みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

70 / 70
Sever, Nexus, Scorch.1

 

 

 翡翠の欠片が、空気を裂いた音だけが残っていた。

 その直後、戦場の上へひと拍ぶんの沈黙が落ちた。

 絶叫も、破砕音も、肉の潰れる湿った音も消えてはいない。けれど、そのすべてに先んじて、理解だけが遅れた。静けさというより、誰も状況へ辿り着けていない空白だった。

 

 砕けた骨の内側で、トロイは呼吸の仕方を忘れていた。

 肺が膨らむたび、胸郭のどこかが遅れて鳴る。

 身体に残っていたのは温度ではなく、“潰された”という事実そのものだった。痛みは輪郭を持たず、ただ平たく全身へ貼りついている。指先まで、自分のものとは思えないほど遠い。

 

 その遠さの中へ、誰かの腕が差し込まれた。

 背を支えられる。肩の下へ手が入る。

 抱き起こされる感覚に、ばらばらになっていた重力が、わずかに向きを揃える。沈みかけていた意識が、床から剥がれるように浮いた。

 

 まぶたが震える。

 視界の奥へ差し込んできたのは、光ではなかった。

 いま在るはずのない輪郭だった。

 

 黒緑の髪。

 黒いベールで結われた束が、風のたび細く揺れている。前髪の隙間から覗く暗紅の瞳。戦場の濁った光を受けても沈まない、あの深い色。息を吸うたび、焼けた金属と血の匂いに混じって、遠い記憶の気配が近づく。薄く、熱を帯びた――彼の体温を思わせる匂いだった。

 

 トロイは、声にならない息を漏らした。

 喉は動く。けれど言葉へ届く前に、胸の奥で何かが詰まる。

 上手く吸えない。上手く吐けない。傷ついた場所より先に、別のところが苦しくなる。

 

「……リン……」

 

 呼びかけるより早く、彼の声が落ちてきた。

 

「――良かった、姉さん」

 

 その呼び方が、胸の底を一度だけ叩いた。

 あまりにいつも通りで、あまりに今さらで、だからこそひどかった。

 トロイは震える手を持ち上げた。指先が彼の輪郭へ届くまでに時間がかかる。視界はもう合っているはずなのに、感覚の方が遅れている。夢の続きを触ろうとしているように、指が何度か空を掻いた。

 

 触れたのは、頬ではなかった。

 ダイブギアスーツの胸元。紺灰色の布地。その下に仕込まれた簡易装甲の硬さ。さらに奥には、確かな熱がある。硬い素材越しに、鼓動がいた。弱くもなく、急きもせず、ただそこに在るというように打っている。

 その感覚が指先へ届いた瞬間、遅れて理解が追いついた。

 トロイの喉が、小さく鳴る。

 

 ――生きている。

 

 ただそれだけの事実が、ひどく重かった。

 軽く受け取れるものではなかった。

 

 黒いベールが揺れた。

 自分が頭を覆っていた、あの黒だ。彼の亡骸の傍で、指先がうまく動かないまま、それでも髪をまとめて結んだ時の感触が蘇る。あの時、笑っていたつもりだった。送り出すふりもした。けれど声だけは、どうしても震えていた。

 

 ――そこに居てよー?

 ……絶対に迎えに行くから。

 

 置いてきた言葉が、遅れて胸の奥へ返ってくる。

 

 約束は果たされた。

 果たされてしまった。

 

 嬉しさは、確かにある。

 胸のどこかで、壊れたままの鈴が鳴るように、それはある。けれどそれより先に、もっと重いものが沈んだ。

 

 また、この子は戻ってきてしまった。

 "戻ってきた"というより近いのは、そちらの方だった。

 痛い方へ。壊れる方へ。間に合ってしまう方へ。あの子はまた、自分からそこへ帰ってきてしまった。

 

「……ごめんね……」

 

 唇だけが動いた。声にはならない。

 謝りたい相手が誰なのか、自分でもうまく分からなかった。迎えに行くと言ってしまった自分か。戻ってきてしまったこの子か。それとも、そんな約束ひとつで帰ってきてしまうほど、ずっとトロイ(こちら)を見つめていた彼そのものか。

 

 代わりに、指先がもう一度、胸元の布を掴む。

 ほどけかけた現実を掴み直すように。消えてしまわないように。確かめるというより、縋るに近い動きだった。

 

 リンデンは、その手を落ち着かせるように、ほんの少しだけ指を添えた。

 強く包むのでも、撫でるのでもなく、そこにある位置を静かに教えるような触れ方だった。

 

「……立てますか、トロイ姉さん」

 

 トロイは返事をしない。できない。

 喉の奥が痛い。何かを言えば、別のものまで一緒に零れてしまいそうだった。

 それでも掴んだ指先だけは離せないままの彼女から、リンデンは視線を前へ送った。

 

 トロイの身体を支えたまま、戦場の中心へ向き直る。

 限定神域の中心に、久条運命がいた。

 魔剣を地面へ突き立てたまま、その場から動けない。退けば崩れる。手を放せば全員が死ぬ。その一点に、自分ごと戦場を縫い止めている。仮面の表示が揺れていた。感情を表しているのか、通信の乱れなのか、それさえ判別のつかない揺れ方だった。

 

『――リンデン』

 

 運命の声は、擦れていた。

 届いているのかどうかも曖昧な距離で、それでも確かに名を呼んだ。

 その一音だけで、いくつもの確認と、いくつもの否定と、いくつもの願いが押し込められているのが分かった。

 

「ご無事ですか、陛下」

 

 ただ、それだけ。

 状況を説明しない。

 帰ってきた理由も言わない。

 何を失って、何を拾って、何を手にしてここへ来たのか。そのどれも口にしない。

 戦場は、そんな余白を許さなかった。

 運命は返事を探すように、仮面の表示を揺らした。

 

『君は――』

 

 言葉は続かなかった。

 白い肉体が、動いたからだ。

 

 主核個体。その姿は一体でしかないはずなのに、踏み込みと同時に戦場全体の空気が脈を打つ。周囲に散るナンナリスクリーチャーの気配が、一斉に同じ呼吸を始める。個ではなく構造が動く時の圧だった。白い筋肉の束が捩れ、肩に生えた女の肉像が、目を覆ったままわずかに揺れる。

 

 主核は、リンデンを見た。

 視線があるわけではない。

 けれど、見た、としか言いようがない。存在そのものが、彼を捉えた感覚だった。

 そして、言葉を置いた。

 

《終而不終》

《滅而不滅》

《――欺誑の剣、再び至る》

 

 経文のように、淡々と。

 怒号ではなく、呪詛でもなく、すでに何度も唱え尽くした句を、またひとつ確認するような口調だった。

 けれど、その一節だけに、わずかな歪みがあった。

 “剣”という語に、温度が混じる。僅かな、しかし確かに腐食性のある熱。理解より先に憎んでいるものへ向ける声音だった。

 

 主核の腕が持ち上がる。

 運命へ向かっていた軌道が、今度はリンデンを含む範囲へ滑ってくる。

 遅い。――それでも、避けるという発想そのものを押し潰してくる種類の速度だった。届くかどうかではなく、届くことが前提になっている軌道。質量と理屈が結託した一撃。

 

 トロイの背骨が、反射で縮む。

 身体が、痛みを思い出す。

 潰された感覚。砕けた骨の位置。祈術防壁ごと押し込まれた時の、息の止まり方。身体はまだ、あの白い腕の圧を自分の中へ保存していた。

 

 だが、リンデンは動かなかった。

 剣を抜かない。

 構えもしない。

 ただ、視線だけを主核へ向けた。

 

 次の瞬間。

 翡翠結晶が、そこに“刺さっていた”。

 

 主核の腕の関節。可動域の噛み合う一点。そのほんのわずかなずれで、軌道全体が歪む場所。そこへ、翡翠の楔が置かれるように現れる。飛翔の途中がない。生成の過程もない。ただ、気づいた時にはすでに深く食い込み、白い肉の奥で鈍く光っていた。

 

 同時に、翡翠の爪刃が降り注いだ。

 雨のような密度ではない。

 撒き散らすでも、飽和させるでもない。必要な場所へだけ、必要な数だけ。輪壊者の肢体と、ナンナリスクリーチャーの群れの“継ぎ目”へ。構造が次の動作へ繋がる寸前の細い箇所へ。そこだけを選び、裂き、止める。

 

 血が飛ぶ。

 白い肉が割れる。

 翡翠の断面が、遅れて光を返す。

 それでも主核は止まらない。

 白い巨体はそのまま踏み込んでくる。損傷を無視してなお前へ出る。破壊を引き受けた上で、目標だけを潰しに来る。

 

 しかし、わずかに。

 腕の軌道が“ずれた”。

 

 届くはずの距離が、届かない距離へ変わっている。

 リンデンは動いていない。重心も、回避の気配さえしていない。なのに主核の一撃だけが、ほんの指先ひとつぶん、致命から外れていく。

 主核の腕が空を噛む。

 砕けた岩床がその余波で裂け、破片が跳ねる。だが、その破壊だけがひどく場違いに見えた。力が外れている。世界の方が、一撃の届く先を拒んだような違和感があった。

 

 リンデンは、そこでようやく片手を上げた。

 トロイの身体を支えていた手ではない。

 もう片方の手。

 ――彼が生きていた頃に、トロイを殺しかけた手。

 その指先が、空間へ触れるように伸びる。

 ただ前へ差し出しただけの動きなのに、見えない輪郭を確かめているようだった。

 

「……近いと思いましたか」

 

 声は低い。揺れない。

 けれど言葉の端には、焼け残った痛みの匂いがあった。何も失わなかった者の声では出ない温度だった。

 

 主核が、もう一度踏み込む。

 踏み込んだはずなのに、距離が縮まらない。

 詰めたはずの間合いが、次の瞬間にはひとつ手前へ戻されている。主核の質量だけが前へ進み、接触の結果だけが遠ざけられていく。戦場の理屈が、すでに彼の立つ位置を中心に、別のものへ差し替わり始めていた。

 

 トロイは、リンデンの袖を掴んだまま、離せなかった。

 嬉しいというより、怖い。

 帰ってきてしまったこの子が、もう以前と同じ理屈の中にはいないことが、怖い。

 

 それでも。

 

 この手の温度だけは、離したくなかった。

 たとえ痛みの方へ戻ってきたのだとしても。たとえまた壊れるのだとしても。いま、自分の指先に触れているこの熱だけは、もう一度置いていくことなどできそうになかった。

 

 

 リンデンは、トロイの指先が袖を掴んでいるのを確かめてから、ゆっくりと膝を立てた。

 主核個体はなお前へ来る。

 残存するナンナリスクリーチャーの群れも、赤黒い大地の上でぎこちなく呼吸を揃え始めていた。白い肉の脚が土を踏み、背の砲身が濡れた音を立てる。そのたび、周囲の空気がひずむ。

 

 けれど、届かない。

 翡翠結晶が要所へ刺さる。

 爪刃が関節を裂く。

 踏み込んだはずの距離が、次の瞬間にはひとつ遠ざかる。

 主核の腕が振るわれるたび、赤黒い大地が大きく抉れた。土が砕け、黒い礫が跳ね、衝撃が低く腹へ響く。

だがその破壊は、リンデンと運命へ届く直前でわずかに外れる。外された、というより、そこにあったはずの距離だけが抜き取られている。

 

 リンデンはトロイを支えたまま、立ち上がった。

 トロイの脚はまだ震えていた。

 砕けた骨が戻り切っていない。肉も、神経も、呼吸も、立つという動作に追いついていない。けれどリンデンの腕が背を支え、腰の横で重心を受け止めると、膝だけはどうにか折れずに済んだ。

 

「……ごめん、リンデンちゃん」

 

 声はかすれていた。

 リンデンは前を向いたまま、わずかに首を振る。

 

「謝らないでください」

 

 背中で、硬い展開音が鳴った。

 黒灰の背から量子展開された、ナンナリスが開く。

 本来なら四本あるはずの支援アームのうち、二本は根元近くから失われていた。裂けた接続部には焦げた痕が残り、内部の霊子導線が翡翠色の光を細く漏らしている。

 

 残った二本のアームが、震えるように持ち上がった。

 その先端がトロイの背と脇腹へ向く。

 触れる手前で停止し、薄い光の膜だけを彼女の身体へ重ねる。翡翠と淡緑の混じった霊子が、折れた骨の周囲へ染み込み、潰れた筋肉へ流れ込んでいった。

 トロイの喉が、小さく鳴る。

 痛みが消えたわけではない。

 ただ、痛みの下に立つための芯が戻ってくる。砕けた胸郭の内側へ細い支柱が通されるように、呼吸の道がひとつずつ開いた。

 

「……また、そんなとこまで……」

 

 半ばで止まったトロイの言葉に、リンデンは何も返さない。

 ただ、支える腕に少しだけ力を込めた。

 トロイは小さく息を吸い、手に残った聖槍リタを握り直す。

 槍身は赤黒い土と白い肉片で汚れていた。けれど握ればまだ、そこには祈りの形が残っている。

 トロイは自分の胸元へ、槍身を軽く当てた。

 

「……懺悔、終わったら聞くからねー?」

 

 かすれた声で、いつもの調子に似せる。

 似せただけだった。間延びした声の中に、息が足りていない。

 それでも聖槍は応えた。

 

 淡い光が、まずトロイ自身の身体を包む。砕けた骨の音が内側で組み替わり、裂けた肉が薄く閉じる。完全ではない。戦える形に、最低限だけ戻す光だった。

 

 次に、トロイは視線を横へ送った。

 赤黒い大地の上に、玄鉄が倒れている。分厚い魔術コートは裂け、銀髪の片側が土に沈んでいた。少し離れた場所には濡羽が転がっている。魔女帽は潰れ、棒付きキャンディの残骸が指のそばで折れていた。

 トロイは槍を傾ける。

 霊子が流れた。

 リンデンのナンナリスから供給された翡翠の光が、聖槍リタを通って淡緑の祈術へ変わる。細い帯のように伸びた光が、玄鉄と濡羽の身体へ届いた。

 玄鉄の指が、ぴくりと動く。

 濡羽の喉から、詰まった呼気が漏れた。

 

「……っ、は……訴え、ますよ……ほんとに……」

 

 掠れた声が土の上で震えた。

 玄鉄は片目をうっすら開け、血に濡れた口元だけで笑おうとする。

 

「……いやぁ……訴える余裕、ある……?」

 

 トロイは返事をしなかった。

 返事の代わりに、さらに光を流す。冗談を返せる余裕は、まだどこにもなかった。

 その間も、リンデンは主核の進行を止め続けていた。

 

 視線が動く。

 翡翠が刺さる。

 指がわずかに曲がる。

 距離がずれる。

 それだけで、主核の腕は届かない。ナンナリスクリーチャーの砲身は狙いを失い、突進する四肢は土を噛む。赤黒い大地の上に、何度も無意味な破壊だけが刻まれていった。

 

 やがて、前線に散っていた面々が戻ってきた。

 最初に見えたのは、斬だった。

 刀を杖のように土へ突き、肩で息をしている。衣の袖は裂け、白いメッシュの混じった髪に血が絡んでいたが、目だけはまだ折れていない。

 その後ろから、エリスがガトリングを引きずるようにして戻る。狐耳が片方だけ伏せていた。オラスは片腕を押さえながら、けれど目を見開いたままリンデンを見ている。

 

 エラーの周囲では、放電の残滓がまだ小さく弾けていた。

 オーバーフローは杖を握ったまま、何かを測るようにリンデンと主核の間の空白を見ていた。アンサーは槍を地に立て、息を整えながら、傷ついた仲間たちの位置を一つずつ確認している。

 言葉は、すぐには出なかった。

 

 戻ってきた。

 生きている。

 けれど何が起きているのか、誰もまだ追いついていない。

 その中で、プロブレムだけが一歩、遅れて動いた。

 

 光学ドローンを背に、彼女はぽろぽろと涙を溜めたまま、走った。いつもの跳ねるような速度ではない。足元が一度もつれ、それでも止まらない。

 

「――リンデンくんっ!」

 

 叫びは、戦場の音を裂いた。

 リンデンはトロイを支えていない側の腕を、わずかに開いた。

 プロブレムはそこへ飛び込む。ぶつかる寸前に減速する余裕などなく、胸元へ額を押しつけるようにしてしがみついた。

 

「ほんとに……っ、ほんとに、もう……っ!」

 

 それ以上は言葉にならない。

 普段ならいくらでも騒げる口が、今だけは詰まっていた。

 リンデンはその背に手を回さなかった。

 回せなかった。片腕はトロイを支え、もう片方は主核との距離を押さえている。だから代わりに、少しだけ胸を下げる。プロブレムの額が、そこに確かに触れられるように。

 

「……すみません、プロブレム姉さん」

 

 謝罪だけが、静かに落ちた。

 プロブレムは返事の代わりに、彼のスーツをぎゅっと掴んだ。

 

 少し離れた場所で、スリーが足を止めた。

 彼はリンデンを見た。数秒だけ。その瞳に浮かんだものは、すぐに軍人めいた静けさの奥へしまわれる。

 それから、彼は振り返った。

 

 補給コンテナの方へ向かう。

 赤黒い土の上を、壊れた装備と肉片を避けながら歩く。コンテナの内部では、携行型コンソールに突っ伏すようにして、マシーナリーが動かなくなっていた。指はまだ端末の縁にかかり、表示はひび割れた画面の中で細く点滅している。

 スリーは膝をついた。

 何かを確認するように、短く首元へ手を当てる。

 それから、静かに息を吐いた。

 

「……ご苦労だった、マシーナリー」

 

 声は低かった。

 戦場の中で、誰か一人にだけ届けばいい声音だった。

 スリーはその身体を抱え上げ、コンテナの隅へ運んだ。雑には扱わない。急いではいる。けれど急ぎの中に、乱暴はない。彼は使われなくなった弾薬ケースをずらし、そこへマシーナリーを横たえる。

 その動作を終えてから、スリーは再び銃を手に取った。

 

 戦場は、まだ終わっていない。

 リンデンの腕の中で、トロイの呼吸がわずかに整っていく。

 玄鉄と濡羽も、土の上で身を起こし始めていた。完全な復帰には程遠い。けれど、瀕死のまま置かれるほどではない。

 

 リンデンは短く息を吸った。

 その首元に、チョーカーデバイスはない。

 彼のチョーカーは、いまトロイの首にある。死んだはずの彼の傍で、トロイが受け取ったもの。戻るための約束の代わりのように、ずっとそこにあったもの。

 

 リンデンの視線が、トロイの喉元へ落ちる。

 トロイは何も言わず、少しだけ顎を引いた。

 触れていいよ、という代わりの仕草だった。

 リンデンは支えていた腕を崩さないまま、空いている指先でチョーカーデバイスへ触れた。

 黒いベールで束ねられた髪が、風に揺れる。死体の傍で交わされたものが、いま、生者の通信回路として再び繋がっていく。

 

 小さな起動音。

 砂を噛むようなノイズの向こうで、回線が開いた。

 

「リーインシアさん」

 

 その名を呼んだ瞬間、向こう側の呼吸が止まった。

 

『――リンデン、くん……?』

 

 声が震えている。

 けれど崩れない。崩れるより先に、彼女は飲み込んだ。泣くための息を、仕事をするための息に変える音がした。

 リンデンは、主核から視線を外さない。

 

「状況をください」

 

 短い沈黙。

 その奥で、リーインシアが深く息を吸った。

 

『……はい』

 

 返答は、もうオペレーターの声だった。

 

『神域内、主核個体健在。残存ナンナリスクリーチャー群、再同期中。GARDEN第十三層、有翼個体と交戦継続。双方に、リンデンくん由来と思われる翡翠反応があります』

 

 リンデンの瞳が、前髪の隙間で暗く光った。

 

『同期反応は、まだ切れていません』

 

「分かりました」

 

 主核が再び踏み込む。

 リンデンの指がわずかに動き、距離だけがまたずれた。

 赤黒い大地が砕ける。

 けれど、誰にも届かない。

 リンデンは静かに言った。

 

「では、同時に押します」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十三層の甲板を、蒼い光が削っていた。

 

 浮遊大陸の外縁から吹き込む風は冷たい。けれど甲板の上だけは、焼けた装甲と翡翠結晶の熱で、息を吸うたび喉の奥がざらついた。防護柵は半ばから捻じ切れ、床面には斬撃と衝撃で刻まれた溝が幾重にも走っている。

 その中心で、ブルーは有翼個体とぶつかっていた。

 

 聖弓ベルガンテは、すでに弓の形をしていない。

 左右の手に握られた漆黒の双剣が、翼から伸びる翡翠の爪と噛み合う。火花は散らない。代わりに、霊子の粒が割れ、蒼と翡翠の欠片が風に散った。

 

 ブルーは退かない。

 肩口を裂かれても、踏み込む。

 脇腹を掠められても、刃を返す。

 頬に血が走っても、その血が顎から落ちるより先に、有翼個体の喉元へ刃を叩きつける。

 避けるための半歩が、すべて詰めるための半歩に変わっていた。

 

「っ、ぁああああッ!」

 

 叫びは短い。

 言葉にはならない。言葉にする時間すら惜しいように、ブルーは刃を振るう。

 有翼個体の背から伸びる翼が、甲板の風を切った。

 白い肉の骨格に羽を模した指と翡翠結晶が絡み、羽根というより刃を束ねた構造に近い。振るわれるたび、空気が硬く鳴る。そこへ、ブルーは真っ向から飛び込んだ。

 

 双剣が交差する。

 受けた瞬間、ブルーの足元の装甲が沈んだ。

 膝が軋む。腕の筋が張る。けれど彼女は押し返すのではなく、さらに前へ出る。受け止めた刃を滑らせ、翼の根元へ身体ごと潜り込もうとする。

 

「ブルー、下がって!」

 

 カノンの声が飛んだ。

 次の瞬間、有翼個体の尾が横から奔る。

 ブルーの視界の外。反応が半拍遅れる角度。そこへ、金の軌跡が割り込んだ。

 巨大な聖剣が尾を受ける。

 衝撃に、カノンの靴底が甲板を削った。細い身体が押し込まれ、それでも彼女は歯を食いしばって踏み留まる。

 

「今のは、だめ!」

 

 返事はない。

 ブルーはカノンの制止を聞いていないわけではない。ただ、聞いた上で、前へ行く。そんな動きだった。

 甲板の陰から、青白い火がぽん、と浮いた。

 

「我が眷属よ、其の翼を縫い止めて……!」

 

 久理の声は震えていた。

 高飛車に響かせようとしているのに、喉の奥へ緊張が絡んでいる。それでも彼女が両手を掲げると、甲板の割れ目や装甲の影から、小さな人魂たちが次々に飛び出した。

 

 丸い火の尾。

 ぷかぷか揺れる半透明の身体。

 額には小さな鬼の角が二本生えている。

 

 悪霊と呼ぶには、あまりに愛嬌のある姿だった。

 けれどそれらは久理の号令に合わせて、きゅう、と目を細めるように揺らぎ、一斉に有翼個体へ飛びかかる。

 

 小さな角が、翡翠の翼の隙間へ引っかかった。

 火の尾が絡みつき、白い肉の骨格へぺたりと張りつく。押さえ込む力は弱い。引き剥がされるまでの時間も、ほんの数秒あるかどうか。

 それでも、その数秒が、ブルーの刃を一度だけ深く入れる。

 

 黒刃が、白い肉を裂いた。

 有翼個体が鳴く。

 声というより、複数の骨筒を同時に鳴らしたような音だった。傷口から翡翠の粒子が噴き、ブルーの頬と髪を汚す。

 ブルーの瞳が、さらに細くなる。

 

 その粒子の中に、彼女はまだ知っている気配を見ていた。

 リンデンの力。

 あの子から奪われ、使われているもの。

 双剣の柄が、軋むほど握り込まれる。

 

「返せ」

 

 小さく、言葉が落ちた。

 次の瞬間、ブルーは再び踏み込んだ。

 

 甲板の後方で、モノはその全てを見ていた。

 肩掛け式の大型端末、氷冥桜が彼女の身体に沿って低く唸っている。雪のような微粒子が周囲に散り、薄い回路を空中へ描いていた。そこから放たれた小さな雪兎たちが、甲板を駆ける。

 

 一匹はブルーの足元へ。

 一匹はカノンの背後へ。

 もう一匹は久理の悪霊群の近くで跳ね、霊子の乱れを補正する。

 ブルーの周囲には、薄い回復領域が貼られていた。

 傷を塞ぐには足りない。致命傷を遅らせる程度の膜。だが今のブルーには、その程度の猶予すら必要だった。

 

「……馬鹿みたいな前進ね」

 

 モノは呟く。

 皮肉の形をしていたが、声に余裕はない。

 氷冥桜の表示上では、ブルーの損傷値が警告域に入っている。カノンの筋力補正も過負荷。久理の悪霊群は召喚維持率が低下し、次の大型衝突には耐えられない。

 

 それでも有翼個体は落ちていない。

 翡翠反応は、むしろ濃くなっていた。

 有翼個体の内部で、何かが脈打っている。主核とは別の同期点。奪われた力を、そこに抱えたまま動いている。

 氷冥桜の通信回線に、ざらついたノイズが走った。

 

『――モノさん』

 

 リーインシアの声だった。

 

 モノは視線を戦場から外さない。

 

「聞こえてる。状況なら最悪よ。そっちは」

 

『神域側、リンデンくんが復帰しました』

 

 氷冥桜の演算表示が、一瞬だけ空白になった。

 モノの指が止まる。

 戦場の音は続いている。

 ブルーの刃と有翼個体の翼がぶつかり、カノンが叫び、久理の悪霊が引き千切られる。その全部が、数拍だけ遠く聞こえた。

 

「……今、何て言ったの」

 

『リンデンくんが復帰しました。現在、主核個体を足止めしています』

 

「蘇生? 再構成? それとも別個体?」

 

『判別不能です。ですが、声紋、霊子反応、行動判断はリンデンくん本人と一致しています』

 

 モノは奥歯を噛んだ。

 聞きたいことが多すぎる。聞くべきことも多すぎる。けれど、そのどれも今ではない。

 

「……説明は後でいい。神域側の回線、こっちへ回せる?」

 

『はい。リンデンくんからも、接続要求が出ています』

 

「よりによって今ね」

 

『今です』

 

 その返答に、モノは小さく息を吐いた。

 

「そう。でしょうね」

 

 氷冥桜の表面を、指が走る。

 回線の層を開き、ノイズを削り、神域側の通信帯域を十三層の局所回線へ重ねる。雪兎の一匹がモノの足元へ戻り、耳のような突起を震わせた。

 次の瞬間、別の声が入った。

 

『モノ姉さん』

 

 硬い声だった。

 少し低く、かすかに疲労が混じっている。けれど、その呼び方だけは間違えようがなかった。

 モノは一瞬だけ目を伏せた。

 それから、すぐに開く。

 

「……リンデン」

 

『はい』

 

「今、あなたの状態を問い詰めると、私はたぶん三十項目くらい確認を始めるわ」

 

『後でお願いします』

 

「当然。今は要点だけにして」

 

 通信の向こうで、短く息を吸う音がした。

 リンデンの背後には、別の戦場の音がある。土が砕ける重い音。白い肉が裂ける湿った音。神域側もまた、余裕などない。

 

『そちらの有翼個体は、まだブルー姉さんと交戦中ですか』

 

「交戦という言葉で済ませるなら、そうね」

 

 モノは視線を前へ戻す。

 ブルーが有翼個体の翼を蹴り、双剣を逆手に握り替えて首元へ斬り込んでいる。反撃の爪が肩を裂いたが、彼女は止まらなかった。血が散る。蒼い髪が乱れる。それでも刃は前へ出る。

 

「実際には、あの子が自分の損傷を計算に入れずにぶつかってる。カノンが致命だけ受けて、久理が悪霊で翼を乱して、私は回復と場面整理でどうにか落とさないようにしている」

 

『止めなくていいです』

 

 モノの眉が、わずかに動いた。

 

「……本気で言ってる?」

 

『はい』

 

「今のブルーは冷静じゃないわ」

 

『分かっています』

 

「分かっていて、止めないのね」

 

『止めたら、届きません』

 

 短い沈黙があった。

 モノはその言葉の意味を、戦場の数字ではなく、ブルーの背中で理解した。

 あの子は怒っている。悲しんでいる。奪われたものを取り返そうとしている。理屈ではなく、衝動の形で有翼個体へ噛みついている。

 そして、今だけはそれが必要なのだと。

 リンデンはそう言っている。

 

「……嫌な信頼の仕方をするのね、リンデン」

 

『すみません』

 

「謝罪は後。何が必要?」

 

 リンデンの声は、そこで一段だけ静かになった。

 

『ブルー姉さんに、お願いがあります』

 

 モノは氷冥桜へ手を置いた。

 冷たい端末の表面が、彼女の霊子を受けて淡く光る。

 

「内容は」

 

『三十秒で、有翼個体に致命を入れていただきたいです。こちらも同時に主核を押します』

 

「その言い方だと、ただ倒すだけじゃないわね」

 

『有翼個体に、私の力が残っています。主核はそれを利用して、同期を維持している可能性が高い』

 

「切り離させるのが目的?」

 

『はい。主核に、選ばせます』

 

 モノは舌打ちを飲み込んだ。

 無茶だ。

 けれど無根拠ではない。神域側(あちら)十三層側(こちら)を同時に押し込み、有翼個体を主核にとって維持できない損傷域へ落とす。そうすれば、主核は同期を保つために何かを切るか、抱えたまま崩れるしかない。

 そこまでは分かる。

 問題は、三十秒でそこまで持っていく手段だった。

 

「ブルーに細かい指示は通らないわよ」

 

『通す必要はありません』

 

「……何?」

 

『ブルー姉さんのやりたいようにしていただきます』

 

 モノは、ほんのわずかに目を細めた。

 

『私が、全て合わせます』

 

 戦場の風が、氷冥桜の雪片をさらった。

 モノの足元で、雪兎が一匹、耳を立てる。

 

「……あきれた、見ないうちに自信家にでもなった?」

 

『そのようです』

 

「褒めてないわよ?」

 

『はい』

 

 モノは指先で氷冥桜の音声拡張回路を開いた。

 ブルーの周囲に展開している回復フィールドへ、通信の細い線を重ねる。ゆきうさぎたちが一斉に甲板を走り、蒼い軌跡の外周へ散った。

 

「氷冥桜、音声拡張。対象、ブルー周辺局所」

 

 端末が低く応える。

 モノは前方で有翼個体へ斬り込むブルーを見た。

 その背中はまだ燃えている。怒りで、痛みで、戻らないはずだったものへの渇きで。

 

「リンデン」

 

『はい』

 

「一度しか通さない。あの子が止まるから」

 

『分かっています』

 

「止まった隙は、こっちで潰す」

 

『お願いします』

 

 モノは短く息を吐き、回線を開いた。

 蒼い刃が、翡翠の翼と噛み合う。

 その衝突音の内側へ、リンデンの声が差し込まれた。

 

『ブルー姉さん』

 

 ブルーの動きが、止まった。

 ほんの一瞬だった。

 けれど、戦場では十分すぎる空白だった。

 振り下ろしかけていた双剣が、空中でわずかに迷う。蒼い軌跡が途切れる。呼吸が詰まり、瞳の奥で燃えていた怒りの火が、別の色を帯びた。

 

 有翼個体は、その隙を逃さなかった。

 背の翼が大きく開く。

 翡翠の羽根が束になり、一本の槍のように収束する。先端が歪み、肉の内側から結晶が押し出され、ブルーの胸元へ向かって真っ直ぐに伸びた。

 

「ブルー!」

 

 金の光が割り込んだ。

 カノンが前へ出る。

 巨大な聖剣を両手で構え、翡翠の槍翼を受け止めた。刃と結晶が噛み合い、甲板全体へ重い衝撃が走る。カノンの靴底が装甲を削り、足元に火花ではなく霊子の粉が散った。

 

「っ……!」

 

 細い腕が震える。

 だが聖剣は落ちない。

 カノンは歯を食いしばりながら、背後のブルーへ声を投げた。

 

「聞いて、ブルー!」

 

 有翼個体の翼がさらに押し込まれる。

 カノンの膝が沈む。聖剣の腹に翡翠が食い込み、ぎり、と嫌な音を立てた。

 

「その声、聞き逃したらだめ!」

 

 ブルーは、呼吸を忘れたように立っていた。

 頬に流れた血が、顎先から落ちる。

 蒼い髪の一部が翡翠の粒子で汚れ、傷口から流れる血と混じって暗く濡れている。それでも彼女の意識は、目の前の有翼個体でも、割り込んだカノンでもなく、耳の奥へ届いた声に縫い止められていた。

 聞き間違えるはずがなかった。

 

 少し低くて。

 静かで。

 いつも、誰かに迷惑をかけないように言葉の角を削っているような声。

 

 あの子の声だった。

 

「……リンデン、なの?」

 

 問いは、ひどく小さかった。

 戦場の音に呑まれてしまいそうなほど細い。けれど氷冥桜の回線は、その声を拾い、神域側へ返した。

 

『はい』

 

 返事は短かった。

 ブルーの喉が、小さく動く。

 

「……ほんとに?」

 

『はい。戻りました』

 

 戻りました。

 その言葉が届いた瞬間、ブルーの眉が歪んだ。

 嬉しさより先に、胸の奥で何かが握り潰される。戻ってきた。帰ってきた。そう受け取るには、声があまりに平静だった。まるで自分が死んだことも、壊れたことも、置いていったものも、全て仕事の一部として片づけてしまうような声。

 双剣の柄を握る指が、震えた。

 

「……っ」

 

 言いたいことは、いくらでもあった。

 

 どうして。

 どこにいたの。

 何をされたの。

 無事なの。

 痛くないの。

 どうして、そんな声で戻ってきたなんて言えるの。

 

 けれど、そのどれも形にならない。

 目の前に、有翼個体がいる。

 その身体の内側に、リンデンの力がある。奪われ、使われ、翡翠の粒子となって戦場を汚している。

 

 ブルーの瞳が、ゆっくりと有翼個体へ戻った。

 カノンが押さえている翡翠の槍翼が、ぎしぎしと聖剣を削っている。久理の小さな悪霊たちが翼の隙間へ取りつき、ぷかぷかと必死に揺れながら引き剥がされまいとしていた。モノの雪兎が、ブルーの足元を走り、薄い回復の膜を張り直す。

 

 全部が、ぎりぎりだった。

 通信の向こうで、リンデンが言った。

 

『ブルー姉さん。お願いがあります』

 

 ブルーの息が、止まる。

 

 お願い。

 その言葉は、彼からあまり聞かないものだった。

 いつも、すみません、と言う。大丈夫です、と言う。自分でやります、と言う。頼るより前に、自分の手足を削って道を作ってしまう。

 そのリンデンが、お願いと言った。

 ブルーは、双剣を握り直した。

 

「――うん」

 

 声が震えていた。

 けれど、もう途切れてはいなかった。

 

「何でもする。何でも言って」

 

 通信の奥で、ほんの短い沈黙があった。

 それはためらいに似ていた。

 あるいは、受け取ってしまったことへの痛みに似ていた。

 

『有翼個体に、私の力が残っています』

 

 リンデンの声は、感情を抑えていた。

 けれどその奥で、何かが焼けている。ブルーには、それが分かった。

 

『主核はそれを利用して、双方の同期を維持しています』

 

「……あいつが」

 

 ブルーの視線が、有翼個体の胸奥へ刺さる。

 そこに、翡翠の光が脈打っていた。

 肉の奥で、結晶とも心臓ともつかないものが震えている。見るだけで腹の奥が熱くなる。あれがリンデンのものだと思うと、呼吸が荒くなった。

 

『三十秒で、有翼個体に致命を入れてください』

 

「倒せばいいの?」

 

『完全に倒す必要はありません。主核に、切り離す以外の選択肢がない損傷を与えます』

 

 ブルーは目を細めた。

 

「難しいことは、よく分からない」

 

『はい』

 

「でも、あいつを斬ればいいんだよね」

 

『はい』

 

 即答だった。

 それだけで、ブルーの中にあった余計なものが一つ落ちた。

 難しい理屈は、リンデンが持っている。

 戦場の全体は、モノが見ている。

 カノンが守る。久理が邪魔をする。リーインシアが繋いでいる。

 

 ――なら、自分は斬ればいい。

 

 あの子の力を抱えたまま、あの子の匂いを汚したまま、まだそこに立っている白いものを。

 斬る。

 

「どうすればいい?」

 

 ブルーが問う。

 返ってきた答えは、指示ではなかった。

 

『ブルー姉さんのやりたいようにしてください』

 

 双剣の切っ先が、わずかに下がる。

 

「……え?」

 

『全て、私が合わせます』

 

 ブルーは、瞬きを忘れた。

 風が吹く。

 十三層の冷えた風が、血に濡れた頬を撫でていく。蒼い髪が揺れる。ベルガンテの刃から、細い光が漏れた。

 

 やりたいように。

 そんなことを、リンデンが言う。

 自分の感情が乱れていることも、怒っていることも、傷を厭わず突っ込んでいることも分かっていて。止めるのではなく、整えるのでもなく、そのまま走れと言う。

 合わせる、と。

 

 ブルーの唇が、かすかに震えた。

 

「……リンデン」

 

『はい』

 

「怒ってるよ、私」

 

『はい』

 

「すごく、怒ってる」

 

『知っています』

 

「止まれないかも」

 

『止めません』

 

 その答えで、ブルーの目元が一度だけ歪んだ。

 泣きそうな顔だった。

 けれど涙は落ちない。落とす前に、彼女は息を吸った。深く、長く、胸の奥へ戦場の風を入れる。

 

「……そっか」

 

 双剣が、低く構え直された。

 さきほどまでの刃は、ただ前へ出ていた。

 今の刃は、向かう場所を知っている。怒りは消えていない。むしろ熱は増している。けれど、その熱の形が変わった。

 燃え広がる火ではなく、炉の奥で白く尖る火。

 

「なら、やる」

 

 ブルーは小さく言った。

 

「私のやりたいように、やる」

 

 カノンが、聖剣を弾くように振り上げた。

 翡翠の槍翼が逸れ、有翼個体の身体が一瞬浮く。

 久理の悪霊たちが、ぷかぷかと有翼個体の翼へ群がる。何匹かは弾かれ、甲板の上をころころ転がったが、すぐにふわりと起き上がって、また角を突き立てにいく。

 

 モノの氷冥桜が、低く鳴る。

 雪兎たちが甲板を走った。

 ブルーの足元に、薄い霜の軌跡が引かれる。ただ滑るための氷ではない。踏み込む瞬間だけ抵抗を消し、蹴り出しの瞬間だけ反発を返す、短い道。

 モノは通信の向こうへ声を飛ばした。

 

「リンデン。こっちは準備する」

 

『ありがとうございます』

 

「礼は成功してから」

 

『はい』

 

 ブルーは双剣を握る手に力を込めた。

 ベルガンテに纏う蒼が、深くなる。

 刃の輪郭が細く伸び、弓だった名残が、双剣の内側で弦のように震えている。

 

 有翼個体が、再び翼を広げた。

 翡翠粒子が噴き上がる。胸奥の光が強く脈打つ。まるで、そこにあるものを見せつけるように。

 ブルーの瞳が、その光を捉えた。

 

「返してもらうから」

 

 声は静かだった。

 怒りは、その中に沈んでいる。

 泣き声ではなく、叫びでもなく、刃の形になって。

 通信の奥で、リンデンが言った。

 

『三十秒です』

 

「うん」

 

『私が、全て姉さんに合わせます』

 

「――うん」

 

 ブルーは、ほんの少しだけ笑った。

 痛そうな笑みだった。

 けれど、そこにはもう迷いがなかった。

 

「じゃあ、ちゃんと見ててね。リンデン」

 

 返事は、すぐに来た。

 

『はい。ブルー姉さん』

 

 十三層の甲板に、冷たい風が走る。

 双剣が低く鳴り、氷冥桜の雪片が舞い、聖剣カノンが金の光を帯びた。久理の悪霊たちが、再び有翼個体の翼の周囲へ散っていく。

 

 ブルーは一歩、前へ出た。

 その一歩に合わせて、神域側の回線から、リーインシアの声が重なる。

 

『同時攻勢まで、五秒』

 

 モノが目を細める。

 

「全員、位置固定」

 

 カノンが聖剣を構え直す。

 

「いつでも!」

 

 久理が杖を掲げる。

 

「冥王の命において、道を開けよ!」

 

 ブルーは、息を吸った。

 

『四』

 

 有翼個体の胸奥で、翡翠が脈打つ。

 

『三』

 

 ベルガンテの双剣が、蒼い弧を描く。

 

『二』

 

 遠い神域の向こうで、リンデンの気配が重なった。

 

『一』

 

 ブルーの瞳から、余分な揺れが消えた。

 

 零。

 

 十三層の甲板上で、ブルーが踏み込んだ。

 同じ瞬間、遠い神域の赤黒い大地で、リンデンも前へ出る。

 

 別々の戦場。

 別々の空。

 けれど、二つの距離はもう断絶していなかった。

 ブルーの蒼が、有翼個体の胸奥へ向かう。

 リンデンの翡翠が、主核個体の進路を縫い止める。

 

 モノの氷冥桜が鳴った。

 カノンの聖剣が金の軌道を描く。

 久理の悪霊たちが、翡翠の翼へ一斉に食らいつく。

 通信の向こうで、リンデンの声が落ちた。

 

『姉さん』

 

「うん」

 

 ブルーは笑わなかった。泣きもしなかった。

 ただ、刃だけが応えた。

 

 十三層の甲板上に。

 そして、赤黒い神域の大地に。

 一節の詩が、同時に紡がれた。

 

 

 

 

「『武装詩篇、展開』」

 

 

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

50人目の『最弱の非公式騎士』(作者:ジェネレータ)(原作:リバースブルー×リバースエンド)

「『一応』軍事局所属の『一応』ガーデナー。『正式な騎士じゃない』からコードネームは無いけど、代わりに【闇虚】って呼んでくれ。それから戦闘には期待するな。『今はまだ』本調子じゃないんでね。まぁ、それでも『ガーデナーの中じゃ最強』だけど」▼不定期での投稿となりますが、投稿日時は日曜の12時固定にする予定です。▼※ちょいちょい修正入れたりすると思います


総合評価:36/評価:-.--/連載:7話/更新日時:2026年01月04日(日) 12:00 小説情報

貞操逆転世界で俺はチョロ可愛いをしてるらしい(作者:黒鉄48号)(原作:インフィニット・ストラトス)

そして女子は軒並みタッパとケツと乳がでかい


総合評価:1858/評価:7.29/連載:20話/更新日時:2026年05月15日(金) 00:39 小説情報

勝利の女神NIKKE 希望のカフェ(作者:スウェーデンクラス)(原作:勝利の女神:NIKKE)

とあるカフェのマスターとニケの物語。▼※各話は独立した話と考えてください。


総合評価:1507/評価:8.56/短編:25話/更新日時:2026年05月11日(月) 16:37 小説情報

転生モブ、ディストピア世界で指揮官になる(作者:模範的アーク市民)(原作:勝利の女神:NIKKE)

目が覚めると、そこは人類が地下に追いやられたディストピア世界だった。


総合評価:14952/評価:8.81/連載:19話/更新日時:2026年05月02日(土) 12:00 小説情報

エーテル・スペアの処生術(作者:くりぢゅん)(原作:ゼンレスゾーンゼロ)

▼「――あぁ、これでいい。俺一人が壊れれば、正解に辿り着く」▼部屋で1人コントローラーを握っていたはずが、Zenless Zone Zero(ゼンレスゾーンゼロ)の世界に転移した主人公レン。▼死に戻りを繰り返し、自らを「目的達成のための安価な交換部品」と定義する死に損ないの観測者(リセット・ホロウ)だった。▼ ▼0でも構いません。評価とご意見をください。▼


総合評価:1793/評価:8.65/連載:9話/更新日時:2026年05月08日(金) 21:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>