みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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閑話:ブルーの想芽

 

 

 いつからだろう。

 彼を、自分の視界に収めていたいと思うようになったのは。

 黒灰の汎用ダイブギアスーツに外套を纏い、深く被ったフードで顔を隠す――弟の背中は、やけに遠く見えた。

 その影を、ブルーは物陰からじっと追っている。

 

 音信不通になってから三年。

 任務の最中、ほんの一瞬だけ視界を横切る彼を見つけるたび、胸の奥で小さな針がちくりと刺さるような痛みが走る。

 あの子の瞳を、最後にまっすぐ見つめたのは……もう、三年も前だ。

 その間に、彼はどれほど変わったのだろう。

 背は伸び、肩幅は広がり、声も落ち着きを帯びて――それでも、遠くからでも分かる。あの歩き方も、背中の線も、確かにあの頃の弟のままだと。

 ただ。

 伸ばせば届きそうだった背中は、今はどうしても手が届かない距離にある。

 理由も分からず、ブルーはその距離を測るように目を細めた。

 

 この感覚はなんだろう。戦場で聖弓を振るう時の昂ぶりとも違う。勝利を確信した瞬間の、あの体中が沸き立つような感覚でもない。敗北を叩きつけられた瞬間の、まだ戦えるという疼くような感覚でもない。

 むしろ、もっと静かで……けれどどうしようもなく胸を締めつける。

 

 喉の奥に、ひゅう、と細い息が通る。

 その音を自分でも聞き取った瞬間、なんだか自分が自分じゃないみたいで、居心地が悪くなった。

 足を動かせば追いつける。声をかければ、彼はきっと立ち止まってくれる。

 ――それなのに、体は微動だにしなかった。

 

「……なにしてるんだろ、私」

 

 唇の裏で小さく言葉を転がす。

 問いかけたのは目の前の背中ではなく、自分自身だ。

 そういえば――いつからだろう。

 この子を「守ろう」と、自分から思うようになったのは。

 いつも困ったことがあれば、トロイや運命に頼ってきた。

 でも、あの日だけは違った。

 

 ……あの日。

 

 ブルーの脳裏に、鮮やかすぎる記憶が差し込む。

 まだ幼いリンデン。小さな体は高熱で火照り、意識もおぼつかない。

 迷いながらも医療区画へと走った自分の腕の中で、彼の細い指がぐっと服を掴んだ。

 重くて、熱くて、腕はじんじんと痺れたのに――あの時の自分は、不思議と疲れなかった。

 

「ねぇねだから、この子を助けなきゃ」

 

 その言葉が頭に浮かんだ瞬間の胸の高鳴りを、今でも覚えている。

 あれは、きっと初めて「守る」を自分の意思で選んだ時だ。

 それまでは戦場のため、任務のため、勝つため――全部誰かに与えられた理由だった。

 

 それからの自分は、この子を見守ることが当たり前になっていった。

 背丈が伸びても、声が変わっても、戦い方が洗練されても……目で追う癖はやめられなかった。

 けれど、あの頃の視線と今の視線は、どこか違う。

 昔は「弟だから」という枠にすっぽり収まっていたのに、

 今はその枠の輪郭がぼやけて、形の分からない何かに変わっている。

 その変化に気づいたのは、ずっと後になってからだった。

 遠くでリンデンが誰かと短く言葉を交わし、小さく微笑んだように見えた。

 その瞬間、胸の奥の何かがきゅうっと強く縮まる。

 痛みと温かさが入り混じったような、不思議な感覚。

 

 ――ああ、これ、やっぱり分からないや。

 

 ブルーはそっと目を伏せ、息を吐いた。

 彼の背中はもう、視界の端から消えかけている。

 追えば間に合う。でも、足は動かない。

 なぜなのか、その理由を、今の彼女はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 居住区画の騎士寮エントランスは、夕刻の光が低い角度から差し込み、磨かれた床のタイルを金色に染めていた。

 外から入ったばかりのブルーの外套は、まだ微かに冷たい外気を纏っている。自動扉の開閉音とともに、冷えた空調の風が頬を撫で、その風に混ざって耳に届いたのは、よく知る明るい声だった。

 

「おかえり、ブルー」

 

 フロント脇のソファに腰掛けていたカノンが、片手をひらひらと振って迎える。足元には荷物らしいものはなく、聖剣も見えない。衣服も軽装で、どうやら任務帰りというよりは、これから出かける前のようだった。

 背筋を伸ばしたままのカノンの所作は、何気ない動きの一つ一つまで整っている。長い時間を共にしても、その柔らかな笑顔は変わらない。

 ブルーは外套の前を片手で押さえたまま、ひょこりと彼女の隣に立った。

 いつもなら軽口を交わす場面だが、今日は違う。胸の奥で引っかかったものを、どうしても吐き出したかった。

 

「ねえカノン、ちょっと……変な話、してもいい?」

 

「うん、聞くよ。何があったの?」

 

 カノンは腰をわずかにずらし、自分の隣の空間を空けて座るよう促す。

 手のひらの動きは穏やかで、拒む理由など一つもないのに、ブルーはなぜか落ち着かず、視線を床に落としたまま遠慮がちに腰を下ろした。座面のクッションが軽く沈み、二人の間にわずかな沈黙が落ちる。

 

「……なんかさ、胸のあたりが、変な感じになるんだよ」

 

「ふむ。変な感じって、痛いとか?」

 

 カノンの問いかけは急かすことも詰めることもなく、ただ次の言葉を促すためだけに置かれる。

 ブルーは外套の袖口を指先でいじりながら、言葉を探すように眉を寄せた。

 

「痛いっていうか……こう、針でちょっとだけ刺されたみたいな。でも別に怪我とかじゃないし」

 

 カノンは小さく頷き、肘を膝に置き、両手を組んでブルーの横顔を覗き込む。視線が近いことに気づき、ブルーは慌てて首を反らし、視線をずらした。

 

「それは、いつもなるの?」

 

「んー……いつもじゃないけど……たまに。ほんのちょっとだけ見る時とか」

 

「見る時、っていうのは?」

 

 間を取る質問。カノンの声は相変わらず柔らかいが、そのテンポは、輪郭のはっきりしない何かを少しずつ形にしていくようだった。

 ブルーは膝の上で両手を握り合わせ、言葉をゆっくり引き出す。

 

「……その人を、見かけた時、かな」

 

「その人は、誰?」

 

 ぐっと核心に近づく問い。

 ブルーは胸の奥に熱を感じながら、俯いたまま答えた。

 

「……リンデン」

 

 カノンは頷くだけで、余計な反応は見せない。

 ソファの背にもたれ、組んでいた手をゆるめると、顎に指先を添えて視線をやや伏せた。考えているようにも、ただ受け止めているようにも見えるその横顔は、いつも通りの落ち着きをまとっている。

 

「そっか……リンデンくんを見ると胸がちくっとするの?」

 

「……うん。なんでだろうね」

 

「その後は、どんな気持ちになる?」

 

 ブルーは答えを探すように、視線を床から差し込む夕光へ移す。

 長く伸びた二人分の影が、並んでタイルの上に落ちている。

 少しの間を置き、ぽつりと声を落とした。

 

「ちょっとだけ、苦しい。……でも、嫌じゃないよ」

 

 カノンは微笑みを浮かべ、その言葉を胸の中で繰り返すように小さく頷いた。

 その沈黙は、ブルーにとって答えを急がせない優しさのようで、不思議と息がしやすくなる。

 

「苦しいけど、嫌じゃない……か」

 

 カノンはその言葉を、ひとつひとつ確かめるように繰り返した。

 声にとげはなく、むしろ温度を乗せるようにして、ブルーの耳へ静かに届く。

 

「その“嫌じゃない”っていうのは……どうして?」

 

 問いかけは柔らかく、だが逃げ道を与えない。

 ブルーは「うーん」と小さく唸り、背もたれに身を預けるでもなく、中途半端な姿勢のまま宙を見た。

 

「……分かんない。嫌じゃないっていうか……あ、でも、すっごく気になる。何してるのかな、とか」

 

 言ってから、自分でも変だと思ったのか、ブルーは外套の裾を握って視線を落とす。

 カノンは頷きながら、背中を軽くソファに預けた。

 

「ふむふむ。じゃあさ、もしその人が……リンデンくんが、誰かと一緒に笑ってたら?」

 

 ブルーは一瞬、言葉を探すように口を開きかけ、すぐ閉じた。

 まぶたの奥に、想像の映像が広がる。

 それは任務帰りの廊下で、別の誰かと肩を並べて笑うリンデンの姿――

 胸の奥が、ぎゅっと締まる。

 

「……あんまり見たくない、かも」

 

「ふふ、そうなんだ。どうして?」

 

 カノンは足を組み替え、片方の肘をソファの背に預けながら問いを重ねる。

 ブルーは答えに詰まり、外套の袖口をぐいっと引き下げた。

 

「分かんないよ……ただ、変な感じがする」

 

 それ以上は言葉にならない。

 代わりに、ブルーは視線を夕焼けの窓の外に投げた。

 オレンジの光が彼女の横顔を縁取り、その影をカノンは静かに見つめていた。

 

「変な感じ、なんだね」

 

 カノンの声は、相変わらず水面のように穏やかだった。

 

「……ねえブルー、リンデンくんのことを考えてる時って、どんな顔してるか、自分で分かる?」

 

 不意の問いに、ブルーはきょとんとした顔でカノンを見た。

 その視線の中に、自分ではまだ知らない何かを覗かれている気がして、頬がほんのり熱を帯びる。

 

「どんな顔、って……」

 

 ブルーは眉を寄せ、口元を引き結んだまま言葉を濁す。

 しかしカノンは視線を外さず、少しだけ首を傾けた。

 

「今もしてるよ」

 

「……えっ、なにを?」

 

 慌てて手を頬に当てるブルー。

 その反応に、カノンはくすっと笑い、言葉を続けた。

 

「やわらかい顔。普段のブルーより、ちょっとだけ目元が下がってる」

 

「……そんな顔してた?」

 

 自分ではまったく意識していなかった。

 頬に当てた指先に、熱がじんわりと集まっていく気がする。

 ブルーは反射的に視線を落とし、外套の端を指でくしゃりと握った。

 

「そう。優しい目をしてた」

 

 カノンは、ただ事実を述べるように言う。声には押し付けがなく、ただブルーの中に残すだけの温度だった。

 夕刻の光がゆるやかに陰り、エントランスの灯がじわりと色を増す。

 沈黙の中で、ブルーはふと、胸の奥に残った針のような感覚を確かめる。

 それは痛みではない。けれど、放っておくと落ち着かない。

 

「……やっぱり、分かんないや」

 

 かすれた声でそうこぼすと、カノンはにこりと笑って頷いた。

 

「分かんないままでいいんだよ、今は」

 

 その言葉は、ブルーを追い詰めるでもなく、解放するでもない。

 ただ、心の奥に静かに沈んでいく。

 

 

 

 

 

「ブルー、またね」

 

 カノンの柔らかな声と手の振りに背を押されるように、ブルーはエントランスを後にした。

 外套の裾が軽く揺れるたび、胸の奥のざわつきがまだ沈まない。

 

 自室の扉が閉まると、途端に空気は重くなる。

 雑然と散らかった床には、脱ぎっぱなしのインナーやシャツ、しわの寄った外出着が無造作に積み重なり、その隙間にお菓子の空き袋がいくつも転がっている。机の端には、飲みかけの水やジュースのカップが置きっぱなしだ。

 その光景はいつものはずなのに、今はやけに静まり返って見えた。

 足元のバックルを外し、重いブーツを左右に蹴り出す。革のこすれる音とともに、足先がようやく自由になる。

 外套の留め具を外し、肩から滑らせて床に落とすと、シャツの裾を乱暴に引き抜いた。インナーもまとめて脱ぎ捨て、下着姿のままベッドに身を投げ出す。

 マットレスが沈み、柔らかな反発が返ってくる。

 うつ伏せのまましばらく動かず、シーツの匂いと、自分の呼吸の音だけを感じていた。

 やがて、ふう、とひとつ息を吐き、横向きに体を転がす。

 

 胸元へ手を持っていき、指先でなぞる。

 そこは何も変わらず、自分の体の一部でしかないはずなのに――カノンに話した「ちくっとする感覚」が、また微かにそこにあった。

 温度なのか、鼓動なのか、自分でも判別できない。けれど、確かにそこにいる。

 

「……なんだろ、これ」

 

 独り言は、散らかった部屋の空気に吸い込まれて消える。

 

 胸をなぞる指先に、ふと別の温度が蘇った。

 それは、八年前――リンデンが十五歳になったばかりの頃のことだ。

 騎士団の兄姉たちが在籍している学園の、とある教室。

 臨時の集まりに呼ばれたその日、扉が開いて、見慣れない制服姿が入ってきた。

 黒を基調にしたカーディガンと、まだ身体に馴染みきっていないワイシャツ。

 リンデンの姿は、いつもの彼とはまるで違って見えて――ブルーはその瞬間から、目を離せなくなっていた。

 教室のざわめきの中、彼は兄姉たちの視線を正面から受け止めながら、落ち着いた足取りで前を通り過ぎていく。

 その横顔の線や、整えられた髪の隙間から覗く瞳の色が、妙に鮮やかで。

 ブルーは席に腰掛けたまま、まるで時間が少しだけ遅くなったように感じていた。

 

 あっという間に過ぎた一日。

 最後に全員で写真を撮ることになり、教室の机と椅子が後方へ押しやられる。

 輪になって並ぶ兄姉たちの中で、ブルーは何も言えず、ただもじもじしていた。

 リンデンの左隣にはすでにトロイが座っている。そこから先は埋まっていて、自分の居場所はないと思っていた――その時。

 

「ブルーちゃん、右側、座ってくれるー?」

 

 座ったままのトロイが、空いていた右隣をぽんぽんと叩いた。

 驚いている間に皆から背中を軽く押され、ブルーはリンデンのもうひとつの隣に腰を下ろす。

 ……本当に、自分がここでいいのだろうか。

 落ち着かなくて、視線は床ばかり。肩がこわばり、指先は膝の上で落ち着きなく動く。

 ぎこちない笑みで彼を見上げる。そのそわそわが伝わったのか、リンデンの手が、そっとブルーの手を包み込んだ。

 温かくて、柔らかくて。

 ただそれだけのことで、胸の奥がぐっと満たされる感覚がした。

 この手を――ずっと握っていたい、その時は本気で思った。

 あの時、リンデンの手を握っていた自分は、何を思って笑っていたのだろう。

 ただ温かくて、ただ安心できて、それ以上の言葉は持たなかった。

 

 ――そうだ。あれからずっと、私はこの感覚の名前を知らないままだ。

 

 まぶたの裏に焼き付いた制服姿の横顔が、ふっと揺らぎ、現実の天井に溶けていく。

 ブルーはゆっくりと目を開け、胸に置いていた手を少し強く押し当てた。

 心臓の鼓動が、昔よりもずっとはっきりと響いている気がする。

 

 ベッドの上で転がるたび、散らかった部屋の中で紙の袋やカップがかすかに音を立てた。

 視線をそちらに向けても、何も変わらない。

 けれど、胸の奥に残った温度だけは、あの時と変わらずそこにある。

 

「……ずっと、なのかな」

 

 小さく漏れた言葉は、自分でも答えを求めていない。

 ただ、天井の向こうにいるかもしれない誰かに向けて落とされたような、そんな響きだった。

 ブルーはごろんと仰向けになり、両腕を頭の上に伸ばした。

 窓の外は、もう完全に夜の色に沈んでいる。

 静かな暗さの中で、胸の鼓動だけがひどく鮮やかに感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胸の奥にわだかまりを抱えたまま、三年が過ぎた。

 戦場に出れば、体は軽く、血が巡るたびに世界がくっきりと色づく。敵を滅ぼすたび、全身が気持ちよく満たされる。

 仲間と過ごす時間は楽しい。ブレイドラインの面々と交わす笑い声は、確かに自分を温めてくれる。

 

 ――それでも。

 

 こうして一人になると、胸の底に沈んだ“分からないなにか”が、ゆっくりと顔を覗かせる。

 手を伸ばしても形をつかめないのに、確かにそこにあると分かる。

 GARDEN第五層、学園区画の午後。

 授業を終えたブルーは、胸にカバンを抱きしめたまま、俯くようにゆっくりと歩いていた。

 制服の袖口が揺れ、靴音が規則的に石畳を叩く。耳には遠くから聞こえる生徒たちの笑い声や談笑が、波のように寄せては返す。

 軌道エレベーターの搭乗口前に着くと、すでに多くの学園生が列を作っていた。

 その中に混ざり、無言で順番を待つ。視線は足元の床模様へと落ちたまま、周囲のざわめきは耳をすり抜けていく。

 やがて、昇降ブザーの音とともにエレベーターの扉が開く。

 人の流れに押されるように中へ進み、背後の扉が閉まると、外の光はすぐに途切れた。

 わずかな揺れと重力の変化が足裏から伝わる。

 下層――第六層へ。

 

 密閉された空間の中で、ブルーは胸に抱えたカバンへ指先を食い込ませるように握りしめた。

 それは防寒のためでも、荷物が重いからでもない。

 ただ、この胸の奥に沈むものが、今にも声を上げそうな気がして、押さえつけたかった。

 閉ざされた箱の中、低く唸る機械音と、かすかな揺れ。

 エレベーター内の空気は、人の体温と香水の匂いが混ざり合って少し温い。

 ブルーの視線は相変わらず足元に落ちていたが、耳は前方から漂ってくる声を自然と拾っていた。

 

「さー、この前のあの映画、どうだった?」

「んー……正直、わざとらしいよね」

「でしょ?あんなピュアなわけないじゃん。あんな一目惚れとか、現実である?」

「ないない。あんなの台本と演出だから成立してるんだよ」

「しかもさ、最後の手を握るシーン、あれわざと“狙ってます”ってカメラの位置だよね」

「そうそう!あんなのされたら絶対意識するって分かってやってるでしょ」

 

 笑い混じりの声が、狭い空間でやけに近く響く。

 ブルーはふと、胸の中で何かがぴくりと動いたのを感じた。

 

 ――手を握る。

 

「でもさ、ああいうの憧れる子はいるよね。実際されたらドキドキするかもよ?」

「……ま、相手によるけどね」

「だよねー。好きでもない人だったら鳥肌立つかも」

「逆にさ、何も言わずに自然にそういうことできる人ってカッコよくない?」

「分かる!なんか安心できるっていうかさ」

 

 会話の断片が、まるで胸の奥に直接落ちてくるみたいだった。

 ブルーは無意識に、抱えたカバンの上から胸を押さえる。

 あの時――制服姿のリンデンが、何も言わずに手を握ってくれたあの瞬間が、鮮やかに浮かび上がってくる。

 映画の話だと笑って流せばいいのに、耳は勝手に次の言葉を求めていた。

 

「結局さ、ああいうのって“自分がどう思ってるか”で全然違うんだよね」

「うん。だって好きな人ならドキドキするけど、そうじゃなきゃ重いだけ」

「だよねー。相手が特別だからこそ、手を握られる意味も変わるんだよ」

 

 ブルーは小さく息を呑んだ。

 ――特別、だからこそ。

 

 胸の奥に沈んでいた“分からないなにか”が、そこでわずかに輪郭を持った気がした。

 それはまだ霧に包まれているけれど、確かに形になりつつある。

 エレベーターの扉が開くと、温い空気が一気に流れ込み、人の流れが前へ押し出してくる。

 ブルーもその波に混ざり、何も言わずに足を進めた。

 第六層の街並みは、重霊子構造のコンクリートで区画され、無機質な壁面と人工灯が並ぶ。

 整然と並ぶ建物の間を、通りを埋めるように人影が行き交う。

 それらを横目に、ブルーは俯きがちに歩いた。

 

 ――相手が特別だからこそ、意味が変わる。

 ――好きな人なら、ドキドキする。

 

 エレベーターの中で交わされていた言葉が、何度も胸の中で反芻される。

 じゃあ、あの時――あの手を握られた瞬間の、自分の心はどうだっただろう。

 頭の中で問いを投げかけた途端、制服姿の彼の横顔と、指先から伝わる確かな温もりが蘇る。

 目を伏せたままの自分、肩を触れ合わせた距離、そしてそれを拒まなかった事実。

 分からない“何か”は、もう霧の中から抜け出しかけていた。

 輪郭を持ち始め、その形をなぞろうとすれば届きそうなほどに。

 

 ――でも。

 もし、それが何なのかを理解してしまったら。

 自分はどうなるのだろう。

 知ってしまった瞬間、もう後戻りはできないのではないか。

 足音が石畳を叩く音がやけに大きく響く。

 騎士寮の前まで来ると、目の前で自動ドアが音もなく左右に開いた。

 吐き出された冷たい空気が、ほんの少しだけ頬を撫でる。

 胸の奥に沈んでいたそれは、もはや完全に無視できるようなものではなくなっていた。

 息を吸い込み、吐く。その度に、形を持った何かが、静かにそこに居座り続けるのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 自動ドアが閉まる音が背後で遠のき、冷たい空調の空気が背筋をすり抜ける。

 寮の廊下は放課後特有の静けさに包まれていた。足音と、たまに開く部屋のドアの音だけが響く。

 ブルーはいつもよりゆっくりとした歩調で、自室の番号が刻まれた扉へ向かった。

 

 認証パネルに指先をかざすと、軽い電子音とともにロックが外れる。

 扉を押し開ければ、そこにはいつも通りの雑然とした空間――脱ぎっぱなしのシャツやインナー、ベッド脇の床に転がるお菓子の袋、机の上には飲みかけのカップ。

 生活の匂いが、ほっとするような、少しだけ重いような空気を漂わせている。

 

 背中から壁にもたれ、カバンを床に置くと、ブルーはその場でブレザーのボタンを一つずつ外していく。

 肩から滑らせたそれを椅子の背に掛け、続けてスカートのホックとファスナーを下ろす。足元に落ちた生地を片足で踏み出して跨ぎ越し、タイツもするすると下ろし脱ぎ捨てた。

 

 黒ワイシャツの前を開き、インナーごと腕を抜けば、下着姿の肌が室内の空気に触れる。

 そのまま何も考えず、ベッドに向かって軽く跳ねるように身を投げた。

 柔らかいマットレスが全身を受け止め、跳ね返る感覚とともに、布の匂いが鼻先をかすめる。

 

「……ふぅ」

 

 両腕をだらりと伸ばしたまま、うつ伏せで沈み込む。背中を包む布地の柔らかさと、胸の奥に残るざわめきが、ゆっくりと混ざり合っていくようだった。

 マットレスの柔らかさに全身を預けて、うつ伏せの姿勢からゆっくりと横を向く。

 視線の先には、散らかった床に転がる制服の山と、お菓子の袋、そして机の上の飲みかけのカップ。

 さっきまで胸の奥で形を作ろうとしていた何かが、まだじんわりとそこにある。

 

 ――あの時、手を握られた時の自分は、どんな顔をしていただろう。

 

 カノンに問われた声が、耳の奥で再び響く。

 「リンデンを見ると、その後はどんな気持ちになる?」

 あの時は「ちょっと苦しい。でも嫌じゃない」と答えた。

 そしてもうひとつ、「もしリンデンが他の人と笑っていたら?」と聞かれて、即座に「見たくない」と口にしていた。

 

 じゃあ――自分の前で、彼が笑ってくれたら?

 

 脳裏に浮かぶのは、制服姿で自分の隣に座り、何も言わずに手を握ってくれたあの日の彼。

 わずかに唇が緩むのを自覚した瞬間、下着越しに胸の鼓動がはっきりと早くなるのを感じた。

 耳に届くそのリズムは、部屋の静けさの中でやけに鮮明だった。

 

 ……これが、ドキドキするってこと?

 

 思わず片手を胸に当て、指先に伝わる鼓動の速さを確かめる。

 薄い布地のせいか、鼓動はどこか遠く、確信を持つには少し曖昧だった。

 もっとはっきり知りたかった。

 ブルーは上体を起こし、肩紐を滑らせる。

 背中にひやりとした空気が触れる。下着を外してしまえば、布越しのわずかな隔たりすらなくなり、手のひらが自分の肌に直接触れた。

 

 鼓動は、そこにあった。

 速く、熱く、押し返すように脈打っている。

 それは今、この瞬間に生まれたものではない。

 ずっと前から、自分の中にあって、ただ名前を与えられずにいた何か。

 呼吸が浅くなる。

 指先でわずかに押し返すと、その度に胸の奥から返ってくる律動が、さらに鮮やかに意識へ染み込んでいく。

 

 ――ああ、そうか。

 

 その言葉を口にしなくても、理解は胸の内に降りてきた。

 名前を上げる必要はない。

 ただ、この感覚が何なのか、自分はもう確かに分かってしまった。

 

「すき」

 

 かすれるほど小さな声だったのに、口にした途端、胸の鼓動がさらに早まる。

 鼓動が速くなるたび、体の奥まで熱が広がっていくのが分かる。

 どうしようもなく確かめたくなって、ブルーはもう一度、同じ言葉を吐き出した。

 

「――すき」

 

 ベッドの上、片腕を枕にして横たわるブルーの口元に、自然と笑みが浮かぶ。

 それは、自分でも気づかないほど柔らかく、そして無防備な笑みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 任務帰りの回廊は、薄い霊子灯の光に満たされ、無機質な床に庭師たちの足音が反響していた。

 金属の匂いと機械油のかすかな香りが混ざる空気の中、視界の奥に一人の背中が映る。

 黒灰の汎用ダイブギアスーツに外套。

 迷いのない歩幅、静かな呼吸のリズム――それが誰なのか、ブルーには見間違える余地がなかった。

 胸の奥が、不意に強く脈打つ。

 

 ――今だ。今しかない。

 

 数日間、胸の中で燻っていた熱が、背中越しの彼を見つけた瞬間に一気に燃え広がる。

 足が勝手に速くなり、靴底が床を叩く音が耳に近く響く。

 その音に気づかれやしないかと一瞬ためらい、呼吸を浅くした。

 視界の中の背中まで、あと十歩。

 六年分の距離が、ただの十歩に変わる瞬間が迫っている。

 言葉を出すタイミングを計りながら、喉の奥で音を転がす。

 けれど、声はまだ形を持たない。

 逃げたい気持ちと、立ち止まりたくない気持ちがせめぎ合う。

 

 ――もし、今を逃したら。

 

 その先の光景を想像するだけで、胸の鼓動はさらに速まる。

 耳の奥で、ドクン、ドクンと音がする。

 自分の声よりも、まずその音を彼に届けてしまいそうで、ブルーは息を止めた。

 あと五歩。

 背中の外套が霊子灯の光を受けて、わずかに縁が浮かび上がる。

 その肩の線が、思っていたよりも広い。

 昔の記憶の中の彼より、ずっと大人になっている。

 

 ――呼ばなきゃ。

 

 言葉が唇の裏に滲み出た瞬間、ブルーは足を一歩踏み出し、喉から絞り出した。

 

「……リンデン!」

 

 自分の声が、思っていたよりも遠くまで響いた。

 通りすがる庭師たちがちらりと視線を向ける中、その背中がぴたりと止まる。

 静かな間のあと、ゆっくりと振り返った。

 六年ぶりに正面から受け止める顔――。

 その輪郭は鋭く、頬の線は引き締まり、眉の位置や形までが以前よりもわずかに変わっていた。

 年齢を重ねたというより、無数の戦場と決断を通り抜けた人間だけが持つ深みがそこにあった。

 

 けれど、瞳は変わらなかった。

 暗紅の輝きが、まっすぐにこちらを捉え、逃がさない。

 その色に映り込む自分を見た瞬間、ブルーの胸の鼓動がさらに強く跳ねた。

 

 ――やっぱり、そうだ。

 

 数日前、ベッドの上で確かめた鼓動と同じ。

 それは名前を呼ばずとも、自分が何を抱えているのかを告げてくれる。

 今なら、もう迷わない。

 

 ブルーは息を整える暇もなく、勢いのままに口を開いた。

 その場で伝えられるだけのことを、短く、簡潔に。

 言葉が空気を震わせ、相手の耳に届いたのを確かめると、逃げるように踵を返した。

 

 ――背中を向けたまま、鼓動の熱を必死に抑えながら。

 







次回はデート回です。


恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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