みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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ソロガーデナーと行方.1

 

 無人となった観測拠点の建物が、鈍く軋んだあとで音を立てて崩れ落ちた。

 それは老朽化による自然な崩落ではない。明確に、意図された破壊の音だった。建物の基礎構造――空間を支えていた支柱そのものが、内部から砕け、折られ、粉々にされた。

 断続的に響く崩壊音。鉄骨が潰れ、壁面が剥落し、ひとつの拠点が確かに消えていく。

 その音を、リンデンは静かに聞いていた。

 足元の土は乾ききってひび割れていたが、風はどこか濡れた匂いを運んでいた。粉塵を巻き込みながら吹き寄せる風が、建物の崩壊と共に生まれ、リンデンの立つ地点に向かってなだれ込んでくる。

 けれど粉塵は、彼に触れることはなかった。

 彼の半径数メートルの空間に侵入した瞬間、それらは霧散した。まるで粒子そのものが、世界から剥ぎ取られるように分解された。視認できるものとできないものが、何かの理に従って消えていく。

 

 残された風だけが、リンデンの身体を撫でた。

 灰色の汎用式ダイブギアスーツの上に羽織った、重厚な外套。そのフードがふわりと揺れ、フードの隙間、そして肩から腰にかけて編み下ろされた太く長い三つ編みも、風に押されて小さくなびいた。

 戦闘のためでも、威圧のためでもない。ただ「生存のため」に最適化された衣装。その上から彼が身に着けた外套だけが、どこか人の気配を残している。

 その沈黙のなかに、命だけが灯っていた。

 彼は微動だにせず、ただ瓦礫と歪んだ空間を見つめていた。

 

 ――けれど、その風景は長くは続かなかった。

 

 建物の崩落を最後まで見ることはなかった。

 一瞬のうちに、世界そのものが切り替わった。

 先ほどまで崩落していた建築群は消え去り、代わりに広がったのは、閑静な一面の花畑だった。

 足元の土はやわらかく、色とりどりの花々が風に揺れ、空気には奇妙なまでに純粋な香りが漂っていた。

 遠く、丘崖がいくつも折り重なるその合間から、濁った白色の月が顔を覗かせている。現実離れしたほどに大きく、地上へ堕ちてきそうなほど近かった。

 

 この場所に、連続性は存在しない。

 ――ここは、混沌神域領界《無銘》。

 

 かつて発生した数多の神域。そして、誰にも選ばれなかった仮想人類史たちの、辻褄合わせのしわ寄せ。

 滅び、棄てられ、忘れられたその記録が、理由もなく想起され続ける領域。

 ここは、その外周部にあたる。

 生者も死者もなく、始まりも終わりもない。

 ただこの星が、見たくもない過去を、繰り返し夢に見るかのように――。

 リンデンは、静かに歩き出した。

 硬質なダイブギアスーツの足裏が、花弁を散らさぬまま地を踏みしめる。色とりどりの花々は、まるで彼の存在を認識していないかのように風に揺れ、沈黙を保っていた。

 ここに音はない。重力すらあやふやで、陽も風も明確な方向を持たない。

 ――だからこそ、次の音は明瞭だった。

 

『……こちら個別管制、リーインシア。リンデンくん、応答をお願いします』

 

 微かに軋むようなノイズのあと、通信が割り込む。

 その声が耳へ届く前に、リンデンはすでに動きを止めていた。

 ゆっくりと、フードの内側で瞳が動く。

 淡く黒紅に沈んだ目が、花畑の向こうに目をやった。

 通信は続く。声の調子は落ち着いていて、冷静で、それでいてほんの少しだけ――祈るような揺らぎを含んでいた。

 

『現在座標、神域座標A7-μからC9-εへと変動を確認。構成空間が約21.4秒前に入れ替わりました。

 ……継続して、無銘外周部の断続記憶領域に滞在中。実体情報、安定。霊子値変動、臨界未到』

 

 いつもの報告だった。

 無駄がなく、冷静で、リンデンの命を支えるすべてがその中に詰まっていた。

 彼はほんの数秒、何も言わずに沈黙を保つ。

 そしてゆっくりと、口を開いた。

 

「……聞こえています。通信、良好です」

 

 それだけの返答。

 それだけで、リーインシアはきっと、少しだけ安堵するのだろう。

 

『……現在地点、ルートB-23の外周座標。重複する観測データの断片性を確認……やはり、無銘の記憶帯は安定していないようです。再構成現象、断続中』

 

 変わらない声。変わらない調子。

 だが、その裏に潜む不確実性は――この領域に足を踏み入れた者すべてが知っていた。

 リンデンの任務は、混沌神域領界《無銘》の外周に点在する降下ルートの確認と、侵攻ポイントの安定維持。

 今、彼がいるこの場所は、“深淵”へと至る数少ない足場のひとつだ。

 崩壊と生成を繰り返す神域《無銘》。

 その構造を“解読”することは、この世界の本質――魔界や神域、さらにはかつての人類史にまつわる秘密を解き明かす鍵とされていた。

 GARDENではこの一連の作戦を、「伝承戦」と呼んでいる。

 

『現在の分析進行度、63%。ルートB-23の構造特性は一定以上の安定性を確認済み。……予定通り、リンデンくんの任務完了時に伝承解読班が降下します』

 

 つまり、彼の作業が終わった瞬間から、次の“戦争”が始まる。

 騎士団が、神域の深部へと踏み込む。

 そこに至るための、最初の一歩を確かめること――それが、今の彼の仕事だった。

 

『……疲れていませんか?』

 

 ふいに、いつもよりわずかに小さな声が、通信の向こうから届いた。

 リンデンは少しだけ視線を落とした。

 目の前に広がる花畑が、風もないのにわずかに揺れている気がした。現実か錯覚か、その判別さえ曖昧になる場所だった。

 

「……私は、大丈夫です」

 

 それだけを、丁寧に返す。

 感情の起伏はない。だが、その声音には無理をしているわけでも、拒絶しているわけでもない、ただ淡く、冷静な“報告”の色があった。

 その言葉が、彼にとっての精一杯なのだと――リーインシアは、おそらく分かっている。

 

『……了解しました』

 

 短く、それでも優しい調子の返答が、通信を通じて還ってくる。

 彼女の声だけが、今この世界で唯一、リンデンに届く現実だった。

 やがて通信が静かに途切れると、再び世界は――沈黙の中に沈んだ。

 

 光の当たり方が少しだけ変わっていた。

 空の色は変わらない。風も、月も、同じ場所にあるように見える。

 けれど確かに、いくつかの花の色が、さっきよりも少しだけ濃くなっていた。

 世界は常に“別の記憶”にすり替わっている。

 少しずつ、少しずつ、違う過去が再生される。

 リンデンはひとつ息をつき、歩き出す。

 外套の裾が僅かに揺れ、硬質な足音が、誰も存在しない花畑に淡く響いた。

 まるで彼の存在だけが、滅びた記憶を踏みしめているかのように。

 彼は進む。

 再構成される神域の縁をなぞるように。

 騎士たちの伝承戦が始まる、その前に――“道”をつくる者として。

 

 

 

 

 

 世界は、ようやく静止していた。

 歪みも記憶の再構成も、今は止んでいる。

 リンデンは断崖に近い岩盤地帯に立ち、目の前の空を見上げていた。

 地上を遠く離れた、高高度領域。空はどこまでも薄く、太陽も月も同時に空に浮かんでいたが、その両方がほとんど“意味”を持っていないように見えた。

 手元の端末が小さく音を鳴らし、調査ログの最終保存が完了したことを告げる。

 リンデンは静かに操作を終え、端末を腰のホルダーへと戻した。

 すぐに、上空からわずかな振動が伝わってくる。

 霊子反応の軌道が、大気中を擦るように近づいてきた。

 空を割って、影が降りてくる。

 無銘の外周に用意された、唯一の降下ルート――その空路に沿って、巨大な機体がゆっくりと姿を現した。

 GARDENのエンブレムを掲げた、戦略輸送機。

 その腹部には、騎士団と伝承解読班を乗せたコンテナブロックが連結されている。

 さらに機体側面には、リンデンのための小型帰還艇が磁気フックで結合されていた。

 任務は終わった。

 次は、彼ら(兄姉)の番だ。

 

 輸送機は空中で一度、低くうなりを上げるようにホバリングを維持した。

 霊子反応を纏うその巨大な胴体が、空間の密度を一瞬歪める。足場となる岩盤地帯の上に、仮設の着陸パッドが自動展開されると、機体は僅かな姿勢調整の末、ゆっくりと地へと降り立った。

 接地と同時に、機体側面――磁気フックで接続されていた小型の帰還艇が、自動解放プログラムによりゆっくりと地面へ降ろされる。音は最小限。振動もほとんどない。

 

 輸送機の腹部から、搭乗コンテナのロックが解除され、開口部がせり上がる。

 同時に、帰還艇の乗降口も横へとスライドし、音もなく開いた。

 降下作戦の開始だった。

 最初に地へ足を降ろしたのは、解読班の分析員たち。仮想記録媒体を格納したポッドケースを背負い、無機質な視線で周囲の霊子濃度を測定している。

 その後に続いたのは、騎士団の者たち――リンデンの“兄姉”たちだった。

 彼らは誰もが、純白のダイブギアスーツを身に纏っていた。

 特別な機材は持っていない。代わりに、それぞれの腰や背に収められた武装が、彼らの存在そのものを語っていた。

 

 リンデンは、それを遠巻きに見ていた。

 目を伏せ、彼らの視線を避けるように、足を動かす。

 誰にも知られずに、誰にも気づかれずに、静かに帰還艇のタラップを上がっていく。

 彼の存在が、ここにあったことすら――彼らは知らない。

 それは任務上の規則でもあり、彼自身が望んだ距離でもあった。

 帰還艇の中は無人だった。すでに起動シーケンスが走っており、彼が乗り込むのを待っている。

 無言のまま、彼はコクピット側の補助席に腰を下ろす。安全装置が自動的に展開され、彼の身体を拘束する。

 扉が、ゆっくりと閉まり始めた。

 

 だがその瞬間――ふと、空気の揺らぎが背中に触れた。

 視線を向けずとも分かる、“蒼”の気配。

 搭乗コンテナの端。

 そこに立っていたのは、一人の少女だった。

 純白のダイブギアスーツに身を包み、腰まで届く蒼の髪が、微かに風に揺れている。

 彼女の背には、黒く鈍く光を帯びた武装――聖弓であり、双剣でもある《ベルガンテ》が静かに収められていた。

 

 ブルー。

 コンテナの一段上から、じっとリンデンを見つめている。

 言葉はない。だが、双眸の“青”だけが、はっきりと彼を追っていた。

 帰還艇の扉が、完全に閉まりきるその瞬間まで――彼女は、微動だにせず、ただその目で彼を見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帰還艇がGARDENの第八層・発着ポートに着陸したのは、滅亡神域からの離脱から約二時間後だった。

 着陸シークエンスは静かだった。

 機体が霊子ベイに接続され、ハッチ周囲の気圧が均される。低く沈んだ機械音と共に、タラップがゆっくりと展開された。

 最初に外気へ触れたのは、リンデンの外套の裾だった。

 硬質な床材を踏みしめながら、彼は静かにタラップを降りてくる。

 ダイブギアスーツの上に羽織った外套は、帰還中にかすかに付着した灰塵の名残を残していた。

 その身に帯びた空気は、まだ完全には“此方側”に戻ってきていないような、薄い異質さをまとっている。

 

 だが、彼を出迎えるその人は、それを決して拒まなかった。

 発着区画の所定位置――帰還機から数メートル離れた場所に、ひとりの女性が立っていた。

 胸にバインダーを抱え、姿勢はまっすぐに。

 長い睫毛の下、茶色の瞳がタラップを降りてくる彼をまっすぐに見つめている。

 リーインシア・ハウゼン。

 アッシュグレーの髪。その中で、前髪と後ろ髪の一部に入れられた、黒に近い緑のメッシュが、通気システムの風に揺れる。

 白衣にも似たオペレータースーツの胸元には、彼の帰還を確認したサインが点灯していた。

 リンデンは無言のまま、彼女の前で立ち止まる。

 ふたりの間には、一定の距離が保たれていた。けれど――その距離が遠いとは、どちらも感じていなかった。

 

「……おかえりなさい、リンデンくん」

 

 バインダーを抱えたまま、リーインシアが穏やかに微笑む。

 過度な感情を含まず、けれど確かに“安堵”が宿ったその声は、発着ポートの冷えた空気に優しく滲んだ。

 リンデンはほんの一瞬だけ、その言葉を受け止めるように目を伏せた。

 そして小さく、息を吸うようにして答える。

 

「……ただいま戻りました、リーインシアさん」

 

 その声もまた、いつもと変わらぬ調子だった。

 抑制され、乱れがない。だが確かに、“返すべき言葉”として、丁寧に選ばれたものだった。

 リーインシアは頷き、彼の歩調に合わせるように並ぶ。

 ふたりは無言のまま、ポートを後にした。

 

 歩みの向かう先は、第八層の北にある個別専域(オペレーション・セル)

 リンデンとリーインシアが契約している、専用の運用区画だった。

 簡易なブリーフィング機能、機体情報の保存庫、そして最低限の生活環境。

 リンデンは今、GARDEN内でその場所にだけ帰る。

 リーインシアもまた、そこで通信と支援の全てを担っている。

 廊下は無機質で、静かだった。

 床面には霊子駆動式の案内ラインが走り、足元を淡く照らしている。

 ヘッドライトや表示灯のない空間のなかで、二人の足音だけが一定のリズムを刻んでいた。

 

「……体調に、問題はありませんか?」

 

 その沈黙のなかで、リーインシアがそっと口を開いた。

 目線は前を向いたまま。だがその声音には、ほんの僅かな緊張と、気遣いの揺らぎが含まれていた。

 

「特に大きな変動もなかったですし、神域からの離脱後も……変調は見られませんでした。けれど、あくまで外部の数値上の話です。……実際に活動していた“あなた”の感覚を、ちゃんと聞かせてほしいんです」

 

 彼女の声は、穏やかに、しかし確かにリンデンへ届いていた。

 彼は少しだけ足を緩め、歩きながら言葉を選ぶように口を開いた。

 

「……疲労は、許容範囲内です。

 無銘は常に不安定でしたが、視界の歪みや、構成記憶の侵蝕は抑え込めました。

 深部に踏み込んでいない分、肉体への反応も軽度です。……問題ありません」

 

 言葉に濁りはなかった。

 だが、“平気”と“無事”の違いを、彼自身が理解していることも――リーインシアは知っていた。

 彼女はほんのわずかに視線を横へ動かし、彼の頬の隙間から覗く目元をそっと見た。

 その瞳は、戦場にいたときと変わらぬ静けさを保っていたが、わずかに――光の奥に、微かな翳りがあった。

 

「……わかりました。あとで、軽めの検査項目だけ整理しておきますね。

 水分摂取のログ、途中から止まっていたので……あの、できれば、すぐシャワーを浴びて休んでください。スーツ、たぶん乾ききってます」

 

 少しだけ、言葉の終わりが柔らかく崩れた。

 リンデンは、小さく頷いた。

 

「……はい.ありがとうございます」

 

 ふたりはまた、静かに歩を進めた。

 照明も、声も、誰もいない廊下。

 けれどその並んだ背中には、確かに――“ただいま”と“おかえり”が、滲んでいた。

 

 オペレーション・セルの扉が開く。

 霊子認証による自動解錠。ドアが左右に開くと、簡素ながら整理された室内が姿を現す。

 中央には各種の通信・観測端末を並べたコンソールデスク。

 奥には簡易キッチンと備え付けのクローゼット。そしてシャワーユニットが壁面の一角に設置されていた。

 リンデンが今、唯一“私室”と呼べる場所。

 そして、リーインシアが常駐し、彼のすべてを見守り続けている場所だった。

 

 室内に入ったふたりは、それぞれ慣れた動作で所定の位置へ向かう。

 リーインシアはバインダーを脇の小卓にそっと置き、そのままリンデンへ振り返る。

 

「リンデンくん、まずは……シャワーを。

 スーツ、きっともう限界まで乾いてます。無銘の霊子、あとから反応出るかもしれませんし……先に、落としてしまった方がいいです」

 

 声は優しく、けれど事務的な口調も織り交ぜていた。

 彼女の言葉は、提案ではなく、静かな命令に近かった。

 リンデンは無言で頷くと、スーツの胸元にある固定ジョイントを外し、ゆっくりとシャワールームへと向かう。

 その背に扉が閉じたのを確認すると、リーインシアはふっと小さく息を吐いた。

 

 通信端末の前に腰を下ろし、肘掛けに置かれたスイッチを操作する。

 複数のウィンドウが立ち上がり、彼が持ち帰ったデータの自動解析が始まった。

 《混沌神域領界 無銘》――座標B-23外周、霊子構造観測ログ。

 地形変動記録、音響層反応、構成記憶の断片化レポート。

 どれも、後続部隊が深部へと降下するために必要な、命を繋ぐ情報だった。

 その一方で、彼が今まで纏っていたダイブギアスーツの霊子汚染値が表示される。

 リーインシアは淡々と内容を確認し、定型文をいくつか選択しながらメンテナンス依頼を送信する。

 依頼先はMAZE.lab。メイズの元へ直送されるように、ルートを手配しておく。

 ひとつ、またひとつ。

 彼の後始末を、自分の仕事として淡々と片付けていく。

 “彼が無事で戻ってきたこと”が、彼女にとってどれだけ特別であったとしても――それを、声に出すことはなかった。

 

 シャワーユニットの向こう側から、水音が微かに届く。

 このオペレーション・セルには、完全な防音機能が備わっている。

 だがリーインシアは、シャワーユニットの音響遮断レベルを、ほんの少しだけ甘く設定していた。

 誰にも気づかれないほどの、誤差。

 けれど、その微かな“音”があるだけで、彼の存在を、確かに感じることができた。

 彼女はコンソールに肘をついて、小さく息をついた。

 光のラインが画面上を流れ、持ち帰られた観測データの整理が自動で進んでいく。

 だが、その流れを追ってはいなかった。

 視線は、ただ目の前の虚空を漂っていた。

 思考は、過去に沈んでいた。

 

 ――“娘を、頼む”。

 

 あの言葉を、彼から聞いたのは三年前。

 軍事局を、ふたりで辞した直後のことだった。

 リンデンが、初めて任務で父と行動を共にした時の話の中で、ぽつりと打ち明けてきた。

 父・ダグザは、最後の任務で彼にそう言って、天使達とぶつかった。

 彼の作戦を成功させるために。時間を稼ぐために。

 その言葉を託して――死んだ。

 けれど、リーインシアは、その遺言を聞いた瞬間に、胸の奥で思っていた。

 「逆だ」と。

 

 あの人が託したのは、“私”のほうだった。

 リーインシアがリンデンを想っていることを、父はとっくに知っていた。

 彼女がまだ学生だった頃、父と二人で何度も運命屋にラーメンを食べに行った。

 そのたびに、厨房で動き回り汗を流す少年の姿を、ほんの少し嬉しそうに目で追っていた彼女を――。

 ダグザは何も言わず、けれどずっと見ていた。

 

「また会えて嬉しいか?」

「今日も見に行くか?」

 

 からかうような口調で、父はちゃちゃを入れていた。

 けれどそれは、あの人なりの応援だったのだと、今なら分かる。

 “娘を、頼む”。

 ――それはきっと、彼に向けられた遺言ではなく、娘に残した、ひとつの託し方だったのだ。

 

 この、どこまでも真っ直ぐで、真面目で、

 何度も折れながら誰かの役に立とうとする――この子を。

 誰かがちゃんと、見ていてやれ。

 恋をしてるなら、目を逸らすな。

 見守れ、そばにいろ――そう言いたかったのだと。

 

 彼と共に軍事局を離れて、三年。

 今、彼は“ソロ”ガーデナーとなり、戦場を渡り歩く日々を続けている。

 リーインシアは、その通信と後方支援をすべて担い、ずっと、彼の隣にいた。

 けれど――それだけだった。

 踏み出せないまま、何も変えられず、彼の隣に“いるだけ”。

 恋をしている。

 わかっている。

 彼が誰かに手を伸ばすたびに、胸が痛むことも。

 戻れない場所へ向かっているのを感じるたびに、心が軋むことも。

 それでも、何も言えない。

 

 彼が、トロイを見つめている時。

 ブルーに手を差し出した時。

 陛下と共に並んで立つ時――。

 そのすべてを見ていながら、

 “自分の名前”は、彼の未来のどこにも書かれていない気がして。

 だから、リンデンがどれだけ崩れそうになっても――陛下や、騎士団の姉兄たちに、連絡を入れなかった。

 一度でもまた会ってしまえば、もう二度と、彼が戻ってこない気がして。

 自分の隣じゃない、もっと明るくて、もっと温かい場所へ――きっと、還ってしまう気がして。

 

 そして何より――。

 もし一度でも、手を伸ばしてしまったら。

 彼はきっと、優しいから、気づいてしまう。

 気づいてしまえば、きっと、戻ってこなくなる。

 “この席”に、“このセル”に、“自分の隣”に。

 だからリーインシアは、まだ何も言えないままでいた。

 

「……卑怯、ですよね」

 

 誰に言うでもないその言葉は、空気の中でただ沈んでいく。

 でも、そのままでは終わらなかった。

 

 ――それでも、ここにいたい。

 

 そう思った。

 今日、リンデンが口にした『ただいま』の言葉。

 その響きが、まだ耳の奥に残っている。

 それだけで、今は、胸の内のすべてが報われる気がした。

 “ただいま”と言われたこの場所に、

 自分はまだ、“おかえり”と言ってあげられる人でいたい。

 指を開くと、手のひらにうっすらと爪痕が残っていた。

 握っていたことにも、力が入っていたことにも、今になって気づく。

 コンソールの端末が、ピッと小さく音を鳴らす。

 データ転送が終了した通知だった。

 

 彼が、帰ってきた証。

 

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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