乾いた靴音が、訓練場に二つ。
小さな足と大きな足が、正対して止まる。
リンデンは構えた。左足を少し引き、腰を落とし、両腕を開いた体術の型。
視線は真正面。だが、その意識は全身に散っている。
スリーが動いた。
一歩。距離を詰めながらの牽制。
その瞬間、リンデンは右腕を引いた。フェイントだ。スリーは読んでいる。
二歩目で体ごと踏み込んでくる。上段の突き。
その力を利用して、重心をずらす――避けず、受けて流す。
「……ッ!」
腕に伝わる重さは、訓練用の加減を感じさせない。
強引な崩しの後に、脚払い――読めていた。
リンデンはわずかに重心を浮かせ、回避と同時に肘でスリーの胸元を狙う。
だが、空振り。
スリーの体が、消えるように沈んだ。
姿勢を落とし、踏み込みながら下からの掌底。
反応で腕をクロスさせて受けるが、体勢が崩れる。
踏み込みの勢いを殺しきれず、背が仰け反る。そこへ首元を刈るような掌打。
紙一重でしゃがみ込むことで回避し、そのまま足を引っ掛けて倒しにかかる。
しかし。
「――甘いな」
倒れない。
スリーは足を地に滑らせながら、リンデンの膝裏を逆に刈り返す。
そのままバランスを崩したリンデンの腹に、寸止めの拳が迫る――
「ッ!」
両手を交差して受け、後方に転がる。地を蹴って距離を取った。
……息が切れていた。
数分にも満たない攻防。しかし、全身が焼けつくように熱い。
(ここまで――食い下がれるようには、なった)
かつてなら、一合も持たずに倒されていた。今は、目も、反応も、少しはついていける。
けれど。
当たらない。届かない。
攻撃が、読めても追いつけない。流しても崩せない。
――今のスリー兄さんは、“訓練の中にある実戦”で動いている。
そしてそれは――不老不死の騎士が、数万数千年かけて染み込ませた技と速度だ。
思考を割り切る間もなく、再びスリーが仕掛ける。
風切り音とともに拳が迫る。視認と同時に、重心が跳ねる。
――読んだ。
左に跳ぶ。同時に回し蹴り。
届かない。刃のない一撃が空を切る。
その脚を掴まれ、次の瞬間、視界が回転していた。
叩きつけられる。
背中を打つ音が、訓練場の静寂に響いた。
ほんの少し、肺が揺れて、空気が抜けた。
リンデンは仰向けのまま、天井を見つめていた。
白い光が差し込む天井。その輪郭が、ぐらついている。
痛い。だが、致命的ではない。
肩と背中を叩かれた感触よりも、その前に掴まれた足首の力の確かさが忘れられなかった。
読んだつもりだった。反応したつもりだった。
――でも、スリー兄さんはもっと深く、もっと遠くを見ていた。
足音が近づく。影が、視界を塞ぐ。
「……立てるか、リンデン」
静かな声だった。感情も評価も、何も含まれていない。
ただ事実を問う、スリーの声。
リンデンは頷き、差し出された手を取った。
引き起こされる途中、ふと手元が震えているのに気づいた。
悔しさか、疲労か。自分でもわからなかった。
「もう一度お願いします」
スリーは少しだけ眉を動かした後、微かに笑う。
「フッ……本当に、やるようになったな」
「技の読み、足さばき、体の流し方。どれも“見て覚えた”だけじゃない」
その言葉が、胸の奥でゆっくりと広がっていった。
自分の努力が、ちゃんと“形”になっている。そう思えるだけで、どれだけ救われるだろう。
「……ありがとうございます」
言葉に込めた礼を受けて、スリーは一歩下がった。
「そろそろ、次の段階に進んでもいいかもしれないな」
それはまるで、今までの訓練が“準備運動”だったかのような口ぶりだった。
だけど――。
胸が跳ねた。手のひらに力がこもった。
この言葉を、ずっと待っていた。
「……はい。よろしくお願いします」
静かな部屋だった。
人工照明が落とされた学習室。ホワイトパネルに霊子式と符号図が淡く光る。
リンデンは端末を手に、集中していた。
このところ、理解の速度が明らかに変わってきている――そう実感できるようになっていた。
今取り組んでいるのは、《外部干渉下における霊子偏在の再定位と位相転写》。
以前は読み取るだけで精一杯だった術式だが、いまは構築方法に自分なりの手を加える余裕がある。
ペンが止まる。
「補助式の位相転写……“ズラす”んじゃなく、“浮かせて間を作る”ように再構成してみました。
干渉点から出るノイズは、段階的な位相遅延で吸収できるかと」
斜め後ろから覗いていたモノが、ファイルのページをぱら、と指先で送る。
その仕草に評価の含みはないが、わずかに頷いた。
「……悪くないわ」
その一言が、リンデンの中に残る。
誇りではない。ただの“肯定”でもない。“認められた”という、重くて静かな実感。
「ありがとうございます」
自然と出た言葉に、モノは返事をせず、次の課題を掲げた。
「次。“符号干渉による霊子乱流の均し”」
「明日からは、レベルを上げる予定。今日のうちに、ここまでは通していくから」
リンデンの手が止まる。
「レベルを上げる」という言葉の意味に、一瞬だけ思考が遅れた。
けれどすぐに、気を引き締めるように深く頷く。
「……はい。お願いします」
返事のあと、リンデンはもう一度手元の端末に視線を戻した。
今ならまだ、集中力が切れていない。あと一題、いや二題はいける。
ペン先が、無音の画面を滑る。
小さくうなずきながら、式を書き、構造を書き換え、仮定を展開していく。
目の動きは素早い。思考の速度が、追いついている。
ほんの数ヶ月前なら、ただ書き写すだけだったこの内容に――いまは自分の意思で触れている。
モノは椅子に座りながら、何も言わずその背中を見ていた。
無表情なまま、手元のメモ帳に何かを書きつける。
ペンの動きが止まると、そっと一言、誰にも聞かれないような声で呟く。
「……まあ、悪くないどころか、ちょっと異常の域よね」
本人には聞こえなかった。
だからリンデンはただ黙々と、目の前の問題に取り組み続ける。
――明日から始まる、“新しい段階”のことを、まだ何も知らないまま。
騎士寮のエントランスロビーには、午後の陽射しが差し込んでいた。
陽光は大きな窓から斜めに入り込み、床に柔らかな明るさを落としている。
どこか学校の放課後を思わせるような静けさが、空間を包んでいた。
リンデンはその窓際のテーブルに一人、座っていた。
膝の上にタブレットを広げ、簡易スタイラスを使って画面に式を書き込んでいる。
内容は、さっきまでモノと共に取り組んでいた霊子構造の応用式。
難解で複雑な構成だが、それでもどこか“形”になりかけている感覚がある。
――今のうちに、自分の手で整理しておきたい。
記憶が鮮明なうちに、自分の言葉で、思考で、図と数式をなぞる。
誰かに教わったことを、そのままではなく、“自分の理解”として染み込ませたい。
それは、彼にとって戦いと同じくらいの意味を持つ行為だった。
ペン先が画面を走る。何度も書いては消し、図を描いてはまた重ね直す。
音もなく、ただ霊子構造の輪郭だけが彼の中で少しずつ浮かび上がっていく――
そんな静かな作業の最中。
「――あっ、リンデン!」
不意に響いた明るい声。
エントランスのスライドドアが音を立てて開き、扉の向こうから飛び込んできたのは、どこか無防備な足取りだった。
黒のハーフブーツにタイトなパンツ。胸元にはアクセントのある黒地のトップス。
戦場に立つときの“騎士”ではなく、どこかラフで、等身大の少女の姿だった。
鮮やかな蒼髪が動きに合わせて揺れる。光を浴びて、その一部がふわりと透けるように輝いていた。
ブルーはスキップするように小さく駆け寄ってくると、ひょこひょことリンデンのもとに近づいてきた。
「お疲れさまっ、今日もお勉強してたんだね!」
言葉と同時に、彼の隣の椅子にくるりと回り込むように腰を下ろす。
足を組むでもなく、背もたれに軽く寄りかかって、にこにこと笑顔を向けてきた。
彼女の存在が入ってきただけで、空間の空気がふわりと柔らかくなる。
「ブルー姉さん、今日はお休みですか?」
そう尋ねたリンデンに、ブルーは楽しげに頷いた。
「うんっ、今日はお休み!」
手を広げるような仕草と一緒に、陽気な声が返ってくる。
その声に含まれる小さな光が、リンデンの胸の中にもほんのり差し込む。
「リンデンはモノさんとお勉強してたんだ?」
「はい。ちょうど先程終わったところです」
タブレットの画面に視線を戻しながら、リンデンは少しだけ目を伏せた。
それは照れくささでもあり、自分なりの誇りでもあった。
「……ようやく、少しだけですけど、進めたような気がしてるんです」
控えめに、それでも確かな手応えと共に発せられた言葉だった。
その一言を聞いた瞬間、ブルーの表情がぱあっと華やかに変わった。
光が跳ねるように、その笑顔はまっすぐにリンデンの方を向いている。
「そうなんだ! やっぱりリンデンは賢いねっ!」
感情そのままを言葉にするような無邪気な声。
どんな褒め言葉より、どんな評価よりも、真っ直ぐで気持ちのいい言葉だった。
リンデンは少しだけ目を細めて、照れたように口元をかすかに引き結んだ。
顔を伏せる仕草はどこか困っているようでもあり――それでも、嬉しそうだった。
ひとしきり言葉を交わしたあと、リンデンはタブレットに目を戻した。
画面にはまだ途中だった式の断片が、淡く浮かんでいる。
霊子の分布、式の再構成、記憶の中の構造図。
思考の続きを追いかけるように、手がまた静かに動き出す。
何も言わない。けれど、今なら続けられる。
ブルーと話して、ふっと肩の力が抜けた気がした。
そんなリンデンの様子を見ていたブルーが、ふと思いついたように口を開いた。
「ねえリンデン。私、隣で見てていいかな?」
ブルーのその言葉に、リンデンはスタイラスを手にしながら「退屈だと思いますが……」と前置きし
「大丈夫ですよ」
と答え、再び手を動かし始める。
「うん!……あっ、でもお勉強は何も教えられないから!
私へっぽこなので! リンデンのお勉強を黙って見てますっ!」
まるで“立派な見守り役”を任命されたかのように、えへへと笑う。
少しだけ身を寄せて、テーブルに肘をつきながら、頬杖をついてリンデンの横顔を覗き込んだ。
真剣な顔をして式を書き込むその横顔を、ブルーは黙って見つめている。
目は細められ、口元にはほのかな笑みが浮かんでいた。
声は出さない。邪魔もしない。
ただ、そこにいて、隣で見ているだけ。
それがきっと今の彼女なりの「応援」で――それを察したリンデンも、特に言葉は返さず、けれどほんの少しだけ、手元の動きが軽くなった気がした。
数式の断片が一通りまとまったところで、リンデンはタブレットの画面を閉じた。
カチリ、と音がして、ぴたりと光が消える。
静かだった空気が、さらに一段落ち着いたように感じた。
小さく息をつく。
じんわりと頭の奥が熱を帯びている。けれど、それは心地よい疲労だった。
「……これで、ひと通りです」
ぽつりと漏らすように呟く。
その言葉に反応するように、ブルーがぱちりとまばたきをして、えへへと笑う。
頬杖をついたまま、何も言わずにリンデンの横顔を見つめ続けていた。
彼女の視線を感じながら、リンデンはそっと目を伏せた。
――明日から、少し難しくなる。モノ姉さんはそう言っていた。
どこまで跳ね上がるのかは分からない。けれど、不安は不思議と少なかった。
静かに、自分の手を重ねる。
「……もう少しだけ、届きたいな」
その言葉が静かに落ちた瞬間――
ふいに、もう一つの手がそっと重なる。
「大丈夫だよ。リンデンなら――絶対、届くよ」
顔を上げると、ブルーが笑っていた。
まっすぐな目で、優しい光をそのまま宿したまま。
ふいに胸の奥が少しだけ、あたたかくなる。
リンデンはそれに、ほんの少しだけ口元を緩めて――黙って、頷いた。
訓練場の朝は、まだ人影もまばらだった。
冷たい換気が吹き抜ける無人の訓練場に、リンデンの影だけが細く伸びていた。
彼はすでに一通りの準備運動を終えており、呼吸と動作を同期させるように、静かに体を動かし続けている。
(……次のステップ)
昨晩、モノ姉さんが言っていた。スリー兄さんも同じことを言っていた。
「そろそろ段階を上げよう」と。
その言葉がどういう意味を持つのか、正直なところまだ理解しきれてはいなかった。
けれど、あの二人が口を揃えてそう言うのなら、きっと“本物”なのだろう。
少し怖い。けれど、止まりたくはなかった。
ずっと背中を追い続けてきた兄姉たちに、少しでも――ほんの少しでも、近づきたくて。
(……しっかり、向き合わなきゃ)
タオルで額の汗を軽く拭い、リンデンは静かに立ち上がった。
そして、その直後だった。
「朝から準備に余念がないな、リンデン。良い傾向だ」
訓練場のスライドドアが静かに開き、乾いた足音が響く。
現れたのはスリー兄さんだった。
いつもの黒いワイシャツも、赤いネクタイもない。
代わりに身につけていたのは、戦闘用のコンプレッションスーツ。黒を基調とした機能性重視の服装で、無駄な装飾は一切なかった。
まるで戦場からそのまま来たような、研ぎ澄まされた気配だった。
企業人の顔も剥がれ落ち、そこにいたのはただ一人の“戦士”だった。
広い背中。傷ひとつ見えない肌に、逆に歴戦の重みが滲んでいる。
動くたびに筋肉が密やかに軋み、訓練場の空気が少しだけ重くなる。
その歩みは穏やかだが、緩やかなだけで、決して“優しい”わけではなかった。
「体温を上げておくのは正解だ。筋肉も、思考もな」
隣に立ち、肩を回しながら言うスリーの声はいつも通り穏やかで、低く、よく通る。
しかしその響きの中に、どこか“区切り”を告げるような静かな覚悟が混じっていた。
「今日のテーマは“本番”だ。肩慣らしは、ここまでにしておこう」
その言葉に、リンデンは小さく息を呑んだ。
この先にあるのは、今までの延長線ではない。
“騎士たち”の領域と、自分自身の覚悟。その交差点に、今まさに足を踏み入れたのだと、そう思えた。
スリーのウォーミングアップが終わると、彼は何も言わずに訓練用のフィールド中央へと足を運んだ。
無駄な動きも、威圧もない。ただ立っているだけで、空気が引き締まる。
まるでそこに“戦場”が出現したかのように。
リンデンもゆっくりと歩き出し、真正面からその場に立つ。
己の足音だけが静寂を踏みしめていく。スリーの眼差しが、静かに彼を射抜いていた。
「構えろ、リンデン。今日からは”本番”だ」
その声は低く、しかし澱みのない力を持って響いた。
リンデンは一つ頷くと、深く息を吸い込んだ。
それは、これまで何度も繰り返してきた構え――
足の裏で地を掴み、重心を落とし、前傾姿勢。肘を引き、視界の中心に相手を収める。
だがその瞬間、スリーの姿が――かき消えた。
いや、消えたのではない。ただ“動いた”のだ。
信じられない速度で、リンデンの視界から外れ、正面からの圧力が消失した。
体が反応するよりも早く、背に重み。
振り返るより先に、肩口に手刀が迫る。
(――早い!)
ギリギリで身を捻り、肩を滑らせてその手を外す。
と同時に、反撃に転じようとした右肘が、空を切る。
そこにはもう、誰もいなかった。
次の瞬間、足元が崩れ――背中に衝撃。
地面が背中を叩く音が、訓練場の静寂に吸い込まれていった。
「……見えてはいるな。だが、追いつけてはいない」
スリーの声が、わずかに間をおいて落ちてきた。
見下ろしてくる彼の眼差しには、非情さはなかった。ただ、静かな観察と確信。
そして、それはリンデン自身にもよくわかっていた。
“手応え”が、違う。
これまでの訓練とは明らかに、世界の密度が変わっていた。
まだ足を掬われた感覚が残る背中を叩き起こすように、リンデンは身体を起こし、素早く立ち上がる。
息が荒い。けれどまだ動ける。まだやれる。
「もう一度、お願いします」
その言葉に、スリーは何も言わず頷く。
――そして、再開。
数秒と経たず、再び接近。
リンデンの拳が踏み込んだ瞬間、スリーの軸が僅かにズレる。かわされた。
次の瞬間、横腹に肘撃が刺さる。
「ぐっ……!」
体勢を崩しかけるも、踏みとどまり反撃を試みる。だがそこには、もうスリーはいない。
背中、首筋、膝裏――次々に刈り取るような打撃が走る。
受けにすら回れないまま、また地面を舐めることになる。
二度、三度、四度――
攻撃の軌道すら掴めずに、リンデンは繰り返し倒され続ける。
けれどそのたび、立ち上がった。
歯を食いしばり、肩で息をしながら、それでも構えを取り直す。
額からは汗が流れ落ち、口内には鉄の味。
だが、まだ眼が死なない。
スリーはフィールドの中央に立ったまま、黙って見つめていた。
冷たくもなく、優しくもなく、ただ“見極める”者の眼差しで。
ふと、スリーが静かに口を開いた。
「一つ、助言しよう」
「……はい」
「いまのキミは、“闇雲”だ。相手を見ていない。己の拳しか、視界に入っていない」
静かに、しかし鋭く。
「力を出すのではなく、力を“通す”んだ。流れを見て、最も自然な道を選べ」
その言葉に、リンデンは小さく頷いた。
無理に歯を食いしばるのをやめ、深く息を吸う。
――もう一度、立て直す。
倒されるたびに、それでも自分は進んでいるのだと信じたかった。
再び拳を構えたリンデンは、さきほどよりもほんのわずかに沈みを深くして、姿勢を整えた。
さっきのアドバイスを胸に、“通す”ように――流れの中に身を置こうとする。
だが。
スリーが一歩、踏み出した瞬間。
その“流れ”すら、塗り潰された。
思考の一拍先で動いている。
殺気も気配もないまま、気づけば掌底が目の前に迫っていた。
腕で受け止めた。が――止まらなかった。
「っ……がはっ……!」
胸骨に響く衝撃音。
喉が鳴るほどの打撃に後退しながら、それでも反撃を試みる。
が、それすら“間に合わない”という形で潰される。
わかっている。自分の動きは悪くない。
それでも、“間に合わない”。
蹴りを繰り出そうとする瞬間には、もう片脚を払われている。
重心を移そうとした一拍前には、もうそこを狙われている。
なにかが決定的に違う。
自分がいままで訓練してきた誰とも。
――これは、“常識の範疇”にない。
「……ハァ、ハァッ……っ……!」
地面に膝をつき、肩で息をするリンデンの脳裏に、ひとつの像が浮かぶ。
スリーだけじゃない。スリー兄さんだけじゃない。あの人たち――
ブレイドライン。千紫。第六教会。オッター貿易。アクシオンゲート。ORANGE。
GARDENの騎士。不老不死の、“兄姉”たち。
――この人たちは、こういう存在だった。
まるで、神話か物語の登場人物のような。
自分がようやく届いたと思っていたその先に、まだこんなにも途方もない“絶対の差”があったのだ。
スリーが歩み寄ってくる。
「立て、リンデン」
その声は、どこまでも静かだった。
怒りも、憐れみも、期待すら含まず――ただ、厳然たる事実としての命令。
リンデンは、ふらつく膝を押さえつけるようにして立ち上がる。
足元が少し滲んで見えた。
けれど、目は逸らさない。
「お願いします……もう一度……!」
声はかすれていた。
けれど、決して折れていなかった。
――そう、“まだ折れちゃいけない”。
この壁の前で、泣くことも、悔しがることも、自分には許されていない。
泣くことは――罪だから。
何度目の崩れ落ちだったのか、もう分からない。
膝をついた床は、清潔な訓練場の合成材――冷たく、堅い。
滑らかな素材に汗が滲み、肌にじわりと貼りついていく。
リンデンは、軋む膝を支えにして、再び立ち上がった。
体が意思に従うというより、意思だけが体を動かしている。
喉の奥が焼けるように痛い。息が続かない。
それでも、両手を上げて構えを取った。
スリーは構えない。
その代わり、全身を自然体に沈めて、目だけでリンデンを見据えていた。
次の瞬間――ふ、と視界からスリーの姿が消える。
次いで、身体が浮いた。
いや、崩されたのだ。
足払いか、重心の誘導か、見えてすらいなかった。
床に叩きつけられた背に、鈍い衝撃が走る。
肩口を打ち、肺から空気が逃げた。
声も出ない。ただ、静かに――悔しいほどに、無力だった。
それでも、リンデンは顔を伏せたまま拳を握った。
何度倒されても、どれだけ打ちのめされても、泣くという選択肢は存在しなかった。
代わりに、立ち上がるという行動だけがあった。
それが、彼の生き方だった。
「……もう一度……お願いします」
擦れた声が、床と反響して静かに響いた。
そしてまた、沈黙の中、構えが取られる。
スリーは何も言わない。
ただ、目の奥で何かを計測するように、リンデンの動きを待っていた。
リンデンが突っ込む。
構えは低く、軸足はぶれず、踏み込みは鋭い。
重心の切り替えも、頭で考えずに体が自然に行えていた。
何度も叩き伏せられ、奪われ、磨かれた成果だ。
だが――。
それすら、スリーには届かない。
踏み込みと同時に放った掌底。
空を切った瞬間、視界が反転する。
わずかな接触。
たったそれだけで、重心が崩された。
次の瞬間、床が目前に迫っていた。
──強い。
脳裏に、単純な言葉が浮かんだ。
叩きつけられた衝撃は先ほどより強くない。
それでも、もう起き上がれなかった。
力が残っていないのではない。
体が『意味がない』と、悟ってしまっていた。
常に余裕を崩さず、寸分の力も過たず、ただ圧倒する者。
リンデンにとって、初めて触れた“完全”な戦士の姿だった。
静かに近づいてきた気配。視界の端に、足元だけが映る。
スリーは膝をつき、視線の高さを合わせるようにしゃがんだ。
「……終わりにしよう。これ以上は、学びにならない」
穏やかな、けれど一切の甘さを許さぬ声。
「リンデン。戦いは根性では勝てない。技術、経験、力、判断……どれか一つでは届かない」
そして、わずかに間を置いて言った。
「キミは“努力”を、ここまでで武器に変えた。それは素晴らしい資質だ」
だが、とスリーの瞳が静かに深くなる。
「“資質”だけで、不老不死の騎士には届かない」
その言葉は、慰めでも、否定でもなかった。
ただの、事実だった。
リンデンは床を見つめながら、小さく――それでも確かに頷いた。
倒れたまま、口元だけで、何かをかみしめるように結ぶ。
それがこの日、彼に刻まれた最初の「壁」だった。
壁「やあ」
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
-
ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
-
息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
-
叡智閑話
-
イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった