みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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デート回後半です。





ソロガーデナーと告白.5

 空が紫色のグラデーションを描きながら、ゆっくりと夜へと傾いていく。

 陽が落ち始めた広場の境界には、可動式のLEDフレームと低音を帯びた音楽が漂い始め、仄かに揺れる光が人々の表情を浮かび上がらせていた。

 円形に配置された数十台のフードモビリティ・ユニット(FMU)が、各々の出力ポートから白い蒸気や甘い香りを空中に放っている。

 車体にはホログラフィックで「YUUZ SoftGlow」「MECHA CURRY-51」「Meltan.Crêpe」など個性的な屋号が流れ続け、移動都市の一角を思わせるような景観を作り出していた。

 ブルーは、一歩足を踏み入れた瞬間から、完全に目を奪われていた。

 

「わあ……すごい……」

 

 自分の足元から世界が突然切り替わったかのような錯覚。

 さっきまでのカフェの静けさとは全く異なる、“生きている街の鼓動”がそこにはあった。

 リンデンはそんなブルーの横顔を、視線だけで静かに追っていた。

 不思議と口を挟む気にはなれなかった。

 ブルーは、息を詰めるように周囲を見回している。

 香ばしいソイミートの焼ける音、フルーツキャンディを固めて作られたマイクロ飴細工のディスプレイ、煙の代わりに香気ミストを焚いているティースタンド。

 一つ一つの光景が、まるで「童話の中の屋台都市」そのものだった。

 そして何より──。

 彼女が、心からそれを楽しそうにしている。

 

「リンデン……ねえ、あっちの……!」

 

 ブルーがぐいっと手を引いた。

 指を絡めていたはずの手が、思わずぎゅっと握り直される。

 その指先の力加減に、リンデンの目元がわずかに綻ぶ。

 

「ええ、行きましょう」

 

 ブルーが指差した先には、透明な液体窒素キャニスターを使ってその場で瞬間凍結するポップコーン屋があった。

 光の中でくるくると回転するコーン粒のホログラム。

 「“限定フレーバー:氷結マンゴー&ハチミツマスタード”」という不思議な文字列に、ブルーの目がきらりと光る。

 

「それ……お口に合いそうですか?」

 

「わかんないけど、食べてみたい……!」

 

 心のままに動く、純粋な反応。

 リンデンは頷いて、ブルーを連れてその屋台へと歩み寄った。

 イベント広場の中心、屋台の光に照らされながら、ふたりの影がそっと重なりはじめていた。

 

 淡い冷気を纏う紙カップから、ふわりと白い蒸気が上がる。

 淡黄色のコーンに薄く結晶化した氷の粒がまとわりつき、陽光の残滓を微かに反射していた。

 

「わわ……つ、冷たっ……!」

 

 ブルーはカップの縁からそっと指を入れ、コーンをひとつつまんで口に運ぶ。

 ポリッという控えめな音のあと、表情が一変した。

 

「……あ、あまい……けどすごく爽やかっ……! えへへっ、口の中が、しゅわしゅわしてる……!」

 

 瞳がぱぁっと開き、まるで未知の魔術を体験したようにきらきらと輝く。

 その様子に、隣を歩くリンデンも静かに口角を上げた。

 

「口どけが早くて、素材の香りが活きているようですね。マンゴーのほうが強めでしょうか?」

 

「うんっ……でも後味がちょっとだけ、甘じょっぱい感じ……! これ、ほらっ……!」

 

 ブルーは思いきったように手を差し出し、ひと粒のポップコーンをリンデンに向けて差し出した。

 差し出された指はどこか落ち着かず、頬はほんのり赤い。

 

「どうぞ……ひとくち……たべて?」

 

 リンデンは少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに小さく微笑み、ブルーの手元へと顔を寄せてひと粒を受け取る。

 

「……では、遠慮なく」

 

 口に含んだ瞬間、氷の粒がほろほろと崩れ、マンゴーの香りが口の中に広がっていく。

 その背後にほんのりとしたスパイスの輪郭。確かに、ブルーの感想通りだった。

 

「……確かに、これは面白い味構成ですね」

 

「でしょっ! えへへ……やっぱり、わたしが選んだの正解だったかも……!」

 

 そう言ってもうひと粒、頬張るブルー。嬉しそうに笑う姿は、まるで宝石を口にしているかのようだった。

 

 

 キッチンカーが並ぶ通りをふたりはゆっくりと進む。

 次に立ち止まったのは、木製のボディにナノガラスの窓枠が取り付けられた、小さなスパイス菓子の屋台。

 ターメリック・レモン・ハチミツ・ミントなど、さまざまな素材を組み合わせた“温菓子”が並ぶその店先で、ブルーはまた目を輝かせた。

 

「リンデンっ……これ、いっこずつ食べてみない……? わたし、ミントのやつにするから……」

 

「……では、私はレモンジンジャーを」

 

 互いに小さな包装のスイーツを受け取り、ベンチ代わりのアクリルチェアに並んで腰を掛ける。

 目の前には、仄かに灯る照明の列と、遠くで響くミニステージの演奏音。人々の笑い声はあれど、どこか心地よい距離感に保たれている。

 

「これ……はい、リンデンも食べてみて?」

 

 ふたたびブルーが差し出してくる。

 今回はミント香る小さなスイーツを、やや照れくさそうに、そっと手のひらに乗せて。

 

「……どうして、そんなに?」

 

「んー……だって、一緒に美味しいって思いたいなって……」

 

 そう言ってはにかむブルーの横顔に、リンデンの胸の奥が、静かに波打った。

 

「……ありがとうございます。とても、嬉しいです」

 

 その返事に、ブルーの頬がまたひとつ、火照って染まっていった。

 互いに手から口へ、静かに甘味を渡す。

 そこにあるのは、どちらかが“与える”でも、“受け取る”でもない。

 “分け合う”という行為の温度だった。

 イベント広場の上空、音もなく流れるホログラムの花火が、ふたりの頭上で静かに揺らめいていた。

 

 広場の中央に、柔らかな電子音が鳴り響いた。

 瞬く間に無数の光点が夜空へ舞い上がり、静かに広がっていく。目には見えない軌道をなぞるように、微小ドローンたちが星座を編み込む。青白い尾が残光を引き、まるで夜空そのものが呼吸を始めたかのようだった。

 

「わっ……!」

 

 ブルーの瞳がまん丸に開き、思わず息をのむ。

 群れをなす光は、やがて花弁のように重なり合い、波紋のように広がっては消えていく。その度に歓声が上がり、人々が一斉に空へ手を伸ばす。

 リンデンもまた、首を少し傾けて光景を仰ぎ見た。

 頬をなでる風は、熱気を帯びた広場の空気とは別の清涼さを運んでくる。静かに瞬きをひとつ置いたあと、落ち着いた声がブルーの耳に届いた。

 

「……本当に綺麗ですね。ドローンの群れで、ここまで表現できるとは。まるで、本物の夜空が息をしているようです」

 

 その言葉に、ブルーは胸の奥がぎゅっと温かくなるのを感じた。

 ただ“技術”としてではなく、“美しい”と一緒に感じてくれている――それが、どうしようもなく嬉しかった。

 

「うんっ……! ほんとに……!」

 

 思わず頷き、彼と同じ空を見上げる。

 その時、光の連鎖に混ざるようにして、小さなハートが描かれた。観客がざわめき、子どもが歓声を上げる。

 

「……あっ、かわいい……」

 

 ブルーは思わず口にしてしまい、はっとして横を見た。

 隣に立つリンデンは、微かに口元を緩めただけで、言葉を継がなかった。だが、その一瞬の穏やかな微笑みは、胸の奥を強く打つ。

 心臓が、光の点滅に合わせるように高鳴っている。

 こんな風に誰かと空を見上げるのは初めてだった。しかも、それが――リンデンで。

 

「……」

 

 ブルーは声にならない言葉を喉で噛み殺す。

 喉の奥が熱く、どうしてか視界の光が滲んで見えた。

 空のハートはすぐに崩れて流星の群れへ変わり、人々はまた歓声を上げる。

 けれどブルーにとっては、その一瞬だけの形が、どんな花火よりも眩しかった。

 そしてその横にいる彼の存在が、光景そのものよりも、ずっと鮮やかに心を染めていた。

 

 ――きっと、これが。

 “恋”というものなんだ。

 

 そう気づいた瞬間、胸の内でそっと囁くように確信が芽生えた。

 ドローン花火の余韻が広場を包み込む。

 人々のざわめきに混じりながら歩いていた二人は、通りの端にきらめく光の壁を見つけて足を止めた。

 それは半透明のスクリーンの列。水面のように揺らめくその表面に触れると、色彩が波紋のように広がり、形を変えていく。青や橙、紫の光が幾重にも重なり合い、まるで夜空に浮かぶ幻の庭園のようだった。

 

「……わ、なにこれ……!」

 

 ブルーの目がぱっと輝く。

 近くでは子どもが掌を当てて花を咲かせ、隣のカップルは二人で同時に触れ、大きな樹を描き出している。光は生き物のように蠢き、音楽と呼応するかのように揺らいでいた。

 

「リンデンっ、やってみようよ!」

 

 彼女は繋いでいた手を引き、弾むようにスクリーンへ駆け寄る。

 そのまま二人の掌を、壁の表面にそっと重ね合わせた。

 ――瞬間。

 紅と青の光が交じり合い、大輪の花が咲き誇るようにスクリーン全体へ広がっていった。花弁は波打つように開き、やがて周囲の模様までも飲み込んでいく。

 

「わぁ……! すごい……! 咲いたっ……!」

 

