GARDEN第九層。
第三医療研究室へと続く連絡通路を、リンデンはひとり静かに歩いていた。
通路は強化ガラスと金属フレームで構成された直線の構造体で、床も壁も天井も冷たい青白い光に満たされていた。
人工照明が淡く反射するたびに、足音も影も曖昧になっていく。
遠くに見えていたスライドドアが、ゆっくりと近づいてくる。
無数の記録と記憶、処置と再構成が日々繰り返される、その場所へ――。
認証機器がリンデンの存在を感知した。
淡く光るリングが青に変わり、スライドドアが音もなく左右に開く。
制御された空気が流れ出てくる。
機械的に管理された温度と湿度、そしてどこか独特な薬品の匂いが微かに混じっていた。
内側は、白を基調とした実験区画。壁も床も天井も、汚れひとつない清潔な無機質さに覆われている。
中に数人の研究スタッフの姿があった。
白衣の背を向けている者もいれば、視線だけを一瞬こちらに向ける者もいる。
だが誰も言葉を発しない。それはこの場所の空気として、すでに成立していた静けさだった。
リンデンはそのまま、まっすぐに通路を抜けて歩き出す。
床に響くわずかな足音が、室内の無音を淡く揺らす。
彼の姿に、誰も過剰な反応は示さない。ここではそれが“日常”であり、“日課”であり――そして、当然だった。
奥の部屋へと続く、さらに一枚のセキュリティ扉が見えてきたとき、
リンデンの足が、ほんのわずかに止まる。
――そこに、“彼女”の気配があった。
冷たい空気の中に、わずかに混じる、知っている霊子の流れ。
この施設のどこよりも淡く、そしてあたたかい――それは、メイズの気配だった。
セキュリティ扉が音もなく開くと、そこには静寂に包まれた処置室が広がっていた。
白を基調とした壁面と床。霊子圧縮チャンバーや再構成モジュールが壁沿いに整然と配置され、すべてがきっちりと整えられている。
けれどその空間には、どこか柔らかく包まれるような気配が満ちていた。
その中心に、彼女はいた。
小柄で、細い肩に白衣を羽織ったひとりの少女。
腰まで伸びたピンクの長髪はふわりと軽く、眠たげな青緑の瞳が、モニター越しにこちらをちらりと見上げる。
「……おかえり、リンデンくん」
パネルを操作していた手を止めることなく、優しく笑うような声。
白衣の袖がふわりと揺れ、首元にかけた聴診器がわずかに跳ねた。
「ちゃんと帰ってきてくれて、えらいえらい。……ママ、ちょっと心配してたんだからね?」
振り返った彼女――医療局総責任者、第三騎士団《MAZE.lab》のKINGであるメイズは、“みんなのママ”と呼ばれながら、けれどどこか“優しい姉”のようでもあった。
「負荷霊子の値、ギリギリだったんじゃない? あとちょっとで神経までズレてたよ?」
そう言いながら、小さく微笑む。
怖がらせるでもなく、叱るでもなく、ただその事実を受け止めているような響きだった。
リンデンは言葉を返さなかった。
けれどその沈黙は、彼なりの信頼の証でもある。
「……ふふ、でも無事ならそれでいいよ。
ママとしてはね、帰ってきた子をまずはぎゅってしてあげたいくらいなんだから」
そう言いながら、処置台の端に置かれた操作パネルへ手を伸ばす。
表示される人工脊柱ユニットのメンテナンスログ、霊子循環量、神経接続負荷率――難解な数値が次々と立ち上がるたびに、彼女のまなざしはふわりとした雰囲気の奥に、冷静な“医療者”の光を宿していった。
「じゃあリンデンくん。先に外套、脱いじゃおうか」
メイズの声は柔らかく、どこか歌うような調子だった。
けれどその声音の下にあるのは、冗談や軽口ではなく、間違いなく“処置のための指示”だった。
リンデンは無言で頷き、手を動かす。
ダイブギアスーツの上から羽織っていた外套を外し、静かに折り畳んで近くのラックに掛ける。
メイズはそれを目の端で見届けながら、手元の医療端末に数項目の処置タグを入力していた。
「スーツのロックも、外して。……今日は降下ルート近く、だもんね。ちゃんと診てあげる」
彼女の指示に従い、リンデンは密着型の戦術スーツに手をかけた。
胸元のシールラインに指を滑らせ、カチリと音を立ててロックを解除する。
空気がわずかに抜けるような感触とともに、上体の部分がゆっくりと開いていく。
スーツの素材は、霊子遮断と筋肉補助を兼ねた特殊繊維で、彼の身体に吸い付くように馴染んでいた。
それを剥がすように、リンデンは片腕ずつ通し、最後には静かに上半身を晒した。
しなやかな筋肉の上に、いくつもの痕が残っていた。
古い手術痕。損傷の修復跡。霊子焼灼による薄い灼痕――
けれど、そのどれよりも印象的だったのは、背骨に沿ってうっすらと浮かび上がる“線”だった。
人工脊柱ユニット。
リンデンがまだ幼かった頃に、その身へと埋め込まれた制御構造。
今もなお、彼の動作、霊子制御、神経接続すべてを管理している“もう一つの背骨”だった。
「……ふふ。やっぱり、リンデンくんの身体って、ちょっと不思議だよね」
メイズが背後へ回り、そっと触れたのは、脊柱ラインのすぐ脇。
皮膚の上からでも、彼女の指先は確かに“内部”の構造をなぞっていた。
「……うん、ん。はーい、止まっててねー。ちょっと圧かけるから……」
彼女の細くて温かい指先が、一定のリズムでリンデンの背を押し、探り、なぞる。
皮膚の下、人工脊椎のパーツが、ごくわずかに反応する感触があった。
それを、メイズは繊細に、確かに感じ取っていた。
「んー……やっぱり、限界ギリギリまで使ってる……
稼働率……95.9%……ううん、これはほぼ100%って言っていいかな」
言葉とは裏腹に、彼女の声に浮かぶのは、呆れ半分・感心半分、そして――心配。
「さすがだね、リンデンくん。
消耗の仕方が綺麗すぎて、解析ソフトの方が“手加減して使ってる”って誤認してるくらいだよ?
ほんと……こういうとこだけは、変に“完璧”なんだから」
彼女の指が、背骨の中央にそっと添えられる。
感覚としては優しいものだったが、触れられたリンデンの肩は、ごく僅かに動いた。
それが痛みなのか、それとも疲労なのか――彼自身も分からなかった。
「……ねぇ、リンデンくん。
こういうの、ちゃんと“無理してる”って、言ってくれてもいいんだよ?」
メイズの声が、少しだけ低くなった。
けれどそこに責めるような響きはなかった。ただ、“優しい姉”としての声色だった。
「限界ぎりぎりで帰ってきて、平気な顔して、何も言わないまままた次の任務に行く。
……そういうの、ママとしてはちょっと、ね? 胸がきゅーってするの」
背中の脊柱ラインに、彼女の指先が添えられたまま、静かに言葉が降りてくる。
医療者としての視点と、彼女なりの愛情が、そこには確かにあった。
︎︎触診が終わり、リンデンはメイズの指示に従って、処置台へとゆっくり身を預けた。
背中をこちらに向けて、静かにうつ伏せになる。
顔を横に倒し、頬を冷たい枕に触れさせると、ふっと一つだけ、深い息を吐いた。
その姿を見届けてから、メイズは処置台の両側に備え付けられたアームを操作した。
起動音とともに、神経監視と補助呼吸のサブユニットが展開される。
そして、細く細く霊子を調整した局所麻酔針が、背部の数カ所に順次刺入されていった。
「……はい、ここからはちょっと、気持ちよくなってもらうね」
針の先から、神経負荷を一切かけない超微量麻酔が流れ出す。
霊子神経伝達に直接作用するよう最適化されたそれは、わずか十数秒でリンデンの意識をゆるやかに沈めていく。
瞼が、半ばまでゆっくりと降りた。
呼吸のリズムがわずかに整い、筋肉から過剰な緊張が抜けていく。
「……うん、いい子。とってもよくできました」
メイズは静かに呟くと、左手のグローブを着け直し、処置用のスプレードレーザーを手に取った。
数ミリ単位で調整された光のラインが、リンデンの背部中央、脊柱ラインに沿って正確に走る。
ゆっくりと皮膚が開かれていく。
出血はない。霊子焼灼による切開は、損傷を最小限に抑えるよう設計されている。
現れたのは――人工脊柱ユニット、その全貌だった。
骨のように見えるが、それは金属でも樹脂でもない。
特殊な霊子構造体によって形成されたそれは、まるで生物的でありながら、あまりに精密で、あまりに静かだった。
背骨はもう、彼の中には存在しない。
あるのは、神経伝達ラインと、それを通すための人工接続リング、そして“主柱”としてのユニットだけ。
不必要なケーブルも、制御端末も存在しない。
その構造そのものが、“彼の身体の一部”として完結していた。
「……本当に、綺麗に使ってるよね。リンデンくんって」
メイズはそっと指を伸ばし、接続リングの一部に触れた。
ふっと、微かな霊子の抵抗。疲れたような応答が、ユニットから返ってくる。
解析データでは見えなかった“体感的な消耗”が、指先から静かに伝わってくる。
「無銘の外周を歩いて、ギリギリの霊子構造を支えて、変異干渉に耐えて……
こんなに綺麗に、均等に、全部使い切って帰ってくるなんて……ほんと、もう。褒めていいのか怒っていいのか、ママ、困っちゃうなぁ」
苦笑気味に呟きながら、メイズは補修作業に移った。
ユニット表層にわずかに現れたマイクロクラックを、粒子溶接の処置用器具で埋めていく。
神経伝達の流れを追いながら、微細な干渉反応を手動で調整し、反応速度の誤差を修正する。
霊子充填率を10%だけ戻し、ユニット負荷値を一段階だけ下げる――。
処置としては、ほんの僅かな修復。
だがこの微細な補修こそが、彼の“次”を守る支えになる。
作業をしながら、メイズはふと――まだ半分意識の残るリンデンの顔を見やった。
彼の頬はわずかに熱を帯び、けれど瞼はもう、何も映していなかった。
「……ねぇ、リンデンくん」
手は動かしたまま。けれど、声は少しだけ揺れていた。
「これからも……ずっとこのままで、いいの?」
問うように、問いかけるのではなく、
ひとりごとのように、小さな声で。
「誰にも頼らないで、全部ひとりで背負って……
背中、こんなに冷たくなってまで、誰にも“重い”って言わないで……
ほんとうに、それでいいの……?」
ユニットに添えた指先が、わずかに震えた。
けれどメイズは、そのまま言葉を閉じた。
彼が答えることはない。
この問いは、“今の彼”には届かない。
だからこそ――
この処置だけは、完璧に終わらせておかなければならなかった。
ホログラム、そして彼の脊柱ユニットをモニタリングしていた計器から、小さく作業完了の機械音が響く。
︎︎処置は、ほとんど終わっていた。
脊柱ユニットの補修も、伝達経路の再調整も、最終確認の数値も全て正常値。
少なくとも“次の任務”に支障はない程度には、整えられていた。
けれど――。
メイズの手が、まだ動きを止めない。
最後の冷却処置に入りながら、彼女はぽつりと、小さく言った。
「……みんな、心配してるよ」
淡く光る補助灯の下で、ユニットが静かに呼吸しているように見える。
メイズはその構造の上に、掌をゆっくりと重ねた。
「……誰も、怒ってなんかない。みんな、ほんとは、会いたいんだよ?
帰ってきてもいいんだよ、リンデンくん……」
その声は、甘くも、強くもない。
ただひとつの願いを、押しつけないように、優しく投げかけるような声だった。
数秒、沈黙があった。
もう意識が沈んでしまったのかと、そう思った時だった。
かすかに、リンデンの唇が動いた。
「……わたしが……」
声は、息に混じるほど細い。
まるで、自白剤でも打たれたような、曖昧で、頼りなく、制御の効かない言葉だった。
「わたしが……みんなの……ありかたを……こわしたから……」
言葉はそこで一度、途切れた。
息が詰まったような空白。
けれどその先を、彼はどうしても言いたかったのだろう。
再び、震える声が、空気を揺らした。
「だから……もう……かえれない……です」
絞り出すような言い方だった。
音にならなかった単語もあるかもしれない。
けれど確かに、それは彼の奥底から零れ落ちた“本音”だった。
――自分という異物が、ここに来てしまったせいで。
永劫とも言える時を、変わらずにあったはずの彼らの在り方を、
自分は、壊してしまった。
陛下も、兄姉たちも――。
ずっと、完璧に近い形で“変わらずに”いたはずの人たちを、彼が来たことで、少しずつ、歪めてしまった。
そして、それが確かに“現実”になった日。
彼の胸に残る、一太刀の傷痕。
姉のひとりが振るった鋭く、そして痛ましい一撃。
――その痛みが、すべてを教えてしまった。
自分が、壊してしまったこと。
自分が、もう戻れない存在になってしまったこと。
その呟きの余韻が、空気の中に溶けていくのと――彼の瞼が完全に閉じるのと、どちらが先だったかは、わからなかった。
静かに、麻酔による意識の底へと沈みきる。
肩から背へと伝っていく静かな熱は、もう何も感じてはいなかった。
「……」
数秒の沈黙のあと、メイズはそっと、その頭を撫でた。
痛みも、葛藤も、眠気も、全部を包み込むような撫で方だった。
「ほんと、
そして、答えを返した。
彼が、それを聞くことはなかった。
「……リンデンくんは、誰も壊してなんかいないよ。
歪ませてくれたおかげで、みんな、ちょっとだけ――人間に戻れただけなんだよ?」
その声は、届かない。
けれど、それでも。
そう言わずにはいられなかった。
「……ママもね、あなたがいてくれて、よかったって思ってるんだよ」
処置室に、機械の駆動音だけが残っていた。
もう返ってこない問いに、それでも誰かが言葉を重ねる。
それはただ、祈るように――願うように、ひとつの想いを落とすための行為だった。
白い天井が、視界にぼんやりと浮かんでいた。
淡く灯された照明の光はまぶしすぎず、眠気を誘うような優しい明るさだった。
しばらくのあいだ、視界はピントを結ばず、まるで水の底から世界を見上げているような感覚だけが身体を満たしていた。
やがて、わずかに意識が浮上する。
感覚が戻るたびに、身体の重さが少しずつ戻ってきた。
背中に走っていた微かな痛みはすでに引いていて、代わりに鈍い倦怠感が残っていた。
「……リンデンくん、起きた?」
どこか甘えるような、けれど慈しみに満ちた声が、近くで響いた。
音の方向へ目を向けると、処置台の脇に腰を下ろしたメイズの姿があった。
白衣の裾をふわりと揺らしながら、彼女は覗き込むように顔を近づけていた。
「無理に起きなくていいよ。麻酔、まだちょっと残ってるから」
彼女の声に応じるように、リンデンは薄く目を開けた。
視線を少し動かし、目の前の彼女に小さく言葉を返す。
「……ありがとうございます、メイズ姉さん。
……処置、感謝しています……」
呂律はまだ少し甘い。
それでも、その声には確かな誠意が宿っていた。
彼の中で“きちんと伝えるべき言葉”として、麻酔に沈む身体から絞り出されたものだった。
リンデンは上体を起こそうと、そろりと腕に力を込めた。
けれど――
「ダメだよ、動かないの」
その腕に、そっと優しい手が添えられる。
メイズは微笑んだまま、リンデンの肩を軽く押し戻した。
彼の痩せた身体は、容易くシーツへ沈んでいく。
「せっかくきれいに補修したんだもん。ここで無茶したら、ママ泣いちゃうからね?」
リンデンは、それ以上抵抗せずに静かに横たわったまま、ほんの少しだけ顔を伏せる。
「……すみません……メイズ姉さん」
その声には、どこか申し訳なさだけでなく、“甘え”の気配すらにじんでいた。
子どもが、誰かに心配をかけたことをようやく理解したあとの、小さな謝罪のようだった。
メイズはそれを受け止めながら、そっと彼の頭を撫でた。
前髪を乱さないように、優しく、優しく、手のひらを添えて。
「いいんだよ」
その一言には、いくつもの感情が詰まっていた。
痛みも、誇りも、そして――ほんの少しの寂しさも。
「でも――」
くすっと、少しだけ笑う。
それは冗談のようで、でもきっと冗談だけではなかった。
「やっぱりリンデンくんは、ママのこと、“ママ”って呼んでくれないんだね?」
指先は撫でる手を止めず、彼の頭の形を確かめるように、すべらせていた。
リンデンは目を閉じたまま、少しだけ呼吸を整え、ゆっくりと口を開く。
まるで言葉を探すように、時間をかけて、慎重に。
「……私が、“母”と呼ぶべき人は……
一人しか、いないんです」
たどたどしく、それでも誠実さを滲ませるその声は、どこまでも静かで、どこまでも真っ直ぐだった。
メイズは目を細めた。
そして、うん、とひとつ小さく頷いた。
「うん……そっか、そうだね」
その言葉を否定することはなかった。
当然だった。彼にとって、育ててくれた母は――彼女しかいない。
「リンデンくんにとってのママは、あの子しかいないもんね。
……わかってるよ、ママも」
その言い方に、責める響きはなかった。
むしろ、どこか微笑ましくすらあった。
「でもね、姉さんって呼ばれるのも、ママは気に入ってるから。
だから、これからも、ちゃんと呼んでくれたら嬉しいな」
そう言って、もう一度だけ、彼の頭を優しく撫でた。
雪は、空から降っているのではなかった。
まるで天地が反転し、世界そのものが白に染められたかのような――そんな錯覚を抱かせるほどに、吹雪は激しく、空も地も一切の境界を失っていた。
リンデンは、その中を進んでいた。
汎用ダイブギアスーツの表層には既に雪が凍り付き、肩口から胸元にかけて白い結晶が重なる。
外套のフードを深く被っても、顔の輪郭すら吹き込む雪で霞むほどの視界。
それでも彼の歩みは止まらない。
腰まで埋まるような深雪。
一歩進むたびに膝が軋み、脚が圧に悲鳴を上げる。
けれどその腕には、展開状態のヘイロリウム。
盾としての装いを捨て、刃輪の戦斧として変貌したそれを、彼は片手でしっかりと握りしめていた。
リングユニットの駆動音が、かすかに雪の密音に混じる。
目指すは、この先に報告された異常霊子反応――おそらくは神域の発生地点。
小規模とはいえ、情報未確定領域での活動は命取りだ。
単独行動での調査、潜入、そして可能ならば内部の魔剣使いの討伐。
任務の概要は単純だが、すべてが“未確定”に支配されている。
リンデンの脳裏に、通信で告げられた解析官の言葉が過る。
『半径は200~300m規模。視認できる結界境界あり。内部の時間進行は不明。――魔剣種子体の発芽反応も確認されたが、定着率が不自然なまでに低い』
彼は応答しなかった。
ただ、任務記録にその音声を残し、胸の深くへと刻む。
その時だった。
――ふ、と。
雪が止んだ。
音も、風も、冷たさも。
リンデンの視界から、白が消えた。
目の前に広がっていたはずの無限の銀世界が、まるで水面に落ちた墨のように滲み、剥がれ、溶け落ちていく。
そして、現れた。
その先には――まるで童話の一場面のような、小さな草原。
雪はどこにもない。暖かな光が降り注ぎ、淡い緑の草が風もないのに揺れている。
不自然なほど円形に区切られたその空間。
神域。
境界線の手前に立ったリンデンは、まるで見えない膜に手を伸ばすように、一歩、足を踏み出す。
靴底が草に触れる。
風が止む。呼吸が澄む。
空気が、異様なまでに清浄だった。
そして、中央に。
小さな影たちが、見えた。
五人、六人。
皆、幼い。十歳にも満たないような小さな子供たち。
その子供たちの中心に、一人の少女がいた。
背中には、大きな片翼の羽。
白銀の羽が光を受けて輝き、まるで神話の御使いのようだった。
少女は笑っていた。
優しく、穏やかに。
まるで、この空間すべてが、彼女の安らぎであるかのように。
子供たちは楽しげにその少女のもとを駆け回り、手を繋ぎ、歌を歌っている。
意味のない音の羅列。だが、それはどこか懐かしい子守歌のようにも聞こえた。
リンデンは足を止めたまま、その光景を見下ろす。
――明らかに、ここだけが「世界」から断絶していた。
この空間は、ひとつの理想。
だが、それが“魔剣使い”の産み出した幻想であることを、彼は知っている。
ヘイロリウムのリングが、ひときわ高く唸った。
リンデンの瞳が、紅に微かに揺れる。
次に彼が踏み出す一歩は、この小さな楽園を――破壊する一歩だ。
その一歩を踏み込んだ瞬間――。
少女が気付いた。
その笑みが、わずかに険しさを帯びる。
声を潜めて何事かを告げると、彼女の周囲にいた子供たちは、名残惜しそうに彼女の袖を離し、草原の奥へと走り去っていく。
背中の白い翼が、わずかに震えた。
少女の右手に、いつの間にか握られていた魔剣。
どこから取り出されたのか、その刃は滑らかな弧を描き、光を吸い込むように鈍く輝いていた。
雪原では決して見られない、冷たい金属の匂いが空気に混じる。
「……GARDEN」
少女が、吐き捨てるように言った。
その声音には、怒りではなく、諦観と覚悟が宿っていた。
「こんな場所にまで、来るんだね……」
短く息を吸い、吐く。
その表情に、少しだけ哀しみが滲んだ。
「……あと、十年は、見逃して欲しかったなぁ」
その言葉を聞いても、リンデンは何も返さなかった。
返すべき言葉も、返す理由もなかった。
黙々と、彼は背中に四叉の支援アームユニット――ナンナリスを量子展開する。
粒子が組み上がる音が、静かな草原に響く。
左手にはヘイロリウム、そして右手には量子空間から引き出された
それは魔術変換式を複数のコード進行によって複合展開し、高速切り替えによる多展開行使を可能にする“魔術書モドキ”。
現代魔術の一種にして、姉の一人――濡羽から学び、自らの手で完成させた兵装だった。
草原の足元が、微かに震える。
少女が呼び出した魔剣種子体が、地中から隆起する。
黒い茨のような外殻が割れ、内部の刃が光を反射して覗いた瞬間、草原の空気が鋭く張り詰めた。
神域の調査という任務は、ここで終わった。
切り替わったのは――魔剣使いの討伐。
リンデンのヘイロリウムが、一段階、さらに回転を上げる。
その唸りは、戦いの始まりを告げる鐘のようだった。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
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ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
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息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
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叡智閑話
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イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった