みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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ガーデナーと綽名.2

 水音ひとつ。

 それが仲間の命だったとは、誰もすぐには信じられなかった。

 だが、信じる・信じないの思考を待たずに、全員の身体は動いていた。

 銃撃手が地を蹴って金属の柱の裏に滑り込み、

 索敵青年は構造物の影に身を沈めながら端末を抱えて這う。

 斥候たちは一瞬で動線を読み、物陰へと跳躍し、

 結界処理士の女性は最短経路で遮蔽を取り、通信機のスイッチを抑え込んだ。

 “散開”ではない。これは“生存”の動きだった。

 

「……今の見たな」

 

 息を吐き殺しながら、銃撃手が呻くように低く呟く。

 血の気が引いた顔で、握った銃が微かに震えていた。

 「視られただけで、終わりだ。あの赤ん坊の……目だ」

 

「戦えない。いや、戦う以前の問題。……情報が足りなすぎる」

 

 索敵青年は冷静を装ったまま、測定端末のスクリーンを睨みつけていた。

 数値は正常。だけど、正常な数値が“ありえない”と叫んでいる。

 

「今は、逃げるしかない。調査班と騎士達に連絡を。あっちはまだ中だ」

 

「全体に回す。応答がある保証はないけど、やる」

 

 最後尾で身を伏せていた分析官が、小さく息を吐き、指を動かす。

 通信系は歪んでいた。接続マーカーは断続的に点滅している。

 それでも――まだ繋がっている。

 

「……最優先は調査隊の離脱。俺たちが気を引くしかない」

 

「囮になるのは順番だ。まずは、情報が出揃ってる俺たちで仕掛ける」

 

「仕掛けるって、あれに?」

 

「違う、“逃げるための仕掛け”だ」

 

 結界処理士が、苔を押しのけて顔を上げる。

 照準器越しに見た“それ”の像が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

 あれは、迎撃対象ではない。排除対象でもない。

 接触してはならないものだ。

 

「反撃ではなく離脱を。全体行動を維持したまま、距離を取って――まずは、帰る」

 

 静かな声に、全員がわずかに頷いた。

 交わされる言葉のどれにも、希望や勝利の響きはなかった。

 ただ、災厄から生還するという一点にだけ、全員の意思が集束していた。

 “これは戦闘ではない。災厄との接触だ”

 その認識だけが、胸の奥で重たく鳴り続けていた。

 

「通信、試みるよ。増幅帯域まで引っ張る――」

 

 分析官の男が身を低く保ったまま、タクティカルパッドを操作していく。

 接続マーカーは点滅を繰り返し、断続的な霊子信号の中を無理やり情報が走っていく。

 

「……GARDEN観測班、調査部へ優先転送。外周部にて不明敵性体と接敵、コード名不明。“目視により消失”。繰り返す、“目視により消失”……!」

 

 語気は抑えたまま、それでも言葉に焦りが滲む。

 “理解されないこと”を前提に、短く、要点だけを刻んでいく。

 一方その間、索敵青年と狙撃手が崩れた通路の一角にセンサービーコンを設置していた。

 霊子探知式の小型音爆起爆装置。

 接近に反応して起爆する簡易型だが、今はこれが命綱だった。

 

「オーケー、設置完了。こっちも連鎖起爆の仕掛け作った。あれが通れば反応する」

 

 索敵青年が工具をしまいながら低く言う。

 起爆装置は苔の下に隠され、目視では判別できない。

 

「よし……やっぱ頼れるのは、お前の手先だけだな」

 

 銃撃手がぼそりと呟く。

 トリガーに添えた指はわずかに濡れていた。

 

「口先よりは信用してほしいね、ほんと」

 

 索敵青年が苦笑しながら応じる。

 その声音に、あの軽口を叩いていた仲間の不在が、誰よりも滲んでいた。

 その後方――。

 リンデンは、殿として一人最後尾に残っていた。

 ヘイロリウムは盾形態。振動リングは低速回転を維持したまま、微かな音を空気に刻み続ける。

 何も聞こえないわけではない。

 むしろ、聞こえているのだ――聞こえてはいけないものが。

 空気の重さ。踏み込むたびに水気を孕んでゆく地面。

 崩れかけた構造物に触れると、表面にしっとりと水が滲んでいた。

 

「……地形が、変わってきている?」

 

 誰に言うでもなく、小さく呟いた。

 音が跳ね返ってこない。

 壁が、道が、あらゆる面が水を吸って“柔らかくなっている”。

 道の奥、曲がり角の向こう。

 先ほど通ったはずの廊下が、もう“同じ道”には見えなかった。

 この空間は、生きている。

 逃げ道など、最初からなかったのではないか。

 それとも今この瞬間、すべての道が“変わっていく”最中なのか。

 

 ――今、自分たちは本当に“後退”しているのか?

 

 そう問いかけそうになった瞬間。

 水の膜を伝って、どこかで“笑い声”が響いた気がした。

 

「こっちだ。こっちにルートを振る!」

 

 銃撃手が声を落としながら、身を屈めて崩れた通路へと駆け出した。

 記録しておいた通過ポイント。地図と測量データでは、退路の最短経路になっているはずのルート。

 けれど――。

 

「……待て」

 

 その足が、通路の手前で止まった。

 濡れていた。

 いや、それだけではない。

 さっきまでは金属と苔が混在していたはずの地面が、今は――ただの“水の床”になっていた。

 

「これ、道じゃない……」

 

 壁も、天井も、空間全体が滲んでいた。

 構造物のディティールが失われ、像の輪郭が、水の膜越しのように歪んでいる。

 進もうにも、足場は完全に崩れ、先は“視えるのに辿れない”透明な拒絶になっていた。

 

「通れねぇ……。確認してたルート、全部変わってやがる」

 

 低く吐き捨てるような声が漏れる。

 言葉に焦りが滲むというより、“認めたくないものを認める時”の声音だった。

 他のメンバーもすぐに接近してくるが、誰もそれを否定できなかった。

 誰よりも先に索敵青年が端末を見下ろす。

 ルートマップは正しい。だが、今、目の前にあるものは違う。

 ――それは地図の破綻ではなく、現実の裏切り。

 そしてその直後。

 

 ピ、ピ――。

 

 微かに、しかしはっきりと耳に届いた。

 それは部隊が後方に設置した、簡易音爆起爆装置の作動音だった。

 連鎖はしなかった。

 爆発もなかった。

 ただ、“感知”だけが起こった。

 

「……来てる」

 

 誰かが、そう呟いた。

 振り返らずとも、全員が理解していた。

 あの“何か”が、今まさに彼らの存在を明確に認識し、こちらへ進み始めているという事実を。

 足元の水が、一段と音を立てて揺れた。

 

「……使えない」

 

 索敵青年の声が、決定的な事実を断じた。

 今通ってきた正規ルートは、既に変質していた。

 濡れた床、歪む壁、視界の奥で泡立つように崩れていく構造体。

 再びあそこを通るという選択肢は、もう存在しない。

 ならば――未踏の道を行くしかない。

 

「ルートを捨てて、未確認区画を抜けるわ」

 

 寡黙な結界処理士が短く、そして迷いなく告げる。

 無謀な選択。だが、それしか残されていなかった。

 その時、最前列にいた銃撃手が、無言で腰の装備を確認し、弾帯を緩める。

 

「……行け。おれが引っ張る」

 

 リンデンが視線を向けると、彼は口の端だけをわずかに上げてみせた。

 それは、「またな」とも、「全部任せた」とも取れる曖昧な笑みだった。

 

「“あいつ”が完全にこっちを嗅ぎつける前に……引き返して、全員で抜けろ」

 

 そう言い残すと、銃撃手は水に濡れきっていない遮蔽物の間を選び、音を立てずに身を滑り込ませる。

 その背中は、誰にも見送られることなく、沈黙のなかへ消えた。

 

「行きましょう」

 

 リンデンの声が、次の一歩を押し出す。

 それに応えるように、残されたメンバーたちは踵を返し、まだ廃棄物の進行が及んでいないであろう未踏査ルートへと駆け出した。

 誰一人、振り返らない。

 振り返るには、あまりにも代償が重いと、全員が知っていた。

 

 

 未踏査ルートに足を踏み入れてなお、水の気配はなかった。

 だが、代わりに漂うのは霊子の濃密な圧力と、不自然な金属音の残響。

 

 ――敵性反応。

 

 直後、前方の空間を埋めるように現れたのは、汎用型ドールの群体だった。

 数は不明。構造物の奥に、さらに多数の個体が重なっている。

 そのすべてが空洞の顔をこちらに向け、ぶら下がるチョーカーを揺らしていた。

 

「……っ!」

 

 後列の索敵青年が口を開く前に、リンデンの足が地を蹴った。

 殿をしていたはずの彼が、一気に部隊を追い越す。

 動きに一切の淀みはない。身体が、意思よりも先に“戦闘”を選び取っていた。

 走りながら左腕の接続ユニットが動作し、ヘイロリウムが量子空間から引き出される。

 そのまま盾状態で接続すると、内蔵されたリングユニットが唸りを上げ、振動回転を始めた。

 

 「ナンナリス、展開――」

 

 背部にも、冷たく光る光子の糸が走る。

 霊子収束支援ユニット(ナンナリス)が展開され、リンデン自身の霊子変換効率を急激に引き上げる。

 

 ――戦闘補助、自己バフ、全展開完了。

 

 「通行ルートを確保します。抜けてください!」

 

 その言葉と同時、振動リングが前方の天使へと突撃する。

 盾の接面が空洞仮面に食い込んだ次の瞬間、爆ぜるように破壊されたドールが霊子の塵となって霧散した。

 リングの回転は止まらない。

 迫りくる天使たちの関節、胸部、頭部を次々と“砕断”しながら、リンデンの身体は真っ直ぐに前進を続ける。

 敵は止まらない。

 だが、それ以上に“彼”が止まらなかった。

 振動する虚輪が霊子の火花を撒き散らし、空間に裂け目を穿っていく。

 構造物に反響するのは、ドールの悲鳴のような金属音。

 砕かれ、斬り裂かれ、散っていく天使たちの群れを背に、味方が次々と導線を駆け抜けていった。

 

 「行ってください!」

 

 振り返るな。そう言わんばかりに、リンデンの声が空間を断ち切る。

 それを合図に、最後尾の分析官が遮蔽物を滑り抜け、背後に視線を向けることなく通路の先へ飛び込んだ。

 

 ――これで全員、抜けた。

 

 その瞬間、リンデンもまた脚を踏み変える。

 盾を構えた姿勢から一気に地を蹴り、リングを斬裂状態のまま固定しつつ、身を捻って反転する。

 直後、飛来する一体のドールを盾のエッジで斜めに裂断。

 爆ぜる霊子のなかを駆け抜け、リンデンの背中が戦場を離れていった。

 振動の余韻が、追撃の間隙を奪う。

 その間に、彼の姿は通路の奥へと消えていった。

 

 ――そして、数十秒後。

 

 朽ちた柱の裏、霊子障壁の死角に潜む空間。

 物音ひとつしないその場所に、先行していた三人が息を殺し、耳を澄ませていた。

 

「……来た!」

 

 誰かの声と同時、構造物の影から現れる一つの影。

 粉塵まみれの斧盾を構え、無言のまま踏み込んできた彼――リンデンが、無事に合流した。

 

「……追撃、ありません。恐らくここは……」

 

「一時的な、安全圏ってとこか」

 

 索敵青年の低い声に、安堵と疲労が滲む。

 それでも彼らは誰一人、座り込もうとはしなかった。

 リンデンの背中には、微かに霊子の振動が残っている。

 “まだ終わっていない”という、その証のように。

 

 

 数分前までの乱戦が幻だったかのように、周囲は静まり返っていた。

 古びた配管の軋みすら聞こえないこの空間で、4人の呼吸だけが細く交錯している。

 

「……どうやら、本当にここは死角のようだな」

 

 索敵青年が薄暗い通路の奥を睨みながら、肩越しに呟く。

 結界処理士の女性が、応える代わりに静かに頷き、装備の確認に戻った。

 その隣で、リンデンは無言のままヘイロリウムのリングを低出力回転へと戻し、左腕の接続ユニットに収め直していた。

 全身にわずかに霊子の揺らぎが残っている。

 “終わった”という実感が、どこにもないまま。

 

「改めて“あれ”に、赤ん坊がいたの……見た?」

 

 後方分析官がぼそりと切り出す。

 その声はひどく冷めていて、しかしどこか怯えている。

 

「目を合わせた瞬間だった。……視線に捉えられた途端、あいつは……」

 

 彼は言葉を飲み込む。

 残された彼らにとって、それ以上の説明は不要だった。

 ――赤ん坊の視線に捉えられた者は、水風船のように弾け、純水へと変わる。

 理屈も原理も何もわからない。

 けれど、それは確かに“起きた”。

 

「遮蔽物の影に入っていれば視線は通らない。遮蔽を保って動けば……」

 

「いや、それでも完全じゃない。あれ、こっちを追って来てたぞ。目は……何か、わかってる目だった」

 

 青年の言葉に、誰も反論はしなかった。

 その時、通信機に短く電子音が走る。

 霊子ノイズの混じる声が、機械越しに届いた。

 

 ――『こちら調査班。現在全班撤収を開始。あと十五分で外周脱出完了予定』

 ――『その間、そちらで不明敵性存在の注意を引き続けてほしい』

 ――『撤収後、該当区域に騎士を派遣予定。合流までは、可能な限り外周部にて迎撃・足止めを』

 ――『……頼む』

 

 「…………」

 

 誰もが無言で、短い通話の余韻を受け止めた。

 指示は明白だった。

 時間を稼げ。

 そのために、ここに残れ。

 

「外周ってことは、このあたりの動線沿いで陽動しろってことだな」

 

「つまり、最悪こっちに向かってくる“それ”を、足止めしながら……」

 

「……迎え撃てってことだろうね」

 

 結界処理士が、無言のまま腰の装備ポーチから複数の霊子カートリッジを取り出し、手際よく起動準備を整えていく。

 背後では、後方分析官がパッド端末を操作し、神域内部の構造を簡易的に投影するマッピングを再展開。索敵青年がその映像を覗き込みながら、遮蔽性と視界の交差角から陽動に最適な構造物を即座に抽出していく。

 

「……じゃあ、俺と後方さんでルート選定と通信維持。姉さんは結界設置と起爆。残ったドールどもが湧いたときのために、俺が牽制火力も兼ねる」

 

 索敵青年が淡々と役割を指示していく。

 その声に、分析官も女性も黙って頷いた。

 リンデンは黙って皆の様子を見ていたが、やがてひとつ小さく息を吐いて前へ出た。

 

「では、初撃の陽動は私が務めます。囮の誘引が失敗すれば、どんな配置も無意味になります。私が最前に出ますので、その間に各配置を」

 

「却下」

 

 遮るように、女性が言った。

 それは短く、静かな一言だったが――強い。

 

「……それは、私の役割よ」

 

 リンデンがわずかに眉を寄せた。

 女性はその反応を見ながら、無感情にも見える目で言葉を継いだ。

 

「一番の戦力を囮にするなんて選択はありえない。あなたは“全員が死ぬ”時の最終手段にとっておくべき」

 

 彼女はそう言って、結界装置を背負い直す。

 ゴーグルを目元まで下げながら、呟くように言った。

 

「それに……これくらい、いつもの仕事の範疇よ」

 

 言葉の調子には、どこか寂しげな、しかし確信めいた強さが滲んでいた。

 リンデンはしばし迷うように視線を泳がせたが、やがてそれ以上何も言わず、代わりに左腕の接続ユニットに再びヘイロリウムを展開した。

 霊子の粒子がじわりと空気を染める。

 その放射を合図に、全員が音もなく身を起こした。

 ――死角から、身を晒す。

 次の瞬間にはもう、神の廃棄物がこちらを認識するだろう。

 

「水の気配がない……濡れてない床材は、あそこだ」

 

 索敵青年が指差したのは、緩やかに崩れたスロープの先、複数のパイプが走るメンテナンス空間だった。

 水のない場所を選ぶ。

 それは、わずかにでも生存可能性を高めるための、彼らの唯一の選択だった。

 廃棄物は来る。

 その巨体に、人工の神になり損ねた哀しき姿をまとって。

 だが彼らは――それでも、引くつもりはなかった。

 

 「準備は?」

 

 「完了。陽動はいつでも」

 

 「外周での迎撃ラインに誘導、あとは運」

 

 「……行きましょう」

 

 霊子の粒が、冷えた空気を軋ませるように揺らめいていた。

 再び、命の代価を問う戦場へ。

 4人の影が、静かに動き出した――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足音を、消していた。

 

 ――音を立てれば、視線を誘う。

 視線を誘えば、水になる。

 だから彼女は、そっと、そっと。

 瓦礫に濡れた石を避け、パイプの影を縫うように、音を殺しながら歩いた。

 〈純水無躯〉の神――。

 その頂きに居座る、あの歪んだ女神像のような女と赤子の幻影。

 赤子の目が動いた瞬間、何もかもが終わる。

 

(……この距離なら)

 

 計測スコープの光を遮るため、ゴーグルの露光を切り替える。

 遮蔽物越しに覗いた“それ”は、相変わらず意味のない歩みで空間を踏み潰していた。

 排気音。濡れた管。ナメクジ状の脚が這うたび、床の金属が腐食し、音もなく崩れ落ちていく。

 彼女は、呼吸を一つ整えた。

 カートリッジ一基目、投擲。

 金属音が遠くで響き、〈純水無躯〉の動きが微かに止まった。

 赤子の目が、確かにそちらへと向く――。

 その“隙”を突くように、彼女は更に二基、三基と結界装置を配置しながら移動していく。

 見られれば終わる。だが、今はまだ見られていない。

 

(あと十秒)

 

 自己カウントを取る。

 逃走経路は味方の背後に、細い通路として確保してある。

 残った時間で仕掛けを完成させ、最大火力の遮断結界を発動――。

 

「…………行くわよ」

 

 ひとり、呟いた。

 そして、最後の装置を設置した瞬間。

 指先が、霊子起爆トリガーに触れる。

 

 ――起動。

 

 微かな、だが確実な音が空間を走った。

 結界柱の起動光が、連鎖するように一斉に点灯する。

 その刹那、〈純水無躯〉の赤子の視線が、跳ねた。

 「何か」がこちらを捉えた。

 女性は即座に遮蔽へ身を滑り込ませる。

 赤子の目が見ていたのは、確かに彼女の“影”だけ――。

 起爆音を合図に、残った三人が同時に動いた。

 

「いけ!」

 

 後方分析官の低い指示が、各人に火を灯す。

 それを合図に、索敵青年が素早く腰の小型パックを開け、手のひらほどの発煙装置を複数展開していく。

 設置しながら、通路に沿って滑るように移動。極薄の足音が床に混ざる。

 

「起動、三秒後……っ、マガジンさん!」

 

 その名を呼ぶと同時、青年の後ろを黒緑の影がすり抜けた。

 ヘイロリウムの回転リングが唸りを上げる。霊子構造体を巡らせ、強化状態にあるリンデンは、まるで風に乗るように動いた。

 足元の霊子反力が弾け、破砕された床の金属片が宙を舞う。

 その一閃――たった一息で、彼は純水無躯の接近圏まで肉薄した。

 廃墟のメンテナンス空間、その先にあった脆い壁。

 その直前で彼は停止する。構えは盾状態のヘイロリウム。

 

(今――)

 

 結界処理士が配置した遮断結界が、ひときわ強く輝いた後、次の瞬間に力尽きるように消滅した。

 〈純水無躯〉の脚が、ゆっくりとまた一歩を踏み出そうとする。

 その瞬間。

 

「――砕断」

 

 リンデンの声と共に、盾状態のヘイロリウムが唸りを上げた。

 回転するリングユニットが壁面に接触した瞬間、金属とコンクリートが同時に引き裂かれるような轟音が響き渡る。

 

 崩落。

 

 リンデンの打撃によって廃墟の天井がそのまま大きく沈下し、〈純水無躯〉の目前、あるいは足元へと瓦礫の嵐が降り注いだ。

 無数の排気管が折れ、水の音が一斉に濁流のように響き出す。

 

「崩したッ、いまだ、全力後退ッ!」

 

 索敵青年の叫び。煙幕装置が一斉に起動し、重たく白濁した霊子煙が空間を埋め尽くす。

 反応時間は、おそらく数秒。

 “神”が瓦礫を突き破り、再び姿を現すまでは――それが限界。

 足音が混じり合う。重さの異なる四種の靴音が、瓦礫を踏み鳴らしながら駆け抜けた。

 

「外に出る! 一気に突き抜けろ!」

 

 先頭を走る索敵青年が叫ぶ。

 後方ではリンデンが盾を展開したまま、天井崩落の余波で飛び交う瓦礫の破片をいくつも弾いていた。濛々と立ち込めた煙幕の中、彼らの姿は白霧に包まれて見え隠れする。

 破れかけたシャッターの隙間から、一人、また一人と廃墟を飛び出す。

 壁を越えるように身を投げ出し、息を切らしながらも立ち止まらない。後ろで何かが這うような重低音が響いた。

 

「――っ来てるぞ、まだ追ってきてる!」

 

 後方を走る後方分析官の声が鋭く刺さる。

 リンデンは振り返らず、盾を格納した。

 崩落は効果があった。だが、あれは止まりはしなかった。

 純水無躯――あの不明敵性存在は、なおも濁った排水音を響かせながら、黒い空気のような気配を引き連れて進行を続けている。

 

「次、曲がるぞ……右! 水の流れがない方へ!」

 

 索敵青年が即座に判断を下す。

 曲がり角を何度も折れながら、彼らはアルダランビオンの外周部、さらにその端の端、霊子構造体が不安定化する地帯へと足を踏み入れていく。

 ここまで来ると、構造物の密度も薄れ、遮蔽物の数も減ってくる。

 風が通り抜ける開けた空間に差し掛かった時、初めて彼らは背後との距離がほんのわずかに広がっていることを認識した。

 

「……引き剥がせてる」

 

 分析官の静かな声に、皆の呼吸が一瞬だけ緩んだ。

 それでも、足は止めない。

 純水無躯が彼らを“確実に”視界に捉えるには、もう少し距離が必要だった。

 

(まだ、あと数十秒……)

 

 リンデンは振り返らず、ただ耳を澄ませる。

 排気音も、濁流のような脚音も、確かに遠ざかっていた。

 逃走の足取りが、徐々に緩んでいく。

 それでも完全には止まらず、速度を調整しながら、四人は足音を落としていった。風が通り抜ける開けた通路――その中央部、瓦礫に囲まれた凹地で、ようやく一度、顔を見合わせる。

 

「……あと、何分稼げば?」

 

 息を切らせた索敵青年の問いに、後方分析官が端末を見ながら即答する。

 

「撤収完了まで、残り約九分三十秒。回線状況からして、支援部隊が動けるのはその後……実質、あと十分近くは粘る必要がある」

 

「十分、か」

 

 結界処理士が短く呟き、ゴーグルの奥で睨むように前を見据えた。

 数秒ごとに吹き込む風が、どこか湿り気を帯び始めている。進行方向は未だ乾いていたが、背後から忍び寄る気配が、じわじわと空気を変えていた。

 

「現時点で、完全な引き剥がしは出来てる。ただ、奴がこちらを認識し直すまでの猶予は……長くて一分。それを十回繰り返すには、仕掛けを交互に使って動きを止めるしかない」

 

「爆破系の罠は残り三つ。煙幕と音爆がそれぞれ一つずつ」

 索敵青年が腰元の装備を確認しながら答える。

 

「結界は……あと二層。使い切ったら、終わり」

 

「マガジンさんの火力は?」

 

 静かに問うたのは分析官だった。

 リンデンは一拍置き、左腕に残る霊子強化層を見下ろした。

 

「最低でも三回は突破できます。それ以上は……内部ユニットに熱が溜まりすぎます」

 

「三回分の突破力と、三つの爆破。あとは、引き伸ばすための撒き餌――」

 

 誰も言葉にはしなかったが、全員がほぼ同時に無言で視線を交わす。

 次の“足止め役”を誰にするか――その相談を、そろそろ避けてはいられない時間帯だった。

 沈黙が落ちた。

 次に誰が残るか。誰が囮になるか。

 それを言葉にしなくても、誰もが理解していた。

 

 リンデンは視線を落とした。

 戦力として最も優れている彼は、最後まで残すべき“最終手段”だった。

 後方分析官は通信と補助装置の操作に徹しており、陽動能力には致命的な欠陥がある。

 残るは――二人。

 

 索敵青年と、結界処理士の中年女性。

 

「……俺が行くよ」

 

 ぽつりと、索敵青年が言った。

 声は軽いが、足取りは重かった。

 

「待って。煙幕、罠の操作、ルート再分析――あなたにしかできないことがある」

 それまで黙っていた結界処理士が、ゆっくりと割って入った。

 冷静で、静かな声だった。

 

「なら、わたしが行く。囮には、結界を張る技術が要る。それに、“あれ”をほんの少しでも拘束できるなら……その方が時間は稼げる」

 

 視線を逸らすことなく、そう言い切る。

 

「でも、あなたは――」

 

「……老い先短いのよ。あなた達と違ってね」

 

 微かに笑うその口元は、張り詰めた空気に逆らうように穏やかだった。

 索敵青年は一瞬だけ言葉を失い、やがて小さく肩を落とした。

 

「……なら、あとで文句は言わせてくれ」

 

「その頃にはもう聞こえないから、安心しなさい」

 

 結界処理士はそう言って、腰の結界生成装置を点検し始めた。

 誰も、止めることはできなかった。

 止める資格のある者は、既にいない。

 

「行って」

 

 背後からそう言われた瞬間、リンデンは一歩、踏み出した。

 索敵青年と分析官もまた、彼女の意思を汲むように動き出す。

 背後では、結界処理士が無言で結界石を地面に置き始めていた。

 その動きには、迷いもためらいもない。

 彼女はすでに、自分の役割を引き受けていた。

 リンデンはその姿に一度も振り返らず、前だけを見据えた。

 その歩みは一定で、速度は抑えられている。

 逃げるのではない、進むための撤退だった。

 足音と呼吸の音、時折鳴る分析端末のピッという通知音――

 それらのすべてが重くのしかかるように響く中、後方から唐突に――

 

「──ッ、チッ……!」

 

 ︎︎耳に届いたのは、空気を断ち切るような霊子の共鳴音だった。

 結界が、発動した音。

 辺りに微かに震動が走る。

 すぐ後ろで、“抑え込む”ための決死の陣が張られたという証。

 誰も言葉を交わさなかった。

 言葉にすれば、そこにある現実が確定してしまう気がした。

 だから、ただ走る。

 水の気配がない道を選び、瓦礫と廃墟の隙間を縫って進む。

 この先に本当に出口があるのかも分からない。

 それでも、進まねばならなかった。

 

「……今のうちに、ルートの分岐をひとつ超える。音が二度目に鳴ったら、そこが限界だ」

 

 索敵青年が囁くように言った。

 リンデンは小さく頷き、視線だけで先を促す。

 結界の発動音は、すでに彼らの背から遠ざかり始めていた。

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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