受け入れ、その矛先をより優先すべき他の敵へと向けた可能性は十二分にあると私は考えます」

 

カシアンのその言葉にアネットが「それでは帝国の軍門に下るのと、何ら変わりありません!」と、悔しげに反論の声を上げた。

「ええ、そうかもしれません。ですがアネット殿。それは名誉ある滅亡よりも、屈辱的な生存を選ぶ、という、極めて政治的な判断です。生き残りさえすれば、再起の機会はいずれまた訪れるやもしれませんからね」

カシアンは冷ややかにそう言い返した。

 

そして彼は二つ目の、全く逆の可能性について語り始めた。

「あるいはそれとは真逆の道。帝国との和平が不可能だと判断した場合はむしろ完全に教会と同調し、レア元大司教と一枚岩の共闘体制を築くという手もあったでしょう」

「どういうことです?」アッシュが訝しげに尋ねる。

「つまり、王国の軍事的な主導権の一部をあえてレアに明け渡すのです。王国の望むがままにではなく、教会の望みを最大限に受け入れ、その見返りとしてレア本人と彼女が率いるセイロス騎士団にこの戦争の最前線で戦ってもらう。…皆さん、忘れてはいませんか? レアという女は、たとえ竜の姿にならずとも、その人間としての戦闘能力だけで並の騎士や魔道士など、赤子の手をひねるように蹂躙できる規格外の『戦力』なのですよ。彼女が本気で最前線で暴れまわるだけでも帝国軍は相当な苦戦を強いられたはずです。…まあ、そうなれば、王国は事実上、教会の傀儡国家と化していたでしょうがね」

 

「…まあ、結局のところ」カシアンは、その話を打ち切るように静かに締めくくった。

「私が今申し上げた二つの道は、どちらを選んだとしても間違いなく、いばらの道となったことでしょう。仮に帝国と和平を結び戦争が回避できたとしても国内の反発は避けられず、ディミトリ国王が暗殺という形で命を落とす可能性も決して低くはなかったはずです。…ですからやはり結論は先ほど申し上げた通りですよ」

カシアンは、集まった元青獅子の生徒たち一人一人の顔を見渡し、最後の最も残酷な真実を静かに告げた。

「あなた方がどれほど勇敢に戦いどれほど気高い理想を掲げたとしても、このファーガス神聖王国という国が長年抱えてきた地理的、そして歴史的な問題の前では重すぎた。…それが私の見解です」

 

カシアンの最後の言葉は、彼らにもはや何の希望も何の言い訳も許さない絶対的な結論となって、重く重くのしかかった。

フェリクスはただ黙って固く拳を握りしめていた。イングリットは俯き、その瞳から一筋の涙が静かに流れ落ちる。アネットとメルセデスは互いに寄り添い、その悲しい現実を受け止めようとしていた。アッシュはただ唇を噛み締め、遠い空を見つめている。

彼らが求めていた答えはそこにあった。だがその答えは彼らの心を救うものではなく、むしろ彼らが背負ってきたものの重さと、どうしようもない運命の無慈悲さを改めて突きつけるだけのものだったのかもしれない。

客間には再び、どうしようもないほどの深い沈黙だけが満ちていた。

 

 

 

 

カシアンが語り終えた後客間は再び墓地のような静寂に包まれた。元青獅子の生徒たちは、突きつけられた残酷なまでの真実をそれぞれの胸の中で、どうにか消化しようと必死にもがいていた。もはや怒りも悲しみも、そして反論の言葉さえも浮かんでこない。ただどうしようもないほどの無力感と失われたものへの痛切な想いだけが、その場を支配していた。

 

その張り詰めた空気をそっと解きほぐすように動いたのは、ベレスとメルセデスだった。

ベレスは俯いたまま肩を震わせるイングリットの隣に静かに座ると何も言わずにただその背中を優しく何度もさすってやった。メルセデスもまたアネットの手をそっと握りしめ、その慈愛に満ちた微笑みで彼女の不安を包み込むように言った。

「大丈夫よ、アネット。…大丈夫。私たちはこうして生きているのですもの。それだけでも、きっと意味があることなのだわ」

 

カシアンはそんな彼女たちの姿を頭巾の下から静かに見つめていたが、やがてまるで最後のとどめを刺すかのように、しかしその声には彼なりの不器用な気遣いを滲ませて、静かに言った。

「…あなた方は生き残った。その事実は何よりも重い。悲しむ気持ちは理解できますが、…なるべく過去ではなく未来を見ることをお勧めしますよ」

 

そのあまりにも合理的で、そしてあまりにも彼らしい言葉にフェリクスが顔を上げた。彼はカシアンのその冷徹なまでの言葉の裏にある、ある種の真実を彼なりに理解したのかもしれない。

「……そうだな」

フェリクスは静かに、しかし確かな力強さを込めて呟いた。そしてゆっくりと立ち上がると、まだ呆然としている仲間たちに向かって短く有無を言わせぬ口調で言った。

「…行くぞ。これ以上ここに長居しても何も始まらん」

彼はカシアン、ベレスに深く複雑な感情のこもった一礼をすると、皆を引き連れるようにして客間を後にしていった。その背中には敗北の将としての屈辱ではなく厳しい現実を受け止めそれでもなお、前へと進もうとする一人の人間としての新たな覚悟が宿っているかのようだった。

 

ベレスは去っていく彼らの後ろ姿を窓辺からいつまでも見送っていた。その瞳にはかつての教え子たちの未来を案じる、深い憂いの色が浮かんでいた。

 

やがて客間に二人きりになるとベレスはゆっくりとカシアンに向き直った。

「…カシアン。あの言い方は、少し、厳しすぎたんじゃない?」

彼女の声にはカシアンを責める響きはなかった。ただ純粋な疑問として、彼の真意を尋ねていた。

 

カシアンはベレスのその問いに静かに首を横に振った。

「…いいえ、ベレス。あれで良かったのです」

彼の声はいつになく真剣だった。

「彼らは慰めの言葉を求めてここに来たのではありません。彼らが欲していたのは、真実です。たとえそれがどれほどに残酷で救いのないものであったとしても」

 

カシアンはベレスの隣に立ち彼女の肩にそっと手を置いた。

「中途半端な同情や気休めの嘘は、かえって彼らの心を長い時間をかけて蝕んでいったことでしょう。彼らはこれから先、何度も『あの時、こうしていれば』という、答えの出ない問いに苛まれます。最悪ディミトリのように過去の悪夢に囚われる可能性もあった。…ならば私はその連鎖を断ち切るための、憎まれ役を引き受けるしかない。」

カシアンの瞳には冷徹な戦略家としての判断と、そして彼なりのやり方でかつての生徒たちの未来を救おうとする深い覚悟が宿っていた。

 

「そう…」ベレスは、カシアンのその言葉に静かに頷いた。

「あなたの言う通りかもしれない。あなたはいつも私が見えない、もっとずっと先のことまで見ているんだね」

彼女はカシアンのその深い思考と彼なりの優しさを誰よりも理解していた。

だが彼女の心には、もう一つ、どうしても拭いきれない疑問が残っていた。

 

「ねえ、カシアン」ベレスはカシアンの顔をじっと見上げた。

「あなたも、昔…辛いことがあったでしょう? 私も少しだけ聞いた。あなたが子供の時、故郷も、家族も、全てを失って、たった一人で生きるしかなかったって…。その時あなたは…どうして、復讐や悲しみに暮れる道を選ばなかったの? どうしてそんなに強く…そんなに冷徹になれたの?」

それは彼女がずっと聞きたかった、彼の心の最も深い部分に触れるデリケートな質問だった。

 

カシアンはベレスのその問いに一瞬遠い目をした。彼の脳裏に炎と煙、そして死の匂いに満ちたあの日の記憶が蘇ったのかもしれない。だが彼はすぐにいつもの彼らしい、自嘲気味などこか達観したような表情に戻ると淡々と答えた。

「…復讐? 悲嘆? ふふ、ベレス。私にはそんな立派なことを考える余裕などありませんでしたよ。ええ、ただ、それだけのことです」

彼の声には何の感傷もなかった。ただ事実を語っているだけだった。

 

「目が覚めれば、まず考えるのは今日の食料をどうやって手に入れるか。どこへ行けば安全な水が飲めるのか。夜、獣に襲われずに眠れる場所はどこか。…ただそれだけ。今日を生き延び、そして明日、再び目を覚ますこと。その繰り返しで私の毎日は埋め尽くされていた」

カシアンはまるで他人事のように自らの壮絶な過去を語った。

「心の奥底で燃え上がる、あのどうしようもない怒りは、凍える夜の寒さを凌ぐための内なる熱になりました。胸を締め付ける悲しみは木の根や泥水のようなまずい食べ物を喉の奥へと無理やり流し込むための塩分になった。…ええ、そうでもしなければあの頃の私は生き残ることなどできなかったでしょうから。私の感情は全て生きるための糧にしなければならなかった。ただそれだけのことですよ」

 

そのあまりにも壮絶で、そしてあまりにも孤独な告白。

ベレスはカシアンのその言葉に、もはや何も言うことができなかった。彼女はただ目の前の男がどれほどの闇と、どれほどの孤独を、たった一人で抱え、そして乗り越えてきたのかを、その言葉の端々から痛いほどに感じ取っていた。

 

ベレスはカシアンの今は確かな温もりを持つ体を、そっと力強く、抱きしめた。

「…そうだったんだね。…辛かったね、カシアン」

彼女は彼の背中に顔をうずめ、あやすかのように、その背中を優しく何度も何度も撫でた。

 

カシアンはベレスのその温かい腕の中で、長年心の奥底に固く封じ込めてきた何かが少しだがゆっくりと溶けていくのを感じていた。

ベレスはしばらくの間カシアンを抱きしめていたが、やがて顔を上げ窓の外に広がる、戦禍の傷跡がまだ残る空を見上げた。

(イングリット、メルセデス、アネット、アッシュ、フェリクス)

彼女は心の中でかつての教え子たちの名を一人一人、静かに呼んだ。

(あなたたちがこれから先どんな道を歩むことになったとしても…どうかその道の先に、ささやかでも、確かな幸せがありますように。そしてお願い、ディミトリ、ドゥドゥー、シルヴァン…見守ってあげて)

 

ベレスのその静かな祈りは誰に聞かれることもなく確かな温もりとなって、彼女の腕の中にいる、一人の孤独な男の心を優しく照らし始めているかのようだった。

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