みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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ソロガーデナーと行方.3

 

 最初の衝突は、一瞬だった。

 ヘイロリウムが振動回転を最大に引き上げ、銀色の弧を描く。

 触れた魔剣種子体は、その質量や硬度を問う暇もなく、粉雪のように粉砕され、霊子の粒子となって空気に散った。

 斬撃ではない。粉砕だった。

 背中のナンナリスが高速で動き、周囲の空気から霊子を吸収変換する。

 複数の吸収アームが開き、音もなく吸い上げられた霊子が白い霧となって圧縮され、二方向へ送られる。

 ひとつは左手のヘイロリウムへ――回転と衝撃の持続時間を引き延ばすために。

 もうひとつは右手のグラフロジカへ――魔術式の燃料として。

 

 グラフロジカのページが虚空で開かれる。

 そこには紙も文字もない。現れるのは、複合展開された魔術変換コードの数列と、術式展開の幾何学模様。

 次の瞬間、空気がはじける音とともに――氷弾が射出された。

 直径わずか数センチのそれは、内部で四千度まで加熱された氷核を持ち、着弾と同時に爆ぜる。

 放たれた熱は焼夷炎となって弾け、その炎は逆説的に凍結効果を伴って周囲に広がった。

 霊子構造を強制的に冷却破壊するその術式は、隆起し始めた種子体の成長を一瞬で止め、同時に殻を破壊する。

 轟音が草原を揺らす。

 破片と白煙が混ざり、視界を覆うその中を――少女は動いていた。

 

 片翼をはためかせる。

 それはただの羽ばたきではなく、空間そのものを滑り抜けるような高速機動だった。

 白銀の残光が蛇のように軌跡を描き、リンデンの視界へ飛び込む。

 その動きに応じて、リンデンは即座にグラフロジカを手放す。

 右手が空くより早く、両手でヘイロリウムを構え、迫る剣撃を受け止めた。

 

 金属が衝突する甲高い音が、耳を打つ。

 刃と刃が擦れ、火花が散り、二人の距離が息の間だけ保たれる。

 その背後――宙空に浮かんだグラフロジカが自律制御に移行し、展開済みの術式を回転させる。

 ページに浮かぶ幾何学式が次々と切り替わり、標的捕捉のために少女を追い続ける。

 だが――その白銀の軌跡は、術式の追尾を許さない。

 

 高速で軌道を切り替え、角度も速度も予測不能。

 狙いを定める暇を与えないまま、少女の刃は再びリンデンの懐へと迫る。

 刃が擦れ、火花が散った。

 力の均衡は一瞬で崩れる。少女は剣を押し込むのではなく、あえて軌道を外し、翼を翻して背後へと回り込む。

 リンデンの左耳を、鋭い風切り音がかすめた。

 振り返るより早く、空気が裂け、魔剣の刃先が背中を狙って突き込まれる。

 ナンナリスの一本が反射的に展開し、迎撃用の障壁を張る。

 刃がそれを叩き割る音と同時に、リンデンは反転し、斜め下からヘイロリウムを振り上げた。

 

 金属音ではなく、まるで氷を叩き割るような硬質な音が響く。

 少女は刃を引き、後方に飛び退く――その翼がわずかに光を帯びた。

 次の瞬間、草原の地面に複数の影が走った。

 少女の魔剣から放たれたのは、刃そのものを分裂させたかのような幻影の軌跡。

 それぞれが本物の質量と斬撃を伴い、複数方向からリンデンを切り裂こうと迫る。

 

 リンデンは足を止めない。

 右腕を一閃させると、宙空の《グラフロジカ》が応答し、三重の魔術式が一斉展開する。

 

 第一層――高周波の風刃による切断障壁。

 第二層――極小の氷弾を周囲にばら撒く、反応式防御網。

 第三層――霊子を収束させた火線の迎撃射撃。

 

 それらが同時に発動し、迫る刃の群れを打ち払う。

 氷が砕け、炎が散り、風が裂ける音が草原を満たした。

 しかし――

 その混乱の只中、少女の本体が影に紛れて再び距離を詰めてくる。

 片翼が大きくはためき、銀色の光がリンデンの視界を覆った。

 距離が消えた。

 少女が踏み込んだ瞬間、空気が弾けるような音が響く。

 翼が一度だけはためき、その推進力が加わった剣が、鋭い連撃となってリンデンへと迫る。

 刃が交差するたび、火花が目の前で爆ぜる。

 切っ先が頬をかすめ、外套の布地が裂け、霊子の火花が弾けて飛ぶ。

 その全てが、ほぼ同時に重なって押し寄せてくる。

 

「……っ、速い……」

 

 息を吐く間もなく、次の一撃が来る。

 少女の瞳は笑っていなかった。

 その奥には、確かな殺意と、同じだけの決意があった。

 

「退いて……帰って。今なら、まだ」

 

 短い息の合間に吐かれるその声は、戦場に似つかわしくないほど柔らかい。

 だが、それが本気の願いであることは、刃の速さが証明していた。

 リンデンは答えなかった。

 答える余裕がないわけではない。ただ、必要がなかった。

 金属音が連続し、衝撃が腕を通して肩まで響く。

 少女は止まらない。剣筋が縦横に交錯し、角度を変えながら押し込んでくる。

 刃のひとつひとつが致命傷を与え得る速さと正確さを兼ね備えていた。

 防ぐだけでは、いずれ押し切られる。

 リンデンの足は、雪の上で立つように沈み込み――同時に、決断が下りた。

 

 ヘイロリウムが、ふっと消える。

 量子格納の閃光が刃の間に割り込んだ一瞬の隙を作る。

 少女の目がわずかに揺れた。

 だが、その揺れは刃を止めるものではない。突きが放たれ、一直線にリンデンの胸を狙う。

 その瞬間――彼は、滑った。

 

 背中をわずかに反らし、刃の軌跡を紙一重で外す。

 頬をかすめる風が冷たく、その直後、彼の左足が地面を叩き割った。

 低く、短く、しかし全身を震わせるような一歩。

 踏みしめた瞬間、空気が爆ぜ、衝撃波が足元から周囲に走る。

 

 その勢いのまま、リンデンの身体は前へ。

 少女の懐――胸元に、まるで引き寄せられるように滑り込む。

 驚きの色が、少女の瞳に一瞬だけ浮かんだ。

 

「っ――!」

 

 次の瞬間、肩から腰までを一直線に通す衝撃。

 拳でも蹴りでもない。全身を槍のように束ね、ぶつける衝撃。

 少女の身体が宙を舞い、草原の地面を削りながら後方へと弾き飛ばされる。

 土と草が爆ぜ、羽根が宙を舞う。

 その衝撃は肉体だけでなく、少女が構えていた魔剣の霊子構造までもわずかに揺らしていた。

 リンデンは踏み込んだ姿勢のまま、呼吸を一度だけ整える。

 その眼差しには感情がなかった。

 ただ、この戦場における「正解」だけが映っていた。

 

 弾き飛ばされた少女は、草原の地面を滑り、土煙を上げて止まった。

 翼が大きく広がり、その羽ばたきで衝撃を散らす。

 膝をついた姿勢から、ゆっくりと立ち上がると、その表情からは驚きが消えていた。

 右手に握る魔剣が、低く唸る。

 刃身に走る紋様が赤黒く発光し、霊子の奔流が外気を焼くように渦巻く。

 ただの金属の剣ではない。空間そのものに“喰らいつく”ような、異質な圧が広がっていく。

 

「……そう。やっぱり、こうなるんだね」

 

 少女の声は、もはや静かではなかった。

 足元の草が一瞬で黒く枯れ、空気が歪む。

 次の瞬間、彼女の姿がかき消える。

 

 残像すら残さない速度で、少女はリンデンへと殺到した。

 翼が描く白銀の軌跡が、空間に裂け目のような光を残す。

 迫る刃は、ただ斬るだけではない――触れた瞬間に、その存在を削ぎ落とす力を帯びていた。

 

 対するリンデンの瞳が、淡く赤く灯る。

 左手に呼び戻したヘイロリウムの刃輪が、唸りを上げて回転を加速する。

 振動が限界を越え、金属音が周波数を跳ね上がり、もはや耳には“音”ではなく空間の軋みとして届く。

 臨界。

 回転が刃の縁だけでなく、周囲の空間ごと粉砕するような衝撃を発する。

 空気が裂け、地面が砕け、草原の緑が衝撃波に薙がれて飛び散る。

 迫る少女の一撃と、リンデンの薙ぎ払いが交錯した。

 瞬間――世界が白く弾けた。

 粉砕された空間の破片のような霊子結晶が舞い、耳鳴りが全身を包む。

 衝撃が双方を押し返し、地面に深く抉られた弧が刻まれる。

 リンデンの外套が千切れ、少女の翼の羽根が幾枚も宙を舞った。

 それでも二人の視線は、刃の奥でぶつかり合い、次の一手を探って離れなかった。

 衝突の余波が収まるよりも早く、再び二人は動き出していた。

 

 少女の魔剣が振るわれるたび、空気が軋む。

 刃の軌跡は肉眼で捉えられるものではなく、代わりに“切断された後”の空間が、遅れて視界に刻まれる。

 その残滓が地面を割り、草を断ち、遠くの丘すら崩していく。

 リンデンのヘイロリウムは、振動回転が限界を超えたまま維持されていた。

 刃が振るわれるたびに、その衝撃は地面を抉り、空気を粉塵と霊子の渦へ変える。

 斬撃というよりも、触れた物質を分子レベルで破壊する暴力だった。

 

 ――打ち合い。

 

 距離が開くことなく、至近距離で何度も何度も衝撃が交錯する。

 互いの動きは単調ではない。角度を変え、踏み込みを変え、時には刃を絡め、時には一瞬だけ間合いを外す。

 一手ごとに威力は増し、霊子の消費は跳ね上がっていく。

 少女の片翼が裂け、羽根が宙に散る。

 リンデンの外套はほぼ原形を留めず、装甲の表面に焦げと霜が入り混じった痕が刻まれていた。

 

「……強いね」

 

 少女が短く吐き捨てるように言った。

 呼吸は荒く、それでもその瞳には炎が宿っていた。

 

「……任務ですから」

 

 リンデンの返答は、ただそれだけだった。

 理由も感情も削ぎ落とし、事実だけを置くような声。

 再び衝突。

 互いの武器が噛み合い、衝撃で双方の足元が崩れる。

 踏み込み合い、押し合い、火花の中で目が合う。

 

 ――限界が近い。

 

 それを悟ったのは、互いに同時だった。

 霊子の循環は不安定になり、身体の反応速度に僅かな遅れが生じる。

 その一瞬の鈍りが、命を分ける。

 リンデンは息を吸い、力を溜めた。

 少女は翼を広げ、最後の加速に備えた。

 決着の気配が、草原の空気を重くする。

 

 少女が先に動いた。

 片翼を大きく広げ、地面を蹴ると同時に魔剣へ全ての霊子を集中させる。

 刃の紋様がさらに深く赤黒く輝き、周囲の景色が色を失った。

 空間そのものが収束し、裂け目のような黒い亀裂が刃先から延びる。

 その剣は、触れるもの全てを“世界ごと”追放する。

 渾身の一撃。

 彼女の生命と魔剣の存在が、一瞬でひとつに重なった。

 

「――ッッ!」

 

 風圧すら追いつかない速度で、その刃が振り下ろされる。

 リンデンの背後で、ナンナリスの四本のアームが一斉に展開した。

 先端の共振器が空間に干渉し、周囲の霊子を吸い上げ、粒子状のエネルギーとして空間一帯にばら撒く。

 白い霧のように舞うそれは、彼の視界では色を持った奔流となって渦を巻いていた。

 

 ――変換。

 

 リンデンの脳内に走る演算が、散布された霊子を一つ残らず掴み取る。

 次の瞬間、その全てが“振動”へと姿を変えた。

 波ではない。音でもない。

 物質と空間の境界を粉砕する、破壊のためだけの振動。

 左手のヘイロリウムが臨界を越え、刃輪が白光を放つ。

 その振動は、前方の空間ごと粉砕するように広がっていった。

 

 少女の魔剣が迫る――その瞬間、両者の衝突点で“世界”が砕けた。

 破砕音というよりも、存在そのものが分解される感覚。

 空間が白く飽和し、霊子の奔流が爆ぜ、草原の地面が半径数十メートルにわたって消失する。

 粉砕波の直撃を受けた少女の一撃は、刃そのものが軋み、霊子の輝きが断続的に途切れ始めた。

 視界は霧と光で満たされ、音すら消える。

 ただ振動の余波だけが全身を貫き、足元の大地までもが脈打つように震えていた。

 

 

 

 

 

 

 振動の余波が静まり、草原に再び風が戻った。

 リンデンはゆっくりとヘイロリウムを停止させ、背中のナンナリスも収束させる。

 装備の駆動音がひとつずつ消え、彼の周囲に広がるのは、呼吸音とわずかな霊子のざわめきだけになった。

 兵装をすべて量子格納し、彼は歩き出す。

 視線の先、草原の中央――少女が仰向けに倒れていた。

 

 右腕は肩口から先が存在せず、白銀の片翼も根元から失われている。

 その血と羽根が散らばる場所から、少し離れた地面には、ボロボロになった魔剣が突き立っていた。

 刃身はひび割れ、紋様の光も消えている。戦いの果てに、ただの鋼の塊へと戻ったその姿は、痛々しいほど静かだった。

 リンデンの影が少女にかかる。

 彼女は瞼を半分だけ開け、唇を震わせる。

 

「……やっぱり、ダメかぁ」

 

 吐息のような声。それでも、微笑みを浮かべていた。

 その笑みに滲むのは、諦め――そしてどこか、安堵のようなもの。

 

「竜種に負けて、軌道修正()にも負けて……」

 

 短く息を整え、口元だけで笑う。

 

「……GARDENにも、負けちゃった」

 

 目を細め、遠くを見るように呟く。

 

「ただ、あの子たちの、大きくなった姿を……見たかっただけ、なのになぁ……」

 

 その言葉に、リンデンは膝を着いた。

 冷えた草の感触が膝越しに伝わる。

 彼は静かに、首を横に振った。

 

「……あれは、天使です。

 もう――成長することも、大人になることもない、人形です」

 

 視線が交わる。

 二人の目は、草原の端に集まっていた“子供たち”を映していた。

 小さな体、愛らしい服――しかし、その顔には何もない。

 空洞の奥に球体関節が覗き、着せられた子供服が不気味なほど整っている。

 彼女の願望が霊子構造に形を与え、生まれた“天使”たち。

 少女は、その事実にようやく気付いたように、目を見開いた。

 そして、泣きながら笑った。

 

「なんだ……やっぱり私も、あの子たちも……もう、どこにもいないんだ……」

 

 笑い声が途切れ、細い息に変わる。

 

「でも……お願い」

 

 掠れる声で、少女は続けた。

 

「あの子たちには……手を出さないで」

 

 涙の奥に、はっきりとした光が宿っていた。

 

「本当のあの子たちじゃなくても……愛してたのは、ほんとだから……」

 

 リンデンは少しの間、黙っていた。

 その沈黙が、風の音を引き立てる。

 

「……家族ではない。赤の他人……」

 

 視線を落とし、静かに問いかける。

 

「……他人ですらない物だとしても、ですか?」

 

「うん。――物だとしても、だよ」

 

 迷いのない答え。

 その響きは、もう覚悟すら通り越していた。

 リンデンはわずかに目を伏せ、それ以上言葉を返さなかった。

 代わりに、ゆっくりと立ち上がる。

 歩みは、少女ではなく――その先に突き立てられた魔剣へ。

 ヘイロリウムが再び量子展開され、刃輪が高鳴る。

 振動が草原全体を震わせるほどまでに上がっていく。

 彼は一切のためらいなく、刃を大きく振りかぶった。

 

 ――砕け散る音。

 

 金属ではない、世界の骨格そのものが割れる音だった。

 同時に、空間が色を失い、草原も、少女も、子供たちも、音もなく消えていく。

 

 残ったのは――蒼。

 

 視界一面に広がる蒼穹が、位相転移の証だった。

 神域が破壊され、この世界の断片が完全に失われた証明。

 リンデンは、その空の下でしばらく立ち尽くしていた。

 風だけが、彼の外套を静かに揺らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発着ポートの白い照明が、帰還艇の側面を淡く照らしていた。

 ハッチが開き、リンデンがゆっくりとタラップを降りてくる。

 汎用ダイブギアスーツには霊子焼けの痕がいくつも刻まれ、外套の裾は雪と灰の匂いを帯びていた。

 着地した彼の前に、バインダーを胸に抱えたリーインシアが立っていた。

 前髪の黒緑のメッシュが照明を受けて揺れる。

 視線が合うと、彼女は小さく笑みを作った。

 

「おかえりなさい、リンデンくん」

 

 その声には、あえて何も詰め込まないような優しさがあった。

 

「……ただいま戻りました」

 

 リンデンの返事も、同じように余分な感情を乗せない。

 二人は並んで歩き出す。

 発着ポートの金属の床から、通路の柔らかな材質に足音が変わる。

 

「……体調は? 怪我や痛みは残ってませんか?」

 

 リーインシアの問いは、相変わらず体調の確認だけ。

 踏み込むことも、詰め寄ることもない。

 

「問題ありません」

 

 返答もまた、最低限だった。

 それ以上、互いに何も続けない。

 通路の先、二人が契約しているオペレーション・セルが見えてくる。

 その手前で、リンデンはふと立ち止まった。

 

「……すみません。少し、席を外しますね」

 

 その声は淡々としていたが、リーインシアにはわかっていた。

 これが、彼が一人になりたいとき、あるいは何かを抱えて考えるときの合図だということを。

 バインダーを抱き直しながら、彼女はほんの少しだけ視線を落とした。

 踏み込めないことは理解している。

 けれど、心が疼くのも事実だった。

 

「……わかりました。セルで、待っていますね?」

 

 その答えに、リンデンは小さく頷き、再び歩き出す。

 彼の背は、オペレーション・セルを通り過ぎ、通路の奥へと消えていった。

 残されたリーインシアは、静かに息を吐く。

 その背中を見送ることしかできない自分を、胸の奥で噛みしめながら――。

 

 

 

 通路は静まり返っていた。

 遠くで機械の循環音が低く響くほかは、誰の気配もない。

 その行き止まり――壁から突き出した簡易ベンチの前で、リンデンは足を止めた。

 腰を下ろすと、金属と樹脂が混ざった無機質な感触がスーツ越しに伝わる。

 壁に背を預け、長く息を吐いた。

 この場所は、人気がない。

 セルにも戻らず、仮眠や思考のために一人きりになれる、彼にとっての小さな避難所だった。

 視界の端に、通路の灯りが揺れる。

 その明滅のリズムが、戦闘後の神経を緩やかに刺激する。

 

 ――思い出すのは、あの声。

 

 脊柱ユニットのメンテナンスの時、麻酔で意識が薄れる中、耳元に届いたメイズの言葉。

 「帰ってきてもいいんだよ」――あの温度と響きが、脳裏で何度も再生される。

 そして、つい先程、壊した神域の中で聞いた少女の声。

 「物だとしても、だよ」――あの揺らぎのない眼差しが、まだ胸に残っている。

 考えても、何かが変わるわけではない。

 理解している。それでも、思考を止められなかった。

 頭の奥に溜まった言葉の断片が、消えることなく何度も浮かび上がっては沈んでいく。

 リンデンは、グローブ越しに胸の中央をなぞった。

 スーツの下、そこには一太刀で刻まれた傷痕がある。

 その痛みと共に、あの日の衝撃は今も鮮明だった。

 

 ――帰ったとして。

 どんな顔で、誰の前に立てばいい?

 

 帰って、ガーデナーを辞めてしまったら?

 今まで兄姉たちが、自分のために費やしてくれた時間や力、そのすべては何になる?

 

 あの時、自分のために軍事局を辞め、隣に立ってくれたリーインシアの行為は――?

 

 ……そのすべてを、無駄にする選択肢は。

 リンデンの中には、最初から存在していなかった。

 それでも、答えが見えるわけではない。

 答えを求めても、行き着くのは同じ場所だった。

 通路の空気は冷たく、静かだった。

 目の奥が重くなる。

 豪雪地帯での長時間の行動と、魔剣使いとの戦闘で削られた体力が、いまになって一気に重みを増す。

 壁に背を預けたまま、まぶたが落ちていく。

 灯りの明滅が徐々に遠のき、視界は暗い水底へと沈んでいく。

 通路の隅、簡易ベンチの上で、彼は音もなく、意識が落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軍事局での用事を終え、トロイは長い通路をゆったりと歩いていた。

 黒と金の装飾が施されたシスター服の裾が、歩みに合わせて柔らかく揺れる。

 靴音は規則正しくも力の抜けたリズムで、まるで散歩のようだった。

 この通路は人通りが少なく、外層の光を取り込むパネルから淡い照明が差し込んでいる。

 戦務の緊張感とは無縁の静けさに、トロイは小さく鼻歌を混ぜていた。

 

 ――そのときだった。

 

 目の前に、黒い影がひらりと降ってきた。

 しなやかな着地の後、尾をぴんと立ててこちらを見上げる、小柄な黒猫。

 瞳は澄んだ色で、ただの猫ではないことは一目でわかる。

 

「およ、シオンちゃん、どうしたのー?」

 

 トロイは足を止め、ゆるく首を傾げる。

 だが、黒猫――第七騎士団(アクシオンゲート)のKING、シオンは答えなかった。

 代わりに尾をゆらりと揺らし、くるりと背を向ける。

 そして、迷いなく歩き出した。

 その動きは「ついてきて」と言わんばかりで、振り返ることもない。

 トロイは肩をすくめ、口元に笑みを浮かべる。

 

「……なるほどー、これは誘導イベントかなー?」

 

 軽口をひとつ。

 そして、歩みをシオンの後ろへ合わせた。

 

 黒猫の後ろ姿を追いながら、トロイは様々な通路を渡っていく。

 最初は軍事局の整然とした廊下。壁面には銀色の金属パネルが並び、ところどころに設置された霊子灯が淡く光っている。

 足元の床は磨き込まれた金属で、足音がやや高めに反響する。

 やがて通路は狭くなり、装飾もほとんど消えた。

 低い天井と薄暗い照明、壁に埋め込まれた配管がむき出しになっている。

 シオンはそんな空気にも構わず、尾をゆらゆら揺らして一定の歩調を崩さない。

 

 突き当たりに、エレベーターが待っていた。

 古い型式のそれは、乗るとわずかに機械油と冷たい金属の匂いが鼻をかすめる。

 内装は無骨で、壁の一面には緊急時用の手すりが走っている。

 扉が閉まると同時に、緩やかな下降が始まった。

 トロイは片手で手すりを掴みながら、反対の手でシスター服の裾を軽く整える。

 足元ではシオンが座り込み、瞼を細めている。まるで、これも行程のうちだと知っているかのように。

 下降が終わり、再び通路。

 今度はさらに人気がなく、空気がひんやりとしていた。

 遠くから機械の駆動音だけが途切れ途切れに響いてくる。

 

「道中長すぎて草ー」

 

 トロイは緩やかに笑いながら、前を行く小さな背中に声を投げる。

 

「今日日わらしべイベントでも、こんな距離歩かないんじゃない?」

 

 もちろん、返事はない。

 それでも構わず、トロイは同じ速度で歩みを合わせ続けた。

 軽口の裏には、ほんの少しの興味と、ほんの少しの予感が滲んでいた。

 

 

 さらに通路を進むにつれ、照明の間隔が広くなっていく。

 淡い光がぽつぽつと床を照らし、光と影の境界が長く伸びる。

 壁は使い込まれた金属板で覆われ、ところどころに擦り傷や小さな凹みがあった。

 このあたりは滅多に人が通らない――それを示すように、空気はひんやりと澄んでいた。

 前を行く黒猫のシオンは、歩調を緩めない。

 尾が左右に一定のリズムで揺れ、やがて通路の奥、暗がりの中へと吸い込まれていく。

 

「シオンちゃん……この先は袋小路だよー?」

 

 トロイは片眉を上げながらも、足を止めることはしなかった。

 シオンが行く場所なら、それはただの行き止まりではないのだろうと、なんとなく理解していた。

 やがて、視界の奥にそれが見えた。

 通路の端――壁から突き出た簡易ベンチ。その上に、人影。

 近づくと、それが誰かはすぐにわかった。

 外套のフードから覗く髪、腰まで届く長い三つ編み。

 リンデンだった。

 

 彼は壁にもたれかかるように座り、目を閉じていた。

 呼吸は深く穏やかで、完全に眠りに落ちているのがわかる。

 通路の静けさの中、その寝息だけが小さく響いていた。

 トロイは足を止め、短く息をつく。

 

「……なるほどー、これが目的地ってわけかー」

 

 黒猫のシオンは何も言わず、ベンチのそばで尾を揺らし、リンデンを一瞥する。

 その仕草に「さあ、どうぞ」と言わんばかりの気配を感じて、トロイは口元にゆるい笑みを浮かべた。

 

「にしても……音信不通の間に、ちょっと大人びたかなー? んー、でも寝顔は変わらず無防備だなー」

 

 そう呟きながら、彼はゆっくりと歩を進め、ベンチの横に立った。

 この光景を、どう扱うべきか。

 トロイは一瞬だけ迷ったが、その迷いすら口元の笑みに溶かしてしまった。

 トロイは軽く息をつきながら、ベンチの端へ腰を下ろした。

 金属の座面はわずかに冷たく、布越しにもひやりとした感触が伝わる。

 隣ではリンデンが微動だにせず、深い眠りに沈んでいる。

 横顔は穏やかだった。

 長い睫毛が静かに影を落とし、わずかに開いた唇から、規則正しい呼吸が漏れる。

 戦場に立つときの鋭さも、背負うものの重さも、この瞬間だけは見えなかった。

 

「……やっぱりちょっとやつれてて草ー」

 

 軽く首を傾げ、トロイは小さく笑った。

 

「相変わらずちょっとやそっとじゃ起きなくて森ー」

 

 指先が、ためらいがちに彼の髪へ伸びる。

 黒に近い深い緑――けれど照明の光を透かすと、奥から鮮やかな翡翠色が浮かび上がる。

 その移ろいに、トロイはふっと目を細めた。

 指を通すと、髪は驚くほど滑らかに流れ落ちる。

 絡まりもなく、艶やかで、指先に心地よい感触を残す。

 

「これは怠惰シスター選手権大会ランヴィリズマ代表のトロイさんも、本気おサボりの花、咲かせないとねー?」

 

 そう冗談めかして囁くと、ゆっくりとリンデンの頭を自分の方へ預けさせた。

 瞬間、頭上の照明が二人を淡く照らす。

 黒に近い深緑の髪が、光を透かして翡翠色に変わる。

 そこに寄り添うように流れる、トロイの薄桃色の髪。

 異なる色が重なり合い、まるで一本の樹が枝葉を交わすように見えた。

 根を地に張り、静かに風を受ける古樹のように――そこには揺るがない静けさがあった。

 重みが肩にかかり、体温がじわりと伝わる。

 わずかな緊張と安らぎが同時に胸に広がる感覚――それをトロイは、深く追及することなく受け止めた。

 

 やるべきことは終わった、と言わんばかりに、シオンが静かに動いた。

 黒猫の姿のまま、ひらりと飛び上がり、リンデンの膝の上に着地する。

 丸くなり、柔らかな尻尾を鼻先に巻きつけると、そのまま小さな寝息を立て始めた。

 通路は静かだった。

 遠くの機械音がわずかに響くほかは、三人の間に流れる時間だけが存在していた。

 トロイは視線を落とし、肩に預けられた重みを感じながら、ふっと笑みを深める。

 口には出さない。けれど、この時間はきっと必要なのだと、なんとなくわかっていた。

 

 

 

 

 

 通路に静かに時間が流れていた。

 どれほどそうしていただろうか――肩の重みも、膝の上で丸くなっていた温もりも、少しずつ動き出す気配を見せた。

 先に動いたのはシオンだった。

 黒猫はすっと瞼を開け、ゆるやかに背を伸ばすと、リンデンの膝から軽やかに飛び降りた。

 爪音も立てずに通路を歩き出し、その姿はすぐに角の向こうへと消えていく。

 それに気づき、トロイもゆっくりと瞼を開いた。

 軽く欠伸をしながら、肩に掛かった重みをそっと支える。

 

「んー……久しぶりに本気おサボりできたなー」

 

 微笑み混じりにそう呟き、もうひとつ言葉を足す。

 

「参加賞は肩こり……とかいってねー」

 

 軽く息をつき、トロイは「よいしょ」と声に出して立ち上がった。

 ほんの少しだけ考え込むようにリンデンの寝顔を見つめ、それから迷いなく屈み込む。

 自分の額を、そっとリンデンの額に当てた。

 通路の淡い光が二人の髪を照らす。

 リンデンの髪は黒に近い深緑――その奥に翡翠色の輝きを宿し、トロイの薄桃色の髪と静かに重なり合う。

 薄桃の花と翡翠の葉が寄り添うように、そこに小さな影が生まれた。

 

「……あんまり一人で遠くに行き過ぎないでよー?」

 

 声は柔らかく、それでも微かに重みがあった。

 

「トロイさん、置いてかれるの好きじゃないからさー」

 

 ほんの一拍だけ、そのまま額を合わせていた。

 やがてトロイは静かに離れ、軽く笑みを浮かべて背を向けた。

 足音が通路に溶けていく。

 残されたリンデンは、静かな眠りの中で微かに息を整えていた。

 淡い光が彼の髪に翡翠色の影を落とし、その輝きはわずかに揺れている。

 

 やがて、通路は再び静寂に包まれた。

 その沈黙は、まるで何もなかったかのようで――けれど確かに、ここにひとつの温度が残っていた。

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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