主核個体の肉体が崩れ落ちた場所には、白く濁った肉片が幾つか残されていた。
それらも形を保つことはできず、輪郭の端から細かな塵へと解け、翡翠の粒子と混ざりながら神域の乾いた空気へ霧散していく。
地面へ落ちるものはなかった。
血も、骨も、奪い取られた魔剣の欠片さえも、赤黒い大地へ触れるより先に淡い霧となって失われていった。
長く戦場を満たしていた肉の擦過音も、砲身めいた呼吸も、どこからともなく響いていた濁った咆哮も、すでに聞こえない。
ナンナリスクリーチャーの姿も消えていた。
地を埋めていた逆関節の足跡も、空を横切っていた肉の翼も、背から伸びた砲身も見当たらない。
主核の消滅と同時に崩れたのか、それとも別の場所へ退いたのかを確かめる術はなく、ただ、先ほどまで無数の異形が蠢いていたはずの大地だけが、異様な広さを取り戻していた。
騎士たちは、すぐには武器を下ろさない。
照準を失った砲口が白い霧の向こうを向き、抜き放たれた刀が低い位置で静止している。
術式の残光は指先や杖の周囲に留まり、誰もが次の異変へ反応できる姿勢を保ったまま、主核が消えた場所を見据えていた。
けれど、何も起こらない。
風だけが戻ってきた。
焼けた土の匂いと、血と、熱を帯びた金属の臭気を巻き込みながら、弱い風が戦場を横切っていく。霧散しきれなかった翡翠の光がその流れに押され、薄い帯となって騎士たちの間を通り抜けた。
リンデンは、その中で剣を地面へ突き立てたまま立っていた。
切っ先は乾いた土へ深く沈み、両手は柄から離れていない。顔を伏せ、肩をわずかに上下させながら、剣へ身体を預けるようにして立っている。
頬を伝っていた血は顎から滴り、胸元へ幾筋もの赤い跡を残していた。両眼は開かれていたが、その視線が何かを捉えて動くことはなかった。
柄を握る指が、ゆっくりと緩んだ。
剣が土の中で傾き、その刃が小さく軋む。
次の瞬間、リンデンの両膝から力が抜けた。
「リンデン!」
「リンデンちゃん!」
『リンデン!』
複数の声が重なった。
最も近くにいた斬が、崩れ落ちる身体へ咄嗟に腕を伸ばした。リンデンの脇へ片腕を差し入れ、もう一方の手で背を受け止めると、地面へ打ちつけないよう重みを引き寄せる。
「しっかりしてください、リンデン。急に立とうとしなくていい」
「……斬、兄さん」
「はい。オレです」
返事を確かめるように、斬は支えた腕へわずかに力を加えた。そのままリンデンの呼吸に合わせて腰を落とし、片膝をついてから、ゆっくりと彼を地面へ座らせる。
リンデンの手から離れた剣が傾き、斬の肩越しに倒れかけた。
黒い長柄が、その刃を途中で受け止めた。
駆け寄ったトロイは聖槍で剣を押し返すと、すぐに槍を地面へ突き立てた。黒い十字架に似た穂先が土へ沈み、残っていた霊子の光が足元へ薄く広がっていく。
トロイはリンデンの正面へ膝をついた。
薄桃色の髪が肩からこぼれ、血に濡れた彼の顔へ近づく。両手をそっと伸ばし、頬を左右から包み込むと、親指で瞼の下に残っていた血を拭った。
その指が止まった。
「……っ」
トロイの喉から、短く息が漏れた。
刃が通った両眼には深い損傷が残されていた。眼球だけではなく、眼窩の奥まで抉られ、断たれた組織の間には翡翠に似た微かな光が沈んでいる。
明滅しているわけではない。
ただ、洗い流されることなく、傷の奥へ濁った影を残していた。
トロイは何も言わず、リンデンの顔を両手で支えたまま目を閉じた。
聖槍から淡いい光が立ち上る。
光は地面を這うように二人の足元へ集まり、トロイの腕を通って掌へ流れ込んだ。指の隙間から柔らかな輝きが溢れ、リンデンの頬と瞼を覆っていく。
裂けていた皮膚が繋がった。
止まりかけていた血が完全に引き、眼窩周辺の砕けた骨と組織が、時間を巻き戻すように形を取り戻していく。刃に抉られた痕は薄れ、赤く濡れていた瞼も、本来の色へ近づいていった。
神域の奥で、低い振動が収束した。
限定神域を維持していた蒼光が空から薄れ、地面を覆っていた術式の境界が、遠方から順にほどけていく。魔剣を引き抜いた運命が、消えていく青い光の中をこちらへ走っていた。
その後ろから、スリー、玄鉄、濡羽、エリス、オラス、ORANGEの騎士たちが続く。誰も声を掛ける距離を測れず、トロイの背後へ集まりながら、光に包まれたリンデンを見つめていた。
治療の光が静かに薄れた。
トロイはリンデンの頬へ手を添えたまま、僅かに顔を近づける。
「……リンデンちゃん、まだ痛む?」
「……いえ、痛みは」
リンデンはゆっくりと瞼を開いた。
両眼は形を取り戻していた。傷も塞がり、表面には大きな損傷が残っていない。
それでも、瞳は何も追わなかった。
正面にいるトロイを映さず、その奥へ広がっているはずの戦場にも焦点を結ばない。眼球は光を受けているのに、リンデンの中へ景色が届いていなかった。
「見えていますか?」
斬の声に、リンデンは僅かに顔を向けた。
声の位置を探しただけだった。
「……いいえ」
トロイの指先が、リンデンの頬へ微かに沈んだ。
「そっかー……もう一回やるねー?」
「トロイ姉さん、ですが――」
「うん。もう一回だけー」
返事を待たず、トロイは再び目を閉じた。
先ほどより強い光が聖槍から溢れ、リンデンの頭部を包み込む。光の層が幾重にも重なり、眼窩の奥まで浸透していった。
視神経が繋ぎ直され、霊子の流れが瞳へ通る。
壊れていた部分は、確かに修復されていた。
それでも、リンデンの視界には何も戻らなかった。
トロイは三度目の祈術を重ねた。
傷の奥へ沈んでいた微かな濁りを押し流すように、光の流れを変え、修復された組織を一度解いてから再び組み直す。しかし、術式が終わるたび視覚だけが同じ場所で途切れた。
治癒を拒んでいる様子とは異なっていた。
すべてが治った後に、最初からそこには何も繋がっていなかったように、景色だけが抜け落ちている。
「少し、代わってください」
濡羽がトロイの横へ膝をついた。
普段ならば強気に何かを言い添えるところだったが、その声には余計な勢いがなかった。袖口から小型の術式端末を引き出し、リンデンの顔の前へ翳す。
薄青い魔術陣が幾重にも展開された。
視神経、眼球、脳内の視覚領域へ細い光の線が伸び、現代魔術による生体走査の数値が空中へ並ぶ。濡羽は指先で表示を送りながら、一つずつ確認していった。
「眼球の再生は完了しています。視神経も繋がっていますし、脳への伝達経路にも断裂はありません。霊子反応も……数値だけなら、見えていない方がおかしいです」
「数値じゃ拾えない何かが残ってるってこと?」
オーバーフローがカピストラーノをリンデンの側頭部へ寄せた。
同時にいくつかの中継機が空中へ散開し、細い放電を交わしながらリンデンの神経信号と霊子の流れを読み取っていく。黄色い光が瞳の表面をなぞり、視神経を通って脳へ届いた。
「信号は通ってる。途中で消えてるわけでもない。なのに、到達した先に視覚情報が残ってない」
「……ナノマシンの方からもアプローチを掛けるわ」
アンサーの掌から、微細なナノマシンが霧状に放たれた。
白い粒子はリンデンの瞼へ触れ、細胞の隙間から内部へ入り込んでいく。しばらくして戻った粒子が、彼女の腕に展開された端末へ測定結果を送り始めた。
アンサーは表示された情報を静かに追っていたが、やがて眉を寄せた。
「損傷そのものは治ってる。細胞も神経も、機能できる状態。
ただ……修復した直後から、視覚として成立する結果だけが定着していない」
プロブレムが、アンサーの肩越しからリンデンを覗き込んだ。
しゃがみ込んだまま落ち着かずに膝へ手を置き、見えないと分かっていながら、リンデンの瞳の正面へ顔を合わせようとする。
「リンデンくん。私の声、聞こえてる?」
「――はい。聞こえています、プロブレム姉さん」
「……そっか。なら、うん。ちゃんとここにいるから」
それ以上の言葉が見つからなかったのか、プロブレムは口を閉じた。膝の上で握った指だけが、何度か小さく動いていた。
運命は、トロイの背後で立ち止まっていた。
仮面の青い表示が僅かに揺れ、リンデンの顔と、周囲に展開された複数の走査結果を交互に向く。限定神域を解除した反動が身体に残っているのか、呼吸はまだ浅かった。
『治せないの?』
「今、ここにある設備では難しいと思う」
アンサーは言葉を選びながら答えた。
「原因を特定できていないの。主核の魔剣が傷をつけた時、組織とは別の場所に何かを残した可能性はあるけれど……それが術式なのか、霊子汚染なのか、それ以外のものなのかも、まだ断定できないわ」
「魔術とも違います」
濡羽が陣を消さずに続ける。
「少なくとも、私が知っている術式構造はありません。毒物も、異常な魔力も検出されていない。なのに、何かが治療の結果へ沈んだままになっているような……」
言葉の続きを探すように、濡羽は表示された数値へ目を戻した。
答えは浮かばなかった。
リンデンの瞳は、治療前と変わらず光を映している。トロイの祈術も、濡羽の魔法陣も、カピストラーノの放電も、表面には確かに反射していた。
けれど、その光は彼の内側まで届いていない。
「これ以上ここで治療を繰り返すのは危険ね」
アンサーが静かに告げた。
「一度GARDENへ戻りましょう。
「オレも賛成です」
斬はリンデンの背を支え直した。
「ここはまだ神域の内部です。戦闘が終わったと断定できない以上、リンデンをこの状態で留めておくべきではありません」
トロイはリンデンの瞳をもう一度見つめた。
両手はまだ頬から離れていない。治療を続ければ何かが変わるのではないかと、指先だけが微かな光を残している。
やがて、その光が消えた。
「……そうだねー。ママたちに診てもらおっかー」
いつもの間延びした声へ戻そうとしていた。
それでも、最後の音だけが僅かに掠れていた。
トロイはリンデンの瞼をそっと閉じ、残っていた血を拭い取った。祈術で作った白い布を細く折り、眼を圧迫しないよう慎重に顔へ巻いていく。
『リンデン』
運命が、彼の前へしゃがみ込んだ。
リンデンは声の方へ顔を向ける。
『今は、私たちと帰ろう』
「……はい、陛下」
返事はいつもと変わらず穏やかだった。
それでも、閉じられた瞼の上へ白い布が重ねられた後も、リンデンはしばらく顔を上げたまま動かなかった。
主核の消えた神域には、再び風が通っていた。
翡翠の粒子はすでにほとんど霧散し、遠くまで広がる赤黒い大地の上に、淡い光は残されていない。
再び首に収まったチョーカーデバイス、その受信音が小さく頭に響いた。
『リンデンくん、聞こえますか』
リーインシアの声は、回線の向こうでも平静を保っていた。だが、その奥には何度か途切れた呼吸が混じり、戦場から送られた音声の時間の長さだけが、隠しきれずに残っている。
「はい。聞こえています」
『輸送機を一機、そちらへ向かわせています。現在地への到着まで、しばらくかかります。
医療区画にはすでに連絡を入れました。MAZE Lab.にも、受け入れの準備をお願いしています』
「ありがとうございます、リーインシアさん」
『……お礼は、戻ってから』
短い返答のあと、回線の向こうで操作音が続いた。
リーインシアはそれ以上、リンデンの眼について尋ねなかった。尋ねれば、彼がいつもの声で「問題ありません」と答えることを知っているのだろう。
運命が立ち上がり、周囲を見渡した。
『輸送機が来るまで、少し開けた場所へ移動しよう。まだ足元も安定してないから、ゆっくりでいいよ』
騎士たちは頷き、離脱の準備を始める。完全に警戒を解く者はいなかったが、張り詰めていた構えはわずかに下がり、互いの負傷を確認する声が風の中へ戻ってくる。
斬がリンデンの左腕を肩へ回し、身体を起こした。
「歩けますか」
「はい。少し、感覚を掴めば」
足裏へ伝わる土の硬さを確かめながら、リンデンはゆっくりと立ち上がった。白い布に覆われた両眼には、光も色も届いていない。それでも、斬の身体がどこにあり、運命が何歩先に立ち、トロイが右側から手を伸ばしているのかは、曖昧ながら把握できていた。
形として見えているわけではなかった。
そこに在るものが、暗闇の中へわずかな厚みを持って浮かんでいる。呼吸をするたび、その輪郭は霊子の流れに沿って揺れ、身体の外側へ薄い残像を引いていた。
運命が一歩踏み出す。
その足が地面へ触れるより先に、前方へ同じ形が淡く重なった。次いで本来の身体がそこへ追いつき、二つの輪郭は音もなく一つへ戻る。
トロイが首を傾けると、その仕草も幾つかの角度へ分かれた。どれも一瞬のうちに消え、最後に選ばれた動きだけが暗闇の中へ残った。
リンデンは顔を伏せた。
疲労による錯覚とも思えた。戻った力の影響で、周囲の存在を過剰に拾っているだけかもしれない。
「リンデンちゃん、どうしたのー?」
「……いえ。少し、見え方が変わっただけです」
「見えるの?」
プロブレムの声が近づき、リンデンの正面で止まった。
「通常の視界とは……ただ、姉さん達が、どこにいるのかは分かります」
「それ、先に言ってよー。プロブレムちゃん、マジで心配してるんだからね?」
「……申し訳ありません」
「謝らなくていいの!」
プロブレムは頬を膨らませたようだった。その表情までは分からない。けれど、彼女の輪郭から伸びていた幾つもの動きが一つへ収まり、最後に腕を組んだ姿勢だけが残った。
リンデンは、その重なりを静かに見つめた。
人の身体だけではなかった。
地面を這う術式の名残にも、崩れた岩にも、空気へ薄く溶けた翡翠の粒子にも、現在の位置から僅かに外れた輪郭があった。どこかへ動くもの。崩れるもの。今の形を保つもの。それらが確定する前の揺らぎだけを、暗闇の奥で拾っている。
ひどく遠くまで見えるのに、すぐ隣にいる者の顔は見えなかった。
その不釣り合いが、眼窩の奥へ冷たい異物感を残した。
一行は、主核が消滅した場所を避けて歩き始めた。
赤黒い大地には、戦闘で抉られた溝が幾重にも走っている。焼けた土の下では霊子がまだ燻り、ときおり小さな火花となって亀裂の間から浮かび上がった。
斬はリンデンの歩幅に合わせ、急がず進んだ。反対側にはトロイが付き、少しでも身体が傾くたび、背へ触れられる位置を保っている。
運命たちは十数歩ほど先を歩いていた。
輸送機を降ろせる場所を探しながら、エラーとアンサーが地形を確認し、オーバーフローがカピストラーノを上空へ放つ。濡羽と玄鉄は残留術式を警戒し、スリーは銃口を下げたまま周囲へ視線を巡らせていた。
その足が、順に止まった。
乾いた風が、開けた大地を横切った。
進路の先に、一体のナンナリスクリーチャーが立っている。
逆関節の二本脚。頭部を持たず、胴体の先端には大きな口が開いている。背から伸びた三本の砲身にも変化はなく、翡翠の装甲も、肉の翼も、模倣した兵装も備えていない。
最初に現れた個体と変わらない姿だった。
進化の痕跡さえ見当たらない。
「一匹だけ残ってやがるな」
エラーがDISKをわずかに持ち上げた。
「神域そのものが残っている以上、原生生物まで同時に消えるとは限らないものね」
アンサーは炎熱霊槍を構えながら、周囲の反応を探った。
「単独ですわね。周辺に他の気配もありませんわ」
エリスのガトリング砲が低く回転を始める。
騎士たちは散開し、リンデンと運命を中心から外すように前へ出た。主核との戦闘を終えたばかりとはいえ、通常個体が一体だけならば、時間を掛ける相手ではない。
それでも、リンデンは足を止めたまま動かなかった。
暗闇の中に浮かぶクリーチャーの輪郭が、定まらない。
運命たちに見えていた揺らぎとは異なっていた。選ばれなかった動きが周囲へ薄く残るのではなく、一つの身体の内側に、幾つもの形が押し込められている。
四足で地を駆ける獣。
肉の翼を広げる飛行体。
炎熱を収束する槍。
光を放つ砲身。
翡翠の装甲。
銃撃の軌道。刀の間合い。術式の起点。祈術の流れ。限定神域の境界。
どれも輪郭だけだった。
互いに混ざらず、消えもせず、狭い肉体の中で折り重なっている。
「待ってください」
リンデンの声に、前へ出ていた騎士たちが止まった。
『リンデン?』
「その個体は……」
言葉が続かなかった。
何を見ているのか、まだ正しく名前を与えられない。ナンナリスクリーチャーは動かず、胴体の口を半ば開いたまま、一行の方を向いていた。
呼吸すらしていない。
背部の砲身にも霊子反応はなく、攻撃へ移る兆候はどこにも現れなかった。
ただ、その内側に重なった輪郭だけが増え続けている。
主核が振るった魔剣。
有翼個体が最後に選んだ斬線。
ブルーが切断した肩。
リンデンが主核へ刻んだ同じ傷。
死に、再生し、再び立ち上がった騎士たちの存在。
戦場で起きたすべてが、ひとつの小さな器へ流れ込んでいた。
リンデンの喉が、僅かに鳴った。
「下がってください」
その声と同時に、空間が軋んだ。
乾いた破裂音ではなかった。
透明な板へ細い亀裂が走るように、神域の奥行きそのものが一度だけ震えた。
パキり、と。
音は小さかった。
けれど、騎士たちの身体を包んでいた不死性が一斉にざわめき、ORANGEの騎士たちに宿るO型ナノマシンが警告を吐いた。展開されていた術式の光が細く歪み、運命の手にある魔剣の表面へ、見覚えのない波紋が広がった。
ナンナリスクリーチャーの背が、ゆっくりと裂けた。
肉の内側から現れたのは、新しい器官ではなかった。これまで模倣してきた兵装のいずれにも似ず、白い骨格とも、翡翠の結晶とも異なる、輪郭だけの構造が外側へ押し広がっていく。
四肢の長さが変わる。
逆関節だった脚が地面へ沈み、膝の位置が組み替わった。胴体の口は閉じながら縦に裂け、内側から白い人型の胸郭が起き上がる。
三本の砲身は背へ溶けた。
失われた形は消えず、皮膚の下を走る複数の隆起となって全身へ広がっていく。翡翠の光、炎熱、雷、光学兵装、銃撃、呪術、剣戟。それぞれの反応が一度だけ表面へ浮かび、次の瞬間には区別できない一つの脈動へ変わった。
模倣を選ぶ必要が、なくなっていた。
学んだものを切り替える段階も、すでに終わっている。
白い人型が、ゆっくりと立ち上がった。
顔には目も口もなかった。肩から女の形が生えることもなく、奪った魔剣を掲げる腕もない。
それでも、リンデンの新しい知覚だけには、その周囲へ無数の形が見えていた。
騎士たちが攻撃を選ぶたび、その先に生まれるはずの結果が、触れる前から折られていく。逃げ道も、間合いも、再生後の立ち位置も、まだ起きていないまま白い身体の内側へ取り込まれていた。
学習は、蓄積ではなくなった。
ナンナリスクリーチャーは、学習の限界を超えた。
――なんだ、これは。
リンデンの閉ざされた視界の奥で、いくつもの構造が軋んでいた。
色はない。光もない。輪郭と呼ぶにはあまりに薄く、音と呼ぶにはあまりに遠いものが、暗闇の中で幾重にも重なっている。
正面では、騎士たちが白い個体とぶつかっていた。
斬の踏み込みがある。刀の軌道があり、その先に切断されるはずの肩がある。けれど、刃が届く寸前で白い個体の輪郭がわずかにずれ、切断されるはずだった場所には、もう別の構造が差し込まれている。
切れないのではない。
切った結果が、到達する前に組み替えられている。
スリーの銃弾が関節へ集まる。弾道は正確で、同じ一点へ複数の火線が重なっていた。けれど、着弾の直前に関節そのものが意味を失い、骨格の役割が別の部位へ移される。
弾丸は肉を砕いた。
白い個体は止まらなかった。
濡羽の術式が足場を凍らせ、玄鉄の古式魔術が進行方向を封じる。術式の重なりは正しく、挟み込む角度も間違っていない。だが、凍結したはずの空間へ白い脚が沈み込み、封じられたはずの軌道の外側から同じ身体が現れる。
逃げたのではない。
そこに在るための条件だけが、後から書き換わっていた。
上空でQAが発光した。
プロブレムの砲撃は、真っ直ぐに白い個体を撃ち抜いた。続けてアンサーの炎熱霊槍が突き込み、DISKから放たれた電撃と、オーバーフローの雷杖の放電が同じ瞬間に収束する。
熱があった。
雷があった。
砕ける音も、焼ける匂いも、確かに戦場へ散った。
それでも、白い個体の中心だけが残っている。
削られた肉の内側から、次の形が起き上がる。
模倣ではない。炎熱も、雷も、光学兵装も、刀も、銃弾も、それぞれの形のまま残されていない。すべてが白い身体の奥へ沈み、次に攻撃が触れる時には、触れた瞬間から別の結果へ曲げられる。
リンデンは、斬が吹き飛ばされる気配を捉えた。
地面へ倒れる前に、トロイの祈術がそこへ届く。傷は塞がり、砕けた骨も繋がる。斬は起き上がり、また前へ出る。
不死性は戻っている。
死んでも、壊れても、騎士たちは立ち上がれる。
だが、そのたびに白い個体は対応していた。
倒す必要がない。
立ち上がるたびに観測し、治るたびに構造を読み、次に同じ復帰を許さない位置へ、少しずつ戦場そのものを寄せている。
トロイの祈術の流れが一度、途中で濁った。
光は斬へ届いた。だが、その光が傷口へ入る寸前に、白い個体の輪郭が祈術の通り道へ触れる。たったそれだけで、回復の速度が落ちた。
トロイはすぐに組み替えた。
別の経路から祈術を通し、傷を塞ぐ。
白い個体は、その経路も見ていた。
運命の魔剣が地面へ突き立てられる。
限定神域が再び広がり、崩れかけていた戦線の下へ青い光が通った。騎士たちの輪郭が一瞬だけ強くなり、失われかけた足場が戻る。
その中心で、運命は動かない。
動けない。
リンデンには、その姿が見えなかった。けれど、魔剣を握る手の震えだけは、暗闇の奥に細い線として伝わってくる。
白い個体が、その線へ向いた。
全員が、同時に動いた。
スリーの銃撃が走り、エラーのDISKが間へ割り込む。アンサーの炎熱が進路を焼き、オラスの魔拳が白い個体の側面を殴り飛ばした。
白い身体は砕けた。
だが、砕けた部分が地面へ落ちる前に、破片そのものが次の接続点へ変わった。散ったはずの肉が空中で結び直され、白い個体は倒れるのではなく、姿勢を低くしながら前進を続ける。
戦線が下がった。
誰かが叫んだ。
リンデンは立とうとした。
しかし、膝が動かなかった。
トロイが巻いた白い布の下で、両眼の奥が冷たく疼く。痛みとは違う。そこに何もないことだけが、身体の奥へ深く沈んでいる。
手探りで剣を掴もうとした。
指先は柄へ触れた。
しかし、握り込む前に、斬の声が飛んだ。
「リンデン、動かないでください!」
その声には余裕がなかった。
リンデンは息を呑んだ。
暗闇の奥で、騎士たちの輪郭が幾つも枝分かれしている。踏み込む線、退く線、受ける線、庇う線。無数の選択が戦場の上へ重なり、そのほとんどが白い個体へ触れた瞬間、根元から折れていく。
勝てる形が見えない。
それでも騎士たちは止まらない。
運命は神域を維持し続けている。
トロイは誰かが崩れるたびに祈術を通す。スリーは弾種を切り替え、斬は傷だらけのまま前線を塞ぐ。濡羽と玄鉄は術式を重ね、プロブレムとアンサーは出力を絞りながら、白い個体の学習が追いつかない角度を探している。
エラーは笑っている。
声だけなら、いつもと同じ強がりに聞こえた。
けれど、リンデンには分かった。
その輪郭は、すでに何度も折れている。
折れるたびに立ち上がり、立ち上がるたびに、白い個体は次の折り方を覚えていく。
――このままでは。
思考が最後まで形になる前に、声が聞こえた。
《お困りですか》
鈴のような声だった。
甘い蜜が、静かな水面へ一滴落ちるような声。
戦場の音とは別の場所から、けれど、リンデンのすぐ傍から聞こえてくる。
《皆、とてもよく戦っています。ですが……もう詰んでいる》
その声は、事実を告げるだけの静けさを持っていた。
《白い個体は、皆様の“回復”と“再起”を前提に適応を進めています。倒れない限り、戦場そのものを最適化し続ける構造そのものです。
――つまり、このままでは、どれだけ戦っても収束点に辿り着きません》
淡々とした説明。
残酷なほど軽い結論。
《ですが》
声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
《それでも、あなたならこれを退けられます》
指先が、剣の柄へ触れていた。
声はそこから響いている。
リンデンは顔を上げた。布の下に視界はなく、戦場の姿も見えない。それでも、暗闇の奥に“選ばれていない何か”が沈んでいる気配だけは、確かにあった。
《リンデン》
カツラクは、優しく囁いた。
《未来は、まだ一つではありません》
白い個体が、運命の神域へ触れた。
青い光が歪む。
運命の息が、遠くで詰まった。
リンデンは剣を握った。
《どうか、退けてください》
カツラクの声は、最後まで清らかだった。