2084年 作:キージェンエグゼ
本によれば、かつてこの世界には196もの国が存在していたらしい。だが今、国家と呼べるものはわずかに三つしかない。そしてそれらすべてが互いに敵対している。
新世界同盟——スミダが属する国家の名だ。第三次世界大戦という、想像すらおぞましい大破壊ののちに誕生したこの国は、地上において最大の領土を有している。
地名も変わった。東明京(トウメイキョウ)——かつての名は東京。旧世界では、世界第四位の経済力を誇った大都市だったという。東明京が属する東亜第三区も、かつては「日本」と呼ばれる独立国家だった。
スミダは、頭の中で本に記されていた断片的な情報をもとに、旧世界の姿を想像しようとする。だが、不思議なことに、どうしてもその情景は具体的に思い描けなかった。過去とは、やはり手の届かない幻なのだろうか——。
そのとき、ミンムーから音声が流れた。
无需匆忙。ー急がなくていい
你已然抵达命定之地。ーあなたはすでにいるべき場所にいる
无需思考。ー考える必要はない
服从即是未来ー従順こそが未来である
何千回と耳にしたプロパガンダだった。スミダはぼんやりとミンムーを見つめる。ミンムーは彼の視線など気にも留めず、無機質な機械音声を延々と垂れ流し続けた。その冷たい響きは自然とスミダの耳に染み込み、意識の奥を侵食する。
だがスミダには、別の思惑があった。
彼はすでに、ひとつの禁じられた行為に着手していた。——日記の執筆である。
違法ではない。だが、もし発覚すれば、最低でも25年の強制労働収容所行き、最悪の場合は即座の死刑だ。「粛清」を免れることはまずないだろう。
スミダは慎重に、隠し持っていたペンを取り出した。ニブ(ペン先)を取り付けようと指で触れたが、油分を落とすどころか逆に指紋をつけてしまう。今やペンなど、過去の遺物だ。署名にすら滅多に使われない。
それでも彼がわざわざこの古びたペンを手に入れたのは、クリーム色の厚い紙に、ありふれたボールペンやシャープペンシルではふさわしくないと考えたからだった。
スミダは、文字を書くのが苦手だった。普段はコンピュータで文字を打ち込むため、実際に手で書く機会などほとんどない。
そして——すべてのコンピュータは新世界同盟によって監視されている。日記に使うなど到底できるはずもない。
スミダはペン先をインクに浸し、深く呼吸を整えた。
——大丈夫だ。できる。
心拍を抑えつつ、震える手で小さく角ばった文字を書きつける。
2084年4月4日
背もたれに深く体を沈めた。書き始めたはいいものの、なぜか無力感に襲われる。
そもそも、今が本当に2084年なのか、自信がない。
自分が37歳であることは、かろうじて確信できる。2047年か2048年に生まれたはずだ。だから計算上は間違っていないはずなのだが、近年では1、2年の誤差など当たり前で、正確な日付を知る手段は失われている。
明日は今日かもしれず、今日は昨日かもしれない。
もしかしたら、2084年すら、2084年ではないのかもしれないのだ。
なぜ自分は、こんな危険を冒してまで日記を書こうとしているのか。
その問いが脳裏をかすめる。誰のために? 何のために?
未来のためか? これから生まれてくる者たちのためか?
だが「未来」とは本当に存在するのか。あまりにも不確定で、想像すら曖昧だ。
これから生まれる誰かが、自分の日記を読む保証などどこにもない。
そもそも、読み取られるべき「苦境」など、未来の人間にとっては無意味なものかもしれない。
スミダの心は、紙の上に書かれた不確かな日付をさまよった。
“双念同守”
二つの矛盾する事柄を、同時に信じること。
この奇妙な統語が頭をよぎる。
自分がしようとしていることの重さを痛感する。
未来を生きる者と、どうして語り合えると思ったのか?
それはあまりにも非現実的で、不可能に近い。
未来も過去も、変わらない。
大半の人間は、耳を貸さないだろう。
もしくは、あまりにも世界が変わってしまって、今の苦しみなど取るに足らないものになっているか——。
いずれにしても、スミダの言葉はこのまま虚空へと消える運命にあるのだった。