みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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5歳児と謝罪.3

 ――それからの日々は、季節のない部屋で、静かに、確かに流れていった。

 外の世界は遮断されている。時間の区切りは、食事と睡眠、そして灯りの明暗によってかろうじて知ることができるだけだった。

 けれど、少なくともリンデンにとっては、あの地獄のような日から続く時間が、ようやく“ひと続き”になってきていた。

 

 

 十五日目。

 朝食の後、トロイは何も言わずに、いつものようにリンデンの隣に座って絵本を広げた。

 ふと、ページの途中でリンデンが小さく呟いた。

 

「……これ、きのうとおなじやつ」

 

 それは、ごく当たり前の、他愛のない言葉だった。

 けれどトロイは、その声が前より少しだけ明るくなっていることに気づいた。

 

「そうだよー。トロイさん、昨日のつづきが読みたくてさー。リンデンちゃんは……もう、飽きちゃった?」

 

「……ううん」

 

 首をふるリンデンの髪が、トロイの肩にそっと当たった。

 その小さな重みが、どれほど嬉しかったかは――きっと本人にも、まだ分からない。

 

 

 

 十九日目の夜

 

「リンデンちゃん、今日は一緒にお風呂入ろっかー。ひとりだと背中も流せないでしょー?」

 

 トロイがやさしく声をかけると、リンデンは少し間をおいて、ぽつりと答えた。

 

「……いっしょ、がいい」

 

 湯気が漂う浴室の中、リンデンは小さな背を向けて、黙って座っていた。

 トロイはその背中にそっと手を添え、ゆっくりと撫でるように洗い始める。

 

「痛くないー?くすぐったかったら言ってねー」

 

「……だいじょうぶ」

 

 その短い返事に、トロイはそっと微笑んだ。

 リンデンの身体はまだ痩せていて、細く、あたたかかった。

 言葉は少ない。でもそのぬくもりが、「大丈夫」と言っているようで――それだけで十分だった。

 

 

 

 二十二日目の夜。

 シーツを敷き終えたトロイの袖を、リンデンがそっと引いた。

 

「……いっしょに、ねてもいい?」

 

 その小さな声に、トロイはすぐに笑って頷いた。

 

「もちろんー。一緒に寝ようねー」

 

 その夜から、ふたりは同じベッドで眠るようになった。

 リンデンはまだ震えることもあったけれど、トロイの胸元に顔をうずめるようにして、そっと目を閉じる。

 トロイはその頭をやさしく抱き寄せ、何も言わず、ただ静かに背を撫で続けた。

 呼吸の音と、心音のぬくもりが、夜の静寂をやさしく満たしていた。

 

 

 

 二十六日目。

 その日もふたりで入浴を終えたあと、トロイはリンデンの濡れた髪をタオルで拭き取り、いつものようにソファに座らせた。

 

「ちゃんと乾かさないと風邪ひくからねー。じっとしててよー?」

 

「……うん」

 

 ドライヤーの音が静かに響き、トロイの指が梳かすように髪を撫でていく。

 そのとき、部屋の上方に設置されたメンテナンス用の補助灯が、ふと角度を変えた。

 斜めから差し込む光が、リンデンの髪に当たったその瞬間――黒に近い髪が、まるで翡翠のヴェールを纏ったように、淡く透けて揺らめいた。

 

「……わあ」

 

 トロイが小さく息を漏らした。

 

「リンデンちゃんの髪、すごくきれいだねー。光に透けると、深い森みたいな色してるよー……」

 

 リンデンは、返事をしなかった。

 でもその言葉は、確かに彼の胸の奥に届いていた。

 

 ――きれい。

 

 その言葉は、いつまでも残った。

 誰かにそう言ってもらえたことが、胸の中で、そっと光を灯していた。

 それからリンデンは、髪を切らなくなった。

 夜、布団の中で髪に触れながら、リンデンは思った。

 トロイお姉ちゃんがそう言ってくれた。

 だから、のばしていたい。きれいなままで、いたい。

 ふたりの距離は、確実に近づいていた。

 けれどその歩みは、まだゆっくりと、慎重に――けれど確かに、前へと進んでいた。

 

 

 三十日目の朝。

 変わらず人工光が灯る隔離室の中、ぬるい空調がゆるやかに循環していた。

 ベッドの上には、まだ眠たげにまぶたを擦る少年と、その傍らで静かに目を覚ましている少女の姿があった。

 リンデンは、そっと掛け布をめくり、トロイの隣から起き上がる。

 小さな足で床を歩き、トコトコとロッカーのもとへ向かって、着替えに手を伸ばす。

 パジャマを脱ぐのも、ボタンを留めるのも、少しぎこちない。

 けれど、誰に言われたでもなく、自分で“朝”を始めようとしていた。

 その様子を、寝ぼけ眼のままトロイが眺めていた。

 

「……リンデンちゃん、おはよー。えらいねー、ひとりでお着替えしてるー……」

 

 寝起きの声でそう言って、彼女はゆるく伸びをする。

 髪は少し乱れていて、けれど、その目はやわらかく少年の姿を追っていた。

 

「……きょうも、いっしょに……ねてくれて、ありがとう」

 

「えらいねー、ちゃんとお礼が言えるようになって花ー。じゃあ今日もいーっぱい一緒にいようねー」

 

 にこにこと笑いながらそう返すトロイに、リンデンは小さく微笑む。

 もうすっかり“笑う”ことも、日常になっていた。最初の頃のような震えは、もうない。

 

 ――その日の午後。

 ふたりがベッドの上で本を読んでいた時、不意にトロイがリンデンを抱きしめた。

 強く、深く、まるで何かを焼きつけるように、背中に腕を回す。

 

「……明日からは、ちょっとだけ、トロイさん、お部屋にいられない時間が増えるかもー」

 

 リンデンは、少しだけ目を見開いて、それからゆっくりと頷いた。

 寂しさは、確かにそこにある。でも、泣きはしなかった。

 

「……うん、だいじょ、ぶ。……まってるから」

 

 その言葉に、トロイはふっと表情を和らげる。

 

「じゃあトロイさん、毎週ご褒美のぎゅーをしに来るからねー? 約束だよー」

 

 リンデンは、トロイの胸元にそっと額を押し当てる。

 その小さな体からは、ほんの少しだけど、確かな温もりが返ってきた。

 最初は声も出せなかった子が、いま、こうして“ぬくもり”を返してくれる。

 それが、たまらなく嬉しくて、トロイはもう一度、ぎゅうっと抱きしめた。

 

 

 三十日目の夜。

 人工灯が落ち、完全遮音の隔離室は仄暗く静まり返っていた。

 天井の明かりも落とされ、残っているのは壁際に小さく灯された非常灯の柔らかな光だけ。

 隣には、いつものようにトロイがいた。

 薄い寝具の下、二人はそっと身体を寄せ合っている。

 トロイの腕が、リンデンの細い肩をやわらかく包んでいた。

 リンデンの小さな手は、そっとトロイの服の裾をつまんでいる。くしゃ、としわが寄るたびに、ほんの少しその指が震えていた。

 

「……おねえちゃん……」

 

 小さく、夢に沈むような声だった。

 

「うん、なあにー?」

 

 囁くような声で返すと、リンデンはわずかに顔を上げた。

 暗がりのなか、揺らいだ瞳がゆっくりと、トロイの顔を見上げる。

 その表情に、不安はもうなかった。代わりにあるのは、名もないぬくもりのような、心の奥に小さく火を灯す気持ち。

 

「……おねえちゃんが、いると……ここ、あったかい……」

 

 ぽそりと落ちた言葉に、トロイは目を細めて、微笑んだ。

 何も言わず、そのままもう片方の手でリンデンの頭をそっと撫でる。

 撫でるたび、リンデンの眉がふにゃりと緩んで、まるでその手の温度ごと染み込んでいくように、目を閉じた。

 

 胸のなかで、ことん――何かが灯る音がした気がした。

 

 それは恋でも憧れでも、きっとまだない。

 ただ、“この人と、いっしょにいたい”。

 小さくて、でも確かに燃えはじめた、小さな火。

 リンデンはそっと、トロイの胸に顔を埋める。

 トロイもまた、その背中を包み込むように抱きしめた。

 深い夜が、その二人をやさしく包み込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 隔離区域、ランヴィリズマ深層第七区画。

 立ち入りを制限された完全封鎖の空間の前に、ひとりの影が立っていた。

 仮面を被った少女――久条運命。

 黒いディスプレイの表面には、淡い青色の微笑みが滲んでいる。

 その目の前で、静かに空間の封印が解かれた。

 空調が緩やかに流れ、厚い隔壁が開く。

 遮断されていた霊子の気配が、わずかに外へと漏れ出した刹那――その中から、トロイメライが歩いてきた。

 黒い修道服の裾が、歩調に合わせて静かに揺れる。

 肌は少しだけ青白く、疲労の色も見えるが――その表情は、変わらない微笑みを湛えていた。

 

「……運命ちゃん、ただいまー」

 

 トロイはいつも通りの調子でそう告げると、ゆっくりと前髪を払うように一度手を上げた。

 運命は、仮面越しに彼女を見つめたまま、ひとつ頷く。

 

『おかえり、トロイ』

 

 その声に、トロイはふわりと笑った。

 

「ちゃんと、あの子は立ち上がれたよー。ゆっくりだけどねー」

 

『うん――それなら、よかった』

 

 短く、それだけを口にした運命は、トロイの隣に立って静かに隔離室を見上げる。

 白く無機質な外壁。その向こうに、ようやく一人で眠れるようになった小さな命がある。

 トロイも、振り返るように視線を上げた。

 ふたりの影が、静寂のなかに並ぶ。

 

「運命ちゃん。……リンデンちゃんの処遇は、どうなるのー?」

 

 ふと、その声だけが空気に乗った。

 運命の仮面は変わらず穏やかなまま、しかし少しだけ音の色が落ちたような声音で答えた。

 

『隔離一年。その後、MAZE.labによる処置を行うことになったよ』

 

「処置、かぁ……あの子、きっとまた痛い思いしちゃうんだろうなー」

 

 ふわりとした口調の奥に、ほんの少しだけ沈んだ響きが混ざる。

 それでも、トロイの顔には崩れない微笑があった。

 運命は、そのまま目を伏せた。

 仮面のディスプレイが、微かに暗く揺れる。

 

『……ごめん。これ以上は、どうにも出来なかったよ』

 

 小さな声だった。

 けれど、それは深く深く、自らの無力を悔いる声音だった。

 トロイは、ゆっくりと首を横に振る。

 その瞳は、いつも通りの緩やかな笑みを湛えながら、優しく柔らかく。

 

「んーん、違うよー。

 マリアちゃん相手に、そこまで引き出せたなら充分じゃないかなー」

 

 ふわ、と少し肩をすくめて、続ける。

 

「正直ねー、もっと酷い結果になると思ってたもん。

 あの子が、どこかに“処分”されてもおかしくないくらいには、ねー」

 

『でも……』

 

 何かを言いかけた運命のその声に、トロイはそっと手を伸ばした。

 

 白く細い指が、仮面のディスプレイに添えられる。

 人差し指が、ちょうど口元に触れる位置に静かに当てられた。

 

「いいんだよー」

 

 トロイの声は、そこで初めて、ほんの少しだけ真っ直ぐになった。

 間延びも比喩もなかった。ただ、まっすぐ。

 

「運命ちゃんは、ちゃんとあの子を“守った”んだから」

 

 静かに言い切る。

 運命はその言葉に、少しだけ肩を落としたように見えた。

 

「だから今度は、トロイさんの番。運命ちゃんがあの子を守る役割なら――トロイさんは、あの子を“認めて”、赦してあげる役割を全部もらうから」

 

 まるで軽口のように、当たり前のことのように。

 でもその口調には、何ひとつ揺らぎがなかった。

 

「だから――安心して、ね?」

 

 ふっと、肩の力が抜けるような笑顔を見せた。

 それは飾らない、けれど確かな“覚悟”を含んだ笑みだった。

 運命は少しだけ息を吸い込み、そして小さく頭を下げた。

 

『……ありがとう、トロイ』

 

 その一言に込められたのは、感謝と信頼と――願い。

 ふたりは再び並んで立ち、再び静かな時間に身を置いた。

 けれど、もうその背中には、迷いはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たい光が、閉じた瞼の内側を貫いていた。

 意識の深い底から浮上するように、ゆっくりと目を開ける。

 天井。真っ白な無機質。

 そして、顔を覗き込む影がひとつ。

 

「おはようございます。気分はどうですか?」

 

 女性だった。

 白衣に身を包み、髪は纏められ、眼差しは淡く――けれど、完全な無表情ではなかった。

 口元の端に、ほんの少しだけ、柔らかな線があった。

 リンデンは、応える声を探して、喉を鳴らす。

 でも言葉は出なかった。小さく首を振ると、女性は淡々と、だがどこか優しげに頷いた。

 

「……問題ありません。神経反応、筋力応答、数値はすべて正常です」

 

 そして彼女は、ひと呼吸置いてから言った。

 

「脊椎の全構造を、人工脊柱ユニットに置換しました。霊子帯域の異常検知時には、自動的に末梢神経網を遮断する仕様です」

 

 リンデンは、何も言わずに天井を見つめていた。

 ただ、その小さな目が、確かにすべてを理解しているように――黙って、聞いていた。

 

「この処置で、あなたの霊子制御は、より安定化します。……でも」

 

 女性は一拍、声を潜めた。

 

「その代償に、“限界”ができました。暴走すれば、あなたは――動けなくなります」

 

 それでも、少年の眼差しは動かなかった。

 無言で、ただ静かに――それを受け止めた。

 

「……ご家族は、後ほど――」

 

「……あの」

 

 声が出た。かすれた、小さな声。

 

「……いま……いま、行っても……いいですか」

 

 女性が小さく目を瞬く。

 

「どこに、ですか?」

 

 リンデンはゆっくりと身を起こしながら、医療用シーツを握りしめて答えた。

 

「……会わなきゃ、いけないひとが……います」

 

 その言葉に、女性の瞳がわずかに揺れた。

 彼女は一度だけ視線を外し、なにかを思案するように小さく息を吐く。

 

「……分かりました」

 

 数秒後、そう答えた彼女の声には、ほんの僅かに現場責任者としての緊張が滲んでいた。

 

「ただし、あなたの身体はまだ万全ではありません。移動には医療班と監視部隊を同行させます。……それと、武装ガーデナー数名の護衛も」

 

「……はい」

 

 リンデンは小さく頷く。

 その声は掠れていたけれど、拒否も反抗もなかった。ただ、受け入れるしかないということを、この小さな少年はすでに知っていた。

 

「ありがとう……ございます……」

 

 言い終えると同時に、リンデンは静かにベッドから脚を下ろす。

 細い足。だが、もう震えてはいなかった。

 ただ――その背に、はっきりと残る異物感。

 皮膚の下に走る重たい金属の線が、わずかに動くたび、身体の奥を軋ませる。

 痛みではない。ただ“ずれて”いる。

 自分の身体が、自分のものでなくなった感覚が、背骨を伝って脳を鈍く揺らす。

 そんなリンデンの動きを見て、女性はそっと手を差し出した。

 

「肩をお貸しします。……立てますか?」

 

「……だいじょうぶ、です」

 

 そう言ったものの、歩き出してすぐにバランスを崩し――差し出されたその腕に、自然と体重を預けることになった。

 

「ゆっくりで大丈夫ですよ。急ぐ必要はありません」

 

 女性はそう言いながら、リンデンの歩調に合わせて一歩ずつ歩く。

 白く閉ざされた医療棟の廊下。

 無音に近い空気の中で、ふたりの足音だけが静かに響いていた。

 そうして――少年は、その足で、自らの罪に向かって歩き出した。

 

 

 第六層、居住区画。

 整然と並ぶ扉と、変わらぬ照明の灯。

 淡いベージュの壁紙は、一年前と何ひとつ変わっていなかった。

 リンデンの足音だけが、廊下に微かに響いていた。

 その後ろを、無言のまま追従する影がいくつもある。

 担当官と、そしてかつて自分を拘束した――軍事局・保全部隊の者たち。

 彼らは警戒を解かず、距離を詰めすぎず、ただ淡々と任務を遂行していた。

 声はない。言葉もない。

 だがその無音こそが、すべてを物語っていた。

 リンデンは振り返らない。

 ただ前を見て歩く。

 慎重に、確かめるように、それでも迷いのない足取りで。

 天井の蛍光灯が、彼の髪をうっすらと照らす。

 日や光にかざせば美しい緑色に透けるそれは、かつて誰かが「綺麗だね」と言ってくれたものだった。

 通路を折れ、階段をひとつ降り、さらに奥へ――そして、ゆっくりと立ち止まる。

 そこにあったのは、集合居住区の一室。数ある扉の中の、ただ一つ。

 けれどリンデンは、この部屋だけは決して忘れなかった。

 

 ――ユナの部屋。

 自分の手を引いてくれた、あの子の、家。

 リンデンは、扉を見つめたまま動かない。

 目を閉じることも、声を発することもなく。

 ただ、小さく、胸の奥が軋んだ。

 扉は、変わらず、そこに在った。

 あの日から何も変わらぬまま、ただの“入口”として、存在していた。

 小さく、胸元を押さえる。

 心臓の音が、ひときわ大きく跳ねたのを、指先が確かに感じ取った。

 逃げたい気持ちは、まだどこかに残っていた。

 けれど――それでも。

 リンデンは、そっと拳を握りしめ、そして扉を叩いた。

 トン、トン。

 控えめな音が、静まり返った通路に響いた。

 一拍、二拍――。

 中から、人の気配がする。

 布擦れの音、床を踏む足音、躊躇いの混じったため息。

 やがて、ゆっくりと、扉が開いた。

 現れたのは、一人の女性だった。

 ユナの――母親。

 痩せて、目元には疲労の滲んだ隈があったが、その面影は確かにあのときのままだった。

 瞬間、リンデンの脳裏にあの叫びがよみがえる。

 

 ――「泣けばすべてが許されると思うな!」

 

 胸が、きゅっと痛んだ。

 声にならない息が、喉の奥で詰まりかける。

 それでも、立ち止まらない。

 リンデンは、一歩、前に出た。

 そして、深く頭を下げた。

 

「……あのとき……ユナさんを、助けられませんでした。……ごめんなさい……」

 

 震えそうになる声を、必死に押しとどめて。

 頭を下げて、リンデンはその言葉を吐き出した。

 何度も、心の中で繰り返してきた――たった一言。

 それをようやく、いま、この扉の前で、口にすることができた。

 罵倒されるかもしれない。

 突き飛ばされるかもしれない。

 怒鳴られて、罰せられて、あの時と同じ言葉をぶつけられるかもしれない。

 ――それでも、受け入れる。

 そう決めていた。

 それが、自分にできる唯一の償いだと、そう思っていたから。

 だが。

 返ってきた言葉は、まったく想像していなかったものだった。

 

「……あの……人違い、じゃないですか?」

 

 優しさでも、怒りでもなかった。

 それはただ、純粋な――困惑だった。

 

「うちの中に、ユナなんて名前の者はおりませんが……」

 

 ――思考が、止まった。

 

「…………え?」

 

 あまりに間の抜けた声が、口から漏れた。

 リンデンは、ゆっくりと顔を上げた。

 そこには、確かにユナの母だったはずの女性。

 あの時、声を枯らしながら泣き叫んでいた、あの人。

 だが――その目は、リンデンを見ても何の感情も浮かべていなかった。

 まるで、本当に――初めて会った子供を見るように。

 視界が少しだけ、ぐらついた。

 地面が静かに遠ざかっていくような、妙な浮遊感。

 何かがおかしい。

 けれど、それが何かを理解する前に、思考がその場に置いて行かれる。

 リンデンの唇が、小さく震えた。

 けれど、もう何も言葉が出てこなかった。

 困惑したままの表情を残して、ユナの“母親だったはずの女性”は、扉の奥へと姿を消した。

 ぱたり、と小さな音を立てて閉まる扉。

 その余韻すら、どこか現実から乖離しているように思えた。

 リンデンは、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

 胸の奥で、何かが冷たく軋んでいる。

 

 どうして――?

 

 その言葉だけが、頭の中で何度も何度も反響する。

 迷うことなく、次の部屋へと向かった。

 ――カイの家。

 あの時、ただの肉塊となって転がっていた少年。

 リンデンの目に、確かに焼きついていたはずの死。

 けれど。

 

「カイ……?うちにそんな名前の子供はいませんけど……?」

 

 また、同じだった。

 顔も、声も、仕草も。あの日、泣き崩れていた大人と同じはずなのに。

 返ってくるのは、まるで“そんな出来事すらなかった”かのような視線だった。

 

 ――次だ。

 

 双子の部屋。

 あの日、背中合わせで身体を癒着させながら助けを求めるように手を伸ばしていた、あの二人。

 だが、そこでも返ってきたのは同じ言葉だった。

 

「……子供、なんて居ませんよ」

 

 最後の少女の家に向かった。

 そこにいたのは、静かな目をした中年女性だった。

 

「……どうかされましたか?」

 

 その声音には、怒りも悲しみも、ましてや記憶の痕跡すらなかった。

 

 ――いない。

 

 どこにも、いない。

 記憶の中にいたはずの人たちが。

 確かに死んで、確かに泣かれて、確かに葬られたはずの子供たちが――この世界から、跡形もなく消えていた。

 家はあった。

 建物も同じだった。

 けれど、そこに“いたはずの存在”だけが、まるで最初からなかったかのように、綺麗に消えていた。

 リンデンはその場に立ち尽くし、ただ、静かに唇を噛んだ。

 鼓動が、またひとつ、狂ったように跳ねた。

 

 

 

 最後にリンデンがたどり着いたのは――あの場所だった。

 神域が発生した、人工庭園の広場。

 かつて、すべてが壊れ、すべてが奪われた場所。

 だが、そこにはもう、何の痕跡も残っていなかった。

 地面は平らに整えられ、焼け焦げたはずの根の名残も、凍りついた霜も、捻じれた空間の裂け目すらも存在しない。

 木々はまっすぐに立ち並び、芝生は整備されており、遊具はきちんと点検されたようにぴかぴかだった。

 まるで――最初から、何もなかったかのように。

 

 リンデンは、ふらりと足を進めた。

 広場の中央へ向かって、ひとつ、またひとつと歩を刻む。

 足音に混じって、記憶が響いた。

 ユナの声。

 カイの笑顔。

 双子の兄弟が手を繋いでいた後ろ姿。

 そして、あの最後の少女がこちらを振り返った瞬間の、はにかんだような顔――

 

「あ……」

 

 網膜が震えた。

 世界が、滲む。

 堰き止めていた何かが、音を立ててひび割れていくのが分かった。

 

「あああ……」

 

 声が、漏れる。

 喉が、焼けるように熱い。

 言葉ではなかった。ただ、零れ出たのは、涙にすらなっていなかったもの。

 ヒビが入ったら、もう――もう、ダメだった。

 

「あ゛――あ゛――あ゛あ゛あ゛っ……!」

 

 嗚咽の形すら知らない。

 泣き方なんて、教わったこともなかった。

 それでも、声は勝手にあふれてきた。

 リンデンは、しゃがみこむことも忘れて、ただその場に立ち尽くしたまま、泣いていた。

 胸を叩くような叫びだった。

 どうしようもない、壊れた音の連なりだった。

 背後で、警戒するように一人の武装隊員が前に出ようとする。

 

「……危険かも知れない。止め――」

 

 だが、それを止めたのは、隣に立っていたもう一人の隊員だった。

 彼は、かつてリンデンを拘束しようとした内務保全部隊の隊員だった。

 あの時、彼を押さえつけるように命令を受けた者だった。

 その彼は静かに、隊員の肩に手を置いた。

 

「よせ。……今は、泣かせてやれ」

 

 短く、それだけを言った。

 隊員は一瞬だけ迷い、だがすぐに頷いてその場に留まる。

 そして、泣き続ける少年――いや、小さな子供を、遠巻きに、静かに、見守った。

 

 

 許されなくても、よかった。

 罰されても、構わなかった。

 ただ、それでも伝えたかった。

 心を込めた、たったひとつの「ごめんなさい」だった。

 

 それすらも、無意味になった。

 届く相手も、聞く耳も、すべて消されていた。

 

 リンデンの精一杯の謝罪は、行き場を失ってただ虚空に消えていった。

 

 

 

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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