午後のはじまり。
リンデンは、ひとり騎士寮の資料室に向かっていた。
午前の訓練を終えてから、少しだけ時間が経っている。
シャワーを浴び、制服に着替え、髪は丁寧に結い直されていた。
それでも、胸の奥にはほんの少し熱が残っているようだった。どこか落ち着かない、それでいて凛とした熱。
静かな廊下を進み、手動式の重厚な扉を開ける。
資料室の内部は、昼下がりの静謐に包まれていた。
壁面の一部には古い紙の資料が整然と収められた棚があり、その隣には複数のホログラム投影端末と閲覧パネルが組み込まれている。
浮かび上がるメニューインターフェースは、声と指先の動きに反応して資料を呼び出す仕様だった。
中央には長机がひとつ。椅子は三席。
無駄のない構造と冷たい素材感が、ここが“学びと判断の場”であることを静かに主張していた。
リンデンは指定の端末を起動し、閲覧権限を入力する。
即座に投影された資料の選択画面から、今日の講義内容に沿った書名を選ぶ。
『戦略構造論・上巻』
『神域殲滅記録資料集』
『指揮官のための帝王学概論』
淡い蒼のホログラムが、宙に資料の像を映し出す。
その光の粒に指先を滑らせながら、リンデンは自然と呼吸を整えていた。
――今日の講義担当は、ソナタ姉さん。
GARDEN軍事局の総指揮官であり、第一騎士団《ブレイドライン》のQUEEN。
その存在は遠く、凛々しく、どこか厳格で――でも、兄姉のように優しくもある。
「やあ、早いなリンデン。……まったく、模範的すぎて教え甲斐があるやらないやらだ」
不意に背後からかけられた声に、リンデンはそっと立ち上がった。
入口に立っていたのは、金髪の少女――ソナタ。
彼女の手には、数冊の資料と一枚のタブレット。それだけで場が引き締まるようだった。
「午後の一講目、始めようか。……今日のテーマは“帝王の倫理”と“戦略的非情”について。少し骨が折れるぞ?」
肩肘張らない調子のまま、けれど目の奥には透き通った鋼の光がある。
リンデンは姿勢を正し、机に視線を戻した。
ソナタは長机の端に資料を置き、卓上の端末へ軽く手をかざす。
機械が起動音もなく応じると、空中に淡いホログラムが浮かび上がった。
その光の粒が織りなすのは、一枚の戦場地図。
神域が膨れ上がった事により発生したいつかの時代の辺境都市と、その周囲を囲むガーデナー部隊の配置図だった。
「――では、始めようか」
ソナタの声は穏やかだった。
けれどその穏やかさは、どこか“戦場に相応しくない”ほど優しかった。
「リンデン。今日の主題は、“戦略的非情”だ。言葉の響きは冷たいが、戦場において避けては通れない指針のひとつでもある」
彼女は指を動かす。
地図が動き、ガーデナー部隊の一つ――最も突出した部隊の名前が浮かび上がる。
そこには、〈戦術予備群L〉という名が記されていた。
「戦いにおいて、全ての命を等しく守ることはできない。勝利のためには、損耗を計算し、時に犠牲を“配置”する必要がある。――これが“非情”と呼ばれる所以だ」
リンデンは、真剣な眼差しでホログラムを見つめていた。
指先は膝の上で静かに重ねられ、その結び目はかすかに震えているようにも見える。
「ここに示された戦術では、突出配置された部隊が一定時間敵を引きつけることで、他の部隊の生存率を三割上昇させた。結果として都市の殲滅は成功し、神域の拡大も阻止された」
光の粒が、一定時間を示すタイムラインに沿って進行していく。
部隊名がひとつ、ふたつ、消えていく。
そして、最終戦果とともに、静かに“全滅”のマークが点灯した。
「……だが」
ソナタがふと、言葉を区切った。
その声はわずかに低く、遠くの何かを見ているようだった。
「これが“正しかった”と、誰が言える?」
その瞬間、リンデンの指がぴくりと動く。
けれど、彼は口を開かない。ただ、視線だけが揺れた。
ソナタは続けた。
「私は、この戦術を承認した。勝利のために、犠牲を差し出した。……そして、誰かがその“犠牲”を、生きたまま受け取った。自分の命と引き換えに、他者の勝利を支える役割を――押し付けられたんだ」
声には怒りも、悲しみもなかった。
ただ、それを“知っている者”としての、静かな響きだけがあった。
「だから覚えておいてくれ、リンデン。“非情”は戦術として正しい。けれど、“正しさ”は、いつだって誰かを壊す」
その言葉に、ホログラムがふわりと薄れていく。
戦場の地図も、数字も、ただの青い光に戻っていった。
しばしの沈黙。
消えかけたホログラムの光が、空気の中に淡く漂っている。
リンデンは視線を落としたまま、言葉を探すように口を開いた。
「……それでも、必要なんですよね。誰かが、“そういう役目”を受け持つことが」
その声音は、震えてはいなかった。
淡々とした響きの奥にあるのは、理解と、それでも拭いきれない苦さだった。
ソナタは、ほんの一瞬だけ息を止めた。
表情には出さない。それでも、何かが揺れた気配があった。
指先が静かにホログラムのページをめくる。
「――ああ。君の言う通りだ、リンデン」
淡々と応じるその声音は、冷たくなく、けれど優しさを含みすぎてもいなかった。
「それが戦場だ。理想ではなく、現実を選ぶ場所。“誰か”がそういう役割を担わなければ、“皆”が死ぬこともある」
彼女は次の資料を呼び出す。
表示されたのは、過去の戦場心理に関する分析データと、それに基づいた指揮官の判定フロー。
「だがな――それを“誰に担わせるか”を決めるのは、君たちじゃない。私たち、“上に立つ者”の役目だ」
言葉に力がこもる。
それは、戒めにも近い響きだった。
「だから私は教える。戦場の“非情”を、君に。君にだけは、“知らなかった”では済まない未来があるからだ」
リンデンは、軽く頷いた。
その表情はまだ硬い。けれど目は逸らさなかった。
ソナタは静かに、次のページを開いた。
映し出されたのは、作戦中における“損耗率の予測と配置最適化”――命を、数式で並べた資料だった。
ホログラムの図面が、静かに切り替わった。
表示されたのは、複数の高低差を持つ地形と、幾つもの坑道が交錯する鉱山都市群の再現神域。
地下資源の採掘施設が要として配置され、その周囲に防衛線と退避ルートが引かれていた。
「この作戦神域は、過去の“鉱山都市”をモデルに構築された再現型だ。内部では、霊子資源や神因子鉱を含む鉱脈が実働状態にある。それゆえ、資源価値は高い。放棄できず、奪われてもならない場所だ」
ソナタの声は冷静だった。
けれど、ホログラムに映る配置には、生々しい緊張があった。
「敵性出現の兆候を受け、GARDENはこの神域に五つの部隊を投入した。内三部隊は資源の抽出と管理、二部隊が防衛。……そして、そのうちの一つが“陽動任務”を与えられた」
指先の動きに連動して、都市郡の一角――高台に近い出鉱施設に、赤いマーカーが点滅する。
「この部隊の目的は、敵の初動を引きつけること。ここに配置された部隊が敵戦力の七割を捉えたことで、他の部隊は比較的損害少なく目標を達成した」
淡々と語られる戦果の裏に、重い“代償”があった。
「だが、ここにいた者たちは、帰還しなかった。坑道が崩落し、外との通信も途絶えた。あらゆる戦術的非情が適用された結果――勝利は得られた。資源も回収された」
映像には、坑道の深部で折れた鉄骨と、灰色に崩れた地面が映し出される。
誰も映っていないのに、そこに“人のいた痕跡”がある。
「これは、“正しい”とされた作戦だ。損耗率、全体で一六パーセント。成果率、九八パーセント」
数値だけを見れば、成功の作戦。
けれどソナタはそこで、一度だけ言葉を止めた。
「……しかし、これが“誰か”の視点だったら?ここにいたのが、自分だったら。あるいは、“自分の大切な者”だったら――」
言葉は、結ばれない。
けれど、問いは確かにそこにあった。
正しさと、その正しさが殺したものへの、自問が。
映像が消える。
ホログラムの光だけが、空気に淡く残っていた。
ソナタの問いかけは続かなかった。
それは答えを求めるものではなく、問いかけた彼女自身の胸に返っていくものだった。
けれど、その静寂のなかで、リンデンが口を開いた。
「……僕だったら」
ソナタがわずかに目を向ける。
リンデンは俯き加減のまま、机の上に残る淡い光を見つめていた。
「もし、僕がそこにいたら。僕一人で、他の人が助かるなら……行きます。迷わないと思います」
言葉は静かで、震えてはいなかった。
「僕は、“選ばれる側”でいい。……誰かを助けるなら、それで」
その響きは真っ直ぐすぎて、だからこそ危うい。
ソナタは息を吸い込んだまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。
それは“誇らしさ”にも似て、“罪悪感”にも近い感情だった。
「……そうか。君はそう言うんだな」
しばし沈黙。
彼女は自分の指先を見つめ、そっと重ねてから言葉を継いだ。
「でもね、リンデン。それを“迷わない”と言い切れるうちは、君はまだ……人間として大切なものを捨てていないという証だ」
彼女は立ち上がり、投影されていた戦術資料を閉じる。
「その“覚悟”は、いつか君の力になる。でも、同時に君を壊す“毒”にもなる。だから……どうか、忘れないでほしい。君がそれを望んでも、“誰かに押しつけられた”時は、それはもう君の意志ではない」
声は優しかった。
けれど、その奥にある痛みは、ソナタ自身の過去を穿っていた。
ソナタはそっと息を吐いた。
「……少し、休憩を取ろう。講義の続きは後半にまわす」
そう言って、彼女は手元の端末を閉じると、静かに背もたれに身を預けた。
ホログラムの光がゆっくりと薄れていく。騒がしさも、光も、残酷な数字もすべて消えた。
資料室には、再び静けさが戻ってきた。
リンデンも机から視線を外し、背筋を少しだけ緩める。
緊張と熱が抜けたわけではない。ただ、ほんの少しだけ息を吐ける空間がそこにあった。
ソナタがぽつりと呟く。
「……君は、良い
それは評価でも賛辞でもなく、未来への予感のようなものだった。
リンデンは答えなかった。けれど、その一言を静かに胸の奥へ仕舞うように、瞼を伏せた。
数秒の沈黙のあと、ソナタが唐突に立ち上がる。
「水分を取っておこう。――この手の座学はどうしても、喉が乾いてしまう」
彼女はそう言いながら、隅の簡易冷蔵ユニットへ歩いていく。
無造作に取り出した小さなパック入りの水を、二つ指に挟んで戻ってくる。
「リンデン、君の分だ」
差し出された冷たい水を、リンデンは両手でしっかりと受け取った。
手のひらに触れる冷たさが、少しだけ現実感を取り戻させる。
重たい講義の余韻を、沈黙のまま抱えながら、二人は静かに水を飲んだ。
短い休憩が終わると、ソナタは再び端末に指を滑らせた。
淡い音とともに、空間にホログラムが浮かび上がる。
今度映し出されたのは、戦術でも地図でもなく――一枚の抽象図だった。
中央には円、その周囲にいくつもの線が放射状に伸びている。
それぞれの線の先には、様々な“資質”の言葉が並んでいた。
『知性』『勇気』『冷静さ』『迅速な判断』『共感』『非情』『耐性』『犠牲の覚悟』――
「これは、帝王学における“指導者の資質”を並べたモデルだ」
ソナタは、中央の円にそっと指を置いた。
「君が今後“戦う者”としてだけでなく、誰かを導く場に立つなら……これらの要素のどれか一つでも欠けてはならない、とされている」
ホログラムがゆっくりと回転し、資質の言葉が一つずつ目の前を通り過ぎていく。
リンデンは黙ってそれを見つめていた。
「けれど、全部を満たした人間など、存在しない」
ソナタの言葉は静かだった。
その静けさは、教訓というより、告白に近かった。
「選ばれた者は、不完全なまま、誰かを選び、誰かを捨てなければならない。それが、“指揮官”の仕事だ。迷いながらも、決めなければならない」
リンデンが口を開く。
「……迷っても、決めなければいけないんですか?」
それはとても子供らしく、けれど正しく、深い問いだった。
ソナタは微かに頷く。
「そうだ。迷っていい。でも、決断は誰かがしなければならない。そしてそれをする者は、“迷い続ける者”であるべきだと私は思っている」
言葉のあとに、少しだけ視線を落とした。
その横顔には、かすかな影が差していた。
「……君は、そういう者になれると思う」
それは、彼女の願いか。それとも、懺悔か。
あるいはその両方か――リンデンにはまだ、判断がつかなかった。
けれどその一言は、胸の奥に、小さな熱を残したまま沈んでいった。
ホログラムは静かに回転を止めた。
“非情”も“勇気”も、“犠牲”も、“共感”も――すべての文字が淡く光の中に溶けていく。
空間に浮かんだ光の粒は、やがて無音のまま宙に散り、静謐な空気が残された。
その静けさを破るように、リンデンが、そっと息を吸った。
「……もし」
口にした瞬間、自分の声が場違いに思えたのか、一瞬だけ言葉が途切れる。
けれど、彼はもう一度、口を開いた。
「もし、全部の資質を持っていない人間が……それでも、誰かのために立ちたいって思ったら……どうすればいいんでしょうか」
その声音には、ためらいも自嘲もなかった。
ただ、純粋な疑問と、小さな決意がこもっていた。
「僕は……まだ、どれも中途半端で。勇気もないし、頭もよくないし、誰かを守れるような力も……ちゃんとは持っていないかもしれない。でも……それでも、助けたいんです」
その言葉は、言い訳でも正義でもなかった。
子供の理想にも似た、ただの真実だった。
ソナタはその姿を見つめていた。
視線はまっすぐに、でも何かを噛みしめるように、静かに揺れていた。
そして、ほんの少しだけ息を吸ってから、椅子に深く腰を預ける。
「……ならば、君の“足りないもの”は、君の仲間が持っていればいい」
その言葉には、慰めの響きはなかった。
けれど、どこか、痛みを知っている者だけが語れる“確信”があった。
リンデンは、小さく目を見開いた。
「人は独りでは戦えない。
君が選べないなら、隣に選べる者を。
君が赦せないなら、赦せる者を。
君が笑えないなら、笑ってくれる誰かを。
君が壊れてしまうなら、君を支えてくれる誰かを、そこに――置いておくんだ」
光が、資料室の空間からすっかり消えていた。
それでも、ソナタの声はなお、そこに淡く灯り続けていた。
「そうして歩けば、君はきっと……君の形で、“上に立つ者”になれる」
その言葉に込められていたのは、知識ではなかった。
祈りだった。願いだった。
その“祈り”が、未来において叶わなかったことを――この時の誰も、まだ知らない。
しばしの沈黙が、またふたりの間に落ちる。
けれど、それはもう重苦しいものではなかった。
ソナタは手元の端末に最後の入力を加え、静かに言った。
「――今日の講義は、ここまでにしよう」
ホログラムは完全に消え、資料室の灯だけが静かに空間を照らしていた。
その明かりのなか、ソナタは椅子から立ち上がると、ゆっくりと背伸びをした。
「少しばかり詰め込みすぎたかもしれないな。だが、君にはきっと届くと思ったんだ――だから、つい」
肩をすくめるその仕草には、講師というより姉のような柔らかさがあった。
リンデンも立ち上がり、静かに頭を下げる。
「ありがとうございました。……今日のこと、きっと忘れません」
ソナタはその言葉を聞いて、目を細めた。
「ああ、忘れないでくれ。でも、重く抱えすぎてもいけない。君はまだ十二歳で、未来は山ほどある」
机の上に、読みかけの紙資料が一枚残っていた。
ソナタはそれを拾い上げ、リンデンの手にそっと渡す。
「これは、宿題だ。次回までに読んでおくといい。内容は……“信頼について”だ。きっと、今日の続きになる」
それだけ告げて、彼女は歩き出す。
資料室の扉の前で一度だけ振り返り、微笑んだ。
「ではまた、リンデン。……よく学んだな。とても、立派だった」
そして静かに扉を開け、ソナタの姿は廊下の奥へと消えていった。
残された静寂のなか、リンデンは手元の紙を見下ろした。
そこには、小さな文字でこう記されていた。
『信頼とは、他者の判断を自分の責任で受け入れる覚悟である』
リンデンは目を伏せ、紙を胸元に抱えた。
まだ答えの出ない問いと、微かに残る手の温もりを、そのまま胸にしまい込むように。
陽はすでに傾き始めていた。
高窓から差し込む橙色の光が、訓練場の床を長く横切っている。
その静けさは昼のざわめきとは違い、どこか“余白”のような空気を漂わせていた。
リンデンは静かに、足を踏み入れた。
誰もいない。
誰も見ていない。
それでも彼は、まっすぐと中央のマーカーへと歩を進めた。
そこには、午前中には使用していなかった回避用のラインが設定されていた。
廊下のように細長く伸びるトレースコース。左右の壁面には干渉型のセンサーと軽量式の障害装置が設置されており、
踏み込みや転倒、動作遅延などを自動で計測・記録する仕組みだ。
リンデンは無言で設定パネルに手を伸ばし、短縮モードと制限時間を微調整する。
休憩も、指導も、報酬もない時間。
それでも彼は、再びそこに立った。
「……」
息を吸い、片足を一歩、前に。
ビープ音。反応速度を測定するセンサーが起動する。
直後、模擬障壁が左右から展開され、ランダムなリズムで前後に走る。
リンデンは、身体を低くして滑り込み、旋回し、横転し、膝で止まり、また立ち上がる。
その動きは、午前よりもわずかに洗練されていた。
だが同時に、ほんの僅か――“迷い”のようなものも滲んでいる。
《選ぶ者》ではなく、まだ《選ばれる側》。
それでも、自分の足で繰り返すことだけは、捨てずにいた。
ソナタの声が、思い出のように胸の奥で響く。
『迷ってもいい。だが、決断は誰かがしなければならない』
『――そしてそれをする者は、“迷い続ける者”であるべきだ』
リンデンは跳ね、転がり、最後の障壁を抜けて膝をついた。
肩で息をしている。
苦しさではない。悔しさでもない。
ただ、まだ終わらせたくなかった。
もう一度、立ち上がる。
呼吸を整え、開始地点へと戻る。
小さな影が、橙の床にふたたび重なる。
今度は、さっきよりも少しだけ速く――ただ、それだけを目指して。
もう何度目かの挑戦だった。
リンデンは再びラインに立ち、目を閉じて深く息を吸い込む。
数秒の静止――センサーの起動音。障壁展開、カウントダウン開始。
身体は鋭く、動きに無駄はない。
踏み出し、旋回、滑り込み、低姿勢――だが。
予定されたルートに集中していたその瞬間、不意に違和感が走る。
「……っ」
通常のパターンではありえない位置から、障壁が一枚、横滑りで展開された。
反射的に体をひねってギリギリで抜けるが、顔にうっすらと驚きの色が浮かぶ。
「……今の、コース設定に……なかった……」
判断を止める間もなく、次の配置に接続される。
全力で駆け抜け、身体を斜めに投げ出すようにしてすり抜け――
そして、最後のセクション。
「……え」
障壁が“同時に五枚”、上下左右の無理な位置から射出された。
交差、反転、背面を塞ぐ角度――明らかに設定の限界を超えた、“悪意ある出現パターン”だった。
リンデンは強引に跳躍しようとするが、足がわずかに引っかかり――
アウト判定。
照明が赤に切り替わり、試技が強制終了される。
床に膝をつきながら起き上がったリンデンは、困惑と注意の色を滲ませて辺りを見渡した。
操作パネルにも異常はなく、誰もいないはず――だった。
「にししー♥」
そのとき、背後から軽やかな笑い声が落ちてきた。
視線を巡らせたリンデンの目に映ったのは――
訓練場の隅、無造作に積まれた小型コンテナの上に腰をかけ、足を組んで揺らしながら笑うひとりの少女。
深い紫の装束に、悪戯げな微笑。
肩に垂れた布飾りが、わずかに揺れている。
「やっほー、リンデンちゃん♥ 今日もまじめまじめー♪ でもぉ〜……ちょ〜っと油断してたし?」
その声は明るく、ふざけているようで――
けれどその瞳は、彼の動きのすべてをしっかりと捉えていた。
「……紫亜姉さん」
リンデンが名を呼ぶ。
呆れ半分、でもどこか安心したような響きがあった。
紫亜はにししーと笑って、いたずらを成功させた小悪魔のように言った。
「いやぁ〜♥ リンデンちゃんががんばってる姿、つい見惚れちゃったしー? で、ちょぴっとだけ“アレンジ”してあげただけなんだしー♥」
コンテナの上でふんぞり返る紫亜は、まるでゲームでも始めるようなノリで笑っている。
リンデンは息を整えながら、少しだけ眉をひそめた。
「……訓練中の設定を、勝手にいじるのはやめてください。危険です」
真面目な抗議。けれど声はどこか子供らしくて、紫亜は余計に楽しそうに目を細めた。
「にししー♥ ほらほら〜、言ったし言ったし〜!
“危険です”って〜! ってことは、ちゃんと動いてた証拠だしー♪」
リンデンがじっと睨み返しても、紫亜は平然と受け流す。
「……でもまぁ、悪くないんだしー? リンデンちゃん、今日ちょっとだけ動きに“らしさ”出てたしー」
その言葉には、ほんの一瞬だけ――冗談の色が薄れる。
まるで、どこかで本当に見ていたような口ぶり。
リンデンは少し目を伏せ、姿勢を正した。
「……ありがとうございます。ですが、僕の訓練なので、もう大丈夫です。姉さんは――」
「はーい、ストップぅ♥」
唐突に声を被せる紫亜。
「まじめまじめ〜♪ だからリンデンちゃんはいつも“自分のこと”にしちゃうんだしー?
でも紫亜はやさしーお姉ちゃんだから、お手伝いしてあげるしー♥」
そう言いながら、ひょいっとコンテナから飛び降りる。
ふわりと着地して、訓練ラインにとことこ歩いてくる。
「ってわけでぇー、今度は紫亜が出す“リアルな罠”つき障壁モードで勝負だしー?
リンデンちゃんが引っかかったら、そのたびに紫亜のお願いを一個聞いてもらうしー♥」
悪戯の続きのように言いながら、どこか誇らしげだった。
「……なに、こわい顔してるんだしー?そんなに嬉しかったしー?」
くすくすと笑うその横顔には、
――間違いなく“姉”としての優しさが宿っていた。
ピッ――という鋭い起動音と共に、訓練場の空気が切り替わる。
紫亜が手動で設定した“リアルな罠付き障壁モード”――
その最初の展開から、すでに“ハードモード”の名にふさわしい内容だった。
初動の五秒。
障壁が左右非対称に展開し、タイミングをずらして三方向から射出される。
足元の床面も一部がわずかに沈み、滑りやすいよう細工されていた。
「うわっ……!」
リンデンは反射的に身体を低くし、回転しながら床を滑り抜ける。
直後、背後から別の障壁が起動――それも、予定されたルートには存在しなかった動きだ。
だが彼は止まらない。
研ぎ澄ませた身体の感覚と反応だけで、次のルートを読み、足を切り返す。
「にししー♥ おぉー、よけたよけた♪ でもでもぉ〜、次はもっと激しいの来るしー?」
ラインの端、プログラム端末の横で紫亜が肩肘をついて楽しそうに実況している。
「リンデンちゃん、次はちょぉ〜っとでも遅れたら、ボッシュートだしー♥
落とし穴はー、愛と努力じゃ回避できないんだしー?」
障壁が折り重なって展開される。
回避ルートは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ開いた。
リンデンは息を止めて、全力で踏み込み――ぎりぎりの角度で滑り込む。
間一髪の回避に、紫亜が手を叩いてにやにや笑う。
「ぷぷっ♥ すっごい顔してたし!
でもでも、ちゃんと抜けたのはエラいし〜♪ リンデンちゃんその調子だしー♥」
からかうような声色、でも言葉の端々には“ちゃんと見てる”温度がある。
「ほらほら、まだ終わってないしー? 最後はぁ……紫亜の“どーしてもよけられない壁チャレンジ”いってみるしー♪」
次の障壁がゆっくりと、しかし確実に追い詰めるような速度で展開される。
タイミングはわずか0.8秒。
身体の限界まで振り絞らなければ、通れない。
リンデンは歯を食いしばり、走る。
汗が額を伝い、息が乱れる。
でも、その横から飛んでくる声は、どこか励ましにも聞こえた。
「にししー♥ リンデンちゃん、限界越えてみるんだしー♥
紫亜、お姉ちゃんだから、見届けてあげるしー?」
時間が――収束する。
障壁が交差するタイミングは0.8秒。
その中に、身体を滑り込ませられるのは一度きり。
判断も、足運びも、反射も、すべてが合わなければ成立しない。
リンデンは――跳んだ。
視界が狭まる。
踏み込みの衝撃が脚にきしみ、呼吸が肺から弾ける。
跳躍、捻り、着地。
膝が床に触れた直後、判定音が鳴った。
――クリア。
「っ、は、っ……!」
身体の力が抜けて、そのまま仰向けに倒れ込む。
呼吸は荒く、視界は天井の光をぼんやりと映すばかり。
限界を越えた反応。
それでも、彼は最後までやり切った。
そしてその視界に、ひょいっと横から入り込んでくる顔がひとつ。
「にししー♥ リンデンちゃん、やりきったんだしー♪」
紫亜が、いつの間にか傍にしゃがみ込んでいた。
肩の隙間から覗き込むように、いたずらっぽく笑っている。
「ちょ〜っとだけ意地悪すぎたかなーって思ったし? でも、ちゃんと抜けたしー?
紫亜の無茶振りクリアできたら、もう実質一流だしー♥」
笑いながら、ぴょんと指で額を軽く突く。
「ぜぇぜぇ言ってるリンデンちゃんも、ちょ〜っと可愛いし♪
……やっぱり紫亜の目に狂いはなかったしー♥」
からかうようでいて、その声には嘘がなかった。
ちゃんと見ていた。
ちゃんと信じていた。
だから今、心から楽しそうに笑っていた。
紫亜はリンデンの荒い呼吸を少しの間じっと見ていた。
床に仰向けで倒れたまま、額にはうっすらと汗。
腕も脚も限界まで動かして、もう力が入らないのだろう。
「にししー♪ ま、さすがに今日はここまでにしてあげるしー」
ぴょこんと立ち上がると、彼の隣にとことこ歩き、すぐそばに腰を下ろす。
「ねぇリンデンちゃん。紫亜、前に見たんだしー」
足を崩して、膝をぽんぽんと叩く。
「叢裂ちゃんが訓練後にお膝貸してあげてたの。
それ見て紫亜、めちゃくちゃウケたんだしー♪」
くすくすと笑いながらも、どこか誇らしげな口ぶりだった。
「だから紫亜もやさしーお姉ちゃんだから、今日は貸してあげるし。
紫亜のおひざ、めちゃくちゃ寝心地いいんだしー♥」
そう言って、そっと彼の頭を自分の膝の上へ導く。
リンデンは最初、小さく目を見開いたが――
力が入らないまま、拒むこともできず、けれどどこか安心したように、静かに目を閉じた。
「んー♥ やっぱり甘え下手だしー? でもでも、紫亜にはバレバレなんだしー♪」
上から見下ろす紫亜の瞳は、普段よりずっと柔らかかった。
「よくがんばったし。すっごくカッコよかったし。……だから、今日はちょっとだけ甘えていいんだしー♥」
そう言いながら、指先でそっと額の汗を拭う。
訓練場にはもう、誰の声も音もない。
ただ、夕方の光と、ふたりの静かな呼吸だけが、そこに残っていた。
どうしてもキャラ性がうちの時空になりますね……書く度に頭が捻れて雑巾になりそう……。
あとどうしてもメスガキ属性は記号を使わないと表現できないのが力不足を感じる……。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
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ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
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息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
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叡智閑話
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イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった