フォドラに平和が訪れてから早一年。ベルナデッタの住む館の一室、客間として使われている部屋の空気だけが、日頃の穏やかな日常とは不釣り合いなほどに張り詰めていた。豪華な刺繍が施された貴族服に身を包んだ、恰幅のいい中年の男とその息子。そして彼らの正面には、一人の少女がその肩を微かに震わせながら立っていた。
「そんなこと…む、無理に決まってるじゃないですかぁぁぁっ!」
金切り声に近いどこか必死な響きを帯びた叫び声を上げたのは、黒鷲の学級の元生徒、ベルナデッタだった。長い戦いを経て、彼女も少しは人見知りを克服したはずだったが、目の前の帝国貴族の厚かましい要求に、彼女の許容量は完全に限界を超えていた。
伯爵はベルナデッタの絶叫にも怯むことなく、その肥えた指でテーブルを叩きながら、ねっとりとした声で食い下がった。
「そこを何とかなりませんかな、ヴァーリ家のご令嬢。我が息子も来たるガルグ=マク新設学校の入学を、それはもう心から熱望しておりましてな。つきましては貴女様の旧知の仲であるカシアン=アイスナー卿に、ほんの少しばかり、お口利きを願えんものかと…」
「ですから無理なんです!」ベルナデッタは、もはや涙目だった。
「私が元生徒だからって、そんなことで便宜を図る方では、断じてありません! カシアン先生は、そういう方ではありません!」
「しかし貴殿はアイスナー卿夫妻の信頼も厚く、重要な役目を担ったと聞き及ぶ。その貴女様からのお願いとあらば、あの偏屈で悪魔と知られるアイスナー卿とて無下には扱えんはず…」
ベルナデッタは伯爵のその言葉に、プルプルと首を振った。この男は何も分かっていない。カシアンという人間を。
伯爵はベルナデッタが黙り込んだのを見て、ため息交じりに続けた。
「実を申せば私もこの数ヶ月、あらゆる手を尽くしてみたのだ。帝国の古い家名を持つ他の貴族を介して繋がりを持とうとしても『だから何です?』の一言で追い返され、金子を積もうとしても門前払い。全くもって、あの男は…!」
伯爵は忌々しげに吐き捨てると、まるで独り言のようにぽつりと呟いた。
「…こうなれば、後はカシアン卿に女をあてがうか…」
その瞬間だった。
今まで怯えていたはずのベルナデッタの表情から、すうっと全ての感情が消え失せた。彼女はゆっくりと顔を上げ伯爵の顔を、侮蔑と警告を込めた瞳で真っ直ぐに見据えた。そのあまりの豹変ぶりに、伯爵は思わず息を呑む。
「それだけは、絶対に辞めてください」
ベルナデッタの声は静かだったが、その奥には有無を言わせぬ響きがあった。
「もし万が一にもそのようなことをなされば…カシアン先生の奥様であるベレス先生の…本気の怒りを買いますから。」
彼女はデアドラでカシアンに求婚し、その腕を片時も離そうとしなかった、あの女神の姿を思い出し背筋に冷たいものが走るのを感じていた。あの穏やかな顔の下に隠された、底知れない独占欲と、カシアンを傷つける者への容赦のない怒りを、この男は知らないのだ。
伯爵はベルナデッタのそのマジ顔と、その言葉に込められた尋常ではない気配に、ようやく事の重大さを悟ったらしい。彼はがっくりと椅子に深くもたれかかり、頭を抱えた。
「ああ、もう、どうすればいいのだ…!」
伯爵は呻くようにぼやいた。
「カシアン卿は新興貴族の出でありながら、長年貴族として帝国に貢献してきた我らに一切媚びる素振りも見せんどころか、関わろうとすらしない…。その癖、先の戦争での功績は帝国内でも随一で、皇帝陛下との繋がりも強い。おまけに活版印刷だの、戦争博物館だの、奇妙な新規事業を次々と成功させ、我々が喉から手が出るほど欲しい金まで唸るほど持っているというではないか…! これでは我々のような貴族の出る幕など、どこにもないではないか…!」
そのあまりにも情けない嘆き節を聞きながら、ベルナデッタはふぅ、と一つ、小さなため息をついた。そしてほんの少しだけ、本当にごく僅かに、この哀れな貴族親子に同情した。
「…でしたらおとなしく真正面から勉強するのが、一番の近道ですよ」
彼女の声にはいつもの臆病な響きが戻っていた。
「…その、よければ、私の手元にある学生時代の試験問題ぐらいでしたら…こっそり、写させてあげますから」
ベルナデッタはそう言って小さな声で付け加えた。伯爵とその息子は、そのあまりにもささやかな救いの手に、ただ呆然と顔を見合わせるしかなかった。
フォドラに訪れた新たな時代は、古い価値観にしがみつく者たちにとってあまりにも厳しい現実を容赦なく突きつけているようだった。
伯爵親子がほうほうの体で帰っていく。その背中を見送りながら、ベルナデッタは客間の扉をぴしゃりと閉めると大きく深いため息をついた。彼女はまだ微かに震える手で胸を押さえた。
「カシアン先生のことを何も知らないから、あんなお願いができるんです…! あの先生の『合理的』っていう言葉が、どれだけ恐ろしいものか分かってないから!」
ベルナデッタはぶつぶつと文句を言いながらも、その足取りは徐々に軽やかに戻っていく。彼女は客間を後にすると鼻歌交じりに屋敷の奥、自らの私室へと続く廊下を歩いていく。
(まあ、でも、それもこれも、もう私には関係のないこと!)
そう、彼女にとっては、もはや全てが過去の話なのだ。
フォドラ全土を巻き込んだ、あの血で血を洗う戦争も。そしてガルグ=マクの悪魔の授業も。
せっかく戦争が終わったのだ。悪魔(カシアン)の元からも、命の危険からもようやく解放されたのだ。そして何より戦友や友達より幸運なことは、家督はまだ親がそのまま継ぐことだった。当面ベルナデッタが当主として表舞台に立つ必要も、面倒な貴族の付き合いに頭を悩ませる必要もない。
これ幸いと彼女は戦後、故郷であるヴァーリ領の自室に完全に引き籠り、趣味とどこまでも自堕落で平和な生活を心ゆくまで満喫していたのだ。
数か月前だったか。一度母が珍しく神妙な顔で彼女の部屋を訪れたことがあった。
「ベルナデッタ。あなたももう良い歳。いつまでも部屋に籠ってばかりじゃダメじゃないの。何かやりたい仕事というものはないの? 望むのであれば私ができる限りの口利きをしてあげる」
その問いにベルナデッタはベッドの上で刺繍の手を休めることもなく真剣に、そして一切の遠慮なく自らの理想の職場環境について語った。
「そうですねぇ。でしたら、まず怖くて面倒な貴族の大人が少ない職場。あと軍隊はもう絶対に嫌です。そして収入は安定して、同僚との競争もない方が嬉しいです」
それは社会というものを舐め腐っているとしか思えない、あまりにも虫の良い純粋な願いだった。
娘のその言葉に母は一瞬だけ絶句し、そして次の瞬間には失笑とも呆れともつかない、何とも言えない表情を浮かべると「…そう」とだけ呟き、何も言わずに部屋から出て行った。ベルナデッタはそんな母の様子を気にするでもなく、勝ち取った平和を誇っていた。
(そう、これが私の理想の人生! 誰にも邪魔されず、しばらくは引き籠って生きていく!)
ベルナデッタはそんな過去のやり取りを思い出し満足げに頷いた。彼女は自室に戻ると、窓際の柔らかなソファに腰を下ろし、侍女が用意してくれたばかりの甘いハーブティーと焼きたての蜂蜜がけクッキーに手を伸ばした。
「ふふん、ふふ〜ん♪」
鼻歌交じりに趣味である珍しい食虫植物の写生を始め、時折クッキーを頬張る。窓の外には穏やかなヴァーリ領の田園風景が広がり、鳥のさえずりが聞こえてくる。これ以上の幸せが、この世にあるだろうか。いや、ない。
その完璧なまでに平和で自堕落な時間が、当分は続くものだとベルナデッタは信じて疑わなかった。
その日の晩餐の後だった。
母が再び彼女の部屋を訪れた。その手には帝国の紋章が押された、一通の厳めしい羊皮紙が握られている。
「ベルナデッタ」
母の声は、どこか楽しげな響きを帯びていた。
「あなたの希望通りの仕事が決まったわよ」
「えっ!?」
ベルナデッタは驚きで目を輝かせた。まさか、本当にそんな希望に合った職場があったのだろうか!
母は娘のその反応に、満足げに頷くと羊皮紙を彼女の目の前に広げてみせた。
「ええ。あなたの希望通り軍隊ではないわ。でも収入も帝国からの直接の俸給ゆえ極めて安定してる。そして何よりも同僚となるのはあなたのよく知る級友達。競争も少ないと思うわ。」
ベルナデッタは胸を高鳴らせながら、その羊皮紙に記された辞令を読んだ。そして次の瞬間。彼女の動きが完全に止まった。
『――ベルナデッタ=フォン=ヴァーリを、ガルグ=マク新設学校における、先生として正式に採用する。着任は来月一日付とする。 校長:カシアン=アイスナー』
(…がるぐ…まく…?)
(…がっこう…の、せんせい…?)
(…こうちょう:かしあん…あいすなー…?)
ベルナデッタの頭の中で、単語が意味をなさずにぐるぐると回り始めた。そして数秒後。それらの単語があまりにも恐ろしく絶望的な意味を持って、彼女の中で結びついた。
彼女の理想の職場。
怖くて面倒な大人が少ない職場 → ベレス先生もジェラルトさんもセテスさんも良い人、ただ怖くて面倒な悪魔が一匹(カシアン)。
軍隊ではない職場 → 名目上軍隊ではないが、学校の名を借りた軍事施設。
収入が安定 → 帝国、アイスナー領からの俸給で安定。
同僚との競争が少ない → かつての級友達。競争は少ないが皆そもそもスペックや基準が高い。
全てが完璧なまでに、彼女の希望を詐欺のような形で叶えていた。
「ああ……ああ……あ……」
ベルナデッタの口から声にならない、空気の漏れるような音がした。そして彼女はゆっくりと、まるでスローモーションのように天を仰いだ。
次の瞬間。ヴァーリ家の静かで平和な夜のしじまを切り裂いて、一人の少女のこの世の終わりを告げるかのような魂からの絶叫が、いつまでも、いつまでも響き渡った。
「ぎゃああああああああああああ」
ガルグ=マクの館の一室で行われた、カシアンとローレンツの面談は終始穏やかな、しかしどこか緊張感を伴う雰囲気の中で進み、そしてようやくその終わりを告げようとしていた。テーブルの上にはインクの匂いがまだ新しい両者の署名が記された合意文書が静かに置かれている。
アイスナー領が持つ先進的な農業技術や活版印刷といった革新的な知識を、段階的に旧同盟領へと提供する。その見返りとしてローレンツをはじめとする旧金鹿の学級の者たちが数年間のスパンで交代しながら、ガルグ=マクに再建される新しい学校で、次代を担う若者たちの指導にあたる。それはフォドラの未来を見据えた相互にとって有益な協力関係の始まりを告げるものだった。
「…では、カシアン殿。本日は貴重な時間を割いていただき、感謝する」
ローレンツはグロスタール家の当主として、旧同盟領の代表者の一人として、丁寧だが確かな威厳を込めて一礼した。長い戦いを経て彼の顔にはかつての若さゆえの傲慢さの代わりに、領民を背負う者としての深い責任感が刻まれている。
カシアンもまた静かに頷き返した。
「こちらこそ。ローレンツ殿の英断に感謝します。この協力関係がフォドラの未来にとって、良き礎となることを願っております」
面談が終わりカシアンが席を立とうとした、その時だった。
「カシアン先生」
ローレンツが呼び止めた。その声には先ほどまでの公的な響きとは異なる、個人的な純粋な探求心の色が滲んでいた。
「もしよろしければ、一つだけ教えてはいただけないだろうか。貴殿が先の戦争が始まった当初、なぜ我々同盟領でその知略を振るおうとは考えなかったのか、と」
それはローレンツが長年、心の中に抱いていた素朴な疑問だった。
カシアンはその問いに少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに頭巾の下で、ふむ、と思案するように頷いた。
「…考えなかった、と言えば嘘になります。ですがローレンツ殿。率直に申し上げて私と当時の同盟領のやり方は、あまり相性が良くないだろうと、そう判断しました」
カシアンはまるで過去の戦局を分析するかのように冷静に淡々と、その理由を語り始めた。
「まず当時の盟主であったクロード殿と、私とでは思想の方向性が根本的に合わない。彼は仲間との絆を何よりも重んじ、そして自らの真意を巧みに隠す秘密主義を貫きながら、可能な限り身内を傷つけないように立ち回っていた。
…ですが、私のやり方は違う。戦場における不確定要素は可能な限り事前に削ぎ落とし、可能な限り情報は共有し、そして多少の犠牲が出たとしても全体の勝利のために最も効率的な道を選ぶ。その点で私と彼の戦略思想は、決して相容れることはなかったでしょう」
カシアンはそこで一度言葉を切ると、さらに核心的な部分に触れた。
「そして何よりもクロード殿は、最後まで自らの出自――パルミラの王族であるという事実――を、あなたたちにも明かすことはなかったそうですね。腹の底では何を考えているか分からない相手と、命を懸けた戦いを共にすることは私にはできません。胡散臭く思い、最後まで彼を信じきることはできなかっただろうと思います」
「次に新技術での問題です。仮に私が活版印刷のような革新的な技術を、同盟領で公表したとしましょう。その革新的な利用案を即座に理解し積極的に活用しようと動くのは、おそらくクロード殿、そして次点でリシテア殿だったでしょうな。ですが他の多くの同盟の面々は、その未知の技術に対しまずは常識と安全性を重視し慎重な運用を主張したはずです。結果として革新的な技術も安全策ばかりを主張する議論に、多くの時間が費やされたことでしょう。それもまた私のやり方とは合わなかった」
カシアンのそのあまりにも的確で容赦のない分析にローレンツはぐうの音も出ず、ただ唇を噛み締めるしかなかった。確かにカシアンの言う通りだ。そうなった同盟領の光景が簡単に思い浮かべられた。
だがカシアンはそこで話を終わらせなかった。彼は少しだけ遠い目をして、まるで自分自身に言い聞かせるかのように静かに言葉を続けた。
「…だが」
その声には彼にしては珍しい過去の自分への反省と、そして偽りのない敬意が込められていた。
「昔は信じられなかったが、今ではクロード殿は民や皆のことを考えた、実に立派な王だったのだと思います。事実として旧王国領は、先の戦いで多くのものを失い、今なお復興と治安維持で手一杯の状態が続いている。ですが旧同盟領は戦後間もないというのに、こうして先の事を考え、新たな協力関係を結ぶだけの余力がある。…それは恐らくクロード殿以外の誰が盟主であったとしても不可能だったでしょう」
カシアンのその最後の言葉はローレンツの胸に深く温かく染み渡った。そうだ、クロードは確かにそういう男だった。そしてカシアンという男は、その事実を偏見なく、ただ結果として正当に評価してくれている。
ローレンツは背筋を伸ばしカシアンの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、もはや劣等感や悔しさではなく、旧同盟の未来を担う者としての確かな誇りと決意が宿っていた。
「…ええ、全くです、カシアン先生。クロードは確かに偉大な友です」
ローレンツの声は静かだったが、そこには揺るぎない力が込められていた。
「ですが僕たちも、ただ彼に守られていただけではない。彼の背中を見て、我々もまた学んだのです。時に大胆に、時に慎重に、そして何よりも民の未来を第一に考えるということを。そして今、彼が遺してくれたこの地を、今度は僕たちの手で守り育てていく番なのですから」
ローレンツのその言葉にカシアンは頭巾の下で、静かに頷き返した。
フォドラの未来はもはや一人の英雄や、一人の王の力だけで築かれるものではない。それぞれの地でそれぞれの責任を背負った者たちが手を取り合い、そして時にはぶつかり合いながら、共に作り上げていくものなのだ。