みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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12歳と試歩.1

 訓練場の空気は乾いている。

 天井近くの吸気孔が、かすかに回転音を立てながら回っていた。

 光が入るのは、高所の明かり取り窓からわずかに。人工灯の明滅に照らされた銀灰の床が、少年の足元に影を落としている。

 

「はい、動くよー。今日もやる気いっぱいでえらいねー、リンデンちゃん」

 

 かすかな風の音と共に、女の声が降ってくる。

 声の主は、半金属製の模擬槍を肩に担ぎ、ゆるく片膝を崩した姿勢で少年の前に立っていた。

 編み込まれた薄桃色のサイドテール。スリットのジッパーをすべて開いた修道服は、ひらりと風に揺れている。

 腰から覗く脚線は、鍛えられた鋭さとしなやかさを両立させていた。

 《ブレイドライン》所属、トロイメライ――今日は彼女が、回避訓練の担当だった。

 リンデンは少しだけ息を吐くと、静かに構えを取った。

 足幅は肩と同じ。上半身は低く、重心を落とし、どちらにも跳べるように。

 トロイが持つ訓練槍の先端では、青白い光がわずかにきらめいていた。

 霊子可視化によって表現された“刃”は、決して本物の聖槍リタではない。だが、あまりに似ていた。

 トロイが指を鳴らすたび、その光が揺れ、槍のバランスが微細に変わる。

 

「うん、いい構えー。でもその角度だと、初撃の踏み込み、見えないよー?」

 

 言葉とほぼ同時だった。

 

 空気が裂けた。

 

 リンデンの視界がぐらりと傾く。

 膝が勝手に反応して後ろへ滑った。刹那の遅れ。地面が脈打つように揺れたかと思えば、眼前に青白い光が閃く。

 

「は――ッ!」

 

 跳ぶ。左足で地面を蹴り、上体を捻る。

 だが、それすらトロイの内には入っていた。

 足元、空中、腰の横。矢継ぎ早に仕掛けられる槍の突き。

 全てギリギリで“当たらない”。いや、彼女はわざと外しているのだ。彼の動きと意図をすでに読んだ上で。

 ひとつ、槍の間合いから離脱。二歩下がったリンデンが、肩で息をする。

 

「……ぜぇ、ぜぇ……ッ、すみません……っ、やり直させてください……!」

 

 彼の息は荒い。だが、目は伏せなかった。

 敗北感はあっても、屈辱はない。

 自分が「まだ届いていない」と知っているからこそ、悔しさの代わりに、向上心だけが燃えていた。

 トロイは、にこりと笑った。

 

「えらいねー。でも――はい、次は脚から行くよー?」

 

 その言葉を聞き終える前に、トロイの姿勢が変わる。

 槍の刃先を床に引きずるようにしながら、彼女は距離を詰めた。

 軽やかな足運び。長い脚が軌道を切り、斜めに迫る。

 

 ――見えない。

 

 彼女の蹴りは、スリットから覗いた足を用いた回し蹴り。

 訓練槍の突きと見せかけて、実際は足技による“下段”だった。

 次の瞬間、リンデンの脚が浮き、体勢が崩れる。

 

「ッ、ぐ……!」

 

 地面が近づく。踏ん張った足が滑る。倒れる――その寸前で、肩に柔らかな力が添えられた。

 

「力みすぎてて草ー。バランスは良くなってきてるけど、フェイントに弱いねー、リンデンちゃん」

 

 トロイは笑っていた。怒りでも、皮肉でもない。ただの微笑み。

 彼女は本気を出していない。槍も蹴りも、彼に“当たらないように”しか使っていない。

 それが、彼には少しだけ悔しかった。

 

「……次は、ちゃんと避けます。……今度は、本気で、お願いします」

 

 そう言ったリンデンに、トロイは目を細めた。

 

「そっかー。じゃあ、トロイさんも――もうちょっとだけ本気出すねー」

 

 次の瞬間、霊子がきらめく。

 訓練槍の刃が、少しだけ、鋭く見えた。

 可視化された霊子の粒が縁を際立たせ、先端がわずかに“流れる”。

 それは光ではなく、意志の線だった。

 リンデンは唾を飲み込む。足幅を少しだけ狭めて、重心を後ろ寄りに置く。

 トロイは一歩だけ、前に出た。

 その歩幅が、いつもより長いと気づいた瞬間、

 視界が――消えた。

 

 槍の突き、ではない。

 “目の前に槍がある”という錯覚だけを押しつけて、彼女の体が右へ回り込む。

 回避しようとして体を捻ったその逆方向、彼の死角から、横殴りの一撃が飛んできた。

 避けられない、と本能が叫ぶ。

 それでもリンデンは、躊躇わずにしゃがんだ。

 脚を折り、膝をつく勢いで床へ滑り込む。霊子の刃が髪を掠め、空気を切った。

 

「……おお、下がった。えらいえらいー」

 

 揶揄するような口調で言いながら、トロイはそのまま旋回する。

 踵が床を打ち、連続する回転が止まらない。

 まるで舞うようだった。

 訓練用の模擬槍とは思えない精度で、切っ先が空間を測る。

 フェイント、蹴り、踏み込み、回転。リズムが乱れ、予測が利かない。

 リンデンは、必死に追いすがる。

 視線を切らさない。

 呼吸を崩さない。

 攻撃を“予想しない”――その場で、感じたままに動く。

 トロイは笑っていた。

 いつものように、柔らかく、どこか寂しげに。

 

「やっぱりリンデンちゃん、反応速度だけは――“とっても綺麗”だねー……」

 

 声が遠くで響いた次の瞬間。

 視界の端、足元にわずかな気配。

 トロイの脚が地を打ち、体ごと捻るようにして繰り出された足払いが迫る。

 リンデンは避けられなかった。

 だが、崩れた体勢を立て直しながら、咄嗟に肘をついた床に――滑り込ませた足を踏ん張った。

 体が回る。全体重を軸足に載せて、転がるように後退。

 距離を取ることには成功した。

 ――たったそれだけのことなのに、胸が詰まりそうだった。

 

「っ、……できた……っ……今の……っ」

 

「うん。ちゃんとできたねー」

 

 動きを止めたトロイが、初めて本当に嬉しそうに微笑んだ。

 槍をくるりと回して背へと担ぎ直し、ゆっくりと歩いてくる。

 

「じゃあ今日はここまでにしよっかー。霊子量が落ちてきてるし、無理に続けると訓練槍もバーストしちゃうしねー」

 

「……はい……ありがとうございました……っ」

 

 床に膝をついたまま、リンデンは深く頭を下げた。

 肩が震えているのは、疲労と、安堵と――少しの、嬉しさだった。

 ほんの少しでも、前に進めた気がしたから。

 トロイは、そんな彼の頭の上に、ぽんと手を置いた。

 

「“ほんの少し”で十分だよー。歩き方、ちゃんと探してるねー、リンデンちゃん」

 

 その声に、彼はうなずいた。

 汗に濡れた前髪が、額にはりついていた。

 

 

 

 

 

 水音が、一定のリズムで落ち続けている。

 白い壁に囲まれたシャワールームは、訓練場の片隅にある小さな区画だった。

 熱すぎない湯が、じわじわと首筋から肩を伝って、汗と疲労を洗い流していく。

 リンデンは、目を閉じたまま、静かに頭を濡らしていた。

 ――今日の動き、どうだっただろう。

 フェイントには反応できた。でも、反応しただけ。

 あれじゃ、まだ“見切った”とは言えない。

 息を吐く。背中からシャワーが流れていく。

 少しだけ震える肩を、熱が優しく包んだ。

 

「……今日は、よくできた。トロイ姉さんにも……褒められた、けど」

 

 口に出すと、少しだけ実感が伴った。

 けれど、胸の奥ではどこか、浅く響いていた。

 ――教えてもらった通りに動けた。それだけの話だ。

 次も同じように動ける保証は、どこにもない。

 もし、突然“誰も何も言ってくれなくなったら”……自分は、何かできるのか。

 湯が顎を伝って落ちる。静かに、床を叩いていく。

 

「……皆は、すごいな」

 

 ぽつりと、言葉が漏れた。

 誰かに聞かれることもないから、声の響きは小さな独白になった。

 ――誰もが、当たり前のように動いている。

 スリー兄さんは、体の軸を“感覚で”理解しているし、風雅姉さんは技術も理論も全部身体で覚えている。

 楓姉さんの呼吸法も、あれはもう技術じゃなくて“精神”の域だ。

 

「……僕はまだ、全部……“真似してるだけ”だ」

 

 唇から落ちた言葉が、自分に一番痛く刺さる。

 でも、それでも。

 ――モノ姉さんの講義は明日から応用に入る。

 座標干渉式の基礎がぐらついてるままじゃ、霊子量の安定率が取れない。

 式の書き方を変える? それとも別の系統に分岐させる?

 あの構文、もう一回組み替えて……いや、簡略式で回せるか検証してみようか――

 

「……明日は、ちょっと早めに来て、復習しよう」

 

 今度は意識してつぶやいた。

 思考が声になると、それは“決めごと”に変わる気がした。

 顔を上げる。

 シャワーの湯が額を流れ落ち、冷たい床へと吸い込まれていった。

 

「今日もひとつ、ちゃんと覚えた。……それは、まだ“誰かのやり方”だけど」

 

 だけど、繰り返して、繰り返して――

 いつか、ちゃんと“自分のやり方”にできるように。

 リンデンは静かに、シャワーを止めた。

 

 

 

 シャワールームの扉が、乾いた音を立てて開いた。

 リンデンは、濡れた髪を軽く絞りながら廊下へ出た。

 着替えはまだ。インナー姿のまま、手早くタオルで水気をぬぐう。

 冷房の風が微かに肌を撫でて、首筋がぴくりと震えた。

 

「およ、リンデンちゃん出るの遅かったねー?」

 

 ふと聞こえた声に、びくりと肩が跳ねる。

 対面のシャワールーム。

 そこから現れたのは、濡れた髪を丁寧にタオルで拭っているトロイメライだった。

 髪はいつもの編み込みではなく、濡れたストレートのまま、肩から胸元までさらさらと垂れている。

 素肌に寄り添う柔らかなレース地のブラと、セットのショーツ。色は薄く、霞がかったグレーに近いラベンダーで、どこか儚げな印象を纏っていた。

 装飾は控えめながら、確かに“女性らしい”ものだった。

 だが、彼女自身はその姿をまるで気にした様子もなく、いつもの調子で軽く手を振ってくる。

 リンデンは一瞬で目を逸らした。

 

「……すこし、考え事を、していました……」

 

 ぽしょぽしょとした声が、自分の喉から漏れるのがわかる。

 頬がほんのりと火照って、熱を帯びる。タオルで顔を拭うふりをして、視線を床へ落とした。

 その様子を見たトロイが、くすっと笑った。

 

「あははー、トロイさんの裸とか、小さい頃に何回も見てたのにぃ?赤くなってるの草ー」

「リンデンちゃん、初心になっちゃってて森ー……そういうとこが、可愛くて花ー」

 

 嬉しそうに語尾を咲かせながら、トロイは湿った髪を前に垂らし、リンデンのほうへ近寄ってくる。

 

「じゃあさ、乾かしてー? トロイさん、乾かされたい気分ー」

 

「えっ……あ、はい、もちろんです」

 

 自然な流れのようでいて、断れない空気だった。

 リンデンはドライヤーを手に取り、彼女の背後にまわる。

 トロイは小さな腰掛けに座り、長く濡れた桃色の髪をすっと前に流す。

 その背中がさらけ出されるように現れる。

 肩甲骨のライン、鎖骨から伸びる細い首筋――彼女はまるで何も気にしていない。

 

「……じゃあ、失礼します」

 

 ドライヤーのスイッチを入れる。

 温風がふわりと立ちのぼり、髪がやわらかく揺れる。

 リンデンは、根元に指を入れて、髪の束をひと房ずつ持ち上げながら、丁寧に温風を当てていく。

 濡れた毛先が次第に乾いていくのを確認しながら、慎重に手を動かす。

 

「はー……自分でやらなくて済むの、楽だなー……」

 

 トロイが、目を細めながらぽつりと呟いた。

 その声が妙に満ち足りていて、リンデンは思わず苦笑をこぼしそうになった。

 

「……毎日こうしてるんですか?」

 

「いやー、自分でやるとつい雑になっちゃってねー。誰かがやってくれると、ほら、気持ちも整うし?」

 

「気持ち、ですか……」

 

「そうそうー。髪って、誰かに触ってもらうと“守られてる”感じがするからさー?

 ……ふふ、だから今のトロイさん、甘えてるよー。リンデンちゃんにー」

 

 背中越しにそう言われて、リンデンの手元がほんの一瞬だけ止まりかけた。

 だが、すぐにまた、静かに動き出す。

 音もなく、風と、髪と、指の熱だけがそこにあった。

 

 髪が、乾いていく音は静かだった。

 風に吹かれて舞うたび、桃色の束が光を吸って揺れる。

 やがて、濡れた感触が消え、指先でなぞれば、さらりとした絹のような滑らかさが残る。

 リンデンは、ドライヤーのスイッチを切った。

 

「……乾きました。後ろ、乱れてないですか?」

 

「うん、完璧ー。ありがとうねー、リンデンちゃん」

 

 椅子に腰掛けたままのトロイが、振り返って微笑む。

 頬にかかる髪をふわりと払って、ひとつ深呼吸した。

 リンデンは、そのままドライヤーを置くと、そっと彼女の後ろへ回り込む。

 整ったストレートの髪を指で梳きながら、自然な手つきで編み込みの位置を探る。

 

「……結いましょうか? 元のように」

 

「んー?」

 

 トロイはその声に、首だけをわずかに傾けた。

 その仕草に合わせて髪がふわりと揺れる。

 リンデンの指が、彼女の長い髪にそっと触れた瞬間――それよりも早く、彼の指に、別の指が重ねられた。

 白くて細い指先が、優しく重なってくる。

 あたたかくて、やわらかくて、そして、止めるような力ではなかった。

 ただ、触れていた。

 

「ねー、リンデンちゃん?」

 

 トロイの声が、すぐそばで囁く。

 

「その前にさー。……リンデンちゃんの髪、乾かさないとねー?」

 

 目の前に現れた彼女の笑顔は、少しだけ意地悪で、でも変わらず優しかった。

 リンデンは、言葉を返せなかった。

 頷こうとしたその前に、彼女はすでに立ち上がっていた。

 

「座って座ってー、今日はちゃんとやってあげるよー?」

 

「……あ、はい……」

 

 気づけば、椅子の位置が入れ替わっている。

 彼女の手が、自然にリンデンの背中を押していて、いつの間にか腰を下ろしていた。

 濡れた髪に、ドライヤーの温風がふわりと吹きつける。

 トロイの指が、優しく髪を持ち上げる。

 手慣れた動き。だけどどこか、気遣うような緩やかさがあった。

 

「……ちゃんと乾かさないと、風邪ひくからねー」

 

 その言葉に、リンデンは小さく頷くだけだった。

 ドライヤーの風が、耳の裏を通り過ぎていく。

 リンデンは椅子に座ったまま、静かに目を伏せていた。

 乾いていく髪の根元を、指がそっとすくい上げては、丁寧に風を当てていく。

 その手つきは、技術的な“正しさ”よりも、何より“優しさ”に満ちていた。

 

「ねー、リンデンちゃん……」

 

 唐突に、頭の上から声が降ってきた。

 

「髪、伸びたねー。……肩甲骨、下くらいまで来てるよー?」

 

 ふわ、と温風が揺れた。

 その流れで髪が持ち上がり、背中にかかった水気がさらりと剥がれ落ちる。

 トロイの声には、笑いも、驚きもなく――ただ、懐かしむような調子だけが滲んでいた。

 リンデンの髪は、深く沈んだような緑色。

 けれど、今のように光が差し込めば、まるで翡翠石のような、透き通る輝きを帯びる。

 

「やっぱり……光が当たると綺麗な緑だねー。……昔と変わんない」

 

 その言葉に、リンデンは目を閉じたまま、小さく喉を鳴らした。

 頷きかけて、やめる。答えようとして、やめる。

 

 ――“なぜ髪を伸ばしているのか”。

 

 本当は、その答えはひとつだった。

 五歳のあの日。

 隔離室の人工灯の光の下で、トロイがドライヤーをかけてくれた時――

 「きれいだね」と、そう言ってくれたのが、ただ嬉しかったから。

 それだけのことだった。

 けれど、今それを口にするには、もう少しだけ覚悟が足りなかった。

 

「……扱い、難しくないですか? 男の癖に長いと」

 

 問いかけのようでいて、半ばごまかしのようでもある声を、リンデンは小さく漏らした。

 トロイはすぐに答えなかった。

 ドライヤーの風音だけがしばらく続いたあと、ゆるく、微笑むように言葉が返ってきた。

 

「んー……トロイさんは好きだよー? リンデンちゃんの長い髪。……さらさらしてて、触り心地よくて、癒されるー」

 

 ドライヤーの温風が、首筋を包むように吹き抜ける。

 リンデンはそのぬるい熱を感じながら、ただ目を閉じていた。

 ……さらさらしてて、癒される。

 そんなふうに言われたのは、これが初めてだったかもしれない。

 

 ――でも、きっとこれもまた、“優しさ”の一部なんだろう。

 トロイ姉さんは、誰にだって優しいから。

 

「……ありがとうございます」

 

 それだけ、ぽつりと小さく呟くと、トロイは何も言わず、またそっと髪を持ち上げる。

 風が、根元から毛先へと流れていく。

 湿った感触がなくなり、次第に髪が軽くなっていくのが分かる。

 

「よし……もうほとんど乾いてきたかなー」

 

 トロイがそう言いながら、最後に毛先をふわりと持ち上げて、風を当てていく。

 彼女の指先は、まるで誰かをなでるように――乱さず、傷つけず、ただ整えるためだけに動いていた。

 やがてドライヤーの音が止まり、ぬるい空気がふっと消える。

 トロイは息を吐くように呟いた。

 

「ふぅ……よし、じゃあ――」

 

 柔らかなタオルを手に、ほんのわずかに湿り気の残る後頭部にあてがいながら、

 ふわりと視線をリンデンの髪へ落とす。

 次に何をするかは、もう決まっている――

 けれど、トロイはその前に、もうひとつ、確認するように言葉を継いだ。

 

「……結ぶ? それとも今日は、このまま?」

 

 トロイの声に、リンデンはほんの少しだけ迷ってから、頷いた。

 

「……結んで、もらえますか」

 

 その言葉を受けて、トロイはにこりと笑う。

 

「了解でーす」

 

 乾いた髪に指を通しながら、彼女は手慣れた様子で整えていく。

 くせのない髪質は、指先でするするとほどけ、軽やかな音を立てるようだった。

 

「今日は……どうしよっかー。低めでまとめる?」

 

「はい。……あまり目立たない感じがいいです」

 

「はーい。じゃあ、襟足に沿わせて……」

 

 そう呟きながら、トロイの指が優しく動く。

 ゴムを取り出し、手元でくるりと輪を作る音がして、少しの間を置いて――ひとつに束ねられた髪が、背中に落ちる。

 

「はい、できたー。ちょっとだけ横に流してあるから、前から見ても整って見えるよー?」

 

 そう言って、トロイはリンデンの横顔を覗き込んだ。

 彼は小さく「ありがとうございます」と呟きながら、恥ずかしそうにうつむいた。

 そして――

 

「……じゃあ」

 

 リンデンが立ち上がり、静かに言う。

 

「今度は、トロイ姉さんの番ですね」

 

 その言葉に、トロイが目を細めて笑う。

 

「うん、頼んだー。トロイさん、編み込みは自分でやると手がつりそうになるから苦手ー」

 

 言いながら、腰掛けに腰を下ろし、髪を前に流す。

 ストレートのままだった髪は、すでに手ぐしで整えられ、準備は万端といった様子だった。

 リンデンは椅子の背後に立ち、そっと髪に触れる。

 薄桃色の、やわらかい光をまとった髪。

 その手触りを確かめるようにして、指を分け、編み込みを作りはじめる。

 ――左、右、中央。

 一定のリズムで、きゅっ、きゅっと髪を編み込んでいく。

 

「リンデンちゃん、手つきが優しすぎて眠くなっちゃうなー……」

 

「寝ないでください。左右のバランスが分からなくなります」

 

「んふふ、厳しー。でもそれも好きー」

 

 からかうような声に、リンデンは息をつきながらも、指を止めない。

 ゆっくりと編み込みを仕上げ、ゴムでまとめると、残りの髪を右側へ流してサイドテールの形に整える。

 

「……この辺りでしょうか」

 

「うんうん、いい位置ー。じゃあ、こっから先はふたりでやろっかー?」

 

「……はい」

 

 トロイの手が後ろからそっと重なり、結び目を微調整し始める。

 リンデンもその動きを読み取りながら、前髪のバランスや、流れを整える。

 鏡がないのに、ふたりの手つきだけで、形が整っていく。

 まるで、何年もかけて練習してきた儀式のようだった。

 

「……トロイ姉さん、完成です」

 

「おつかれさまー、完璧で花ー」

 

 そう言って、トロイは立ち上がり、髪を少し揺らしてみせる。

 その動きに合わせて、編み込みとサイドテールがふわりと踊った。

 

「うん、これでいつものトロイさんだねー」

 

 トロイがそう呟くと、リンデンは少しだけ目を細めて、彼女の横顔を見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 整えられた髪型を互いに確認し合ったあと、ふたりはそれぞれ、手早く着替えていった。

 リンデンは慣れた手つきで袖を通し、前ボタンを丁寧に留めていく。

 襟元を正し、ポケットの中身を確認し、最後に背筋をすっと伸ばす。

 一方のトロイは、裾の広がったシスター服を軽やかに肩へかけ、左右のジッパーを上げていく。

 結い直された髪がスリットからふわりと流れ、彼女のシルエットを柔らかく包んだ。

 

「じゃ、出よっかー?」

 

「はい。……ありがとうございました、今日も」

 

「いえいえー、こちらこそー。いい汗かけたー」

 

 第八訓練室の扉が、静かに開いた。

 外の通路には、まだ人工灯の光が続いている。昼間であるはずなのに、どこか密室めいた静けさが満ちていた。

 ふたりは並んで歩きながら、廊下の分かれ道へと向かう。

 次の予定はそれぞれ違う。リンデンは午後の座学。トロイは割り振られた任務へ。

 歩みが自然と、交差の地点で止まる。

 

「じゃ、トロイさんこっちだからー」

 

「……はい。お気をつけて」

 

 リンデンが小さく頭を下げる。

 それを見たトロイが、軽く唇を尖らせるようにして首を傾げた。

 

「んー……最後に、ひとつだけ」

 

 すっと指先を立てて、彼の額を軽くコツンと突く。

 

「“教わってるだけ”でもさー、ちゃんと“吸収してる”のは、リンデンちゃんの努力だからねー?」

 

「……え?」

 

「わかってるー? 真似と継続って、ちゃんと才能だからさー。自信もっていいんだよー?」

 

 言葉は軽い。

 でも、込められた想いは、それよりずっとあたたかかった。

 リンデンは一瞬、言葉を失ったまま、ただまっすぐ彼女を見た。

 けれど――頷くかわりに、口元だけでそっと笑った。

 

「……はい。がんばります」

 

「うん。そういう素直なとこが、可愛くて花ー」

 

 冗談めかして笑うと、トロイはくるりと踵を返す。

 足取りは軽く、スカートの裾がふわりと跳ねる。

 その背中を、リンデンはしばらく黙って見送っていた。

 背筋を伸ばして歩いていく、その姿は、今日も、昨日も、変わらない。

 優しくて、強くて、どこか掴みどころがなくて――けれど、なぜだか見失うことのない人だった。

 

 彼女の言葉は、いつもどこかふざけていて、軽やかで、音楽のように消えていく。

 けれどそれでも、きっと自分は今日もまた、その言葉を胸のどこかに残していくのだろう。

 “教わってるだけ”でも、“吸収してる”のは、きっと自分の努力。

 まだ“自分の力”とは言えない。

 でも、誰かの力を受け取って、それでも歩き続けることは――きっと、悪くない。

 リンデンは静かに呼吸を整えたあと、ゆっくりと背を向けた。

 またひとつ、今日を前に進めるために。





冗長なんですけど書きたかったんです許してください。

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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