最初にあったのは、青だった。
どこまでも高い空の下を白い雲が流れ、その影が草原の上をゆっくりと渡っていた。石と金属を組み合わせた街が丘陵の裾へ広がり、さらに遠くでは山の稜線が薄い霞の向こうへ沈んでいる。
人がいた。
畑を耕す者がいて、壊れた屋根を直す者がいた。広場には洗った布が幾重にも干され、道端を走る子供たちの声が風に乗って高台まで届いている。
ひどく古い記憶だった。
誰かの眼を借り、その者が見ていた景色だけが、閉ざされた視界の奥へ流れ込んでいる。
高台から街を見下ろすその人物の腰には、一本の剣があった。
鞘から抜かれた刀身は深い色を湛えていた。金属の色とも、宝石の色とも違う。幾重もの影を重ねてようやく生まれるような濃さがあり、光を受けても奥までは透けず、刀身の内側へ何か膨大なものを抱え込んでいるように見えた。
その濃さの理由を、この時の持ち主はまだ知らなかった。
――空が、割れた。
青の一角へ細い亀裂が走り、それが瞬く間に巨大な裂口へ広がっていく。裂け目の向こうから現れたのは、空を覆う鉄の群れだった。
翼を持たずに浮かぶ飛行構造体。幾何学的に配置された砲門。腹部を開きながら降下する長大な艦船。その周囲では、人の形に近い小型機が群れをなし、地上へ向けて淡い光を集めている。
街から鐘が鳴った。
人々が走り、高台に立つ者は剣を抜いた。
《怖がらなくても大丈夫です》
少女の声がした。鈴のように澄み、柔らかな甘さを含んだ声だった。
《あなたには、守りたいものがあるのでしょう》
剣が淡く震える。
高台から、幾つもの枝が伸びていた。まだ建っていない家。まだ実っていない畑。傷ついた街が修復され、再び人が道を歩く時間。今を生きる子供たちが大人になり、次の世代へ何かを渡していく時間。
その中でも、ひときわ太い枝へ火が灯った。
《ほんの少し、お借りしますね》
枝が燃れた。
空を覆っていた艦隊が落ちた。
光が天蓋を横切り、巨大な船体が中央から割れる。小型機は黒い雨のように墜ち、地上へ届くはずだった砲撃は街の遥か手前で消失した。
歓声が上がった。
高台に立つ者は剣を下ろした。
街は残った。人も残った。
ただ、刀身の奥にあった色が、ほんの少しだけ薄くなっていた。
翌年、壊れた家の一部は建て直されなかった。
次に空を裂いたものは、生きていた。
巨大な翼と鱗に覆われた胴を持ち、都市をひとつ抱え込めるほどの顎を開いた異形。その背には人に似た者たちが立ち、奇妙な装束を纏いながら空中へ複雑な紋を描いている。
炎とも雷ともつかない光が降り、防壁が砕け、街の外縁が燃えた。
剣を握る手には、以前より多くの傷があった。
《まだあります》
カツラクは囁いた。
《安心してください。これほど豊かな未来を持っているのですから》
枝が揺れる。
戦いが終わった後に生まれる子供。焼けた土地へ水路が引かれる未来。隣の集落と道が繋がり、交易が始まる未来。争いを知らないまま季節を重ねる時間。
《こちらがよろしいでしょう》
最も太い枝へ火が移る。
剣が振るわれ、空を覆っていた巨体の翼が落ちた。背に乗っていた者たちの術式が崩れ、空から降っていた光が途絶える。
巨大な肉体が街の外へ墜ちた時、地面が長く震え続けた。
また勝った。
人々は生き残った。
戦いの後、持ち主が剣を拭った時、刀身には向こう側の指先が僅かに透けて見えた。
まだ濃い。まだ充分に色はある。
それでも最初の頃と比べれば、剣の奥にあった深さは確実に減っていた。
翌年、水路は作られなかった。
季節が飛んだ。
雪が降った。長い雨が続いた。乾いた風が街路を削り、ある時には空そのものが焼けたような色へ染まった。
その度に、外から何かが来た。
人間だったことが一目で分かる軍勢もあった。
揃いの装甲服を着込み、大地を滑る戦車を伴った兵士たち。空中へ数式を描き、それを兵器として撃ち出す者。身体の半分以上を機械へ置き換え、銃声より早く戦場を横切る兵士。祈りとともに光の柱を降らせる軍勢。
巨大な生物を都市そのものとして使う人類もいた。幾千もの小型機械を雲のように纏い、人の肉体を分子単位で崩して進む者もいた。空間そのものを折り畳み、防壁の外側から内側へ一歩で現れる者もいた。
同じ人類から生まれたものなのだろう。
けれど、どれ一つとして同じ姿ではなかった。
何度も空が裂け、その度に街が燃えた。
