みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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14歳と遏行.2

 その日の資料室も、やはり静かだった。

 空調の微かな唸りと、タブレット端末の操作音だけが満ちている。

 昨日と同じように、モノは壁のホワイトパネルに霊子干渉図を描いていた。

 右手のマーカーが滑るように図面を刻むたび、複雑な数式と変数が次々に重ね書きされていく。

 ――けれど、昨日とは、決定的に違っていた。

 

「この式の応用処理、共振性の暴走を抑えるためのバイアス調整を入れて。ただし、三重共振下で位相がズレた場合の補正値を自動算出する形でね」

 

 モノはそう言って、手元のファイルも見ずにすらすらと条件を羅列する。

 リンデンは、タブレットの画面を凝視していた。

 まるで、ページの途中でいきなり“別の教科書”に切り替わったような違和感がある。

 知らない用語はない。基礎は頭に入っているはずだ。

 けれど、それが「応用」として組み上がった時――何がどう繋がるのかが見えなくなっていた。

 

「……共振状態を三重で保持するなら、干渉項は指数関数的に――いや、相殺できない?」

 

 思考が途中で千切れた。書こうとした式が、手元で止まる。

 何度も擦っては書き直し、図を描いては矛盾にぶつかる。

 昨日の自分なら、もっと見通せていた。

 けれど今日は、たどり着ける気がしない。

 

「遅いわ。……いつものペースなら、もう答えは出てるはずよ」

 

 静かな声だった。責めてはいない。ただ、事実を述べているだけの声音。

 その言葉が、リンデンの胸に突き刺さる。

 “進めた気がしていた”昨日の努力は、何も届いていなかったのかもしれない。

 リンデンは静かに息を吸い、視界に浮かんだ三重共振式のグラフを見つめる。

 昨日よりも、理解しているはずだった。少なくとも、構造の概念は頭に入っている。基礎項目も反復してきた。

 それでも、目の前の応用演算は、まるで霧に包まれているようだった。

 

「――このバイアス調整、どうなってる?」

 

 モノの声に、思わず視線が泳ぐ。

 わかっているのに、わからない。

 式は読める。意味も取れる。けれど、それを“動かす”ための一歩が踏み出せない。

 指先が、タブレットの画面をなぞりながら震えた。

 答えに辿り着けないまま、形だけの補正式を書き込んでしまいそうになる――けれど、それは明らかに“間違い”だとわかっていた。

 

「……」

 

 リンデンは口を開けず、代わりに息だけを吐いた。

 脳の奥が、ざらついていた。

 感覚としては見えているはずなのに、それが意味を持って形にならない。

 それは、昨日まではなかった感覚だった。

 “わかっていない”のではなく、“わかった先で止まっている”感覚。

 その場に立っているのに、次の扉の開け方がわからない。そんな、異常な閉塞感。

 

「……変数の、同期位相を合わせれば……いや、でも浮遊段階が不安定で――」

 

 言葉が、口の中で途切れた。

 数式が、脳内でブツリと切れる音がする。ペン先が止まる。

 書けない。昨日より理解しているはずなのに、昨日の自分より進めない。

 その矛盾が、じわじわと胸に染み込んでくる。

 

「……」

 

 モノは何も言わなかった。

 ただ、静かにページをめくる音だけが響いていた。

 教えない。ヒントも与えない。

 それが、“この段階に入った”ということだった。

 昨日までは、まだ『育てられていた』。

 けれど今日からは、『選別』されている。

 リンデンはもう一度、式の前提に立ち返ろうとした。

 深く息を吸い込んで、指先を整える。だが、胸の奥に渦巻く焦りが、思考の地盤を揺らす。

 

「霊子場の浮遊段階。一次領域での拡散率の収束にズレがあるわね。なんで?」

 

 モノの言葉は、静かだった。

 叱責も嘲笑もない。ただ、平坦な確認。

 けれどその無機質さが、逆に胸に刺さる。

 彼女の問いは、評価ではない。試問だ。

 “君はこれがわかる? 超えられる?”

 それだけを問う声。

 

「……解析軸の設定を見落としていました」

 

 ようやく口を動かしてそう答えたが、自分でも苦しい言い訳にしか聞こえなかった。

 ──違う。見落としじゃない。

 本当は気づいていた。でも、気づけていたのに処理できなかった。

 

「解析軸の再設定は?」

 

「再設定……。はい、えっと……」

 

 言葉が途切れた。

 咄嗟に言おうとした案は、間違っていた。自分で口に出す直前にわかってしまう。

 “正解が言えない”ことの、居たたまれなさ。

 自分でも気づかぬうちに、タブレットを持つ指に力が入っていた。

 タップの音が、いつもより硬い。

 

 (違う、違う、昨日まではもっと見えたはずなのに……)

 

 脳裏に、昨日の自分が思い浮かぶ。

 式を解けた瞬間。モノに「悪くないわ」と言われた時の、小さな達成感。

 その輝きが、今は遠くて、手の届かない過去のように感じる。

 

「再設定は……変数を外部環境依存に……いや、それだと──」

 

 自分の声が、もはや自信を欠いた独り言になっていく。

 ふと視界の端で、モノがゆっくりと端末を閉じたのが見えた。

 何かを言われると思った。

 叱責でも、冷笑でも、あるいは次の問題でも。

 ──けれど、何もなかった。

 モノは、ただ静かに立ったまま、リンデンを見下ろしていた。

 その沈黙が、何よりも重たかった。

 言葉を投げかける価値すらないと、そう告げられた気がした。

 重たい沈黙が、資料室を支配していた。

 リンデンはそれでも必死に、タブレットに視線を戻そうとした。

 数式はもう、ただの図形のようにしか見えない。

 頭に入ってこない。論理も、変数も、構造も、崩れていく。

 

 (こんなはずじゃなかった……昨日の僕は、ちゃんと解けた。理解できていた)

 

 けれど今日の自分は、それができない。

 昨日の“理解”は、一夜にして“錯覚”に変わっていた。

 ふと、資料室の一角、ホワイトパネルの影にモノの姿が目に入る。

 静かに、端末を閉じたままの姿勢で、ただ立っていた。

 表情は変わらない。

 何かを言うでも、促すでもなく。

 

 ──それが、返って恐ろしかった。

 

 叱られる方がまだ楽だった。

 失望された方が、まだ可能性を感じられた。

 でもモノは、何も言わない。

 “もう、期待していない”

 “見限られた”

 そんな予感が、胸の奥から染みてくる。

 リンデンは思わず立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。

 椅子の脚が小さく音を立てる。その音にすら、胸が詰まる。

 

 (まだ、終わってない。……まだ、僕は――)

 

 自分に言い聞かせるようにもう一度、スタイラスを握る。

 だがその手は震えていた。

 式の記号を入力する指が、微かに空を切る。

 

 ──なぜ届かない?

 

 こんなに必死なのに。

 こんなに努力してるのに。

 ちゃんと、昨日までは進めていたのに。

 それでも、届かない。

 そして、モノは一言だけ呟いた。

 

「……ここまでね」

 

 淡々とした、区切りの言葉だった。

 

「次は明日にしましょう。疲労で頭が回っていないのなら、無理に続けても意味がない」

 

 それは形式的な打ち切りだった。

 誰のせいでもなく、ただ“今日はもういい”というだけの判断。

 ──けれど、リンデンにはそれが何より残酷だった。

 “これ以上、あなたに期待するものはない”

 そう言われたような気がした。

 モノはもう何も言わず、資料ファイルを片手にくるりと背を向けた。

 その動きに、躊躇いや躱しはなかった。

 ただ、次の予定へと移るように、無言のまま扉の方へ歩いていく。

 リンデンの中で何かがざわめいた。

 焦りとも違う、怒りとも違う――もっと曖昧で、もっと惨めな、名前のない感情だった。

 

 (まだ……)

 

 喉の奥で、言葉が渦を巻く。

 けれど声にならない。

 モノの背が、静かに資料室を出ていく。

 

 (まだ……何も、見せられてないのに)

 

 あの日、自分は“追いつきたい”と思ったはずだった。

 背中に手を伸ばしたはずだった。

 技術でも、知識でも、追いかけられると、信じていたはずだった。

 だが今、モノの背は、扉の向こうへと消えていく。まるで、それが当然だというように。

 リンデンはただ、その場に取り残された。

 振り返る者は、いなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕方の騎士寮ロビーには、穏やかなオレンジの光が差し込んでいた。

 陽が落ちる気配は、まるで沈黙のように静かで、どこか切なさを連れてくる。

 リンデンは、窓際の席にひとり座っていた。

 目の前のタブレットには、書きかけの霊子構造式。

 午前のスリーとの訓練、午後のモノとの座学――どちらでも、彼は“届かなかった”。

 重たい敗北感と虚無感が、胸の内で澱のように沈んでいる。

 いつもなら浮かぶはずの構造線、式展開、補助因子の発想――何も出てこない。

 ただタブレットを見つめるだけで、時間だけが過ぎていく。

 

 (何も……浮かばない)

 

 手に持っていたスタイラスが、タブレットの端にカツ、と小さな音を立てて転がった。

 それにすら反応せず、ただ俯いたままの彼に、ふと――

 

「……リンデン、どうしたの?」

 

 明るく澄んだ声が、すぐ近くから届いた。

 驚いたように顔を上げると、視線の先にはブルーの顔。

 その大きな瞳が、心配そうにリンデンを覗き込んでいた。

 彼女はいつもの軽装姿で、散歩か帰寮の途中だったのだろう。

 だが、普段ならすぐに気づくはずのその気配に、今のリンデンはまるで気づけていなかった。

 

「ブルー姉さん……すみません、少し考え事をしていて……」

 

 気づいた瞬間、何かを誤魔化すようにリンデンは声を返した。

 けれど、その言葉にも張りがない。

 普段の丁寧さはそのままに、どこか沈んだ響きだけが残っていた。

 ブルーは、その様子を見てふわりと表情を和らげながら、リンデンの隣に腰を下ろした。

 

「……ううん、謝らなくていいよ。なんだか、すっごく真剣な顔してたから……ちょっと、びっくりしちゃった」

 

 彼女はそう言って、少しだけ首を傾げる。

 まるでそっと寄り添うように、静かに、けれど確かに――彼の沈黙に入り込んできた。

 

 「……あ、そうだ!」

 

 ふいに、ブルーが軽く手を打った。

 それはまるで何かをひらめいた時のような、彼女らしい無邪気な仕草。

 

「リンデン、もしよかったら――その、お勉強、またやる時は呼んでくれないかな?」

 

 唐突な言葉に、リンデンは少しだけ視線を上げる。

 彼女は真っ直ぐ彼を見つめて、ちょっと照れくさそうに頬をかいていた。

 

「私、こーぞーしき、のてんかい……? とか、難しいことはわかんないけどっ」

 

 と、そこで一呼吸。

 

「でも! リンデンの隣で、黙ってお勉強見てるのは得意だよ!

 だから、うん……またそういう時があったら、隣にいさせてほしいなーって」

 

 その声に嘘はなかった。

 それどころか、まっすぐすぎるほどの本音だった。

 思い返せば、ブルーは何度も、そうして隣にいた。

 練習の合間に、食堂の隅で、誰もいない廊下のベンチで――

 何かを語るでもなく、ただ「いる」だけで彼の隣にいてくれた。

 今も、彼女は同じだった。

 自分を慰めようとしない。励まそうともしない。

 ただ、笑って、隣にいたいと言ってくれる。

 その手に、何かを背負わせようとしない、優しい申し出だった。

 

 「……ありがとう、ございます」

 

 リンデンがようやく口にしたその一言を聞いて、ブルーは安心したように、「えへへ」と笑った。

 

「ううんっ、私はぜんぜん何にもしてないよ?」

 

 そう言いながら、彼女はリンデンの手元をちらっと覗き込む。

 タブレットに描かれかけた構造式――途中で止まったままの、それを一瞬だけ見つめて、

 

「でもさ、リンデンって……すごいよね」

 

 ぽつりと、そんな言葉がこぼれた。

 

「えっ……?」

 

 思わず顔を上げるリンデンに、ブルーは少しきょとんとしながら首を傾げる。

 

「だって、いっつも難しいことに真っ直ぐ向き合ってて、

 しかも、出来るまであきらめないでやろうとしてるでしょ?

 ……そういうのって、すっごくすごいことだよ」

 

 屈託のない声だった。

 自分を持ち上げようという意図も、慰めようとする気配もない。

 ただ、『見たままのリンデン』を言葉にしただけ。

 けれど、それが逆に痛かった。

 自分には届かないものばかりで。

 手を伸ばしても、誰にも追いつけなくて。

 今日という一日に全てを否定されたような気持ちでいたのに――。

 ブルーだけは、まだ『そういう自分』を見てくれていた。

 

 (……違う。そんなふうに言われる資格、僕は……)

 

 否定しようとして、けれど、できなかった。

 うつむいたままのリンデンの目元が、そっと揺れる。

 

「えへへ……私だったら、最初っから投げ出してるもん。

 わかんないものはわかんない!って言って、きっとすぐ寝ちゃう!」

 

 と、あっけらかんと笑うブルー。

 けれどその無邪気な言葉の裏で、彼女の視線だけはずっと、リンデンの横顔を見つめ続けていた。

 

 「……そう、ですか」

 

 短く返した言葉は、どこか掠れていた。

 タブレットの画面を見つめながら、それでもまだリンデンは、何かを探すように、迷っているように、指先を止めたままだった。

 それにブルーは――やっぱり何も言わなかった。

 ただ、そっと頬杖をついて、隣で微笑んでいた。

 それはあまりに自然で、優しくて、それゆえに、どうしようもなく胸を締めつけた。

 

(すごいなんて……僕の、どこが)

 

 心の中で、かすかにそんな言葉が浮かぶ。

 でも、それを口に出すことはできなかった。

 それはきっとブルーの言葉を、その優しさを、踏みにじることになってしまう気がして。

 しばらくの間、二人の間に言葉はなかった。

 沈黙。

 けれど、それは息苦しいものではなかった。

 夕陽が斜めに差し込むエントランス。

 窓の外では、赤く染まった空を小さな飛行機械が横切っていく。

 その影が、リンデンの頬に一瞬だけ影を落とし、すぐに過ぎていった。

 

「……ブルー姉さん」

 

 ようやく、リンデンが口を開く。

 

「さっきの言葉……ありがとうございます。

 ……嬉しかったです」

 

 ブルーは、また「えへへ」と笑った。

 

「お姉ちゃんだから、ちゃんと見てるよっ。

 私、リンデンのこと、いーっぱい見てるから」

 

 それは、本当に何でもないように言った言葉だった。

 でもリンデンは、心の奥で何かがわずかに揺れるのを感じた。

 不意に、指先が動いた。

 構造式の断片――崩れてしまったその続きを、再び書き始めていた。

 今度は、震えも、迷いもない。

 ……まだ終わっていない。

 そう、自分に言い聞かせるように、リンデンはもう一度タブレットに向き直った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たい空気が、頬を撫でる。

 その朝、リンデンは訓練場に一番乗りで現れていた。

 昨日と同じ場所、同じ床、同じ壁。

 けれど、自分の中にある何かは、確かに違っていた。

 ゆっくりと呼吸を整えながら、準備運動を始める。

 肩を回し、膝を伸ばし、腕を振る。

 まだ身体の奥に残る鈍い痛みが、昨日の惨敗を思い出させる。

 

 (でも……もう一度やる。何も変えられなくても、やるしかない)

 

 昨日の夜、ブルーが残した笑顔が、胸の奥で静かに灯っていた。

 その時、重たい扉の音が響く。

 振り返れば、そこにはやはり――スリーが立っていた。

 黒の上着は脱ぎ、タイトな戦闘用のウェアに身を包んだスリーは、まさしく“戦士”だった。

 歴戦の軍人のような佇まい、無駄のない動作、そして――一分の隙もない眼差し。

 

「……朝から気合が入ってるな、リンデン」

 

 低く、乾いた声。だがその声音に、ほんの僅か――評価の色が滲んでいた。

 リンデンは小さく一礼する。

 

「昨日の続きを、お願いします。……今度は、少しでも届きたいと思っています」

 

 その言葉に、スリーは一瞬だけ目を細めた。

 

「──なら、オレもそれ相応に応じよう」

 

 静かに歩み寄るスリー。

 その手には、昨日と同じ、実戦用のトレーニングナックルが握られている。

 

「昨日のキミが“訓練相手”なら、今日のキミには“挑戦者”として向き合おう。

  ……届かせるつもりなら、全力で来い。手加減は、しない」

 

 リンデンの喉が、ごくりと鳴る。

 昨日の痛みが、恐怖が、脳裏を掠めた。

 だが、それでも。

 

「……はい。お願いします、スリー兄さん」

 

 瞬間、空気が張り詰めた。

 スリーが一歩踏み出す。それに応じて、リンデンも構えを取る。

 視線が交錯し、次の瞬間――訓練場の空気が、音を立てて割れた。

 第二日目の“壁”との対峙が、始まった。

 

 開幕。スリーの左手が、無言のまま腹部を狙って突き出された。

 それは鋭く、速く、明確な殺意すら孕んだ打ち込みだった。

 だが、今朝のリンデンにはそれが見えた。

 右足で軸をずらし、身体を斜めに傾けて紙一重で回避。

 重心を崩さず、そのまま滑るように背後へ一歩、身を流す。

 昨日は反応すらできなかった動き。だが今は、確かに届いた。

 回り込んだリンデンの掌底が、迷いなく脇腹を狙う。

 踏み込みの勢いを乗せ、訓練で培った技術をぶつけた――その瞬間。

 

「――甘いな」

 

 低く響く声とともに、スリーの肘が軌道を逸らす。

 即座に背中越しの後ろ蹴りが放たれ、リンデンの防御の上から衝撃が突き抜けた。

 重い衝撃が全身を揺らす。

 だが足元は崩さない。ぐらつきながらも後退し、体勢を立て直す。

 昨日よりは、遥かに前に進めている。

 だが、スリーはすでに次の攻撃動作に入っていた。

 間合いを潰すような踏み込み。

 鍛え上げられた体幹が、無駄のない軌道で打撃を放つ。

 正面から受ければ、確実に潰される。

 リンデンは肩を落とし、身体を捻って受け流そうとする。だが。

 

 想定外の肘打ちが、側頭部を撃ち抜いた。

 視界が傾き、平衡感覚がわずかに崩れる。

 それでも倒れなかった。

 地を踏みしめ、喰らいつく。昨日のように、ただ打ち倒されるだけにはならない。

 

「昨日より良い反応だ、リンデン」

 

 スリーの声が、わずかに調子を認める。

 だがその声音には、甘さはない。評価を口にした直後から、攻撃はさらに精密さと鋭さを増した。

 打撃、足払い、重心を潰すための体当たり。

 そのすべてが、訓練の域を逸脱していた。

 スリーは本気でリンデンを叩き伏せにきている。手加減も遠慮も一切ない。

 それでも、リンデンは耐え続けた。

 避け、受け、組み、反撃の糸口を掴もうと必死に追う。

 だが、追いつかない。追いついたと思った瞬間、さらにその先へ突き放される。

 見えているはずの技が、間に合わない。

 理解しているはずの動きに、身体がついていかない。

 差は、歴然だった。

 そして、スリーの動きが一段変わった。

 

「終わりだ」

 

 声とともに、視界が大きく傾いた。

 先ほどと同じ軌道の掌打が襲いかかる。

 その注意を逸らすように、下段から薙ぎ払う蹴り。

 その一撃でリンデンの身体は浮いた。

 次に認識したのは、床だった。

 肩から叩きつけられた衝撃が、肺の奥まで空気を抜いていく。

 痛み。耳鳴り。動けない身体。

 その中で、スリーの淡々とした声だけが響いた。

 

「倒れるのが怖いなら、立ち続けろ。倒れてもまた立て」

 

 感情のないような言い回しだった。

 けれど、それはたしかに――訓練ではなく、“戦場の教え”だった。

 肺が焼けつくようだった。

 息を吸うたびに、喉の奥が痛む。

 だがそれでも、リンデンは立ち上がった。

 片膝を床に突き、肩を揺らしながらゆっくりと。

 指先が冷たい床をなぞり、震えながらも支えを掴む。

 鈍い痛みがあちこちを走るが、それが却って意識を繋ぎ止めてくれていた。

 

 ──何度でも倒される。

 

 それが今の自分の実力で、現実だ。

 だが、倒されるたびに立てるなら。

 それだけでも、“昨日”の自分とは違っていけるはずだ。

 ようやく立ち上がったその姿を、スリーは黙って見ていた。

 その表情には、称賛も侮蔑もなかった。

 ただ、必要なプロセスとして、淡々と戦いを重ねている者の眼差し。

 やがて、スリーが言葉を落とした。

 

「……今日はここまでにしよう」

 

 短く。だがその声には、わずかに重みがあった。

 訓練場の天井から下ろされた照明が、静かに揺れている。

 湿度の低い空調の風が、額を濡らす汗を乾かしていく。

 世界は静かだった。ただ、自分の鼓動だけが、まだ戦っていた。

 リンデンはゆっくりとスリーに一礼した。

 

「……ありがとうございました」

 

 息が詰まり、声が震える。それでも、言葉を途切れさせなかった。

 スリーはそれには応えず、ただひとつ頷いた。

 まるでそれが、戦士としての及第点だと伝えるように。

 そして訓練場を後にするスリーの背を、リンデンは動かないまま見送った。

 沈黙のなか、床にぽつりと汗が落ちる。

 踏み締めた靴の跡が、幾重にも交差し、今日という日の証となって残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 資料室は、昨日と同じ静けさに包まれていた。

 壁一面のホワイトパネル。空調の微かな音。

 机の上には、昨日と同じ資料ファイルと、リンデンのタブレット。

 けれど、その場にいるリンデンの表情は、昨日とは違っていた。

 強ばっていた顔からは、余計な力が抜けている。

 気負いも焦りも、いまはない。

 静かに、ただ真っ直ぐに画面を見つめていた。

 

「……“式の干渉点が拡散する理由”」

 

 パネルの前に立つモノが、そっと課題を提示する。

 それに応じて、リンデンの指がタブレットに走った。

 霊子の浮遊分布式。その波形の歪み。

 通常の式では処理しきれない、微細な偏在現象。

 そこに、昨日まではなかった“工夫”があった。

 補助式の挿入タイミングを、術式そのものの展開順序から逆算して前倒しに再配置する。

 干渉点が散る前に、術式の内側で霊子を“捕まえる”構造へと変化させる。

 

「──分布構造を“従属制御式”に置換、浮遊霊子を捕捉して、式全体で整流します」

 

 言葉は淡々と、だが思考の流れは一瞬も滞らなかった。

 モノが目を細める。

 昨日と同じように、だがその視線の奥にあったのは、明らかに別の光。

 

「……いいわ」

 

 その声が響いた瞬間、リンデンの手が止まった。

 わずかに息を吐き、肩を落とす。

 けれど、笑みはなかった。ただ、静かに続けるだけ。

 

「次。“霊子構造式の再起動条件と、確定要素の再抽出手順”」

 

 提示されたのは、さらなる高難度。

 けれどリンデンは迷わずページをめくる。

 昨日と違い、式の全体像が見えている。まだ届くとは言い難いが、手は届きかけている。

 ──昨日の自分に、負けるつもりはなかった。

 式は複雑だった。

 だが、崩れなかった。

 崩れないように──リンデン自身が、崩れなかった。

 次に出されたのは、既存の霊子構造式における“再起動処理”の問題。

 術式が外部干渉で途中停止した際、どの要素を“固定点”として再構築するか。

 それを見極めるには、演算の記憶、再構築可能な霊子配置、そして構文の整合性をすべて把握していなければならなかった。

 リンデンは、まず霊子配置の再検出を選んだ。

 “どこまで維持されているか”ではなく、“どこから再現すべきか”を優先するアプローチ。

 その判断を、モノは静かに見ていた。

 やがて表示された波形図を前に、リンデンが一つ、決断を下す。

 

「──この式、“再構築ブロック”での対称性が消えかけています。

 このままだと術式が折れてしまうので……外部の補助式を一部転用して、対称軸を仮構成します」

 

 描かれた構文は未完成で、不格好だった。

 けれど、破綻していなかった。

 ほんの少し、モノがマーカー端末を動かす。

 そして、またひとこと。

 

「……及第点」

 

 それは、“失敗ではない”という証。

 完璧ではないが、合格とみなす判断。

 昨日なら、到底届かなかった評価。

 

「……ありがとうございます」

 

 声は小さく、でもはっきりと返された。

 次の課題は、解析式の“構文回避ルート”。

 入力できない構文をどう別形式に変換し、式の意味を維持するか。

 試されるのは、発想力。応用力。

 リンデンはほんのわずか迷い──けれど、そこに立ち止まりはしなかった。

 別ルートを描きながら、前提の意味を崩さないよう慎重に進める。

 一画ずつ式を描き、形にしていく。

 ──昨日までは、“意味を間違えないように”と、それだけに縛られていた。

 でも今は、“自分の言葉で語る”ことを覚え始めている。

 そしてまた、モノの目元が僅かに動いた。

 彼女の声は相変わらず無表情で、冷たい。

 

「いいわ」

 

 だが、それで充分だった。

 最終課題は、構造式の“結晶化段階”だった。

 演算結果として出力された術式の霊子密度を分析し、対象との適合率を最大化させる補助構文を加える。

 実践では、これがうまくいかないと術式が対象に“乗らない”。

 机の上、端末の上、パネルの上。

 何重もの図形が、リンデンの脳内で回転していた。

 かつては複雑すぎて意味不明だったその軌道も、いまは確かに形になっていた。

 

 (足りない。あと一手)

 

 リンデンはタブレットを睨みながら、数秒──いや、十秒以上思考を止めなかった。

 追いつこうとしているのではない。

 “追い越すために、考えている”。

 

 そして、再構成。

 濃度分布を示すマップが、一瞬で切り替わる。

 霊子軸の結晶化率が、規定値を超えた。

 

「──完了しました。出力可能です」

 

 静かに言ったその声は、震えていなかった。

 隣のホワイトパネルでは、モノが資料ファイルのページをめくりながら──ふと、その手を止めた。

 彼女は無言のまま、タブレットの表示を確認し、目を細めた。

 次に口を開いた時、その声音には、わずかに“余分”があった。

 

「……昨日は、本当に見捨てようかと思ったわ」

 

 手にしていた資料ファイルを、音もなく閉じる。

 

「進みも、構文も、理解度も──全部“底”だったから。

 このまま落ちて、潰れて、二度とここに来ないと思った」

 

 それは事実の羅列。

 感情の起伏はなく、ただの“判定報告”のようでもあった。

 だが、続いた言葉が、少しだけ違った。

 

「──でも、それでも来た。考えた。今日、ひとつの単元を“完走”した。

 だから、少しくらいは、褒めてあげてもいいわね」

 

 手元から一枚の用紙が差し出される。

 次の単元の課題だ。

 

「続き。まだ“基礎”だけど、ここを越えれば“独力でも読める段階”に入る」

 

 その意味を、リンデンはちゃんと理解していた。

 これは、“私があなたを教え子として認める”という、無言の意思表示。

 

「……はい。必ず、やりきります」

 

 返した声は、以前よりもわずかに強く。

 そして、芯があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の騎士寮は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。

 エントランスホールの窓際──

 いつものテーブルに、リンデンは一人腰掛け、タブレット端末に向かっていた。

 ホワイトパネルに描かれた霊子構造式の再構成。

 手元の画面には、いくつもの補助構文が重なり、術式の最適化が繰り返されている。

 リンデンの手は止まらなかった。

 指先から、スタイラスが淡々と式を描き続ける。

 目の下にはうっすらと疲労の影が浮かぶが、それでも彼の目は鋭い。

 その隣に──ブルーがいた。

 頬杖をつき、上半身を軽くテーブルに預けるような姿勢で、じっとリンデンの横顔を見つめていた。

 黙ったまま。

 何も言わず、ただ目を細めて、笑みを浮かべて。

 

 ──まるで、それが自分の“勉強”であるかのように。

 

 タブレットに刻まれる霊子の線。

 光の粒が静かに瞬くその向こうに、ブルーの視線はずっとあった。

 

 「……うんうん、リンデン、今日もすっごく真面目でえらいね」

 

 唐突に、そう呟いた。

 けれど声はひどく柔らかくて、小さくて──

 リンデンの集中を邪魔しないように、そっと落とされた花のような声音だった。

 リンデンは顔を上げなかった。

 けれど、ほんの少しだけ、口元の力が緩む。

 ブルーはそれを見逃さなかった。

 

 「えへへ、頑張るリンデンを見てると、なんかあったかい気持ちになるんだよね」

 

 そう言いながら、そっと頬杖の反対側の手で、テーブルの端を撫でるように指先でなぞる。

 何かを伝えたいわけじゃない。ただ、“ここにいる”と示すように。

 静寂の中、タブレットに式がまたひとつ描かれる音だけが響く。

 ブルーは、目を細めて呟いた。

 

 「……リンデンって、やっぱりすごいね」

 

 今度の言葉は、少しだけ真剣だった。

 冗談でも、応援でもなくて。

 “その努力が、ちゃんと目に見えて届いてる”と、そう言いたげに。

 けれどリンデンは、やっぱり何も言わなかった。

 ただ、画面を見たまま、淡々と構文を記述し続けていた。

 肩の力が抜けているわけでもない。けれど、ぎゅうっと張り詰めていたものが、少しだけ和らいでいるようにも見えた。

 ブルーは、頬杖をついたまま、その横顔を静かに見つめていた。

 いつものように――けれど、どこか違うような。ほんの少しの違和感が、胸の奥に熱を差し込んでくる。

 ふと、視線がテーブルに落ちた。

 リンデンの右手が、タブレットに向ける左手とは対照的に、静かに、何もせずにそこに置かれている。

 ブルーは、ゆっくりと左手を伸ばし、

 その手に、そっと自分の手を重ねた。

 

「……ダメ、かな?」

 

 小さな声だった。

 聞こえるか、聞こえないか、迷うほどの。

 リンデンはすぐには反応しなかった。

 けれど、ほんのわずかな間の後――静かに、手のひらが返る。

 指が、重なったブルーの手を、包むように握った。

 その感触に、ブルーは一瞬だけ驚いたようにまばたきし、

 次の瞬間には、ほんの少しだけ頬を染めて、小さくうつむいた。

 

「……えへへ」

 

 照れ隠しのような笑みが、こぼれた。

 それは、言葉よりも静かで、それでいてどんな言葉よりもあたたかくて。

 騎士寮の窓の外、夜の帳がそっと降りていく中――。

 テーブルの上の二つの手だけが、静かに、寄り添っていた。

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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