訓練場の空気は乾いている。
天井近くの吸気孔が、かすかに回転音を立てながら回っていた。
光が入るのは、高所の明かり取り窓からわずかに。人工灯の明滅に照らされた銀灰の床が、少年の足元に影を落としている。
「はい、動くよー。今日もやる気いっぱいでえらいねー、リンデンちゃん」
かすかな風の音と共に、女の声が降ってくる。
声の主は、半金属製の模擬槍を肩に担ぎ、ゆるく片膝を崩した姿勢で少年の前に立っていた。
編み込まれた薄桃色のサイドテール。スリットのジッパーをすべて開いた修道服は、ひらりと風に揺れている。
腰から覗く脚線は、鍛えられた鋭さとしなやかさを両立させていた。
《ブレイドライン》所属、トロイメライ――今日は彼女が、回避訓練の担当だった。
リンデンは少しだけ息を吐くと、静かに構えを取った。
足幅は肩と同じ。上半身は低く、重心を落とし、どちらにも跳べるように。
トロイが持つ訓練槍の先端では、青白い光がわずかにきらめいていた。
霊子可視化によって表現された“刃”は、決して本物の聖槍リタではない。だが、あまりに似ていた。
トロイが指を鳴らすたび、その光が揺れ、槍のバランスが微細に変わる。
「うん、いい構えー。でもその角度だと、初撃の踏み込み、見えないよー?」
言葉とほぼ同時だった。
空気が裂けた。
リンデンの視界がぐらりと傾く。
膝が勝手に反応して後ろへ滑った。刹那の遅れ。地面が脈打つように揺れたかと思えば、眼前に青白い光が閃く。
「は――ッ!」
跳ぶ。左足で地面を蹴り、上体を捻る。
だが、それすらトロイの内には入っていた。
足元、空中、腰の横。矢継ぎ早に仕掛けられる槍の突き。
全てギリギリで“当たらない”。いや、彼女はわざと外しているのだ。彼の動きと意図をすでに読んだ上で。
ひとつ、槍の間合いから離脱。二歩下がったリンデンが、肩で息をする。
「……ぜぇ、ぜぇ……ッ、すみません……っ、やり直させてください……!」
彼の息は荒い。だが、目は伏せなかった。
敗北感はあっても、屈辱はない。
自分が「まだ届いていない」と知っているからこそ、悔しさの代わりに、向上心だけが燃えていた。
トロイは、にこりと笑った。
「えらいねー。でも――はい、次は脚から行くよー?」
その言葉を聞き終える前に、トロイの姿勢が変わる。
槍の刃先を床に引きずるようにしながら、彼女は距離を詰めた。
軽やかな足運び。長い脚が軌道を切り、斜めに迫る。
――見えない。
彼女の蹴りは、スリットから覗いた足を用いた回し蹴り。
訓練槍の突きと見せかけて、実際は足技による“下段”だった。
次の瞬間、リンデンの脚が浮き、体勢が崩れる。
「ッ、ぐ……!」
地面が近づく。踏ん張った足が滑る。倒れる――その寸前で、肩に柔らかな力が添えられた。
「力みすぎてて草ー。バランスは良くなってきてるけど、フェイントに弱いねー、リンデンちゃん」
トロイは笑っていた。怒りでも、皮肉でもない。ただの微笑み。
彼女は本気を出していない。槍も蹴りも、彼に“当たらないように”しか使っていない。
それが、彼には少しだけ悔しかった。
「……次は、ちゃんと避けます。……今度は、本気で、お願いします」
そう言ったリンデンに、トロイは目を細めた。
「そっかー。じゃあ、トロイさんも――もうちょっとだけ本気出すねー」
次の瞬間、霊子がきらめく。
訓練槍の刃が、少しだけ、鋭く見えた。
可視化された霊子の粒が縁を際立たせ、先端がわずかに“流れる”。
それは光ではなく、意志の線だった。
リンデンは唾を飲み込む。足幅を少しだけ狭めて、重心を後ろ寄りに置く。
トロイは一歩だけ、前に出た。
その歩幅が、いつもより長いと気づいた瞬間、
視界が――消えた。
槍の突き、ではない。
“目の前に槍がある”という錯覚だけを押しつけて、彼女の体が右へ回り込む。
回避しようとして体を捻ったその逆方向、彼の死角から、横殴りの一撃が飛んできた。
避けられない、と本能が叫ぶ。
それでもリンデンは、躊躇わずにしゃがんだ。
脚を折り、膝をつく勢いで床へ滑り込む。霊子の刃が髪を掠め、空気を切った。
「……おお、下がった。えらいえらいー」
揶揄するような口調で言いながら、トロイはそのまま旋回する。
踵が床を打ち、連続する回転が止まらない。
まるで舞うようだった。
訓練用の模擬槍とは思えない精度で、切っ先が空間を測る。
フェイント、蹴り、踏み込み、回転。リズムが乱れ、予測が利かない。
リンデンは、必死に追いすがる。
視線を切らさない。
呼吸を崩さない。
攻撃を“予想しない”――その場で、感じたままに動く。
トロイは笑っていた。
いつものように、柔らかく、どこか寂しげに。
「やっぱりリンデンちゃん、反応速度だけは――“とっても綺麗”だねー……」
声が遠くで響いた次の瞬間。
視界の端、足元にわずかな気配。
トロイの脚が地を打ち、体ごと捻るようにして繰り出された足払いが迫る。
リンデンは避けられなかった。
だが、崩れた体勢を立て直しながら、咄嗟に肘をついた床に――滑り込ませた足を踏ん張った。
体が回る。全体重を軸足に載せて、転がるように後退。
距離を取ることには成功した。
――たったそれだけのことなのに、胸が詰まりそうだった。
「っ、……できた……っ……今の……っ」
「うん。ちゃんとできたねー」
動きを止めたトロイが、初めて本当に嬉しそうに微笑んだ。
槍をくるりと回して背へと担ぎ直し、ゆっくりと歩いてくる。
「じゃあ今日はここまでにしよっかー。霊子量が落ちてきてるし、無理に続けると訓練槍もバーストしちゃうしねー」
「……はい……ありがとうございました……っ」
床に膝をついたまま、リンデンは深く頭を下げた。
肩が震えているのは、疲労と、安堵と――少しの、嬉しさだった。
ほんの少しでも、前に進めた気がしたから。
トロイは、そんな彼の頭の上に、ぽんと手を置いた。
「“ほんの少し”で十分だよー。歩き方、ちゃんと探してるねー、リンデンちゃん」
その声に、彼はうなずいた。
汗に濡れた前髪が、額にはりついていた。
水音が、一定のリズムで落ち続けている。
白い壁に囲まれたシャワールームは、訓練場の片隅にある小さな区画だった。
熱すぎない湯が、じわじわと首筋から肩を伝って、汗と疲労を洗い流していく。
リンデンは、目を閉じたまま、静かに頭を濡らしていた。
――今日の動き、どうだっただろう。
フェイントには反応できた。でも、反応しただけ。
あれじゃ、まだ“見切った”とは言えない。
息を吐く。背中からシャワーが流れていく。
少しだけ震える肩を、熱が優しく包んだ。
「……今日は、よくできた。トロイ姉さんにも……褒められた、けど」
口に出すと、少しだけ実感が伴った。
けれど、胸の奥ではどこか、浅く響いていた。
――教えてもらった通りに動けた。それだけの話だ。
次も同じように動ける保証は、どこにもない。
もし、突然“誰も何も言ってくれなくなったら”……自分は、何かできるのか。
湯が顎を伝って落ちる。静かに、床を叩いていく。
「……皆は、すごいな」
ぽつりと、言葉が漏れた。
誰かに聞かれることもないから、声の響きは小さな独白になった。
――誰もが、当たり前のように動いている。
スリー兄さんは、体の軸を“感覚で”理解しているし、風雅姉さんは技術も理論も全部身体で覚えている。
楓姉さんの呼吸法も、あれはもう技術じゃなくて“精神”の域だ。
「……僕はまだ、全部……“真似してるだけ”だ」
唇から落ちた言葉が、自分に一番痛く刺さる。
でも、それでも。
――モノ姉さんの講義は明日から応用に入る。
座標干渉式の基礎がぐらついてるままじゃ、霊子量の安定率が取れない。
式の書き方を変える? それとも別の系統に分岐させる?
あの構文、もう一回組み替えて……いや、簡略式で回せるか検証してみようか――
「……明日は、ちょっと早めに来て、復習しよう」
今度は意識してつぶやいた。
思考が声になると、それは“決めごと”に変わる気がした。
顔を上げる。
シャワーの湯が額を流れ落ち、冷たい床へと吸い込まれていった。
「今日もひとつ、ちゃんと覚えた。……それは、まだ“誰かのやり方”だけど」
だけど、繰り返して、繰り返して――
いつか、ちゃんと“自分のやり方”にできるように。
リンデンは静かに、シャワーを止めた。
シャワールームの扉が、乾いた音を立てて開いた。
リンデンは、濡れた髪を軽く絞りながら廊下へ出た。
着替えはまだ。インナー姿のまま、手早くタオルで水気をぬぐう。
冷房の風が微かに肌を撫でて、首筋がぴくりと震えた。
「およ、リンデンちゃん出るの遅かったねー?」
ふと聞こえた声に、びくりと肩が跳ねる。
対面のシャワールーム。
そこから現れたのは、濡れた髪を丁寧にタオルで拭っているトロイメライだった。
髪はいつもの編み込みではなく、濡れたストレートのまま、肩から胸元までさらさらと垂れている。
素肌に寄り添う柔らかなレース地のブラと、セットのショーツ。色は薄く、霞がかったグレーに近いラベンダーで、どこか儚げな印象を纏っていた。
装飾は控えめながら、確かに“女性らしい”ものだった。
だが、彼女自身はその姿をまるで気にした様子もなく、いつもの調子で軽く手を振ってくる。
リンデンは一瞬で目を逸らした。
「……すこし、考え事を、していました……」
ぽしょぽしょとした声が、自分の喉から漏れるのがわかる。
頬がほんのりと火照って、熱を帯びる。タオルで顔を拭うふりをして、視線を床へ落とした。
その様子を見たトロイが、くすっと笑った。
「あははー、トロイさんの裸とか、小さい頃に何回も見てたのにぃ?赤くなってるの草ー」
「リンデンちゃん、初心になっちゃってて森ー……そういうとこが、可愛くて花ー」
嬉しそうに語尾を咲かせながら、トロイは湿った髪を前に垂らし、リンデンのほうへ近寄ってくる。
「じゃあさ、乾かしてー? トロイさん、乾かされたい気分ー」
「えっ……あ、はい、もちろんです」
自然な流れのようでいて、断れない空気だった。
リンデンはドライヤーを手に取り、彼女の背後にまわる。
トロイは小さな腰掛けに座り、長く濡れた桃色の髪をすっと前に流す。
その背中がさらけ出されるように現れる。
肩甲骨のライン、鎖骨から伸びる細い首筋――彼女はまるで何も気にしていない。
「……じゃあ、失礼します」
ドライヤーのスイッチを入れる。
温風がふわりと立ちのぼり、髪がやわらかく揺れる。
リンデンは、根元に指を入れて、髪の束をひと房ずつ持ち上げながら、丁寧に温風を当てていく。
濡れた毛先が次第に乾いていくのを確認しながら、慎重に手を動かす。
「はー……自分でやらなくて済むの、楽だなー……」
トロイが、目を細めながらぽつりと呟いた。
その声が妙に満ち足りていて、リンデンは思わず苦笑をこぼしそうになった。
「……毎日こうしてるんですか?」
「いやー、自分でやるとつい雑になっちゃってねー。誰かがやってくれると、ほら、気持ちも整うし?」
「気持ち、ですか……」
「そうそうー。髪って、誰かに触ってもらうと“守られてる”感じがするからさー?
……ふふ、だから今のトロイさん、甘えてるよー。リンデンちゃんにー」
背中越しにそう言われて、リンデンの手元がほんの一瞬だけ止まりかけた。
だが、すぐにまた、静かに動き出す。
音もなく、風と、髪と、指の熱だけがそこにあった。
髪が、乾いていく音は静かだった。
風に吹かれて舞うたび、桃色の束が光を吸って揺れる。
やがて、濡れた感触が消え、指先でなぞれば、さらりとした絹のような滑らかさが残る。
リンデンは、ドライヤーのスイッチを切った。
「……乾きました。後ろ、乱れてないですか?」
「うん、完璧ー。ありがとうねー、リンデンちゃん」
椅子に腰掛けたままのトロイが、振り返って微笑む。
頬にかかる髪をふわりと払って、ひとつ深呼吸した。
リンデンは、そのままドライヤーを置くと、そっと彼女の後ろへ回り込む。
整ったストレートの髪を指で梳きながら、自然な手つきで編み込みの位置を探る。
「……結いましょうか? 元のように」
「んー?」
トロイはその声に、首だけをわずかに傾けた。
その仕草に合わせて髪がふわりと揺れる。
リンデンの指が、彼女の長い髪にそっと触れた瞬間――それよりも早く、彼の指に、別の指が重ねられた。
白くて細い指先が、優しく重なってくる。
あたたかくて、やわらかくて、そして、止めるような力ではなかった。
ただ、触れていた。
「ねー、リンデンちゃん?」
トロイの声が、すぐそばで囁く。
「その前にさー。……リンデンちゃんの髪、乾かさないとねー?」
目の前に現れた彼女の笑顔は、少しだけ意地悪で、でも変わらず優しかった。
リンデンは、言葉を返せなかった。
頷こうとしたその前に、彼女はすでに立ち上がっていた。
「座って座ってー、今日はちゃんとやってあげるよー?」
「……あ、はい……」
気づけば、椅子の位置が入れ替わっている。
彼女の手が、自然にリンデンの背中を押していて、いつの間にか腰を下ろしていた。
濡れた髪に、ドライヤーの温風がふわりと吹きつける。
トロイの指が、優しく髪を持ち上げる。
手慣れた動き。だけどどこか、気遣うような緩やかさがあった。
「……ちゃんと乾かさないと、風邪ひくからねー」
その言葉に、リンデンは小さく頷くだけだった。
ドライヤーの風が、耳の裏を通り過ぎていく。
リンデンは椅子に座ったまま、静かに目を伏せていた。
乾いていく髪の根元を、指がそっとすくい上げては、丁寧に風を当てていく。
その手つきは、技術的な“正しさ”よりも、何より“優しさ”に満ちていた。
「ねー、リンデンちゃん……」
唐突に、頭の上から声が降ってきた。
「髪、伸びたねー。……肩甲骨、下くらいまで来てるよー?」
ふわ、と温風が揺れた。
その流れで髪が持ち上がり、背中にかかった水気がさらりと剥がれ落ちる。
トロイの声には、笑いも、驚きもなく――ただ、懐かしむような調子だけが滲んでいた。
リンデンの髪は、深く沈んだような緑色。
けれど、今のように光が差し込めば、まるで翡翠石のような、透き通る輝きを帯びる。
「やっぱり……光が当たると綺麗な緑だねー。……昔と変わんない」
その言葉に、リンデンは目を閉じたまま、小さく喉を鳴らした。
頷きかけて、やめる。答えようとして、やめる。
――“なぜ髪を伸ばしているのか”。
本当は、その答えはひとつだった。
五歳のあの日。
隔離室の人工灯の光の下で、トロイがドライヤーをかけてくれた時――
「きれいだね」と、そう言ってくれたのが、ただ嬉しかったから。
それだけのことだった。
けれど、今それを口にするには、もう少しだけ覚悟が足りなかった。
「……扱い、難しくないですか? 男の癖に長いと」
問いかけのようでいて、半ばごまかしのようでもある声を、リンデンは小さく漏らした。
トロイはすぐに答えなかった。
ドライヤーの風音だけがしばらく続いたあと、ゆるく、微笑むように言葉が返ってきた。
「んー……トロイさんは好きだよー? リンデンちゃんの長い髪。……さらさらしてて、触り心地よくて、癒されるー」
ドライヤーの温風が、首筋を包むように吹き抜ける。
リンデンはそのぬるい熱を感じながら、ただ目を閉じていた。
……さらさらしてて、癒される。
そんなふうに言われたのは、これが初めてだったかもしれない。
――でも、きっとこれもまた、“優しさ”の一部なんだろう。
トロイ姉さんは、誰にだって優しいから。
「……ありがとうございます」
それだけ、ぽつりと小さく呟くと、トロイは何も言わず、またそっと髪を持ち上げる。
風が、根元から毛先へと流れていく。
湿った感触がなくなり、次第に髪が軽くなっていくのが分かる。
「よし……もうほとんど乾いてきたかなー」
トロイがそう言いながら、最後に毛先をふわりと持ち上げて、風を当てていく。
彼女の指先は、まるで誰かをなでるように――乱さず、傷つけず、ただ整えるためだけに動いていた。
やがてドライヤーの音が止まり、ぬるい空気がふっと消える。
トロイは息を吐くように呟いた。
「ふぅ……よし、じゃあ――」
柔らかなタオルを手に、ほんのわずかに湿り気の残る後頭部にあてがいながら、
ふわりと視線をリンデンの髪へ落とす。
次に何をするかは、もう決まっている――
けれど、トロイはその前に、もうひとつ、確認するように言葉を継いだ。
「……結ぶ? それとも今日は、このまま?」
トロイの声に、リンデンはほんの少しだけ迷ってから、頷いた。
「……結んで、もらえますか」
その言葉を受けて、トロイはにこりと笑う。
「了解でーす」
乾いた髪に指を通しながら、彼女は手慣れた様子で整えていく。
くせのない髪質は、指先でするするとほどけ、軽やかな音を立てるようだった。
「今日は……どうしよっかー。低めでまとめる?」
「はい。……あまり目立たない感じがいいです」
「はーい。じゃあ、襟足に沿わせて……」
そう呟きながら、トロイの指が優しく動く。
ゴムを取り出し、手元でくるりと輪を作る音がして、少しの間を置いて――ひとつに束ねられた髪が、背中に落ちる。
「はい、できたー。ちょっとだけ横に流してあるから、前から見ても整って見えるよー?」
そう言って、トロイはリンデンの横顔を覗き込んだ。
彼は小さく「ありがとうございます」と呟きながら、恥ずかしそうにうつむいた。
そして――
「……じゃあ」
リンデンが立ち上がり、静かに言う。
「今度は、トロイ姉さんの番ですね」
その言葉に、トロイが目を細めて笑う。
「うん、頼んだー。トロイさん、編み込みは自分でやると手がつりそうになるから苦手ー」
言いながら、腰掛けに腰を下ろし、髪を前に流す。
ストレートのままだった髪は、すでに手ぐしで整えられ、準備は万端といった様子だった。
リンデンは椅子の背後に立ち、そっと髪に触れる。
薄桃色の、やわらかい光をまとった髪。
その手触りを確かめるようにして、指を分け、編み込みを作りはじめる。
――左、右、中央。
一定のリズムで、きゅっ、きゅっと髪を編み込んでいく。
「リンデンちゃん、手つきが優しすぎて眠くなっちゃうなー……」
「寝ないでください。左右のバランスが分からなくなります」
「んふふ、厳しー。でもそれも好きー」
からかうような声に、リンデンは息をつきながらも、指を止めない。
ゆっくりと編み込みを仕上げ、ゴムでまとめると、残りの髪を右側へ流してサイドテールの形に整える。
「……この辺りでしょうか」
「うんうん、いい位置ー。じゃあ、こっから先はふたりでやろっかー?」
「……はい」
トロイの手が後ろからそっと重なり、結び目を微調整し始める。
リンデンもその動きを読み取りながら、前髪のバランスや、流れを整える。
鏡がないのに、ふたりの手つきだけで、形が整っていく。
まるで、何年もかけて練習してきた儀式のようだった。
「……トロイ姉さん、完成です」
「おつかれさまー、完璧で花ー」
そう言って、トロイは立ち上がり、髪を少し揺らしてみせる。
その動きに合わせて、編み込みとサイドテールがふわりと踊った。
「うん、これでいつものトロイさんだねー」
トロイがそう呟くと、リンデンは少しだけ目を細めて、彼女の横顔を見つめた。
整えられた髪型を互いに確認し合ったあと、ふたりはそれぞれ、手早く着替えていった。
リンデンは慣れた手つきで袖を通し、前ボタンを丁寧に留めていく。
襟元を正し、ポケットの中身を確認し、最後に背筋をすっと伸ばす。
一方のトロイは、裾の広がったシスター服を軽やかに肩へかけ、左右のジッパーを上げていく。
結い直された髪がスリットからふわりと流れ、彼女のシルエットを柔らかく包んだ。
「じゃ、出よっかー?」
「はい。……ありがとうございました、今日も」
「いえいえー、こちらこそー。いい汗かけたー」
第八訓練室の扉が、静かに開いた。
外の通路には、まだ人工灯の光が続いている。昼間であるはずなのに、どこか密室めいた静けさが満ちていた。
ふたりは並んで歩きながら、廊下の分かれ道へと向かう。
次の予定はそれぞれ違う。リンデンは午後の座学。トロイは割り振られた任務へ。
歩みが自然と、交差の地点で止まる。
「じゃ、トロイさんこっちだからー」
「……はい。お気をつけて」
リンデンが小さく頭を下げる。
それを見たトロイが、軽く唇を尖らせるようにして首を傾げた。
「んー……最後に、ひとつだけ」
すっと指先を立てて、彼の額を軽くコツンと突く。
「“教わってるだけ”でもさー、ちゃんと“吸収してる”のは、リンデンちゃんの努力だからねー?」
「……え?」
「わかってるー? 真似と継続って、ちゃんと才能だからさー。自信もっていいんだよー?」
言葉は軽い。
でも、込められた想いは、それよりずっとあたたかかった。
リンデンは一瞬、言葉を失ったまま、ただまっすぐ彼女を見た。
けれど――頷くかわりに、口元だけでそっと笑った。
「……はい。がんばります」
「うん。そういう素直なとこが、可愛くて花ー」
冗談めかして笑うと、トロイはくるりと踵を返す。
足取りは軽く、スカートの裾がふわりと跳ねる。
その背中を、リンデンはしばらく黙って見送っていた。
背筋を伸ばして歩いていく、その姿は、今日も、昨日も、変わらない。
優しくて、強くて、どこか掴みどころがなくて――けれど、なぜだか見失うことのない人だった。
彼女の言葉は、いつもどこかふざけていて、軽やかで、音楽のように消えていく。
けれどそれでも、きっと自分は今日もまた、その言葉を胸のどこかに残していくのだろう。
“教わってるだけ”でも、“吸収してる”のは、きっと自分の努力。
まだ“自分の力”とは言えない。
でも、誰かの力を受け取って、それでも歩き続けることは――きっと、悪くない。
リンデンは静かに呼吸を整えたあと、ゆっくりと背を向けた。
またひとつ、今日を前に進めるために。
冗長なんですけど書きたかったんです許してください。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
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ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
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息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
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叡智閑話
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イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった