風の音が、遠く聞こえた。
耳元で鳴っているはずなのに、どこか水底の向こうから届いている。
岩が砕ける音。肉が軋む音。霊子が焦げる匂い。どれも確かに身体のそばで起きているのに、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎の意識には、薄い膜を挟んで触れてくるだけだった。
右腕が動いている。
それは、腕というより、重い扉のようだった。
開き、閉じ、叩きつけられる。たびに世界が震え、何かが割れ、白い視界の端で光が跳ねた。自分が振るっているのか、何かに振るわれているのか、もう区別がつかない。
光がいた。
薄い緑の光。
祈りに似た色。
その向こうに、誰かが立っている。
細い。
壊れそうなほど細く、けれど倒れない。
光は何度もこちらへ近づき、何度も弾かれ、裂かれ、血の色を混ぜながら、それでも消えない。
――何をしているのだろう。
疑問は浮かんだ。
けれど、形になる前に砕けた。
神魔調伏。
悪鬼覆滅。
喉が勝手に震える。
言葉が流れる。
それは声ではなく、体内のどこかで鳴る歯車の音に近かった。意味は遠い。祈りでもない。命令でもない。ただ、そこに在るものを滅ぼすための呼吸だった。
右腕がまた持ち上がる。
光が近づいた。
槍のようなものが胸を掠める。痛みが走ったはずだった。けれど、その痛みはすぐ奥へ沈み、別の熱に塗り潰された。痛くない。痛くないようにしている。誰かが、ずっとそう願っている。
痛ければ、止まってしまうから。
止まれば、帰れないから。
帰る。
その言葉だけが、なぜか残っていた。
光の方へ。
暖かい方へ。
手を伸ばせば、きっと誰かが掴んでくれる。そう思った。そう思いたかった。だから右腕は振るわれた。
抱きしめるためではなかったのかもしれない。触れるためではなかったのかもしれない。けれど、⬛︎ン⬛︎⬛︎の内側では、それはまだ、手を伸ばす動作の名残だった。
骨の砕ける音がした。
何かが吹き飛んだ。
光が岩へ叩きつけられる。
薄桃色が揺れた気がした。見覚えのある色だった。雨の日、窓のそば、古い祈り、からかうような声。いくつもの記憶が水面に浮かび、触れる前に濁った。
――ト、ロ。
名の途中で、黒いものが流れ込む。
終而不終。
滅而不滅。
非得解脱。
不成正覚。
違う声が身体の奥を満たした。
自分のものではない。けれど、もう他人のものとも言えない。皮膚の下で、骨の内側で、右腕の歯列の奥で、その声は根を張っていた。
右腕が、また動く。
光は、もう地面に近かった。
砕けた岩の下。血の匂い。浅い呼吸。槍が離れている。
その姿を見ても、まだ理解は遅れていた。倒れている。壊れている。動けない。けれど、それが何を意味するのか、意識は結べない。
ただ、近いと思った。
ようやく近づけた。
ようやく届く。
白い巨腕が、ゆっくりと持ち上がる。
視界の中で、光が揺れた。
その人が顔を上げる。霞んだ瞳がこちらを見る。恐れではなかった。諦めでもなかった。もっと柔らかく、もっと傷ついたものが、血に濡れたままそこにあった。
リ⬛︎⬛︎ンは、その目を知っていた。
どこかで。
ずっと前から。
痛い時に笑って、苦しい時に間延びした声で誤魔化して、誰かの醜さを抱えようとする人の目だった。
右腕が落ちていく。
止まらない。
止め方が分からない。
自分の身体のはずなのに、腕までの距離がひどく遠い。叫ぼうとしても、喉は経文を吐くためだけに震えている。左腕はどこにあるのか。心臓はまだ鳴っているのか。自分はまだ、自分なのか。
分からない。
分からないまま、白い影が彼女を覆った。
その時だった。
「……ごめんね、リンデンちゃん」
音が届いた。
風でもない。
祈りでもない。
経文でも、肉の脈動でもない。
名前だった。
リンデンの名前を呼ぶ声だった。
白い腕が、岩壁を砕いた。
粉砕音が、遅れて意識の底へ落ちてくる。
