2084年 作:キージェンエグゼ
至忠省は、実に恐ろしい省である。あの省の建物には一切の窓がない。ただ、冷たく閉ざされた灰色の壁が延々と続いている。中で何が行われているか、想像するのはたやすい。だが、あまり考えないほうがいい。いや、考えることすら危険だ。スミダは至忠省の建物に入ったことがない。それどころか、半キロメートル以内に近づいたことすらなかった。有刺鉄線と分厚い鋼鉄の扉に囲まれ、武装した衛兵たちが隙なく巡回している。公務以外の立ち入りは厳しく禁じられており、万が一、侵入しようものなら、警告もなしに撃ち殺されるだけだろう。
スミダはふと振り返った。そこに映るのは、現実を憂う陰気な男の顔。ミンムーと対峙する時は、こうした顔でいるのが安全だった。感情を消し、ただ空っぽな人形のように。
キッチンに向かう。昼前に仕事を切り上げたせいで、まともな食事もとれていない。キッチンには冷たく硬くなった米がわずかに残っているだけだった。棚から”栄光白酒”と書かれた白いラベルの瓶を取り出す。蓋を開けた瞬間、吐き気を催すような刺激臭が鼻をついた。
スミダはガラスのコップに、液体をなみなみと注ぐ。覚悟を決め、苦い薬を飲むように、一気に飲み干した。
顔がみるみる真っ赤に染まり、目に涙が滲む。喉を焼き、鼻腔を貫き、頭蓋を殴打するような強烈な酒だった。“人民の誇りの一滴”としてミンムーはこれを称賛するが、市民たちは”苦しみの水”と皮肉っていた。だが、腐っても酒は酒だ。腹の底に熱が生まれ、虚ろな高揚感が身体を満たしていく。世界が、ほんのわずか、マシな場所に見えてくる。
スミダは”栄光煙草”と金文字で印刷された赤いパッケージから一本取り出したが、手元が狂い、縦に傾けて葉をこぼしてしまった。舌打ちしつつ、二本目を慎重に引き抜き、パッケージの側面で底を軽く叩く。これで少しはマシな味になると信じながら。
煙草を唇に咥え、リビングの小さな机に腰を下ろす。ミンムーの真横、右手に位置する小机。その引き出しから、クリーム色の本を取り出した。指先でページをめくると、最初に目に飛び込んできた言葉に、自然とため息が漏れる。
「あなたは特別じゃない、それが最も幸運なことだ」
グレートファザーの教えだった。
スミダの部屋のミンムーは、通常の配置とは異なっていた。本来なら部屋全体を監視するため、奥の壁に取り付けられるはずなのに、窓の対面の長い壁に据え付けられている。その壁の一部には浅いくぼみがあり、スミダはそこに身を潜めることができた。ミンムーの視線の死角。この部屋を選んだ最大の理由だった。
だが、今日この場所に来たのはもう一つ理由がある。このクリーム色の本だ。古びた紙の匂い。滑らかな装丁。40年前以降の大量生産品とは明らかに異なる、手触りと重み。
この本は、東明京の外れにあるスラム街の露店で手に入れたものだった。本来、歴史修正局の局員は民間の露店に立ち入ることは控えるよう定められている。だが、実際には剃刀や靴紐といった必需品を求め、こっそりと足を運ぶ者も少なくなかった。
スミダも、通りの左右を慎重に確認した後、クリーム色の本を手に取り、40新世界元(旧時代換算で約450円)を支払って、それを手に入れた。
多少の後ろめたさを抱えつつ、スミダは本を持ち帰った。そしていま、ミンムーの死角で、ゆっくりとそのページをめくる。
そこには、旧時代に実在した世界の記録が書かれていた。この世界では、存在してはならない真実。知られるべきでない記憶だった。