みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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注意:特定の人物のアンチ・ヘイトっぽいシーンあります。





ガーデナーと断絶.3

 あの任務から、ひと月ほどが経過していた。

 内容には触れない。語る事もない。いつも通り始まり、いつも通り終わった。ただ、それだけだった。

 

 そして今。

 20歳を過ぎたリンデンは、再び一つの神域へと降り立っていた。

 【融解神這遺跡アルダランビオン】

 魔剣を破壊できずに永続神域化してしまった、軌道人類史の外側にある廃墟。

 “神をつくろうとした痕跡”――その言葉が残された、重く、深い、沈黙の領域。

 部隊員は、リンデンただ一人。

 単独による斥候任務。

 事前報告の段階で、それは当然のように組まれていた。

 この地に再び降り立てる者は限られている。いや――ただの調査であれば、誰でもよかったのかもしれない。

 だが、問題は「遭遇」だった。

 

 リンデンは、覚えている。

 以前ここで廃棄物と戦った。

 神の形を模した“なり損ない”――あの巨大な、異質な、意味の通じない存在と。

 その戦いで、仲間を一人、また一人と失った。

 逃がすために、囮になるために、時間を稼ぐために――

 全員が、彼の視界から一人ずつ消えていった。

 そして最後。

 どうにか撃退には成功した。だが、殺しきれはしなかった。

 あれはまだ、この地に棲んでいるはずだ。

 何も変わらない、変わりきらないまま、あの永続神域を彷徨い続けている。

 今回の任務も、まさにその「名残」に触れるものだった。

 アルダランビオンで調査を行っていた調査班と護衛班、その両方が消息を絶った。

 回収されたログには、水音と、「水」という単語だけが断片的に残されていた。

 報告によれば、ログの最後に映っていたのは霧と、影と、振り返った一瞬の“顔”。

 

 ――また、出たのだ。

 あの、神にも成りきれなかった廃棄物が。

 だからこそ、自分が選ばれた。

 あの存在に対応できる者が、GARDENには一人だけいる。

 前にあれと相対し、生き残った者が。

 唯一、撃退という実績を持っている者が。

 リンデンは、ただ無言のまま、アルダランビオンの深層へと足を踏み入れていく。

 遺跡の奥へと進むにつれ、空気の質が変わっていく。

 じめりとした湿気が、肌にまとわりつくように濃くなる。

 

 ――ああ。

 

 この感触を、リンデンは知っていた。

 嫌に水気を帯びた、澱んだ空気。

 すべての音が、やや遅れて耳に届くような、霊子的な鈍重さを孕んだ領域。

 確かに、あいつはここにいる。

 確信へと変わったのは、その先に広がる光景だった。

 

 純水。

 何の混じり気もない、透き通った水溜まりが地面一面に広がっている。

 澄んでいて、そして深い。

 底など見えないのに、水面は不気味なほど静かだった。

 何がこの“水”の元だったのかは、知る由もない。

 天使かもしれない。あるいは、消息を絶ったガーデナーたちの痕跡かもしれない。

 だが今そこにあるのは、「水」だけだった。

 

 ――ズルズル、ズル……。

 

 遠くから、何かが這う音が響いた。

 重く、粘つくような音。

 水を引きずるような、粘膜を裂くような、耳にまとわりつく音。

 ぴしゃ……ぴしゃ、と水の跳ねる音。

 木々が折れる、草が踏み潰される、湿った地を這いずる何かの音。

 それら全てが、過去を思い出させた。

 あの時、仲間が一人、また一人と消えていった時のことを。

 息を吸った。

 冷たく、ぬるい水気が喉奥まで入り込んでくる。

 それでも、リンデンは一歩、また一歩と奥へ進む。

 

 

 足元の水が、小さく跳ねた。

 音にしては小さい。だが、重かった。

 まるでこの神域全体の水圧が、そこに一点だけ落ちたかのような質量を伴って。

 湿度が、異常だった。

 そこだけ、まるで空気が飽和している。

 靄でも霧でもない、ただ“重さ”として存在している水気。

 リンデンは、正面からそれを視認した。

 

 ――純水無躯の神。

 あるいは、“なり損ない”。

 

 あの時と変わらぬ姿だった。

 ナメクジのように這いずる巨躯、癒着した人間たちの胴体、そのてっぺん――

 魚眼レンズを歪ませたような、異様なまでに肥大した女性の笑顔。

 その腕に、赤ん坊を抱いたまま固定された“母と子の彫像”。

 ……ただ、一つだけ違っていた。

 あの時切りつけた、歪んだ女の顔に抱かれていた赤子。

 その頭部から、泡のように分裂した無数の“赤ん坊の頭”が、生えていた。

 あまりにも静かに。

 まるで呼吸するかのように、ぶくぶくと、肉の泡が湧き出し、形を成し、また静止していた。

 その目は、まだ開かれていなかった。

 ――まだ、“水にする”つもりはない。

 だが、それはただの猶予だ。

 眠っているのではない。“待っている”のだ。

 

 リンデンは、沈黙を保ったままヘイロリウムを量子展開した。

 白い光が、粒子の螺旋となって浮かび、重厚な盾が彼の腕に現れる。

 続けて、中央下部のジョイントを押し込む。

 機械的な軋みとともに、収納されていた柄が展開されていく。

 

 盾から、斧へ。

 

 防ぐものはない。

 守るべき誰かもいない。

 ならば最初から――斧でいい。

 ヘイロリウムのリングユニットが、静かに回転を始める。

 シュルル……と空気を切り裂く音。重い質量が巻き起こす振動が、手元から腕を伝って全身へと伝わっていく。

 その音に反応するように、“なり損ない”が顔をゆっくりと傾けた。

 ずるり、と巨体が湿った地を這い、リンデンのほうへと向かってくる。

 

 ――戦闘が、始まる。

 

 

 

 

 

 ぶち、ぶち、ぶち、と。

 不快な音が、腹の底を震わせる。

 純水無躯の神、その膨れた胴体に癒着した無数の人間たち――

 その手が、肉を引き裂くように一斉に動き始めた。

 掌が開く。

 すべての指先が、ばらばらに震えながらリンデンの方を向く。

 そして、次の瞬間。

 ドン、と。

 弾けるような音ではなかった。

 重い、爆ぜるような、だが乾いた“衝撃音”。

 無数の掌が、超高圧に圧縮された水の弾丸を撃ち出した。

 

 ――迎え撃つ。

 

 リンデンは瞬時にヘイロリウムを構える。

 斧の先端、リングユニットを前方に向ける。

 1歩、そしてさらにもう1歩。地を蹴るように踏み込み、駆け出す。

 迫る水弾は、高圧の針のように空間を裂いていた。

 それはただの水ではない。情報そのものを壊し、変質させる、浸蝕の弾丸。

 だが、リングが唸りを上げた。

 回転が加速する。

 霊子振動によって生まれる不可視の刃が、触れた弾丸を一つ残らず、粉砕し、解体し、否定する。

 水ですらなくなった。

 ただの無に還った飛沫が、風と共に散る。

 

 そのまま――リンデンは加速する。

 全身の筋力と補助ユニットを最大展開し、回転斧を携えて跳躍。

 その刃輪は、“なり損ない”の胴体へと向けられていた。

 だが――

 

「……っ!」

 

 踏み込みの直前、リンデンは強引に身体を捻った。

 反動で着地し、滑るように後方へ跳ぶ。

 直後、地面が破裂した。

 土の中から、水を纏った何かが飛び出す。

 水弾だった。

 ――不意打ち。

 

 ズズ……と、湿った土が盛り上がる。

 その隙間から、赤ん坊の頭が覗いた。

 白濁した皮膚。表情のない顔面。閉じられた目。

 そして、蠢く胴体――ナメクジのような粘液の体躯。

 這い出るのは、あれの“子機”。

 1体ではなかった。

 2体、3体……いや、もっと。

 地面が脈動するように、次々と子機が這い出してくる。

 

 土の中からだけではない。

 木々の上、蔦の間、瓦礫の影。

 粘液を滴らせながら、赤ん坊の頭部がずるずると顔を出す。

 

 そのすべてが、リンデンを見ていた。

 いや――“視ようとしていた”。

 

 リンデンの背中で、ナンナリスが駆動する。

 粒子のうねりが周囲に展開し、情報干渉の霊子膜が彼の身体を包む。

 存在の再定義。情報プロテクト。擬似的な自己重複生成。

 防衛シーケンス、起動。

 

 ――その瞬間。

 

 赤ん坊たちの目が、一斉に開いた。

 全ての“視線”が、リンデンを殺すための情報変換を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヘイロリウムが軋みを上げる。

 リンデンの腕から振り抜かれたそれは、音もなく空気を裂き、周囲を薙ぎ払った。

 斧の回転――いや、振動。

 霊子を砕く周波の波が空間そのものに作用し、地面を震わせ、蔦を千切り、そして迫る子機たちの身体を――

 

 砕断する。

 

 ぶしゅ、と鈍く湿った音が響く。

 赤ん坊の頭部が、胴体ごと分解され、弾けた。

 その破片すら、霧のように解けて消える。

 八方から襲いかかっていた水弾。

 リンデンはそれらに目を向けることすらなく、身体をほんのわずか傾けるだけで避けていく。

 旋回するリングの振動が、接触するより早くそれらを“消して”いた。

 すでに、動きは完全に読めている。

 反応速度も、精度も、何一つ誤差がない。

 まるで訓練用の仮想データを相手にしているかのようだった。

 

 返す刃。

 もう一度、ヘイロリウムを振るう。

 

 上空。

 枝の影に潜んでいた十数体の“赤ん坊”たち――。

 リンデンを見下ろしていたその顔ごと、樹木を軸から切断し、すべてまとめて分子崩壊させた。

 木々が倒れる音すらない。

 残されたのは、切断面すら存在しない、“蒸発”に近い静寂。

 

 林の中だったはずの空間が、一気に開ける。

 視界に残る敵影は、すでにほとんどない。

 辺りを埋め尽くしていた子機は、すでにすべて沈黙していた。

 赤ん坊の頭は、霧のように消えた。地面を這っていた胴体は、跡形もない。

 ざらついた湿気だけが、ただ残っている。

 リンデンは、無言のまま一歩を踏み出す。泥に沈んだ足が、ぬちりと音を立てた。

 目の前には、“なり損ない”がいる。その胴体には、まだ無数の掌が癒着していた。

 蠢く手のひらが一斉に反転し、彼へと向けられる。

 刹那、またあの音。

 

 ――ドン。

 

 重く、弾けるような音を伴って、水弾が一斉に撃ち出された。

 それはもはや壁だった。

 空間の一点を集中砲火で抉るように、水が幾重にも迫ってくる。

 だが、リンデンは立ち止まらなかった。

 ただ静かに、右手に携えたヘイロリウムをかざす。

 その先端部――リングユニットが、瞬間だけ振動周波を変化させた。

 高周波数の霊子振動が空間に放たれ、水弾へとぶつかる前に、その構造を破壊する。

 爆ぜることもなく、着弾することもなく、

 すべての水弾は、彼に届く寸前で消えた。

 

 ――まるで最初から、そこには何もなかったかのように。

 

 リンデンはさらに一歩、また一歩と進む。

 音が静かになっていく。

 倒壊した木々の匂いも、霧の中に飲まれていく。

 その中で、ふと、自分の中にあるものが顔を出す。

 違和感だった。

 ささくれのように、心のどこかに刺さる違和感。

 ヘイロリウムの回転音すら掻き消すほどに、それははっきりしていた。

 

 ――どうして、こんなに弱いのだ。

 

 殺到する水弾。

 破壊される子機。

 動きの鈍い“なり損ない”。

 以前の戦いでは、あれほど必死だった。

 仲間を失い、命を削り、最後の最後まで追い詰められた。

 あの戦場では、彼は“かろうじて生き残った”存在だった。

 だが今は――

 

 踏み込むたびに、敵は崩れた。

 攻撃はすべて読めた。

 守る必要すらない。

 ただ、進む。

 ただ、振るう。

 ただ、それだけで、全てが終わっていく。

 おかしい。

 何かが、決定的におかしい。

 

 ――自分は、こんなに強くなったのか?

 

 いや。そんなはずはない。

 訓練を重ねたわけでもない。

 戦闘能力が急激に伸びたわけでもない。

 あの戦いから、約1年。

 変わったのは――何だ?

 

 ――違う。

 違う、違う。

 強くなったんじゃない。

 これは、違う。

 彼はふと立ち止まる。

 そこには、なお蠢く“なり損ない”の巨躯。

 リンデンは、斧の柄を握り直した。

 次の一撃が、最終となる。

 それを、振りかざす前に――

 彼の胸中に、決定的な言葉が浮かんでいた。

 

 ――まさか。

 その言葉の続きを、口にするのが怖かった。

 もう一度、地を踏みしめた。

 ぬかるみが、ぐちりと鈍い音を立てて沈む。

 斧を握る腕には、戦闘による疲労ではない、奇妙な重みがまとわりついていた。

 

 ――違う。

 変わったのは、敵じゃない。

 変わったのは、“視点”だった。

 彼は、気づいてしまった。

 

 リンデンは、口を開いた。

 

「……なめているんですか」

 

 音は、まるで咎めるような低さだった。

 吐き捨てるように。許せない何かを、否定するように。

 だが、“なり損ない”は相変わらず笑っていた。

 感情の通じる相手ではない。

 母の顔はひび割れた仮面のように歪み、腕に抱かれた赤子の瞳は、ただ伏せられたままだ。

 

「まだ、奥の手があるんでしょう?」

「……あるんじゃないんですか?」

 

 声が震えた。

 怒りとも悲しみともつかない、濁った何かが、喉元に張り付いていた。

 それは否定だった。

 信じたくない、という祈りに似た問いだった。

 その言葉に応じるように、泡のように生えた複数の赤ん坊の目がリンデンを映す。

 ――瞬間。

 

 ジュッ、と音がした。

 

 焼ける音だった。

 発火でも、閃光でもない。

 網膜が、“焼かれた”音だった。

 赤ん坊の眼球がひとつ、またひとつと、静かに黒く焦げて潰れていく。

 生理的な反応ではない。

 エネルギー干渉だった。

 リンデンが行ったのは、赤ん坊たちの眼球に届いた“光”――そのすべてを、隔膜で取り込まれる前に強制的に熱へと変換し、焼き付けたのだ。

 視覚情報は、届かない。

 解析する暇すら与えられず、視る前に“目”が潰された。

 生えた眼は、すべて焼失した。

 敵は何も理解できず、リンデンだけがすべてを理解していた。

 静寂が落ちる。

 焼け落ちた赤ん坊の眼窩が、黒く、穴のようにこちらを向いている。

 斧を握る手が、震えていた。

 

 ――これが、答えだというのか。

 

 あの時、死んでいった仲間たち。

 何もできなかった自分。

 それでも必死に戦ったと、信じていた。

 だが今――

 

「……ふざけるな」

 

 声が、低く、漏れた。

 

「ふざけるなよ……!」

 

 それは敵に向けられた怒号ではなかった。

 この世界に。自分自身に。

 過去の全てに、向けられた怒りだった。

 斧が唸る。ヘイロリウムのリングユニットが最大振動を発生させ、軌道を描くように一閃。

 刹那。

 純水無躯の神――“なり損ない”は、悲鳴すら上げる間もなく、空気に溶けていった。

 輪を引くように、巨体の境界線が曖昧になっていく。

 霊子、肉体、情報。

 その全てが、剥がされ、裂かれ、解体されていく。

 崩れた顔の笑みも、抱かれていた赤子の形も、眼窩の焼け跡すら残さず、波紋のように――消えた。

 霧も、匂いも、音すら残らなかった。

 そこに在ったものは、ただの“静けさ”だけだった。

 

 それは――

 一番、あってほしくなかった答えの、決定的な証明だった。

 リンデンは、微動だにできなかった。

 両足は地に貼り付いたように動かず、目だけが、消えた空間を呆然と見つめていた。

 数秒の沈黙ののち。

 彼は、手にしていたヘイロリウムを――斧を。

 音を立てて、地面へ叩きつけた。

 

 ぶつかる鈍音。

 斧の重さが土に跳ね返り、刃の振動が散っていく。

 リングユニットがきぃ、と甲高く一度だけ回転し、動きを止めた。

 斧は跳ね、傾きながら泥の中へ半ば突き刺さる。

 だがリンデンは、もうそれに目を向けることすらしなかった。

 両膝が崩れる。

 泥に膝をつき、彼の身体が小さく、静かに折り畳まれていく。

 蹲る。

 そうする以外に、どうすればいいのか分からなかった。

 

 理解した。

 理解してしまった。

 この今も。

 これまでの任務も。

 全部だ。

 

 自分一人だったら、なんでもできた。

 どの任務も、一人で問題なかった。

 仲間がいてもいなくても、結末は変わらなかった。

 むしろ――

 

 味方が、一番の“邪魔”だった。

 

 誰も守れなかったのではない。

 守る必要がなかったのだ。

 “自分だけでよかった”。

 その現実が、喉の奥に突き刺さる。

 喉が震える。

 呼吸が喉を越えられない。

 嗚咽が、勝手に口から漏れ出した。

 

「……っ、ぁ……ぅ……ああ……」

 

 誰かを守るために創った、このヘイロリウム。

 盾にもなれるこの武器で、何度も防いできたはずだった。

 それなのに――

 

 一番、仲間を殺してきたのは。

 盾だった。

 《盾を持った自分》だった。

 最初から、斧でよかったのだ。

 最初から、守るものなど何もなかったのだ。

 

 守れるようになりたかった。

 だけど、その願いは最初から叶っていた。

 自分が動けば、すべて倒せた。

 敵を殺すためだけの力は、すでにあった。

 

 ……なら、なぜ。

 あの時、仲間は死んだ?

 なぜ、誰一人、救えなかった?

 

 答えは一つ。

 “無駄だった”。

 

 無駄死にだった。

 

 地面に突き立ったヘイロリウムを、誰も拾わない。

 霧の向こうに、誰の足音もない。

 廃棄物の死骸も、影も残らないその場所で、

 リンデンは、小さく蹲り、泥に濡れながら――ただ、震え続けた。

 

 

 

 

 ︎︎斥候としての任務が終わり、何か憑き物が落ちた――いや、憑き物ごと何かを落としてしまった表情をしたリンデンが、軍事局から身を離したのは、数日後の事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 照明の落とされた部屋には、青白い光だけが淡く滲んでいた。

 光源はひとつ――作業机の上に置かれたタブレット端末。

 その画面が、暗がりに沈む室内の輪郭をかろうじて縁取っている。

 机に身を預けるようにして、ソナタは眠っていた。

 背筋を丸め、腕に額を埋めるその姿は、第一騎士団《ブレイドライン》の“QUEEN”とは思えないほど脆く見えた。

 扉が軋むようにわずかに開き、誰かが静かに足を踏み入れる。

 物音に気付き、ソナタがゆっくりと顔を上げた。

 

「……風雅、か」

 

 目を細め、虚ろな視線で訪問者を認める。

 その顔には、厳格な騎士の仮面など微塵も残っていなかった。

 化粧の落ちた肌は青白く、瞼は泣き腫らしたように赤く膨らんでいる。

 目の下には隈が深く沈み、不老不死とは思えぬほどに、身体が限界を訴えていた。

 

「姫……酷い顔よ」

 

 風雅の声は、責めではなく哀しみを帯びていた。

 そのまま静かに歩を進めると、ソナタは返す言葉もなく、手元にあったタブレットを持ち上げ、無言のまま差し出す。

 

 画面に映っていたのは――廃棄物との戦闘ログだった。

 

 そこに記録されていたのは、全てを圧倒し、破壊し、

 それでも最後には、武器を捨て、膝をつき、泥の中で小さく身体を折り、ただ嗚咽と共に泣き崩れる、一人の青年の姿だった。

 

「これは……リンデン?」

 

 風雅の言葉が、呆然と漏れる。

 目の前にある映像が現実だと認識するまでに、時間がかかった。

 それほどまでに、彼の姿は痛ましく、そしてあまりに“普通の子供”のようだった。

 ソナタは、力の抜けたような微笑を浮かべた。

 しかしそこにあるのは優しさではない。

 すでに剣としての鋼を失い、息をするだけの存在となった者が、ぎりぎりで口元に形を作っただけの、名ばかりの“笑み”だった。

 

「……私が、この子を泣かせてしまった」

「この子に、取り返しのつかないことを、やらせてしまった」

 

 そう呟く声には、感情が抜け落ちていた。

 既に自分の罪を自分で裁き終えた者のように、淡々と、自動的に言葉が紡がれる。

 

「……あの子の強さは、私たちがよくわかってる。だからこそ私は、リンデンを最大限有効に使えるように、運用した」

 

 その声は、報告のようだった。

 自分自身にさえ言い訳を許さない、軍事局総指揮の口調。

 

「――あの子は、必死に誰かと生き延びようとしてた。仲間を救おうとしてた。だが、ダメなんだ……」

 

 ソナタの肩が小さく震えた。

 言葉の裏にある罪悪感が、感情として浮かび上がってくる。

 

「そもそも……この部隊編成に、リンデン以外が生き残れる余裕なんて、最初から作っていない」

「彼らは……あの子のストックだった。命の弾丸。あの子を運用するための材料だった……」

 

 “誰も守る必要がない状況”を作ったのではない。

 “守れないように組んだ編成”だったのだと、彼女は告白する。

 その事実は、リンデンの涙と、今のソナタ自身を、何よりも深く傷つけていた。

 

「リンデンが軍事局をやめた時……私は、あの子がもう苦しまなくていいと思った」

「でもそれよりも先に、私自身が……あの子を苦しめなくて済むと思って、安堵してた」

 

「ほんと……最低な女だ、私は」

 

 囁くように、言葉は零れた。

 風雅は、その言葉を静かに受け止めていた。

 その場で何かを語るには、あまりにも重すぎる後悔。

 部屋の空気すら、その重さに沈んでいた。

 彼女は拳をそっと握りしめる。

 爪が掌に食い込むほどに、きつくもなく、緩くもなく。

 

「……おだやかじゃ、ないわね」

 

 その呟きは、まるで風のように、ソナタの背を撫でて通り過ぎた。

 ほんの少しだけ間を置いて、風雅は静かに微笑んだ。

 そして、まっすぐな声で言葉を置く。

 

 「シドウが、シドウなりに……あの子を何とかするわ」

 「だから姫は、どうか……休んでちょうだい?」

 

 その声には、優しさだけでなく、確かな覚悟が宿っていた。

 あの子と、姫の罪まで背負わせない。

 ――そう語るような、“盾”の言葉だった。

 

 

 

 

 数日前、あの夜――部屋の片隅で、崩れ落ちるように懺悔を漏らした姫の姿が、今も風雅の胸に焼き付いて離れなかった。

 そして今日。

 風雅は静かに行動に出ていた。

 場所は対天使殲滅研究所・第12試験演習場。

 正式名称を持つその施設は、GARDENの中でも特に過酷な環境に最適化された試験空間。

 霊子の流れが不安定で、演算干渉も遮断されており、戦闘能力は“個”に委ねられる。

 そこに立つのは二人。

 一人は、紺を基調とした戦闘服に身を包んだ若き元軍事局庭師――リンデン。

 もう一人は、第一騎士団《ブレイドライン》の“FORTRESS”にして、剣聖と名高き少女――風雅だった。

 

「目的は明確よ」

 

 風雅は、己の心に言い聞かせるように言葉を刻んでいた。

 ――この子を強くする。

 もっと、深く、遠くへ届く強さを。

 そうすれば失うものも減る。

 犠牲を払わせる必要もなくなる。

 姫も、この子も、誰も苦しまなくなる。

 

 そのために――

 

「シドウが、シドウなりにあの子を何とかするわ」

 そう誓った自分の言葉に、責任を持つために。

 形式は、実戦方式。

 これは初めてのことではない。

 リンデンが軍事局に所属してから、これまでに数回だけ行われた形式だ。

 互いに“普段使いの得物”を用い、実際の殺し合いに限りなく近い条件で行う模擬戦。

 風雅は、ミリオンを抜いた。

 紅蓮と黒の太刀――その細身にして硬質な刀身が、演習場のわずかな霊子光を切り裂いて光る。

 対するリンデンは、斜めに構えた左腕へヘイロリウムを量子展開させる。

 盾形態。

 鈍く重い質量をもって現れたその盾は、先端にリングユニットを抱え、彼の全身を守るように構えられる。

 騎士と、魔剣の子。

 試験演習場の大気が、張り詰めた糸のように静まり返る。

 開始の号令は、誰の口からも発せられなかった。

 視線が交錯し、霊子が震えた瞬間――

 模擬戦は、始まった。

 

 

 紅蓮の軌跡が、空間を切り裂いた。

 風雅のミリオンが、光を纏って踏み出す斬撃と共に宙を奔る。

 その軌道を、リンデンのヘイロリウムが刃輪と共に受け止め、低く唸るような振動音を響かせた。

 火花が散る。霊子が弾ける。霧のように変換された残光が、二人の周囲を一瞬だけ彩る。

 激しい攻防。

 実戦形式とはいえ、手加減のない全力のぶつかり合い。

 踏み込み、跳躍し、切り返し、捌き、繋ぐ。

 その全てが洗練されていた。緻密で、理詰めで、淀みがない。

 

 ――確かに、この子は強くなった。

 

 そう、風雅は思った。

 疑いようもない。

 技巧の完成度も、反応速度も、全てが一流の水準を遥かに凌駕している。

 もはやただの優秀な戦士ではない。

 時代が違えば、英雄として語り継がれるに足る存在。

 その強さは、確かに“完成されていた”。

 

 だが、それだけだった。

 ただ一流を踏み越えただけ。

 ただ歴史の中に名を残す程度の“限界点”。

 そして――風雅はやはり、理解してしまった。

 この子の成長は、もう止まってしまっている。

 

 リンデンが軍事局に入る前からずっと。

 限界まで積み上げられた技術と反応。

 そこから先へ、伸びる余地はもう、残されていなかった。

 

 “頭打ち”――

 その言葉が、脳裏に鈍く響く。

 才能はもう使い切った。

 余地はない。可能性は閉じている。

 育ててきたカノンも、斬も、楓も――誰もが同じことを言っていた。

 

『これ以上は、もう伸びない』『完成してしまった』『成長の余白が、ない』

 

 ――やはり。

 やはりこの子は、ここまでだったのか。

 息を整えることもなく、風雅は流れるように動く。

 呼吸と同じ速度で、脚が滑り込み、太刀が弧を描いた。

 攻防が続いた模擬戦は、いつしか明確な差を見せはじめていた。

 風雅が主導権を奪い、リンデンのリズムを一つひとつ崩していく。

 斬撃が鋭さを増し、盾が受けきれなくなる。

 交差する剣と盾。

 だがその技術の差は、やがて徐々に、そして確実に埋まらぬ壁として姿を現していく。

 

 風雅が一撃を繰り出すたびに、リンデンの対応はわずかに遅れる。

 受けの角度が浅くなる。体勢の立て直しに一瞬の時間がかかる。

 風雅の太刀筋はそれを見逃さない。

 鋭さを増した刃が、斜めに、深く切り込んでいく。

 

 それでも――

 

「……まだ、です、姉さん……っ」

 

 息を切らしながら、それでもリンデンは言葉を投げた。

 その目に宿るのは、焦りでも諦めでもない。

 ただ、目の前の“強者”を超えようとする、まっすぐな意思。

 その声音に、一瞬だけ風雅の瞳が揺れた。

 

 ――ほんとうに、まっすぐなのね。

 

 まっすぐで、愚かで、そして……届かない。

 風雅は、さらに一歩、深く踏み込んだ。

 

「――甘い」

 

 逆袈裟に切り上げたミリオンの太刀筋が、内側からリンデンのヘイロリウムを跳ね上げる。

 盾の重量が、わずかに空へと逃げた。

 その瞬間、彼の身体は、完全に――無防備になった。

 

 

 世界が静かになった。

 すべての音が遠のき、脈動だけが風雅の中で響いていた。

 ミリオンが手の内で震える。

 袈裟に構えた刃の先端が、大気そのものを切り裂きながら沈む。

 霊子が暴れ、霧のように粒子が舞い、演習場の結界が音もなく微細に軋む。

 

 眼前。

 リンデンの身体は、完全に無防備だった。

 片膝をつき、盾は軌道を外れ、視線は刹那の遅れを孕んでいる。

 踏み込みさえすれば――。

 

 殺せる。

 

 邪念。けれどその確信が、風雅の思考に静かに、しかし濃密に染み込んできた。

 もし、ここで一刀を振り下ろせば。

 ミリオンは迷いなく肉を裂き、骨を断ち、心臓を両断する。

 抵抗も、悲鳴も、生存も、何も残らない。

 ただ――静かに、リンデンは“いなくなる”。

 

 ――それだけでいいのではないか。

 この青年が消えれば、ソナタはもう泣かなくて済む。

 あの隠しきれなかった隈も、伏せた目元も、震える声も、

 “弟”がいなければ、誰も生まれなかった痛みだった。

 

 そもそも弟など、最初からいなかったのだ。

 この感情が生まれるまでは。

 この重荷がGARDENに落ちるまでは。

 ブレイドラインも、あの子のいない“いつも通り”を保っていた。

 

 それなら――戻してしまえばいい。

 “無かったこと”にしてしまえばいい。

 この一撃に、すべてを込めれば。

 もう二度と、誰も彼を見て苦しまずに済む。

 

 風雅の呼吸が深くなる。

 胸の奥が、焼けるように痛い。

 なのに、ミリオンを握る手にはますます力がこもる。

 関節が軋み、刃が霊子を削りながら唸る。

 振るえば終わる。このまま、終われる。

 

 

 

 刹那――

 

『――お姉ちゃん?』

 

 声がした。

 

 空気のどこからともなく、脳の奥底から浮かび上がるように。

 風雅の心を内側から静かに、だが確実に揺らす“声”。

 それは記憶だった。

 いや、記憶以上の――罪。

 取り返しのつかない何かを、忘れようとして忘れきれなかった、最初の時間。

 

 小さなリンデン。

 あまりに小さく、頼りなく、不安そうに眉を寄せながら、

 自分の袖をぎゅっと掴んでいた、あの子。

 

 「お姉ちゃん」――そう呼ばれた、最初で最後の瞬間。

 

 誰よりも臆病で、誰よりも素直で、

 誰よりも必死に、“みんなに追いつこうとしていた”ただの子供。

 

 ――何をしてるの、シドウ。

 

 風雅の中で何かが、軋んだ音を立てて崩れた。

 殺意が消えたのではない。

 殺意の下に、別の何かが顔を出しただけだった。

 ミリオンを握る右手が、わずかに震える。

 呼吸が一拍、遅れる。

 刃筋が、狂った。

 風雅の足が、止まった。

 

「――っ!」

 

 だが、風雅の腕はそのまま走り抜けた。

 迷いが生んだ鈍さは、斬撃そのものを止めはしなかった。

 むしろ、“止まらなかった”という感覚の方が近い。

 振り抜かれたミリオンは、そのまま袈裟の軌道を描き――。

 

 肌を裂いた。

 

 まず、布が裂ける乾いた音がした。

 そのすぐ後に、肉が断たれる、重く、鈍く、湿った感触が、

 風雅の右腕から肩までを駆け上がった。

 刃が肉を押し込み、抵抗を受けながら、それでも進む。

 リンデンの身体が僅かに震えたのが、刃越しに伝わってきた。

 断面をこじ開けるように、鋭利なはずの太刀がゆっくりと侵入し、

 骨の縁をかすめ、熱を――温度を――血を、撒き散らした。

 

 感触が、腕に残る。

 確かに“人”を切ったという確信が、皮膚の奥で焼きついた。

 

 ――温かかった。

 

 刃の先端が抜けると同時に、何かが噴き出す。

 真っ赤な血液が、弾けるように舞った。

 音はなかった。

 斬撃の余波で空気が押し出され、かすかな風圧が生まれる。

 その風に乗って、飛び散った血が、風雅の頬に熱を残して触れた。

 

 目の前で、リンデンが崩れ落ちる。

 その光景は、すぐそこにあるのに、妙に遠かった。

 自分の手が何をしたのか、頭で理解しても、心が追いついてこない。

 ミリオンの刀身が、血に染まりきっている。

 赤黒く変色した刃先が、風雅の手元でゆっくりと傾いた。

 

 真っ直ぐに伸びていた青年の身体が、力を失い、音もなく床に倒れる。

 袈裟に大きく裂けた胸元。

 斬り口は深く、広く、そして……致命には、至らなかった。

 だが、風雅には、それが救いには思えなかった。

 

 あの瞬間、本気だった。

 迷ったとはいえ、殺す意思で踏み込んだのだ。

 ただ一つの幻が差し込まなければ、リンデンの命はここで終わっていた。

 

「っ――リンデン!」

 

 絶叫のような声が、空間を引き裂いた。

 ミリオンを手放すよりも早く、風雅は駆けた。

 泥を踏むような鈍い感覚が足元に残る。

 血飛沫が床に広がる中を滑り込むようにして膝をつき、

 震える手で、リンデンの身体を抱き起こす。

 

「ダメよ、ちゃんと息をして!」

 

 鼓動が、早鐘のように暴れている。

 風雅自身のものか、リンデンのものかすら、もう判別できない。

 でも、熱はあった。

 体温は――まだ、生きている。

 

「意識を手放さないで!」

 

 声が裏返る。

 言葉に恐怖が滲む。

 止血の術など、何度もやってきたはずだった。

 でも――今、思うように手が動かない。

 指先が震えて、力が入らない。

 胸の裂傷に手を当てる。

 霊子を集中させて、血管を締める。

 けれど圧迫すればするほど、熱いものが指の間からあふれてくる。

 リンデンの血が、風雅の服を染めていく。

 白い布が、真紅へと変わる。

 濡れたその感触が、どうしようもなく“現実”だった。

 ぬるく、鉄の匂いがする体温。

 このぬくもりを、失ってはならないと、風雅はようやく、ようやく理解した。

 







次回もアンチヘイトタグ光ります。

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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