 ブルーの声が歓声の中に弾む。

 胸の奥に熱がこみ上げ、繋いだ指先から鼓動が伝わってくるような錯覚に思わず息を呑んだ。偶然じゃない。――彼と一緒だからこそ、生まれた光の形だ。

 リンデンはその光景を見上げ、少しだけ口元を緩める。

 

「……二人で触れると、これほど鮮やかになるのですね」

 

 落ち着いた声。けれどそこには、確かに驚きと、わずかな感嘆が滲んでいた。

 

「えへへ……! ね、ねっ、やっぱり特別だよね……!」

 

 ブルーは思わず身を寄せる。彼の反応は控えめで、それでも確かに胸に届く。

 やがて花の模様は散り、光の粒となって宙へ溶けていった。

 広場の喧騒はそのまま続いている。けれど、ブルーの世界は今、光の中で彼と繋いだ手だけがすべてだった。

 

 

 

 

 

 光と音に包まれた広場を後にし、二人は人混みを抜けてゆっくりと歩き始めた。

 背後からはまだ歓声と演奏が響いてくる。けれど、距離が離れるごとにそれは薄れ、やがて夜風の音と木々のざわめきが耳に残るだけになっていく。

 

「……静かになりましたね」

 

 リンデンが小さくそう呟いた。

 ブルーは頷きながらも、胸の奥にじわりと寂しさが広がっていくのを覚えた。

 ――あの広場の明かりも、音も、今はもう遠くなってしまった。

 楽しい時間が、ゆっくりと終わりに近づいている。

 そう思うと、指を絡めた手に力が入ってしまう。

 

「……ね、リンデン」

 

 不意に名前を呼んで、けれど続く言葉は見つからない。

 振り返った彼の穏やかな眼差しに、慌てて「なんでもないっ」と笑みを繕った。

 けれど心臓は嘘をつけず、鼓動だけが痛いくらい耳に響いていた。

 

 歩道には小さな街灯が並び、足元を照らす。

 光が落ちるたびに影が伸び、二人の影は重なり合っては離れ、また重なった。

 その一瞬ごとに、ブルーは「これが終わったら、また離れてしまうんだ」という不安に胸を締め付けられる。

 

「……楽しかったですね」

 

 リンデンの淡い言葉が夜気に溶けた。

 

「うん……すごく、楽しかった……」

 

 ブルーは笑顔を返したが、その笑みの奥には「終わらないで」という祈りが隠れていた。

 やがて視界に緑の輪郭が浮かび上がってくる。

 夜間ライトアップされた植物園の入り口。光を纏った葉や花が、幻想の庭のように静かに佇んでいた。

 

 ――ここに入ったら、きっと最後。

 そんな予感が、ブルーの胸にじんわりと積もっていった。

 楽しい、幸せ、でも同時に、もうすぐ終わってしまう――その矛盾した感情が、彼女の心を揺さぶり続けていた。

 

 植物園のゲートをくぐった瞬間、外のざわめきがすっと遠のいた。

 夜間ライトアップされた園内は、まるで別世界だった。

 透き通るように光を宿した葉が揺れ、枝先の花々が淡い青や紫に発光しながら夜風に震えている。足元には水盤がいくつも広がり、その水面に浮かぶ花弁が光を抱いて流れていた。

 

「……すごい……」

 

 ブルーは思わず息を呑んだ。

 言葉では足りない光景。胸の奥にきらきらと染み込んでくるような静謐さに、彼女はただ見とれてしまう。

 リンデンは隣でゆっくり歩を進めながら、短く感想をこぼした。

 

「静かで……落ち着きますね」

 

 その声は穏やかで、彼らしい冷静さに満ちていた。

 けれどブルーには、その冷静さすら心地よく感じられた。隣に彼がいて、一緒に同じ景色を見ている――ただそれだけが、幸福だった。

 指を絡めたまま、ふたりは奥へと進んでいく。

 通路の両脇には光を帯びた蔓が絡み合い、アーチのように頭上を覆っていた。そこを抜けるたびに、まるで星空の下を歩いているような錯覚に包まれる。

 

「リンデンっ、見て……この花、光ってる……!」

 

 ブルーが身を乗り出し、小さな花弁を指差した。

 淡い緑色に輝く花は、まるで呼吸をしているかのように明滅を繰り返していた。

 

「霊子を吸収して光を放っているのでしょう。……自然にこれほどの仕組みを持つとは、驚きです」

 

 淡々とした分析。けれどブルーには、それがどこか優しい子守唄のように響いた。

 

 「えへへ……なんか、リンデンが言うと、全部すごく特別に聞こえるね」

 

 はにかむ声が夜気に溶けていく。

 歩くほどに、胸の奥が熱を帯びていった。

 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。

 でも、終わりはすぐそこまで迫っている。

 園の小道を抜けるたびに、花々の光は少しずつ淡くなり、やがて視界の先に出口のゲートが見えてきた。

 両脇に灯る小さなランプが、別れを告げるように道を照らしている。

 ブルーは足を止めかけたが、繋いだ手に力を込めて一歩踏み出した。

 ――ゲートを抜けたら、このデートは終わってしまう。

 その事実が、胸の奥で重く膨らんでいく。

 心臓は速く、痛いほどに打ち続けていた。

 

 光に照らされた小道を抜け、二人は植物園のゲートを潜った。

 背後に残る花々の輝きは、もう遠い記憶のように淡く揺れている。

 広がる夜空と、街灯の灯りだけが彼らを照らしていた。

 その一瞬、不意に繋いでいた指がほどけた。

 ほんの小さな感触の欠落。けれどブルーの胸には、鋭い痛みのように広がっていく。

 

 足が止まる。

 リンデンは数歩先へ進み、気づいて振り返った。

 

「……姉さん?」

 

 彼の呼び掛けは柔らかかった。

 けれどブルーは応じられなかった。顔を伏せ、両手でスカートの裾をぎゅうぎゅうと握りしめる。

 白い指が震え、爪が生地に食い込んでいく。

 

 胸の奥からせり上がってくるのは、寂しさ、焦燥、そしてどうしようもない切迫感だった。

 ――このデートが終われば、また元の距離に戻ってしまう。

 ――このままでは、何も伝えられないまま、彼は遠くへ行ってしまう。

 沈黙が二人を隔てる。夜風が吹き抜け、木々の枝葉を揺らす音だけが響いた。

 その静寂を破るように、掠れた声が、彼女の唇から漏れた。

 

「――ねえ、リンデン」

 

 その声は夜に消えそうに小さく、それでも確かに彼の心を打つ響きを持っていた。

 ブルーは顔を伏せたまま、震える吐息を押し殺すように言葉を紡ぐ。

 

「――私じゃ、ダメかな……リンデンの隣に居るの」

 

 その言葉を吐き出した瞬間、ブルーの胸は焼けるように熱くなった。

 喉の奥が詰まり、呼吸が浅くなる。言ってしまった、もう後戻りはできない――そんな恐怖が背筋を冷たく這い上がる。

 けれど同時に、彼を見つめる視線だけは逸らせなかった。

 振り返るリンデンの眼差しが揺れるのを見た時、心臓がぎゅっと締め付けられる。

 

「わ、私……ドジで、恥ずかしがり屋で、戦うことくらいしか出来ないへっぽこで……!」

 

 声は震えて、途切れ途切れに響いた。

 言葉を口にするたびに、自分の欠点が胸に鋭く突き刺さる。

 それでも止められなかった。

 涙が頬を伝っていくのを気にする余裕さえなく、ただ必死に紡ぎ続ける。

 

「トロイさんみたいにしっかりしてないし……! リーインシアさんみたいにリンデンのサポートだって出来ないけど……!」

 

 名前を口にするたびに、胸の奥がじりじりと痛んだ。

 自分よりずっと強く、ずっと頼れる存在たち。

 彼にとって自分は、その誰かの代わりにすらなれないのだと分かっている。

 それでも――諦めたくなかった。

 

「でも……! 隣でリンデンのこと、ずっと見てられるよ!」

「手だって繋げるし、抱きしめられるよ!」

 

 両手が震える。

 握り締めた拳に爪が食い込み、痛みが走っても気づかない。

 ただ胸に溜め込んできた想いが、炎のように込み上げて彼女を突き動かしていた。

 夜風が頬を撫でる。涙に濡れた肌が冷たく震える。

 けれどその冷たさすら、胸の熱でかき消されていく。

 そして最後に、押し殺してきたすべてが決壊する。

 ブルーは嗚咽混じりに、それでも真っ直ぐに声を張り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「リンデンに、ずっと“好き”って、伝えられるよ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 騎士寮のエントランスは、夜の静けさに包まれていた。

 予報よりも早く降り始めた雨が窓を叩き、硬質なリズムで床や壁に反響している。

 その音が、室内の空気をひどく冷たく感じさせていた。

 

「……ブルー、遅いね」

 

 カノンはソファに腰を下ろし、両手で抱えたカップに視線を落とす。

 紅茶の表面には雨の音に呼応するような細かい揺らぎが走り、淡い湯気が彼女の頬に溶けていく。

 その指先にこもる力は、じっと待ち続ける不安を隠すには少し足りなかった。

 

「んー……まあ、もうすぐ帰ってくると思うよー?」

 

 窓辺に立つトロイが気の抜けた声で答える。

 けれどその眼差しは決して軽くはなく、薄桃のサイドテールを指でひと撫でする仕草の合間に、雨の向こうへと深く注がれていた。

 落ちる水滴が窓をつたって伸びていく。その軌跡を追う視線には、確かな心配が滲んでいた。

 

「そこまで遠い距離ではないからねー。……でも、雨に濡れて帰ってくるのは間違いないだろうなぁ」

 

 軽口めかして言いながらも、声はどこか柔らかく沈んでいた。

 寮の時計が、規則正しく秒を刻む。

 待つ時間は短いはずなのに、雨音がそれを引き延ばしているようだった。

 カノンは小さく息を吐き、視線を窓へ移した。

 雨脚はさらに強まり、エントランスの窓硝子を激しく叩いていた。

 絶え間なく落ちる雫が白い線を描き、外の景色をすっかり滲ませている。

 

 ――その時。

 

 静かな機械音とともに、自動ドアが開いた。

 冷たい外気が一気に流れ込み、濡れた匂いと雨の気配が室内に広がる。

 

「……っ!」

 

 カノンは思わず立ち上がった。

 そこに立っていたのはブルーだった。

 全身ずぶ濡れで、蒼の長髪は水を滴らせながら背に張り付いている。

 着ていたワンピースは泥が飛び散ったようにところどころ汚れ、膝あたりには転んだ痕跡が残っていた。

 彼女は顔を伏せ、入り口に立ち尽くしている。

 トロイは静かに息を吐き、視線を彼女へと注いだ。

 

「……ブルーちゃん」

 

 呼び掛けに応えるように、ブルーの肩が小さく揺れる。

 濡れた前髪の向こうで、うつむいた顔がゆっくりと上がろうとしていた。

 

「リンデンに……ふられちゃった」

 

 顔を上げたブルーは、力の抜けたような、どこか無理やり貼り付けたようなにへらとした笑顔を浮かべていた。

 頬に貼り付く濡れた髪が滴を垂らし、口元の笑みはどうしようもなく脆かった。

 その言葉を聞いた瞬間、カノンが息を詰める。

 紅茶の香りがまだ指先に残る中、胸の奥がきゅうと縮まるのを感じていた。

 

「……でもね!」

 

 ブルーが急に声を張り上げる。

 その声はどこか空回りするように弾んでいて、けれど震えが隠しきれなかった。

 

「リンデンがいっぱい褒めてくれたんだよ! とっても綺麗だって、とってもす、素敵、だっ、て……!」

 

 言葉が詰まり、喉からしゃくり上げる音が混ざり込む。

 強がって笑おうとする口元と、涙に濡れて崩れ落ちる声。その矛盾が痛ましく、見ているこちらの胸を締めつけた。

 トロイはソファからゆっくりと立ち上がる。

 足取りは迷いなく、ただ静かにブルーのもとへ向かっていく。

 

「……ブルーちゃん」

 

 呼び掛けは柔らかく、雨音よりも穏やかに響いた。

 そのまま、濡れた髪も服も気にせず、彼女を抱き締める。

 

「いいんだよー、いっぱい泣いても」

 

 耳元で囁く声は、懺悔を受け止める聖女のように優しかった。

 ブルーの肩が震え、溜め込んでいた嗚咽が堰を切ったように溢れ出す。

 雨に濡れた彼女の熱が、トロイの胸元を濡らしながら伝わっていった。

 涙と雨水とが混ざり、頬も首筋も濡れて冷たいはずなのに、抱き締める腕の中は温かくて、余計に苦しさが込み上げてくる。

 その横に、カノンもそっと歩み寄った。

 迷うことなくブルーの背に腕を回し、隣から抱きしめる。

 細い指が濡れた髪に触れ、震える肩を優しく支えた。

 

「……ブルー、大丈夫だから」

 

 カノンの声は低く、震える彼女の鼓動を受け止めるように静かに響いた。

 けれどブルーは止まれなかった。

 嗚咽混じりの声が、堰を切ったようにこぼれていく。

 

「……っ、戦場の傷なんかより……ずっと痛い……」

「こんなに……苦しいなんて、知らなかった……っ」

 

 言葉が涙に濡れて震えた。

 体中の力を抜きながらも、心だけはなお強く揺さぶられていた。

 やがて、掠れるように吐き出された言葉が、静寂を震わせる。

 

「いいなぁ……トロイさん……」

 

 伏せた瞳の奥に、揺れる憧憬と羨望とが絡み合っていた。

 

「リンデンに、ずっと……こんな風に想われてたんだ……」

 

 トロイもカノンも、返す言葉を持たなかった。

 ただ腕の力を強め、彼女を離さぬように抱き締め続ける。

 その温もりだけが、泣き崩れる彼女を支えていた。

 けれど、抱かれているブルーの唇は、なおも震え続ける。

 

「……いいなぁ……いいなぁ……」

 

 繰り返し、繰り返し、小さく、切実に。

 エントランスに響くのは雨音と嗚咽、そしてその呟きだけ。

 まるで世界がその痛みに共鳴するように、窓を打つ雨は一層激しさを増していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オペレーションセルの薄暗い天井灯が、わずかに瞬いていた。

 椅子に凭れかかるように眠っていたリンデンは、微かな警告音に瞼を開く。

 背中に埋め込まれた人工脊柱ユニットが、寝返りのたびに小さく軋む。

 身体を起こすと、金属と機械油の匂いが鼻腔にまとわりつき、骨の奥にまで疲労がこびりついているのを感じさせた。

 立ち上がり、コンソールに歩み寄る。

 数列のコマンドを打ち込むと、ホログラムのディスプレイに新しい任務データが立ち上がった。

 リーインシアが整理した一覧は、無駄がなく見やすい。彼女の几帳面な気質が、ここにも色濃く滲んでいる。

 しかし表示された任務は、いずれも委託要請の小規模なもの。直近の交戦予定はなく、数日間は完全に空白となる見込みだった。

 

 通常なら――この隙間の時間に、武装の調整をし、消耗品を補充し、人工脊柱ユニットのメンテナンスに向かうのが常だった。

 けれど今の彼は違った。

 コンソールに手を置いたまま、その画面を見つめるだけで、指先は止まっている。

 

 ――“あの日”から。

 

 彼は外界に出ることを避けるようになった。

 かつてあれほど頼りにしていた兄姉たちの顔を思い浮かべるだけで、胸がざわめき、喉が塞がれる。

 あの人――ブルーの、雨に濡れて泣いた姿を見たあの瞬間から。

 自分は彼らにとって本当に迷惑でしかない。

 それを今度こそ理解してしまった。

 コンソールの光が彼の頬を淡く照らす。

 赤黒い瞳はそこに映る文字を追いながらも、心は遠い記憶に囚われて離れなかった。

 

 セルの中はひどく静かだった。

 リーインシアはクライアントとの面会に出ており、この小さな空間にはリンデンひとりだけが取り残されていた。

 かすかな機器の作動音と、壁を流れる電磁の唸り。その単調さが、逆に思考を縛り付けて離さない。

 胸裏に浮かぶのは――あの日の光景。

 雨に濡れて、顔を伏せて、それでも無理に笑おうとした姿。

 崩れ落ちる声と、こぼれ落ちた涙。

 あの瞬間の痛みが、いまだに脊柱の奥を冷たく締め上げている。

 

 どれほど時間が過ぎても、記憶は削れない。

 息をするたびに胸がざわつき、血流に乗って痛みが身体を巡っていく。

 まるで罰のように、彼を休ませることなく苛み続けていた。

 

 それでも。

 

 静寂に押し潰されるように座っていると、心の底で別のざわめきが膨らみ始めた。

 それは決して安らぎではなく、罪悪感の渦に似ていた。

 自分は誰よりも彼らを傷つけ、あの人の涙すら呼び込んでしまった。赦されるはずのない存在なのだと分かっている。

 

 ――それでも。

 

 その“赦し”を与えてくれていたあの人を、どうしようもなく思い出してしまう。

 会う資格はない、声を掛けることなど到底できない。

 けれど――ただひと目でいい。せめて姿だけでも目にしたい。

 そんな願いが、罰にも似た痛みを押し広げ、彼を椅子から立ち上がらせていた。

 

 

 扉を閉ざしていたオペレーションセルを後にし、リンデンは第六層の市街区画へと歩みを進めた。

 夕焼けに入り始める直前の時間帯。まだ街には昼の名残が残り、店の灯りがちらほらと点き始めている。空の上層は鈍い橙に滲みながら、街路を少しずつ陰へ沈めていく。

 

 彼は人波に紛れるように歩いていた。

 いつかの時に普段着だと言われて買った、無地で目立たない新品の衣服に身を包み、深くキャップを被る。影に隠れた横顔は、どこにでもいる青年にしか見えない。

 三つ編みにしていた長い髪もほどき、毛先で簡素に束ねただけ。歩くたびに重たい髪束が腰の下で小さく揺れる。その揺れが、彼の存在を自分にだけ示しているようで、やけに心臓を意識させた。

 

 ――目立ってはいけない。

 誰にも気付かれてはいけない。

 歩きながらも、胸の奥でその言葉を繰り返す。

 赦しを与えてくれていたあの人を、ただひと目、遠くからでも見たい。その衝動だけが、彼を前へと押し出していた。

 やがて街路を抜けた先に、その建物は姿を現した。

 高層ビル群が林立する第六層市街の中で、そこだけ時代の流れから切り離されたかのように静かに佇んでいる。鋼鉄とガラスの壁面が並ぶ通りにあって、白亜の外壁と尖塔を持つその教会は、異質でありながらも不思議な調和を見せていた。

 夕陽が傾き始めた光を受けて、尖塔の十字架は淡い黄金に輝いている。

 磨かれた石畳のアプローチは街の埃を寄せ付けず、両脇には季節ごとの花が丁寧に植え込まれていた。ガラス張りのビル群が映す反射の世界とは正反対の、まっすぐで、清らかな空気がそこにあった。

 

 リンデンは立ち止まり、キャップの庇を深く下ろした。

 胸の奥でざわめく罪悪感が、視線を正面へ向けるのを拒もうとする。

 それでも足は止まらない。赦しを与えてくれていたあの人の気配が、この清らかな空間の奥に確かに息づいているように思えてならなかった。

 市街の喧騒は遠く、ここには鐘の音と風のざわめきだけが満ちている。

 冷たい空気を吸い込みながら、リンデンはゆっくりとゲートをくぐった。

 

 教会の大扉は開放されていた。

 夕暮れの光が外から差し込み、内部を淡く染めている。ステンドグラスを透過した色彩が床に模様を描き、祈りを捧げる人々の影を柔らかく包み込んでいた。

 リンデンはその隅、扉の木枠の影に身を寄せ、ひっそりと中を覗いた。

 視線の先には、数人のシスターが祭壇脇で動き回り、列席する信者たちが静かに祈りを捧げている姿があった。香の匂いが薄く漂い、低く響く讃美歌の旋律が空間を揺らしている。

 そして奥の方――。

 人々に囲まれながら談笑する、ひときわ目を引く姿があった。

 薄桃色の髪を光に透かし、ゆったりと微笑むシスター。人々に声をかけられるたび、彼女は軽やかに笑い、その周囲には絶えず人の輪が生まれていた。

 

「……トロイ姉さん……」

 

 無意識に、リンデンの胸奥で声が響いた。

 昔、彼女が冗談めかして言っていた言葉が脳裏に甦る。

 

 ――“トロイさん、教会では一番の人気シスターだからねー”。

 

 それは決して誇張ではなく、今目の前で繰り広げられている光景そのものだった。

 人々の笑顔に囲まれる彼女の姿は、この場所に欠かせない光のようで、リンデンが踏み込む余地などどこにもないように思えた。

 リンデンは扉の影に身を置いたまま、足を前に出すことができなかった。

 視線の先では、人々に囲まれ笑みを浮かべる彼女がいる。

 その輪の中は温かく、楽しげで、すべてが調和していた。

 だが自分はそこに踏み込めない。踏み込む資格は、もう持っていない。

 拳が震える。爪が掌に食い込み、それでも足は動かない。

 ただ胸の奥で罪悪感と渇望がせめぎ合い、どうしようもなく軋んでいた。

 

 ――一目だけ。

 それだけでいいと願ったはずなのに、その一目があまりにも眩しくて、余計に踏み込めなくなる。

 やがてリンデンは静かに息を吐き、庇の影に隠した瞳を伏せた。

 そして、誰にも気づかれぬようにゆっくりと踵を返す。

 扉口から差し込む夕暮れの光が後ろ髪を撫で、濃い闇色の中に翡翠色のきらめきを一瞬だけ浮かび上がらせた。

 その翡翠の揺らめきが、扉の隅へと消えていく。

 

 ――その瞬間。

 人々に囲まれていたトロイがふと顔を上げる。

 笑顔を保ったまま、視線だけが鋭く動く。

 消えていった影の名を呼びそうになる唇を、彼女は辛うじて閉ざした。

 祭壇に灯る燭台の光が揺れ、教会の中に残る人々の笑い声はまだ途切れない。

 けれどその片隅で、彼女の瞳だけがしばらく扉の方を追い続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の帳が街を覆い始めていた。

 昼の熱気が引いて、街路の灯りが一つ、また一つと点り、薄闇を埋めていく。

 第六層の高層街区を抜けると、ひっそりとした石段が外縁に伸びていた。

 リンデンはその階段の中ほどに腰を下ろしていた。

 キャップの庇を深く下げ、視線を足元に落としたまま。

 膝に置いた手は力なく垂れ、束ねた後ろ髪が肩からこぼれて揺れている。

 往来を過ぎる人々の足音は遠く、ここは彼だけを閉じ込める小さな孤島のようだった。

 

 ――赦されるはずはない。

 そう分かっていながらも、どうしても目にしてしまった。

 笑顔を浮かべ、人々に囲まれていたあの人の姿を。

 胸の奥に押し込めていた痛みが、再び滲み出してくる。

 うつむいた視界に、ふと別の影が差した。

 街灯の灯りを背にして、石段に伸びた長い影。

 その影は静かに近づき、リンデンの目の前で立ち止まった。

 顔を上げなくても分かる。

 長い薄桃色の髪が夜気に揺れ、シスター服の裾がかすかに音を立てていた。

 

「……やっぱり、いたねー」

 

 気だるげで、それでも優しく響く声。

 リンデンは庇の影に顔を隠したまま、胸の奥が強く震えるのを感じた。

 石段の中ほど、庇の影に顔を隠したままのリンデンに、トロイはそっと視線を落とした。

 街灯の光に照らされた薄桃の髪が夜風に揺れ、彼の影を優しく包むように覆いかぶさっている。

 

「……今日は、教会に来てくれたんだねー」

 

 トロイの声はいつもと変わらない気だるげな調子だったが、その奥底に滲む温度は決して軽いものではなかった。

 リンデンは一瞬だけ肩を揺らした。

 けれどすぐに小さく息を吐き、言葉を探すようにして口を開いた。

 

「……すみません。私は、ただ……」

 

 その先は言葉にならなかった。喉の奥で言葉が絡み、掠れた吐息だけが零れ落ちる。

 長い沈黙が落ち、やがてリンデンは小さく頭を下げながら立ち上がった。

 

「……お仕事を邪魔して、すみませんでした」

 

 声はかすかに震え、階段に広がる夜気に吸い込まれていった。

 そのまま一歩、彼は足を階段の下へと向けようとした。

 リンデンが踵を返そうとした瞬間、背後から柔らかな声が追いかけた。

 

「……ほんとに、それで帰っちゃうのー?」

 

 気だるげで、けれどほんの少しだけ哀しみを含んだ声音だった。

 リンデンの足が、石段の上で止まる。

 その一瞬の隙を逃さず、トロイはすっと腕を伸ばし、彼の手首を掴んだ。

 驚いたように振り返る顔を、ためらうことなく自分の胸へと引き寄せる。

 

「……トロイ姉、さ……」

 

 抵抗の声は弱く、息と共に溶けていった。

 勢いで被っていたキャップが外れ、階段を転がり落ちていく。

 長い後ろ髪が夜風に揺れ、翡翠色の光を帯びながら月明かりに晒された。

 トロイはそれを気にする様子もなく、零れた髪ごと優しく抱きしめる。

 その胸元に押し当てられた顔は強張り、かすかな震えを帯びていた。

 

「言いたい事はちゃんと言わないとだめだよー?」

 

 彼女の声は穏やかで、どこまでも包み込むようだった。

 

「リンデンちゃんは、甘えるのが下手なんだからさー」

 

 その言葉に、リンデンの身体がびくりと震える。

 胸に埋めた顔の奥で、唇が小さく開いた。

 ――今、この人に抱き返してしまえば、少しは赦されるのだろうか。

 恐る恐る腕を持ち上げかけた彼の指先は、しかし途中で止まった。

 

 あの人の涙が、心に突き刺さって離れない。

 真心を差し出されたのに、何ひとつ返せなかった自分が。

 好意を無下にした人間が――何を吐き出す資格があるというのか。

 

 抱き締める腕から、リンデンはそっと身を引いた。

 拒絶というよりは、壊れものを扱うような繊細さで。

 その気配にトロイの腕がわずかに空を掴み、空しく夜を抱き込んだ。

 顔を上げたリンデンは、濡れた瞳に無理やり穏やかさを貼り付けていた。

 口元はかすかに微笑んでいる――けれどその笑みは、柔らかさよりも痛みを孕んでいる。

 

「……私は、大丈夫です」

 

 その言葉は、自分に言い聞かせるようにかすれた。

 胸の奥が軋み、喉は焼けるほどに苦しかった。

 それでも彼は一歩下がり、深く一礼する。

 

「ありがとうございます、トロイ姉さん」

 

 微笑みを浮かべたまま。

 まるで、抱きしめてくれたことすら感謝で塗り潰そうとするかのように。

 足元に転がっていたキャップには目も向けず、彼はそのまま石段を下りていった。

 夜風が後ろ髪を揺らし、翡翠の光が街灯に一瞬だけ照らされる。

 その姿はすぐに人の流れへ紛れ、静かな街の闇に沈んでいった。

 残されたトロイは、追いかけることをしなかった。

 胸の奥に重たいものを抱えたまま、ただ去っていく背を見送るしかなかった。

 

 

 石段に残されたトロイは、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚に囚われていた。

 去っていった背中を追うことはできなかった。追えばいいことくらい分かっているのに、足は重く沈み、声は喉で凍り付いていた。

 

「……ねえ、リンデンちゃん」

 

 静かに名を呼んでみる。

 夜風に溶けたその声は、彼の耳には届かない。届くはずもない。

 あの子が最後に浮かべた微笑み――それが脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

 泣き出す寸前の顔を、必死に笑みに変えようとしていた。

 あれは笑顔なんかじゃない。

 どこにも行けず、迷子になってしまった子どものような表情。

 助けてほしいのに、助けてと声を上げることすらできない顔。

 

「……分かってるー? 今、自分がどんな顔してるか」

 

 虚空に落とした言葉は、夜の街に吸い込まれて消えた。

 赦す側にいるつもりだった。

 いつだって懺悔を受け止め、誰であっても受け入れてきた。

 リンデンにも同じように――そう思っていた。

 

 けれど、あの子の最後の表情を前にして、トロイは悟ってしまった。

 自分は「赦してあげている」つもりでいただけで、本当は届いていなかったのだと。

 最後の最後で手を伸ばすことができず、彼を迷子のままにしてしまった。

 胸の奥に冷たい痛みが広がる。

 それは彼を失った痛みではなく、赦すべき瞬間に赦せなかったという、どうしようもない失敗の重さだった。

 トロイはただ、夜風に吹かれる石段の上で小さく目を閉じた。

 街の灯が遠く瞬き、鐘楼の影が伸びる。

 その静けさの中で、自分がどれほど無力だったかを噛み締めるしかなかった。






やっぱりこんなのしか書けなかったよ……

次回、本編に入ります。

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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