足音が、廊下を打つ。
スライドドアが開かれるよりも先に、二人の身体は動いていた。
非常通達が鳴り響く第六層、居住区画。その中を――二対の足が駆け抜けていく。
薄桃色の髪が風に流れ、黒い仮面が光を反射する。
トロイメライが先頭を走る。編み込んだ髪が跳ね、聖槍の柄が背にぶつかるたびに微かな金属音が鳴った。
後ろを追うのは、皇帝――久条運命。仮面をつけたまま、息ひとつ乱さずぴたりと追随する。
「陛下、通信開くよー。非常帯域で割り込み――」
『うん。ブレイドラインに展開準備だけ通して』
仮面越しに即答する声には、まだ冷静さがあった。
だが、その手は、仮面の端に触れたまま。通信処理と情報整理を同時にこなしている。
トロイの目が鋭く細まる。
「第六層の警戒レベル、手動で昇格しとくねー。たぶんこれは“待ってたら遅い”やつだと思うー……」
『観測情報、微細揺らぎから0.2秒で赤に跳ね上がった。異常、自然発生じゃないね』
「ってことは……やっぱり、神域、かー」
その言葉が初めて口にされた瞬間、空気が変わった。
二人の速度が、さらに上がる。
廊下を吹き抜ける冷風が、ほんのわずかに濁っていた。
霊子の流れ。粒子の逆流。運命の仮面に、警告表示が立ち上がる。
――第六層、中央庭園広場。空間法則異常。精神波濃度、危険域に到達。
トロイの唇が、わずかに震えた。
そこは、子供たちが集まる場所だった。
「……間に合って、間に合って、お願いだから――」
声が漏れた。普段の間延びした語尾は、もうどこにもなかった。
曲がり角を抜けた瞬間、空気が変わった。
吹き抜けていた空調が止まり、代わりに皮膚をなぞるような重たい圧が二人を包む。
目に見えない膜が空間を覆い、霊子濃度が異常な域に達していることを告げていた。
「……ここ、だねー」
トロイが低く息を吐く。
アクセスゲートの非常遮断ラインは既に開放されている。
だが、その先からは、風も音も――感情すらも流れてこない。
ふたりは言葉を交わさず、並んでその一歩を踏み込んだ。
そして、目にした。
その広場は、もはや“広場”ではなかった。
地形も構造も歪み、空間の座標そのものが狂っていた。
人工庭園だったはずの空間は、ねじれ、裂け、漂っていた。
かつて木々が並んでいた位置には、焼け焦げた根の名残が点在し、地面は溶け、剥がれ、天井の明かりすらまともに届いていない。
そして、そこに――“彼ら”がいた。
――いや。
正確には、“彼らだったもの”。
トロイは言葉を失った。
運命は仮面の奥で、息を飲んだまま動かない。
一体、何が起きたのか。どうしてこんなことが起こり得るのか。
それを言語に変える暇もなく、目の前にはただ、五つの死が、異形の形で転がっていた。
最も目を引いたのは、カイだった。
彼の身体は、輪郭だけを残したまま、まるで中身をミキサーにかけられたように攪拌されていた。
皮膚は薄膜のように引き延ばされ、内側にあったはずの臓器や骨は液状になって滲み、絶えずうねっている。
そのすぐ近く、ユナの身体は異常なほどに薄く、そして長く引き伸ばされていた。
あたかも紙のように地面を這い、全長は元の50倍を優に超える。
そこに走る無数の細かい亀裂は、彼女の命の終わりではなく、“まだ割れ続けている”ことを示していた。
表面には白く霜が降りており、まるで氷の結晶のような死だった。
双子の子供は、背中合わせで融合していた。
身体の前半分同士が癒着し、骨格が入り混じったまま、互いに“助けて”とでも言いたげに手を伸ばしていた。
その手の先は既に溶けかけ、形を留めていなかった。
どちらの顔も、叫びの途中で止まっていた。
そして、もう一人の少女は――
その子だけは、両手と両足だけが綺麗に残っていた。
だが、胴体や頭部にあたる部分はまるで“何者かに繊細に削り取られた”ように、存在そのものを抉られていた。
切断面すら美しかった。だからこそ、異常だった。
運命が一歩、足を踏み出した。
トロイはまだ動けないまま、ただその中に――ただ一人だけ、原型を保っている存在を見つめていた。
リンデン。
広場の中心に、ぽつんと座り込んでいた。
両手をだらりと膝に落とし、顔は地面の一点を見つめたまま。
身体には返り血のような黒い霊子の飛沫が点々と付着し、服はところどころ裂けていた。
目は虚ろだった。声も出さない。息をしているのかすら、分からなかった。
あの静かな少年が、全ての中心にいた。
――その時だった。
空間の端、広場の出入り口から、誰かの悲鳴が響いた。
「ユナ……!? ユナ……うそ、うそでしょ……っ、いやあああああああッ!!」
親だ。
リンデンではない、別の誰かを“中心”に生きていた者たち。
泣き崩れ、地に倒れ、もはや原型を留めない死体に縋りつく姿がそこにあった。
それは、ユナの母親だった。
氷結した紙のようなその身体を、彼女は折れることも気にせず抱き締め、叫んだ。
「ユナ! ねえ、ユナ! こんな……こんなのおかしい、ねえ……っ! ユナってば!!」
次々に、他の保護者たちも駆け込んでくる。
「返して……! 返してよ、うちの子を返してぇぇっ!!」
「うそだろ……なぁ、こんなの違うよな!? どこだよ、うちの子はどこに……ッ!」
「やだやだやだやだやだッ……! 嫌ああああッ!」
歪んだ死体に縋りつく。
消えた顔を撫で、溶けた腕を握りしめ、無くなった胴体の空洞に向かって呼びかける。
その叫びは、この異常空間に唯一“正しい感情”をもたらしていた。
そして、リンデンは――その中で、ようやく気付いた。
斜め後方から伸びる、気配。
息を殺して見つめてくる、あの仮面の視線。
運命だ。
そして、トロイもいる。
リンデンの肩が、小さく震えた。
首が、ゆっくりと動く。顔を上げ、少しだけ振り返ると――そこに、見慣れた姿があった。
自分を育ててくれた人。
守ってくれた人。
許してくれた人たち。
その姿を目にした瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
視界が滲んだ。喉が、熱くなった。
込み上げてくる涙が、今にも――
「泣けば……泣けば全部許されると思うなよッ!!」
怒声が、雷鳴のように響いた。
振り返った先。
ユナの母親が、こちらを指さしていた。
それは、誰に向けられた言葉か――明白だった。
リンデンの目が、見開かれる。
その瞬間、目尻に浮かんだ涙は、止まった。
まるで時間が凍ったように、彼の全身が静止した。
――泣いてはいけない。
泣いたら、全部が嘘になる。
それは、赦しを乞う行為になってしまう。
そんな資格、自分にはない。
唇が、ぎゅっと噛み締められる。震える小さな手が、膝の上で握られる。
運命は、一歩を踏み出そうとした。
けれどその足は、痛みを受けた子供の沈黙に遮られたまま、止まっていた。
彼は、泣かなかった。
いや。
泣けなかったのだ。
――数分後。
広場に、重たい足音が響き渡った。
軍事局所属のガーデナー部隊。そして、状況制御を担うGARDENの保安職員たちが、次々と現場に流れ込んできた。
隊員たちは迅速に布陣し、武装を展開する。
周囲の空間は、もはや“沈黙”という名の死に包まれていた。
神域は既に消失していた。
だが、残留する霊子の濃度、周囲の歪み、そして――“五つの死”。
ただの子供たちの遊び場だった場所は、もう、そうではなかった。
保安職員たちは、悲鳴をあげてすがる保護者たちに即座に鎮静処置を施し、泣き叫ぶ声は次第にくぐもり、静かに運び去られていった。
大人たちの言葉は届かず、意思も届かず。この空間だけが、まるで現実と切り離されたように存在していた。
霊子解析ドローンが空間を漂い、解析結果をはじき出す。
発生源は――中央にいた、小さなひとりの子供。
リンデン、と特定された。
「対象、発生源に一致。拘束処理に移行する」
淡々と告げられた処理宣言と共に、隊員のひとりが一歩を踏み出す。
展開された拘束ユニットが、小さな体に向けられた。
「――下がって」
空気を裂くように、低い声が割って入る。
その場の温度が一瞬にして変わった。
トロイ。
さきほどまでの柔らかく間延びした声ではない。
語尾も伸びず、感情の輪郭すらも削ぎ落とした、冷たい静止。
彼女はリンデンの前に歩み出て、片腕をやや横に伸ばす。
まるで、誰にも触れさせないというように。
「こちらは軍事局の内部保全部隊。事件発生時点から、現場制圧と情報回収は我々の管轄下にある」
隊員の一人が前に出て、抗議を交えた声音で応じる。
『それなら』
その言葉に、静かに割って入ったのは、運命だった。
『騎士である彼女を連れていって。私は、総司令のもとに向かうから』
仮面のディスプレイに浮かぶその言葉は、命令でも要請でもない。
ただ、結果としての決定だった。
「ですが、それは――」
『“こちら”の騎士が、責任を持つ。いいよね、トロイ』
隊員が何かを言いかけたが、それより早くトロイが頷いた。
「……うん。任せて」
その返事は、いつもの彼女の声に少しだけ、戻っていた。
運命はその様子を確認し、一度だけ頷いた。
それだけで、全てが決まる。
トロイは、立ち尽くしたままのリンデンのそばにしゃがみ込んだ。
彼女はゆっくりと、優しく手を伸ばす。
「リンデンちゃん……行こっか」
その声だけは、誰よりも柔らかかった。
責めない声だった。
叱らない声だった。
ただ、共に歩こうと差し出された手。
だが――リンデンは、その手を掴めなかった。
震えていた。
肩が、小さく、小さく、痙攣するように揺れていた。
顔を上げることもできず、声も出せず。ただ彼の小さな体は、崩れてしまいそうなほどに、静かに震えていた。
トロイは何も言わず、そのまま横に座り込んだ。
触れることも、強いることもせずに。
――その小さな背中に、そっと、自分の体温を預けるだけだった。
極小神域事件から、およそ十二時間が経過していた。
事態の全容が掴めぬまま、収容と記録と、上層部への報告が同時並行で進められる。
被害者の親たちは既に鎮静化処置を施され、居住区へと強制移送された。
現場に居合わせた者たちは口を閉ざし、そして誰よりも――そこに座っていたあの子だけが、何も発さなかった。
神域は消えていた。
だが、その“残り香”は広場全体を染め上げていた。
霊子計測値は限界を振り切っており、構造歪曲の痕跡も鮮明に残る。
それは明らかに、「神域による空間再編成」が発生したことを示していた。
そして、中心にいたのは、たった一人――リンデンだった。
会議の席に、誰も明確な言葉を出せなかった。
ただ、無言の圧力と、文書に記されたリスク評価値が、すべてを物語っていた。
《未申請霊子異常発現体》
《起源非特定神域疑似発露》
《因果汚染指数:A-上限》
《極小神域発生源:個体 L》
――隔離が決定されたのは、事件発生から十三時間後。
それは議論ではなく、ただの処理だった。
誰も「仕方ない」とは言わなかった。
けれど、「他に方法がない」とは、全員が理解していた。
隔離室は、ランヴィリズマ深層の第七区画の奥にあった。
完全遮音、完全遮光、外界との霊子干渉すら遮断された六面体の空間。
そこに通されたリンデンは、事件当日とほとんど変わらぬ姿で、薄いベッドの上に蹲っていた。
目を閉じない。声を出さない。誰も見ない。
ただ、指先を胸の前で固く組み、折れるほど強く握っていた。
扉が静かに開いたのは、その日の夜。
軋むことすら許されないような静寂の中、そこに現れたのは、修道服を纏ったひとりの騎士だった。
トロイメライ。
彼女は、何も言わず、何も問わず、ただリンデンの隣に腰を下ろした。
その夜、彼らは一言も交わさなかった。
トロイは自分の外套を外し、リンデンの肩にかけてやった。
リンデンは反応しなかった。ただ、少しだけ、肩が震えた。
呼吸があった。生きている。それだけで、十分だった。
二日目の朝、トロイは簡易調理器で温かいスープを用意した。
具はほとんど入っていない、味気ないものだったけれど――それでも温かかった。
「リンデンちゃん、ごはんだよー。ちょっとだけでいいから、ね?」
言葉は届かないようだった。けれど、彼女は無理には食べさせなかった。
スプーンで一口分をすくい、小皿に移し、ただ静かに、それをベッドサイドに置いた。
夜になって、リンデンの唇がほんのわずかに濡れていた。
スープは半分以上残っていたが、数口分――確かに減っていた。
それを見て、トロイは「えらいねー」と、声に出さずに笑った。
その微笑みは、誰にも見せるつもりのない、ほんの一瞬のものだった。
三日目、トロイは聖槍を壁に立てかけ、正面から床に座った。
リンデンは変わらず目を伏せていたが、ほんの少しだけ、視線が動いた。
「懺悔でもしてみるー? それとも、トロイさんが先にする?」
声に反応はなかった。だが、その無反応は“聞いていない”のではなく、“聞いているのに、答えられない”という種類の沈黙だった。
だから、トロイはそれで十分だと思った。
その日の夜、リンデンは初めて“眠った”。
縮こまったまま、眉間に皺を寄せて、まるで怯えるように、浅く短い眠りを繰り返していた。
トロイは彼のそばに毛布を敷き、自分も床で横になった。
「……大丈夫だよ。トロイさんは、ここにいるからねー」
誰にも届かないような小さな声で、そう呟いた。
リンデンの手が、ほんの少しだけ、彼女の方へ動いたように見えた。
四日目の朝、室内にはまた、淡いスープの香りが漂っていた。
温度と湿度、空調は一定に保たれているはずの空間なのに、その香りはなぜか“朝の匂い”に思えた。
「リンデンちゃん、おはようー。今日はね、パプリカとにんじん入りだよー。ちゃんとやわらかくしたからねー」
返事はない。けれど、トロイは気にしない。
「……今日はね、ちょっと昔の話してもいいかな?」
そう言いながら、彼女はスープをすくって、そっとベッドサイドの小皿に分けた。
「トロイさん、子供のころにねー。お友達を、ひとり……すごく傷つけちゃったことがあったんだー」
声に熱はない。けれど、冷たさもない。
「悪気があったわけじゃないよー?でも、言葉ってさー、ナイフみたいに鋭い時あるじゃん? ちょっとしたすれ違いで、大事な人をずっと傷つけちゃうこともあるんだよー」
ベッドの上の少年は、まだまばたきひとつしない。
けれど、その小さな肩がわずかに――ごくわずかにだけど――呼吸で上下しているのが見えた。
五日目。
朝の光がゆっくりとカーテン越しに差し込み、淡い橙色がベッドを照らしていた。
トロイは今日は本もスープも置かず、ただ静かに、リンデンの隣の床に座っていた。
「……トロイさんねー、前に、ある子の最期を看取ったことがあったのー」
その言葉に、リンデンは顔を上げなかった。けれど、まぶたがわずかに揺れた。
「その子ねー、最後まで“自分のことなんて赦されない”って言ってたよー。誰にも赦してもらえなかったわけじゃないのに、自分で自分を赦せなかったの」
トロイはゆっくりと、組んでいた膝に頬を乗せる。
「……だからねー、トロイさんは思うんだー。
“赦されること”と“赦してあげること”は別の話だよーって」
少しの沈黙。
冷めた空気が部屋の隅を這うように流れていく。
「リンデンちゃんが、自分のことを赦せないなら……誰かが代わりに、それを抱えてあげればいいんじゃないかなーって、トロイさんは、そう思うんだー」
彼女は、ふっと笑った。少し照れくさそうに。
「……もちろん、抱えても簡単に癒えるもんじゃないし、時々ズシンと重くなるけどねー。でもさー、それでリンデンちゃんがほんの少しでも、楽になれるなら……そっちのほうが、ずっといいよねー?」
その瞬間だった。
リンデンの肩が、ほんのわずか――震えた。
呼吸が詰まるように、小さく。けれど、確かに。
「ねー、リンデンちゃん。トロイさんが代わりに背負うって言ったら、リンデンちゃんは……」
――そこまで言って、トロイは口を閉じた。
無理に答えさせるつもりはない。ただ、心に言葉を置いていくだけ。
部屋の時計が、静かに秒針を刻んでいた。
六日目。
この日は、リンデンはスープに口をつけなかった。
トレイの上の湯気は、もうとうに消えていた。
彼は、何かを見つめていた――けれど、その視線の先には“何もなかった”。
無機質な天井。閉ざされた銀灰色の壁。
光は人工照明の柔らかな反射だけで、時間の感覚すら曖昧な空間。
それでも、彼は目を閉じない。
見えない何かを探すように、視線を漂わせ、壁の一角にじっと目をやる。
まるで、そこに自分の“影”がいるかのように。
トロイは、いつものように隣に腰を下ろした。
そっと膝を抱えて、同じ高さに座り込む。
「ねー、リンデンちゃん。……トロイさんねー、たまに考えるんだー」
「“魂”って、どこにあるのかなーって」
語る声は穏やかだったが、その奥に揺れるものは確かだった。
「頭? 心臓? それとも、手かなー……誰かの手をぎゅって握るとね、“この人、生きてる”って思えるからー」
ゆっくりと、彼女はリンデンのそばに手を伸ばす。
その手は決して強くない。そっと、空気を押すように――ほんの数センチ先で止まる。
リンデンの肩が、かすかに震えた。
明確な拒否ではない。ただ、防御本能のように。
トロイはそれ以上、触れようとしなかった。
代わりに、かすかに微笑んだ。
「……無理に掴まなくていいよー。でもね、トロイさんは、ここにいるから」
「触れたくなったらでいいんだよー。手が欲しいって思えたら、いつでも」
その言葉に、リンデンはゆっくりと首を傾けた。
わずかに、ほんのわずかに――彼女の方へ。
何も言わない。動きも小さい。
けれどその“ずれた視線”だけが、唯一の返事だった。
彼の世界が、わずかに誰かを映しはじめた。
その夜、リンデンは眠りの中で、小さく誰かの名前を呼んだ――声にはならないほどの、小さな、小さな“音”で。
七日目。
目覚めた時、まだ部屋の中は静かだった。
天井の明かりは柔らかく調光されていて、時間の概念を完全には失わせない程度の配慮が施されている。
けれど、ここには朝も夜もない。ただ、眠るか、起きているか。それだけの空間だった。
リンデンは、毛布の中で微かに身じろぎした。
隣に敷かれた簡易ベッドには、変わらずトロイがいた。
いつもと同じ姿勢で仰向けに寝ている――ように見えたが、その瞼はほんのわずかに震え、目を開いた。
彼女は、最初から眠ってなどいなかった。
「……おはよー、リンデンちゃん」
声は囁くように、けれど確かに耳に届く。
リンデンは、ほんの少し、瞬きした。
その反応に、トロイの顔が柔らかくほどける。
「ふふー、今日は朝って分かったのかなー。えらいねー、ちゃんと世界に『おはよう』できたねー」
ベッドの端に座ったトロイは、すぐに傍らのスープを差し出した。
彼女が毎朝欠かさず作ってくれる、やや甘めの温スープだ。
リンデンは何も言わなかった。けれど、視線はスープへと動いていた。
無関心ではない。それは、今日が“少し違う日”である証だった。
「……ねえ、リンデンちゃん」
「この部屋って、味気ないでしょー。外も見えないし、音もないし。なんもなくて草も生えないー」
そう言って、トロイはぽそりと笑う。
そして、枕元に置かれた小さな箱を取り出した。
中にあったのは、折り紙で作られた小さな花。
昨日の夜、彼女が静かに作っていたものだ。
「これねー、あっちの隅っこに咲かせてみるよー。……誰かが誰かのために作ったもので、ちょっとだけこの部屋が世界っぽくなるといいなー、って思って」
そう言って彼女は立ち上がり、部屋の壁際にそっと花を貼り付けた。
折り紙の紫陽花。それは静かな隔離室の中に咲いた、たったひとつの色だった。
リンデンは、それを――見ていた。
じっと、瞬きもせず。
トロイが戻ってくると、そっと口元をほころばせた。
「……おかわりはまだあげないからねー?」
「まずは、ひとくちからー」
その冗談に、リンデンは無言のまま――けれど、スプーンを取った。
ゆっくりと、慎重に。まるで壊れ物を扱うように。
それは、たしかな一歩だった。
八日目。
温度のない朝だった。
この部屋に時間はなくても、ふたりの間には“習慣”があった。
目覚めて、顔を向ける。
リンデンの視線の先には、やはりトロイがいた。
彼女は今日も眠ってなどいなかった。
「おはよー、リンデンちゃん」
昨日と同じ言葉。けれど、トロイは知っていた。
言葉とは、昨日と今日の違いをつなぐ、ささやかな魔法なのだと。
リンデンは、わずかにまぶたを動かした。
けれど声は出さなかった。それでも十分だった。
トロイは起き上がり、ベッドの縁に腰掛けて、手にしていたカップを差し出した。
ほんのりと香るミルクティー。昨日より少し甘めにしてあった。
「今日はねー、トロイさん、自信作だよー。ちゃんとミルクと茶葉にお祈りしたから、祝福済みなやつー」
冗談めかして差し出す手の中で、カップは湯気を揺らしていた。
リンデンの手が、そろりと動く。
躊躇いがちに差し出された小さな手が、トロイの指先に、かすかに触れた。
――ぴたり、と時間が止まった。
トロイは、動かない。
触れた指をすぐには離さない。
ただ、その小さな手を、両手でそっと包んだ。
温度を、感じさせるように。
存在を、伝えるように。
「リンデンちゃんの手ってさー、あったかいねー……ちゃんと、生きてるんだなーって思ったよー」
ぽつりと零れたその言葉に、リンデンの指が、かすかに震えた。
けれど、その手は引っ込まなかった。
トロイは、笑った。
「ありがとー。受け取ってくれて」
「こうして触ってくれたこと、トロイさん、ずっと忘れないよー」
ゆっくりと、カップはリンデンの手に渡された。
小さな指がぎこちなく、けれどしっかりと、それを握り締めていた。
その日、リンデンは一言も声を出さなかった。
けれど――それでもトロイは、確かに感じていた。
この子は、世界と、手をつなぎ直そうとしている。
九日目。
朝のルーチンは、変わらなかった。
トロイはいつものように先に目覚めていて、隣のベッドに寝転んだままリンデンの寝顔を見守っていた。
仮眠とは呼べないような浅い眠りの中、彼の睫毛が揺れ、まぶたがわずかに開いた。
「……おはよー、リンデンちゃん」
囁くように言葉をかける。
リンデンの唇が、微かに動いた。
かすれた、ほとんど聞き取れない声だった。
「……おは、よ……」
それは、九日目にして初めて、トロイが受け取った“声”だった。
トロイの胸が、小さく震えた。
けれどそれを見せないように、微笑を浮かべる。
「わー……今の、トロイさん録音しておきたかったなー。お宝ボイスすぎて、保存用・視聴用・崇拝用に分けたいレベルで花ー」
冗談めかした声に、リンデンの唇がほんの少しだけ持ち上がった。
笑った、というには程遠い。
それでも、これは“反応”だった。
朝食を並べる頃には、リンデンは自分から身体を起こしていた。
まだトロイが皿を並べている最中――ふいに、彼女の腰のあたりに、そっと細い指先が触れた。
「……てつだ、うね……」
震えていた。
でも、触れようとしていた。
誰かと繋がろうとする、その意志が、そこには確かに宿っていた。
「……うん、じゃあ、お願いしよっかなー」
トロイは何も言わず、そのままそっと小皿を渡す。
ふたりで並んで机を整えた。
何気ない朝の支度――この隔離空間の中では、奇跡のような時間だった。
食事を終えたあと、少しだけ間ができた。
トロイは自分の寝床に背を預けながら、手を差し出した。
「ねー、リンデンちゃん。ちょっとだけ、来るー?」
「トロイさんのわがまま、付き合ってくれるとうれしいなー」
リンデンは迷ったように視線をさまよわせ、やがて静かに歩み寄る。
そして、差し出された手に、自分の手を重ねた。
その手を、トロイが引いた。
ほんの少し、自分のほうに――。
自然に、彼の小さな身体は、トロイの胸元におさまった。
「んー……今日も頑張ったねー、リンデンちゃん」
「えらい、すごい、やさしい、がんばり屋さん。トロイさんのいちばんの自慢の子ー」
くすぐるような声でそう囁きながら、トロイは彼の背をゆっくりと撫でた。
リンデンは何も言わなかったけれど、もう逃げなかった。
小さな手が、ぎゅっとトロイの服の端を掴んだ。
十日目。
朝、トロイが目を覚ました時、ベッドの隣はすでに空だった。
軽く目をこすりながら身体を起こすと、視界の端でゆっくりと動く小さな背中が見えた。
リンデンだった。
机の前に立ち、器用とは言えない手つきでコップを並べている。
まだ不安定な動きではあったけれど、その肩は、ほんの少しだけ堂々として見えた。
「……おはよー、リンデンちゃん」
声をかけると、リンデンはびくりと肩を揺らした。
でもすぐに、小さく頷いて振り返る。
「……おは、よ……」
その声はまだ掠れていたが、十日目にしてはっきりとトロイに向けられた“挨拶”だった。
「ふふー、今日も声聞けて、トロイさんしあわせ過ぎて花ー」
そう言いながら近づいてくる彼女に、リンデンは手に持ったコップをそっと渡した。
「これ、……ここに、おく、んだよね?」
「そうそう、ありがとー。もう完璧、トロイさんの優等生アシスタントだねー」
朝食を終えた後、ふたりは寄り添ってソファの上に座っていた。
映像も音楽も無い。
けれど、静寂はもう“怖いもの”ではなくなっていた。
「……トロイおねえ、ちゃん」
ぽつりと、リンデンが名前を呼んだ。
それは、彼のほうから出た初めての呼びかけだった。
「なあにー?」
トロイが顔を向けると、リンデンは少しだけ視線を伏せたまま、もぞもぞと服の裾をいじっていた。
「……こわいゆめ、みた」
「そっかー……どんな夢だったー?」
「みんなが、いなくなって……おねえちゃんも、いなくて……」
声はかすかに震えていた。
でも、泣き出したりはしなかった。
トロイは黙って、そっと腕を差し伸べた。
「じゃあ、いなくならないように――今からずっと、トロイさんがぎゅってしててあげるねー」
その日、昼寝の時間。
ふたりはベッドの上で、初めて自然に“抱き合って”眠った。
リンデンの背は小さく、指先はまだ冷たかったけれど、
腕の中に収まったその体温は、確かにトロイの胸をあたためていた。
リンデンもまた、はじめて自分から、トロイに小さな腕をまわした。
「……とろいおねえちゃん、だいすき」
トロイの胸元で、くぐもった声が呟かれた。
彼女は驚かなかった。
ただ、静かに、その頭を撫でる。
「うん。トロイさんも、だいすきだよー。だいじな、だいじなリンデンちゃん」
やわらかな重なり。
涙は流れなかった。けれど、その抱擁は――確かに、心を癒やす光だった。
リンデンは、まだ震えていた。
それでも、夜の暗さよりもトロイの体温を信じられるようになった日だった。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
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ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
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息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
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叡智閑話
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イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった