かつて倉庫だった区画の一室――。
そこは今、GARDEN内においてもっとも“運命”という個人を反映している空間だった。
鉄骨むき出しの天井、無機質なグレイの壁。
高層階からの都市を見下ろすガラス壁の先には、赤紫が滲んだ空と沈みかけた太陽。
光学フィルター越しに見える街はどこまでも人工的で、それでもほんの少し、夕焼けが温度を宿していた。
その静寂のなか、部屋の中央にあるローテーブルには、紙の書類と電子端末が混在していた。
青いソファの上には、開きっぱなしのファイル。片隅には、未開封の缶コーヒーが転がっている。
「ここの提出日、来週にずらしてもらったほうがいいかもね。騎士団の遠征組、たぶん帰れないわ」
声を落として言ったのは、アンサーだった。
タブレットを片手に、資料の整理を進めながら、何気ない口調で予定を修正していく。
対面で紙の山を整えていた運命は、顔を上げずに答えた。
『ありがとう。助かる。……やっぱり、アンサーの進行は綺麗で分かりやすいね』
「褒めても、何も出ないわよ?」
笑いながらアンサーはソファの端に身を預ける。
視線の先には、まだ処理されていない報告書が無言で積まれていた。
「でもね、これ、小等部の子たちにも使ってるフォーマットなの。あの子たち、分かりやすくしないと“お姉ちゃん先生、これ難しい!”って泣いちゃうから」
口調は冗談めいているのに、どこか嬉しそうだった。
「まったくもう、甘えん坊ばっかりで……」
目尻を細めたその表情のまま、ふと肩をすくめて言う。
「ほんと、どうせならリンデンくんにも“お姉ちゃん先生”って呼ばれたかったなー……」
その言葉に、運命の手がふと止まった。
静かにペンを置き、視線だけを窓の外に向ける。
『……制服姿のリンデン、見たいね』
その一言は、壁に飾られたポスターのように、空間の空気を切り替えた。
アンサーが固まる。
「……え?」
まるで時が一瞬だけ引き絞られたような静けさのあと、アンサーは小さく瞬きをした。
そして、息を吸い込み、目をすっと細めて言った。
「あ、それ。運命くん、いまのもう一度お願い。制服姿のリンデンくんが、どうしたって?」
『ただ……ちょっと思っただけ。通えなかった学校の代わりに、ね』
目線を天井の一点に投げながら、アンサーは数秒だけ無言になる。
思考の音が聞こえるかのようだった。
やがて、彼女の手が机の端末へと伸び、書類の束をそっと押しのける。
そして、すっとソファから立ち上がった。
「……出来る。たぶん、出来るわ、リンデンくんの制服」
『えっ』
「サイズは測らないといけないけど、予備制服をアジャストすれば何とかなる。特例入学枠も使えるし、教室は空いてる時間があったはず。あとは撮影許可と協力者と……」
『アンサー……?』
「やる気スイッチ、入っちゃった」
静かに、でも確実に“覚悟を決めた人間”の声だった。
その目は、もう現実を越えた未来の景色を見ていた。
運命は思わず笑う。
『……じゃあ、よろしくね、“お姉ちゃん先生”』
アンサーは声もなく、背中だけで返事をした。
ほんの少しだけ、肩が照れくさそうに揺れた。
──数日後、リンデンがその制服を着て、教室の扉を開けることになるとは、このときの彼自身は、まだ知らなかった。
第六層居住区・騎士寮。
廊下を挟んだ設備倉庫で、リンデンは静かに床を磨いていた。
モップの柄を握る手つきはいつものように丁寧で、均一な動きが続いている。
掃除機、配線整理、蛍光灯交換、ドローンの発着口清掃。
誰に言われたわけでもない。けれど、彼にとってこれらは“騎士の隣で生きる者”としての日課だった。
「よし……」
清掃区域の最後の床を拭き終えたところで、彼は道具を片付け、軽く息をつく。
背を伸ばしたその瞬間――
背後に、“何か”の気配。
瞬きひとつ。
次に目を開けたとき、視界は、白い段ボールの内側だった。
「…………?」
異変に気づくより先に、視界がゆっくりと揺れ始めた。
身体が、床から浮いている。
いや、“持ち上げられて”いる。
「これは……え?」
外の音がこもって聞こえる。電子音、ホイールの回転音。
『搬送中──経路、第六層南ブロックから第九層MAZE.lab第三医療室──目的:非公開。安全対策レベル:ゆるめ』
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
声を上げたつもりだったが、ダンボールはしっかりと閉じられている。
蓋の内側から“FRAGILE”のテープが貼られており、しかも“上を向けること”と“静かに扱うこと”が太字で印刷されていた。
内心で深くため息をつく。
思考は冷静だが、状況はまるで理解不能。
(……えっと、状況整理……。僕はさっきまで清掃を……それで、振り返ったら……)
「……ダンボール?」
誰が、なんの目的で?
そしてなぜ今?
答えは返ってこないまま、段ボールは搬送ロボットのリフトに乗り換えられた。
エレベーターの昇降音、セキュリティゲートの通過音が連続して続き、やがて空気の匂いが微かに変わる。
ランヴィリズマ第九層――。
それは、研究・実験施設が集中する領域。
搬送ロボが停止したのは、その中でも一角にある第三医療研究室。
カチャリ、という電子鍵の音。
そして、
「はーい、今開けるねー」
蓋がぱかんと開いた。光が差し込む。
その視界のなかに現れたのは、白衣を着たメイズの顔と、どこかで見たことのある研究員たちだった。
「はい、搬入お疲れさまでした。リンデンくん、ようこそMAZE.labへ。
今日は“制服合わせ”のための身体測定と採寸、あとちょっとした"調整"もやっていくねー」
「…………」
思考停止。
返事も出てこないまま、彼は丁寧に手を引かれ、段ボールから引き上げられた。
その表情はまるで、理不尽な世界に抗議する間も与えられなかった優等生そのものだった。
第三医療研究室。
温度管理された室内は、消毒の匂いと微かな柔軟剤の香りが混ざっていた。
リンデンは、真っ白な壁を背に、立っていた。
上着はもちろん、シャツも、アンダーウェアすらも、すでに存在しない。
下着まで丁寧に“必要ですので”と剥がされ、今は腰に薄手のドレープ布一枚。
それを片手で押さえながら、彼はとても静かに立ち尽くしていた。
(……これは……必要……なんですよね……?)
不安になる暇もない。
彼の周囲では、白衣を着た研究員たちが即座に仕事に取りかかっていた。
「脇下、採寸完了。左右差0.3ミリ以内。美しい対称性」
「骨盤の傾き、なし。あ、でも僅かに成長余地あり。補正構造、入れる?」
「それより肩甲骨……うわ、この子、背中綺麗……」
「引き締まってるわね、さわ……採寸し甲斐があるわ」
「大腿部の筋肉付き、データより柔らかいかも。個体差かな?」
「ココも凄いですね……連絡先交換しません?」
「ちょっ、それ個人の感想入ってる!」
「はいはい主観排除。リンデンくん、まっすぐ立ってねー」
「あ、すみません……ええと……」
服を剥がされた自分を中心に、寸分の無駄なく動く研究員たち。
それは“裸にされた”というより、“完全に“人体データ化”されているような感覚だった。
困惑しても誰も止めてくれない。
羞恥というより、“どうしてこうなったか”の思考の方が追いつかず、ただ言葉を失っている。
「はい、次、足。角度そのままで」
「測定、記録、次、側面スキャン入るよー。リンデンくん、呼吸止めてー、5秒だけ」
無言で頷き、言われるがままに胸を止める。
スキャナーが起動音を鳴らし、彼の全身を読み取っていく。
「これは……いいわね、どの角度でも画が持つ」
「量産したい」
「それはちょっと危ない発言かも」
「わたしは正気です」
「ええと……」
薄布を押さえる指が、かすかに震えていた。
「採寸、これで一通り終了でーす。記録データ、解析班に送りますねー」
「はい次、ユニットチェック入りまーす。対象、人工脊柱Lユニット──経過観察と定期調整」
その言葉に、リンデンの指がぴくりと震えた。
彼は静かに布を握る手をもう片方で押さえ、体勢を正した。
「上体、前に倒してもらえるかな。背中、見せて」
「……はい」
応じると、白衣の研究員が後ろに回り込み、背骨のラインに沿って触診を始める。
彼らの指先は冷たくはないが、どこか無機質だった。
慣れた手つきが、肩甲骨から脊椎へ、そして腰椎までを正確になぞっていく。
「……Lユニット、異常なし。表層反応、良好」
「自動同期モード、問題なく稼働中。骨格成長に対して3.8%の余裕域あり」
「神経接続部、確認します。……リンデンくん、少しだけ動かないでいてね。神経リレーの応答をチェックするから、違和感があったらすぐ言って」
「……はい」
細い金属のスキャナが、背骨に沿ってゆっくりと滑らされていく。
霊子干渉用の微細な共振波が、骨の奥を震わせるように走った。
(……やっぱり、苦手だ)
こうして定期的に行われる調整には、もう何度も耐えてきた。
でも慣れることはなかった。
背骨のひとつひとつが“自分のものではない”という感覚だけが、いつも静かに残る。
「背面制御装置、セーフティモードで稼働中。異常霊子反応の記録なし」
「逆行信号検知装置、機能正常。……再発防止系も健在ね」
「切断系、まだ生きてるんだ……これ、残しておくんですね?」
「上からの指示。あくまで“可能性”のために、だってさ」
背後で交わされる研究員たちの声は、どこか他人事だった。
(……僕のせいで、ここまでのものが必要になったのに)
そう思っても、表情には出さない。
目を伏せ、ただ言われるままに背を晒し続ける。
「動作OK。数ミリだけ軸調整するよー。すぐ終わるからね」
小さな機械音が響く。
脊柱内部で、金属の軋むような感触があった。
それは痛みではなかったが、妙に“機械”を意識させられる感覚だった。
「……はい、調整完了。同期再開。反応見て、大丈夫そうなら……」
研究員の手が彼の肩に触れた。
その手には、先ほどまでの計測の温度とは少し違う、柔らかな気配があった。
「ありがと、リンデンくん。よく頑張ったね」
「……いえ、大丈夫です」
小さく答える。
その声には、少しだけ熱が戻っていた。
「じゃあ、制服合わせ行こっか。着せる側も楽しみにしてるからねー。
こっち、控え室だよ。シャツ、ジャケット、タイ……あと予備のネクタイ、いる?」
「……予備?」
「なんとなく。念のため。可愛すぎたとき用」
「……あの、意味が……」
困惑するリンデンの背中に、研究員たちの笑い声が重なった。
調整は終わった。
次は、“着せる”番だった。
無機質な金属壁に囲まれた控室のなか、リンデンは一人、制服一式を目の前にして硬直していた。
シャツ、スラックス、ジャケット、ネクタイ。
見た目こそシンプルだが、その整然とした佇まいは妙に圧がある。
まるで“それを着る資格”があるのか、試されているような気さえする。
そっとシャツに手を伸ばす。指先が布に触れると、ひやりとした冷感が肌に伝わってきた。
布は質のよいもので、光を吸うように黒く、わずかな起伏をそのまま形にしてしまいそうな柔らかさだった。
――が、シャツを羽織ろうとしたその時、背後の壁が“スライド”した。
「わあっ、ごめん失礼しまーす! あ、でもちょっとそのままで……そのままっていうか、えっ、うわっ、やば……」
ずかずかと入ってきた研究員が、シャツを半分着たままのリンデンを見て固まった。
「な、何か……ありましたか……?」
困惑するリンデンの肩越しに、もうひとり、またひとりと白衣の影が増えていく。
「え、いま試着中? あのさ、言わせて。えぐい。完成度えぐい」
「これスキャンしてそのままVR教材にできない? 制服着せられるAI式学習素体として」
「量産したい」
「それはやめてあげて。倫理的に、ね?」
「でもこの背中……いや肩のライン……え、うそ、これ“天に与えられた衣装映え体型”ってやつ……?」
「ネクタイ、誰が結ぶ? あ、わたしが──」
「い、いえ、自分でやります……」
言いながらリンデンはさりげなく壁の影に隠れようとするが、壁はどこまでも“壁”であり、隠れる余地はなかった。
「ちょっと、スラックス履いた状態で一回だけ回ってもらえます? いやもう一生のお願い」
「写真撮っていい? あっちのメイズ先生には内緒にするから」
「やっぱりココ、凄い……今連絡先交換しません?」
「…………あの、ええと……」
制服を着るだけのはずだった。
なのに、いまやこの空間は“極小制服崇拝結界”のような熱気に包まれていた。
研究員たちはどれも真剣な目をしていたが、それが逆に逃げ場を奪ってくる。
「ちょっと黙って、はい、タイ貸して」
「はいはい、肩傾いてる、ちょっと右下げて」
「後ろのシワ伸ばすよー、ちょっとごめんねー、触るよー」
「……っ、はい……」
完全に流されながらも、リンデンは必死に静かに呼吸を整える。
上から下まで、何度も見られて、触れられて、それでも自分の役目は“着ること”。
ただ、着ること。
(なんで……こんなに注目されるんだろう……。ただの制服なのに)
けれど、鏡の中に映る自分は、思ったよりずっと“整っていた”。
違和感すら、自分のほうにあるように見えてしまうくらい。
「よし、はい、完成ー!!」
「これはちょっと……歴史に残るレベルの入学生」
「10人は落ちるよ!やったねリンデンくん!」
「お姉さん、今すごく誇らしい」
彼女らは笑いながら言った。まるで本当に、嬉しくて仕方がないかのように。
リンデンは、うっすらと頬を赤らめながら、目を伏せて――
「……ありがとう、ございます」
そっと、呟いた。
自動ドアが開くと、そこにはメイズが待っていた。
小柄な身体に白衣を羽織り、診察用のタブレットを抱えたまま立ち尽くしている。
そして、制服姿のリンデンを目にした瞬間――
「……わぁ」
両手で口元を覆い、瞳をぱちくりと瞬かせた。
「ママ、びっくり……リンデンくん、すごくかっこいいよー……」
その声は驚きと、喜びと、少しの感傷が滲んでいた。
制服を着て、少しだけ背筋の伸びた少年の姿は、たしかに“今ここ”にいた。
リンデンは言葉を詰まらせたあと、ほんのわずかに表情を緩めた。
それは普段の硬い笑みではなく、どこか照れと嬉しさが混ざった、滲むような笑みだった。
「……ありがとうございます」
小さく、けれどしっかりと返したその声に、メイズはゆっくり頷いた。
「うん、うん……ちゃんと“似合ってる”よ。どこに出しても恥ずかしくない、ママの自慢のリンデンくんだよー」
その言葉が、制服の布越しにじんわりと温度をくれた気がした。
と――背後のドアが開き、わらわらと控室から出てくる研究員たち。
「ちょっとちょっと! 写真、間に合わなかったー!」
「これが制服リンデンくん……人類史に残すべきだわ……」
「量産したい」
「でも倫理的に無理ってさっき自分で言ってたでしょ」
「うっかり……ごめん、でもやっぱり欲しい……」
「連絡先、やっぱり今からでも交換できませんか?」
「がんばってねー! 制服姿、最高だよー!」
「教室に入ったら“皆の視線に気をつけて”ね! 心の防壁忘れずに!」
「何かあったら相談して! あ、物理的にじゃなくて恋愛的な意味で!」
「え、ええと……はい、ありがとうございます……!」
押し寄せる応援の波。
もはや半分何を言われているのか分からない。
けれど――それでも確かに、ここには“送り出してくれる人たち”がいた。
エレベーターのドアが開く。
リンデンは一礼し、軽くジャケットの裾を正す。
制服の黒が、照明の光を柔らかく弾いた。
「それじゃ、行ってきます」
そう言って足を踏み入れる。
閉じていくドアの向こう、
メイズは胸の前で手を合わせて、静かに囁いた。
「行ってらっしゃい。ママ、ちゃんと見てるからねー」
その声を背に、静かに閉まっていく扉の向こう。
リンデンの姿は、ゆっくりと光のなかに消えていった。
制服を着た少年を乗せたエレベーターは、静かに動き出す。
ただひとり、無言のまま、その空間に立つ。
何かを考えているようで、何も考えていないような――。
そんな、白と銀に包まれた、ほんの短い旅の始まりだった。
エレベーターのドアが静かに閉まり、機械音とともに、制服を纏った少年の姿が視界から消える。
その場に残された研究員たちは、誰ともなく動きを止めていた。
何かを言おうとして、やめたような息がひとつ、またひとつと漏れる。
「……めちゃくちゃ、似合ってたね」
ぽつりとこぼれたその言葉は、思わずこみ上げてしまった感嘆だった。
その声に続くように、周囲が少しずつ弛緩していく。
「うん。なんていうか、完成されすぎてて、逆にこっちが緊張した……」
「わかる。もうちょっと隙があってもいいのに、こう、全部整ってて……しかも本人は気づいてないのが一番ずるい……」
「ほんと、無自覚制服特攻兵器って感じだった……」
冗談混じりの言葉が飛び交う。
笑いもある。軽口もある。
けれどそのどれもが、“あの子のための感情”だった。
それを知っているからこそ、口元には優しさが滲んでいた。
「……でもね、私、あの子が制服を着て鏡見たとき、一瞬だけ泣きそうな顔した気がした」
ふと、別の研究員が言った。
その声に、周囲の空気がわずかに揺れる。
「え、ほんとに?」
「うん。気のせいかもしれないけど、なんか……すごく、遠くを見る目してた」
「……そりゃ、そうだよね」
ぽつりと、誰かが呟くように返す。
言葉にされずとも、皆わかっていた。
彼が抱えているものを、彼自身がどれだけ重く背負っているかを。
その静かな沈黙の中で、メイズが口を開く。
「リンデンくん、ずっと“自分がいる場所を間違えてる”って思ってるんだよ。この制服だって、“着ていい理由がない”って、どこかで考えてる」
柔らかく抱え込むような声だった。
タブレットを抱きしめたメイズの姿は、まるで遠く離れた子を見送る母のようだった。
「でも、あの子は何も悪くなかった。
五歳のときの神域発生だって、意図的じゃなかった。
ただ、誰よりも感受性が強くて、壊れやすくて、だから……」
その“だから”のあとに続く言葉は、皆が知っている。
彼の背中には人工脊柱が埋め込まれている。
神域の再発を防ぐために、異常が起きれば神経ごと焼き切れ破断される設計。
生まれつきのものではない。
たった五歳の子どもに、それが必要だと判断された――それが、あの子の歩いてきた現実だ。
「……あの子、誰よりも自分を“怖がってる”んだよね」
「だから、こうして服を着せて、誰かの隣に立たせるっていうだけでも、ものすごく意味がある」
皆が、黙ってうなずいた。
「私たちがわちゃわちゃするのは、そうしないと泣きそうになるからってのもあるんだよね」
ほんの少し照れたように言いながら、別の研究員が笑った。
その頬には、感情の跡がうっすらと浮かんでいた。
「うん、うん。……それにね」
と、連絡先を聞こうとして止められた研究員が、ぽつりとつぶやいた。
「“あの子が誰かを見てるとき”って、すごく優しい目をするの。
でも“自分を見てるとき”は、なんか、ちょっとだけ……悲しい目なんだよね」
その言葉が、まるで針のように静かに刺さる。
誰も、言い返さない。
皆、それぞれに思い当たる表情を思い出していた。
黙って掃除をしていたときの背中。
報告書を届けに来たときの低い声。
着替えのときに浮かべた、気づかれないような微笑み。
それらすべてが、彼の“無理をしている静けさ”だった。
「……だから今日のこれは、“最初の一歩”だよー?」
静寂をやさしく破るように、メイズが口を開いた。
「自分がいた場所より、少し前へ。
自分を否定しなくてもいい場所へ。
――あの制服が、そういう意味を持ってくれるといいなって」
皆がまた、静かにうなずく。
彼の背中を見送った場所は、ほんの少しだけ、温かかった。
空になったエレベーターホールに、まだ余韻のようにエールが残っている気がした。
エレベーターの中は、驚くほど静かだった。
壁は銀色の反射面で、天井にはまっすぐな白色灯。
規則的に鳴る駆動音が、ゆるやかな振動として足裏から伝わってくる。
それはまるで、機械の心音のようだった。
リンデンはまっすぐ立っていた。
制服のジャケットは肌に馴染んでいた。
袖口の縫製はわずかに硬く、胸元のネクタイが小さく喉を締めつける。
背筋が自然と伸びる。
この制服は、そういう風に出来ていた。
けれど、どこか落ち着かない。
首の後ろが、妙に意識に引っかかる。
それは脊柱に沿って走る人工構造体の感覚だった。
(……似合っている、って……)
ふと、メイズの言葉がよぎった。
“すごくかっこいいよー”と、あの人は笑って言ってくれた。
研究員たちも笑っていた。賑やかで、優しくて、少しうるさくて。
「……ありがとうございます」
口に出していた言葉を、もう一度、息に溶かすように小さく繰り返した。
自分は、本当にあの場所に居てよかったのだろうか。
あの笑顔を受け取って、着替えて、今ここに立っていて。
その全部が、いまだにどこか信じられないままだった。
鏡のような壁に映るのは、黒い制服を着た“誰か”だった。
それは自分のはずなのに、見慣れない誰かのようで。
「……少しだけ、背が伸びたかもしれません」
ぽつりと、誰にともなく言葉が漏れた。
誰もいない空間なのに、声が少しだけ跳ね返って耳に届いた。
思えば、この制服を着る機会なんて、本来はなかった。
学園に通う権利も、時間も、自分には与えられなかったはずだった。
でも今はこうして、“その場所”へ運ばれている。
エレベーターは、ゆっくりと、階を上っていく。
ひとつ、またひとつ。
静かに、まっすぐに。
(……間違ってないと、いいな)
その言葉は声にならなかった。
ただ、心の奥底で、小さな願いのように灯ったままだった。
機械音が一つ。エレベーターの稼働音が、ほんのわずかに変調する。
速度を落とし、終点へ向けて減速する。
耳鳴りのように響いていた低音が消え――そして、扉が開いた。
まばゆい光と、柔らかな空気が流れ込む。
そこは第五層、学園区画。
研究棟の閉ざされた空気とはまるで違う、活気と穏やかさが入り混じった光景。
白壁に囲まれたロビーには、飾り気のない柱時計と、花壇を模したシステムプランター。遠くから、チャイムのような音も微かに聞こえてくる。
そして――その中央に、彼女は立っていた。
黒いジャケットに灰のプリーツスカート、揃いのネクタイ。
長く艶やかな茶橙髪をふわりと揺らしながら、彼女は目を細めて笑っていた。
「おかえり、リンデンくん。……ううん、今日は特別に――いらっしゃいませ、“入学生くん”」
そう言って、小さくおどけたように、アンサーは胸元に手を当ててお辞儀をする。
リンデンは一瞬だけ戸惑い――それでも、ゆっくりと一歩を踏み出す。
足音が、エレベーターの床からロビーへと移るその瞬間に、何かが変わる気がした。
「……お邪魔します」
わずかに目を伏せながらも、確かにそう言って、彼は学園へと足を踏み入れた。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
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ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
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息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
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叡智閑話
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イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった