みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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5歳児と謝罪.2

 足音が、廊下を打つ。

 スライドドアが開かれるよりも先に、二人の身体は動いていた。

 非常通達が鳴り響く第六層、居住区画。その中を――二対の足が駆け抜けていく。

 薄桃色の髪が風に流れ、黒い仮面が光を反射する。

 トロイメライが先頭を走る。編み込んだ髪が跳ね、聖槍の柄が背にぶつかるたびに微かな金属音が鳴った。

 後ろを追うのは、皇帝――久条運命。仮面をつけたまま、息ひとつ乱さずぴたりと追随する。

 

「陛下、通信開くよー。非常帯域で割り込み――」

 

『うん。ブレイドラインに展開準備だけ通して』

 

 仮面越しに即答する声には、まだ冷静さがあった。

 だが、その手は、仮面の端に触れたまま。通信処理と情報整理を同時にこなしている。

 トロイの目が鋭く細まる。

 

「第六層の警戒レベル、手動で昇格しとくねー。たぶんこれは“待ってたら遅い”やつだと思うー……」

 

『観測情報、微細揺らぎから0.2秒で赤に跳ね上がった。異常、自然発生じゃないね』

 

「ってことは……やっぱり、神域、かー」

 

 その言葉が初めて口にされた瞬間、空気が変わった。

 二人の速度が、さらに上がる。

 廊下を吹き抜ける冷風が、ほんのわずかに濁っていた。

 霊子の流れ。粒子の逆流。運命の仮面に、警告表示が立ち上がる。

 

 ――第六層、中央庭園広場。空間法則異常。精神波濃度、危険域に到達。

 

 トロイの唇が、わずかに震えた。

 そこは、子供たちが集まる場所だった。

 

「……間に合って、間に合って、お願いだから――」

 

 声が漏れた。普段の間延びした語尾は、もうどこにもなかった。

 曲がり角を抜けた瞬間、空気が変わった。

 吹き抜けていた空調が止まり、代わりに皮膚をなぞるような重たい圧が二人を包む。

 目に見えない膜が空間を覆い、霊子濃度が異常な域に達していることを告げていた。

 

「……ここ、だねー」

 

 トロイが低く息を吐く。

 アクセスゲートの非常遮断ラインは既に開放されている。

 だが、その先からは、風も音も――感情すらも流れてこない。

 ふたりは言葉を交わさず、並んでその一歩を踏み込んだ。

 

 そして、目にした。

 その広場は、もはや“広場”ではなかった。

 地形も構造も歪み、空間の座標そのものが狂っていた。

 人工庭園だったはずの空間は、ねじれ、裂け、漂っていた。

 かつて木々が並んでいた位置には、焼け焦げた根の名残が点在し、地面は溶け、剥がれ、天井の明かりすらまともに届いていない。

 そして、そこに――“彼ら”がいた。

 ――いや。

 正確には、“彼らだったもの”。

 トロイは言葉を失った。

 運命は仮面の奥で、息を飲んだまま動かない。

 一体、何が起きたのか。どうしてこんなことが起こり得るのか。

 それを言語に変える暇もなく、目の前にはただ、五つの死が、異形の形で転がっていた。

 

 最も目を引いたのは、カイだった。

 彼の身体は、輪郭だけを残したまま、まるで中身をミキサーにかけられたように攪拌されていた。

 皮膚は薄膜のように引き延ばされ、内側にあったはずの臓器や骨は液状になって滲み、絶えずうねっている。

 

 そのすぐ近く、ユナの身体は異常なほどに薄く、そして長く引き伸ばされていた。

 あたかも紙のように地面を這い、全長は元の50倍を優に超える。

 そこに走る無数の細かい亀裂は、彼女の命の終わりではなく、“まだ割れ続けている”ことを示していた。

 表面には白く霜が降りており、まるで氷の結晶のような死だった。

 

 双子の子供は、背中合わせで融合していた。

 身体の前半分同士が癒着し、骨格が入り混じったまま、互いに“助けて”とでも言いたげに手を伸ばしていた。

 その手の先は既に溶けかけ、形を留めていなかった。

 どちらの顔も、叫びの途中で止まっていた。

 

 そして、もう一人の少女は――

 その子だけは、両手と両足だけが綺麗に残っていた。

 だが、胴体や頭部にあたる部分はまるで“何者かに繊細に削り取られた”ように、存在そのものを抉られていた。

 切断面すら美しかった。だからこそ、異常だった。

 

 運命が一歩、足を踏み出した。

 トロイはまだ動けないまま、ただその中に――ただ一人だけ、原型を保っている存在を見つめていた。

 

 リンデン。

 

 広場の中心に、ぽつんと座り込んでいた。

 両手をだらりと膝に落とし、顔は地面の一点を見つめたまま。

 身体には返り血のような黒い霊子の飛沫が点々と付着し、服はところどころ裂けていた。

 目は虚ろだった。声も出さない。息をしているのかすら、分からなかった。

 あの静かな少年が、全ての中心にいた。

 ――その時だった。

 空間の端、広場の出入り口から、誰かの悲鳴が響いた。

 

「ユナ……!? ユナ……うそ、うそでしょ……っ、いやあああああああッ!!」

 

 親だ。

 リンデンではない、別の誰かを“中心”に生きていた者たち。

 泣き崩れ、地に倒れ、もはや原型を留めない死体に縋りつく姿がそこにあった。

 それは、ユナの母親だった。

 氷結した紙のようなその身体を、彼女は折れることも気にせず抱き締め、叫んだ。

 

「ユナ! ねえ、ユナ! こんな……こんなのおかしい、ねえ……っ! ユナってば!!」

 

 次々に、他の保護者たちも駆け込んでくる。

 

「返して……! 返してよ、うちの子を返してぇぇっ!!」

「うそだろ……なぁ、こんなの違うよな!? どこだよ、うちの子はどこに……ッ!」

「やだやだやだやだやだッ……! 嫌ああああッ!」

 

 歪んだ死体に縋りつく。

 消えた顔を撫で、溶けた腕を握りしめ、無くなった胴体の空洞に向かって呼びかける。

 その叫びは、この異常空間に唯一“正しい感情”をもたらしていた。

 

 そして、リンデンは――その中で、ようやく気付いた。

 斜め後方から伸びる、気配。

 息を殺して見つめてくる、あの仮面の視線。

 運命だ。

 そして、トロイもいる。

 リンデンの肩が、小さく震えた。

 首が、ゆっくりと動く。顔を上げ、少しだけ振り返ると――そこに、見慣れた姿があった。

 自分を育ててくれた人。

 守ってくれた人。

 許してくれた人たち。

 その姿を目にした瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。

 視界が滲んだ。喉が、熱くなった。

 込み上げてくる涙が、今にも――

 

 

 

 

 

 

「泣けば……泣けば全部許されると思うなよッ!!」

 

 怒声が、雷鳴のように響いた。

 

 振り返った先。

 ユナの母親が、こちらを指さしていた。

 それは、誰に向けられた言葉か――明白だった。

 リンデンの目が、見開かれる。

 その瞬間、目尻に浮かんだ涙は、止まった。

 まるで時間が凍ったように、彼の全身が静止した。

 ――泣いてはいけない。

 泣いたら、全部が嘘になる。

 それは、赦しを乞う行為になってしまう。

 そんな資格、自分にはない。

 唇が、ぎゅっと噛み締められる。震える小さな手が、膝の上で握られる。

 運命は、一歩を踏み出そうとした。

 けれどその足は、痛みを受けた子供の沈黙に遮られたまま、止まっていた。

 

 彼は、泣かなかった。

 いや。

 泣けなかったのだ。

 

 ――数分後。

 広場に、重たい足音が響き渡った。

 軍事局所属のガーデナー部隊。そして、状況制御を担うGARDENの保安職員たちが、次々と現場に流れ込んできた。

 隊員たちは迅速に布陣し、武装を展開する。

 周囲の空間は、もはや“沈黙”という名の死に包まれていた。

 神域は既に消失していた。

 だが、残留する霊子の濃度、周囲の歪み、そして――“五つの死”。

 ただの子供たちの遊び場だった場所は、もう、そうではなかった。

 保安職員たちは、悲鳴をあげてすがる保護者たちに即座に鎮静処置を施し、泣き叫ぶ声は次第にくぐもり、静かに運び去られていった。

 大人たちの言葉は届かず、意思も届かず。この空間だけが、まるで現実と切り離されたように存在していた。

 霊子解析ドローンが空間を漂い、解析結果をはじき出す。

 発生源は――中央にいた、小さなひとりの子供。

 リンデン、と特定された。

 

「対象、発生源に一致。拘束処理に移行する」

 

 淡々と告げられた処理宣言と共に、隊員のひとりが一歩を踏み出す。

 展開された拘束ユニットが、小さな体に向けられた。

 

「――下がって」

 

 空気を裂くように、低い声が割って入る。

 その場の温度が一瞬にして変わった。

 

 トロイ。

 さきほどまでの柔らかく間延びした声ではない。

 語尾も伸びず、感情の輪郭すらも削ぎ落とした、冷たい静止。

 彼女はリンデンの前に歩み出て、片腕をやや横に伸ばす。

 まるで、誰にも触れさせないというように。

 

「こちらは軍事局の内部保全部隊。事件発生時点から、現場制圧と情報回収は我々の管轄下にある」

 

 隊員の一人が前に出て、抗議を交えた声音で応じる。

 

『それなら』

 

 その言葉に、静かに割って入ったのは、運命だった。

 

『騎士である彼女を連れていって。私は、総司令のもとに向かうから』

 

 仮面のディスプレイに浮かぶその言葉は、命令でも要請でもない。

 ただ、結果としての決定だった。

 

「ですが、それは――」

 

『“こちら”の騎士が、責任を持つ。いいよね、トロイ』

 

 隊員が何かを言いかけたが、それより早くトロイが頷いた。

 

「……うん。任せて」

 

 その返事は、いつもの彼女の声に少しだけ、戻っていた。

 運命はその様子を確認し、一度だけ頷いた。

 それだけで、全てが決まる。

 トロイは、立ち尽くしたままのリンデンのそばにしゃがみ込んだ。

 彼女はゆっくりと、優しく手を伸ばす。

 

「リンデンちゃん……行こっか」

 

 その声だけは、誰よりも柔らかかった。

 責めない声だった。

 叱らない声だった。

 ただ、共に歩こうと差し出された手。

 だが――リンデンは、その手を掴めなかった。

 震えていた。

 肩が、小さく、小さく、痙攣するように揺れていた。

 顔を上げることもできず、声も出せず。ただ彼の小さな体は、崩れてしまいそうなほどに、静かに震えていた。

 トロイは何も言わず、そのまま横に座り込んだ。

 触れることも、強いることもせずに。

 ――その小さな背中に、そっと、自分の体温を預けるだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 極小神域事件から、およそ十二時間が経過していた。

 事態の全容が掴めぬまま、収容と記録と、上層部への報告が同時並行で進められる。

 被害者の親たちは既に鎮静化処置を施され、居住区へと強制移送された。

 現場に居合わせた者たちは口を閉ざし、そして誰よりも――そこに座っていたあの子だけが、何も発さなかった。

 神域は消えていた。

 だが、その“残り香”は広場全体を染め上げていた。

 霊子計測値は限界を振り切っており、構造歪曲の痕跡も鮮明に残る。

 それは明らかに、「神域による空間再編成」が発生したことを示していた。

 そして、中心にいたのは、たった一人――リンデンだった。

 会議の席に、誰も明確な言葉を出せなかった。

 ただ、無言の圧力と、文書に記されたリスク評価値が、すべてを物語っていた。

 

 《未申請霊子異常発現体》

 《起源非特定神域疑似発露》

 《因果汚染指数:A-上限》

 《極小神域発生源:個体 L》

 

 ――隔離が決定されたのは、事件発生から十三時間後。

 それは議論ではなく、ただの処理だった。

 誰も「仕方ない」とは言わなかった。

 けれど、「他に方法がない」とは、全員が理解していた。

 

 

 隔離室は、ランヴィリズマ深層の第七区画の奥にあった。

 完全遮音、完全遮光、外界との霊子干渉すら遮断された六面体の空間。

 そこに通されたリンデンは、事件当日とほとんど変わらぬ姿で、薄いベッドの上に蹲っていた。

 目を閉じない。声を出さない。誰も見ない。

 ただ、指先を胸の前で固く組み、折れるほど強く握っていた。

 扉が静かに開いたのは、その日の夜。

 軋むことすら許されないような静寂の中、そこに現れたのは、修道服を纏ったひとりの騎士だった。

 トロイメライ。

 彼女は、何も言わず、何も問わず、ただリンデンの隣に腰を下ろした。

 その夜、彼らは一言も交わさなかった。

 トロイは自分の外套を外し、リンデンの肩にかけてやった。

 リンデンは反応しなかった。ただ、少しだけ、肩が震えた。

 呼吸があった。生きている。それだけで、十分だった。

 

 

 二日目の朝、トロイは簡易調理器で温かいスープを用意した。

 具はほとんど入っていない、味気ないものだったけれど――それでも温かかった。

 

「リンデンちゃん、ごはんだよー。ちょっとだけでいいから、ね?」

 

 言葉は届かないようだった。けれど、彼女は無理には食べさせなかった。

 スプーンで一口分をすくい、小皿に移し、ただ静かに、それをベッドサイドに置いた。

 夜になって、リンデンの唇がほんのわずかに濡れていた。

 スープは半分以上残っていたが、数口分――確かに減っていた。

 それを見て、トロイは「えらいねー」と、声に出さずに笑った。

 その微笑みは、誰にも見せるつもりのない、ほんの一瞬のものだった。

 

 

 三日目、トロイは聖槍を壁に立てかけ、正面から床に座った。

 リンデンは変わらず目を伏せていたが、ほんの少しだけ、視線が動いた。

 

「懺悔でもしてみるー? それとも、トロイさんが先にする?」

 

 声に反応はなかった。だが、その無反応は“聞いていない”のではなく、“聞いているのに、答えられない”という種類の沈黙だった。

 だから、トロイはそれで十分だと思った。

 その日の夜、リンデンは初めて“眠った”。

 縮こまったまま、眉間に皺を寄せて、まるで怯えるように、浅く短い眠りを繰り返していた。

 トロイは彼のそばに毛布を敷き、自分も床で横になった。

 

「……大丈夫だよ。トロイさんは、ここにいるからねー」

 

 誰にも届かないような小さな声で、そう呟いた。

 リンデンの手が、ほんの少しだけ、彼女の方へ動いたように見えた。

 

 

 四日目の朝、室内にはまた、淡いスープの香りが漂っていた。

 温度と湿度、空調は一定に保たれているはずの空間なのに、その香りはなぜか“朝の匂い”に思えた。

 

「リンデンちゃん、おはようー。今日はね、パプリカとにんじん入りだよー。ちゃんとやわらかくしたからねー」

 

 返事はない。けれど、トロイは気にしない。

 

「……今日はね、ちょっと昔の話してもいいかな?」

 

 そう言いながら、彼女はスープをすくって、そっとベッドサイドの小皿に分けた。

 

「トロイさん、子供のころにねー。お友達を、ひとり……すごく傷つけちゃったことがあったんだー」

 

 声に熱はない。けれど、冷たさもない。

 

「悪気があったわけじゃないよー?でも、言葉ってさー、ナイフみたいに鋭い時あるじゃん? ちょっとしたすれ違いで、大事な人をずっと傷つけちゃうこともあるんだよー」

 

 ベッドの上の少年は、まだまばたきひとつしない。

 けれど、その小さな肩がわずかに――ごくわずかにだけど――呼吸で上下しているのが見えた。

 

 

 

 五日目。

 朝の光がゆっくりとカーテン越しに差し込み、淡い橙色がベッドを照らしていた。

 トロイは今日は本もスープも置かず、ただ静かに、リンデンの隣の床に座っていた。

 

「……トロイさんねー、前に、ある子の最期を看取ったことがあったのー」

 

 その言葉に、リンデンは顔を上げなかった。けれど、まぶたがわずかに揺れた。

 

「その子ねー、最後まで“自分のことなんて赦されない”って言ってたよー。誰にも赦してもらえなかったわけじゃないのに、自分で自分を赦せなかったの」

 

 トロイはゆっくりと、組んでいた膝に頬を乗せる。

 

「……だからねー、トロイさんは思うんだー。

 “赦されること”と“赦してあげること”は別の話だよーって」

 

 少しの沈黙。

 冷めた空気が部屋の隅を這うように流れていく。

 

「リンデンちゃんが、自分のことを赦せないなら……誰かが代わりに、それを抱えてあげればいいんじゃないかなーって、トロイさんは、そう思うんだー」

 

 彼女は、ふっと笑った。少し照れくさそうに。

 

「……もちろん、抱えても簡単に癒えるもんじゃないし、時々ズシンと重くなるけどねー。でもさー、それでリンデンちゃんがほんの少しでも、楽になれるなら……そっちのほうが、ずっといいよねー?」

 

 その瞬間だった。

 リンデンの肩が、ほんのわずか――震えた。

 呼吸が詰まるように、小さく。けれど、確かに。

 

「ねー、リンデンちゃん。トロイさんが代わりに背負うって言ったら、リンデンちゃんは……」

 

 ――そこまで言って、トロイは口を閉じた。

 無理に答えさせるつもりはない。ただ、心に言葉を置いていくだけ。

 部屋の時計が、静かに秒針を刻んでいた。

 

 

六日目。

 この日は、リンデンはスープに口をつけなかった。

 トレイの上の湯気は、もうとうに消えていた。

 彼は、何かを見つめていた――けれど、その視線の先には“何もなかった”。

 無機質な天井。閉ざされた銀灰色の壁。

 光は人工照明の柔らかな反射だけで、時間の感覚すら曖昧な空間。

 それでも、彼は目を閉じない。

 見えない何かを探すように、視線を漂わせ、壁の一角にじっと目をやる。

 まるで、そこに自分の“影”がいるかのように。

 トロイは、いつものように隣に腰を下ろした。

 そっと膝を抱えて、同じ高さに座り込む。

 

「ねー、リンデンちゃん。……トロイさんねー、たまに考えるんだー」

「“魂”って、どこにあるのかなーって」

 

 語る声は穏やかだったが、その奥に揺れるものは確かだった。

 

「頭? 心臓? それとも、手かなー……誰かの手をぎゅって握るとね、“この人、生きてる”って思えるからー」

 

 ゆっくりと、彼女はリンデンのそばに手を伸ばす。

 その手は決して強くない。そっと、空気を押すように――ほんの数センチ先で止まる。

 リンデンの肩が、かすかに震えた。

 明確な拒否ではない。ただ、防御本能のように。

 トロイはそれ以上、触れようとしなかった。

 代わりに、かすかに微笑んだ。

 

「……無理に掴まなくていいよー。でもね、トロイさんは、ここにいるから」

「触れたくなったらでいいんだよー。手が欲しいって思えたら、いつでも」

 

 その言葉に、リンデンはゆっくりと首を傾けた。

 わずかに、ほんのわずかに――彼女の方へ。

 何も言わない。動きも小さい。

 けれどその“ずれた視線”だけが、唯一の返事だった。

 彼の世界が、わずかに誰かを映しはじめた。

 その夜、リンデンは眠りの中で、小さく誰かの名前を呼んだ――声にはならないほどの、小さな、小さな“音”で。

 

 

 

七日目。

 目覚めた時、まだ部屋の中は静かだった。

 天井の明かりは柔らかく調光されていて、時間の概念を完全には失わせない程度の配慮が施されている。

 けれど、ここには朝も夜もない。ただ、眠るか、起きているか。それだけの空間だった。

 リンデンは、毛布の中で微かに身じろぎした。

 隣に敷かれた簡易ベッドには、変わらずトロイがいた。

 いつもと同じ姿勢で仰向けに寝ている――ように見えたが、その瞼はほんのわずかに震え、目を開いた。

 彼女は、最初から眠ってなどいなかった。

 

「……おはよー、リンデンちゃん」

 

 声は囁くように、けれど確かに耳に届く。

 リンデンは、ほんの少し、瞬きした。

 その反応に、トロイの顔が柔らかくほどける。

 

「ふふー、今日は朝って分かったのかなー。えらいねー、ちゃんと世界に『おはよう』できたねー」

 

 ベッドの端に座ったトロイは、すぐに傍らのスープを差し出した。

 彼女が毎朝欠かさず作ってくれる、やや甘めの温スープだ。

 リンデンは何も言わなかった。けれど、視線はスープへと動いていた。

 無関心ではない。それは、今日が“少し違う日”である証だった。

 

「……ねえ、リンデンちゃん」

「この部屋って、味気ないでしょー。外も見えないし、音もないし。なんもなくて草も生えないー」

 

 そう言って、トロイはぽそりと笑う。

 そして、枕元に置かれた小さな箱を取り出した。

 中にあったのは、折り紙で作られた小さな花。

 昨日の夜、彼女が静かに作っていたものだ。

 

「これねー、あっちの隅っこに咲かせてみるよー。……誰かが誰かのために作ったもので、ちょっとだけこの部屋が世界っぽくなるといいなー、って思って」

 

 そう言って彼女は立ち上がり、部屋の壁際にそっと花を貼り付けた。

 折り紙の紫陽花。それは静かな隔離室の中に咲いた、たったひとつの色だった。

 リンデンは、それを――見ていた。

 じっと、瞬きもせず。

 トロイが戻ってくると、そっと口元をほころばせた。

 

「……おかわりはまだあげないからねー?」

「まずは、ひとくちからー」

 

 その冗談に、リンデンは無言のまま――けれど、スプーンを取った。

 ゆっくりと、慎重に。まるで壊れ物を扱うように。

 それは、たしかな一歩だった。

 

 

八日目。

 温度のない朝だった。

 この部屋に時間はなくても、ふたりの間には“習慣”があった。

 目覚めて、顔を向ける。

 リンデンの視線の先には、やはりトロイがいた。

 彼女は今日も眠ってなどいなかった。

 

「おはよー、リンデンちゃん」

 

 昨日と同じ言葉。けれど、トロイは知っていた。

 言葉とは、昨日と今日の違いをつなぐ、ささやかな魔法なのだと。

 リンデンは、わずかにまぶたを動かした。

 けれど声は出さなかった。それでも十分だった。

 トロイは起き上がり、ベッドの縁に腰掛けて、手にしていたカップを差し出した。

 ほんのりと香るミルクティー。昨日より少し甘めにしてあった。

 

「今日はねー、トロイさん、自信作だよー。ちゃんとミルクと茶葉にお祈りしたから、祝福済みなやつー」

 

 冗談めかして差し出す手の中で、カップは湯気を揺らしていた。

 リンデンの手が、そろりと動く。

 躊躇いがちに差し出された小さな手が、トロイの指先に、かすかに触れた。

 ――ぴたり、と時間が止まった。

 トロイは、動かない。

 触れた指をすぐには離さない。

 ただ、その小さな手を、両手でそっと包んだ。

 温度を、感じさせるように。

 存在を、伝えるように。

 

 「リンデンちゃんの手ってさー、あったかいねー……ちゃんと、生きてるんだなーって思ったよー」

 

 ぽつりと零れたその言葉に、リンデンの指が、かすかに震えた。

 けれど、その手は引っ込まなかった。

 トロイは、笑った。

 

 「ありがとー。受け取ってくれて」

 「こうして触ってくれたこと、トロイさん、ずっと忘れないよー」

 

 ゆっくりと、カップはリンデンの手に渡された。

 小さな指がぎこちなく、けれどしっかりと、それを握り締めていた。

 その日、リンデンは一言も声を出さなかった。

 けれど――それでもトロイは、確かに感じていた。

 この子は、世界と、手をつなぎ直そうとしている。

 

 

九日目。

 朝のルーチンは、変わらなかった。

 トロイはいつものように先に目覚めていて、隣のベッドに寝転んだままリンデンの寝顔を見守っていた。

 仮眠とは呼べないような浅い眠りの中、彼の睫毛が揺れ、まぶたがわずかに開いた。

 

「……おはよー、リンデンちゃん」

 

 囁くように言葉をかける。

 リンデンの唇が、微かに動いた。

 かすれた、ほとんど聞き取れない声だった。

 

「……おは、よ……」

 

 それは、九日目にして初めて、トロイが受け取った“声”だった。

 トロイの胸が、小さく震えた。

 けれどそれを見せないように、微笑を浮かべる。

 

「わー……今の、トロイさん録音しておきたかったなー。お宝ボイスすぎて、保存用・視聴用・崇拝用に分けたいレベルで花ー」

 

 冗談めかした声に、リンデンの唇がほんの少しだけ持ち上がった。

 笑った、というには程遠い。

 それでも、これは“反応”だった。

 朝食を並べる頃には、リンデンは自分から身体を起こしていた。

 まだトロイが皿を並べている最中――ふいに、彼女の腰のあたりに、そっと細い指先が触れた。

 

「……てつだ、うね……」

 

 震えていた。

 でも、触れようとしていた。

 誰かと繋がろうとする、その意志が、そこには確かに宿っていた。

 

「……うん、じゃあ、お願いしよっかなー」

 

 トロイは何も言わず、そのままそっと小皿を渡す。

 ふたりで並んで机を整えた。

 何気ない朝の支度――この隔離空間の中では、奇跡のような時間だった。

 食事を終えたあと、少しだけ間ができた。

 トロイは自分の寝床に背を預けながら、手を差し出した。

 

「ねー、リンデンちゃん。ちょっとだけ、来るー?」

「トロイさんのわがまま、付き合ってくれるとうれしいなー」

 

 リンデンは迷ったように視線をさまよわせ、やがて静かに歩み寄る。

 そして、差し出された手に、自分の手を重ねた。

 その手を、トロイが引いた。

 ほんの少し、自分のほうに――。

自然に、彼の小さな身体は、トロイの胸元におさまった。

 

「んー……今日も頑張ったねー、リンデンちゃん」

「えらい、すごい、やさしい、がんばり屋さん。トロイさんのいちばんの自慢の子ー」

 

 くすぐるような声でそう囁きながら、トロイは彼の背をゆっくりと撫でた。

 リンデンは何も言わなかったけれど、もう逃げなかった。

 小さな手が、ぎゅっとトロイの服の端を掴んだ。

 

 

 

十日目。

 

 朝、トロイが目を覚ました時、ベッドの隣はすでに空だった。

 軽く目をこすりながら身体を起こすと、視界の端でゆっくりと動く小さな背中が見えた。

 リンデンだった。

 机の前に立ち、器用とは言えない手つきでコップを並べている。

 まだ不安定な動きではあったけれど、その肩は、ほんの少しだけ堂々として見えた。

 

「……おはよー、リンデンちゃん」

 

 声をかけると、リンデンはびくりと肩を揺らした。

 でもすぐに、小さく頷いて振り返る。

 

 「……おは、よ……」

 

 その声はまだ掠れていたが、十日目にしてはっきりとトロイに向けられた“挨拶”だった。

 

「ふふー、今日も声聞けて、トロイさんしあわせ過ぎて花ー」

 

 そう言いながら近づいてくる彼女に、リンデンは手に持ったコップをそっと渡した。

 

「これ、……ここに、おく、んだよね?」

 

「そうそう、ありがとー。もう完璧、トロイさんの優等生アシスタントだねー」

 

 朝食を終えた後、ふたりは寄り添ってソファの上に座っていた。

 映像も音楽も無い。

 けれど、静寂はもう“怖いもの”ではなくなっていた。

 

「……トロイおねえ、ちゃん」

 

 ぽつりと、リンデンが名前を呼んだ。

 それは、彼のほうから出た初めての呼びかけだった。

 

「なあにー?」

 

 トロイが顔を向けると、リンデンは少しだけ視線を伏せたまま、もぞもぞと服の裾をいじっていた。

 

「……こわいゆめ、みた」

 

「そっかー……どんな夢だったー?」

 

「みんなが、いなくなって……おねえちゃんも、いなくて……」

 

 声はかすかに震えていた。

 でも、泣き出したりはしなかった。

 トロイは黙って、そっと腕を差し伸べた。

 

「じゃあ、いなくならないように――今からずっと、トロイさんがぎゅってしててあげるねー」

 

 その日、昼寝の時間。

 ふたりはベッドの上で、初めて自然に“抱き合って”眠った。

 リンデンの背は小さく、指先はまだ冷たかったけれど、

 腕の中に収まったその体温は、確かにトロイの胸をあたためていた。

 リンデンもまた、はじめて自分から、トロイに小さな腕をまわした。

 

「……とろいおねえちゃん、だいすき」

 

 トロイの胸元で、くぐもった声が呟かれた。

 彼女は驚かなかった。

 ただ、静かに、その頭を撫でる。

 

「うん。トロイさんも、だいすきだよー。だいじな、だいじなリンデンちゃん」

 

 やわらかな重なり。

 涙は流れなかった。けれど、その抱擁は――確かに、心を癒やす光だった。

 リンデンは、まだ震えていた。

 それでも、夜の暗さよりもトロイの体温を信じられるようになった日だった。

 

 

 

 

 

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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