剛腕が起こした風が、血と泥に汚れた薄桃の髪を揺らしていた。岩壁へ叩き込まれた右腕は、トロイのすぐ傍で止まっている。
触れていない。
潰していない。
その事実だけが、リンデンの中で細い杭のように立った。
白い腕の内側で、肉が軋む。
歯列が鳴る。
止められたことを拒むように、異形の右腕が再び持ち上がろうとした。
「――あな、たは」
ようやく絞り出せた音が、喉を震わせた。
声になっているのかも分からない。
自分の喉は、まだ別の経文を吐こうとしている。神魔調伏。悪鬼覆滅。終わらせろ。滅ぼせ。目の前にあるものを砕け。そんな声が、肉の内側から幾重にも這い上がってくる。
けれど、その底に残っていたものがある。
左腕。
まだ、無事だった。
左胸から伸びるその腕だけが、かろうじてリンデンのものだった。焦げ、震え、感覚は薄く、指先は自分の意志から半拍遅れて動く。それでもまだ、命じれば応えた。
掌の中に、刃が生まれる。
量子展開。
無骨な片刃の剣。光が結ばれ、金属の輪郭を取り、白い肉の影の中で細く鳴った。
右腕が動く。
トロイの頭上へ、もう一度落ちようとする。
その軌道に、リンデンは刃を突き立てた。
白い肉が裂けた。
自分の右腕に、自分の左手で剣を刺す。奇妙な感覚だった。痛みは遠い。けれど、確かに何かが拒んだ。右腕の歯列が一斉に噛み合い、肉の奥から黒い熱が噴き上がる。
「あなた、だけは――」
右腕が刃を引き剥がそうとする。
筋肉が膨張し、刺さった剣を押し戻す。白い肉の奥で、核に似た硬い脈動が跳ねた。剣先がわずかに浮く。軌道が戻る。
リンデンはもう一度、刺した。
今度は肘の内側へ。
裂けた肉から翡翠と紅蓮が混じった光が吹き出す。右腕が痙攣し、トロイの上へ落ちるはずだった影が、横へぶれた。岩が砕ける。粉塵が舞う。トロイの髪が風で揺れる。
まだ足りない。
右腕は止まらない。
剣を刺した場所から、白い肉が盛り上がる。刃を包み、飲み込み、折ろうとする。自分の中にある何かが、自分の抵抗を食い潰していく。
左手の指が軋んだ。
剣の柄を握る感覚が、少しずつ薄れていく。
それでも、離さない。
「ぜっ、たいに」
声が擦れた。
血なのか、霊子なのか分からないものが喉に絡む。
右腕が振り上がる。
リンデンは身体ごと引きずられた。異形の胸から残された左肩が、肉の根元ごと千切れそうに軋む。視界が跳ねる。トロイが遠ざかる。すぐそこにいるはずなのに、どこまでも遠い。
遠くしてはいけない。
彼女を、そこへ置いていってはいけない。
もう一度、刃を作る。
最初の剣は白い肉に呑まれかけていた。だから、掌の中で二本目の輪郭を結ぶ。量子展開が乱れる。光が欠け、刃は不完全だった。それでも構わない。
刺す。
右腕の手首へ。
刺す。
肩の付け根へ。
刺す。
歯列の奥へ。
そのたびに白い巨腕の軌道が乱れた。
岩壁が砕け、断崖が削れ、トロイのすぐ脇に破片が降る。けれど、まだ彼女には届いていない。潰していない。それだけを、リンデンは杭のように意識の中心へ打ち込み続けた。
右腕が吼える。
声ではなかった。
肉が鳴り、骨が鳴り、異形の内部で何かが怒りに似た圧を発した。リンデンの喉が勝手に震える。
神魔調伏。
悪鬼覆滅。
――違う。
リンデンは歯を食いしばる。
人の歯が残っているのかも分からない。けれど、そうしたつもりだった。
――違う。
――悪鬼は、そこではない。
右腕が、今度こそ左腕を引き剥がしにかかった。
白い指が胸の中へ潜り込み、残されたリンデンの左肩を掴む。肉が裂ける。神経に似たものが燃える。視界が白く弾けた。左腕が根元から外されそうになる。剣を握る指が開きかける。
トロイの声が、まだ残っていた。
『ごめんね』
その一言が、何度も繰り返される。
謝らせてしまった。自分が。ここまで来させた。こんな姿を見せた。彼女に目を閉じさせた。
それだけは、嫌だった。
「殺させ、ない」
刃を逆手に持ち替える。
右腕ではない。外側の肉でもない。
もっと奥。
六歳の時から、背骨の奥に据えられている冷たい異物。
自分を止めるための装置。
自分がまた何かを壊す前に、神経を焼き切り、肉体を沈黙させるための杭。
人工脊柱ユニット。
リンデンは、胸元へ刃を向けた。
白い肉がそれを拒む。
左胸から伸びる腕が、胸骨の奥へ刃を押し込む。肉が裂ける。焼けた匂いが立つ。異形の右腕が暴れ、背中から骨めいたものが突き出し、世界が揺れる。
トロイは動かない。
薄桃の髪が風に揺れている。
まだ間に合う。
ここで終われば、まだ。
剣先が、硬いものに触れた。
冷たい感触。自分の身体の中で、ずっと自分を監視していたもの。
リンデンは、残った力で刃を押し込んだ。
音が消えた。
焼ける匂いも、肉の軋みも、骨が砕ける感触も、すべて遠のいていく。
人工脊柱ユニットへ刃を届かせた瞬間、背中の奥で何かが開いた。爆ぜるための熱ではなかった。命を奪う痛みでもなかった。ただ、身体の中心に据えられていたものが、ひとつずつ順番に切り離されていく感覚だけが残った。
視界はなかった。
暗闇ですらない。
暗いと感じるための目がない。寒いと知るための皮膚もない。息を吸おうとして、肺という器官がもう存在しないことに気づく。手を伸ばそうとして、腕という輪郭がほどけていることに気づく。
それでも、リンデンはそこにいた。
何も無い場所だった。
場所、と呼ぶにはあまりに輪郭がなく、死、と呼ぶにはあまりに静かすぎた。
沈んでいるのか。落ちているのか。それとも最初から、どこにもいないのか。その区別さえ、すでに遠い。
何も無いはずの底で、声がした。
《お疲れさまでした》
鈴のような声だった。
澄んでいる。
けれど、澄みきってはいない。音の奥に、甘い蜜が細く糸を引くような柔らかさがあった。耳などないはずなのに、その声だけは、リンデンの内側へまっすぐ落ちてくる。
《よく、ご自分を止められましたね》
言葉は優しかった。
だからこそ、すぐには答えられなかった。
労われる理由が分からない。止めたのではない。壊しただけだった。トロイを殺しかけ、家族を傷つけ、最後に自分を焼いた。そこに残るものがあるとすれば、功績ではなく、失敗の燃え殼だけのはずだった。
それでも声は、責めない。
《まだ、聞こえますか》
リンデンは返事をしようとした。
喉はない。
舌もない。
声帯も、肺も、息もない。
けれど、言葉だけがかすかに形を取った。
「……聞こえ、ます」
それが自分の声かどうかさえ、定かではなかった。
ただ、返事だけは届いた。
《よかった》
少女の声は、微かに笑ったようだった。
リンデンは、何も無い場所で意識を凝らす。
見えない。触れられない。けれど、そこに“誰か”がいることだけは分かる。輪郭のない気配。あまりにも近く、あまりにも遠い。手を伸ばせば触れられるようで、伸ばすための手がない。
「――あなたは」
問いは、そこで途切れた。
名を尋ねようとしたのか。正体を問おうとしたのか。
自分でも分からなかった。
声は短く答えた。
《カツラク》
その名が、何も無い場所へ静かに置かれる。
《この神域の魔剣です》
魔剣。
その言葉だけが、リンデンの中で重く沈んだ。
久条運命が手にするもの。人類史の根へ触れるもの。人の手に余り、それでも人の手に握られてしまう刃。
その響きに触れた瞬間、遠いどこかで、焼け残った神域の気配がわずかに揺れた。
「この、神域の……」
《はい》
カツラクの声は穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
《そして、あなたが戦っていたものについても、少しだけお話しできます》
リンデンは答えなかった。
沈黙は、拒絶にはならなかった。カツラクはその空白へ、静かに言葉を落としていく。
《輪壊者、と彼らは名乗っているようです》
輪壊者。
その声には、聞き覚えがあった。
自分の喉からも、似た響きが漏れていた。神魔調伏。悪鬼覆滅。意味のない呼吸のように、けれど確かな方向を持って吐き出される終末の言葉。
あの白い肉の奥で、同じものが脈打っていた。
《この神域にあったもの》
カツラクは、ひとつずつ言葉を置いた。
《力に飲まれた者》
無いはずの胸の奥で、かすかな軋みが生まれる。
《そして、人である事さえ棄てたモノです》
沈黙が落ちた。
何も無い場所なのに、その沈黙だけは重かった。
リンデンは、トロイの顔を思い出そうとした。
血に濡れた薄桃の髪。閉じられる瞳。かすれた謝罪。
そのすぐ傍へ振り下ろされていた、自分の右腕。
自分も、そこへ行きかけていた。
人である事を棄てたのか。
棄てさせられたのか。
それとも、棄てることすらできないまま、白い肉に沈んでいたのか。
境界は、もう分からない。
「私は」
言葉がこぼれる。
「……私は、死んだのですか」
《はい》
カツラクは迷わなかった。
《あなたは死にました》
優しい断定だった。
あまりに優しいために、逃げ場がなかった。
リンデンは、何も無い場所で目を閉じようとした。
けれど、閉じるための瞼はなかった。
終わった。
そう思うには、声がまだ近すぎる。
カツラクは、少しだけ間を置いた。
《けれど、まだ終わってはいません》
その言葉と共に、何も無い場所の底で、かすかな重みが生まれた。
最初は、気配だった。
次に、輪郭になった。
まだ身体は戻らない。まだ指も、掌も、感覚もない。
それでも、何かを握るという予感だけが、リンデンの中に生じていた。
刃の気配。
リンデンは、声の方へ意識を向ける。
そこに、何かが差し出されていた。
見えないはずなのに、分かった。
魔剣カツラク。
それは、リンデンを待つように、何も無い深層で静かに沈んでいた。
リンデンは、その気配へ意識を伸ばした。
手はない。
指もない。
それなのに、握るという動作だけが先に生まれた。
刃へ触れる。
瞬間、何も無かった場所に、重さが落ちた。
まず、指があった。
次に、掌があった。
握り込む骨の感触。皮膚の内側を細く流れる霊子の脈。手首から肘、肩へと、輪郭が順番に戻ってくる。
身体が、遅れて生じていく。
足裏に、地面はない。
けれど立っている。
呼吸をしていないはずなのに、胸がわずかに上下する。肺の奥には血の味も、焦げた肉の臭いもなかった。ただ、深く冷えた空気のようなものだけが、空洞になった体内を満たしていた。
目を開けた。
何も無い深層に、色が戻る。
自分の腕が見えた。
白い異形の肉ではない。細く、焦げ跡の残る、人の腕だった。指先は震えている。掌の中には、一振りの魔剣が収まっていた。
カツラク。
刃は、ひどく静かだった。
飾り気のない輪郭。けれど、見つめるほどに奥行きが分からなくなる。薄い翡翠のようにも、焼けた灰のようにも見える。刃文の奥に、何かがゆっくりと流れていた。
リンデンは、自分の胸元へ視線を落とす。
破損していたはずのダイブギアスーツが、そこにあった。
紺灰色の密着生地。胸部と膝、肩、脇腹を守るための簡易装甲。焦げ跡や亀裂は残っている。けれど、砕けたはずの箇所は奇妙に繋がり、戦えるだけの形を保っていた。
白い肉は、ない。
右腕も、戻っている。
左胸から生えていた自分の頭も、肩も、異形の中へ埋もれていたはずの身体も、いまはひとつの人の形へ収まっている。
輪壊者だったものだけが、焼け落ちたように消えていた。
リンデンは、しばらく自分の指を見つめた。
動く。
曲がる。
握れる。
それだけのことに、ひどく遠い場所から戻ってきたような眩暈がした。
《具合はいかがですか》
カツラクの声が、刃の奥から響く。
「……分かりません」
正直な答えだった。
痛みはない。
苦しさもない。
けれど、それは癒えたというより、痛むはずの場所が一度すべて失われた後の静けさに近かった。
《無理もありません。あなたは一度、死にましたから》
優しい断定。
リンデンはカツラクを見下ろしたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「――トロイ姉さんは」
問いは、それだけだった。
カツラクはすぐには答えない。
ほんのわずかな沈黙があった。声の表面は変わらない。けれど、その空白だけが妙に滑らかだった。
《生きています》
リンデンの指が、刃を握る力を強めた。
《ただし、長くは保ちません。彼女だけではありません。あなたの陛下も、家族たちも、いま戦場にいます》
何も無い深層の奥に、薄い像が浮かんだ。
青い光。
白い巨体。
砕けた岩盤。
火線。祈術。雷。血。翡翠の粒子。
それらが水面に映る影のように揺れ、すぐに形を失う。
《劣勢です》
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
リンデンの胸の奥に、空いたままだった場所が軋む。
運命がいる。
トロイがいる。
スリーも、オラスも、プロブレムも、斬も――皆がまだ戦っている。
自分が死んだあとも。
自分が残したものと、奪われたものの中で。
「戻れ、ますか」
《はい》
カツラクは答える。
《あなたが望むなら》
リンデンは刃を握ったまま、しばらく動かなかった。
望む、という言葉の形が、胸の中でうまく噛み合わない。
望みではない。
願いでもない。
それはもっと古く、もっと染みついたものだった。
――返さなければならない。
――守らなければならない。
――自分が壊したものを、自分の手で少しでも塞がなければならない。
けれど、その前に。
リンデンは顔を上げた。
何も無いはずの深層の、さらに奥。
そこに、かすかな翡翠の揺らぎがあった。
声ではない。
呼吸でもない。
それでも、知っている気配だった。
荒んだ立ち姿。
黒緑のざんばら髪。
似ていないのに、どうしようもなく自分と重なるもの。
片割れの少女もうひとりの自分。
砕けたはずの彼女の残滓が、どこかでまだ沈んでいる。
《戦場は、あちらです》
カツラクの声が響く。
責める響きはない。ただ、事実だけを置いていた。
リンデンは小さく頷いた。
「分かっています」
そして、足を一歩、別の方角へ向けた。
《そちらへ行かれるのですか》
「はい」
声は静かだった。
自分でも驚くほど、揺れていなかった。
「会わなければいけない人が、います」
何も無い深層に、足音は響かなかった。
けれど、歩いている感覚だけはあった。
リンデンはカツラクを手にしたまま、戦場へ続く青い気配から外れていく。
遠ざかるたびに、運命たちの像が薄くなる。代わりに、翡翠の揺らぎだけが少しずつ濃くなっていった。
そこには、道などない。
地面もない。
それなのに、迷うことはなかった。
砕けたものは、砕けた場所へ残る。
取り残された声は、声にならないまま沈む。
リンデンは、その沈み方を知っていた。
どこにも届かず、誰にも拾われず、ただそこに残ってしまうもの。
それは、自分とよく似ていた。
翡翠の揺らぎが近づく。
やがて、何も無い深層に破片が浮かび始めた。
ひとつ。
また、ひとつ。
薄い結晶片。焦げた髪のような黒緑の線。砕けた装飾。爪の欠片。瞳の色だけを残した、濁った光。
それらは人の形をしていない。
けれど、散らばった破片の中心に、確かに彼女がいた。
少女だったもの。
片割れだったもの。
リンデンは、その前で足を止めた。
破片のひとつが、微かに震える。
声がした。
『……来たのかよ』
掠れている。
ぶっきらぼうで、硬くて、けれどひどく遠い声だった。
リンデンは、しばらく答えられなかった。
目の前にいるのは、敵だった。
自分から奪ったもの。自分を壊したもの。輪壊者へ沈む隙間を作ったもの。
それでも、置いていけなかった。
「来ました」
リンデンは、破片の前に膝をつく。
「あなたに、会いに」
そう言った瞬間、翡翠の破片がかすかに鳴った。
笑ったのかもしれない。
砕けた結晶が触れ合うような、乾いた音だった。
『今さらかよ』
少女だったものの声が、破片の奥から滲む。
『オレは、最初からそうしたかったんだぞ』
リンデンは答えない。
破片のひとつが、彼の足元へ滑ってくる。
薄い翡翠の欠片。欠けた爪のような形をしたそれは、淡く光りながら、リンデンの影の中で止まった。
『お前とひとつになる。お前の足りないところを埋める。オレの足りないところを、お前で満たす。最初から、それだけだった』
声は淡々としていた。
責めるでもなく、許すでもなく、ただ事実を置く響きだった。
『なのに、お前が拒んだ』
「……はい」
『だから奪った』
破片がひとつ、また揺れる。
『勝って、取り込んで、ようやく分かった。お前の中にあるもの。お前が抱えていたもの。お前が、誰にも渡さなかったもの』
リンデンの指が、わずかに震えた。
『酷いな、
その声に、嘲りはなかった。
『断崖の下から、何度も何度も登ろうとしてる。手が裂けても、爪が剥がれても、落ちた場所を見もしないで、上ばかり見てる。渡された水の量より、ずっと多いものを返そうとしてる。誰もそこまで求めてないのに』
リンデンは息をする。
胸の奥に、まだ何かが残っていた。
痛みではない。痛みとして扱うには、あまりにも古く、身体の奥へ馴染みすぎたものだった。
「あなたは」
リンデンは、破片へ手を伸ばした。
「私を、知ったのですね」
『知ったよ』
少女の声が、少しだけ低くなる。
『だから、腹が立った』
破片の光が揺れる。
『
リンデンの指先が、翡翠へ触れた。
冷たさはなかった。
代わりに、流れ込んできた。
暗い部屋。
名を呼ばれない時間。
知らない手。
値踏みする視線。
身体を器として扱われる夜。
嬲り貪られた時の、喉の奥に貼りついた息。
声を上げても、誰の耳にも届かない壁。
逃げようとしても、足元に絡みつく“役割”。
役割を果たせば生かされ、果たせなければ壊される日々。
断片だった。
ひとつの人生として整えられた記憶ではない。
破片。傷の断面。音の切れ端。匂い。指の圧。息を殺す癖。喉の奥に押し込めた声。
その中で、少女はずっと探していた。
名前を知っていたわけではない。
顔を知っていたわけでもない。
それでも、探していた。
自分の中に空いた“形”。
生まれた時から欠けていた“場所”。
そこへ収まるはずのもの。
痛みより先に、恐怖より先に、汚されるより先に、奪われるより先に、彼女の内側にはその輪郭だけがあった。
黒緑の髪。
暗紅の瞳。
壊れないほどに壊れた優しさ。
自分と同じ穴を、別の形で抱えた誰か。
名前を知っていたわけではない。
顔を知っていたわけでもない。
それでも、探していた。
リンデンは、破片から手を離せなかった。
呼吸が浅くなる。
自分のものではない喉が、胸の奥で震えた気がした。
少女は、泣かなかった。
泣ける場所にいなかった。
泣いてもよい名前を持っていなかった。
怒りだけを刃にして、飢えだけを灯にして、ずっと歩いていた。
ひとつになりたかった。
救われたかったのではない。
許されたかったのでもない。
ただ、欠けたものを欠けたままにしたくなかった。
「……あなたは」
リンデンの声が擦れる。
「ずっと、私を探していたのですか」
『そうだよ』
少女の声は短かった。
『お前を見つけた時、ようやく終われると思った』
翡翠の破片が、ひとつずつ淡く光る。
『なのに、お前は拒んだ』
「……すみません」
『謝るな。むかつく』
即座に返ってきた声は、かすかに荒かった。
『お前のそういうところも見た。何でもかんでも自分の借りにして、謝って、背負って、返そうとして、潰れて、それでもまだ足りない顔をする。むかつくんだよ』
リンデンは黙った。
『でも』
少女の声が、少しだけ遠くなる。
『それでも、オレはお前がよかった』
何も無い深層に、翡翠の破片が浮かび上がる。
ひとつ。
またひとつ。
砕けた身体の欠片が、リンデンの周囲へ集まってくる。
『お前の中を見た。お前の苦しみも、欲しかったものも、捨てたものも、捨てられなかったものも、全部じゃないけど見た』
破片が、リンデンの手に触れる。
『だから分かった』
少女だったものの声が、初めて少しだけ柔らかくなった。
『やっぱり、オレはお前だ』
リンデンは目を伏せる。
否定の言葉は出なかった。
敵だった。
奪われた。
壊された。
そのせいで、自分は輪壊者へ沈みかけた。
けれど。
彼女もまた、欠けたものを探していただけだった。
壊し方しか知らない手で、帰る場所を掴もうとしていただけだった。
「あなたも」
リンデンは、破片を握る。
「私です」
その言葉が落ちた瞬間、翡翠が砕けた。
破片は散らない。
むしろ、逆だった。砕けた粒子がリンデンの掌へ吸い込まれ、皮膚の下へ、骨の奥へ、霊子の流れへ沈んでいく。
痛みはない。
ただ、視界が少しだけ変わった。
何も無い深層に、線が見えた。
光の線ではない。道でもない。そこに在るものと、別の場所に在るものが、どう隔てられ、どう重なり、どこで噛み合っているのか。そうした“間”の骨組みが、瞬きの奥へ薄く浮かんでいた。
遠い、という言葉の輪郭が崩れる。
彼方は彼方のままだ。
近くなったわけではない。空間が縮んだわけでもない。
けれど、遠いものへ至るために越えなければならないはずの空白が、以前ほど確かなものに見えなかった。
ここにある。
そこにある。
その二つの事実の間に、細い継ぎ目が見える。
リンデンは、息を止めた。
青い光がある。
運命がいる。
トロイがいる。
白い主核が腕を振り上げている。
遠い。
けれど、届かない距離ではない。
位置とは、ただの座標ではない。
間とは、何も無い空白ではない。
触れ方さえ間違えなければ、そこへ届く。
リンデンの周囲で、翡翠の粒子が静かに渦を巻いた。
カツラクが、何も言わずに沈黙している。
その沈黙の中で、少女の声が最後に一度だけ響いた。
『行けよ、
リンデンは目を閉じる。
『今度は、間違えるなよ』
「ーーはい」
答えると、胸の奥で何かが重なった。
欠けていた場所に、欠けていたものが収まる。
それは癒しではない。救済でもない。傷口同士が噛み合い、ひとつの形を取っただけだった。
けれど、その形はもう崩れない。
リンデンはカツラクを握り直した。
黒緑の髪が、見えない風に揺れる。
紺灰色のダイブギアスーツの上で、翡翠の粒子が淡く光った。
彼は、青い光の方へ向き直る。
もう、道を外れる理由はなかった。
とてもとてもわがままですけど、ここからハーメルンとpixivで展開変わります。
恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。
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ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
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息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
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叡智閑話
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イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった