白い個体が、防衛線の最後へ踏み込んだ。
その左右から、巨大な銀白の拳が挟み込む。
「リンデンまで素通りできると思った? 残念、オラスが止める!」
オラスは白い個体の正面へ身体を滑り込ませ、マクスウェルを盾のように突き出した。
丸みを帯びた重装甲の拳が、白い胸郭と衝突する。足元の大地が沈み、オラスの靴底から後方へ亀裂が走ったが、その小柄な身体は押し戻されなかった。
右側へ展開されたラブレスが唸る。
腰の回転に巨大な拳の重量が重なり、白い個体の脇腹へ深く食い込んだ。表皮が波打ち、肉体の軸が進路の外へ傾く。
「お姉ちゃん、ナメんなっ!」
二撃目が迫る。
白い個体の胸部に、縦長の空洞が開いた。
ラブレスは白い肉へ触れず、その中心を通過する。拳の両側に分かれた肉体は薄く伸び、装甲前腕へ左右から貼りついた。
打撃を避けたのではない。
打撃が成立する面を、一時的に消していた。
「うわ、ちょ――それ、反則!」
マクスウェルが横から振るわれる。
白い個体はラブレスへ絡めた構造を軸に、自らの身体を回転させた。銀白の拳が頬を掠め、白い表皮を僅かに削る。
その回転へ、オラスが振り抜いた力まで加わった。
白い腕がマクスウェルの側面へ添えられる。
衝撃の方向が変わった。
巨大な魔拳がオラス自身の胸元へ押し戻され、小柄な身体が兵装の重みに巻き込まれる。姿勢が浮いた瞬間、白い脚が隙間へ入り込んだ。
「――っ、ぅ!」
直接身体を捉えた一撃が、オラスを後方へ弾き飛ばした。
長い兎耳と銀髪が遅れて宙を流れ、彼女はマクスウェルを地面へ突き立てながら着地を試みる。靴底が土を削り、数メートルを滑ったところで、片膝が大地へ落ちた。
白い個体の身体は、すでに元の形へ戻っている。
ラブレスに削られた表皮も、その内側から現れた新しい白い層に覆われていた。
個体が前を向いた瞬間、黒い多砲身が回転音を上げた。
「そのまま
エリスが
複数の尾が大きく広がり、反動を受け止めるために低く姿勢を落とした。回転を始めた砲身から霊子弾が吐き出され、白い個体の進路へ隙間のない弾幕を敷く。
最初の斉射が白い肩と脚へ集中した。
弾丸が表皮を穿ち、白い粒子を飛ばす。エリスは銃口を細かく振り、姿勢を支える部位へ射線を重ねながら、個体をその場へ縫い止めていった。
白い個体の表面に、浅い溝が幾重にも生まれる。
溝は着弾の角度に沿って傾き、一枚の装甲ではなく、細かな鱗のように全身を覆った。次に届いた弾丸は溝の中を滑り、左右へ逸れていく。
正面から受け止めてはいない。
弾幕の流れを、肉体の表面で分けていた。
「そんな小細工で、この弾幕を抜けられるとでも――」
エリスの声が止まる。
白い個体は、射撃の周期を覚えていた。
多砲身が次の砲身へ切り替わる、ごく僅かな空白。その間隔に合わせ、白い身体が断続的に前へ進む。
弾丸が通る瞬間には脚を沈め、次弾までの隙間だけで距離を詰める。表皮は削られているが、動きを支える内部構造までは届いていない。
「この――っ!」
砲身の回転がさらに上がる。
白い個体の表面に穿たれていた弾痕が、一斉に細く窄まった。
内部へ残っていた弾頭の破片が押し出される。
白い肉によって方向を整えられた金属片が、撃ち込まれた軌道を逆向きに走った。砲身の根元へ破片が突き刺さり、回転機構から激しい火花が散る。
「なっ――にゃんこさん!?」
回転に乱れが生じた。
エリスが機構を立て直そうとしたところへ、白い個体の腕が伸びる。
細く硬化した指先が銃身の束へ触れ、回転する力を受けながら螺旋状に捩れた。蓄えられた反動が一息に返され、ガトリング砲の銃口が上方へ跳ね上がる。
エリスの両腕も大きく引かれた。
白い個体は懐へ入り込み、鋭角化した肩を彼女の胸元へ打ちつける。衝撃で砕けた肋骨が肺に刺さる。サングラスが宙へ飛び、コートが大きく翻った。
「ぐ、ぅ……っ!」
エリスはガトリング砲を抱えたまま地面へ倒れた。
白い個体は歩みを止めない。
全身へ残った弾痕は閉じ始め、傾斜していた表皮も、次の攻撃へ備えるように滑らかな白へ戻っていく。
その足元へ、淡い青色の線が走った。
「訴えますよ、そんな簡単に構造を変えるなんて……!」
濡羽の周囲に、複数の演算式が展開されていた。
現代魔術によって算出された格子が大地から起き上がり、白い個体の脚、胴、腕を異なる角度から捉える。温度と電位、霊子密度、物質の接続状態が同時に読み取られ、変化する前の数値へ固定されていった。
「ですが、変わる瞬間が分かっているなら、固定するだけです!」
濡羽が五指を閉じる。
白い肉の表面に薄い氷が走った。
続いて青白い雷が格子の中を巡り、構造を切り替えるための信号を細部から焼いていく。白い個体の動きが、踏み出しかけた姿勢で停止した。
「おおー、濡羽ちゃんやるぅ」
玄鉄は濡羽の少し後ろに立ち、指先に挟んだ薄い媒体紙を風へ放した。
札は白い個体を囲むように散り、空中で古い文字へほどけていく。
「なら私は、“そこにいるもの”の方を縫っておこうかなー」
低く続く詠唱が、現代魔術の格子を外側から包んだ。
形が変わっても、内部の配置を変えても、同じ存在である限りは境界の外へ出られない。構造の変化では抜けられない古式の拘束が、白い個体を現在地へ留める。
濡羽が一瞬だけ玄鉄へ視線を送った。
「そのまま維持してください。内部の経路を止めます」
「はいはーい」
格子の中へ、熱と冷気が同時に注ぎ込まれた。
外表は凍り、内部では雷熱が白い組織を焼く。温度差によって表皮に亀裂が生じ、そこへ古式の文字が入り込んで、構造同士の接続を押さえ込んでいった。
白い個体は動かなかった。
だが、その身体の奥では、細い糸状の構造が静かに増えていた。
糸は濡羽の演算式が開いた観測経路へ触れる。
温度、電位、霊子密度。
固定に使用された基準が一つずつ読み取られ、白い個体の内部に同じ数値を持つ薄い層が形成される。
術式の上では、その層も固定対象の一部だった。
格子が、白い個体の内側へ深く沈む。
「これは……自分から術式に接続して――」
表示された値が反転した。
白い個体を凍結するために奪っていた熱が、格子を通じて濡羽の周囲へ戻る。冷気と熱が同じ場所へ重なり、展開されていた魔法陣が内側から膨張した。
「そっちの方、切ってください!」
「あらら、もう来たか」
玄鉄が指を払う。
宙に浮かんでいた古い文字が、白い個体との接続を断とうとする。
白い糸は、その切断より先に媒体紙へ触れた。
札に記されていた“内”と“外”の意味が、一瞬だけ揺らぐ。
白い個体を閉じ込めていた境界が、濡羽と玄鉄を含む外側へ向けて押し広げられた。
濡羽の足元へ演算格子が折り畳まれ、彼女の身体を内側から拘束する。固定されていた冷気と熱が狭い範囲へ集まり、黒いロングコートの周囲で爆ぜた。
「――っ! 人の術式へ勝手に入ってこないでください!」
濡羽は防壁を間へ差し込んだ。
爆発そのものは防いだが、膨張した空気が防壁ごと彼女を吹き飛ばす。巨大な魔女帽子が脱げ、黒髪と赤い内髪が風の中へ広がった。
玄鉄は詠唱を切り替える。
押し広げられた境界を再び白い個体の周囲へ戻そうとした瞬間、干渉された媒体札が一斉に向きを変えた。
「……あー、そこまで触るのは行儀悪いよ?」
古式文字が細い刃となって飛ぶ。
玄鉄は半身を捻り、指先で新たな媒体を切った。正面から来た刃は逸らしたが、横から回った一枚が肩を深く裂く。
詠唱の呼吸が途切れた。
境界が緩む。
白い個体は、固定された形を一度だけ薄く伸ばし、その隙間から外へ踏み出した。外殻を捨てることも、身体を分解することもなく、術式が緩んだ一瞬だけ構造同士の間隔を狭めて抜けている。
「濡羽ちゃん、ごめん。抜かれた」
「謝る前に……次の術式を組んでください……!」
二人は立ち上がろうとした。
白い個体は、その間に防衛線を抜けていた。
だが、その前方で炎熱が凝縮している。
アンサーはリンデンへ続く直線の中央に立っていた。
巨大な
白い個体が距離を詰める。
アンサーは動かなかった。
足の運び。踏み込みの周期。攻撃を受けた直後の構造変化。ここまでに見せた適応のすべてを、彼女は静かに見送っている。
「皆が作ってくれた時間は、無駄にしないわ」
穂先が僅かに下がった。
「だから、進むの禁止。ここで止まりなさい」
白い個体が射程へ入る。
アンサーの踏み込みは、その瞬間に重なった。
炎熱霊槍が白い胸部を正面から貫く。槍刃は硬質化した表皮を割り、内部へ深く食い込んだ。
逃げるための変化が始まるより早く、アンサーはOWの出力を解放する。
圧縮されていた炎熱が、白い個体の内部で炸裂した。
光が膨らむ。
白い表皮が焼け、胸部から背へ赤い亀裂が走る。アンサーは爆圧を槍身で受け止めながら、さらに一歩を踏み込んだ。
「これ以上は、行かせない……!」
白い個体の内部に、細い管が無数に形成された。
OWから放出された熱がその管へ流れ込み、全身へ均等に散らされていく。焼けていた表皮の下では、熱を保持する白い層が幾重にも作られ、炎熱を損傷ではなく内部圧力へ変えていた。
アンサーの眉が動く。
「熱を……推進へ回すつもり?」
白い個体の背が赤く染まった。
次の瞬間、蓄積された炎熱が後方へ噴き出す。
白い身体はOWの槍身に貫かれたまま、凄まじい勢いで前へ滑った。槍を押し込んでいたアンサーの姿勢が崩れ、間合いが一息に潰れる。
白い腕が、アンサーの脇腹を貫いた。
「――っ」
直撃と同時に、内部へ残っていた熱が二人の間で弾ける。
炎と衝撃が広がった。
アンサーは炎熱霊槍を手放さなかったが、槍ごと後方へ押し流された。地面を削りながら滑り、片膝をついたところで、衣装の脇腹へ血が滲む。
「まだ……」
立ち上がろうとした腕が震えた。
白い個体は胸部へ刺さっていたOWの槍身を両手で掴み、身体を横へ捻った。貫かれていた傷口が僅かに広がる代わりに、槍刃が外へ抜ける。
白い胸部には焼けた穴が残った。
だが、周囲の肉がすぐに閉じることはなかった。傷を残したまま、その内側へ硬質な層を重ね、次に同じ槍が触れた時の受けを作っている。
オラスとエリスが身体を起こそうとしていた。
濡羽と玄鉄も術式を組み直そうとしている。
アンサーはOWを支えに、再び立ち上がろうとしていた。
しかし、白い個体はすでに彼女たちの間を抜けている。
身体には弾痕と焦げ痕、浅い亀裂が刻まれていた。
それでも全体の構造は損なわれていない。
攻撃を受けるたびに表層と内部の配置を変え、止められるたびに次の突破方法を覚えながら、リンデンへ向かう速度を上げ続けていた。
炉の熱は、すでに限界へ近づいていた。
リンデンの握る剣から滲んだ熱が周囲の空気を揺らし、切っ先の近くでは赤黒い大地が乾いて細かな亀裂を生じている。掌に触れている柄は熱を持ち続け、指の感覚はとうに薄れていた。
それでも、微かに届かない。
白い個体を斬ることはできる。
傷を刻み、今度こそ深く崩すこともできる。
だが、殺し切れない。
残った構造の一片でも逃せば、白い個体はそこから再び学習を始める。先ほどの一撃を受けた今なら、次に同じ力が通る保証もなかった。
暗闇の奥を探る。
もう、目に映る枝は残っていない。
細い枝も、太い枝も、途中で折れていた枝も、遠くまで伸びていた温かな枝も、すべて炉へくべた。そこにあったはずの輪郭は灰となり、リンデンの周囲には何も伸びていない。
熱だけがある。
燃え尽きる寸前の炉が、身体の内側で唸り続けている。
「……足りない」
声が震えた。
カツラクは、すぐには答えなかった。
白い個体が近づく。
騎士たちの攻撃によって削られた身体が、乾いた大地を異様な速度で進んでくる。残された距離は、もう長くない。
「まだ、足りない」
リンデンは暗闇へ手を伸ばした。
掴めるものはなかった。
炉へ入れる薪も、選び取れる枝も、すでに燃やし尽くしている。
《いいえ》
鈴の音が、静かに響いた。
《まだ、残っています》
カツラクの声は、これまでよりも近かった。
《あなたが、未来として数えていなかったものが》
リンデンは息を止めた。
《枝を見る必要はありません》
甘い声音が、暗闇の底へ導いていく。
《もっと深く。すべての枝が伸びる、その下へ》
リンデンの意識が沈んだ。
灰となった枝の跡を通り過ぎる。
燃え尽きた未来の根元を辿り、まだ一度も目を向けていなかった場所へ触れていく。
そこに、一本の構造があった。
枝と呼ぶには太すぎた。
遠くへ分かれて伸びるものではなく、これまで見えていたすべての未来を下から支えている。リンデンという存在の奥へ深く食い込み、始まりも終わりも分からないまま、暗闇の底を貫いていた。
根。
その言葉が、知覚の中へ落ちた。
リンデンは、それを最初から見ていなかった。
見えなかったのではない。
未来を選び始めた時から、無意識のうちに対象の外へ置いていた。
自分がこの先にも在り続けること。
明日へ進み、次の時間を迎え、誰かの隣に残ること。
あらゆる枝は、その根があることを前提に伸びていた。
リンデンの指先が、そこへ近づく。
触れる直前、全身が震えた。
剣を握る腕が揺れ、背骨の奥で何かが強く縮む。呼吸が喉に引っかかり、胸の奥から込み上げた拒絶が、伸ばしかけた意識を押し戻した。
――駄目だ、と。
言葉になる前の何かが叫んでいた。
理性ではない。
判断でもない。
魂と呼ぶほかにないものが、その根だけは燃やしてはならないと、全身を使って拒んでいる。
「……っ、ぁ」
柄を握る指が滑った。
《怖いのですね》
カツラクは、責めなかった。
《当然です。そこには、あなたのすべてが繋がっていますから》
白い個体の足音が近づく。
誰かが立ち上がろうとしている。地面を掻く音があり、手放した武器を引き寄せる音がある。
けれど、間に合わない。
《ですが、それこそが最もよく燃える
リンデンは根へ触れられなかった。
身体が拒んでいる。
手を伸ばすだけで、焼かれる前から何かが千切れようとしていた。
その時、剣を握る両手へ、別の温度が重なった。
細い指が、震えていた手を包み込む。
薄桃色の気配が暗闇の中へ寄り添い、微かな花の香りが、焼けた土と血の臭いを押し退けた。
「リンデンちゃん」
トロイの声が、すぐ隣から聞こえた。
仲間たちが作った僅かな隙を縫い、彼女はリンデンのもとまで戻っていた。
左腕が背中から身体へ回される。
修道服越しの柔らかな体温が脇腹へ触れ、リンデンの傾いていた上体を引き寄せた。肩と肩が触れ、薄桃色の髪が頬の白布を掠める。
右手は、剣を握るリンデンの両手へ添えられていた。
力を奪う握り方ではない。
震えを止めようともせず、ただ、同じ柄を一緒に持つように指を重ねている。
「……トロイ、姉さん」
「うん。トロイさんだよー」
いつもの間延びした声だった。
息は乱れている。祈術を使い続けた指先も冷え、回された左腕には力が入り切っていない。
それでも、身体はぴたりと寄り添ったまま離れなかった。
「ひとりで持たなくていいからねー」
トロイの指が、リンデンの手へ少しだけ深く重なる。
「リンデンちゃんが届かせたいところまで、トロイさんも一緒に持つから」
根が震えた。
それまで暗闇の底へ沈んでいた構造が、彼女の体温に触れた場所から僅かに浮かび上がる。
誰かの隣に残る未来。
帰る場所へ戻る未来。
まだ知らない時間の中で、同じ声を聞き続ける未来。
変わらず、具体的な景色は見えない。
けれど、その根が何を支えていたのかだけは分かった。
「終わらせて、帰ろうね」
トロイが囁いた。
「今度はちゃんと、みんなで」
リンデンの喉が震えた。
《――知覚、出来たようですね》
カツラクの声が、二人の間へ柔らかく落ちる。
《あれが、あなたが無意識に守っていた未来です》
トロイには聞こえていない。
彼女はただ、剣を握るリンデンの手へ自分の指を重ね、迫る白い個体から彼を庇うように寄り添っている。
《あなたが帰る未来》
根の表面へ、淡い熱が宿った。
《あなたが、彼らの隣に残る未来》
リンデンの身体が再び拒んだ。
背骨が強く軋み、胃の奥が持ち上がる。指を離そうとする衝動が走り、剣の柄から掌が浮きかけた。
トロイの右手が、その動きを包み込んだ。
「大丈夫だよー」
何も知らないまま、彼女は言った。
「手、離さないからね」
《燃やせば、彼女を守れます》
カツラクの声が甘く沈む。
《陛下も、皆も、この先へ進めます》
白い個体が、残された距離を踏み越える。
リンデンは根へ触れた。
全身が跳ねた。
胸の奥で、声にならない叫びが上がる。これまでの枝を燃やした時とは違う。何かを失う予感ではなく、自分という存在そのものが、先の時間から引き剥がされる感覚だった。
トロイの身体が隣にある。
背へ回された腕がある。
手を包む細い指がある。
花の香りがする。
帰ろう、と言った声が残っている。
そのすべてを、リンデンは暗闇の中で抱えた。
《さあ》
カツラクが囁く。
《最も美しい薪を》
リンデンは、根を炉へくべた。
触れていた未来が、一息に燃え上がる。
拒絶は消えなかった。身体は震え続け、魂の奥では何かが最後まで手を伸ばしていた。それでも炎は根へ移り、これまでのすべてを支えていた構造を、下から静かに焼き始める。
炉が鳴った。
限界まで積まれていた熱が一つに繋がり、剣の奥で深い脈動へ変わる。
トロイの指に包まれたまま、リンデンの両手から震えが引いていった。
未来は、もう残っていない。
暗闇の底で燃えているのは、リンデンがこの先へ続くための根、そのものだった。
白い個体が踏み込む。
狙いはリンデン。
そして、その手に握られた魔剣。
赤黒い大地が砕け、白い身体が一気に距離を詰める。全身の構造は、ここまでに学習したものを残したまま、ただ前へ届くための形へ整えられていた。
脚部の筋が束ねられる。
骨格が前方へ傾く。
胸部には幾重もの硬質層が生まれ、先ほどリンデンから受けた一撃へ備えるように、その内部が細かくずれていく。
同じ斬撃へ対する答えは、すでに用意されていた。
リンデンは膝をついたまま、剣だけを正面へ向ける。
トロイの左腕が身体を支えている。右手はリンデンの両手を包み、同じ柄へ指を添えたまま離れない。
炉が燃え上がった。
最後にくべた根から生まれた熱量が、リンデンの奥へ雪崩れ込む。
背骨の下から、一節ずつ熱が上がる。
腰へ。
胸郭へ。
肩へ。
腕へ。
そして、剣へ。
リンデンという魔剣そのものが一本の通路となり、燃やされた未来を現在へ送り出していた。
熱量は大きい。
そのままでは散る。
白い個体を壊し切るには、形が要る。
リンデンの内側で、何かが噛み合った。
カチリ、と。
小さな音がした。
欠けたものが戻った時と似た響きだった。
けれど今度は、内部の構造が切り替わる。
炉から溢れた熱が、一つの変換式へ流れ込んだ。入力された力が、そのまま別の力へ置き換わる。
余りもなく。欠けもなく。
未来を燃やして生まれた熱量、そのすべてが一つの出力へ収束していく。
それは、幼い頃から存在した力。
魔剣としてではなく、リンデンという個人に与えられた、たった一つの
剣が低く鳴った。
熱が、白い個体の構造へ直接届くための力へ変わっていく。
白い個体が最後の距離へ入った。
硬質化した五指が伸びる。
リンデンの頭部と、その手にある魔剣を一息に捉えられる軌道だった。
「リンデンちゃん」
トロイの身体がさらに近づく。
左腕がリンデンの胴を強く抱き寄せ、頬が触れる。右手も、剣を握る指へ重なったままだった。
「――いこっかー」
リンデンは息を吸った。
剣を振る。
距離が潰れた。
剣先から白い個体までを隔てていた空間が、一枚の紙を折るように縮み、振り始めた刃と白い身体の中心がそのまま接続される。
そして、衝突した。
先に沈んだのは、大地の方だった。
二人の間から亀裂が放射状に走り、赤黒い土が何層にも捲れ上がる。圧縮された空気が巨大な輪となって外へ弾け、周囲の瓦礫と砂塵をまとめて吹き飛ばした。
リンデンの身体が後方へ押される。
「――っ」
トロイの左腕が締まった。
膝が地面を削る。
黒紺の修道服が風圧に張りつき、裾が大きく後方へ翻る。細い身体へ反動が流れ込み、それでもトロイはリンデンの背へ自分の身体を押しつけるようにして支えていた。
右手は、剣を握る両手から離れない。
白い個体の胸部が大きく陥没する。
最初の硬質層が砕けた。
その損傷を受け、第二層が角度を変える。
第二層にも亀裂が走る。
内部へ力を逃がすために形成された管が膨張し、その管を支えていた接続部から崩れていった。
白い個体が構造を切り替える。
切り替えた箇所へ力が届く。
別の形へ組み替える。
組み替えた構造が、その成立点から砕ける。
表皮。
筋。
骨。
内部を巡る白い線。
それぞれが順に異なる形を選び、選んだ直後に壊れていく。
適応の速度を、破壊が追い越していた。
熱への逃がし方を組めば、その通路が崩れる。
衝撃を分散すれば、分散を支える接続が裂ける。
肉体を分ければ、分離する境界が砕ける。
ひとつへ纏めれば、その中心から亀裂が走った。
白い個体が震えた。
その揺れは全身へ広がり、輪郭に細かなずれを生む。
肩の位置が重なる。
脚が幾つもの角度へぶれる。
胸部の奥にあった白い線が、一つずつ断たれていく。
それでも腕は伸びていた。
リンデンへ向かう一本だけが、崩壊の中で前へ残る。
衝撃が一段深くなった。
「リンデンちゃん――!」
トロイの身体が後方へ引かれる。
リンデンの上体も傾いた。
剣の軌道がずれかける。
トロイの右手が、その上からさらに強く握る。
「その、まま――!」
リンデンは歯を噛みしめた。
炉の奥で、根が燃え進む。
最後まで残っていた未来が熱へ変わり、変換式を通って剣へ流れ込んだ。
刃の奥で、低い脈動が一つ鳴る。
出力が跳ね上がった。
白い個体の胸部から亀裂が全身へ走る。
白い肉の表面ではなく、輪郭そのものが細かくずれ始める。構造を繋いでいた線が切れ、支えを失った箇所から形がほどけていく。
肩が崩れる。
胸郭が薄く透ける。
脚の輪郭が霧のように解ける。
それまで蓄えていた学習も、適応も、模倣した兵装の情報も、保持する場所を失うたびに白い粒子へ混じって消えていった。
剣が振り抜かれる。
空間が遅れて裂ける。
白い個体の中心を縦に細い断線が走り、その線から全身の構造が静かにほどけ始めた。
胸部が崩れる。
脚が形を失う。
肩が白い霧へ変わる。
それでも、一本の腕だけが残った。
崩れながら。
指先を欠きながら。
手首から上腕へ続く輪郭を霧散させながら。
その腕だけが、リンデンへ伸び続けていた。
トロイが息を呑む。
「リン――」
トロイの言葉は間に合わない。
白い手が、リンデンの頭を掴んだ。