踏み締める土が砕け、空気が圧を孕む。拳と拳、肘と膝、身体と身体が刹那ごとに火花を散らしてぶつかり合っていた。少女とスリー――両者の戦いはもはや鍛錬の域を逸脱し、破壊の応酬と化していた。
スリーの拳が肩口をかすめ、少女の膝が脇腹に食い込む。互いに骨が軋み、肉が裂ける音すら心の奥で遠のくほど、意識はただ「反応」だけに集約されていた。
その極限のゼロ距離に――
「……ッ!」
横合いから炎熱の槍が、寸分のズレも許されぬ精密な軌道を描いて、少女の肩を貫こうと迫る。
だが――わずかにスリーの位置が重なる。僅差で槍先を逸らしたアンサーは舌打ちし、次の一手に移行する。
斬も同様だった。間合いを見誤れば、剣戟は味方の首を刎ねる。あまりに密接すぎた。
いかなる達人であっても、この空間に“第三の刃”を差し挟むには危険が大きすぎた。
二人は踏み込みを留め、機を窺う。
――だが、それすらも少女の術中だったのかもしれない。
彼女は、スリーの軍式格闘術を“なぞっている”だけではなかった。
動きの中に、明らかに別種の所作が混ざり始める。
それは、スリーですら教えていない動作。運命ですら知らない、リンデンの中だけで組み立てられた理論の断片たち――。
非公認、未完、独習。だがそれを少女は、まるで“初めから使えた”かのように実装していた。
「……
踏み込み。
低く沈んだ腰から繰り出されたのは、急制動を伴う踏破脚、そこから肘打ち、肩当て、崩し、そして――背後への掴み打ち。
――
誰もが夢想し、そしてその難解さゆえに誰もが実現できなかった、体術の複合理論。
名もなきそれを、少女は構築し、運用していた。
「……これが、リンデンの完成形か」
打ち合いながら、スリーの口元が歪んだ。
苦笑。そう表現するにはあまりに、複雑な感情が入り混じっていた。悔しさと誇らしさが同時にこみ上げてくる。
もう一度、彼に時間が与えられていれば、ここまで到達していたのかもしれない。
でも、それがもう叶わないからこそ――。
その理想に応える選択肢は、一つしかない。
「――来てもらうぞ、最終打」
彼女の打撃を受け止めながら、スリーは一歩、強引に踏み込んだ。
回避でも迎撃でもない。真っ直ぐに“抱き留めるように”ぶつかり、そのまま組み付く。
その右手には、いつの間にかそれが霊子展開されていた。
そのまま、彼女の脇腹に、装填済みの本体を押しつける。霊子圧縮、点火2秒前。
「ハッ……そう来たか!」
少女は笑った。感情が混じった声だった。軽蔑でも怒りでもない。
ただ、その行動に対する“正当な評価”としての笑いだった。
――直後、轟音が咲いた。
炎と霊子の爆発が、戦場の一点を抉った。
衝撃波が地面を割り、周囲の空気が白く焼ける。
火煙の中、黒と白の影が混ざりあいながら、土煙の彼方へと吹き飛ばされていった。
「スリーッ!!」
叫んだのは斬か、アンサーか、それとも別の誰かか。
判然としないまま、爆煙の中で何かが動く気配があった――。
土煙がゆっくりと割れていく。
その中央、ひとつの影がふらりと揺れた。
「――ああ。ほんと、嫌いじゃねぇぞ、そういうの」
灰を被ったような声で、少女が姿を現す。
左腕は肘から先が完全に失われ、焦げた肉片すら残っていない。
それでも彼女は、痛みを痛みとすら認識していないかのように平然と立っていた。
爆発の直撃を受け、左腕を“盾”にして生き残ったのだろう――だがその損傷は明らかに深く、体幹のバランスすら揺れている。
対照的に、晴れた煙の奥で倒れているスリーの姿は痛々しかった。
地面を赤黒く染める血溜まりの中心で、うつ伏せのまま動かない。
脇腹は深く抉れ、右腕は肩から先が存在しない。
霊子爆発を無理やり圧縮した特攻――その代償はあまりにも大きい。
「……アンサーさん、スリーさんを頼みます!」
斬が声を上げるやいなや、アンサーは頷き、一直線にスリーのもとへ走る。
斬はその背を守るように一歩前へ飛び出し、肩越しに鋭く息を吐くと、少女へ向けて刀を振り下ろす。
刃と刃が交差する。
再び魔剣を呼び出した少女は、片腕を失ってなお速度も威力も衰えていない。
むしろ、片腕を失った分だけ動きが鋭角に研ぎ澄まされていた。
斬の剣戟が弾かれるたびに、乾いた金属音と霊子の火花が四散する。
その瞬間、戦場全域がざわりと震えた。
少女の背後――宙空に待機していた翡翠の結晶群と、爪刃の浮遊群が一斉に向きを変える。
アンサーがスリーを抱え上げる瞬間。
そして限定神域の維持で動けない運命。
負傷している玄鉄――すべての弱点へ。
蜘蛛の巣のように広がる刺突軌道が、彼らを一斉に穿とうと迫った。
「それは、やらせないって!」
プロブレムが叫ぶと同時に、QとAが超加速で周囲を旋回し、光線が奔った。
レーザーの網が結晶群をまとめて焼き払い、爆裂する翡翠片が光雨となって降り散る。
「こちらにも向けてくるのが、ほんっと嫌な所ですねっ!」
濡羽の声が震える。
それでも両手に展開した魔術式を強く押し出し、稲妻の鎖を何重にも放つ。
雷撃が走り、迫る爪刃を連続で焼却していく。
霊子の流れが安定しているのは運命の限定神域のおかげ――だが運命と玄鉄は動けない。
その穴を埋めるために、濡羽は必死に魔術の陣を重ね続ける。
斬は少女の猛攻を受け止め続け、アンサーは傷を負いながらスリーの止血と退避に全力を注ぎ、プロブレムと濡羽は雨のように降り注ぐ翡翠の死を払い落としていた。
戦場は、完全に均衡を超えて“崩壊の片側に”傾き始めていた。
そして――。
少女は、片腕で刀を受け止めながら、不気味なほどに明るい声で言った。
「――まだだろ?そっから先、もっと見せてみろよ、兄姉様方」
その声音には、痛みも、焦りも、迷いもなかった。
ただ獣のような、純粋な“執着”だけが込められていた。
アンサーは息を切らしながらスリーの身体を両腕で抱え、土煙の中を強引に駆け抜けた。
その足取りは重い。スリーの体格も、彼の傷も、彼女の負傷した右足には過酷すぎる重みだった。
それでも――彼女は止まらなかった。
運命の神域が揺らぎかけている。迎撃する濡羽達も長く持ちこたえられる状態ではない。ここで落とせば、全員が終わる。
「……ふっ……は……っ、着いた……!」
アンサーは最後の力でスリーを地面に横たえた。
彼の身体は大量の血で濡れ、皮膚の下では骨が変形し、呼吸すら弱々しい。
戦闘に戻れないどころか、このままでは――。
だが、そこに影がひとつ、ふらつきながら寄ってきた。
玄鉄だった。
彼女の足取りは明らかに危うい。
全身のバランスが崩れ、握っていた魔術コートの布が滴るように揺れている。
それでも彼女はスリーの隣に膝をつき、微笑んだ。
痛みをごまかす、あの飄々とした笑い方で。
「やっぱり、そういう勘は当たるもんだよねぇ……っと」
懐から取り出したのは、小ぶりの金属筒――霊薬。
彼女が“最後の切り札”として温存していた唯一の回復手段だった。
震える手で栓を口に咥え、歯で引き抜くと、スリーの抉れた傷口へ迷いなく注ぎ込む。
霊子薬が触れた瞬間、焼けた肉が泡立つように再生を始める。
断たれた血管が、金の線のように繋がっていく。
彼の呼吸も、かすかながら安定し始めた。
「これで……死にはしないけどねー……」
玄鉄は喉を鳴らし、力なく笑う。
「自分に使わなかったのは、正解だったなー……ほんと」
それは、事実だった。
玄鉄が生き残るよりも、今はスリーの命を戻す方が遥かに価値がある。
戦術的にも、心理的にも。
だが――その温度のある時間は、たった数秒で終わる。
「――追いついた、ってな」
背後から、少女の低い声が響いた。
次の瞬間には、彼女の魔剣が光の残滓を引きながら斬り抜けていた。
逆袈裟。
斬の刀壁を強引にこじ開ける、鋭い斬撃。
斬の肩口から腰にかけて、深い傷が走る。
彼の身体が一拍遅れて揺れ、地面に膝をつきかける。
だが――そのまま崩れ落ちるのではなく、前へ進んだ。
「まだ……っ、終わっちゃいない……!」
声が震えている。
だけど、目は揺れていない。
斬の剣速が、急激に鋭さを増していく。
痛覚が切れているのか、それとも決意が凌駕しているのか。
どちらにせよ、彼は“もう後がない”まま刀を振り抜いた。
金属音が火花を撒き散らし、斬撃と魔剣の衝突が続く。少女は片腕を失ってなお、斬より速い。
しかし――斬はそれでも食らいつく。
血を撒き散らし、傷を広げながら、必死に。
倒れるわけにはいかない。アンサーもスリーも、守るべき仲間も背にいる。
少女の口元に、冷たい笑みが刻まれる。
「その根性、嫌いじゃねぇけどよ。――勝つ気あんなら一歩早く動け、兄貴分」
魔剣が薙ぎ払われた。
世界が、再び崩れようとしていた。
そしてその瞬間――。
遠くで、霊子の流れが一変する音が、確かに聞こえた。
闇のように深く、光のように鋭い、あの“祈り”の気配。
誰かが来る。
この戦線を覆すたった一人が。
最初にその“揺らぎ”に気付いたのは、運命だった。
自分を中心に広がる限定神域――霊子の膜のように空間を包むその境界が、微かに脈打つ。
侵食でも攻撃でもない。
干渉だった。
まるで、そこに“誰か”が踏み入れようとしているような。
その気配を辿った瞬間、運命は理解した。
誰が来たのか。
そして、何をしようとしているのか。
その直後。
「ぐっ――!」
斬が少女に蹴り飛ばされ、石壁へ叩きつけられる。
甲高い衝撃音が響き、斬は地面を転がって動かなくなる。
刀は手から離れ、カランと乾いた音を立てて倒れた。
少女はそのまま蹴り抜いた姿勢からゆるりと振り返る。
片腕の欠損など無かったかのような、満ち足りた動き。呼吸は乱れておらず、瞳には狂気の輝きさえある。
「……これで前衛はほぼ全滅だろ。どうするんだよ、皇帝陛下?」
嘲りの声。
勝利を確信した者だけが持つ、余裕と侮り。
だが運命は――静かに首を振った。
少女は眉をひそめる。
「人数が増えても、大して変わらなかったろ。結局オレの勝――」
『ううん』
その言葉を遮った運命の声は、震えても叫んでもいなかった。
ただ、確信しかなかった。
運命はまっすぐ少女を見据え――
そしてその背後を、すこしだけ振り返るように視線を逸らした。
『私達の――勝ちだよ』
少女が気付いたのは、次の瞬間だった。
運命の背後、神域の境界の向こう側。
裂け目のように揺らめく霊子を抜けて、一人の影が静かに立っていた。
そこにいたのは――血と灰に染まりながらも、確かに“騎士”として戻ってきたトロイメライだった。
右手に握るのは、聖槍リタ。
左手には、蒼い液体の詰まった細い筒――先端に三又の爪を持つ、
修道服はちぎれ、揺らめく薄桃色の髪を覆っていた黒いベールはもう無い。
その代わりに、彼女の首で光っていたのは――。
少女は言葉を失ったように目を見開いた。
その視線はトロイの喉元に釘付けになる。
「……お前」
ようやく絞り出した声は、驚愕と、何か別の感情に濡れていた。
トロイは静かに首へ手を当てる。
血で汚れた“チョーカーデバイス”の上に、SOデバイスの爪をそっと添え――まるで羽ペンで線を引くように、ためらいなく首筋を引っ掻いた。
爪が肉を裂き、蒼い光が血に溶け出す。
その光は、首筋に“刻印”を描く。
死に近づけば近づくほど魂を輝かせる装置。
人の魂を、神に近い領域へ押し上げる術式。
そして――
「――BLADE」
その一言で、トロイの首に咲いた蒼光が爆ぜた。
祈りにも似た霊子の奔流が、戦場全体を照らす。
風が逆巻き、翡翠の結晶群が震え、少女の瞳が本能的に見開かれる。
戦場は、今まさに覆った。
赤黒く染まる空、血のように濁った光が地上を照らしていた。
風が吹き抜けるたび、澱んだ霊子がざらりと肌を撫でる。
その重苦しい空気の中、トロイはただ静かに、クリーチャーと化した肉塊――もはや人の形もほとんど残さぬリンデンの亡骸に背を預けていた。
彼女の右腕はひしゃげて折れ曲がり、左脚は膝から下が無残にちぎれ、まともに動かせるのは片手と片脚だけ。
そんな身体でも、トロイは一歩も離れようとしなかった。
リンデンの亡骸、正確には白く膨張した異形の胸から、まるで「人間だった痕跡」のように残された黒緑の髪とその顔。
その残された部分に、トロイは優しく身を寄せる。
地面には、乾きかけた血と泥が混じって、濁った匂いが漂っている。けれど、トロイの指先は、そんな現実を遠ざけるように、リンデンの髪をそっと梳く。
泥と血で汚れてもなお、彼の髪はどこか艶やかで、ほのかな光沢を残していた。
彼が子供だった頃に彼女が何度もそうしてきたように――愛おしさと、喪失の痛みがないまぜになる手付きだった。
「ねー、リンデンちゃん」
指が彼の額から後頭部へとゆっくり滑る。
その一房ごとに、微かな体温が指先に伝わってくる気がした。
生きているはずのないその温もりに、トロイはひどく甘えていた。
「いっその事、トロイさんを殺してくれても良かったのにねー?」
乾いた笑みがこぼれる。
全身が痛むはずなのに、心の芯だけが妙に冷えていた。
自分があの子に討たれて終わるなら、それもまた幸せな“結末”だったかもしれない、と。
けれど、そうはならなかった。リンデンは最後まで自分を殺せず、最期まで“家族”でいてくれた。
「でも無理かー。リンデンちゃん、トロイさんの事大好き過ぎるもんなー」
くぐもった声が、空虚なまま溶けていく。髪をなぞる指が震えた。
愛情と悔しさと、どうしようもない誇らしさ――全部が胸の奥で絡み合い、ほどけない。
目を閉じれば、幼い頃の面影が蘇る。髪を梳いてやれば喜んだ日々、ふざけて髪型を変えて困らせた日もあった。今、指の下にあるのは、あの時と変わらない、優しくて、少しだけ寂しげな弟の髪。
もう戻らないはずの温もり。それなのに、梳くたびに、ほんのわずかだがリンデンの“生”がまだそこにあるような気がしてしまう。
絶望的な現実と、消えてしまった希望。その狭間に身を浸しながら、トロイはただ、そっとリンデンの髪を梳き続けていた。
突き立てられた聖槍リタは、まるで祈るように静かに佇んでいた。
槍の穂先は、異形の肉塊から生えたままのリンデンの身体に深く刺さり、そこからゆっくりと、清浄な霊子を吸い上げていく。
濁りも汚れも混じらない、それはまるで彼という存在が最後まで護ろうとした“正しさ”そのものだった。
わずかに震える光の粒が、空気中に舞う。
それらはトロイの方へと流れ込み、砕けた肉に沁み込み、傷ついた骨に絡まり、じわりじわりと身体を修復していった。
ぴきぴき、と軋む音が響いた。折れ曲がっていた右腕の骨が、音を立てて正しい位置へ戻っていく。砕けていた関節がはまり、引き裂かれた筋肉が結び直され、皮膚が再生する。
左膝から下が存在しなかった脚も、血の滴る肉芽が再構成されていき、じゅくじゅくと音を立てて“脚”という形を取り戻しつつあった。
胸の奥では、折れた肋骨が刺さっていた内臓が蠢き、息が深く吸えるようになっていく。肺が、心臓が、腸が、再び動き始める。
けれど――そのすべてが、「彼の命の余熱」によって成されていることを、トロイは分かっていた。
「……助けられなかった子の死体で、助けに来たトロイさんの体を癒すとか」
ほんのかすかに微笑みながら、トロイは空を見上げる。赤黒く濁ったその空には、祈りも慰めも届かない。
「皮肉過ぎて草も生えないよねー」
どこまでも軽く、どこまでも乾いた声だった。
冗談めかしたその言葉の裏には、どうしようもない現実の重みが滲んでいた。
癒されることは、赦されることじゃない。
生き残ることは、救いになるわけじゃない。
だけど、彼の命はまだ温かい。
それを“使って”、自分はまた歩こうとしている――。
血で濡れた指先が、無意識に再生しつつある左脚をなぞった。
今更、生き返ってしまうこの身体が、どこか赦されざるもののように思えた。
でも、それでも、きっと歩かなければいけないのだと、分かってもいた。
音もなく、突き立てられていたリタが揺らいだ。
癒しを終えた証のように、その穂先は静かに、ズルズルとリンデンの亡骸から抜け落ちていく。
異形の胸に突き刺さっていた黒の刃は、もはや何の霊子も引き出せなくなっていた。
そこに残されたのは、ただの“死骸”――魂も祈りも抜けきった、白く膨れた肉塊と、そこから生えていた彼のパーツだけ。
死を確かに知覚する感覚に、トロイは短く息を吐いた。
もうここには何も残っていない。彼の体温も、声も、霊子すらも。
それでも名残惜しげに、彼女は彼の首元へと手を伸ばした。白い指が、赤く染まった首筋へと触れる。
そこに装着されていたのは、今はもう血と泥で汚れてしまったチョーカーデバイス。
「これ、少しだけ借りていくねー」
囁くような声と共に、カチリ、と機械的なロックの外れる音が響いた。
トロイの指が慎重に、それを取り外す。
それはリンデンに用意された“戦うため”の命綱のひとつであり、運命や騎士たち総出で、密かに用意した“家族”の証だった。
すでに多くの機能は失われていた。
だが唯一、ナンナリスを基にして組み込まれた霊子濾過機能だけが、かすかに息をしている。
この歪みに満ちた神域の中で、ほんのわずかとはいえ“正常な霊子”を生成できるそれは、今のトロイにとって、生き残る為に必要な力だった。
トロイはそれを手の中でそっと眺め、そしてふわりと微笑む。
「んー……でもこれじゃトロイさんが貰い過ぎかー」
ぽつりと呟いたその声音は、どこかくぐもっていた。
癒しをもらい、装備をもらい、生き延びたのは自分。
リンデンはそのために命を終えたわけじゃなかったのに――。
そんな思いが胸を掠めるが、彼女はそれを飲み込んだ。
代わりに、彼の髪へと手を伸ばす。
乱れ、ほどけ、泥と血で絡まった黒緑の髪。
丁寧に三つ編みにされていたはずのそれは、無惨に解け、地面にその波紋を広げていた。
トロイはそっと、自らの頭を覆っていた黒のベールを外した。
ベールの端を細く折りたたみ、髪を梳いて整えると、結び紐のようにしてそっと後ろ髪に巻きつける。
リボンのように結い留めたそれは、少しだけ不格好かもしれない。
けれど、彼女の中ではこれが最も“らしい”装いだった。
「うんうん、これで――いつものリンデンちゃんだねー」
少しだけ満足げに微笑みながら、トロイはもう一度だけ、死骸の頭を撫でた。
そして、血と泥にまみれた地面から、ゆっくりと立ち上がる。
身体はすでに癒え痛みも引いていたが、胸の奥にある空洞だけは、少しだけ冷たいまま。
手にはチョーカーデバイス。
首元にそれを当てて、カチリと冷たい音と共に、リンデンの遺品は彼女の細い首に収まった。
サイズは少し大きい。余った部分が肌に触れて冷たい感触を残す。――でもそれも、悪くない感触だった。
黒く沈んだ地面に、静かに横たわっていた聖槍リタ。
トロイはしゃがみ込み、静かにそれを拾い上げる。小さく、金属が擦れる音が響いた。
手に取ったリタは、血と霊子に濡れて重く冷たい。けれどその質量は、確かに彼女に前へ進む“力”を思い出させた。
彼女は息を整える。再生した身体の違和感を、立ち上がる感覚で確かめながら――
そして、ひとつ、踏み出した。
一歩。音の無い足音が、濁った地を静かに踏みしめる。
二歩。まだ踏み出す脚に違和感はあるけれど、槍の重さとともに心が引き締まっていく。
三歩。地面の泥と返り血を蹴って、前へと進む。
けれど、そこで――トロイは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
視線の先。そこに、リンデンの亡骸がある。
あの美しかった髪も、今は血と泥で重たく垂れ下がり、肌にはもう温もりも無い。
けれどその姿を、どうしても心に焼きつけておきたかった。
だから、最後にもう一度、ただ“見つめる”。
――この神域は異常そのものだ。時が経てば、あの亡骸も“この地のもの”になっていく。
記憶も概念も、この世界に侵されて、いずれは跡形もなく“なかったこと”になる。
この神域が終焉を迎えるとき、それと同時に彼の肉体も消え失せるだろう。
すべてが、無意味だったかのように。
トロイは小さく鼻を鳴らし、乾いた笑みを浮かべた。
「……分かってるけどさー、癪だよねー」
だから、諦めてなんかやらない。
この子が“無かったこと”にされる前に、この歪んだ神域を――必ず終わらせる。
トロイの足元にはもう、ためらいはなかった。
「ちゃんとそこに居てよー?……絶対に、迎えにいくから」
指切りも出来ない相手に、声だけで誓う。
それでもその言葉は、深く、静かに、亡骸へと届いていた。
背を向ける。今度こそ、振り返らない。
そのまま、歩き出した。
槍を肩に背負いながら、いっそう濃くなっていく翡翠色の霊子気配――その存在の元へ向けて。
歩きながら、彼女は首元にあるチョーカーデバイスに目をやった。
そこにはまだ、リンデンの血が乾かずに滲んでいる。
トロイは自分の指先で、額をかすめていた傷からにじんだ自らの血を拭い、それをそのままチョーカーの表面に重ねた。
人肌の温もりと、金属の冷たさ。
そこに――二人の血が、ゆっくりと混ざっていく。
「これで少しは、ふたり一緒。とかいってねー」
微かに口元を緩めながらも、その声にはほんのわずかに滲む震えがあった。
けれど、槍はぶれない。脚は止まらない。
そんな彼女の首に巻かれた“機械”に対して――。
本来なら拒絶反応を示すはずの聖槍リタが、まったく反応を見せないことに、ふと気づいた。
「……なーんだ、リタ先輩もあの子のこと好きだったんじゃん」
からかうように、けれどどこか優しく、そう言って彼女は前を見据える。
踏み出すごとに、血と泥を蹴って――
トロイは、“弟”の尊厳を取り戻すため、歪んだ世界の中心へと進んでいった。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
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ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
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息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
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叡智閑話
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イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった