みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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Shatter, Nightfall, Signal.⬛︎

 

 

 風の音が、遠く聞こえた。

 耳元で鳴っているはずなのに、どこか水底の向こうから届いている。

 岩が砕ける音。肉が軋む音。霊子が焦げる匂い。どれも確かに身体のそばで起きているのに、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎の意識には、薄い膜を挟んで触れてくるだけだった。

 

 右腕が動いている。

 それは、腕というより、重い扉のようだった。

 開き、閉じ、叩きつけられる。たびに世界が震え、何かが割れ、白い視界の端で光が跳ねた。自分が振るっているのか、何かに振るわれているのか、もう区別がつかない。

 

 光がいた。

 

 薄い緑の光。

 祈りに似た色。

 その向こうに、誰かが立っている。

 細い。

 壊れそうなほど細く、けれど倒れない。

 光は何度もこちらへ近づき、何度も弾かれ、裂かれ、血の色を混ぜながら、それでも消えない。

 

 ――何をしているのだろう。

 

 疑問は浮かんだ。

 けれど、形になる前に砕けた。

 

 神魔調伏。

 悪鬼覆滅。

 

 喉が勝手に震える。

 言葉が流れる。

 それは声ではなく、体内のどこかで鳴る歯車の音に近かった。意味は遠い。祈りでもない。命令でもない。ただ、そこに在るものを滅ぼすための呼吸だった。

 

 右腕がまた持ち上がる。

 

 光が近づいた。

 槍のようなものが胸を掠める。痛みが走ったはずだった。けれど、その痛みはすぐ奥へ沈み、別の熱に塗り潰された。痛くない。痛くないようにしている。誰かが、ずっとそう願っている。

 

 痛ければ、止まってしまうから。

 止まれば、帰れないから。

 帰る。

 その言葉だけが、なぜか残っていた。

 

 光の方へ。

 暖かい方へ。

 手を伸ばせば、きっと誰かが掴んでくれる。そう思った。そう思いたかった。だから右腕は振るわれた。

抱きしめるためではなかったのかもしれない。触れるためではなかったのかもしれない。けれど、⬛︎ン⬛︎⬛︎の内側では、それはまだ、手を伸ばす動作の名残だった。

 

 骨の砕ける音がした。

 

 何かが吹き飛んだ。

 光が岩へ叩きつけられる。

 薄桃色が揺れた気がした。見覚えのある色だった。雨の日、窓のそば、古い祈り、からかうような声。いくつもの記憶が水面に浮かび、触れる前に濁った。

 

 ――ト、ロ。

 

 名の途中で、黒いものが流れ込む。

 

 終而不終。

 滅而不滅。

 非得解脱。

 不成正覚。

 

 違う声が身体の奥を満たした。

 自分のものではない。けれど、もう他人のものとも言えない。皮膚の下で、骨の内側で、右腕の歯列の奥で、その声は根を張っていた。

 

 右腕が、また動く。

 光は、もう地面に近かった。

 砕けた岩の下。血の匂い。浅い呼吸。槍が離れている。

 その姿を見ても、まだ理解は遅れていた。倒れている。壊れている。動けない。けれど、それが何を意味するのか、意識は結べない。

 ただ、近いと思った。

 

 ようやく近づけた。

 ようやく届く。

 

 白い巨腕が、ゆっくりと持ち上がる。

 視界の中で、光が揺れた。

 その人が顔を上げる。霞んだ瞳がこちらを見る。恐れではなかった。諦めでもなかった。もっと柔らかく、もっと傷ついたものが、血に濡れたままそこにあった。

 

 リ⬛︎⬛︎ンは、その目を知っていた。

 

 どこかで。

 ずっと前から。

 痛い時に笑って、苦しい時に間延びした声で誤魔化して、誰かの醜さを抱えようとする人の目だった。

 

 右腕が落ちていく。

 止まらない。

 止め方が分からない。

 自分の身体のはずなのに、腕までの距離がひどく遠い。叫ぼうとしても、喉は経文を吐くためだけに震えている。左腕はどこにあるのか。心臓はまだ鳴っているのか。自分はまだ、自分なのか。

 

 分からない。

 分からないまま、白い影が彼女を覆った。

 

 その時だった。

 

「……ごめんね、リンデンちゃん」

 

 音が届いた。

 風でもない。

 祈りでもない。

 経文でも、肉の脈動でもない。

 

 名前だった。

 リンデンの名前を呼ぶ声だった。

 

 

 

 

 

 白い腕が、岩壁を砕いた。

 粉砕音が、遅れて意識の底へ落ちてくる。

 剛腕が起こした風が、血と泥に汚れた薄桃の髪を揺らしていた。岩壁へ叩き込まれた右腕は、トロイのすぐ傍で止まっている。

 

 触れていない。

 潰していない。

 その事実だけが、リンデンの中で細い杭のように立った。

 

 白い腕の内側で、肉が軋む。

 歯列が鳴る。

 止められたことを拒むように、異形の右腕が再び持ち上がろうとした。

 

「――あな、たは」

 

 ようやく絞り出せた音が、喉を震わせた。

 声になっているのかも分からない。

 自分の喉は、まだ別の経文を吐こうとしている。神魔調伏。悪鬼覆滅。終わらせろ。滅ぼせ。目の前にあるものを砕け。そんな声が、肉の内側から幾重にも這い上がってくる。

 

 けれど、その底に残っていたものがある。

 

 左腕。

 

 まだ、無事だった。

 左胸から伸びるその腕だけが、かろうじてリンデンのものだった。焦げ、震え、感覚は薄く、指先は自分の意志から半拍遅れて動く。それでもまだ、命じれば応えた。

 

 掌の中に、刃が生まれる。

 

 量子展開。

 無骨な片刃の剣。光が結ばれ、金属の輪郭を取り、白い肉の影の中で細く鳴った。

 

 右腕が動く。

 トロイの頭上へ、もう一度落ちようとする。

 その軌道に、リンデンは刃を突き立てた。

 

 白い肉が裂けた。

 自分の右腕に、自分の左手で剣を刺す。奇妙な感覚だった。痛みは遠い。けれど、確かに何かが拒んだ。右腕の歯列が一斉に噛み合い、肉の奥から黒い熱が噴き上がる。

 

「あなた、だけは――」

 

 右腕が刃を引き剥がそうとする。

 筋肉が膨張し、刺さった剣を押し戻す。白い肉の奥で、核に似た硬い脈動が跳ねた。剣先がわずかに浮く。軌道が戻る。

 

 リンデンはもう一度、刺した。

 今度は肘の内側へ。

 裂けた肉から翡翠と紅蓮が混じった光が吹き出す。右腕が痙攣し、トロイの上へ落ちるはずだった影が、横へぶれた。岩が砕ける。粉塵が舞う。トロイの髪が風で揺れる。

 

 まだ足りない。

 

 右腕は止まらない。

 剣を刺した場所から、白い肉が盛り上がる。刃を包み、飲み込み、折ろうとする。自分の中にある何かが、自分の抵抗を食い潰していく。

 

 左手の指が軋んだ。

 剣の柄を握る感覚が、少しずつ薄れていく。

 それでも、離さない。

 

「ぜっ、たいに」

 

 声が擦れた。

 血なのか、霊子なのか分からないものが喉に絡む。

 

 右腕が振り上がる。

 リンデンは身体ごと引きずられた。異形の胸から残された左肩が、肉の根元ごと千切れそうに軋む。視界が跳ねる。トロイが遠ざかる。すぐそこにいるはずなのに、どこまでも遠い。

 

 遠くしてはいけない。

 彼女を、そこへ置いていってはいけない。

 

 もう一度、刃を作る。

 最初の剣は白い肉に呑まれかけていた。だから、掌の中で二本目の輪郭を結ぶ。量子展開が乱れる。光が欠け、刃は不完全だった。それでも構わない。

 

 刺す。

 右腕の手首へ。

 刺す。

 肩の付け根へ。

 刺す。

 歯列の奥へ。

 

 そのたびに白い巨腕の軌道が乱れた。

 岩壁が砕け、断崖が削れ、トロイのすぐ脇に破片が降る。けれど、まだ彼女には届いていない。潰していない。それだけを、リンデンは杭のように意識の中心へ打ち込み続けた。

 

 右腕が吼える。

 声ではなかった。

 肉が鳴り、骨が鳴り、異形の内部で何かが怒りに似た圧を発した。リンデンの喉が勝手に震える。

 

 神魔調伏。

 悪鬼覆滅。

 

 ――違う。

 

 リンデンは歯を食いしばる。

 人の歯が残っているのかも分からない。けれど、そうしたつもりだった。

 

 ――違う。

 ――悪鬼は、そこではない。

 

 右腕が、今度こそ左腕を引き剥がしにかかった。

 白い指が胸の中へ潜り込み、残されたリンデンの左肩を掴む。肉が裂ける。神経に似たものが燃える。視界が白く弾けた。左腕が根元から外されそうになる。剣を握る指が開きかける。

 

 トロイの声が、まだ残っていた。

 

『ごめんね』

 

 その一言が、何度も繰り返される。

 謝らせてしまった。自分が。ここまで来させた。こんな姿を見せた。彼女に目を閉じさせた。

 それだけは、嫌だった。

 

「殺させ、ない」

 

 刃を逆手に持ち替える。

 右腕ではない。外側の肉でもない。

 

 もっと奥。

 

 六歳の時から、背骨の奥に据えられている冷たい異物。

 自分を止めるための装置。

 自分がまた何かを壊す前に、神経を焼き切り、肉体を沈黙させるための杭。

 

 人工脊柱ユニット。

 リンデンは、胸元へ刃を向けた。

 

 白い肉がそれを拒む。

 左胸から伸びる腕が、胸骨の奥へ刃を押し込む。肉が裂ける。焼けた匂いが立つ。異形の右腕が暴れ、背中から骨めいたものが突き出し、世界が揺れる。

 

 トロイは動かない。

 薄桃の髪が風に揺れている。

 

 まだ間に合う。

 ここで終われば、まだ。

 剣先が、硬いものに触れた。

 冷たい感触。自分の身体の中で、ずっと自分を監視していたもの。

 リンデンは、残った力で刃を押し込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音が消えた。

 

 焼ける匂いも、肉の軋みも、骨が砕ける感触も、すべて遠のいていく。

 人工脊柱ユニットへ刃を届かせた瞬間、背中の奥で何かが開いた。爆ぜるための熱ではなかった。命を奪う痛みでもなかった。ただ、身体の中心に据えられていたものが、ひとつずつ順番に切り離されていく感覚だけが残った。

 

 視界はなかった。

 暗闇ですらない。

 暗いと感じるための目がない。寒いと知るための皮膚もない。息を吸おうとして、肺という器官がもう存在しないことに気づく。手を伸ばそうとして、腕という輪郭がほどけていることに気づく。

 それでも、リンデンはそこにいた。

 

 何も無い場所だった。

 場所、と呼ぶにはあまりに輪郭がなく、死、と呼ぶにはあまりに静かすぎた。

 沈んでいるのか。落ちているのか。それとも最初から、どこにもいないのか。その区別さえ、すでに遠い。

 

 何も無いはずの底で、声がした。

 

《お疲れさまでした》

 

 鈴のような声だった。

 澄んでいる。

 けれど、澄みきってはいない。音の奥に、甘い蜜が細く糸を引くような柔らかさがあった。耳などないはずなのに、その声だけは、リンデンの内側へまっすぐ落ちてくる。

 

《よく、ご自分を止められましたね》

 

 言葉は優しかった。

 だからこそ、すぐには答えられなかった。

 労われる理由が分からない。止めたのではない。壊しただけだった。トロイを殺しかけ、家族を傷つけ、最後に自分を焼いた。そこに残るものがあるとすれば、功績ではなく、失敗の燃え殼だけのはずだった。

 それでも声は、責めない。

 

《まだ、聞こえますか》

 

 リンデンは返事をしようとした。

 喉はない。

 舌もない。

 声帯も、肺も、息もない。

 けれど、言葉だけがかすかに形を取った。

 

「……聞こえ、ます」

 

 それが自分の声かどうかさえ、定かではなかった。

 ただ、返事だけは届いた。

 

《よかった》

 

 少女の声は、微かに笑ったようだった。

 リンデンは、何も無い場所で意識を凝らす。

 見えない。触れられない。けれど、そこに“誰か”がいることだけは分かる。輪郭のない気配。あまりにも近く、あまりにも遠い。手を伸ばせば触れられるようで、伸ばすための手がない。

 

「――あなたは」

 

 問いは、そこで途切れた。

 名を尋ねようとしたのか。正体を問おうとしたのか。

 自分でも分からなかった。

 声は短く答えた。

 

《カツラク》

 

 その名が、何も無い場所へ静かに置かれる。

 

《この神域の魔剣です》

 

 魔剣。

 その言葉だけが、リンデンの中で重く沈んだ。

 久条運命が手にするもの。人類史の根へ触れるもの。人の手に余り、それでも人の手に握られてしまう刃。

 その響きに触れた瞬間、遠いどこかで、焼け残った神域の気配がわずかに揺れた。

 

「この、神域の……」

 

《はい》

 

 カツラクの声は穏やかだった。

 穏やかすぎるほどに。

 

《そして、あなたが戦っていたものについても、少しだけお話しできます》

 

 リンデンは答えなかった。

 沈黙は、拒絶にはならなかった。カツラクはその空白へ、静かに言葉を落としていく。

 

《輪壊者、と彼らは名乗っているようです》

 

 輪壊者。

 その声には、聞き覚えがあった。

 自分の喉からも、似た響きが漏れていた。神魔調伏。悪鬼覆滅。意味のない呼吸のように、けれど確かな方向を持って吐き出される終末の言葉。

 あの白い肉の奥で、同じものが脈打っていた。

 

《この神域にあったもの》

 

 カツラクは、ひとつずつ言葉を置いた。

 

《力に飲まれた者》

 

 無いはずの胸の奥で、かすかな軋みが生まれる。

 

《そして、人である事さえ棄てたモノです》

 

 沈黙が落ちた。

 何も無い場所なのに、その沈黙だけは重かった。

 

 リンデンは、トロイの顔を思い出そうとした。

 血に濡れた薄桃の髪。閉じられる瞳。かすれた謝罪。

 そのすぐ傍へ振り下ろされていた、自分の右腕。

 

 自分も、そこへ行きかけていた。

 人である事を棄てたのか。

 棄てさせられたのか。

 それとも、棄てることすらできないまま、白い肉に沈んでいたのか。

 境界は、もう分からない。

 

「私は」

 

 言葉がこぼれる。

 

「……私は、死んだのですか」

 

《はい》

 

 カツラクは迷わなかった。

 

《あなたは死にました》

 

 優しい断定だった。

 あまりに優しいために、逃げ場がなかった。

 リンデンは、何も無い場所で目を閉じようとした。

 けれど、閉じるための瞼はなかった。

 

 終わった。

 そう思うには、声がまだ近すぎる。

 カツラクは、少しだけ間を置いた。

 

《けれど、まだ終わってはいません》

 

 その言葉と共に、何も無い場所の底で、かすかな重みが生まれた。

 最初は、気配だった。

 次に、輪郭になった。

 まだ身体は戻らない。まだ指も、掌も、感覚もない。

 それでも、何かを握るという予感だけが、リンデンの中に生じていた。

 

 刃の気配。

 リンデンは、声の方へ意識を向ける。

 そこに、何かが差し出されていた。

 見えないはずなのに、分かった。

 

 魔剣カツラク。

 

 それは、リンデンを待つように、何も無い深層で静かに沈んでいた。

 リンデンは、その気配へ意識を伸ばした。

 

 手はない。

 指もない。

 それなのに、握るという動作だけが先に生まれた。

 

 刃へ触れる。

 

 瞬間、何も無かった場所に、重さが落ちた。

 

 まず、指があった。

 次に、掌があった。

 握り込む骨の感触。皮膚の内側を細く流れる霊子の脈。手首から肘、肩へと、輪郭が順番に戻ってくる。

 

 身体が、遅れて生じていく。

 

 足裏に、地面はない。

 けれど立っている。

 呼吸をしていないはずなのに、胸がわずかに上下する。肺の奥には血の味も、焦げた肉の臭いもなかった。ただ、深く冷えた空気のようなものだけが、空洞になった体内を満たしていた。

 

 目を開けた。

 

 何も無い深層に、色が戻る。

 

 自分の腕が見えた。

 白い異形の肉ではない。細く、焦げ跡の残る、人の腕だった。指先は震えている。掌の中には、一振りの魔剣が収まっていた。

 

 カツラク。

 

 刃は、ひどく静かだった。

 飾り気のない輪郭。けれど、見つめるほどに奥行きが分からなくなる。薄い翡翠のようにも、焼けた灰のようにも見える。刃文の奥に、何かがゆっくりと流れていた。

 

 リンデンは、自分の胸元へ視線を落とす。

 

 破損していたはずのダイブギアスーツが、そこにあった。

 紺灰色の密着生地。胸部と膝、肩、脇腹を守るための簡易装甲。焦げ跡や亀裂は残っている。けれど、砕けたはずの箇所は奇妙に繋がり、戦えるだけの形を保っていた。

 

 白い肉は、ない。

 

 右腕も、戻っている。

 左胸から生えていた自分の頭も、肩も、異形の中へ埋もれていたはずの身体も、いまはひとつの人の形へ収まっている。

 

 輪壊者だったものだけが、焼け落ちたように消えていた。

 

 リンデンは、しばらく自分の指を見つめた。

 

 動く。

 曲がる。

 握れる。

 

 それだけのことに、ひどく遠い場所から戻ってきたような眩暈がした。

 

《具合はいかがですか》

 

 カツラクの声が、刃の奥から響く。

 

「……分かりません」

 

 正直な答えだった。

 痛みはない。

 苦しさもない。

 けれど、それは癒えたというより、痛むはずの場所が一度すべて失われた後の静けさに近かった。

 

《無理もありません。あなたは一度、死にましたから》

 

 優しい断定。

 リンデンはカツラクを見下ろしたまま、ゆっくりと息を吐いた。

 

「――トロイ姉さんは」

 

 問いは、それだけだった。

 カツラクはすぐには答えない。

 ほんのわずかな沈黙があった。声の表面は変わらない。けれど、その空白だけが妙に滑らかだった。

 

《生きています》

 

 リンデンの指が、刃を握る力を強めた。

 

《ただし、長くは保ちません。彼女だけではありません。あなたの陛下も、家族たちも、いま戦場にいます》

 

 何も無い深層の奥に、薄い像が浮かんだ。

 

 青い光。

 白い巨体。

 砕けた岩盤。

 火線。祈術。雷。血。翡翠の粒子。

 それらが水面に映る影のように揺れ、すぐに形を失う。

 

《劣勢です》

 

 短い言葉だった。

 それだけで十分だった。

 リンデンの胸の奥に、空いたままだった場所が軋む。

 

 運命がいる。

 トロイがいる。

 スリーも、オラスも、プロブレムも、斬も――皆がまだ戦っている。

 自分が死んだあとも。

 自分が残したものと、奪われたものの中で。

 

「戻れ、ますか」

 

《はい》

 

 カツラクは答える。

 

《あなたが望むなら》

 

 リンデンは刃を握ったまま、しばらく動かなかった。

 望む、という言葉の形が、胸の中でうまく噛み合わない。

 

 望みではない。

 願いでもない。

 それはもっと古く、もっと染みついたものだった。

 

 ――返さなければならない。

 ――守らなければならない。

 ――自分が壊したものを、自分の手で少しでも塞がなければならない。

 

 けれど、その前に。

 リンデンは顔を上げた。

 何も無いはずの深層の、さらに奥。

 そこに、かすかな翡翠の揺らぎがあった。

 

 声ではない。

 呼吸でもない。

 それでも、知っている気配だった。

 

 荒んだ立ち姿。

 黒緑のざんばら髪。

 似ていないのに、どうしようもなく自分と重なるもの。

 

 片割れの少女もうひとりの自分。

 

 砕けたはずの彼女の残滓が、どこかでまだ沈んでいる。

 

《戦場は、あちらです》

 

 カツラクの声が響く。

 責める響きはない。ただ、事実だけを置いていた。

 リンデンは小さく頷いた。

 

「分かっています」

 

 そして、足を一歩、別の方角へ向けた。

 

《そちらへ行かれるのですか》

 

「はい」

 

 声は静かだった。

 自分でも驚くほど、揺れていなかった。

 

「会わなければいけない人が、います」

 

 何も無い深層に、足音は響かなかった。

 けれど、歩いている感覚だけはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 リンデンはカツラクを手にしたまま、戦場へ続く青い気配から外れていく。

 遠ざかるたびに、運命たちの像が薄くなる。代わりに、翡翠の揺らぎだけが少しずつ濃くなっていった。

 

 そこには、道などない。

 地面もない。

 それなのに、迷うことはなかった。

 

 砕けたものは、砕けた場所へ残る。

 取り残された声は、声にならないまま沈む。

 リンデンは、その沈み方を知っていた。

 

 どこにも届かず、誰にも拾われず、ただそこに残ってしまうもの。

 それは、自分とよく似ていた。

 

 翡翠の揺らぎが近づく。

 やがて、何も無い深層に破片が浮かび始めた。

 ひとつ。

 また、ひとつ。

 

 薄い結晶片。焦げた髪のような黒緑の線。砕けた装飾。爪の欠片。瞳の色だけを残した、濁った光。

 それらは人の形をしていない。

 けれど、散らばった破片の中心に、確かに彼女がいた。

 

 少女だったもの。

 片割れだったもの。

 

 リンデンは、その前で足を止めた。

 破片のひとつが、微かに震える。

 声がした。

 

『……来たのかよ』

 

 掠れている。

 ぶっきらぼうで、硬くて、けれどひどく遠い声だった。

 リンデンは、しばらく答えられなかった。

 目の前にいるのは、敵だった。

 自分から奪ったもの。自分を壊したもの。輪壊者へ沈む隙間を作ったもの。

 

 それでも、置いていけなかった。

 

「来ました」

 

 リンデンは、破片の前に膝をつく。

 

「あなたに、会いに」

 

 そう言った瞬間、翡翠の破片がかすかに鳴った。

 笑ったのかもしれない。

 砕けた結晶が触れ合うような、乾いた音だった。

 

『今さらかよ』

 

 少女だったものの声が、破片の奥から滲む。

 

『オレは、最初からそうしたかったんだぞ』

 

 リンデンは答えない。

 破片のひとつが、彼の足元へ滑ってくる。

 薄い翡翠の欠片。欠けた爪のような形をしたそれは、淡く光りながら、リンデンの影の中で止まった。

 

『お前とひとつになる。お前の足りないところを埋める。オレの足りないところを、お前で満たす。最初から、それだけだった』

 

 声は淡々としていた。

 責めるでもなく、許すでもなく、ただ事実を置く響きだった。

 

『なのに、お前が拒んだ』

 

「……はい」

 

『だから奪った』

 

 破片がひとつ、また揺れる。

 

『勝って、取り込んで、ようやく分かった。お前の中にあるもの。お前が抱えていたもの。お前が、誰にも渡さなかったもの』

 

 リンデンの指が、わずかに震えた。

 

『酷いな、お前(オレ)

 

 その声に、嘲りはなかった。

 

『断崖の下から、何度も何度も登ろうとしてる。手が裂けても、爪が剥がれても、落ちた場所を見もしないで、上ばかり見てる。渡された水の量より、ずっと多いものを返そうとしてる。誰もそこまで求めてないのに』

 

 リンデンは息をする。

 胸の奥に、まだ何かが残っていた。

 痛みではない。痛みとして扱うには、あまりにも古く、身体の奥へ馴染みすぎたものだった。

 

「あなたは」

 

 リンデンは、破片へ手を伸ばした。

 

「私を、知ったのですね」

 

『知ったよ』

 

 少女の声が、少しだけ低くなる。

 

『だから、腹が立った』

 

 破片の光が揺れる。

 

お前(オレ)は、オレだったから』

 

 リンデンの指先が、翡翠へ触れた。

 冷たさはなかった。

 代わりに、流れ込んできた。

 

 暗い部屋。

 名を呼ばれない時間。

 知らない手。

 値踏みする視線。

 身体を器として扱われる夜。

 嬲り貪られた時の、喉の奥に貼りついた息。

 声を上げても、誰の耳にも届かない壁。

 逃げようとしても、足元に絡みつく“役割”。

 役割を果たせば生かされ、果たせなければ壊される日々。

 断片だった。

 

 ひとつの人生として整えられた記憶ではない。

 破片。傷の断面。音の切れ端。匂い。指の圧。息を殺す癖。喉の奥に押し込めた声。

 その中で、少女はずっと探していた。

 リンデン(片割れ)を。

 

 名前を知っていたわけではない。

 顔を知っていたわけでもない。

 それでも、探していた。

 

 自分の中に空いた“形”。

 生まれた時から欠けていた“場所”。

 そこへ収まるはずのもの。

 痛みより先に、恐怖より先に、汚されるより先に、奪われるより先に、彼女の内側にはその輪郭だけがあった。

 

 黒緑の髪。

 暗紅の瞳。

 壊れないほどに壊れた優しさ。

 自分と同じ穴を、別の形で抱えた誰か。

 

 名前を知っていたわけではない。

 顔を知っていたわけでもない。

 それでも、探していた。

 

 リンデンは、破片から手を離せなかった。

 呼吸が浅くなる。

 自分のものではない喉が、胸の奥で震えた気がした。

 

 少女は、泣かなかった。

 泣ける場所にいなかった。

 泣いてもよい名前を持っていなかった。

 怒りだけを刃にして、飢えだけを灯にして、ずっと歩いていた。

 

 ひとつになりたかった。

 

 救われたかったのではない。

 許されたかったのでもない。

 ただ、欠けたものを欠けたままにしたくなかった。

 

「……あなたは」

 

 リンデンの声が擦れる。

 

「ずっと、私を探していたのですか」

 

『そうだよ』

 

 少女の声は短かった。

 

『お前を見つけた時、ようやく終われると思った』

 

 翡翠の破片が、ひとつずつ淡く光る。

 

『なのに、お前は拒んだ』

 

「……すみません」

 

『謝るな。むかつく』

 

 即座に返ってきた声は、かすかに荒かった。

 

『お前のそういうところも見た。何でもかんでも自分の借りにして、謝って、背負って、返そうとして、潰れて、それでもまだ足りない顔をする。むかつくんだよ』

 

 リンデンは黙った。

 

『でも』

 

 少女の声が、少しだけ遠くなる。

 

『それでも、オレはお前がよかった』

 

 何も無い深層に、翡翠の破片が浮かび上がる。

 ひとつ。

 またひとつ。

 砕けた身体の欠片が、リンデンの周囲へ集まってくる。

 

『お前の中を見た。お前の苦しみも、欲しかったものも、捨てたものも、捨てられなかったものも、全部じゃないけど見た』

 

 破片が、リンデンの手に触れる。

 

『だから分かった』

 

 少女だったものの声が、初めて少しだけ柔らかくなった。

 

『やっぱり、オレはお前だ』

 

 リンデンは目を伏せる。

 否定の言葉は出なかった。

 

 敵だった。

 奪われた。

 壊された。

 そのせいで、自分は輪壊者へ沈みかけた。

 けれど。

 彼女もまた、欠けたものを探していただけだった。

 壊し方しか知らない手で、帰る場所を掴もうとしていただけだった。

 

「あなたも」

 

 リンデンは、破片を握る。

 

「私です」

 

 その言葉が落ちた瞬間、翡翠が砕けた。

 

 破片は散らない。

 むしろ、逆だった。砕けた粒子がリンデンの掌へ吸い込まれ、皮膚の下へ、骨の奥へ、霊子の流れへ沈んでいく。

 

 痛みはない。

 

 ただ、視界が少しだけ変わった。

 

 何も無い深層に、線が見えた。

 光の線ではない。道でもない。そこに在るものと、別の場所に在るものが、どう隔てられ、どう重なり、どこで噛み合っているのか。そうした“間”の骨組みが、瞬きの奥へ薄く浮かんでいた。

 

 遠い、という言葉の輪郭が崩れる。

 彼方は彼方のままだ。

 近くなったわけではない。空間が縮んだわけでもない。

 けれど、遠いものへ至るために越えなければならないはずの空白が、以前ほど確かなものに見えなかった。

 

 ここにある。

 そこにある。

 その二つの事実の間に、細い継ぎ目が見える。

 

 リンデンは、息を止めた。

 

 青い光がある。

 運命がいる。

 トロイがいる。

 白い主核が腕を振り上げている。

 

 遠い。

 けれど、届かない距離ではない。

 位置とは、ただの座標ではない。

 間とは、何も無い空白ではない。

 触れ方さえ間違えなければ、そこへ届く。

 

 リンデンの周囲で、翡翠の粒子が静かに渦を巻いた。

 カツラクが、何も言わずに沈黙している。

 その沈黙の中で、少女の声が最後に一度だけ響いた。

 

『行けよ、リンデン(オレ)

 

 リンデンは目を閉じる。

 

『今度は、間違えるなよ』

 

「ーーはい」

 

 答えると、胸の奥で何かが重なった。

 欠けていた場所に、欠けていたものが収まる。

 それは癒しではない。救済でもない。傷口同士が噛み合い、ひとつの形を取っただけだった。

 けれど、その形はもう崩れない。

 リンデンはカツラクを握り直した。

 

 黒緑の髪が、見えない風に揺れる。

 紺灰色のダイブギアスーツの上で、翡翠の粒子が淡く光った。

 彼は、青い光の方へ向き直る。

 もう、道を外れる理由はなかった。





とてもとてもわがままですけど、ここからハーメルンとpixivで展開変わります。


恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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