みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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Sever, Nexus, Scorch.2

 

 

 

 

「武装詩篇、展開」

 

 その言葉と共に、ブルーの周囲に散っていた霊子が震えた。

 風に流されていた蒼い光片が、紡がれた言葉へ引かれるように向きを変える。砕けた甲板の裂け目、折れた防護柵、血を含んだ翡翠結晶。そのすべての隙間から、細い光が浮き上がった。

 

 呼吸が一つ、深く沈む。

 体内の霊子が応えた。骨の内側で火花が走り、筋肉の繊維が軋み、視界の端にあるものが一瞬だけ遠ざかる。身体の輪郭だけが、空気の中で鋭く研ぎ直されていく。

 踏み込んだ足が、甲板を粉砕した。

 

 黒刃が蒼を引く。

 逆手に構えた二振りの刃は、風を裂く音よりも先に白い肉体へ届いた。有翼個体の胸部に走った斬線が、肉の表面を浅く割る。だが、そこに血は出ない。裂け目の奥から白い繊維が泡立ち、瞬きの間に傷を塞ごうと蠢いた。

 

 ブルーは止まらなかった。

 左の刃を引き抜く前に、右の刃を叩き込む。

 受け止められる。

 黒刃と白い腕が噛み合い、甲板全体へ鈍い振動が広がった。

 

「どいて」

 

 声は低かった。

 怒鳴ってはいない。

 けれど、その一音だけで、風の流れが変わった。

 

 有翼個体の背から、白い翼が開く。羽根ではない。薄く削いだ肉と骨と翡翠結晶が、無数の刃のように展開する。初動は速い。ブルーの右肩を裂く角度で、翼端が落ちた。

 その間へ、黄金の光が割り込んだ。

 

「通しません!」

 

 カノンの聖剣が、翼端を受けた。

 甲高い音が十三層の外縁へ抜ける。聖剣の刃に沿って白い肉片が削れ、翡翠の粉が風に撒かれた。カノンの足元の装甲が沈む。膝がわずかに曲がる。それでも彼女は一歩も退かなかった。

 

「ブルー、前!」

 

「わかってる!」

 

 カノンの肩越しに、ブルーが滑り込む。

 白い翼の影。

 その下へ、蒼が潜った。

 有翼個体の腹部へ斬撃が入る。浅い。だが、確かに肉が割れた。ブルーはその傷口へさらに刃を入れようとしたが、有翼個体の膝が跳ね上がる。

 直撃すれば、胴が折れる。

 床面を、小さな白いものが走った。

 

 雪兎だった。

 ひとつではない。砕けた装甲板の隙間から、白いゆきうさぎが次々と跳ね、ブルーの足元に薄い氷の膜を敷いていく。滑るための氷ではない。踏むための氷。衝撃を逃がし、次の一歩だけを置くための、小さな足場。

 

「右足、そこ以外は踏まないで」

 

 モノの声が、通信に乗る。

 肩に担いだ氷冥桜の端末が淡く光っていた。彼女の指は動かない。代わりに、周囲を走るゆきうさぎたちが、戦場の細部を噛むように読み取っている。

 ブルーは返事をしなかった。

 

 半歩。

 氷を踏む。

 膝が沈む。

 有翼個体の蹴りが、鼻先を掠めて通過した。

 髪の先が数本、風に持っていかれる。

 その隙間へ、蒼が入った。

 

 斬撃。

 有翼個体の左脇が開いた。白い肉が遅れて裂ける。翡翠結晶の筋が露出し、その奥で、細い神経束のようなものが震えた。

 

「悪霊さんたち!」

 

 少し遠くで、久理の声が弾んだ。

 だが、その明るさの下に、薄い緊張が混じっている。彼女の周囲に浮かぶのは、蟠を巻く、淡い火を宿した魂たち。それらが、きゃあきゃあと声にならない音を漏らしながら、有翼個体の翼へ群がった。

 

「死霊術式・冥灯絡篭! これなるは其を縛る鎖なり!」

 

 うねる霊魂が、翼の付け根に絡みつく。

 物理、そして霊的な拘束を伴うそれは、有翼個体の初動を遅らせる。羽ばたきの前にある、小さな霊子の偏りを引っかける。翼は開く。けれど、ほんの一拍だけ遅れる。

 その一拍が、ブルーの間合いだった。

 

 蒼の軌跡が三本、重なった。

 一撃目で表面を裂く。

 二撃目で翡翠結晶の筋を削る。

 三撃目で、肉の奥へ刃を届かせる。

 

 有翼個体が、初めて後退した。

 白い足が甲板を踏み砕き、背の翼が風を食う。逃げるためではない。体勢を立て直すための後退。だが、その距離すらモノのゆきうさぎが潰した。

 

展開(ロード)

 

 甲板の裂け目から氷柱が伸びた。

 高くはない。鋭くもない。

 ただ、有翼個体の踵が下がる場所にだけ、正確に置かれていた。

 白い足が氷を踏み砕く。

 その刹那、足首の角度が崩れた。

 

「カノン!」

 

「任されましたっ!」

 

 カノンが真正面から飛び込んだ。

 聖剣が振り下ろされる。受け止めるための一撃ではない。押し込むための一撃だった。刃と肉腕が衝突し、黄金の光が白い肉を焼く。有翼個体の上体が半歩だけ浮く。

 そこへ、ブルーが入った。

 

 低く。

 速く。

 何も言わずに。

 双剣が交差し、有翼個体の胸へ斜めの傷を刻んだ。

 

 浅くはない。

 白い肉の内側で、翡翠の管が一本、断たれた。中から細かな粒子が漏れる。風に散るはずのそれは、しかし有翼個体の周囲で渦を巻き、再び傷口へ戻ろうとした。

 

 通信に、別の音が混じる。

 風ではない。

 

 乾いた土を踏む音。

 肉の擦れる音。

 遠い爆ぜ音。

 十三層の甲板に、赤黒い神域の音が流れ込んでいた。

 

『三十秒攻勢、開始から四秒』

 

 リーインシアの声だった。

 感情は抑えられている。数字だけが、硬く通信線に乗る。

 

『主核個体へ接敵。陛下の限定神域、維持継続。リンデンくん、同期観測開始』

 

『確認しています』

 

 リンデンの声が続いた。

 近くはない。けれど、遠くもない。チョーカーデバイスとモノの中継を通して、声だけが十三層に落ちてくる。

 

『ブルー姉さん、そのまま』

 

 ブルーの瞳がわずかに細くなった。

 返事はしない。

 代わりに、踏み込んだ。

 

 有翼個体の腕が横薙ぎに振られる。白い肉が伸び、爪が甲板を抉りながら迫る。カノンが受けるには角度が悪い。モノの氷では止めきれない。

 久理の人魂が一斉に飛び込んだ。

 

「いけ、我が冥府の眷属たち!」

 

 悪霊たちが、爪の関節にぶつかる。

 潰れる。

 ひとつ、ふたつ、火が消える。

 それでも残った火が、爪の軌道をわずかに引いた。

 

 ブルーの頬が裂ける。

 血が飛んだ。

 だが、首は残った。

 ブルーはその傷を拭わず、さらに前へ出た。黒刃の片方を逆手から順手へ持ち替え、白い腕の内側へ刃を滑り込ませる。

 

 裂く。

 浅い。

 もう一度、裂く。

 深い。

 

『七秒』

 

 リーインシアの声。

 

『有翼個体の左腕部に損傷。リンデンくん』

 

『合わせます』

 

短い返答。

 その直後、通信の向こうで、重いものが斬られる音がした。

 神域側の誰かが息を呑む。

 

『主核、左腕部に同位損傷。座標一致』

 

 モノの視線が、一瞬だけ通信表示へ流れた。

 

「……なるほど」

 

 小さく、彼女が呟く。

 ブルーは聞いていない。

 あるいは、聞く必要がなかった。

 

 彼女の前にいる有翼個体が、背の翼を大きく広げる。十三層の風が乱れた。破損した防護柵の向こう、雲の下へ吸い込まれるはずの風が、白い翼に巻き取られていく。

 有翼個体が、跳ぶ。

 上ではない。斜め前。

 ブルーを踏み潰す角度。

 カノンが走る。聖剣を横に構え、ブルーと有翼個体の間へ身体を入れた。

 

「受けます!」

 

 衝突。

 聖剣の光が潰れる。

 カノンの足元が割れる。

 膝が落ちる。

 それでも、彼女の背中は倒れなかった。

 

「ブルー!」

 

 呼ばれるより早く、ブルーはカノンの背を越えていた。

 ゆきうさぎが、空中に氷の足場を置く。

 一枚。

 二枚。

 三枚目は砕けた。

 足場が足りない。

 モノの指が、氷冥桜の端末に触れる。

 

「追加する。無茶しないで」

 

「する」

 

 ブルーは短く答えた。

 砕けた氷片を踏んだ。

 足裏が滑る。体勢が崩れる。それでも、崩れた軌道のまま身体を捻る。

 蒼い髪が風に広がった。

 

 黒刃が、有翼個体の右肩へ入る。

 骨に似たものへ当たった。

 手首に重い反動が返る。

 刃が止まる。

 

 ブルーは歯を噛んだ。

 もう片方の刃を、止まった刃の背へ叩きつける。

 金属音ではない。

 骨が割れる音だった。

 右肩が裂けた。

 

『十秒』

 

 リーインシアが告げる。

 

『有翼個体、右肩部損傷。深度、致命域には未達』

 

『十分です』

 

 リンデンの声は静かだった。

 その静けさが、逆に十三層の風の中でよく聞こえた。

 

『ブルー姉さんの傷、見えています』

 

 通信の向こうで、何かが沈む音がした。

 赤黒い大地に、刃が入る音。

 

『主核右肩部に同位損傷』

 

 リーインシアの声が、わずかに揺れた。

 

『座標、深度、角度……ほぼ一致』

 

 有翼個体の胸の奥で、翡翠の光が脈打った。

 傷が塞がるより早く、別の傷が生まれている。

 有翼個体が受けたものと、主核が受けたもの。

 別々の戦場にあるはずの損傷が、同じ形で並び始めていた。

 

 ブルーは息を吐く。

 荒い呼吸ではない。

 刃に残った余分な熱を、外へ逃がすような吐息だった。

 

 カノンが横に立つ。

 久理の悪霊が再び翼へ散る。

 モノのゆきうさぎが、次の足場を探して走る。

 通信の奥で、リンデンが告げた。

 

『続けてください』

 

 ブルーは、刃を構え直した。

 黒い刃の縁で、蒼い霊子が細く燃えている。

 

「……うん」

 

 小さな返事だけが、風の中に落ちた。

 有翼個体が吼える。

 声ではない。

 肉と翡翠が擦れ合う、壊れた鐘のような振動だった。

 

 十三層の甲板が震える。

 それでも、ブルーは退かなかった。

 退く場所など、最初から持っていなかった。

 

 

 十三層外縁から吹き上がる冷気が、裂けた頬に残る血を薄く乾かしていく。

足元の装甲板はすでに平面ではなく、斬撃と衝撃でめくれ上がった縁に、翡翠結晶の棘が食い込んでいた。

 

 有翼個体の身体が沈んだ。

 膝を曲げたわけではない。白い肉の内部で、何かが組み替わるように蠢き、全体の重心だけが暗い水面へ沈むように落ちていく。

背の翼が畳まれ、その表面を走っていた翡翠の筋が、胸奥へ吸い込まれるように消えた。

 

『十一秒』

 

 リーインシアの声が落ちる。

 

『同期の切り替え……反応の強度が神域側へ移行しています』

 

『確認しました』

 

 リンデンのその言葉と共に、通信の奥で地を蹴る音が聞こえた。

 銃声。雷鳴。白い肉塊を叩き潰す重い衝撃音。赤黒い神域の大地で鳴っているはずの音が、十三層の風に薄く混ざり、甲板の上にもうひとつの戦場の気配を滲ませる。

 

 主核へと同期を移したことで、有翼個体の左腕に開いていた傷が薄くなっていく。

白い肉が泡立ち、断たれた繊維を引き寄せ、ブルーが刻んだ損傷をなかったことにしようとしていた。

 けれど、傷の状態は上書きされなかった。

 

『主核側、左腕部の損傷を確認しました。座標、深度、共に一致』

 

 リーインシアの報告に、モノは目を細めた。

 

「――呆れた。ほんとにこのまま全部合わせるつもり?」

 

 返事はすぐには来ない。

 代わりに、通信の奥で、赤黒い大地に刃が擦れる音がした。乾いた土を抉り、白い肉の奥へ鋼が届く音。そこに、リンデンの静かな呼吸が重なる。

 

『ブルー姉さんが付けた傷ですから』

 

 声は穏やかだった。

 

『見失いません』

 

 モノの唇が、わずかに歪む。

 

「言うじゃない」

 

 有翼個体が動いた。

 左腕の傷を残したまま、身体だけが次の形へ移っていく。背骨にあたる白い肉柱が捻じれ、畳まれていた翼が内側から弾けるように開いた。それは羽ばたきではなく、翼の骨格そのものを鞭のように撓らせ、左右からブルーを挟み潰すための軌道だった。

 ブルーは正面へ出る。

 

「ブルー、下がって!」

 

 カノンの声が飛んだが、ブルーは退かなかった。

 右の黒刃を低く構え、左の黒刃を肩の高さで寝かせる。白い翼が迫り、肉の膜の表面に生えた翡翠結晶が刃の列となって空気を削った。冷えた風の中に、擦過した霊子の火花が細く散る。

 その翼の付け根へ、人魂が群がった。

 

「悪霊さんたち!もう1回!」

 

 久理の声に合わせて、小さな人魂たちが淡い火を膨らませる。丸い火の輪郭が白い翼へ噛みつき、羽ばたきの前に生まれる霊子の偏りを引っかけた。

 拘束ではない。ただ、一拍、翼の初動が濁る。

 

 ブルーはその濁りを踏んだ。

 右刃が下から入り、左刃が上から落ちる。交差する蒼の軌跡が翼の一枚を根元から裂き、白い肉片と翡翠の粉が、十三層外縁の風に巻かれて散っていった。

 

『十三秒』

 

『有翼個体、右外翼に損傷。主核側へ――』

 

 リーインシアの声が、そこで一度途切れる。

 通信の奥で、濁った経文のような音が重なった。

 

《苦諦である》

 

 低い声。

 

《集諦である》

 

 複数の声が同じ音程で続き、神域側の戦場から白い肉の合唱が流れ込む。

 直後、有翼個体の胸奥で翡翠の光が激しく脈打った。

消えかけていた左腕の傷が再び開き、同時に、ブルーが裂いた翼の根元が泡立つ。

顔のない頭部がわずかに傾き、どちらの傷を捨てればいいのか、肉そのものが迷っているように見えた。

 

『主核側、右外翼相当部位に同位損傷』

 

 リーインシアが告げる。

 

『一致しています。リンデンくん、継続可能ですか』

 

『可能です』

 

 短い返答だった。

 しかし、その背後でリンデンの呼吸が一つ乱れた。

 ブルーの指が、黒刃の柄を強く握る。柄に付いた血が掌の中で滑り、爪の下にまで冷たい感触が入り込んだ。

 

「……無理しないで」

 

 言葉は、ほとんど風に消えた。

 それでも通信は拾った。

 

『はい』

 

 リンデンは答える。

 

『だから、ブルー姉さんも――』

 

 その続きを、轟音が潰した。

 十三層の外側。

 破損した防護柵の向こう、雲の下から何かが上がってくる。

 鳥ではない。機械でもない。

 肉と骨で組まれた飛行体だった。

 

 潰れた球のような胴体の左右に薄い肉翼が張り、背部からは砲身めいた骨管がいくつも突き出している。腹部から垂れた翡翠の臍帯が風に揺れ、羽ばたきのたびに湿った音が空へ貼り付いた。

 プロブレムの大型ドローンを戯画化したような形。

 だが、そこに愛嬌はなかった。

 

「ドローン型……!?」

 

 久理が声を上げる。

 数は三。雲の下から這い上がってきた肉の飛行体は、十三層の外縁を舐める風に乗りながら、互いの位置を微細にずらしていた。

左右の二体は翼を大きく広げ、中央の一体だけを守るように、白い肉膜を盾のように張っている。

 その中央の腹部に、黒いものが抱え込まれていた。

 剣だった。

 

 ただし、武器として握られているのではない。柄も鍔も白い肉と翡翠の臍帯に埋まり、刃だけが胎内から露出していた。古びた黒の魔剣。折れたように短く、けれど先端だけは異様に鋭い。刃の表面には翡翠とは異なる鈍い光が走り、周囲の霊子を触れた端から汚していく。

 

 モノの周囲を走っていたゆきうさぎが、一斉に止まった。

 氷冥桜の端末に、小さな警告表示が幾重にも重なる。彼女はそのすべてを一瞥だけで捨て、視線を中央のドローン型へ固定した。

 

「カノン、あれを落として」

 

「わかりました!」

 

 カノンが跳ぶ。

 聖剣が黄金の弧を描き、中央のドローン型へ向かう。だが、刃が届く寸前、左右の二体が割り込んだ。片方は自ら腹を裂き、白い肉の盾となって聖剣を受ける。もう片方は背部の骨管を開き、細い光線を斜め下へ吐き出した。

 狙いは、カノンの胴ではない。

 踏み込んだ足首。

 ほんの一瞬でも姿勢を崩せば、中央のドローン型は有翼個体へ届く。そういう角度だった。

 

「っ……」

 

 モノが指を動かす。

 ゆきうさぎの一体が跳ね上がり、空中で細い氷の帯へ変じた。光線はその氷帯に触れ、斜めへ逸らされる。氷は一瞬で蒸発し、白い霧が甲板上へ広がった。そこへ、カノンの聖剣が届く。

 

 左のドローン型が両断された。

 白い肉と骨管が裂け、翡翠の臍帯が千切れて風に撒かれる。だが中央の一体は止まらない。腹部の臍帯が鞭のように伸び、抱え込んだ黒い魔剣を有翼個体の胸へ向けて一直線に運んでいく。

 

「ブルー!」

 

 カノンが叫んだ。

 ブルーはもう走っていた。

 

 だが、有翼個体も動く。

 白い腕が、初めて剣術に似た軌道を取った。拳ではなく、爪でもなく、肘から先を刃のように寝かせ、ブルーの踏み込みへ合わせて斜めに落とす。無造作な暴力ではない。間合いを測り、踏み込みの先を潰し、刃が届く前に身体ごと止めるための動き。

 

 見覚えのある角度だった。

 ブルー自身にはない。けれど通信の奥、神域側で戦っている誰かの技に近い。

 

『十五秒。十三層側、有翼個体の反応が変化』

 

 リーインシアの声が硬くなる。

 

『神域側の学習情報が流れています。近接処理、間合い管理、迎撃反応……複数混在』

 

「――共有が速すぎる」

 

 モノが呟く。

 氷冥桜の端末に走る警告は、もう一つの系統では収まらない。ゆきうさぎが足場の位置を変え、氷の膜を敷き直そうとするたび、有翼個体の白い肉体はそれを追う。

先読みではない。情報の流入。別の戦場で積み上げられた学習が、魔剣を介して有翼個体の肉へ注ぎ込まれている。

 ブルーの前に、白い刃腕が落ちた。

 黒刃で受ける。

 重い。

 

 足元に敷かれていた氷が砕け、ブルーの膝が沈む。肩の古傷が開き、血が風に散った。押し込まれた刃の震えが、手首から肘、肩へと這い上がっていく。

 

 有翼個体のもう一方の腕が、ブルーの胸へ伸びる。

 カノンが間に入った。

 

「通さない!」

 

 聖剣で受け止める。だが、白い腕は衝突の瞬間に形を変えた。肉が割れ、中から細い骨の杭が三本伸びる。真正面の受けを避け、聖剣の脇を抜けて、カノンの腹部へ滑り込む。

 

 だが、そこへ人魂が飛び込んだ。

 ひとつが潰れ、ふたつが消え、三つ目が骨杭へ噛みついた。火の輪郭が潰れながらも、軌道をほんのわずかに落とす。そのわずかなところで、骨杭はカノンの脇腹を掠めるだけに留まった。

 血は出た。

 それでも、貫かれはしない。

 

「ま、間に合った!」

 

 久理の声は震えていた。彼女の周囲に残る人魂は、もう初めの数ほどではない。消えた火のぶんだけ、十三層の風が冷たく見えた。

 その間にも、中央のドローン型は落ちてくる。

 モノが氷冥桜を傾けた。

 

「間に合わない――」

 

 声だけが冷たい。

 事実だった。

 ブルーは有翼個体に押さえられている。カノンは受けに回った。久理の人魂は翼と腕の妨害で削られている。モノの氷は、有翼個体の学習反応に逐一噛み砕かれていた。

 

 ドローン型の腹が裂ける。

 黒い魔剣が露出した。

 翡翠の臍帯に巻かれた刃が、槍のように射出される。

 それが有翼個体の胸奥へ、突き刺さった。

 

 音は小さかった。

 濡れた布へ針を通すような音。

 だが、その直後、十三層の甲板全体が深く震えた。

 

 有翼個体の背が反る。胸の奥に刺さった魔剣から、翡翠ではない黒い線が広がった。血管のように、神経のように、白い肉の中を這い、翼へ、腕へ、脚へ、そして空へ伸びていく。

黒い線は傷を塞がない。肉を強くするだけでもない。ただ、有翼個体の内側に通っている見えない回路を、無理やり太く広げていった。

 通信が一瞬、砂を噛んだように乱れる。

 

『十八秒……っ』

 

 リーインシアの声が遠くなった。

 

『魔剣、刺入。同期元固定ではありません。これは――』

 

「回線を太くしてる」

 

 モノが先に言った。

 彼女の目は、有翼個体から離れない。

 

「切り替えの速度と、情報の流量を上げてる。逃げ先を固めたんじゃない。逃げる道を増やしたのよ」

 

 有翼個体が、腕を引いた。

 それだけで、ブルーの身体が弾かれる。踏ん張ろうとした足元へゆきうさぎが滑り込み、薄い氷膜が衝撃を逃がした。それでも弾き飛ばされたブルーの背は甲板を削り、蒼い髪が血と粉塵を巻き込んで乱れる。

 

「ブルー!」

 

 カノンが叫ぶ。

 ブルーはすぐに起き上がった。

 けれど、遅い。さっきまでより、ほんのわずかに遅い。

 その一瞬を、有翼個体は見逃さなかった。

 

 翼が開く。

 先ほどまでの翼ではなかった。骨格が増え、肉膜の内側に砲身めいた管が生えている。一本、二本、三本。ナンナリスの支援アームを模した器官。その先端に、翡翠光が集まり、空気が細く震えた。

 

『二十秒』

 

 リーインシアが告げる。

 

『神域側のクリーチャー学習情報、流入。炎熱霊槍型、大型ドローン型、翡翠装甲型……有翼個体の反応に混在しています』

 

「全部乗せってこと?」

 

 久理が青ざめた声で呟く。

 

「雑。けれど厄介」

 

 モノが短く返した。

 砲身が光る。

 カノンが前へ出た。聖剣を立て、黄金の光を盾のように広げる。

 

 甲板が爆ぜた。

 熱ではない。衝撃と霊子攪拌が混ざった射撃だった。聖剣の光は受け止めた端から削られ、カノンのブーツが装甲板を噛み、足元に二本の溝を刻んでいく。それでもカノンは、背後のブルーへ一発も通さなかった。

 

 ブルーが、その横を抜ける。

 有翼個体の右脚へ斬り込む。黒刃は白い肉を裂いたが、刃が入る直前に肉の密度が変わり、深度を奪われた。浅い。足を止めるには足りない。

 

「硬化反応、速い」

 

 モノが言う。

 

「ブルー、同じ場所を二度斬って。初撃で読ませて、二撃目で抜く」

 

「わかった」

 

 短い返答と共に、ブルーは一度引く。

 有翼個体がそれを追う。

その追い方が、さっきと違った。距離を潰すのではなく、翼で押すのでもない。ブルーの刃筋が届く一歩手前で止まり、逆にブルーの踏み込みだけを誘う。

スリーの近接制圧を反転させたような間合い。斬の間合い殺しに似た足の置き方。そこへ、クリーチャー由来の肉体変形が混じっている。

 ブルーの右手が、わずかに遅れた。

 

 爪が腹を掠める。

 血が、甲板へ落ちた。

 その瞬間、通信の奥でリンデンの息が止まる。

 ブルーは笑わない。痛みに顔も歪めない。ただ、左の刃を振った。

 

 初撃。

 有翼個体が硬化する。

 右の刃を重ねる。

 

 二撃目。

 硬化した肉の端、密度が切り替わる境目へ刃が入った。白い肉が裂け、右脚の腱に似た束が断たれる。

 

『二十三秒』

 

『有翼個体、右脚部に損傷』

 

『合わせます』

 

 リンデンの声。

 神域側で、同じ音がした。

 肉を裂く音。骨を削る音。赤黒い土に、何かが崩れる音。

 

『主核、右脚部に同位損傷』

 

 リーインシアが告げる。

 

『同期切り替え、さらに高速化。ですが……損傷の上書き、失敗しています』

 

 有翼個体の胸に刺さった魔剣が、脈打つ。

 黒い線がさらに増える。同期を移し、傷を逃がし、別の肉で上書きするはずだった。けれど移した先にも、同じ傷がある。ブルーが有翼個体を裂くたびに、リンデンが主核へ同じ傷を作っている。

 

 逃げた先に、もう刃が置かれている。

 有翼個体が吼えた。

 壊れた鐘のような振動が、濁った経文を伴って広がる。

 

《神魔調伏》

 

 遠く、神域側の声が重なる。

 

《悪鬼覆滅》

 

 有翼個体の翼が、全て開いた。

 砲身。骨刃。翡翠結晶。白い肉の膜。そのすべてが、ブルーへ向く。

 カノンが動こうとする。

 だが、ブルーが一歩前に出た。

 

「カノン」

 

 声は静かだった。

 

「まだ、大丈夫」

 

 カノンの足が止まる。

 止められたのではない。その声の硬さに、踏み込みの場所を譲った。

 モノが小さく息を吐く。

 

「二十六秒。ここからきついわよ」

 

 ブルーは頷いた。

 久理の人魂が、彼女の周囲へ集まる。小さな火は風に煽られながらも、消えた仲間のぶんまで輪郭を膨らませていた。

 有翼個体の胸奥で、魔剣がまた脈打つ。

 白い肉体の輪郭が、ひと回り大きくなる。傷口の周囲に翡翠結晶が生え、欠けた翼が肉糸で繋ぎ直される。完全な再生ではない。壊れた部分をそのまま戦闘部品として縫い直すような、粗い補修だった。

 その動きに、モノの目が細くなる。

 

「治してない。壊れたまま使ってる」

 

『同期切り替え速度、限界値更新』

 

 リーインシアの声が続く。

 

『二十八秒。魔剣杭による情報流量、増加。ブルーさん、有翼個体の反応がさらに――』

 

 言葉の途中で、有翼個体が消えた。

 違う。

 速すぎて、見失った。

 

 ブルーの視界の端に、白い影が入る。左。いや、上。翼の一枚が囮になって落ち、真下から白い腕が伸びる。

 カノンの聖剣は届かず、久理の人魂も白い腕へ噛みつく前に置き去りにされ、モノの氷でさえ足場を置く場所を一拍だけ遅らせた。

 ブルーの胸元へ、爪が届く。

 その直前。

 

『半歩、右です』

 

 リンデンの声。

 ブルーは考えなかった。

 

 半歩、右。

 

 爪が胸を外れ、肩口を裂く。肉が抉れ、血が飛ぶ。それでも、心臓には届かなかった。

 ブルーはそのまま、爪の内側へ身体を滑り込ませた。黒刃を握る手が血で滑り、それでも指の関節が軋むほど柄を握り潰す。

 

 有翼個体の胸に刺さった魔剣杭が、至近に見えた。

 黒い線が、そこから全身へ伸びている。

 ブルーの瞳が、蒼く燃えた。

 

『三十秒』

 

 リーインシアが告げる。

 

『有翼個体、魔剣杭を視認』

 

 通信の向こうで、リンデンが静かに息を吸う。

 

『――ブルー姉さん』

 

 その声は、風の中でも消えなかった。

 

『そこです』

 

 

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