剣は抜かれた。
《こちらを》
枝が燃える。
《もう少しだけ》
敵が消える。
《これなら、皆を守る事ができます》
次の枝が燃える。
剣を振るう者は、何も言わなかった。守るものが後ろにある限り、ただ刃を振るった。
戦争のたびに最良の
戦いの終わった後に訪れる長い平和。遠く離れた集落と結ばれる未来。病を克服する未来。荒れた土地が再び森へ戻る時間。子供が大人になり、その子供を抱く未来。
争っていた者同士が同じ食卓につく未来。
誰かと誰かが出会い、そのまま別れることなく、共に老いていく未来。
中身は違っていた。
燃える時の熱だけが、どれもよく似ていた。
価値のある未来ほど、剣は強くなる。そして、よく燃えた。
刀身は、そのたびに少しずつ色を失っていった。
初めは奥まで見通せなかった刃の内側に光が入り始め、やがて反対側の景色が薄い影となって透けるようになった。
刃の縁に残る色だけはまだ濃い。
魔剣使いは、それを充分だと思っていた。
街から、子供の姿が減った。
次の記憶では畑が消え、その次では山の麓にあった集落が地図から失われていた。
石造りだった家々は厚い壁を持つ避難施設へ置き換わり、窓の数が減った。広場は狭くなり、道から装飾が消え、食卓には同じ形の保存食ばかりが並ぶようになった。
それでも、人は残っていた。
《大丈夫です》
カツラクの声も残っていた。
《まだ、未来は残っています》
敵が来る。剣を抜く。枝を燃やす。勝つ。
次の敵が来る。再び枝を燃やす。また勝つ。
勝利が積み重なるほど、戦場の後ろにあるものは少しずつ痩せていった。
剣を鞘へ戻すたび、刀身の透明さが増している。
最初は景色の影しか見えなかった。やがて、刃越しに立つ者の顔が分かるようになった。
それでも、刀身の中心には色が残っていた。
未来を守るために戦っている。
その認識だけは変わらなかった。
ある時、枝の数が目に見えて少なくなった。
空の色も変わっていた。
青は薄い灰へ沈み、陽光には濁った翡翠の色が混ざっている。大地には植物がほとんど残らず、人々は地下と厚い壁の内側で暮らしていた。
そこへ、また外から敵が来た。
今度の軍勢には、顔がなかった。
白い空洞。作り物の手足。背後へ広がる無数の光輪。
彼らが歩くたび、大地の一部が別の景色へ置き換わっていく。
防壁が意味を失い、街の半分が一夜で消えた。
剣を握る手が震えた。
その刀身は、もうかなり透き通っていた。向こう側で燃えている街が、刃を通してそのまま見える。
かつて内部へ沈んでいた深い色は、刀の中心へ細く残されているだけだった。
《こちらを使いましょう》
残された枝の中から、カツラクが一本を示した。
太かった。
これまで見たどの未来よりも、深く遠くへ伸びている。
そこには、この戦いを最後にする可能性があった。
外から来る者たちと何らかの形で隔絶し、残った人々だけでも静かに生き続けられる未来。
《これほど良い薪は、もう他にありません》
火が灯った。
剣を握る手が、初めて止まった。
《……どうしました?》
枝が揺れる。
《皆が待っています》
遠くで、防壁が崩れた。光輪を背負った者たちが街へ入る。
《大丈夫ですよ》
カツラクの声は、いつもと同じだった。
《未来とは、皆を救うためにあるのでしょう?》
指が動いた。
枝が燃えた。
空が白く染まった。
敵が消えた後、剣を持つ手だけが長く残った。
刀身には、ほとんど色がなかった。
透き通った刃の中心に、淡い影が一本だけ残っている。
次の記憶には、街がなかった。
瓦礫と、辛うじて壁だけが残っていた。
人々はその隙間で生きている。身体を包む衣服は厚くなり、肌には白い変色が広がっていた。食料を運ぶ者の背には、肉と金属を継ぎ合わせたような器官が伸びている。
生きるために、形を変えていた。
未来が減るほど、現在だけを長く保つ方法が増えていった。
死者が出ても、その死が終端にならない。
傷ついた肉が別の肉へ繋がり、ひとりの記憶が隣の者へ流れ込む。誰かが倒れれば、その傷を皆が知り、一つの肉体が学んだことを別の肉体も覚えた。
最初から備わっていた力ではなかった。
終われる未来が減るたび、現在を繋ぎ止める構造ばかりが増えていった。
剣を握っていた者の身体も白くなっている。
指の形はまだ人に近い。腕には筋肉があり、胸は浅く呼吸を続けていた。
ただ、その背後から女の上半身に似たものが生えていた。
女は両手で目を覆っている。
いつからそこにいたのか、記憶には残っていない。
手にした剣は、ほとんど透明だった。
刃越しに見える白い指と、実際の指との境目すら曖昧になるほどに。
《まだ、あります》
カツラクの声が聞こえる。
残っていた枝は、数えるほどしかなかった。
《皆が人として生きる未来》
一つ。
《この土地が、再び豊かになる未来》
一つ。
《あなたが、剣を置いて生きられる未来》
一つ。
剣を握る手が動かない。
透明な刀身の向こうで、崩れた街がそのまま見えていた。
《どれも、とても美しいですね》
沈黙の中で、カツラクだけが優しく語る。
《ですから、きっとよく燃えます》
火が上がった。
どの枝だったのか、もう分からなかった。
敵は滅びた。
人々も変わった。
白い肉体が大地を歩く。
眼は次第に役目を失い、言葉も少なくなった。個体同士の境界が薄れ、誰が見たものなのか、誰が覚えたものなのか、その区別さえ摩耗していく。
傷は共有された。学習も共有された。
死にかけた個体があれば、別の個体へ中心が移る。ひとつが終わろうとすれば、群れ全体がそれを支えた。
終わるための道が、もう見つからない。
それでも剣は手の中にあった。
透き通った刀身は、もはや空気の中へ一本の境界だけを残しているように見えた。
未来の数だけ濃かった剣。
未来を薪へ変えるたび、色を失っていった剣。
いまや、その刃の向こうには何一つ隠れない。
《もう少しです》
カツラクは囁く。
《あと少し燃やせば、きっと》
未来は、ほとんど残っていなかった。
枝の見えない空間で、それでも剣だけは温かかった。
やがて、その剣さえ消えた。
いつ消えたのかは分からない。
折れたような感触がある。手を伸ばした記憶がある。白い肉の指が、何もない空間を掴んだ記憶がある。
そこから先に、カツラクの声はなかった。
残されたのは、終われなくなったものたちだった。
白い身体と、繋がった記憶。燃やされた土地。未来の失われた神域。そして、あの剣がいつか別の場所へ現れるという確信。
理解には、長い時間がかかった。
あれは自分たちを救った剣だった。確かに何度も救った。
外から来た敵を滅ぼし、街を守り、人を残した。
そのたびに、守られたはずの未来を薪へ変えていた。
救われるはずだった先を燃やし、勝利した現在だけを積み重ねる。使うほど、使用者から「この先」がなくなっていく。
そして最後には、終わるための未来さえ残らない。
だからこそ。
――これは、この魔剣だけは、あってはならない。
白い群れは、未来のない神域を彷徨った。
外から来た者を殺した。
神を名乗るものも、魔を名乗るものも、人の形を持つものも、その区別は次第に失われていった。
長い時間の中で、残った意思はひどく短い言葉へ削れていく。
神魔調伏。
悪鬼覆滅。
何を指した言葉だったのかさえ摩耗しても、その響きだけは群れの内側へ残った。
それでも、一つだけ失われなかったものがある。
――いつか、自分たちを終わらせる者が来る。
終われなくなったこの群れを、肉ではなく、その在り方から滅ぼせる者。
未来の尽きた神域へ踏み込み、それでもこちらまで刃を届かせる者。
その者が来れば、あの魔剣もきっと現れる。
また優しい声で、また救いを差し出して、また、その者が最も大切にしている未来へ火を灯そうとする。
ならば、その時まで。
残す。
燃えたものを。
失ったものを。
自分たちが何であったのかを。
あの透明な刀身が、何を意味していたのかを。
カツラクが何をしたのかを。
終われない肉の中へ積み重なった、すべての記憶を。
自分たちを滅ぼした者へ、最後の一片まで託す。
神魔調伏。
悪鬼覆滅。
未来のなくなった神域には、その壊れた祈りだけが、長い時間を越えて残り続けていた。
最初に戻ってきたのは、土の冷たさだった。
膝が赤黒い大地へ触れている。次いで、身体の左側に柔らかな温度があり、背から脇腹へ回された腕が自分を支えていることを思い出した。
薄桃色の髪が頬の白布へ触れていた。
トロイの呼吸が、すぐ傍にある。
荒い。
けれど、途切れてはいない。
リンデンは息を吸った。
焼けた土と血、その奥に微かな花の香りが混ざっていた。
白い個体の気配は、もうない。
あれほど濃く世界へ食い込んでいた構造も、学習によって幾つもの形へ枝分かれしていた輪郭も、閉ざされた視界の奥から完全に消えている。
代わりに、周囲の兄姉たちが浮かんでいた。
倒れた身体を起こそうとする者。
傷口へ手を当てる者。
砕けた兵装を地面へ下ろす者。
治療を受けながら、呼吸を整えている者。
どれも形としてt見えてはいない。ただ、それぞれがそこに存在していることだけが、暗闇の中へ静かな厚みを作っている。
リンデンの頭へ触れていたものは、すでになかった。
けれど、その感触だけが残っていた。
最後まで崩れずに伸びた白い腕。
頭を掴んだ五本の指。
そこから流れ込んだ、あまりにも長い記憶。
そして、記憶の最後に残された言葉。
神魔調伏。
悪鬼覆滅。
リンデンは、剣を握る手へわずかに力を込めた。
《これで、彼らも救われるでしょう》
声がした。
カツラクだった。
いつもと変わらない澄んだ少女の声。耳へ触れるところだけを柔らかく撫でるような、穏やかな響きだった。
それなのに、リンデンの指が止まった。
言葉の最後に、何かが残っていた。
音と呼べるほど明確ではない。語尾の僅かな高さか、息が抜ける位置か、それともリンデン自身が輪壊者の記憶を見たから、そう聞こえただけなのか。
笑い声には遠い。
けれど、誰かの失敗を遠くから眺めている時のような、薄いものが混じっていた。
「……救われた」
リンデンは小さく呟いた。
《はい》
カツラクは答えた。
《長い間、ずっと苦しんでいましたから》
声には慈しむような柔らかささえあった。
《これで、終わることができます》
リンデンは言葉を返さなかった。
輪壊者たちは確かに終わった。
終われなかった者たちが、ようやく消えた。
それを救いと呼ぶこと自体は、間違っていないのかもしれない。
けれど。
彼らをそこまで追い込んだものが、今も自分の手の中にある。
剣の柄から伝わる温度は、あの記憶の中と変わらなかった。
ずっと、優しいままだった。
「……リンデンちゃん?」
トロイの声が近い。
左腕はまだ背へ回されたまま、右手も剣を握るリンデンの指へ重なっている。
「大丈夫ー? どこか痛くなった?」
「……いえ」
声を出すと、喉がひどく乾いていた。
「大丈夫です」
「んー」
トロイはすぐには離れなかった。
リンデンの顔を覗き込むように少し身体を動かしたらしく、頬の横で髪が擦れる。
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃなかったりするんだけどねー」
軽い調子だった。
けれど、背へ回された腕は緩まない。
リンデンは、ほんの僅かに身体の重みを預けた。
トロイは何も言わなかった。
そのまま、その重みを支えた。
遠くで、金属が地面へ落ちる音がした。
「……終わった、んですの?」
エリスの声だった。
息を整えながら、どこか信じ切れないように問うている。
「周囲の反応は……今のところありません」
濡羽が答えた。
術式を展開したらしく、微かな魔力の揺れがリンデンの知覚へ触れる。
「神域内の広域走査にも、あの個体と同種の反応はありません。ナンナリスクリーチャーについても……少なくとも、この周辺では確認できませんね」
「“この周辺では”か。最後まで安心させてくれないねー」
玄鉄の声に、疲れた笑いが混じる。
「まあ、警戒を切るには早いでしょ。今度こそ本当に全部終わったかどうか、確認くらいはしないとね」
「同感だ」
スリーが短く返した。
「残弾と装備状況を確認する。動ける者は周辺警戒。負傷が重い者は無理をするな。せっかく終わった戦闘で損失を増やすのは、ビジネスとして最低だ」
「スリーさん、そう言いながら自分が普通に穴空いてんのはノーカン?」
オーバーフローの声が飛ぶ。
「これは
「便利な言葉だな、それ」
エラーが笑った。
乾いた、けれど生きている者の笑いだった。
先ほどまで戦場を満たしていた圧が、少しずつ抜けていく。
誰かが腰を下ろした。
誰かが大きく息を吐いた。
プロブレムはQ&Aの状態を確かめながら何かをぶつぶつ言い、アンサーは傷を押さえながら、動ける者から治療を受けるよう促している。
斬も近くへ戻ってきた。
「リンデン、無事――とは言い難いですが……意識はしっかりしていますか」
「はい。斬兄さん」
「なら、ひとまずはそれで良しとしましょう」
声の位置が少し下がる。
おそらく、目線を合わせるために膝をついたのだろう。
「よくやりました」
それだけ言って、斬は立ち上がった。
余計な言葉は続かなかった。
リンデンは顔を伏せる。
その一言が、妙に深く残った。
通信音が鳴った。
首元のチョーカーデバイスから、聞き慣れた電子音が二度続く。
『リンデンくん』
リーインシアだった。
回線の向こうから届く声は平静だったが、先ほどより呼吸が浅い。
「はい」
『輸送機はすでに最終進入へ入っています。着陸可能地点を選定中ですので、可能なら現在地から北東へ二百メートルほど移動してください』
そこで一度、言葉が途切れた。
『……帰ってきてくださいね』
リンデンは少しだけ息を止めた。
「はい」
返した声は、思ったよりも穏やかだった。
「ありがとうございます。リーインシアさん」
『……そのお礼も、直接聞きます』
通信が切れる。
短い電子音だけが残った。
周囲でも、輸送機の手配が整ったことが共有されたらしい。立ち上がる気配が増え、武器を収める音が続いていく。
限定神域を維持していた運命も、すでに魔剣を地面から抜いていた。
青い光の残滓が神域の空気へ薄く溶けていく。
運命はしばらく何も言わなかった。
リンデンには、その輪郭が少し離れたところに見えていた。
仮面の表情までは分からない。
それでも運命が自分を見ていることだけは、不思議なくらいはっきりと伝わってくる。
やがて、その輪郭が近づいた。
一歩。
もう一歩。
乾いた土を踏む靴音が、リンデンの前で止まる。
『リンデン』
運命が呼んだ。
「はい、陛下」
『立てそう?』
リンデンは自分の脚へ意識を向けた。
力は戻りきっていない。
未来燃焼で身体の奥まで焼かれた感覚が残り、膝もまだ鈍く震えている。
「……トロイ姉さんに、支えていただければ」
「任せてー」
すぐ横でトロイが答えた。
左腕が背から腰へ位置を変え、リンデンを起こすためにゆっくりと力を加える。
運命の気配も、僅かに近づいた。
『急がなくていいよ』
その声には、戦場で命令を出していた時の張りがもうなかった。
いつもの声だった。
運命屋で朝に聞く声。
何度も呼ばれてきた声。
『輸送機も来るし、帰ったらちゃんと診てもらおう』
リンデンは剣を杖代わりにしながら、ゆっくりと腰を上げた。
トロイが身体を支える。
足元の大地を確かめる。
暗闇の向こうには、運命の輪郭がある。
その周囲にも、いくつもの気配がある。
――皆、生きている。
帰れる。
その言葉が、胸の内側へ静かに落ちた。
運命が手を差し出した気配がした。
『帰ろう、リンデン』
リンデンは、僅かに顔を上げた。
差し出された手の位置は目には映らない。それでも運命の輪郭は暗闇の中にあり、その腕が自分へ向けて伸びていることも分かった。
トロイの左腕が腰を支えている。
「ゆっくりねー。足元、ちょっと荒れてるから」
「はい」
リンデンは剣を地面から抜いた。切っ先に付着していた土が、乾いた音を立てて落ちる。
透明になった刀身は、ほとんど空気の中へ細い境界だけを残していた。最後の根まで炉へくべたことで、そこに宿っていた色は完全に消えている。
過去の記憶で見た、最後のカツラクと同じだった。
リンデンはトロイへ身体を預けながら、右足を前へ出す。靴底が赤黒い土へ触れた、その瞬間だった。
剣の奥に、色が戻った。
「……」
リンデンの足が止まる。
ほんの僅かだった。透明だった刀身の中心に、薄い影が滲んでいる。黒とも翡翠ともつかない深い色が一本だけ走り、それまで向こう側まで透けていた刃へ、再び奥行きが生まれていた。
何かを燃やした時の色。
輪壊者たちの記憶の中で、何度も見たものだった。
「リンデンちゃん?」
トロイが身体を支え直した。
「どうしたのー?」
返事をするより早く、閉ざされた視界の奥で別のものが揺れた。
トロイから伸びている輪郭。その先へ幾つも重なっていた可能性のうち、一本の根元へ小さな火が灯っている。
薄桃色の気配から遠くへ伸びる、ひどく温かな線だった。火はまだ小さく、枝の表面を撫でるほどのものに過ぎない。
それでも、熱の流れる先だけは分かった。
トロイからリンデンへ。
そして、カツラクへ。
「……待ってください」
低く落ちた声に、運命が僅かに身を動かした。
『リンデン?』
次の火が灯る。
今度は運命だった。
暗闇の中へ浮かぶ彼女の輪郭から、数え切れないほどの線が伸びている。太いものも、細いものも、近くで分かれるものも、遥か遠くまで続くものもある。
その一本へ赤い光が入り、根元から先へ向かって静かに燃焼が始まった。
同時に、カツラクの刀身へさらに色が戻る。
リンデンの呼吸が浅くなった。
意識を周囲へ広げる。
斬。スリー。プロブレム。アンサー。エラー。オーバーフロー。オラス。エリス。濡羽。玄鉄。
誰にでも、この先があった。
それぞれの輪郭から伸びる未来が暗闇を満たし、そのいくつかへ順に小さな火が移っていく。まだ炎と呼ぶには弱い。それでも、その熱がどこへ集まっているのかは見間違えようがなかった。
リンデンの手にある剣。
色を失い切ったはずのカツラク。
皆の未来が燃えるたび、その刀身だけが少しずつ濃くなっている。
「……何を、しているんですか」
《あなたを支えています》
カツラクは、いつも通りの声で答えた。責められているという認識さえないような、柔らかな声音だった。
《先ほど、あなたの未来はすべて燃えてしまいましたから》
リンデンの指が柄へ食い込む。
《でも、大丈夫です。皆の未来は、まだたくさん残っています》
トロイの未来へ灯った火が揺れ、刀身の色が僅かに深くなる。
《あなたは皆と一緒に帰りたいのでしょう? でしたら、そのための未来が必要です》
リンデンの胸の奥が冷えた。
《あなた自身には、もうこの先がありません。だから、あなたと繋がっている方々の未来を少しずつ借りています》
剣の奥で、淡い熱が脈打つ。
《ほんの少しずつなら、大丈夫です》
過去の声と重なった。
《ほんの少し、お借りするだけです》
青空の下で最初の持ち主へ告げた声。焼けた街の中で、水路の未来を選んだ声。透明になっていく刀身を前に、それでも「まだ残っています」と言い続けた声。
何ひとつ変わっていなかった。
《皆も、あなたに帰ってきてほしいと思っています。それなら、この使い方が一番良いと思いませんか?》
トロイの腕が腰へ回されたまま、温かい。
運命が目の前にいる。
少し離れた場所には、傷ついた兄姉たちがいる。
皆がリンデンを待っていた。
魔剣は、そんな彼らの未来を燃やして、自分をこの先へ運ぼうとしている。
「……違う」
声が漏れた。
「リンデンちゃん?」
トロイの腕が少し強くなる。
リンデンは前へ出していた右足を引き、元いた場所へ戻った。
刀身の熱が僅かに下がる。トロイの未来へ灯っていた火が弱まり、運命の枝を走っていた赤も、その場で動きを止めた。
リンデンは息を止める。
もう一歩、後ろへ退いた。
「リンデンちゃん、危ないよ」
トロイも一緒に下がった。支える腕は離れない。
それでもリンデンは、自分の身体をできる限り彼女から遠ざけるように重心を引いた。
枝の火がさらに小さくなり、それに合わせてカツラクの色も薄れていく。
分かった。
理解したくはなかったが――構造は、あまりにも明瞭だった。
自分が先へ進もうとする。そのために必要な未来が、自分にはもう残っていない。
だからカツラクは周囲から拾う。
自分と繋がっている者。自分を大切にしている者。自分がこの先も共に在る可能性を持つ者。
そこから価値の高い未来を選び、燃やし、現在のリンデンへ変える。
「……止めてください」
《止める?》
「皆さんの未来を」
カツラクは一瞬だけ黙った。
《どうしてですか?》
リンデンの喉が詰まる。
《あなたが生きるために使っています》
その声には、責められている理由が本当に分からないような響きがあった。
《皆を守るために、あなたはご自分の未来を燃やしました。今度は、皆の未来があなたを支える番です》
透明な刀身の奥で、僅かな色が揺れる。
《とても綺麗なことだと思います》
リンデンの身体が微かに震えた。
過去の記憶で聞いた声。輪壊者たちへ向けられた声。そして、先ほどの――
"これで、彼らも救われるでしょう"
あの言葉の最後に混じっていたものが、もう一度耳の奥へ残った。
笑いと断じるには薄い。けれど、慈しみだけでもなかった。
リンデンは剣を握ったまま、一歩も動かなかった。
動けば、燃える。
帰ろうとすれば、誰かの未来が薪になる。
自分がこの先へ続くために、家族のこの先が減っていく。
トロイの腕が、まだ腰を支えていた。
「リンデンちゃん」
声は、近かった。
「……何が見えてるの?」
リンデンは答えられなかった。
閉ざされた視界の奥で、皆の未来だけが遠くまで伸びている。その根元には、まだ消え切らない小さな火が残っていた。
リンデンは、それ以上動かなかった。
足を止めている限り、火勢は広がらない。刀身に戻りかけていた色も淡いまま留まり、刃の向こう側が再び透け始めている。
ならば、ここから離れればいい。
考えるより先に、指が開いた。
カツラクの柄が掌から滑り落ちる。
剣は赤黒い土へ触れ、硬質な音を立てて横たわった。
それでも。
胸の奥にあった温度は消えなかった。
「……」
リンデンは俯く。
手放したはずのカツラクが、まだ自分の内側にいた。
刃そのものの位置は分かる。足元から半歩ほど先、乾いた土の上へ倒れている。その一方で、それとは別の何かが胸の奥へ深く根を張り、身体という形よりさらに内側にある部分と接続していた。
意識を向けた途端、その構造が浮かび上がった。
一本の線ではなかった。
幾重にも絡み合った細い繊維が、リンデンという存在の隙間へ入り込んでいる。肉体へ繋がるもの、記憶へ触れているもの、現在という一点へ存在を固定しているもの。それらが別々の経路を通りながら、最後には同じ場所――カツラクへ収束していた。
リンデンは自分の胸へ手を当てた。
鼓動がある。
呼吸がある。
指先も動く。
けれど、そのすべてが自分だけで成立しているわけではなかった。
死んだはずの身体。
一度途切れた意識。
輪壊者へ近づきすぎ、焼却によって崩れた存在。
そこから拾い直された自分のうち、足りなかった部分へ、カツラクが継ぎ足されている。
器を直しただけではない。
今のリンデンがリンデンとしてここに立つために必要だった欠落を、あの剣が埋めていた。
《どうしました?》
足元からではない。
声は、胸の内側から聞こえた。
《手を離しても、私はここにいますよ》
優しかった。
その事実を安心材料として伝えているような声だった。
リンデンは返事をしない。
代わりに、意識をさらに深く沈めた。
接続の先へ触れる。
その瞬間、身体の輪郭が僅かに揺れた。
右手の指先が、一瞬だけ遠くなる。
呼吸の位置がずれる。
膝から力が抜けかけ、トロイの腕がすぐに身体を引き寄せた。
「リンデンちゃん?」
「……大丈夫です」
反射的に答えながら、リンデンは理解した。
いま触れた場所を切れば、この身体も切れる。
カツラクとの接続を一つずつ外していけば、自分を形作っている何かが同じ数だけ失われていく。
最後まで外した時、自分が残る余地はない。
《無理に触らない方がいいです》
カツラクが言った。
《そこは、あなたと私を繋いでいる部分ですから》
「……繋いでいる」
《はい》
少女の声は穏やかだった。
《あなたは一度、終わっていますから》
その言葉が、妙に静かに落ちた。
《戻る時に足りなかったところを、私がお手伝いしました》
リンデンは足元の剣へ顔を向ける。
見えない。
それでも、透明な刀身の位置だけははっきり分かっていた。
《ですから、大丈夫です。私がいる限り、あなたはここにいられます》
その言葉と同時に、遠い記憶が重なった。
白い肉の指。何もない空間を掴む手。
消えたカツラク。残された者たち。
――終われないもの。
リンデンの呼吸が止まりかけた。
輪壊者たちは、剣を失った。けれど、彼らは終われなかった。
未来を失い、死へ向かう道まで焼かれ、現在へ異様な形で固定された。
自分は逆だった。
未来をすべて失った自分を、カツラクが現在へ繋いでいる。
形は違う。
過程も違う。
それでも、現在だけが残されているという一点で、ひどく似ていた。
輪壊者たちが最後に残した言葉が、暗闇の奥から浮かぶ。
神魔調伏。
悪鬼覆滅。
あれは呪いではなかった。
自分たちを壊したものへの怨嗟だけでもない。
リンデンは、白い個体の最後の腕を思い出した。
構造を失いながら、それでも自分へ伸びてきた腕。
最後に頭を掴み、あの長い記憶を流し込んだ。
攻撃ではなかった。
あれは――託されたのだ。
リンデンはゆっくりと息を吐いた。
胸の内側へ入り込んでいたカツラクの構造が、今はもうはっきり見える。
この剣は、自分から切り離せない。
自分だけが消えて、剣だけを残すこともできない。
剣だけを壊して、自分だけが生き残ることもできない。
どちらか一方を選べる構造ではなかった。
――ならば。
そこで初めて、リンデンはトロイの腕へ意識を戻した。
まだ離れていない。
腰へ回った左腕が体重を受け止め、肩口には彼女の呼吸が触れている。先ほど自分が距離を取ろうとした分だけ、トロイはむしろ強く支えていた。
「……リンデンちゃん」
声が少し低くなっていた。
「さっきから、何か変じゃない?」
茶化すような響きが薄い。
リンデンは答えず、彼女から伸びる未来を見た。
遠くまで続くもの。途中で誰かと交わるもの。
幾つにも分かれ、また重なりながら、暗闇の向こうまで伸びている。
その中に、自分がいるものがどれほどあったのかは分からない。
もう、自分へ繋がる未来を正しく数えることもできなかった。
自分には、この先がない。
それでも。
トロイにはある。
運命にも。
皆にも。
リンデンは顔を上げた。
運命がまだ正面にいる。
差し出された手も、そのままだった。
少し離れた場所には、兄姉たちの輪郭が重なっている。傷つき、疲れ切り、それでも誰一人としてこちらへ背を向けていない。
リーインシアも待っている。
輸送機を手配し、帰還後の治療まで整え、自分が戻ってくることを疑わずに。
そして、その全部に未来がある。
自分がここへ残る限り、カツラクはそれを燃料として見続ける。
今日でなくてもいい。
明日でなくてもいい。
また何かが起きた時。
誰かを守るために力が必要になった時。
この剣はきっと、同じ声で囁く。
《大丈夫です》
《まだ未来は残っています》
リンデンの中で、何かが静かに定まった。
それは熱ではなかった。
怒りでも、絶望でもない。
輪壊者たちが途方もない時間をかけて辿り着いた結論を、自分も同じ場所から見ている。
――この魔剣だけは、あってはならない。
そして今、その魔剣は自分の一部になっていた。
リンデンは足元へ手を伸ばし、カツラクを拾い上げた。
透明な刀身が空気を切る。
「リンデンちゃん」
トロイが再びリンデンを呼ぶ。
リンデンはその声を聞きながら、ほんの僅かに指を止めた。
幼い頃から何度も聞いた声だった。
閉じ込められていた時も。歩き方を模索する時も。
自分が人の形を失いかけた時も。そして一度死んだ時も。
――最後まで、そばにいた。
今もまだ、自分を支えている。
彼女へ向けて伸びる未来の根元には、火が残っている。
ここにいる限り、自分がその火種になる。
リンデンはそっと身体を起こした。
トロイの腕から完全に離れることはできなかったが、それでも自分の足で立つように重心を戻す。
「……リンデンちゃん?」
今度は答えた。
「ありがとうございます、トロイ姉さん」
「え?」
「支えていただいて」
トロイの呼吸が止まる。
リンデンはそれ以上言わなかった。
言えば、何かが崩れる気がした。
ずっと胸の中へ置いたままにしてきたものも、今ここで形を与えてしまえば、この先へ連れていきたくなる。
だから、言わない。
それでいい。
運命の未来がある。
兄姉たちの未来がある。
リーインシアの未来がある。
そして。
トロイの未来がある。
そのどれにも、自分が残る必要はない。
残してはいけないものなら、自分のところで終わらせる。
輪壊者たちは、そのために記憶を残した。
ならば、自分も最後まで引き受ける。
リンデンはカツラクの柄を握り直した。
透明な刃の奥に、家族の未来から零れた僅かな色が残っている。
それを見て、もう迷わなかった。
――今度こそ私が。
――家族を。
そして、どうしても同じ言葉の中へ押し込められなかった一人を、胸の奥で思う。
幼い頃から何度も手を伸ばし、何度も自分を赦して、それでも最後まで何も求めなかった人。
――
救うのだ。
長らくお付き合いありがとうございました。
次回、エピローグです。
エピローグ、めっちゃ長いけど大丈夫ですかね……(2万字超え)
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いいよ!
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ダメだよ!
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分割しよ!