注意:特定の人物のアンチ・ヘイトっぽいシーンあります。
あの任務から、ひと月ほどが経過していた。
内容には触れない。語る事もない。いつも通り始まり、いつも通り終わった。ただ、それだけだった。
そして今。
20歳を過ぎたリンデンは、再び一つの神域へと降り立っていた。
【融解神這遺跡アルダランビオン】
魔剣を破壊できずに永続神域化してしまった、軌道人類史の外側にある廃墟。
“神をつくろうとした痕跡”――その言葉が残された、重く、深い、沈黙の領域。
部隊員は、リンデンただ一人。
単独による斥候任務。
事前報告の段階で、それは当然のように組まれていた。
この地に再び降り立てる者は限られている。いや――ただの調査であれば、誰でもよかったのかもしれない。
だが、問題は「遭遇」だった。
リンデンは、覚えている。
以前ここで廃棄物と戦った。
神の形を模した“なり損ない”――あの巨大な、異質な、意味の通じない存在と。
その戦いで、仲間を一人、また一人と失った。
逃がすために、囮になるために、時間を稼ぐために――
全員が、彼の視界から一人ずつ消えていった。
そして最後。
どうにか撃退には成功した。だが、殺しきれはしなかった。
あれはまだ、この地に棲んでいるはずだ。
何も変わらない、変わりきらないまま、あの永続神域を彷徨い続けている。
今回の任務も、まさにその「名残」に触れるものだった。
アルダランビオンで調査を行っていた調査班と護衛班、その両方が消息を絶った。
回収されたログには、水音と、「水」という単語だけが断片的に残されていた。
報告によれば、ログの最後に映っていたのは霧と、影と、振り返った一瞬の“顔”。
――また、出たのだ。
あの、神にも成りきれなかった廃棄物が。
だからこそ、自分が選ばれた。
あの存在に対応できる者が、GARDENには一人だけいる。
前にあれと相対し、生き残った者が。
唯一、撃退という実績を持っている者が。
リンデンは、ただ無言のまま、アルダランビオンの深層へと足を踏み入れていく。
遺跡の奥へと進むにつれ、空気の質が変わっていく。
じめりとした湿気が、肌にまとわりつくように濃くなる。
――ああ。
この感触を、リンデンは知っていた。
嫌に水気を帯びた、澱んだ空気。
すべての音が、やや遅れて耳に届くような、霊子的な鈍重さを孕んだ領域。
確かに、あいつはここにいる。
確信へと変わったのは、その先に広がる光景だった。
純水。
何の混じり気もない、透き通った水溜まりが地面一面に広がっている。
澄んでいて、そして深い。
底など見えないのに、水面は不気味なほど静かだった。
何がこの“水”の元だったのかは、知る由もない。
天使かもしれない。あるいは、消息を絶ったガーデナーたちの痕跡かもしれない。
だが今そこにあるのは、「水」だけだった。
――ズルズル、ズル……。
遠くから、何かが這う音が響いた。
重く、粘つくような音。
水を引きずるような、粘膜を裂くような、耳にまとわりつく音。
ぴしゃ……ぴしゃ、と水の跳ねる音。
木々が折れる、草が踏み潰される、湿った地を這いずる何かの音。
それら全てが、過去を思い出させた。
あの時、仲間が一人、また一人と消えていった時のことを。
息を吸った。
冷たく、ぬるい水気が喉奥まで入り込んでくる。
それでも、リンデンは一歩、また一歩と奥へ進む。
足元の水が、小さく跳ねた。
音にしては小さい。だが、重かった。
まるでこの神域全体の水圧が、そこに一点だけ落ちたかのような質量を伴って。
湿度が、異常だった。
そこだけ、まるで空気が飽和している。
靄でも霧でもない、ただ“重さ”として存在している水気。
