その日の資料室も、やはり静かだった。
空調の微かな唸りと、タブレット端末の操作音だけが満ちている。
昨日と同じように、モノは壁のホワイトパネルに霊子干渉図を描いていた。
右手のマーカーが滑るように図面を刻むたび、複雑な数式と変数が次々に重ね書きされていく。
――けれど、昨日とは、決定的に違っていた。
「この式の応用処理、共振性の暴走を抑えるためのバイアス調整を入れて。ただし、三重共振下で位相がズレた場合の補正値を自動算出する形でね」
モノはそう言って、手元のファイルも見ずにすらすらと条件を羅列する。
リンデンは、タブレットの画面を凝視していた。
まるで、ページの途中でいきなり“別の教科書”に切り替わったような違和感がある。
知らない用語はない。基礎は頭に入っているはずだ。
けれど、それが「応用」として組み上がった時――何がどう繋がるのかが見えなくなっていた。
「……共振状態を三重で保持するなら、干渉項は指数関数的に――いや、相殺できない?」
思考が途中で千切れた。書こうとした式が、手元で止まる。
何度も擦っては書き直し、図を描いては矛盾にぶつかる。
昨日の自分なら、もっと見通せていた。
けれど今日は、たどり着ける気がしない。
「遅いわ。……いつものペースなら、もう答えは出てるはずよ」
静かな声だった。責めてはいない。ただ、事実を述べているだけの声音。
その言葉が、リンデンの胸に突き刺さる。
“進めた気がしていた”昨日の努力は、何も届いていなかったのかもしれない。
リンデンは静かに息を吸い、視界に浮かんだ三重共振式のグラフを見つめる。
昨日よりも、理解しているはずだった。少なくとも、構造の概念は頭に入っている。基礎項目も反復してきた。
それでも、目の前の応用演算は、まるで霧に包まれているようだった。
「――このバイアス調整、どうなってる?」
モノの声に、思わず視線が泳ぐ。
わかっているのに、わからない。
式は読める。意味も取れる。けれど、それを“動かす”ための一歩が踏み出せない。
指先が、タブレットの画面をなぞりながら震えた。
答えに辿り着けないまま、形だけの補正式を書き込んでしまいそうになる――けれど、それは明らかに“間違い”だとわかっていた。
「……」
リンデンは口を開けず、代わりに息だけを吐いた。
脳の奥が、ざらついていた。
感覚としては見えているはずなのに、それが意味を持って形にならない。
それは、昨日まではなかった感覚だった。
“わかっていない”のではなく、“わかった先で止まっている”感覚。
その場に立っているのに、次の扉の開け方がわからない。そんな、異常な閉塞感。
「……変数の、同期位相を合わせれば……いや、でも浮遊段階が不安定で――」
言葉が、口の中で途切れた。
数式が、脳内でブツリと切れる音がする。ペン先が止まる。
書けない。昨日より理解しているはずなのに、昨日の自分より進めない。
その矛盾が、じわじわと胸に染み込んでくる。
「……」
モノは何も言わなかった。
ただ、静かにページをめくる音だけが響いていた。
教えない。ヒントも与えない。
それが、“この段階に入った”ということだった。
昨日までは、まだ『育てられていた』。
けれど今日からは、『選別』されている。
リンデンはもう一度、式の前提に立ち返ろうとした。
深く息を吸い込んで、指先を整える。だが、胸の奥に渦巻く焦りが、思考の地盤を揺らす。
「霊子場の浮遊段階。一次領域での拡散率の収束にズレがあるわね。なんで?」
モノの言葉は、静かだった。
叱責も嘲笑もない。ただ、平坦な確認。
けれどその無機質さが、逆に胸に刺さる。
彼女の問いは、評価ではない。試問だ。
“君はこれがわかる? 超えられる?”
それだけを問う声。
「……解析軸の設定を見落としていました」
ようやく口を動かしてそう答えたが、自分でも苦しい言い訳にしか聞こえなかった。
──違う。見落としじゃない。
本当は気づいていた。でも、気づけていたのに処理できなかった。
「解析軸の再設定は?」
「再設定……。はい、えっと……」
言葉が途切れた。
咄嗟に言おうとした案は、間違っていた。自分で口に出す直前にわかってしまう。
“正解が言えない”ことの、居たたまれなさ。
自分でも気づかぬうちに、タブレットを持つ指に力が入っていた。
タップの音が、いつもより硬い。
(違う、違う、昨日まではもっと見えたはずなのに……)
脳裏に、昨日の自分が思い浮かぶ。
式を解けた瞬間。モノに「悪くないわ」と言われた時の、小さな達成感。
その輝きが、今は遠くて、手の届かない過去のように感じる。
「再設定は……変数を外部環境依存に……いや、それだと──」
自分の声が、もはや自信を欠いた独り言になっていく。
ふと視界の端で、モノがゆっくりと端末を閉じたのが見えた。
何かを言われると思った。
叱責でも、冷笑でも、あるいは次の問題でも。
──けれど、何もなかった。
モノは、ただ静かに立ったまま、リンデンを見下ろしていた。
その沈黙が、何よりも重たかった。
言葉を投げかける価値すらないと、そう告げられた気がした。
重たい沈黙が、資料室を支配していた。
リンデンはそれでも必死に、タブレットに視線を戻そうとした。
数式はもう、ただの図形のようにしか見えない。
頭に入ってこない。論理も、変数も、構造も、崩れていく。
(こんなはずじゃなかった……昨日の僕は、ちゃんと解けた。理解できていた)
けれど今日の自分は、それができない。
昨日の“理解”は、一夜にして“錯覚”に変わっていた。
ふと、資料室の一角、ホワイトパネルの影にモノの姿が目に入る。
静かに、端末を閉じたままの姿勢で、ただ立っていた。
表情は変わらない。
何かを言うでも、促すでもなく。
──それが、返って恐ろしかった。
叱られる方がまだ楽だった。
失望された方が、まだ可能性を感じられた。
でもモノは、何も言わない。
“もう、期待していない”
“見限られた”
そんな予感が、胸の奥から染みてくる。
リンデンは思わず立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。
椅子の脚が小さく音を立てる。その音にすら、胸が詰まる。
(まだ、終わってない。……まだ、僕は――)
自分に言い聞かせるようにもう一度、スタイラスを握る。
だがその手は震えていた。
式の記号を入力する指が、微かに空を切る。
──なぜ届かない?
こんなに必死なのに。
こんなに努力してるのに。
ちゃんと、昨日までは進めていたのに。
それでも、届かない。
そして、モノは一言だけ呟いた。
「……ここまでね」
淡々とした、区切りの言葉だった。
「次は明日にしましょう。疲労で頭が回っていないのなら、無理に続けても意味がない」
それは形式的な打ち切りだった。
誰のせいでもなく、ただ“今日はもういい”というだけの判断。
──けれど、リンデンにはそれが何より残酷だった。
“これ以上、あなたに期待するものはない”
そう言われたような気がした。
モノはもう何も言わず、資料ファイルを片手にくるりと背を向けた。
その動きに、躊躇いや躱しはなかった。
ただ、次の予定へと移るように、無言のまま扉の方へ歩いていく。
リンデンの中で何かがざわめいた。
焦りとも違う、怒りとも違う――もっと曖昧で、もっと惨めな、名前のない感情だった。
(まだ……)
喉の奥で、言葉が渦を巻く。
けれど声にならない。
モノの背が、静かに資料室を出ていく。
(まだ……何も、見せられてないのに)
あの日、自分は“追いつきたい”と思ったはずだった。
背中に手を伸ばしたはずだった。
技術でも、知識でも、追いかけられると、信じていたはずだった。
だが今、モノの背は、扉の向こうへと消えていく。まるで、それが当然だというように。
リンデンはただ、その場に取り残された。
振り返る者は、いなかった。
夕方の騎士寮ロビーには、穏やかなオレンジの光が差し込んでいた。
陽が落ちる気配は、まるで沈黙のように静かで、どこか切なさを連れてくる。
リンデンは、窓際の席にひとり座っていた。
目の前のタブレットには、書きかけの霊子構造式。
午前のスリーとの訓練、午後のモノとの座学――どちらでも、彼は“届かなかった”。
重たい敗北感と虚無感が、胸の内で澱のように沈んでいる。
いつもなら浮かぶはずの構造線、式展開、補助因子の発想――何も出てこない。
ただタブレットを見つめるだけで、時間だけが過ぎていく。
(何も……浮かばない)
手に持っていたスタイラスが、タブレットの端にカツ、と小さな音を立てて転がった。
それにすら反応せず、ただ俯いたままの彼に、ふと――
「……リンデン、どうしたの?」
明るく澄んだ声が、すぐ近くから届いた。
驚いたように顔を上げると、視線の先にはブルーの顔。
その大きな瞳が、心配そうにリンデンを覗き込んでいた。
彼女はいつもの軽装姿で、散歩か帰寮の途中だったのだろう。
だが、普段ならすぐに気づくはずのその気配に、今のリンデンはまるで気づけていなかった。
「ブルー姉さん……すみません、少し考え事をしていて……」
気づいた瞬間、何かを誤魔化すようにリンデンは声を返した。
けれど、その言葉にも張りがない。
普段の丁寧さはそのままに、どこか沈んだ響きだけが残っていた。
ブルーは、その様子を見てふわりと表情を和らげながら、リンデンの隣に腰を下ろした。
「……ううん、謝らなくていいよ。なんだか、すっごく真剣な顔してたから……ちょっと、びっくりしちゃった」
彼女はそう言って、少しだけ首を傾げる。
まるでそっと寄り添うように、静かに、けれど確かに――彼の沈黙に入り込んできた。
「……あ、そうだ!」
ふいに、ブルーが軽く手を打った。
それはまるで何かをひらめいた時のような、彼女らしい無邪気な仕草。
「リンデン、もしよかったら――その、お勉強、またやる時は呼んでくれないかな?」
唐突な言葉に、リンデンは少しだけ視線を上げる。
彼女は真っ直ぐ彼を見つめて、ちょっと照れくさそうに頬をかいていた。
「私、こーぞーしき、のてんかい……? とか、難しいことはわかんないけどっ」
と、そこで一呼吸。
「でも! リンデンの隣で、黙ってお勉強見てるのは得意だよ!
だから、うん……またそういう時があったら、隣にいさせてほしいなーって」
その声に嘘はなかった。
それどころか、まっすぐすぎるほどの本音だった。
思い返せば、ブルーは何度も、そうして隣にいた。
練習の合間に、食堂の隅で、誰もいない廊下のベンチで――
何かを語るでもなく、ただ「いる」だけで彼の隣にいてくれた。
今も、彼女は同じだった。
自分を慰めようとしない。励まそうともしない。
ただ、笑って、隣にいたいと言ってくれる。
その手に、何かを背負わせようとしない、優しい申し出だった。
「……ありがとう、ございます」
リンデンがようやく口にしたその一言を聞いて、ブルーは安心したように、「えへへ」と笑った。
「ううんっ、私はぜんぜん何にもしてないよ?」
そう言いながら、彼女はリンデンの手元をちらっと覗き込む。
タブレットに描かれかけた構造式――途中で止まったままの、それを一瞬だけ見つめて、
「でもさ、リンデンって……すごいよね」
ぽつりと、そんな言葉がこぼれた。
「えっ……?」
思わず顔を上げるリンデンに、ブルーは少しきょとんとしながら首を傾げる。
「だって、いっつも難しいことに真っ直ぐ向き合ってて、
しかも、出来るまであきらめないでやろうとしてるでしょ?
……そういうのって、すっごくすごいことだよ」
屈託のない声だった。
自分を持ち上げようという意図も、慰めようとする気配もない。
ただ、『見たままのリンデン』を言葉にしただけ。
けれど、それが逆に痛かった。
自分には届かないものばかりで。
手を伸ばしても、誰にも追いつけなくて。
今日という一日に全てを否定されたような気持ちでいたのに――。
ブルーだけは、まだ『そういう自分』を見てくれていた。
(……違う。そんなふうに言われる資格、僕は……)
否定しようとして、けれど、できなかった。
うつむいたままのリンデンの目元が、そっと揺れる。
「えへへ……私だったら、最初っから投げ出してるもん。
わかんないものはわかんない!って言って、きっとすぐ寝ちゃう!」
と、あっけらかんと笑うブルー。
けれどその無邪気な言葉の裏で、彼女の視線だけはずっと、リンデンの横顔を見つめ続けていた。
「……そう、ですか」
短く返した言葉は、どこか掠れていた。
タブレットの画面を見つめながら、それでもまだリンデンは、何かを探すように、迷っているように、指先を止めたままだった。
それにブルーは――やっぱり何も言わなかった。
ただ、そっと頬杖をついて、隣で微笑んでいた。
それはあまりに自然で、優しくて、それゆえに、どうしようもなく胸を締めつけた。
(すごいなんて……僕の、どこが)
心の中で、かすかにそんな言葉が浮かぶ。
でも、それを口に出すことはできなかった。
それはきっとブルーの言葉を、その優しさを、踏みにじることになってしまう気がして。
しばらくの間、二人の間に言葉はなかった。
沈黙。
けれど、それは息苦しいものではなかった。
夕陽が斜めに差し込むエントランス。
窓の外では、赤く染まった空を小さな飛行機械が横切っていく。
その影が、リンデンの頬に一瞬だけ影を落とし、すぐに過ぎていった。
「……ブルー姉さん」
ようやく、リンデンが口を開く。
「さっきの言葉……ありがとうございます。
……嬉しかったです」
ブルーは、また「えへへ」と笑った。
「お姉ちゃんだから、ちゃんと見てるよっ。
私、リンデンのこと、いーっぱい見てるから」
それは、本当に何でもないように言った言葉だった。
でもリンデンは、心の奥で何かがわずかに揺れるのを感じた。
不意に、指先が動いた。
構造式の断片――崩れてしまったその続きを、再び書き始めていた。
今度は、震えも、迷いもない。
……まだ終わっていない。
そう、自分に言い聞かせるように、リンデンはもう一度タブレットに向き直った。
冷たい空気が、頬を撫でる。
その朝、リンデンは訓練場に一番乗りで現れていた。
昨日と同じ場所、同じ床、同じ壁。
けれど、自分の中にある何かは、確かに違っていた。
ゆっくりと呼吸を整えながら、準備運動を始める。
肩を回し、膝を伸ばし、腕を振る。
まだ身体の奥に残る鈍い痛みが、昨日の惨敗を思い出させる。
(でも……もう一度やる。何も変えられなくても、やるしかない)
昨日の夜、ブルーが残した笑顔が、胸の奥で静かに灯っていた。
その時、重たい扉の音が響く。
振り返れば、そこにはやはり――スリーが立っていた。
黒の上着は脱ぎ、タイトな戦闘用のウェアに身を包んだスリーは、まさしく“戦士”だった。
歴戦の軍人のような佇まい、無駄のない動作、そして――一分の隙もない眼差し。
「……朝から気合が入ってるな、リンデン」
低く、乾いた声。だがその声音に、ほんの僅か――評価の色が滲んでいた。
リンデンは小さく一礼する。
「昨日の続きを、お願いします。……今度は、少しでも届きたいと思っています」
その言葉に、スリーは一瞬だけ目を細めた。
「──なら、オレもそれ相応に応じよう」
静かに歩み寄るスリー。
その手には、昨日と同じ、実戦用のトレーニングナックルが握られている。
「昨日のキミが“訓練相手”なら、今日のキミには“挑戦者”として向き合おう。
……届かせるつもりなら、全力で来い。手加減は、しない」
リンデンの喉が、ごくりと鳴る。
昨日の痛みが、恐怖が、脳裏を掠めた。
だが、それでも。
「……はい。お願いします、スリー兄さん」
瞬間、空気が張り詰めた。
スリーが一歩踏み出す。それに応じて、リンデンも構えを取る。
視線が交錯し、次の瞬間――訓練場の空気が、音を立てて割れた。
第二日目の“壁”との対峙が、始まった。
開幕。スリーの左手が、無言のまま腹部を狙って突き出された。
それは鋭く、速く、明確な殺意すら孕んだ打ち込みだった。
だが、今朝のリンデンにはそれが見えた。
右足で軸をずらし、身体を斜めに傾けて紙一重で回避。
重心を崩さず、そのまま滑るように背後へ一歩、身を流す。
昨日は反応すらできなかった動き。だが今は、確かに届いた。
回り込んだリンデンの掌底が、迷いなく脇腹を狙う。
踏み込みの勢いを乗せ、訓練で培った技術をぶつけた――その瞬間。
「――甘いな」
低く響く声とともに、スリーの肘が軌道を逸らす。
即座に背中越しの後ろ蹴りが放たれ、リンデンの防御の上から衝撃が突き抜けた。
重い衝撃が全身を揺らす。
だが足元は崩さない。ぐらつきながらも後退し、体勢を立て直す。
昨日よりは、遥かに前に進めている。
だが、スリーはすでに次の攻撃動作に入っていた。
間合いを潰すような踏み込み。
鍛え上げられた体幹が、無駄のない軌道で打撃を放つ。
正面から受ければ、確実に潰される。
リンデンは肩を落とし、身体を捻って受け流そうとする。だが。
想定外の肘打ちが、側頭部を撃ち抜いた。
視界が傾き、平衡感覚がわずかに崩れる。
それでも倒れなかった。
地を踏みしめ、喰らいつく。昨日のように、ただ打ち倒されるだけにはならない。
「昨日より良い反応だ、リンデン」
スリーの声が、わずかに調子を認める。
だがその声音には、甘さはない。評価を口にした直後から、攻撃はさらに精密さと鋭さを増した。
打撃、足払い、重心を潰すための体当たり。
そのすべてが、訓練の域を逸脱していた。
スリーは本気でリンデンを叩き伏せにきている。手加減も遠慮も一切ない。
それでも、リンデンは耐え続けた。
避け、受け、組み、反撃の糸口を掴もうと必死に追う。
だが、追いつかない。追いついたと思った瞬間、さらにその先へ突き放される。
見えているはずの技が、間に合わない。
理解しているはずの動きに、身体がついていかない。
差は、歴然だった。
そして、スリーの動きが一段変わった。
「終わりだ」
声とともに、視界が大きく傾いた。
先ほどと同じ軌道の掌打が襲いかかる。
その注意を逸らすように、下段から薙ぎ払う蹴り。
その一撃でリンデンの身体は浮いた。
次に認識したのは、床だった。
肩から叩きつけられた衝撃が、肺の奥まで空気を抜いていく。
痛み。耳鳴り。動けない身体。
その中で、スリーの淡々とした声だけが響いた。
「倒れるのが怖いなら、立ち続けろ。倒れてもまた立て」
感情のないような言い回しだった。
けれど、それはたしかに――訓練ではなく、“戦場の教え”だった。
肺が焼けつくようだった。
息を吸うたびに、喉の奥が痛む。
だがそれでも、リンデンは立ち上がった。
片膝を床に突き、肩を揺らしながらゆっくりと。
指先が冷たい床をなぞり、震えながらも支えを掴む。
鈍い痛みがあちこちを走るが、それが却って意識を繋ぎ止めてくれていた。
──何度でも倒される。
それが今の自分の実力で、現実だ。
だが、倒されるたびに立てるなら。
それだけでも、“昨日”の自分とは違っていけるはずだ。
ようやく立ち上がったその姿を、スリーは黙って見ていた。
その表情には、称賛も侮蔑もなかった。
ただ、必要なプロセスとして、淡々と戦いを重ねている者の眼差し。
やがて、スリーが言葉を落とした。
「……今日はここまでにしよう」
短く。だがその声には、わずかに重みがあった。
訓練場の天井から下ろされた照明が、静かに揺れている。
湿度の低い空調の風が、額を濡らす汗を乾かしていく。
世界は静かだった。ただ、自分の鼓動だけが、まだ戦っていた。
リンデンはゆっくりとスリーに一礼した。
「……ありがとうございました」
息が詰まり、声が震える。それでも、言葉を途切れさせなかった。
スリーはそれには応えず、ただひとつ頷いた。
まるでそれが、戦士としての及第点だと伝えるように。
そして訓練場を後にするスリーの背を、リンデンは動かないまま見送った。
沈黙のなか、床にぽつりと汗が落ちる。
踏み締めた靴の跡が、幾重にも交差し、今日という日の証となって残っていた。
資料室は、昨日と同じ静けさに包まれていた。
壁一面のホワイトパネル。空調の微かな音。
机の上には、昨日と同じ資料ファイルと、リンデンのタブレット。
けれど、その場にいるリンデンの表情は、昨日とは違っていた。
強ばっていた顔からは、余計な力が抜けている。
気負いも焦りも、いまはない。
静かに、ただ真っ直ぐに画面を見つめていた。
「……“式の干渉点が拡散する理由”」
パネルの前に立つモノが、そっと課題を提示する。
それに応じて、リンデンの指がタブレットに走った。
霊子の浮遊分布式。その波形の歪み。
通常の式では処理しきれない、微細な偏在現象。
そこに、昨日まではなかった“工夫”があった。
補助式の挿入タイミングを、術式そのものの展開順序から逆算して前倒しに再配置する。
干渉点が散る前に、術式の内側で霊子を“捕まえる”構造へと変化させる。
「──分布構造を“従属制御式”に置換、浮遊霊子を捕捉して、式全体で整流します」
言葉は淡々と、だが思考の流れは一瞬も滞らなかった。
モノが目を細める。
昨日と同じように、だがその視線の奥にあったのは、明らかに別の光。
「……いいわ」
その声が響いた瞬間、リンデンの手が止まった。
わずかに息を吐き、肩を落とす。
けれど、笑みはなかった。ただ、静かに続けるだけ。
「次。“霊子構造式の再起動条件と、確定要素の再抽出手順”」
提示されたのは、さらなる高難度。
けれどリンデンは迷わずページをめくる。
昨日と違い、式の全体像が見えている。まだ届くとは言い難いが、手は届きかけている。
──昨日の自分に、負けるつもりはなかった。
式は複雑だった。
だが、崩れなかった。
崩れないように──リンデン自身が、崩れなかった。
次に出されたのは、既存の霊子構造式における“再起動処理”の問題。
術式が外部干渉で途中停止した際、どの要素を“固定点”として再構築するか。
それを見極めるには、演算の記憶、再構築可能な霊子配置、そして構文の整合性をすべて把握していなければならなかった。
リンデンは、まず霊子配置の再検出を選んだ。
“どこまで維持されているか”ではなく、“どこから再現すべきか”を優先するアプローチ。
その判断を、モノは静かに見ていた。
やがて表示された波形図を前に、リンデンが一つ、決断を下す。
「──この式、“再構築ブロック”での対称性が消えかけています。
このままだと術式が折れてしまうので……外部の補助式を一部転用して、対称軸を仮構成します」
描かれた構文は未完成で、不格好だった。
けれど、破綻していなかった。
ほんの少し、モノがマーカー端末を動かす。
そして、またひとこと。
「……及第点」
それは、“失敗ではない”という証。
完璧ではないが、合格とみなす判断。
昨日なら、到底届かなかった評価。
「……ありがとうございます」
声は小さく、でもはっきりと返された。
次の課題は、解析式の“構文回避ルート”。
入力できない構文をどう別形式に変換し、式の意味を維持するか。
試されるのは、発想力。応用力。
リンデンはほんのわずか迷い──けれど、そこに立ち止まりはしなかった。
別ルートを描きながら、前提の意味を崩さないよう慎重に進める。
一画ずつ式を描き、形にしていく。
──昨日までは、“意味を間違えないように”と、それだけに縛られていた。
でも今は、“自分の言葉で語る”ことを覚え始めている。
そしてまた、モノの目元が僅かに動いた。
彼女の声は相変わらず無表情で、冷たい。
「いいわ」
だが、それで充分だった。
最終課題は、構造式の“結晶化段階”だった。
演算結果として出力された術式の霊子密度を分析し、対象との適合率を最大化させる補助構文を加える。
実践では、これがうまくいかないと術式が対象に“乗らない”。
机の上、端末の上、パネルの上。
何重もの図形が、リンデンの脳内で回転していた。
かつては複雑すぎて意味不明だったその軌道も、いまは確かに形になっていた。
(足りない。あと一手)
リンデンはタブレットを睨みながら、数秒──いや、十秒以上思考を止めなかった。
追いつこうとしているのではない。
“追い越すために、考えている”。
そして、再構成。
濃度分布を示すマップが、一瞬で切り替わる。
霊子軸の結晶化率が、規定値を超えた。
「──完了しました。出力可能です」
静かに言ったその声は、震えていなかった。
隣のホワイトパネルでは、モノが資料ファイルのページをめくりながら──ふと、その手を止めた。
彼女は無言のまま、タブレットの表示を確認し、目を細めた。
次に口を開いた時、その声音には、わずかに“余分”があった。
「……昨日は、本当に見捨てようかと思ったわ」
手にしていた資料ファイルを、音もなく閉じる。
「進みも、構文も、理解度も──全部“底”だったから。
このまま落ちて、潰れて、二度とここに来ないと思った」
それは事実の羅列。
感情の起伏はなく、ただの“判定報告”のようでもあった。
だが、続いた言葉が、少しだけ違った。
「──でも、それでも来た。考えた。今日、ひとつの単元を“完走”した。
だから、少しくらいは、褒めてあげてもいいわね」
手元から一枚の用紙が差し出される。
次の単元の課題だ。
「続き。まだ“基礎”だけど、ここを越えれば“独力でも読める段階”に入る」
その意味を、リンデンはちゃんと理解していた。
これは、“私があなたを教え子として認める”という、無言の意思表示。
「……はい。必ず、やりきります」
返した声は、以前よりもわずかに強く。
そして、芯があった。
夜の騎士寮は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。
エントランスホールの窓際──
いつものテーブルに、リンデンは一人腰掛け、タブレット端末に向かっていた。
ホワイトパネルに描かれた霊子構造式の再構成。
手元の画面には、いくつもの補助構文が重なり、術式の最適化が繰り返されている。
リンデンの手は止まらなかった。
指先から、スタイラスが淡々と式を描き続ける。
目の下にはうっすらと疲労の影が浮かぶが、それでも彼の目は鋭い。
その隣に──ブルーがいた。
頬杖をつき、上半身を軽くテーブルに預けるような姿勢で、じっとリンデンの横顔を見つめていた。
黙ったまま。
何も言わず、ただ目を細めて、笑みを浮かべて。
──まるで、それが自分の“勉強”であるかのように。
タブレットに刻まれる霊子の線。
光の粒が静かに瞬くその向こうに、ブルーの視線はずっとあった。
「……うんうん、リンデン、今日もすっごく真面目でえらいね」
唐突に、そう呟いた。
けれど声はひどく柔らかくて、小さくて──
リンデンの集中を邪魔しないように、そっと落とされた花のような声音だった。
リンデンは顔を上げなかった。
けれど、ほんの少しだけ、口元の力が緩む。
ブルーはそれを見逃さなかった。
「えへへ、頑張るリンデンを見てると、なんかあったかい気持ちになるんだよね」
そう言いながら、そっと頬杖の反対側の手で、テーブルの端を撫でるように指先でなぞる。
何かを伝えたいわけじゃない。ただ、“ここにいる”と示すように。
静寂の中、タブレットに式がまたひとつ描かれる音だけが響く。
ブルーは、目を細めて呟いた。
「……リンデンって、やっぱりすごいね」
今度の言葉は、少しだけ真剣だった。
冗談でも、応援でもなくて。
“その努力が、ちゃんと目に見えて届いてる”と、そう言いたげに。
けれどリンデンは、やっぱり何も言わなかった。
ただ、画面を見たまま、淡々と構文を記述し続けていた。
肩の力が抜けているわけでもない。けれど、ぎゅうっと張り詰めていたものが、少しだけ和らいでいるようにも見えた。
ブルーは、頬杖をついたまま、その横顔を静かに見つめていた。
いつものように――けれど、どこか違うような。ほんの少しの違和感が、胸の奥に熱を差し込んでくる。
ふと、視線がテーブルに落ちた。
リンデンの右手が、タブレットに向ける左手とは対照的に、静かに、何もせずにそこに置かれている。
ブルーは、ゆっくりと左手を伸ばし、
その手に、そっと自分の手を重ねた。
「……ダメ、かな?」
小さな声だった。
聞こえるか、聞こえないか、迷うほどの。
リンデンはすぐには反応しなかった。
けれど、ほんのわずかな間の後――静かに、手のひらが返る。
指が、重なったブルーの手を、包むように握った。
その感触に、ブルーは一瞬だけ驚いたようにまばたきし、
次の瞬間には、ほんの少しだけ頬を染めて、小さくうつむいた。
「……えへへ」
照れ隠しのような笑みが、こぼれた。
それは、言葉よりも静かで、それでいてどんな言葉よりもあたたかくて。
騎士寮の窓の外、夜の帳がそっと降りていく中――。
テーブルの上の二つの手だけが、静かに、寄り添っていた。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
-
ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
-
息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
-
叡智閑話
-
イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった