みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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最後の日常系回になります





17歳と陛下.2

 

 丼の中の湯気が落ち着き始めた頃。

 カウンターの四人が静かに箸を進めるそのとき――カラン、と控えめな音がガラス戸の上で鳴った。

 

「悪い、まだ空いてるか?」

 

 入ってきたのは、軽く手を上げながら店内を見渡す青年――アクシオンゲートのQUEEN、レアリザス。

 その後ろから、黒髪を揺らしながら、眠そうな目元をこする少女がふらふらと入ってくる。

 

「ふわぁぁあ……ぁぁ……ねむい……ねむねむ……」

 

 少しだけダボついたパーカーに猫耳。黒猫のような足取りで入ってきたのは、KINGのシオンだった。

 

「……レアリザス兄さん、シオン姉さんも、こんばんは。……大丈夫ですよ、ご案内しますね」

 

 厨房から出てきたリンデンが、すぐに応対する。

 

「まずは食券をお願いします。券売機、こちらです」

 

「お、了解。……シオン、こっちこっち。ほら、立って立って」

 

「……んー……引っ張って……?」

 

「よし、今日は歩こうな。ちゃんと麺食べたいなら頑張れー」

 

 そんなやり取りを交わしつつ、レアリザスとシオンはようやく食券を購入し、リンデンに導かれてカウンターの一角へ腰を下ろす。

 

『ちょうどスープが切れそうだったから、ナイスタイミングだね、二人とも』

 

 奥の厨房から、仮面越しに運命の柔らかい声が響いた。

 彼女とリンデンは息を合わせて、寸胴に残ったスープを計量しながら準備に入る。

 

「リンデン……ラーメン、まだ……?」

 

 シオンがぐらりと上体を揺らし、今にもカウンターに突っ伏しそうになる。

 

「もう少しだけ待っててくださいね、シオン姉さん。……スープ、今ちょうど良いところですから」

 

 そう言って、リンデンは温めた丼を静かに並べる。

 隣でその様子を眺めていたトロイが、ふと口を開いた。

 

「ねぇレアリザスくん。……それ、頬……どうしたのー?」

 

 レアリザスはグラスを持ちかけた手を止めて、苦笑しながら指先で自分の頬を軽く撫でた。

 

「これか? あー、見えてたかー。まあ、ちょっとした戦傷ってやつで」

 

「……戦傷? 誰と戦ったのー?」

 

「兄ちゃんが作ったティラミスを、こっそりオラスが全部食いやがってな。しかも、あれシオンさん用に作ってたやつでさ」

「……案の定、ご機嫌ななめになったシオンさんを抱えて『ごめんなさい』ってひたすら撫でてたら――この通りだ」

 

「……ちぇんそ、ださないだけ、よき……」

 

 眠そうに揺れていたシオンが、目を開けずにぼそりと呟く。

 レアリザスは「うん、うん、そこまで行かなかったのはえらいぞー」と肩を竦めた。

 カウンター席に、小さな笑いがふわりと灯った。

 湯気の立ちのぼる白磁の丼が、そっと二人の前に置かれた。

 

「魚介【極】、お待たせしました」

 

 カウンターに差し出されたそれは、透き通ったスープの上に艶やかに輝く油膜と、盛り付けられた海鮮の芳香が立ちのぼる至極の一杯。

 

「あー、やっぱこれやべぇわ……っ」

 

 先に箸を手に取ったレアリザスが、一口すすると同時に全身を揺らし、犬のしっぽが勢いよくブンブンと振られ始める。

 

「兄ちゃん、こーいうのに弱いんだよ……舌が先に昇天しかけてる」

 

 そう言って勢いよく麺を啜り、スープに顔を近づけながら鼻を鳴らす。

 その隣では、いつの間にかぱちりと目を開いていたシオンが、ちゅるちゅると音を立てて麺を吸い込んでいた。

 

「……うんめ、うんめっ……これ、さいこう、すき……」

 

 小さく頬を膨らませ、もぐもぐと幸福そうに咀嚼してから、またちゅるちゅる。

 パーカーの袖口で口元をぬぐいながら、シオンはまっすぐラーメンに向き合っていた。

 

「……替え玉なら、おかわりもありますよ」

 

 リンデンがカウンター越しにそっと微笑みかけると、シオンは「ふぁい……」と頷きながら、また丼へと目を落とした。

 その様子を、奥の席からぽつんと眺める視線がひとつ。

 リーインシアだった。

 すでに食べ終えた丼を前に、コップを両手で包み込んだまま。彼女はリンデンに微笑まれながら、猫のようにちゅるちゅると麺を啜るシオンを、ほんの少しだけ羨ましそうに見つめていた。

 

「もっとアプローチ掛けりゃいいのにな、お前さんもよ」

 

 そんな彼女に気づいたダグザが、すっと丼を高台に上げながら言った。

 からん、と器が置かれる音が、静かな余韻を締めくくるように響く。

 リーインシアは「うっ……」と小さく肩を竦め、コップの水を一口。

 耳までほんのり朱に染まり、気まずそうに視線を逸らす。

 

「……ふぁぁぁぁ……」

 

 静かな欠伸が、湯気の名残る空間に溶けていった。

 シオンは最後の麺をちゅるりと啜り、レンゲを置くと、器の縁に頬を預けてそのまま――カウンターに突っ伏した。

 

「……おいしかった、しあわせ、健康に、よい……おやすみ……」

 

 そのままの姿勢で、すぅ、と規則的な寝息が聞こえ始める。

 まるで最初からベッドにいたかのような、自然な寝つきだった。

 

「……あー……やっぱりか」

 

 隣でラーメンを平らげていたレアリザスが、器を二つまとめて高台に置きながら小さく苦笑する。

 彼にとっては、もはや日常風景の一部だった。

 くしゃりと頭をかいてから、器用な手つきで猫耳の少女をひょいと抱き上げる。

 その様子を見ていた厨房のリンデンが、タオルで手を拭きながら声を掛けた。

 

「シオン姉さん、すっかりお休みですね……お手伝いしましょうか?」

 

「いやいや、まだ仕事中だろ?」

 

 レアリザスは、片腕でシオンを支えながらもう片方の手で軽く手を振った。

 

「こうやって寝ちまった家族を抱えて帰るのも、兄ちゃんの役目だからな。なに、慣れたもんさ」

 

「……そうですか。では、お気をつけて」

 

「うん、美味かったわ、ごっそーさん!」

 

 レアリザスが明るく笑い、厨房の運命にも、カウンターで器を拭いていたトロイたちにも手を振る。

 

「また来るからなー! 次はオラスと三人で来るかもな!」

 

「気をつけて帰るんだよー」

 

「おやすみなさーいっ!」

 

「おう、またな」

 

 温かい声の輪に見送られながら、レアリザスはすやすや眠るシオンを背負って、運命屋のガラス戸を開けて外へと出ていった。

 カラン――。

 控えめな音がもう一度鳴り、扉は静かに閉じられた。

 レアリザスとシオンの背中が店を出ていくのを、カウンターの面々が見送った後。運命屋の店内には、先ほどまでの喧騒が嘘のように、静かな余韻が漂っていた。

 少し遅れて入り込んだ夜の風が、わずかにガラス戸を揺らす。冷房の風と混じり合い、湯気の香りをそっと運んでいく。

 リンデンが厨房の片隅で、手元の小棚を整えていると、不意にその背中へ軽やかな声が届いた。

 

「ねーねーリンデンちゃん。最後まで居ちゃったし、トロイさん達も手伝うねー?」

 

 振り向くと、トロイがカウンターの内側を覗き込むようにして、にこにこと手を振っている。

 その横でブルーが卓拭き用のクロスを手に、「リンデンー、これ拭けばいいー?」と器を避けながら、さっそくカウンターの水滴を拭き始めていた。

 

「……助かります、姉さん達」

 

 言葉とは裏腹に、リンデンの声はどこか柔らかかった。

 気づけば口元もほのかに緩んでいる。

 その様子を黙って見ていたダグザが、腕を組んでから一歩前へ出る。

 

「こりゃ、俺達も手伝った方がいいか?」

 

 声は少し低くくぐもっていたが、どこか気遣いの滲む声音だった。

 リンデンは顔を上げ、ダグザと視線を交わすと、すぐに小さく首を横に振った。

 

「お気遣いなく、大丈夫ですよ。……姉さん達は厨房の手伝いなどもしてくださっているので。これはその延長で、手を貸していただいてるだけです。気を遣わせてすみません」

 

 謙虚な言葉に、ダグザは「おう、そうか」と短く返し、肩を軽く竦めて笑う。

 その隣――リーインシアの肩がぴくりと震えた。

 伏せ気味だった視線が、決意を含んで上がる。

 小さく拳を握りしめ、胸の前で「むんっ」と気合いを入れると、意を決したように一歩前へ出た。

 

「……わ、私は! お手伝い、しますね……!」

 

 声はほんの少し裏返っていた。

 けれどその目は真っ直ぐで、ためらいなくリンデンの顔を捉えていた。

 リンデンは驚いたように目を見開き――次の瞬間、ふっと笑みを漏らす。

 

「……ええ。でしたら、床のモップ掛けをお願いできますか?」

 

 言われた瞬間、リーインシアは小さく息を呑んだあと、こくりと強く頷いた。

 

「ま、任されましたっ! がんばりますね!」

 

 モップを受け取ると、ぎこちないながらも真剣な表情で作業に取りかかる。

 そんな姿に、ダグザはふっとため息を吐きながら苦笑した。

 

「そういうアプローチかぁ……ったく、俺も動くか」

 

 ぼやきながら、壁際に立てかけられていたもう一本のモップを手に取ると、無言で彼女の隣に立つ。

 肩を並べる父と娘。どこか気恥ずかしげだが、それもまた微笑ましかった。

 

「ありがとうございます。では、僕はこのまま厨房の方を」

 

 そう言ってリンデンは軽く会釈をし、奥の厨房へと戻っていく。

 店内には、カウンターを拭く布の音と、床を擦るモップの音が、静かに、心地よく重なり始めた。

 日が暮れていく中、賑やかだった運命屋は、少しずつ夜の終わりに向かって穏やかに閉じていく。

 最後の片付けが終わった頃、店内はすっかり静まり返っていた。

 カウンターも、床も、厨房も、まるで一日が夢だったかのようにきれいに整えられている。

 仮面の奥の視線を運命は一巡させ、それからゆっくりと扉を押し開けて、外へ出た。

 ひんやりとした夜風が、彼女の衣装の裾をわずかに揺らす。

 月はビルに隠れ、代わりに街灯の灯りが、店の看板にぼんやりと反射していた。

 

『よいしょ……と』

 

 細腕のように見えるその手が、シャッターの取っ手に触れ、ガラガラと音を立てながらゆっくりと引き下ろしていく。

 やがて鉄板が地面に触れ、運命はしゃがみ込んで鍵を差し込み、音もなくそれを回した。

 カチリ、と音が鳴った。

 シャッターの前で小さく一息ついた彼女は、振り返り――ディスプレイを、ふわりとした微笑みに切り替える。

 

『皆、お疲れ様。掃除を手伝ってくれてありがとう』

 

 その声に、後ろで並んでいた四人が、思い思いに返事をした。

 

「どういたしましてー。……ね、こういうの、ちょっと楽しいよねー」

 

 トロイが、袖をぱたぱたと払いながら笑った。

 

「ちゃんと容器割らずに出来たよっ!」

 

 ブルーは誇らしげに胸を張り、満足げに頬を染める。

 頬についた洗剤の泡に気づいていないのも、彼女らしい。

 

「……まあ、こういうのも悪くないな」

 

 ダグザは腕を組み、辺りを一瞥してから短く呟く。

 戦場では見せない、柔らかい空気が、そこにはあった。

 

「……ご、ご助力になれたのでしたら……」

 

 リーインシアは小さく俯きかけながらも、真っ直ぐに顔を上げ、少し赤らんだ頬でそっと微笑んだ。

 そのやり取りを静かに見守っていたリンデンが、ゆっくりと一歩前に出る。

 整えた衣服の裾を直し、控えめに、けれどしっかりと声をかけた。

 

「皆さん、もう夜も深いですから……どうか、お足元にお気をつけて」

 

 その声には、店員としての礼儀だけでなく、心からの感謝と気遣いが込められていた。

 彼の瞳が、夜灯に照らされてわずかに揺れる。

 

「……本日は、本当にありがとうございました」

 

 「おう、またな」とダグザが背を向けたまま片手を上げ、

 リーインシアも、リンデンに向けてそっと手を振った。

 トロイとブルーは連れ立って歩き出しながら、肩を寄せ合い――

 

「次は二人の部屋、片付けに行こうかなー?」

 

「だ、だめだよっ!」

 

 そんな軽口を交わしつつ、四人の姿は、やがて通りの角に溶けるように消えていく。

 誰もがどこか名残惜しそうに、けれど笑っていた。

 夜の静けさが、再び店の前に戻る。

 リンデンはしばしその場に佇んでいたが、やがて運命の方へと顔を向け、静かに言葉を紡いだ。

 

「……僕たちも、帰りましょうか」

 

 運命の仮面が、月明かりを受けてほんのりと青く瞬く。

 ディスプレイに浮かぶ微笑みは、変わらず優しく、どこか誇らしげだった。

 シャッターを閉めた店の前を離れ、二人は並んで歩き出した。

 夜の街は昼の喧騒を遠くに追いやり、静かにその表情を変えていた。

 街灯の灯りが道路にぽつりぽつりと落ち、わずかに湿った夜風が、緩やかに髪を揺らす。

 リンデンは少しだけ肩を落とし、心地よさげに息を吐いた。

 

「……今日は、久しぶりに賑やかでしたね」

 

『うん。あんなに皆が集まるなんて、ちょっと驚いたかも』

 

 歩調は自然と合っていた。

 運命の小柄な影が、街灯の下でリンデンの影に並ぶ。時おり交差し、また離れて、静かに揺れていた。

 

『でも、うれしかったよ。シオンやレアリザスたちが来てくれて。……ブルーもトロイも、リーインシアさんも』

 

「ええ。……皆さん、ずっと変わらずで……」

 

 少しだけ、言葉を選ぶように、リンデンは続けた。

 

「……けれど、少しずつ、変わってもいるようでした」

 

『……うん』

 

 それは彼自身のことでもあった。

 昔なら、あの場で肩を並べて笑い合うことなど考えられなかったはずなのに。

 今は、自然とその輪の中にいた。誰にも拒まれず、誰にも縛られず。

 運命は歩きながらふと、リンデンを見上げた。

 彼女の仮面に浮かぶ青い光が、星のように瞬いている。

 

『リンデンは……いい顔をしてたね、今日』

 

「……そう、でしたか?」

 

『うん』

 

 リンデンは、それ以上何も言わなかった。

 ただ、ゆっくりと、静かにその隣を歩き続ける。

 かつて背中を追いかけるばかりだった姉と、今は肩を並べて。

 夜の街はまだ静かだった。

 遠くで猫の鳴き声が聞こえ、どこかの建物の屋上に、風見鶏がわずかに揺れている。

 それを追うように、二人の影もまた、月明かりに揺れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 壁一面を覆う強化ガラスの向こうに、夜の街が広がっていた。

 遠くに瞬く高層ビルの灯りと、低空を飛ぶ輸送ドローンの航行灯が、静かなきらめきを描き出している。

 まるで夜空を閉じ込めたような部屋。その中央に置かれたソファに、リンデンと運命は並んで腰を下ろしていた。

 クッションに背を預け、ふたりの膝の上には一枚のタブレット。

 それを操作していたリンデンの指先が止まり、画面には懐かしい一枚の写真が映し出されている。

 

「……これが、最初の一枚ですね」

 

 リンデンが静かにそう言って、指先で画面をなぞる。

 表示されたのは、まだ彼が生後間もない頃の写真。眠りの中に沈む小さな赤子を、トロイメライが胸元に優しく抱き寄せている。

 その周囲には、第一騎士団《ブレイドライン》の面々。いつもの凛とした笑みを浮かべる風雅、目を閉じて静かに手を合わせるカノン、緩やかに微笑むソナタ……どこか緊張した空気と、確かな温もりがそこにあった。

 

『……懐かしいね。みんな、あの頃はまだ“どう扱えばいいのか”って探ってた時期だったなぁ』

 

「そうですね……トロイ姉さんが、最初に抱っこした時は皆さん固まっていたと」

 

『うん。トロイだけは、全然迷わなかったよね』

『ちゃんと「この子はこうすれば安心する」って、最初から分かってるみたいで』

 

 タブレットをスワイプすると、次の写真が現れる。

 1歳。

 よちよちと小さな足を踏み出しながら、両手を広げてこちらへ向かってくるリンデン。

 カメラの向こう側──つまり運命に向かって、ぎこちないけれど嬉しそうに歩いてくるその姿が、まるで小さな希望のかたまりのように映っていた。

 

「……これは、覚えていませんが。……でも、きっと嬉しかったと思います」

「皆さんが拍手をしてくださって、僕も笑っていたと、トロイ姉さんが言っていました」

 

『うん。あの日は、すごくいい日だった。……ちょっと泣いちゃったしね、私』

 

 運命の仮面がふっと、笑みに変わる。

 そして、次の一枚。

 3歳の時。

 快活な笑顔を浮かべた千紫のKING――春夏秋冬が、リンデンを高く高く持ち上げている。

 その下で、輝夜と、渋い表情の斬が、ほぼ同時に「やめろ」と止めに入っている決定的瞬間。

 

「……これは、飛びましたね……」

 

『うん。トロイが写真見て笑いながら、“あの時は春夏秋冬くんを問答無用で蹴った”って言ってたよ』

『……すごい勢いで』

 

「……やりそうです」

 

 抑えきれない微笑が、リンデンの口元に浮かぶ。

 ページをめくるたびに、まだ言葉も記憶も不確かな頃のリンデンが、写真の中で確かに息づいている。

 そして、そんな彼を囲むように、いつだって誰かがいた。

 

『……ねえ、リンデン』

 

 画面を閉じた運命が、ゆっくりとリンデンの方へ向き直る。

 ディスプレイに浮かんだのは、どこか寂しさを滲ませた微笑みだった。

 

『今日はさ……久しぶりに、一緒に寝ようか』

 

 その声には、優しさと少しの勇気が混ざっていた。

 不意を突かれたように、リンデンは瞬きを一つだけしてから、小さく――けれど確かに頷いた。

 部屋の中を包む夜の静けさが、ふたりの間をやわらかく繋いでいた。

 静かに立ち上がった運命の背中を、リンデンは無言で追った。

 ふたり並んで私室の奥へ進み、柔らかな光に包まれた寝室へと入っていく。

 カーテンはなく、天井から足元までの強化ガラスに夜景が映っている。まるで、世界そのものがふたりを見下ろしているようだった。

 ベッドの縁に腰を下ろし、どちらともなく、衣服の留め具を外しはじめる。ごわついた布地が落ち、静かな室内に、布擦れの音だけが優しく響いた。

 互いにインナー姿になったふたりは、言葉を交わさず、そっとベッドの上に身体を預ける。

 シーツの上で肩が触れ合い、体温がじんわりと溶け合う。

 しばらくの沈黙の後――

 リンデンが、小さく姿勢を変える気配を見せた。

 

「……陛下。失礼します」

 

 そう言って、ゆっくりと手を伸ばし、運命の仮面の縁をなぞるように――そして、彼女の首元の下に腕を差し入れる。

 それは、ぎこちないようでいて、どこか決意の滲んだ動きだった。

 

『あっ……』

 

 小さく息を呑んだ後、仮面のディスプレイに、ほっとしたような笑顔が浮かぶ。

 

『……腕枕、してくれるんだ』

 

 運命は身を任せるように、リンデンの腕に頭を預ける。

 仮面越しの額が、そっとリンデンの肩に触れた。

 仮面の滑らかな質感が、彼の肌をくすぐる。

 誰も見ていない場所で、ようやく許された静けさが、ふたりを包み込んでいた。

 静かな寝室の中。

 夜の帳がすべてを包み込み、ふたりの呼吸だけが、静かに重なっていく。

 運命はリンデンの腕の中で、ぽつりぽつりと語り出す。

 仮面越しの声は、どこか掠れていて、それでも確かな温度を宿していた。

 

『私、リンデンがどうやって生まれたとか、そんなことは知らないけど……』

 

 夜の静けさが、その言葉の重さを際立たせる。

 

『でも、あなたが育っていく全部を、見てきたよ』

 

 リンデンは声を出さず、小さく頷いた。

 その仕草が、何よりも深く、答えになっていた。

 

 仮面の奥に隠したままの瞳で、運命はリンデンを見つめ、そっと手を回す。

 背中を伝う細い指先が、布越しにぬくもりを探りながら、彼の素肌へと密着していく。

 

『それは……“育てた”って言っても、きっと全然足りないくらいで』

 

 ひと呼吸、言葉を整えてから――

 

『あなたは、私の……世界だったよ』

 

 その告白を、リンデンは黙って受け止めた。

 空いていた片手が、ゆっくりと彼女の背に回される。

 まるで、大切なものを包むように。

 守るのでも、奪うのでもなく、ただ、共に在るように。

 その瞬間だった。

 インナー同士の布地がこすれ合い、

 ぴたりと押し付けられた素肌に、熱が走る。

 不意に、運命の口元から、ふわりとした吐息が漏れた。

 

 『んっ――』

 

 その声は、ごく小さく、けれど確かに艶を含んでいた。

 意識していたわけではない。

 けれど、ただ優しく抱き返されただけなのに、身体の奥から、なにかじんわりとした熱が湧いてくる。

 仮面の下で目を伏せる運命は、それでも逃げることなく、リンデンの肩に頭を預ける。

 そして、背に回した手に、少しだけ強く――感情の証のように力を込めた。

 言葉より深く、皮膚より近く、ふたりの輪郭が重なり始めていた。

 ぴたりと重なった肌の温度。

 腕の中で静かに身を預ける運命を、リンデンはそっと抱き留めたまま、もう一言も発さなかった。

 ただ、呼吸を整え、優しい眠気に身を委ねていく。

 しばらくして。

 すう――と、規則的な寝息が、仮面のすぐ上から伝わってきた。

 運命は、それを確かめるように、ほんの少しだけ顔を動かす。

 そして、ふと微笑んだ。

 “ああ、この子はもう眠ってしまったんだな”――そんな、心の奥にそっと灯る安堵。

 その寝息に合わせて、腕枕の腕がわずかに上下し、運命の身体にもその律動が伝わってくる。

 抱き返された背中に回した自分の手。

 その指先が、彼のインナー越しの肌に触れていることを、改めて意識する。

 

 ――あたたかい。

 ――優しい。

 ――けれど、少しだけ、罪深いほどに。

 

 静かに、そっと。

 その手に、きゅっと力を込める。

 すると、布の擦れとともに伝わる熱が、肌に甘く染み込んでいく。

 夜の湿度に溶けるような、微かな痺れ。

 それはまるで、触れてはいけないものに触れてしまったような、けれど確かに幸福な感覚だった。

 

 『……ん……』

 

 小さく、運命の喉から息が漏れる。

 眠気がすぐそこにあるというのに、心がどこか、ほんの少しだけ疼く。

 それでも――

 

 『……おやすみ。リンデン』

 

 囁くようにそう告げて、仮面をつけたままの頭を、もう一度リンデンの腕に預ける。

 目を閉じれば、仮面の奥にも夜が満ちていく。

 微かな痺れも、くすぐったいほどの温もりも、そのまま抱きしめながら――運命もまた、そっと、静かな眠りへと沈んでいった。

 

 

 

 

 

 朝の光が、壁一面の強化ガラス越しにやわらかく差し込んでいた。

 高層区画特有の透明な風が、カーテンのない静寂の部屋を撫でる。

 その静けさの中、大きめのミリタリーバッグを肩にかけたリンデンが、扉の前に立っていた。

 黒に近い緑の髪はきちんと後ろで束ねられ、襟元まで留めたジャケットの上から、胸元には軍事局のエンブレムが鈍く光っている。

 この部屋を出れば、彼はもう“個人”ではなく、“庭師”になる――そんな空気が、その背中に漂っていた。

 

 運命は、いつも通りの仮面をつけたまま、ソファの一角から立ち上がった。

 何かを言いかけたように見えたが、すぐにそれを飲み込んで、ゆっくりとした歩みでリンデンの背後へと近づく。

 そして――。

 

 『気をつけてね』

 

 その声は、仮面のスピーカーから発されたものとは思えないほど、やさしく、自然だった。

 

 『頑張ってね』

 

 さらにもう一言。

 淡々とした言葉だったが、その語尾には、ほんの微かに震えが宿っていた。

 リンデンは扉に手をかけ、静かに「はい」とだけ答える。

 だが――。

 

 『……っ』

 

 扉を開けようとしたその瞬間、運命は迷いなくその背に腕を回した。

 仮面越しに顔は見えない。それでも、その抱擁は確かに“感情”だった。

 

 『……戻ってくるのも、ちゃんと選択肢に入れて欲しいな』

 

 その声は、淡くて、静かで、でも痛いほど切実だった。

 リンデンは、そのまま数秒、沈黙の中で立ち尽くす。

 ゆっくりと腕を下ろす運命に背を向けたまま、小さく、けれどはっきりと頷いた。

 

 「……いってきます」

 

 そう言って、扉を開ける。

 自動開閉の軋む音が、ふたりの間に短い風を運んで――

 そのまま、リンデンは静かに、その部屋を後にした。

 閉まる扉の向こう、仮面に映った微笑みの表示が、朝日に照らされてそっと消えていった。

 

 

 軍事区画へ向かう居住エリアの通路。

 高層棟の窓から差し込む朝光が、無機質な床を静かに照らしていた。

 運命の部屋を出たリンデンは、しばらく一人で歩いていた。

 足音だけが反響する廊下。その先に、壁に背を預けるようにして、誰かが佇んでいる姿が見えた。

 ――薄桃色の髪、編み込み。見慣れた黒のシスター服。

 

「おはよー、リンデンちゃん」

 

 いつもの緩やかな声が、変わらない調子で響いた。

 振り返るように顔を向けたその人影は、どこか気だるげで、それでも安心させる笑みを浮かべている。

 

「おはようございます、トロイ姉さん」

 

 リンデンは立ち止まり、深く一礼する。

 その動作に、トロイは肩を竦めてひとつ笑った。

 

「――本日は学園では……?」

 

 そう問いかけるリンデンに、トロイは人差し指を頬に当てて首を傾げた。

 

「んー? ……たまにはおサボりしてもいいかなーって」

 

 なんて気軽そうに言って、壁を離れ、リンデンの隣に並んで歩き始める。

 二人の足音が並んで響く。

 言葉はない。

 だが、それは気まずさではなく、ただ穏やかな沈黙だった。

 しばらくして――その静けさを破ったのは、リンデンの方だった。

 

「……姉さんは、何も言わないんですね」

 

 その声は、問いでもあり、寂しさでもあり、確かに迷いを含んでいた。

 トロイは立ち止まらないまま、視線だけをリンデンに向ける。

 その瞳に宿るのは、からかうような光でも、叱るような色でもなかった。ただ、深い優しさだった。

 

「トロイさんに何か言ってほしかったー?」

 

 飄々とした声が返る。

 リンデンは少しだけ視線を逸らす。

 

「まー、リンデンちゃんのことだから、大体のことはどうにかするんでしょー?」

 

 肩をすくめるようにして、トロイは緩く微笑んだまま前を向く。

 

「だから何も言わないよー、トロイさんはー」

 

 それは信頼だった。押し付けでも、慰めでもない、ただ一人の人間としての「あなた」への信頼。

 だからこそ、トロイは何も言わなかったし、何も奪おうとはしなかった。

 その横顔に、リンデンは何かを言いかけて、結局口を閉じる。

 代わりに、ほんの少しだけ――歩調を緩めて、トロイと同じ速さで並んだ。

 ふと気がつけば、二人は軌道エレベーターの発着所の前まで来ていた。

 巨大な塔が、天へと吸い込まれるように伸びている。どこまでも高く、冷たく、しかし確かに人の手で築かれたその構造体は、まるで今のリンデンの進む道を象徴しているようだった。

 待機音と共に、到着を告げる低い電子音が響く。エレベーターが降りてくるのを待ちながら、トロイがぽつりと呟いた。

 

「でも……もしリンデンちゃんの中で、雨が降って川になっちゃったら――その時はトロイさんに懺悔、しに来るといいよー」

 

 緩い調子のまま、しかしその声はどこか深い。

 トロイは視線を上げ、すっかり背の高くなったリンデンの横顔を見つめる。

 

「秘密厳守、個人情報保護はもちろん、拷問と違って痛くない!……だからねー、リンデンちゃん」

 

 わざと明るく言うその響きの奥に、どこか祈るような色があった。

 

「言いたい事、伝えたい事は全部、トロイさんに言ってねー?……ちゃんと、全部受け止めるから」

 

 柔らかなその声に、リンデンの表情が一瞬だけ動いた。

 何かを口にしかけて、けれど――やはり、それを飲み込む。

 

「……ありがとうございます、トロイ姉さん」

 

 口から出たのは、誤魔化すような礼の言葉だった。

 それを聞いたトロイは、ふーん、という顔でじっとリンデンを見上げた。

 

「相変わらず頑な過ぎて草ー、そういう所がいじらしくて森ー。まあ、そーゆーお花にトロイさん達が育てたんだけどねー」

 

 その言葉に、リンデンは小さく息を吐いて目を伏せる。

 トロイはそれを見て、ふっと微笑み、すっと身を寄せてリンデンの肩に頭を預けた。

 トロイの髪が、ふわりと揺れる。香りが、ほんの少しだけ漂った。

 ――到着音。

 エレベーターの扉が開く音が、ふたりの間に静かに差し込んできた。

 リンデンはその音に反応するように一歩、前へと進み出る。

 背後から、柔らかに響く声が追いかけてきた。

 

「いってらっしゃい、リンデンちゃん」

 

 その声に背を向けたまま、リンデンは静かに立ち止まり、小さく頭を下げた。

 

「……いってきます」

 

 振り返ることはなかった。

 けれど、その言葉は確かに届いた。

 手を振るトロイの姿を、扉はゆっくりと閉ざしていく。

 やがて、すべてが静寂の中に戻った。






次回以降、オリキャラとか設定捏造モリモリになるので、ご注意くださいね。

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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