リンデンは、正面からそれを視認した。
――純水無躯の神。
あるいは、“なり損ない”。
あの時と変わらぬ姿だった。
ナメクジのように這いずる巨躯、癒着した人間たちの胴体、そのてっぺん――
魚眼レンズを歪ませたような、異様なまでに肥大した女性の笑顔。
その腕に、赤ん坊を抱いたまま固定された“母と子の彫像”。
……ただ、一つだけ違っていた。
あの時切りつけた、歪んだ女の顔に抱かれていた赤子。
その頭部から、泡のように分裂した無数の“赤ん坊の頭”が、生えていた。
あまりにも静かに。
まるで呼吸するかのように、ぶくぶくと、肉の泡が湧き出し、形を成し、また静止していた。
その目は、まだ開かれていなかった。
――まだ、“水にする”つもりはない。
だが、それはただの猶予だ。
眠っているのではない。“待っている”のだ。
リンデンは、沈黙を保ったままヘイロリウムを量子展開した。
白い光が、粒子の螺旋となって浮かび、重厚な盾が彼の腕に現れる。
続けて、中央下部のジョイントを押し込む。
機械的な軋みとともに、収納されていた柄が展開されていく。
盾から、斧へ。
防ぐものはない。
守るべき誰かもいない。
ならば最初から――斧でいい。
ヘイロリウムのリングユニットが、静かに回転を始める。
シュルル……と空気を切り裂く音。重い質量が巻き起こす振動が、手元から腕を伝って全身へと伝わっていく。
その音に反応するように、“なり損ない”が顔をゆっくりと傾けた。
ずるり、と巨体が湿った地を這い、リンデンのほうへと向かってくる。
――戦闘が、始まる。
ぶち、ぶち、ぶち、と。
不快な音が、腹の底を震わせる。
純水無躯の神、その膨れた胴体に癒着した無数の人間たち――
その手が、肉を引き裂くように一斉に動き始めた。
掌が開く。
すべての指先が、ばらばらに震えながらリンデンの方を向く。
そして、次の瞬間。
ドン、と。
弾けるような音ではなかった。
重い、爆ぜるような、だが乾いた“衝撃音”。
無数の掌が、超高圧に圧縮された水の弾丸を撃ち出した。
――迎え撃つ。
リンデンは瞬時にヘイロリウムを構える。
斧の先端、リングユニットを前方に向ける。
1歩、そしてさらにもう1歩。地を蹴るように踏み込み、駆け出す。
迫る水弾は、高圧の針のように空間を裂いていた。
それはただの水ではない。情報そのものを壊し、変質させる、浸蝕の弾丸。
だが、リングが唸りを上げた。
回転が加速する。
霊子振動によって生まれる不可視の刃が、触れた弾丸を一つ残らず、粉砕し、解体し、否定する。
水ですらなくなった。
ただの無に還った飛沫が、風と共に散る。
そのまま――リンデンは加速する。
全身の筋力と補助ユニットを最大展開し、回転斧を携えて跳躍。
その刃輪は、“なり損ない”の胴体へと向けられていた。
だが――
「……っ!」
踏み込みの直前、リンデンは強引に身体を捻った。
反動で着地し、滑るように後方へ跳ぶ。
直後、地面が破裂した。
土の中から、水を纏った何かが飛び出す。
水弾だった。
――不意打ち。
ズズ……と、湿った土が盛り上がる。
その隙間から、赤ん坊の頭が覗いた。
白濁した皮膚。表情のない顔面。閉じられた目。
そして、蠢く胴体――ナメクジのような粘液の体躯。
這い出るのは、あれの“子機”。
1体ではなかった。
2体、3体……いや、もっと。
地面が脈動するように、次々と子機が這い出してくる。
土の中からだけではない。
木々の上、蔦の間、瓦礫の影。
粘液を滴らせながら、赤ん坊の頭部がずるずると顔を出す。
そのすべてが、リンデンを見ていた。
いや――“視ようとしていた”。
リンデンの背中で、ナンナリスが駆動する。
粒子のうねりが周囲に展開し、情報干渉の霊子膜が彼の身体を包む。
存在の再定義。情報プロテクト。擬似的な自己重複生成。
防衛シーケンス、起動。
――その瞬間。
赤ん坊たちの目が、一斉に開いた。
全ての“視線”が、リンデンを殺すための情報変換を始めた。
ヘイロリウムが軋みを上げる。
リンデンの腕から振り抜かれたそれは、音もなく空気を裂き、周囲を薙ぎ払った。
斧の回転――いや、振動。
霊子を砕く周波の波が空間そのものに作用し、地面を震わせ、蔦を千切り、そして迫る子機たちの身体を――
砕断する。
ぶしゅ、と鈍く湿った音が響く。
赤ん坊の頭部が、胴体ごと分解され、弾けた。
その破片すら、霧のように解けて消える。
八方から襲いかかっていた水弾。
リンデンはそれらに目を向けることすらなく、身体をほんのわずか傾けるだけで避けていく。
旋回するリングの振動が、接触するより早くそれらを“消して”いた。
すでに、動きは完全に読めている。
反応速度も、精度も、何一つ誤差がない。
まるで訓練用の仮想データを相手にしているかのようだった。
返す刃。
もう一度、ヘイロリウムを振るう。
上空。
枝の影に潜んでいた十数体の“赤ん坊”たち――。
リンデンを見下ろしていたその顔ごと、樹木を軸から切断し、すべてまとめて分子崩壊させた。
木々が倒れる音すらない。
残されたのは、切断面すら存在しない、“蒸発”に近い静寂。
林の中だったはずの空間が、一気に開ける。
視界に残る敵影は、すでにほとんどない。
辺りを埋め尽くしていた子機は、すでにすべて沈黙していた。
赤ん坊の頭は、霧のように消えた。地面を這っていた胴体は、跡形もない。
ざらついた湿気だけが、ただ残っている。
リンデンは、無言のまま一歩を踏み出す。泥に沈んだ足が、ぬちりと音を立てた。
目の前には、“なり損ない”がいる。その胴体には、まだ無数の掌が癒着していた。
蠢く手のひらが一斉に反転し、彼へと向けられる。
刹那、またあの音。
――ドン。
重く、弾けるような音を伴って、水弾が一斉に撃ち出された。
それはもはや壁だった。
空間の一点を集中砲火で抉るように、水が幾重にも迫ってくる。
だが、リンデンは立ち止まらなかった。
ただ静かに、右手に携えたヘイロリウムをかざす。
その先端部――リングユニットが、瞬間だけ振動周波を変化させた。
高周波数の霊子振動が空間に放たれ、水弾へとぶつかる前に、その構造を破壊する。
爆ぜることもなく、着弾することもなく、
すべての水弾は、彼に届く寸前で消えた。
――まるで最初から、そこには何もなかったかのように。
リンデンはさらに一歩、また一歩と進む。
音が静かになっていく。
倒壊した木々の匂いも、霧の中に飲まれていく。
その中で、ふと、自分の中にあるものが顔を出す。
違和感だった。
ささくれのように、心のどこかに刺さる違和感。
ヘイロリウムの回転音すら掻き消すほどに、それははっきりしていた。
――どうして、こんなに弱いのだ。
殺到する水弾。
破壊される子機。
動きの鈍い“なり損ない”。
以前の戦いでは、あれほど必死だった。
仲間を失い、命を削り、最後の最後まで追い詰められた。
あの戦場では、彼は“かろうじて生き残った”存在だった。
だが今は――
踏み込むたびに、敵は崩れた。
攻撃はすべて読めた。
守る必要すらない。
ただ、進む。
ただ、振るう。
ただ、それだけで、全てが終わっていく。
おかしい。
何かが、決定的におかしい。
――自分は、こんなに強くなったのか?
いや。そんなはずはない。
訓練を重ねたわけでもない。
戦闘能力が急激に伸びたわけでもない。
あの戦いから、約1年。
変わったのは――何だ?
――違う。
違う、違う。
強くなったんじゃない。
これは、違う。
彼はふと立ち止まる。
そこには、なお蠢く“なり損ない”の巨躯。
リンデンは、斧の柄を握り直した。
次の一撃が、最終となる。
それを、振りかざす前に――
彼の胸中に、決定的な言葉が浮かんでいた。
――まさか。
その言葉の続きを、口にするのが怖かった。
もう一度、地を踏みしめた。
ぬかるみが、ぐちりと鈍い音を立てて沈む。
斧を握る腕には、戦闘による疲労ではない、奇妙な重みがまとわりついていた。
――違う。
変わったのは、敵じゃない。
変わったのは、“視点”だった。
彼は、気づいてしまった。
リンデンは、口を開いた。
「……なめているんですか」
音は、まるで咎めるような低さだった。
吐き捨てるように。許せない何かを、否定するように。
だが、“なり損ない”は相変わらず笑っていた。
感情の通じる相手ではない。
母の顔はひび割れた仮面のように歪み、腕に抱かれた赤子の瞳は、ただ伏せられたままだ。
「まだ、奥の手があるんでしょう?」
「……あるんじゃないんですか?」
声が震えた。
怒りとも悲しみともつかない、濁った何かが、喉元に張り付いていた。
それは否定だった。
信じたくない、という祈りに似た問いだった。
その言葉に応じるように、泡のように生えた複数の赤ん坊の目がリンデンを映す。
――瞬間。
ジュッ、と音がした。
焼ける音だった。
発火でも、閃光でもない。
網膜が、“焼かれた”音だった。
赤ん坊の眼球がひとつ、またひとつと、静かに黒く焦げて潰れていく。
生理的な反応ではない。
エネルギー干渉だった。
リンデンが行ったのは、赤ん坊たちの眼球に届いた“光”――そのすべてを、隔膜で取り込まれる前に強制的に熱へと変換し、焼き付けたのだ。
視覚情報は、届かない。
解析する暇すら与えられず、視る前に“目”が潰された。
生えた眼は、すべて焼失した。
敵は何も理解できず、リンデンだけがすべてを理解していた。
静寂が落ちる。
焼け落ちた赤ん坊の眼窩が、黒く、穴のようにこちらを向いている。
斧を握る手が、震えていた。
――これが、答えだというのか。
あの時、死んでいった仲間たち。
何もできなかった自分。
それでも必死に戦ったと、信じていた。
だが今――
「……ふざけるな」
声が、低く、漏れた。
「ふざけるなよ……!」
それは敵に向けられた怒号ではなかった。
この世界に。自分自身に。
過去の全てに、向けられた怒りだった。
斧が唸る。ヘイロリウムのリングユニットが最大振動を発生させ、軌道を描くように一閃。
刹那。
純水無躯の神――“なり損ない”は、悲鳴すら上げる間もなく、空気に溶けていった。
輪を引くように、巨体の境界線が曖昧になっていく。
霊子、肉体、情報。
その全てが、剥がされ、裂かれ、解体されていく。
崩れた顔の笑みも、抱かれていた赤子の形も、眼窩の焼け跡すら残さず、波紋のように――消えた。
霧も、匂いも、音すら残らなかった。
そこに在ったものは、ただの“静けさ”だけだった。
それは――
一番、あってほしくなかった答えの、決定的な証明だった。
リンデンは、微動だにできなかった。
両足は地に貼り付いたように動かず、目だけが、消えた空間を呆然と見つめていた。
数秒の沈黙ののち。
彼は、手にしていたヘイロリウムを――斧を。
音を立てて、地面へ叩きつけた。
ぶつかる鈍音。
斧の重さが土に跳ね返り、刃の振動が散っていく。
リングユニットがきぃ、と甲高く一度だけ回転し、動きを止めた。
斧は跳ね、傾きながら泥の中へ半ば突き刺さる。
だがリンデンは、もうそれに目を向けることすらしなかった。
両膝が崩れる。
泥に膝をつき、彼の身体が小さく、静かに折り畳まれていく。
蹲る。
そうする以外に、どうすればいいのか分からなかった。
理解した。
理解してしまった。
この今も。
これまでの任務も。
全部だ。
自分一人だったら、なんでもできた。
どの任務も、一人で問題なかった。
仲間がいてもいなくても、結末は変わらなかった。
むしろ――
味方が、一番の“邪魔”だった。
誰も守れなかったのではない。
守る必要がなかったのだ。
“自分だけでよかった”。
その現実が、喉の奥に突き刺さる。
喉が震える。
呼吸が喉を越えられない。
嗚咽が、勝手に口から漏れ出した。
「……っ、ぁ……ぅ……ああ……」
誰かを守るために創った、このヘイロリウム。
盾にもなれるこの武器で、何度も防いできたはずだった。
それなのに――
一番、仲間を殺してきたのは。
盾だった。
《盾を持った自分》だった。
最初から、斧でよかったのだ。
最初から、守るものなど何もなかったのだ。
守れるようになりたかった。
だけど、その願いは最初から叶っていた。
自分が動けば、すべて倒せた。
敵を殺すためだけの力は、すでにあった。
……なら、なぜ。
あの時、仲間は死んだ?
なぜ、誰一人、救えなかった?
答えは一つ。
“無駄だった”。
無駄死にだった。
地面に突き立ったヘイロリウムを、誰も拾わない。
霧の向こうに、誰の足音もない。
廃棄物の死骸も、影も残らないその場所で、
リンデンは、小さく蹲り、泥に濡れながら――ただ、震え続けた。
︎︎斥候としての任務が終わり、何か憑き物が落ちた――いや、憑き物ごと何かを落としてしまった表情をしたリンデンが、軍事局から身を離したのは、数日後の事だった。
照明の落とされた部屋には、青白い光だけが淡く滲んでいた。
光源はひとつ――作業机の上に置かれたタブレット端末。
その画面が、暗がりに沈む室内の輪郭をかろうじて縁取っている。
机に身を預けるようにして、ソナタは眠っていた。
背筋を丸め、腕に額を埋めるその姿は、第一騎士団《ブレイドライン》の“QUEEN”とは思えないほど脆く見えた。
扉が軋むようにわずかに開き、誰かが静かに足を踏み入れる。
物音に気付き、ソナタがゆっくりと顔を上げた。
「……風雅、か」
目を細め、虚ろな視線で訪問者を認める。
その顔には、厳格な騎士の仮面など微塵も残っていなかった。
化粧の落ちた肌は青白く、瞼は泣き腫らしたように赤く膨らんでいる。
目の下には隈が深く沈み、不老不死とは思えぬほどに、身体が限界を訴えていた。
「姫……酷い顔よ」
風雅の声は、責めではなく哀しみを帯びていた。
そのまま静かに歩を進めると、ソナタは返す言葉もなく、手元にあったタブレットを持ち上げ、無言のまま差し出す。
画面に映っていたのは――廃棄物との戦闘ログだった。
そこに記録されていたのは、全てを圧倒し、破壊し、
それでも最後には、武器を捨て、膝をつき、泥の中で小さく身体を折り、ただ嗚咽と共に泣き崩れる、一人の青年の姿だった。
「これは……リンデン?」
風雅の言葉が、呆然と漏れる。
目の前にある映像が現実だと認識するまでに、時間がかかった。
それほどまでに、彼の姿は痛ましく、そしてあまりに“普通の子供”のようだった。
ソナタは、力の抜けたような微笑を浮かべた。
しかしそこにあるのは優しさではない。
すでに剣としての鋼を失い、息をするだけの存在となった者が、ぎりぎりで口元に形を作っただけの、名ばかりの“笑み”だった。
「……私が、この子を泣かせてしまった」
「この子に、取り返しのつかないことを、やらせてしまった」
そう呟く声には、感情が抜け落ちていた。
既に自分の罪を自分で裁き終えた者のように、淡々と、自動的に言葉が紡がれる。
「……あの子の強さは、私たちがよくわかってる。だからこそ私は、リンデンを最大限有効に使えるように、運用した」
その声は、報告のようだった。
自分自身にさえ言い訳を許さない、軍事局総指揮の口調。
「――あの子は、必死に誰かと生き延びようとしてた。仲間を救おうとしてた。だが、ダメなんだ……」
ソナタの肩が小さく震えた。
言葉の裏にある罪悪感が、感情として浮かび上がってくる。
「そもそも……この部隊編成に、リンデン以外が生き残れる余裕なんて、最初から作っていない」
「彼らは……あの子のストックだった。命の弾丸。あの子を運用するための材料だった……」
“誰も守る必要がない状況”を作ったのではない。
“守れないように組んだ編成”だったのだと、彼女は告白する。
その事実は、リンデンの涙と、今のソナタ自身を、何よりも深く傷つけていた。
「リンデンが軍事局をやめた時……私は、あの子がもう苦しまなくていいと思った」
「でもそれよりも先に、私自身が……あの子を苦しめなくて済むと思って、安堵してた」
「ほんと……最低な女だ、私は」
囁くように、言葉は零れた。
風雅は、その言葉を静かに受け止めていた。
その場で何かを語るには、あまりにも重すぎる後悔。
部屋の空気すら、その重さに沈んでいた。
彼女は拳をそっと握りしめる。
爪が掌に食い込むほどに、きつくもなく、緩くもなく。
「……おだやかじゃ、ないわね」
その呟きは、まるで風のように、ソナタの背を撫でて通り過ぎた。
ほんの少しだけ間を置いて、風雅は静かに微笑んだ。
そして、まっすぐな声で言葉を置く。
「シドウが、シドウなりに……あの子を何とかするわ」
「だから姫は、どうか……休んでちょうだい?」
その声には、優しさだけでなく、確かな覚悟が宿っていた。
あの子と、姫の罪まで背負わせない。
――そう語るような、“盾”の言葉だった。
数日前、あの夜――部屋の片隅で、崩れ落ちるように懺悔を漏らした姫の姿が、今も風雅の胸に焼き付いて離れなかった。
そして今日。
風雅は静かに行動に出ていた。
場所は対天使殲滅研究所・第12試験演習場。
正式名称を持つその施設は、GARDENの中でも特に過酷な環境に最適化された試験空間。
霊子の流れが不安定で、演算干渉も遮断されており、戦闘能力は“個”に委ねられる。
そこに立つのは二人。
一人は、紺を基調とした戦闘服に身を包んだ若き元軍事局庭師――リンデン。
もう一人は、第一騎士団《ブレイドライン》の“FORTRESS”にして、剣聖と名高き少女――風雅だった。
「目的は明確よ」
風雅は、己の心に言い聞かせるように言葉を刻んでいた。
――この子を強くする。
もっと、深く、遠くへ届く強さを。
そうすれば失うものも減る。
犠牲を払わせる必要もなくなる。
姫も、この子も、誰も苦しまなくなる。
そのために――
「シドウが、シドウなりにあの子を何とかするわ」
そう誓った自分の言葉に、責任を持つために。
形式は、実戦方式。
これは初めてのことではない。
リンデンが軍事局に所属してから、これまでに数回だけ行われた形式だ。
互いに“普段使いの得物”を用い、実際の殺し合いに限りなく近い条件で行う模擬戦。
風雅は、ミリオンを抜いた。
紅蓮と黒の太刀――その細身にして硬質な刀身が、演習場のわずかな霊子光を切り裂いて光る。
対するリンデンは、斜めに構えた左腕へヘイロリウムを量子展開させる。
盾形態。
鈍く重い質量をもって現れたその盾は、先端にリングユニットを抱え、彼の全身を守るように構えられる。
騎士と、魔剣の子。
試験演習場の大気が、張り詰めた糸のように静まり返る。
開始の号令は、誰の口からも発せられなかった。
視線が交錯し、霊子が震えた瞬間――
模擬戦は、始まった。
紅蓮の軌跡が、空間を切り裂いた。
風雅のミリオンが、光を纏って踏み出す斬撃と共に宙を奔る。
その軌道を、リンデンのヘイロリウムが刃輪と共に受け止め、低く唸るような振動音を響かせた。
火花が散る。霊子が弾ける。霧のように変換された残光が、二人の周囲を一瞬だけ彩る。
激しい攻防。
実戦形式とはいえ、手加減のない全力のぶつかり合い。
踏み込み、跳躍し、切り返し、捌き、繋ぐ。
その全てが洗練されていた。緻密で、理詰めで、淀みがない。
――確かに、この子は強くなった。
そう、風雅は思った。
疑いようもない。
技巧の完成度も、反応速度も、全てが一流の水準を遥かに凌駕している。
もはやただの優秀な戦士ではない。
時代が違えば、英雄として語り継がれるに足る存在。
その強さは、確かに“完成されていた”。
だが、それだけだった。
ただ一流を踏み越えただけ。
ただ歴史の中に名を残す程度の“限界点”。
そして――風雅はやはり、理解してしまった。
この子の成長は、もう止まってしまっている。
リンデンが軍事局に入る前からずっと。
限界まで積み上げられた技術と反応。
そこから先へ、伸びる余地はもう、残されていなかった。
“頭打ち”――
その言葉が、脳裏に鈍く響く。
才能はもう使い切った。
余地はない。可能性は閉じている。
育ててきたカノンも、斬も、楓も――誰もが同じことを言っていた。
『これ以上は、もう伸びない』『完成してしまった』『成長の余白が、ない』
――やはり。
やはりこの子は、ここまでだったのか。
息を整えることもなく、風雅は流れるように動く。
呼吸と同じ速度で、脚が滑り込み、太刀が弧を描いた。
攻防が続いた模擬戦は、いつしか明確な差を見せはじめていた。
風雅が主導権を奪い、リンデンのリズムを一つひとつ崩していく。
斬撃が鋭さを増し、盾が受けきれなくなる。
交差する剣と盾。
だがその技術の差は、やがて徐々に、そして確実に埋まらぬ壁として姿を現していく。
風雅が一撃を繰り出すたびに、リンデンの対応はわずかに遅れる。
受けの角度が浅くなる。体勢の立て直しに一瞬の時間がかかる。
風雅の太刀筋はそれを見逃さない。
鋭さを増した刃が、斜めに、深く切り込んでいく。
それでも――
「……まだ、です、姉さん……っ」
息を切らしながら、それでもリンデンは言葉を投げた。
その目に宿るのは、焦りでも諦めでもない。
ただ、目の前の“強者”を超えようとする、まっすぐな意思。
その声音に、一瞬だけ風雅の瞳が揺れた。
――ほんとうに、まっすぐなのね。
まっすぐで、愚かで、そして……届かない。
風雅は、さらに一歩、深く踏み込んだ。
「――甘い」
逆袈裟に切り上げたミリオンの太刀筋が、内側からリンデンのヘイロリウムを跳ね上げる。
盾の重量が、わずかに空へと逃げた。
その瞬間、彼の身体は、完全に――無防備になった。
世界が静かになった。
すべての音が遠のき、脈動だけが風雅の中で響いていた。
ミリオンが手の内で震える。
袈裟に構えた刃の先端が、大気そのものを切り裂きながら沈む。
霊子が暴れ、霧のように粒子が舞い、演習場の結界が音もなく微細に軋む。
眼前。
リンデンの身体は、完全に無防備だった。
片膝をつき、盾は軌道を外れ、視線は刹那の遅れを孕んでいる。
踏み込みさえすれば――。
殺せる。
邪念。けれどその確信が、風雅の思考に静かに、しかし濃密に染み込んできた。
もし、ここで一刀を振り下ろせば。
ミリオンは迷いなく肉を裂き、骨を断ち、心臓を両断する。
抵抗も、悲鳴も、生存も、何も残らない。
ただ――静かに、リンデンは“いなくなる”。
――それだけでいいのではないか。
この青年が消えれば、ソナタはもう泣かなくて済む。
あの隠しきれなかった隈も、伏せた目元も、震える声も、
“弟”がいなければ、誰も生まれなかった痛みだった。
そもそも弟など、最初からいなかったのだ。
この感情が生まれるまでは。
この重荷がGARDENに落ちるまでは。
ブレイドラインも、あの子のいない“いつも通り”を保っていた。
それなら――戻してしまえばいい。
“無かったこと”にしてしまえばいい。
この一撃に、すべてを込めれば。
もう二度と、誰も彼を見て苦しまずに済む。
風雅の呼吸が深くなる。
胸の奥が、焼けるように痛い。
なのに、ミリオンを握る手にはますます力がこもる。
関節が軋み、刃が霊子を削りながら唸る。
振るえば終わる。このまま、終われる。
刹那――
『――お姉ちゃん?』
声がした。
空気のどこからともなく、脳の奥底から浮かび上がるように。
風雅の心を内側から静かに、だが確実に揺らす“声”。
それは記憶だった。
いや、記憶以上の――罪。
取り返しのつかない何かを、忘れようとして忘れきれなかった、最初の時間。
小さなリンデン。
あまりに小さく、頼りなく、不安そうに眉を寄せながら、
自分の袖をぎゅっと掴んでいた、あの子。
「お姉ちゃん」――そう呼ばれた、最初で最後の瞬間。
誰よりも臆病で、誰よりも素直で、
誰よりも必死に、“みんなに追いつこうとしていた”ただの子供。
――何をしてるの、シドウ。
風雅の中で何かが、軋んだ音を立てて崩れた。
殺意が消えたのではない。
殺意の下に、別の何かが顔を出しただけだった。
ミリオンを握る右手が、わずかに震える。
呼吸が一拍、遅れる。
刃筋が、狂った。
風雅の足が、止まった。
「――っ!」
だが、風雅の腕はそのまま走り抜けた。
迷いが生んだ鈍さは、斬撃そのものを止めはしなかった。
むしろ、“止まらなかった”という感覚の方が近い。
振り抜かれたミリオンは、そのまま袈裟の軌道を描き――。
肌を裂いた。
まず、布が裂ける乾いた音がした。
そのすぐ後に、肉が断たれる、重く、鈍く、湿った感触が、
風雅の右腕から肩までを駆け上がった。
刃が肉を押し込み、抵抗を受けながら、それでも進む。
リンデンの身体が僅かに震えたのが、刃越しに伝わってきた。
断面をこじ開けるように、鋭利なはずの太刀がゆっくりと侵入し、
骨の縁をかすめ、熱を――温度を――血を、撒き散らした。
感触が、腕に残る。
確かに“人”を切ったという確信が、皮膚の奥で焼きついた。
――温かかった。
刃の先端が抜けると同時に、何かが噴き出す。
真っ赤な血液が、弾けるように舞った。
音はなかった。
斬撃の余波で空気が押し出され、かすかな風圧が生まれる。
その風に乗って、飛び散った血が、風雅の頬に熱を残して触れた。
目の前で、リンデンが崩れ落ちる。
その光景は、すぐそこにあるのに、妙に遠かった。
自分の手が何をしたのか、頭で理解しても、心が追いついてこない。
ミリオンの刀身が、血に染まりきっている。
赤黒く変色した刃先が、風雅の手元でゆっくりと傾いた。
真っ直ぐに伸びていた青年の身体が、力を失い、音もなく床に倒れる。
袈裟に大きく裂けた胸元。
斬り口は深く、広く、そして……致命には、至らなかった。
だが、風雅には、それが救いには思えなかった。
あの瞬間、本気だった。
迷ったとはいえ、殺す意思で踏み込んだのだ。
ただ一つの幻が差し込まなければ、リンデンの命はここで終わっていた。
「っ――リンデン!」
絶叫のような声が、空間を引き裂いた。
ミリオンを手放すよりも早く、風雅は駆けた。
泥を踏むような鈍い感覚が足元に残る。
血飛沫が床に広がる中を滑り込むようにして膝をつき、
震える手で、リンデンの身体を抱き起こす。
「ダメよ、ちゃんと息をして!」
鼓動が、早鐘のように暴れている。
風雅自身のものか、リンデンのものかすら、もう判別できない。
でも、熱はあった。
体温は――まだ、生きている。
「意識を手放さないで!」
声が裏返る。
言葉に恐怖が滲む。
止血の術など、何度もやってきたはずだった。
でも――今、思うように手が動かない。
指先が震えて、力が入らない。
胸の裂傷に手を当てる。
霊子を集中させて、血管を締める。
けれど圧迫すればするほど、熱いものが指の間からあふれてくる。
リンデンの血が、風雅の服を染めていく。
白い布が、真紅へと変わる。
濡れたその感触が、どうしようもなく“現実”だった。
ぬるく、鉄の匂いがする体温。
このぬくもりを、失ってはならないと、風雅はようやく、ようやく理解した。
次回もアンチヘイトタグ光ります。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
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ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
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息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
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叡智閑話
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イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった