《どうか、退けてください》
カツラクの声が、暗闇の奥へ染み込んだ。
リンデンは剣の柄を握ったまま、膝をついていた。指先には土の冷たさがあり、掌には刃を通して伝わる微かな熱がある。
戦場の音は遠く、誰かの叫びも、砕けた地面を踏む音も、閉ざされた視界の外側で薄く濁っていた。
「……どう、すれば」
声は、自分のものとは思えないほど低かった。
カツラクはすぐには答えなかった。
その沈黙の間にも、白い個体は動いている。騎士たちの攻撃が重なり、術式が走り、銃弾が散る。回復の光が折れ、再び組み直され、運命の限定神域がその下から戦線を支え続けていた。
リンデンには見えない。
それでも、分かる。
運命が踏み留まっている位置。トロイが祈術を通す経路。斬が前へ出る角度。スリーが銃口を変える瞬間。プロブレムとアンサーが選ぶ砲撃線。エラーとオーバーフローが割り込む場所。エリスとオラスが踏み出す動点。濡羽と玄鉄が術式を重ねる層――。
そのすべてが、暗闇の中で細い線となって揺れていた。
《もう、見えていますよ》
「……見えてなど」
《目で見るものではないのです》
カツラクの声は柔らかい。
《目は、目の前にあるものを映します。
ですが今のあなたが捉えているものは、まだ目の前に来ていないものです》
リンデンは息を止めた。
暗闇の奥で、騎士たちの輪郭が枝分かれしている。
踏み込む前の足。
放たれる前の弾丸。
組まれる前の術式。
届く前の祈術。
それらは形になる前から、幾つもの細い線として揺れていた。どれも一瞬で消え、白い個体へ触れたところから折れていく。
――枝。
その言葉だけが、喉の奥で形を持った。
《未来、と呼ぶべきでしょう》
カツラクが言った。
《選ばれる前の道。まだ手を伸ばされていない結果。今はまだ、誰の眼にも映らないもの》
リンデンの閉ざされた瞼の裏で、暗闇が少しだけ深くなった。
何かが見える。
けれど、中身は分からない。
枝の先に何があるのかは見えなかった。誰が笑うのか、誰が倒れるのか、どこへ帰るのか、どんな言葉が交わされるのか。そういう具体的な景色は、どこにも浮かばない。
ただ、枝の太さだけがあった。
温度と、重さがあった。
ある枝は冷たく、触れる前から脆い。ある枝は薄く、ほんの少し力を加えただけで根元から崩れる。ある枝は暗く沈み、白い個体の輪郭へ触れた瞬間、濁った水へ落ちるように消えていく。
そして、その奥に。
細く、強い枝が一本あった。
それは他のどの枝よりも遠くへ伸びていた。細いのに重く、淡いのに熱を持っている。内容は見えない。誰がそこにいるのかも分からない。けれど、その枝だけが、戦場のすべてを越えた先へ届いている。
リンデンは、その枝から目を離せなかった。
映すという機能を失った目で。
それでも、離せなかった。
《それが、救いに近い未来です》
「……救い」
《はい》
カツラクの声音は、どこまでも穏やかだった。
《皆が倒れず、白い個体がこれ以上構造を進めずに終わる未来。今、この場で最も多くを残せる道です》
リンデンの手が、柄を握り込む。
刃の奥で、何かが小さく鳴った。
《ただし、そこへ届くには力が要ります》
白い個体が動く。
暗闇の中で、運命の神域を支える線が大きく撓んだ。誰かが間へ入る。衝突が起きる。折れた輪郭が地面へ落ち、すぐにトロイの祈術が追いかける。
その祈術も、途中で削られた。
リンデンの奥で、枝がまた一本折れた。
「……あの個体を、止められる力」
《はい》
「そんな力を、どこから――」
問いの途中で、リンデンは気づいた。
カツラクは最初から答えを隠していない。
この剣は、何かを燃やす。
戦場に存在する霊子でも、敵の肉でも、奪い取った魔力でもない。もっと遠く、もっと手の届かない場所にあるものを、現在へ引き寄せる。
リンデンの指が震えた。
《――未来は、薪になります》
鈴のような声が、静かに告げた。
《価値のある未来ほど、よく燃えます。遠くまで続く枝ほど、長く火を保ちます。多くのものを救う枝ほど、大きな熱を生みます》
暗闇の奥で、細い枝が揺れた。
中身は見えない。
けれど、それが大切なものだと分かった。
誰かの笑い声がそこにあるのかもしれない。帰る場所があるのかもしれない。まだ交わしていない言葉、まだ見ていない朝、まだ触れていない手があるのかもしれない。
分からない。
分からないまま、重さだけが伝わってくる。
それは薪と呼ぶには、あまりにも温かかった。
「これは」
リンデンは小さく喉を鳴らした。
「……誰の、未来ですか」
カツラクは、少しだけ間を置いた。
戦場の音が遠のく。
白い個体の足音も、銃声も、術式の破裂も、すべてが水の底へ沈むように鈍くなる。
《あなたのものです》
答えは、優しかった。
《安心してください。皆の未来を燃やす必要はありません》
その言葉に、リンデンの呼吸が止まった。
《あなたは、特別ですから》
カツラクは微笑んでいるようだった。
《本来であれば、神域そのもの、あるいは周囲の大きな未来を薪にすることになります。
けれどあなたなら、あなただけは自身へ向いた枝だけを選べます。あなたの未来だけを、現在へ変えられます》
リンデンは、暗闇の奥にある枝を見た。
自分から伸びている。
そう理解した瞬間、枝の根元が足元へ繋がった。閉ざされた眼の奥でも、失った視界の底でも、その線だけははっきり分かる。
他の誰のものでもない。
リンデンという存在から伸びている、まだ選ばれていない何か。
その先に何があるのかは、分からない。
だが、そこに向かっていたはずの自分だけが、確かにいた。
「――燃やせば」
声が掠れた。
「皆さんは、助かりますか」
《助かる未来へ、届きます》
カツラクは断言しなかった。
それでも、その曖昧さは嘘ではないように聞こえた。
《薪は道を開きます。刃に熱を与えます。届かなかった場所へ届かせ、折られるはずだった結果を、折られる前に焼き切ります》
リンデンの指先に、温度が移った。
剣の柄が温かい。
血のような熱ではない。炎のような激しさでもない。静かな炉の奥で、長く燃え続ける火に似ている。
《まずは、触れてください》
カツラクが囁いた。
《枝へ手を伸ばすのです。中身を知る必要はありません。
知ってしまえば、きっと痛みます。今はただ、重さだけを感じてください》
リンデンは、暗闇の奥へ意識を伸ばした。
足元から、自分の未来が枝分かれしている。
細いもの。
太いもの。
途中で折れているもの。
どこか遠くで薄く消えるもの。
白い個体に呑まれて黒く沈むもの。
それらの中から、最も熱を持つ一本へ触れる。
内容は見えない。名前もない。それでも、触れた瞬間、胸の奥が強く軋んだ。
呼吸が止まる。
何かを失う前の身体が、それを失うことだけを先に知った。
指先でも、眼でも、耳でもない場所が痛んだ。まだ起きていないはずの別れが、骨の内側へ細い針のように沈む。
「……っ」
《大丈夫です》
カツラクの声が寄り添う。
《痛みは、価値の証です》
枝の根元に火が灯った。
最初は、小さな灯りだった。
暗闇の中で、細い線の表面が淡く赤らむ。次いで、その赤が内側へ染み込み、枝の奥に眠っていた熱が、ゆっくりと現在へ流れ込んでくる。
リンデンの握る剣が震えた。
刃の輪郭が変わる。
失われた視界の代わりに、剣の中へ炎が通る感覚だけが鮮明になる。燃えているのは木ではない。霊子でもない。彼の未来から削り取られた何かが、薪として刃の奥へ積まれていく。
それがどんな
見えないまま、燃え始めている。
戦場の音が戻った。
白い個体が、運命へ向かっていた。
神域の青い光が大きく歪み、間へ入った騎士たちの輪郭が一斉に折れかける。トロイの祈術も、スリーの銃撃も、オラスの踏み込みも、すべてが間に合わない位置へ押し込まれていた。
リンデンは、剣を支えにして立ち上がった。
膝が震える。背骨を通って、熱が上がる。
閉ざされた両眼の奥で、自分から伸びる枝が、静かに燃えている。
《さあ》
カツラクが囁いた。
《未来を、現在へ》
リンデンは一歩を踏み出した。
その足が地面へ触れた瞬間、燃え始めた枝の熱が刃へ流れ込み、暗闇の中にただ一本、白い個体へ届く道が開いた。
リンデンの閉ざされた視界の中で、それだけが分かった。
白い個体との距離は遠い。剣の届く間合いではなく、踏み込んだところで間に合わない位置にいる。間には斬がいて、スリーがいて、炎熱と雷と術式の残滓が幾重にも折り重なっていた。
けれど、距離だけが薄かった。
地面の上にある長さではない。足で縮めるものでもない。そこに在るはずの隔たりが、剣の先から白い個体まで、細い紙のように折り畳まれていく。
リンデンは、刃を振った。
大きな動きではなかった。
膝の震えを押さえ、剣を持ち上げ、正面へ斬り下ろす。腕に伝わる重さは頼りなく、踏み込む足も半歩に満たない。それでも刃の内側を通った熱は、暗闇の奥に開いた道を真っ直ぐに走った。
白い個体の身体が、離れた場所で裂けた。
誰の攻撃も届いていない位置。斬撃も、銃弾も、砲撃も、その瞬間はまだ触れていない。
白い個体は運命の神域へ向かって腕を伸ばしていたはずなのに、胸部から肩にかけて、斜めに深い切断線が走った。
肉が割れる。
白い構造が、初めて明確に傷を受けた。
それまでどの攻撃にも先回りし、触れる前から結果を曲げていた個体が、傷の発生を回避できず、その場で大きく傾いた。切断面から噴き出したものは血ではなく、細かく砕けた白い粒子と、学習しきれなかった反応の残滓だった。
戦場の動きが止まった。
誰も、すぐには理解できなかった。
白い個体もまた、止まっていた。
顔のない頭部が、ゆっくりとリンデンの方へ向く。目はない。口もない。だがその動きには、初めて明確な方向があった。
ただ、彼を見ている。
リンデンは剣を下ろした。
指から力が抜け、膝が崩れる。今度は支える腕が近くになく、身体はそのまま前へ傾いた。剣の切っ先が土へ食い込み、柄に縋るようにして、かろうじて倒れることだけを避ける。
胸の奥で、燃え残った熱が冷えていく。
枝が一本、消えていた。
何を失ったのかは分からない。
分からないまま、そこにあったはずの重さだけが抜け落ちている。呼吸をするたび、骨の内側に空いた隙間が軋んだ。
「リンデンちゃん……!」
トロイの声が近づこうとする。
だが、先に動いたのは白い個体だった。
傷口を抱えることも、体勢を立て直すこともせず、白い個体は一直線にリンデンへ向きを変えた。運命の神域へ向かっていた足が止まり、次の瞬間、地面が陥没する。
全力だった。
これまでのように戦場を観測し、騎士たちの攻撃に適応しながら進む動きではない。白い個体は、リンデンが何をしたのかを理解したかのように、他のすべてを切り捨てて走り出した。
狙いが変わった。
その場にいた全員が、同時に理解した。
リンデンの一撃だけが通る。
そして、リンデンがもう一度同じことをすれば、この戦場に決着がつく。
『リンデンを守って!』
運命の声が響いた。
命令というより、叫びに近かった。
騎士たちは返答を交わさなかった。リンデンへ向きを変えた白い個体と、膝をつく彼との間へ、それぞれが最短の軌道で身体を差し込んでいく。
最初に進路へ入ったのは斬だった。
両手で握った刀を身体の前へ寝かせ、腰を深く落とす。敵を斬るための構えではない。突進の力を刃へ受け、足元へ流し切るための受けだった。
「ここから先は行かせない……!」
白い腕が刀身へ衝突した。
斬の両脚が土へ沈み、踵から後方へ二本の溝が伸びた。腕から肩へ伝わった衝撃が骨を軋ませたが、刀は折れず、白い個体の突進もそこで止まる。
斬は受け止めた力を横へ流した。
刀身を傾け、白い個体の上体を進路の外へ逸らす。同時に右足を踏み込み、開いた胴へ刃を返そうとする。
白い個体の腕から、骨格が消えた。
関節を失った肉が刀身へ纏わりつき、受け流されるはずだった力を、粘つく質量としてその場へ留める。斬の刃が白い肉へ深く沈み、引き抜く動作だけが一瞬遅れた。
遅れを待っていたように、白い胸部が裂けた。
内側から突き出した細い骨が、斬の刀を握る右手首へ食い込む。骨は皮膚を貫いた直後に枝分かれし、手の内側から関節を押し開いた。
指から力が抜ける。
刀が白い肉へ残された。
続いて形成された腕が斬の胸元を掴み、受け止められていた突進の力を、今度は彼の身体へ返した。
斬の肩と肋骨が同時に砕けた。
身体が地面を離れ、後方へ投げ出される。落下地点へトロイの祈術が伸びたが、白い個体はすでに斬の刀を肉から引き抜き、その刃を腕の一部へ呑み込んでいた。
刀の反りが、白い前腕へ浮かび上がる。
斬撃を模倣したのではない。
受け流すために使われた角度を、そのまま次の踏み込みへ組み込んでいた。
「武器まで持ち逃げするとはな――」
銃声が重なった。
スリーの弾丸が白い腕を撃ち抜き、呑み込まれかけていた刀を弾き出す。続く射撃は頭部へ向かわず、足元と地面へ置かれた手榴弾へ散った。
最初の炸裂が白い個体の右側を塞ぐ。
左へ避けた先では二つ目が弾け、正面から集束弾が胸部を押し戻した。銃撃と爆圧が一つの通路を形成し、白い個体をリンデンから遠ざかる方向へ誘導していく。
「こちらが指定したルートから外れないでもらおう」
スリーが短銃を捨て、ライフルへ持ち替えた。
照準は白い個体の胸部に残る、リンデンが付けた切断面へ固定されている。退路と姿勢を射撃で制御したうえで、避けられない一点へ徹甲弾を撃ち込んだ。
弾丸が切断面を通過した。
白い胸郭の内側で、肉が薄い膜へ分かれる。重なった膜が弾丸を一枚ずつ減速させ、受け止めた衝撃を全身へ分散した。
背中が膨張する。
次の瞬間、蓄えられていた爆圧と弾丸の運動が、白い蒸気となって背後へ噴き出した。
個体の身体が前へ跳ぶ。
スリーが作った誘導路を、敵は加速路として使っていた。
「そう来るか……!」
スリーが銃口を上げるより早く、白い個体の腕が長く伸びた。
槍のように細く変形した先端がライフルの銃身へ絡み、銃口を横へ引く。逸らされた射線の先には、まだ炸裂していない手榴弾があった。
弾丸が信管を撃ち抜く。
爆発は白い個体の背後ではなく、スリーの足元で起きた。
咄嗟に腕で頭部を庇った身体が爆風に持ち上げられ、砕けた地面とともに横転する。白い個体は飛散する土砂の中を通り、スリーの防衛線を抜けていった。
その前方へ、二基の大型ドローンが降下した。
「行かせないって!」
巨大な砲身型ユニットが左右から大地へ突き刺さり、リンデンへ続く進路を挟み込む。二機の間には光刃が展開され、白い個体の胸部を正面から焼いた。
プロブレムは砲撃を選ばなかった。
敵が熱と光学攻撃へ適応していることを直感で捉え、QとAそのものを巨大な万力として使っている。ユニットが左右から閉じ、白い肉体を光刃ごと押し潰した。
「考える時間なんかあげないから!
クー!エー!そのままやっちゃって!」
白い個体の胸郭が潰れた。
支えていた骨は砕け、胴体の幅が半分以下まで縮まる。QAの装甲と光刃に挟まれた肉が焼け、白い粒子となって周囲へ散った。
散った粒子が、Q&Aの表面へ付着した。
装甲の継ぎ目を辿り、内部の駆動部へ入り込む。ユニットを操作する霊子信号に触れた粒子は、プロブレムが二機を閉じるために送っていた命令を拾い上げた。
右の機体が、急に動きを変えた。
「えっ」
閉じるはずだった砲身が外側へ開き、左のユニットへ砲口を向ける。
至近距離で光が炸裂した。
二機の間を結んでいた光刃が崩れ、片側のユニットが地面を抉りながら弾き飛ばされる。プロブレムの身体も操作反動に引かれ、肩から土へ叩きつけられた。
白い個体は、空いた隙間から抜け出した。
身体はさらに小さくなっている。削られた肉を再生へ回さず、残った質量を前進と反撃だけへ集中させていた。
その進路を、雷光が横切った。
「随分と好き勝手やってくれたじゃねーか」
DISKから高電圧の噴射を背後へ放ち、白い個体へ正面から突入する。展開した電撃が左右を塞ぎ、その中央から放たれた蹴りが、白い胸部へ深くめり込んだ。
衝撃で白い身体が後退する。
エラーは脚を引かず、体重と噴射を乗せたまま巨体を押し戻した。
「オバフロ!」
「もう繋いでる!」
上空のカピストラーノから複数の放電が降りた。
オーバーフローの電気信号が白い個体の全身へ入り込み、構造を組み替える直前の命令を攪乱する。白い肉が変形しかけた姿勢で硬直し、エラーの蹴りを受けた胸部から亀裂が広がった。
「逃げる形を作る前に、全部止める!」
放電の密度が上がる。
白い個体の内部にある伝達経路が、青白い光として表面へ浮かんだ。エラーはその光を見逃さず、二撃目を同じ箇所へ叩き込む。
白い個体は、神経に相当する構造を自ら切断した。
全身へ走っていた経路が途切れ、オーバーフローの信号は行き場を失う。代わりに肉体の内部へ無数の空洞が作られ、流れ込んだ電荷を一時的に蓄える器官へ変わった。
「切った――エラー、離れて!」
警告と同時に、白い個体がエラーの脚を掴んだ。
蓄えられた電荷が逆流する。
DISKの接続部から火花が噴き、エラーの全身を高電圧が駆け抜けた。筋肉が強く収縮し、白い個体を押し返していた足が僅かに浮く。
その一瞬に、白い脚の形が変わった。
足裏から細い杭が伸び、地面を斜めに貫く。反動を逃がすための固定器官が成立し、エラーの押し込みが初めて止まった。
白い個体は腰を捻る。
掴んだ腕を支点に、エラーの体をDISKごと持ち上げた。
「――っ、こいつ!」
投げられたエラーがカピストラーノへ衝突する。
中継機が砕け、放電の包囲に穴が開いた。白い個体はその穴へ向けて、蓄えていた残りの電荷を放出する。
雷がオーバーフローの杖を逆流した。
小柄な身体が後方へ弾かれ、白いコートが地面を滑る。彼が起き上がるより先に、白い個体は地面へ刺していた杭を引き抜き、再びリンデンへ走り始めた。
リンデンは、膝をついたまま剣を握っていた。
暗闇の奥で、無数の枝が揺れている。
最初に燃えた一本の跡は、もう残っていない。その場所には、冷えた空洞だけがある。だが、白い個体を止めるには足りなかった。
《届きましたね》
カツラクの声が、静かに響く。
《素晴らしい一撃でした。
「……まだ、倒せていません」
《ええ》
声は、少しも揺れない。
《ですから、もう一度です》
リンデンは息を吸った。
剣の柄が手の中で熱を失っている。先ほどの一撃で、刃に積まれていた薪は燃え尽きていた。もう一度届かせるには、新しい枝が要る。
暗闇の中へ意識を伸ばす。
自分から伸びる未来が見えた。
《焦らなくて大丈夫です。枝はまだ無数にあります》
カツラクは優しく言った。
《そこに触れてください。そうです。温かいものを。重いものを。遠くまで続いているものほど、今を強く照らしてくれます》
リンデンの指先が、一本の枝へ触れる。
胸の奥が軋んだ。
知らないはずの喪失が、先に身体へ入ってくる。何が失われるのかは見えない。誰との時間なのか、どんな場所なのか、どんな言葉なのか。分からないまま、その重さだけが薪として炉にくべられる。
熱が戻った。
だが、まだ薄い。
《足りません》
カツラクの声が、すぐ傍で囁く。
《白い個体は先ほどより警戒しています。より深く、より遠くへ届く枝が必要です》
リンデンは別の枝へ手を伸ばした。
一本。
また一本。
枝へ触れるたび、身体の内側で何かが抜け落ちていく。未来の中身は見えず、けれど燃やされる前の重さだけは分かる。軽い枝はすぐに灰になり、細い枝は熱を保てず、途中で折れた枝は刃へ届く前に消えた。
《まだ足りません》
白い個体が、防衛線を突き進む。
リンデンの耳に、誰かの骨が砕ける音が届いた。
すぐにトロイの祈術が走る。
しかし、光の通り道を白い個体が覚えている。祈術の速度が落ちる。トロイは即座に経路を変え、別の祈りを重ねる。その間にも、白い個体は少しずつリンデンへ近づいている。
《もう少しです》
カツラクは変わらず穏やかだった。
《救いの未来へ届くには、火勢が足りません。遠慮なさらず。あなたの未来です。あなただけが、選べる薪です》
「……っ」
リンデンは、さらに奥へ手を伸ばした。
暗闇の底に、太い枝があった。
触れた瞬間、これまでより深く身体が沈んだ。胸ではなく、腹でもなく、背骨の奥に痛みが走る。まだ存在していないはずの時間が、根こそぎ引き抜かれる感覚。
剣が熱を帯びる。
刃の内側で、炎が形を持ち始めた。
それでも、カツラクは囁いた。
《足りません》
運命の神域が揺れた。
青い光の底で、魔剣を握る運命の輪郭が細くなる。
リンデンは、それを感じ取った。
指先が、枝を探す。
一本では足りない。
二本でも足りない。
――ならば、束でくべるしかない。
リンデンは自分から伸びる無数の枝へ意識を広げた。中身は見ない。見ようとすれば、きっと手が止まる。だから、温度だけを選ぶ。重さだけを掴む。遠くまで続くもの、太く残っているもの、多くを支えているものを、名前も知らないまま炉へ運ぶ。
枝が燃える。
また燃える。
剣の内側で火が大きくなり、柄を握る手の皮膚が焼けるように痛む。実際に燃えているわけではない。だが、未来が現在へ変わるたび、リンデンの身体はその熱を内側から受け止めていた。
《ええ。お上手です》
カツラクが微笑む。
《とても綺麗に燃えています》
その言葉の意味を考える余裕はなかった。
白い個体はもう、防衛線の半ばを抜けかけている。
騎士たち全員で、リンデンへ向かう一本の道を塞いでいた。
リンデンも理解していた。
次の一撃で、すべてが決まる。
外せば、もう間に合わない。
足りなければ、白い個体は学習する。
中途半端に届けば、次は通らない。
だから、足りない。
まだ足りない。
もっと要る。
リンデンは、暗闇の奥でさらに枝を掴んだ。
中身の分からない未来が、束になって炉へ落ちる。
刃の熱が、神域の空気を変えた。
白い個体が、初めて動きを乱した。
騎士たちも振り向く。
運命も、トロイも、誰もが理解した。リンデンが手にした魔剣が、何かをしている。あの剣だけが、白い個体へ届く。だが、その何かが何であるのかまでは、誰にも分からない。
リンデンは剣を持ち上げた。
両膝は地面についている。
立てない。それでも、刃だけは持ち上がった。
《あと少しです》
カツラクの声が、甘く沈む。
《もう少しだけ、あなたの未来を》
リンデンは、答えなかった。
暗闇の中で、残された枝が炎へ近づいていく。
白い個体が、防衛線の最後へ衝突した。