2084年   作:キージェンエグゼ

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 気温は摂氏25度を優に超え、4月とは思えないほどの暑さだった。時計の針は13時を少し過ぎたところで、陽射しの強さもあってか影は短く、コンクリートの街路が白く光っていた。ウィンストン・スミダは、むっとした湿気混じりの風を遮るように、白いシャツの襟に顎をうずめ、勢いよく《栄望塔》と呼ばれるマンションの鉄の扉を開け放った。錆びた蝶番の軋む音と同時に、路地から巻き上がった砂ぼこりが足元を叩いた。

 

 エントランスホールは、何かしらの植物繊維で織られた薄汚れたカーペットが敷かれ、かすかに茹でた青菜のような臭気が漂っていた。壁の片側には、サイズを間違えたような巨大なポスターが掲げられている。そこには、アジア人特有の細い目をした男の肖像が描かれていた。整った顔立ちではあるが、どこか人間味を欠いた冷たい印象を与える。スミダは、ほとんど期待を抱くこともなくエレベーターの前に立った。

 

 今週は「仇恨觉醒周(憎悪覚醒週間)」である。敵への憎悪を再認識させるためとして、電力供給が最小限に抑えられており、エレベーターが動いている可能性は限りなく低い。それでも淡い希望を込めてボタンを押してみるが、機械は無反応だった。スミダは渋々と階段を選び、喘息で苦しい胸を押さえながら、ゆっくりと上へ上へと歩を進める。

 

 壁という壁には、あの男のポスターが何枚も貼られていた。どこを向いても、あの瞳がこちらを見つめているような錯覚に陥る。ポスターの下部には太いフォントで、こう書かれている──

「グレートファザーはあなたを見ている」

 

 ようやく自室にたどり着き、重い扉を押し開けると、左手の壁に埋め込まれた《ミンムー》という名前の画面から、しわがれた男の声が流れていた。それはアフリカ戦線で戦果を挙げた部隊への賛辞を語るニュースであり、右手のミンムーには半導体の生産統計が淡々と表示されている。スミダがスイッチをひねると音量はやや下がったが、内容は依然として耳に入ってきた。《ミンムー》は完全に沈黙させることはできない。そういう仕組みになっているのだ。

 

 ガラス窓に映る自分の姿を、スミダはぼんやりと見つめた。彼はアジア人にしては背が高く、細身で肉付きが悪い。新世界同盟の漆黒の制服は、かえってその貧相な体躯を際立たせていた。髪は黒に近い茶色、色白の肌は乾燥した冬の名残と粗悪な石鹸のせいで荒れていた。首元には剃刀負けの痕が残り、痛々しい。

 

 外は春の陽気に包まれているはずだった。だが、窓越しに見える景色は、すべてが灰色がかっている。唯一、鮮やかな彩りを持つのは、あのポスターだけだ。ビルの側面、橋の下、通りの広告板、至る所にグレートファザーの姿がある。黒い瞳が歩行者たちを見下ろしており、それがスミダの胸の奥に重苦しい不安を突きつけてくる。

 

「グレートファザーはあなたを見ている」

 

 それはただの標語ではなく、現実の恐怖を伴った予告であり、支配の象徴だった。その隣には、風に千切れかけたポスターの断片があり、ちらちらと「同盟主義」という文字が覗いていた。

 

 遠くから、ヘリコプターのローター音が近づいてきた。《忠誠監察局》の機体だ。小型ドローンを伴い、低空で住宅地を旋回している。監視用のカメラが家屋の内部をのぞきこみ、ある一軒でホバリングを開始した。数秒後、監察官たちがロープで降下し、数発の炸裂音が街に響いた。黒いビニール袋に何かが詰められ、それが機体へと運ばれていく。

 

「粛清」だった。

 

 スミダにとって、これは唯一の「現実」だった。日常の一部となった粛清。それは決して遠い誰かの出来事ではない。いつか、自分の部屋のドアが叩かれる日が来るかもしれない──そんな恐怖が、スミダの心に根を張っていた。

 

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