みにくい魔剣の子 《本編完結》   作:えいちゃ

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エピローグです。
あとがきみたいなものが活動報告にあります。






みにくい魔剣の子

 

 

 GARDEN『ランヴィリズマ』第二層――最高中央司令室。

 

 壁面を覆う巨大な硝子の向こうには、澄みきった青空が広がっていた。

 浮遊大陸の遥か下を白い雲海が流れ、その切れ間から遠い山々の白い稜線が覗いている。高天井から斜めに伸びた巨大な梁は窓から差し込む光を幾筋にも断ち、黒い床の上へ長い影を落としていた。

 

 あの日から、何も変わっていない景色だった。

 神域がひとつ消え、数え切れないほどの霊子が散り、ひとりのガーデナーが帰ってこなかった後も、空は変わらず青い。

 人の生死も、世界の存続に触れるような異常事象も、この高度から見える景色へ痕跡を残すことはなく、陽光だけが巨大な硝子を抜けて静かに床を照らしている。

 

 広大なフロアの中央には、誰もいなかった。

 かつて久条運命が正座させられていた場所も、今は黒い床と窓から伸びる光だけが占めている。人の姿がなくなると、この部屋は途端に本来の尺度を取り戻し、床の継ぎ目も、高天井を支える梁も、人間ひとりを容易く呑み込んでしまえるほど遠く見えた。

 

 その最奥。

 窓を背にして設けられた司令官席で、マリアはひとつの端末へ目を落としていた。

 画面を滑る細い指が、同じ記録の上を何度も往復している。

 神域侵入時刻。異常拡張。複数の未確認生命体との交戦。騎士の不老不死機構に対する干渉。輪壊者と名乗った人型個体群。ナンナリスクリーチャー。消失した同期反応。

 そして、久条リンデン。

 

 行を追うごとに記録の密度は増していく。それにもかかわらず、最後の数分間だけは、膨大な情報の中央へ穴を穿ったように説明が足りていなかった。

 

 マリアの傍には、メイズが立っていた。

 桃色の髪へ窓からの光が透け、毛先に淡い輪郭を作っている。普段なら誰かしらへ向けられている柔らかな笑みは今はなく、胸元へ端末を抱える姿勢にも、医療責任者として膨大な記録を扱う時の慎重さが滲んでいた。

 空調の低い駆動音と、端末を操作する指先の僅かな擦過音だけが、広すぎる空間に残っている。

 しばらくして、マリアの指が止まった。

 

「……それで」

 

 澄んだ声が、静かな司令室へ落ちる。

 

「今回の神域から回収出来た記録は、これで全部なの?」

 

「うん。現場に直接残ってたものは、これで全部かな」

 

 メイズは自分の端末を確認しながら、ゆっくりと頷いた。

 

「騎士のみんなに残ってた戦闘ログと、装備側の観測記録。それから、リーインシアちゃんが外部から保存してくれてた通信データ。神域内部の環境ログも一部は残ってるけど、最後の崩壊が始まってからのものは、かなり欠けちゃってるね」

 

 リーインシア。

 その名前が出たところで、マリアの指が止まった。

 ほんの一瞬だった。

 

「……あの子の処分は?」

 

「もう終わってるよ」

 

 メイズの声が少しだけ低くなる。

 マリアは端末から顔を上げず、視線だけを表示された記録の端へ移した。

 

「GARDEN所属オペレーターとして作戦へ参加した後、戦闘中に指揮系統を離脱。皇帝及び騎士団と敵対したリンデンくんへの情報提供、戦況解析、戦闘支援を継続――」

 

 読み上げる声に、感情はほとんど乗らなかった。

 けれど、その先を確認するために画面を送る指は、いつもより僅かに遅い。

 

「本人も事実関係はすべて認めている。弁明もなし、だったわね」

 

「うん」

 

「……本当に、何も言わなかったの?」

 

「自分が何をしたのか分かってるから、処分は受けますって。それだけ」

 

 メイズは小さく息を吐いた。

 

「後悔してるようには、見えなかったけどね」

 

 マリアの眉間へ浅い皺が寄る。

 最終交戦時の通信記録には、リーインシアの声も明瞭に残されていた。

 リンデンが運命たちへ剣を向けた時。

 誰もその意図を理解出来ず、誰もが止めようとしていたその戦場で、ただひとり、彼女だけが反対側へ立った。

 

『私は彼の専属オペレーターです』

 

 通信越しの声に震えはなかった。

 

『運命陛下、あなたが親として彼を守って。トロイさん、あなたが彼を赦してきたなら』

 

 そこまで聞いて、誰かが止めようとしていた。

 けれど、リーインシアは最後まで言った。

 

『私は、最後まで彼を支える役割を、全部貰います』

 

 そして。

 

『――だって、最後まで好きな人の傍に居たいじゃないですか』

 

 マリアは記録を閉じた。

 

「……馬鹿ね」

 

 窓から流れ込む光の中へ、低い声が落ちる。

 

「あの状況でGARDENに敵対すれば、その後どうなるかくらい分かっていたでしょうに」

 

「分かってたと思うよ」

 

 メイズはマリアの横顔を見ながら答えた。

 

「分かってて、それでもリンデンくんを一人にしなかったんじゃないかな」

 

「だから馬鹿だって言ってるのよ」

 

 語尾だけが、僅かに強くなる。

 マリアは腕を組み、しばらく黙ってから続けた。

 

「事情が何であろうと、敵対行為を見逃すことは出来ないわ。皇帝と複数の騎士を相手に、明確な意思を持って敵側へ情報支援を行った。

 本人の感情を酌量したところで、起きた事実まで消えるわけじゃないもの」

 

「うん。それで?」

 

「終身収監か、GARDENからの永久追放。本人に選ばせたわ」

 

 メイズの瞳が僅かに揺れる。

 

「……リーインシアちゃん、どっちにしたの?」

 

「追放」

 

 答えは短かった。

 

「GARDENへの所属資格を永久剥奪、帰還も原則禁止。地上――魔界への終身流刑よ」

 

 メイズはしばらく黙ったまま、手元の端末へ視線を落とした。

 

「降りる場所は?」

 

「選ばせたわ」

 

 今度はメイズが顔を上げた。

 マリアは窓の外を見ようともせず、淡々と記録を送る。

 

「刑の執行地点にまでこっちが拘る必要はないでしょう。魔界内で安全基準を満たし、GARDENの管轄施設に干渉しない場所なら、どこでもいいって伝えたの」

 

「それで、どこに?」

 

 マリアの指が僅かに止まった。

 

「……旧神域跡地」

 

 それだけで、メイズには通じた。

 

「リンデンくんが残ってるところなんだ」

 

「正確には、折れた魔剣が確認された座標よ」

 

「うん」

 

 メイズの口元へ、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。

 

「何よ」

 

「何でもないよ」

 

「その顔で何でもないわけないでしょう」

 

「リーインシアちゃんらしいなーって思っただけ」

 

「……まったく」

 

 マリアは露骨に顔をしかめた。

 

「最後まで彼の傍にいるって言った手前、律儀に守ってるだけでしょう」

 

「そうかもね」

 

 メイズの笑みは、それ以上深くならなかった。

 GARDENを失い、これまで持っていた地位も、設備も、生活も捨てて、それでも彼女が選んだ場所には、もう会話を交わせるリンデンはいない。

 そこにあるのは、戦いの最後に砕け、地上へ残された一本の魔剣だけだった。

 それでも、リーインシアはそこを選んだ。

 マリアは端末へ視線を戻す。

 

「……この件はこれで終わり。追放後の監視も最低限でいいわ」

 

「分かった」

 

「刑を軽くしたわけじゃないからね」

 

「何も言ってないよ?」

 

「顔に書いてあるのよ」

 

 メイズは小さく肩を竦めた。

 それ以上、二人ともリーインシアについて話さなかった。

 マリアの指が再び動き、報告書は本来の項目へ戻っていく。

 

「それで。神域側の記録が“かなり欠けている”っていうのは?」

 

「うん。単純な通信障害じゃないみたい」

 

 メイズが指先を払うと、二人の間へ半透明のウィンドウが展開された。

 規則正しく並んでいた波形は、ある時刻を境に大きく乱れている。観測値が跳ね上がり、複数の測定項目が同時に飽和した直後、まるでそこから先だけ紙ごと切り取られたように記録が途絶えていた。

 

「最後に戦ってた白い個体が崩壊した後、神域そのものの霊子密度が急速に落ちてる。輪壊者の残留反応も、ナンナリスクリーチャーの活動痕跡も、その後は一度も拾えてないよ」

 

「再発の兆候は?」

 

「今のところはないかな。周辺域も継続して監視してるけど、同種の反応は出てないもの」

 

 メイズはそこで一度言葉を切り、表示されていた波形を別のページへ送った。

 

「神域そのものも、今はほとんど形を保ってないよ。あそこにあった構造が消えたっていうより……支える理由を失って、そのままほどけたみたいな感じ」

 

「輪壊者が消えたから?」

 

「それもあると思う。でも、たぶんそれだけじゃないかな」

 

 マリアが目を細める。

 

「カツラクは?」

 

「反応なし」

 

「所在も?」

 

「追えてないよ。少なくとも、一本の独立した魔剣として確認出来る反応は残ってない」

 

 メイズの答えを聞いても、マリアはすぐに次の問いを口にしなかった。

 端末へ落としていた視線が、一行だけ下へ移る。

 

「……リンデンは」

 

 ほんの僅かに間を置いてから、そう続けた。

 

「どうなの?」

 

 今度はメイズも、すぐには答えなかった。

 医療責任者として何度も確認した結果を、それでももう一度頭の中で確かめるように、端末を胸元へ寄せる。

 

「本人として追える霊子反応は、残ってないよ」

 

 声は柔らかかった。

 断定を濁したわけではない。ただ、その事実を必要以上に鋭い形へしないように、いつもの声で置いただけだった。

 

「現場に残ったものも調べたけど、少なくとも私たちが知ってる『久条リンデン』の生命活動や霊子結晶体としての反応とは一致しなかった」

 

「……そう」

 

 マリアは短く返し、再び報告書を送った。

 画面には、神域へ入ってからの経過が時系列で並んでいる。

 遭遇。救出失敗。リンデンの異形化。不死性喪失。輪壊者の顕現。戦線分断。リンデンの再出現。そして、輪壊者との最終交戦。

 そこまでの行動には、一貫性があった。

 

 運命たちを助け、騎士たちの不死性を取り戻し、敵を滅ぼす。少なくとも記録上、リンデンの行動は終始その目的へ向かっている。

 だからこそ、マリアの指が最後の項目で止まった。

 

「……やっぱり、ここだけがおかしいわ」

 

「うん」

 

 メイズも同じ箇所を見ていた。

 

「ママも、ずっとそこが引っかかってる」

 

 マリアは背もたれから身体を起こし、画面を見つめたまま指を組んだ。

 

「輪壊者は倒した。奪われていた力も戻って、騎士たちの不老不死も回復した。負傷者は多いけれど、撤退可能な状態まで戦線は持ち直していた」

 

「そうだね」

 

「救出対象だったリンデン自身も、その時点では意思疎通が出来ている」

 

「出来てたよ。トロイちゃんも運命くんも、直前まで普通に会話してる」

 

「だったら――」

 

 マリアの瞳が端末の一行へ止まる。

 

「どうして、その直後に運命たちへ剣を向けたの?」

 

 窓の外を流れていた雲が、ゆっくりと梁の向こうへ隠れていった。

 メイズは数秒黙ったあと、小さく息を吐く。

 

「……それは、まだ分からない」

 

「輪壊者の残留干渉は?」

 

「検出されてないよ」

 

「精神汚染」

 

「なし」

 

「魔剣による意識の乗っ取りは?」

 

「少なくとも、確認出来る範囲では違うと思う」

 

 メイズは別のウィンドウを開き、幾つかの数値を並べた。

 

「脳波も、霊子活動も、行動ログも、全部リンデンくん本人のものだった。意識が混濁してた形跡もないし、最後に運命くんたちへ向き直る直前まで、自分が何をしてるのかちゃんと理解してたと思う」

 

「……本人の意思だった、ということ?」

 

「たぶんね」

 

 マリアの眉間へ、僅かな皺が寄った。

 

「それなら余計に分からないじゃない」

 

「うん。だから、まだ何か見落としてるんだと思う」

 

 マリアは腕を組み、背後の青空へ一度だけ視線を向けた。そこから見える景色には、今回消滅した神域の痕跡など何ひとつない。

 

「あなたから見て、リンデンの身体に異常はなかったの?」

 

「異常だらけだったよ」

 

 返答は意外なほど早かった。

 マリアが視線を戻すと、メイズは困ったように少しだけ眉を下げた。

 

「目のことだけじゃないの。あの子、一度死んでから戻ってきてるでしょ?」

 

「ええ」

 

「戻ってきた直後の生体データを見た時から、ちょっと変だったんだよね。身体そのものはちゃんと生きてるし、霊子も循環してる」

 

 メイズの指が画面上に人体を模したモデルを呼び出した。

 

「だけど、一部だけどうしても説明出来ないところがあったの」

 

「説明出来ない?」

 

「うん。リンデンくんだけで閉じてないの」

 

 マリアの視線が僅かに鋭くなる。

 

「……カツラク?」

 

「たぶん」

 

 メイズは即答しなかった。

 

「まだ断定出来ないよ。ただ、カツラクを持って戻ってきた後のリンデンくんは、あの魔剣と完全に無関係な身体として扱うには、繋がりが深すぎた」

 

「寄生されていた?」

 

「ううん、もっと曖昧」

 

 メイズは首を横へ振った。

 

「寄生なら、どっちが宿主でどっちが外から来たものか分けられるでしょ? あれは……途中から境目が見つけにくくなってた感じかな」

 

 そこまで言って、彼女は小さく息を吐いた。

 

「だからママ、リンデンくんが戻ってきたらちゃんと調べようと思ってたんだけどね」

 

 言葉の最後だけが、ほんの僅かに低くなる。

 マリアは何も返さなかった。

 机の上へ落ちる光が少しずつ移動し、端末の縁を白く照らしている。

 

「……その可能性については、報告書へ入れておいて」

 

「うん」

 

「推測であることは明記して。それから、カツラクとリンデンの相互作用に関するデータは、全部保存する」

 

「廃棄しなくていいの?」

 

「どうして廃棄する必要があるのよ」

 

 マリアの声に、僅かな苛立ちが混じった。

 

「分からないから調べるんでしょう。原因不明のまま処理したら、また同じことが起きた時に誰も止められないじゃない」

 

「ふふ」

 

 メイズの口元に、少しだけ笑みが戻る。

 マリアが横目を向けた。

 

「……何よ」

 

「別に?」

 

「その顔、何か言いたいことがある顔でしょう」

 

「マリアちゃん、昔からそういうところ変わらないなーって思っただけ」

 

「意味が分からないわ」

 

「じゃあ、そのままでいいよ」

 

 メイズは楽しそうに笑ってから、すぐに端末へ視線を戻した。

 マリアはしばらく彼女を睨んでいたが、それ以上追及することはなく、報告書の続きを表示する。

 その最下部には、戦闘終了直前に記録された通信が一件だけ残っていた。

 

 送信者――久条リンデン。

 宛先――GARDENランヴィリズマ。

 

 戦闘ログ、神域内観測情報、輪壊者に関する断片データ、魔剣に関連すると推測される未分類情報。その総量は通常の任務報告とは比較にならず、リンデンが戦場で拾い続けた情報のほとんどを、そのまま押し込んだような記録になっていた。

 

「……これね」

 

「うん」

 

「解析は?」

 

「まだ途中。モノちゃんたちにも一部を手伝ってもらってるけど、リンデンくん独自の形式で保存されてる情報も結構あるみたい」

 

「最後に残したものまで面倒なのね、あの子は」

 

 そう言いながらも、マリアはデータを閉じなかった。

 

「原本は?」

 

「保全済みだよ」

 

「複製も作って」

 

「運命くんにも?」

 

 そこで、マリアの指がほんの僅かに止まった。

 メイズは何も言わず、その横顔を見ている。

 

「……当然でしょう」

 

 マリアは端末から目を離さないまま答えた。

 

「あの子を連れて帰れなかったのは運命なんだから。最後に何を残したのかくらい、本人が確認する権利はあるわ」

 

「そっか」

 

「何よ」

 

「何でもないよ」

 

 メイズはまた少し笑った。

 マリアは不機嫌そうに眉を寄せたまま、リンデンが残したデータの一覧へ視線を落とす。

 

 そこにはまだ、誰にも読み解かれていない記録が残っていた。

 なぜ輪壊者は生まれたのか。カツラクとは何だったのか。そして、なぜ久条リンデンは、すべてが終わった後でもう一度、家族へ剣を向けたのか。

 その答えだけが、広大な司令室へ差し込む光の中で、未処理のまま残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最初に足を止めさせたのは、香りだった。

 第二層と第三層を繋ぐ連絡区画、その途中に設けられた共有ラウンジには、昼を少し過ぎた時間の緩い静けさが残っていた。大きな窓から差し込む光が床を横切り、壁際の簡素なテーブルには、休憩を終えた誰かが置いていった空のカップがひとつだけ残されている。

 その奥から、深く焙煎された豆の香りが流れてきた。

 

「……」

 

 濡羽は二歩ほど通り過ぎてから、戻った。

 肩に掛けていた資料ケースを抱え直し、ラウンジの入口から中を覗く。

 簡易カウンターの向こうに、白銀の短髪が見えた。

 黒い眼帯。シャツの袖を肘まで捲り、湯の落ちる速度を確かめながらドリッパーへ視線を落としている。

 スリー=スターズだった。

 

「……何してるんですか」

 

「見ての通りだが」

 

 顔を上げないまま、スリーが答える。

 

「コーヒーを淹れている」

 

「それは見れば分かりますよ」

 

「なら、質問への回答は成立しているな」

 

「そういう話じゃないです」

 

 濡羽の眉が寄る。

 スリーはそこでようやく顔を上げ、入口に立つ彼女を見た。

 

「珍しい客だな。第六起源魔術教会のFORTRESSが、この時間にビジネスDIVの休憩スペースへ何の用だ?」

 

「ここ共有ラウンジでしょう。いつからオッター貿易の領地になったんですか」

 

「当社としては買収の予定はない。立地は悪くないが、収益化のスキームが弱い」

 

「本気で検討しないでください」

 

 言いながらも、濡羽は中へ入った。

 カウンターの傍らには、豆の袋が二つ、計量器と細い注ぎ口のケトル、それから見慣れない小型端末が置かれている。薄い表示板には湯温や抽出量らしい数字が並び、数秒ごとに細かな値が更新されていた。

 濡羽の視線が止まった。

 

「……それ」

 

「ん?」

 

「その温度管理ユニット、新型じゃないですか」

 

 声の調子が一段変わった。

 スリーは端末を一瞥してから、僅かに口元を緩める。

 

「よく分かったな。先週入ったばかりだ」

 

「先週?」

 

 濡羽はいつの間にかカウンターの前まで来ていた。

 

「自動補正入ってます? 蒸らしの時だけ出力変えてるように見えるんですけど。というか、このサイズで霊子熱源まで統合してるんですか?」

 

「さっきまでコーヒーに興味がある顔ではなかったと思うが」

 

「コーヒーじゃなくて機械を見てるんです」

 

「なるほど。分かりやすい」

 

「何ですか、その納得した顔」

 

 濡羽は表示板へ顔を寄せた。

 指を伸ばしかける。

 

「触るなよ」

 

 ぴたりと止まった。

 

「……まだ触ってません」

 

「触ろうとはした」

 

「確認しようとしただけです」

 

「その理屈は、商品棚の前で財布を出している客が『買うとは言っていない』と言っているのと同じだ」

 

「人を何だと思ってるんですか!」

 

「最新機器を見つけると判断力が若干落ちるクライアント」

 

「訴えますよ!」

 

 ラウンジへ声が響いた。

 少し遅れて、湯の落ちる細い音が戻ってくる。

 スリーは何事もなかったように抽出を終えると、出来上がったコーヒーを一度香りで確かめた。もう一つカップを取り出し、別の豆へ手を伸ばす。

 

「飲むか?」

 

「……え」

 

「ちょうど次を淹れるところだ」

 

「別に、そこまで飲みたいわけじゃ――」

 

「なら一杯分減らす」

 

「いただきます」

 

 返事だけは早かった。

 スリーが一瞬だけ目を細める。

 

契約成立(ザッツオール)だ」

 

「コーヒー一杯で契約扱いしないでください」

 

「対価は取らない。試供品だと思えばいい」

 

「会社員って何でもそういう言い方するんですね……」

 

 濡羽は近くの椅子を引き、資料ケースを隣へ置いた。

 スリーは豆を量り直しながら尋ねる。

 

「砂糖は?」

 

「少し多めで」

 

「ミルクは?」

 

「入れます」

 

「了解した」

 

「……何ですか」

 

「いや」

 

 湯を細く注ぎながら、スリーは淡々と続けた。

 

「魔術師はブラックを飲みそうだという、勝手なイメージを修正していた」

 

「どこの偏見ですか、それ」

 

「オレの中だ」

 

「素直ですね」

 

「誤ったデータは訂正する。ビジネスの基本だ」

 

 数分後、濡羽の前へカップが置かれた。

 湯気の向こうから、先ほどより少し軽い香りが立つ。

 濡羽は一口飲み、何も言わずにもう一度飲んだ。

 スリーは向かい側で自分のカップを持ち上げる。

 

「どうだ?」

 

「……美味しいです」

 

「そうか」

 

「なんでそこでちょっと得意げなんですか」

 

「褒められたからな」

 

「否定しないんですね」

 

 濡羽はカップを両手で持ち、もう一度口をつけた。

 窓の向こうでは、浮遊大陸の下を雲がゆっくりと流れている。廊下を行き交う人影も、遠くから聞こえる搬送機の駆動音も、特別な意味を持たないまま昼の時間へ混ざっていた。

 

「ところで」

 

 濡羽がふと思い出したように顔を上げる。

 

「そのユニット、どこで買ったんですか?」

 

 スリーはカップを置いた。

 

「企業秘密だ」

 

「は?」

 

「冗談だ。型番を送っておく」

 

「最初からそうしてください!」

 

「ただし――」

 

「まだ何かあるんですか」

 

「第六起源魔術教会で分解して、元に戻らなくなったというクレームは受け付けない」

 

「しませんよ!」

 

 一拍置いて。

 

「……たぶん」

 

「今の発言は記録しておこう」

 

「消してください!」

 

 昼下がりのラウンジに、また濡羽の声が響いた。

 スリーは苦笑ながら端末を操作し、約束した型番を彼女へ送る。

 カウンターの上では、次の一杯のための湯が静かに沸き始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 乾いた剣戟の音が、訓練区画の天井へ軽く跳ね返った。

 午後の演習場には幾つかの簡易標的が展開され、利用者の少ない区画では、自律式の訓練機が壁際で次の起動を待っている。防護フィールド越しに差し込む白い照明の下で、ブルーは聖弓をゆっくりと下ろした。

 

 左右の肩を回し、指を開いてから、もう一度柄を握る。

 引っかかりはない。

 右も左も、思った通りに動く。

 

「……うん」

 

 小さく頷いて、ブルーは刃を収めた。

 戦闘訓練というほど大袈裟なものではない。ただ身体の具合を確かめるため、久しぶりに基礎の型を何度か通していただけだった。

 そんな彼女の背後から。

 

「ブルーさん!」

 

「ほわぁっ!?」

 

 聞き慣れた声に、ブルーの肩が大きく跳ねた。

 勢いよく振り返ると、演習場の入口から久理が駆けてくる。普段と変わらない足取りだったが、その目だけは妙に輝いていた。

 

「く、久理さん……? どうしたの?」

 

「聞きたいことがあって!」

 

「わ、私に?」

 

「うん!」

 

 あまりにも迷いのない即答に、ブルーが僅かに身を引く。

 久理はその前まで来ると、一度大きく息を吸った。そして両腕を広げ、片方の手を胸元へ添える。

 ブルーには見覚えのある構えだった。

 嫌な予感がした。

 

「――“蒼が光陰を――”」

 

「わぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 演習場にブルーの声が響いた。

 久理が目を丸くする。

 

「えっ」

 

「わー! わー! わー! 言わなくていい! そこから先は言わなくていいから!」

 

「でも!」

 

「でもじゃないよ!」

 

 ブルーは両手をぶんぶん振った。

 頬から耳まで、見る間に赤くなっている。

 久理は少し困ったように瞬きをしたものの、やがて何かを思い出したように胸元から端末を取り出した。

 

「じゃあ言わないから、教えて!」

 

「何を!?」

 

「あの詠唱!」

 

「詠唱じゃないよ!」

 

 即答だった。

 久理の顔に驚きが浮かぶ。

 

「違うの!?」

 

「違うよ! あれは、その……昔の癖というか……戦ってるとちょっと気分が昂るというか……気がついたら口から出ちゃってるだけで……」

 

「即興なの!?」

 

「そこ食いつくところ!?」

 

 むしろ久理の目は先ほどより輝いていた。

 

「すごい……! その場の戦況と自分の心象を即座に言語化して、必殺技の口上に昇華してるってことでしょ!?」

 

「そんな格好いいものじゃないってぇ……!」

 

「冥王として是非参考にしたい!」

 

「参考にしないで!」

 

 ブルーの声が情けなく裏返る。

 しかし久理は完全に本気だった。

 端末を両手で持ちながら、何やら記録し始める。

 

「『蒼』はブルーさん自身として……『光陰』は時間? それとも斬撃の速度を光に喩えてるのかな。『別つ』っていうのもいいよね……ただ斬るんじゃなくて、世界そのものを二つに――」

 

「分析しないでぇ!」

 

 ブルーが頭を抱えた、その時だった。

 

「――詠唱については門外漢ですが」

 

 二人の横から、落ち着いた声が差し込んだ。

 ブルーの動きが止まる。

 少し離れた演習区画で刀の手入れをしていた斬が、いつの間にかこちらへ歩いてきていた。

 

「斬さん……?」

 

「先日の戦闘ログなら、オレも拝見しましたよ」

 

 ブルーの顔から血の気が引く。

 

「え」

 

「特に有翼個体との最後の二合。あれは非常に興味深かったですね」

 

「ま、待って」

 

 斬は気づかない。

 彼の顔には、剣士が優れた技術を見つけた時の純粋な興味しかなかった。

 

「右肩を切断された時点で通常なら体幹が大きく流れるところを、あえて崩れた重心をそのまま次の動作へ繋げていたでしょう。投げた黒刃で相手の意識を一瞬外へ向け、その間に――」

 

「わー! わー! わー!」

 

 ブルーが両耳を塞いだ。

 

「聞こえない! 私なんにも聞こえないから!」

 

「……ブルーさん?」

 

「斬さんも言わなくていいからぁ!」

 

「何故です?」

 

 本気で分かっていない顔だった。

 

「何故って……!」

 

「いえ、オレとしては純粋に参考にしたいのですが。あの状態から頸部まで斬線を通す判断は見事でしたし、刀でも応用可能かと」

 

「ほら斬さんも言ってる!」

 

「久理さんは喜ばないで!」

 

 久理が端末へ何かを書き足す。

 

「剣鬼にも評価される黒騎士……!」

 

「変な肩書きを合体させな――あれ、ちょっといいかも」

 

「それに」

 

 斬が腕を組んだ。

 

「最後の口上も良かったですね」

 

 ブルーが固まった。

 

「……え」

 

「技を放つ呼吸と完全に一致していました。掛け声というものは案外馬鹿に出来ません。呼吸を整え、動作のリズムを――」

 

「わーーーーー!!」

 

 今度こそブルーの声が演習場いっぱいに反響した。

 久理がぱっと笑う。

 

「斬さん! やっぱりあれ格好いいよね!」

 

「ええ。オレには少々真似出来ない趣向ですが、ブルーさんらしいかと」

 

「やめてぇ……!」

 

 ブルーはその場へしゃがみ込み、両手で顔を覆った。

 少し前まで聖弓を自在に操っていた騎士と同一人物とは思えないほど、背中が小さく丸まっている。

 

「……あれ、ブルーさん?」

 

 ようやく久理が首を傾げた。

 

「もしかして、恥ずかしいの?」

 

 指の隙間から、ブルーの目が覗く。

 

「今気づいたの……?」

 

「だって格好よかったから」

 

「……」

 

「本当に」

 

 悪意の欠片もない。

 ブルーはしばらく久理を見つめ、それからますます深く顔を伏せた。

 

「それが一番恥ずかしいんだよぉ……」

 

 情けない声が床へ沈む。

 斬はその横で少し考え込んだあと、納得したように頷いた。

 

「なるほど。本人としては触れてほしくない話だったのですね」

 

「そう! そうだよ斬さん!」

 

「失礼しました」

 

「分かってくれた……!」

 

「では技術面だけ後日聞かせてもらいます」

 

「分かってない!」

 

 久理が吹き出した。

 それにつられて斬も小さく笑い、ブルーだけがしゃがみ込んだまま「もうやだぁ……」と呻いている。

 しばらくして、久理はブルーの隣へ同じようにしゃがみ込んだ。

 

「ねえブルーさん」

 

「……なに」

 

「詠唱は?」

 

「教えない」

 

「一個だけ!」

 

「教えない!」

 

「冥王クウリアンセム、一生のお願い!」

 

「前にも使ってない!?」

 

「じゃあ二生目!」

 

「あるの!?」

 

 再びブルーの声が響いた。

 利用者の少ない午後の演習場には、それを咎める者もいない。斬は笑いながら自分の刀を取りに戻り、久理はなおも「一節だけ」と食い下がっている。

 ブルーは最後まで首を横に振り続けていた。

 もっとも、その顔にはもう、先ほどまでの困り果てた色ばかりが残っていたわけでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 騎士待機所には、端末の駆動音が絶え間なく流れていた。

 運命の私室と壁一枚を隔てたその部屋は、本来なら任務前後の騎士が腰を落ち着け、簡単な打ち合わせや装備確認を行うための場所だった。壁際にはソファと低いテーブルが並び、奥には共同利用の大型端末が数台設置されている。

 

 今は、そのうち三台が占拠されていた。

 空中へ展開された複数のウィンドウが、淡い光を室内へ落としている。文字列、数式、識別不能な記号群、その隙間を埋めるように走る暗号化されたデータ列が、ほとんど休みなく更新されていた。

 

「ぬぅぅぅぅぅ……!」

 

 その中央で、プロブレムが唸った。

 ローテーブルへ身を乗り出し、頬杖をついたまま表示された文字列を睨んでいる。普段なら忙しなく動いている指も今は止まり、橙色の瞳だけが画面の端から端までを何度も往復していた。

 

「こーれーはー……難題! 超難題! 大天才のプロブレムちゃんをもってしても、なかなか解けない激ムズ問題なのであるっ!」

 

「うっさい、バカブレム」

 

 隣から間髪入れずに声が飛んだ。

 モノは振り返りもしない。

 肩掛けの《氷冥桜》を椅子の脇へ立て掛け、膝上端末と正面モニターを同時に操作している。複数の解析プログラムを走らせながら、片方で復号した情報を分類し、もう片方ではそこから派生したデータを再度別形式へ掛けていた。

 

「気が散る。喋ってる暇があるなら手を動かして」

 

「動かしてるってばー! ほら!」

 

 プロブレムが勢いよく画面を切り替えた。

 

「ここ! 第一層を抜いたと思ったら第二層が丸々ダミーで、その中に本命っぽい鍵があるじゃん? で、やったー突破ー♪って思ったら、鍵そのものが次の暗号文になってて、しかも参照先が別ファイルに飛んでる!」

 

「知ってる」

 

「参照先を追ったらファイル名が暗号!」

 

「知ってる」

 

「そのファイル開いたら、中身が空!」

 

「それも知ってる」

 

「じゃあ何でこんな性格悪いのぉ!?」

 

 プロブレムが机へ突っ伏した。

 長い髪が端末の上へ広がる。

 

「天才に対する挑戦状だよこれ! 絶対途中から楽しんで作ってるって! 『ここまで来られましたか? では次です』みたいな顔してるもん!」

 

「データに顔はないでしょ」

 

「あるの! 天才には見えるの!」

 

「なら、その顔に答えでも聞いたら?」

 

「モノが冷たいっ!」

 

「いつも通りよ」

 

 モノの手は止まらない。

 ひとつの暗号層が外れ、意味を持たなかった文字列が通常のデータ形式へ組み替わる。彼女は内容を一瞥すると、必要な部分だけを別領域へ移し、次のファイルを開いた。

 その時、待機所の扉が開いた。

 

『何してるの?』

 

 黒いフードが覗いた。

 

 運命だった。

 

「あっ、運命くん!」

 

 プロブレムが即座に身体を起こす。

 

『お疲れさま、二人とも』

 

「おつおつー♪ 見て見て運命くん! プロブレムちゃん、大絶賛超絶頭脳労働中!」

 

 先ほどまで机へ突っ伏していた姿勢はどこへ行ったのか、胸を張って自分を指差す。

 

「世界最高峰の天才二人を足止めする、とんでもない難題と格闘してるところっ!」

 

「勝手に私を巻き込まないで」

 

「えー? モノも解けてないじゃん」

 

「進捗七割」

 

「うそぉ!?」

 

 プロブレムがモノの画面を覗き込む。

 

「いつの間にそんな進んだの!?」

 

「あなたが一人で騒いでる間」

 

「卑怯!」

 

「何が?」

 

『ふふ』

 

 運命の仮面に、青い笑顔の表示が浮かんだ。

 そのまま二人の後ろへ回り、並んだ画面を覗き込む。

 

『かなり複雑なんだね』

 

「かなりどころじゃないよー!」

 

 プロブレムは待ってましたとばかりに画面を指差した。

 

「普通の暗号化ならアルゴリズム当てれば終わりなのに、これ途中で方式変わるんだよ? しかも変更条件がファイルごとに違うし、復号したデータの一部が次の鍵になってたり、逆に復号しちゃうと消えるダミー領域まであるし!」

 

「チェックサムにも偽装が入ってる」

 

 モノが補足する。

 

「パケットを通常順に再構築すると意味のないデータになるように並べ替えられてる。タイムスタンプも改竄済み。複数のファイルを同時に比較して、共通する誤差だけ抜かないと元の順番には戻らない」

 

『……すごいね』

 

「でしょー!? プロブレムちゃんもそう思う!」

 

「あなたが褒められたわけじゃない」

 

「分かってるってばぁ!」

 

 運命は少しだけ首を傾けた。

 

『でも、リンデンってこんなことまで出来たんだ』

 

 プロブレムの動きが一瞬だけ止まる。

 モノは画面から目を離さなかった。

 

「出来るわよ」

 

 答えは簡潔だった。

 

「出来るようにしたもの」

 

『モノが?』

 

「そう」

 

 モノはひとつのファイルを閉じ、解析済み領域へ移動させた。

 

「データの暗号化。通信経路を監視された時の秘匿処理。解析妨害用の偽装ログ。情報を分割して別々の記憶領域へ保存する方法。破損したデータから必要な情報だけを復元する手順」

 

 次の画面が開く。

 

「敵に端末を奪われた時の自動消去。逆に、消去されたように見せて深層へ情報を残す方法。通信を切断された状態での時系列同期。データ容量を抑えながら戦闘ログを保存する圧縮形式。暗号鍵を直接残さず、本人の行動履歴を鍵へ変換するやり方」

 

 プロブレムが顔を上げる。

 

「……そこまで教えてたの?」

 

「まだあるけど」

 

「まだあるの!?」

 

「当たり前でしょ」

 

 モノの指がまた動いた。

 

「単独行動が多かったんだから、何かあった時に情報を持ち帰れなきゃ意味がない。本人が戻れなくても、記録だけは残せるようにしておく必要があった」

 

 そこで初めて、モノの指が僅かに止まった。

 すぐにまた動き出す。

 

「……まあ」

 

 画面へ視線を置いたまま、付け足す。

 

「ここまで悪趣味な組み方をしろとは教えてないけど」

 

「ほらぁ! やっぱ性格悪いじゃーん!」

 

「うるさい」

 

『でも、ちゃんとモノの教えたことを使ってたんだね』

 

「そうね」

 

 それだけだった。

 モノの声は普段と変わらない。

 けれど次に開いた暗号層を前にした時、その口元がほんの僅かに緩んだ。

 

「変なところだけ律儀なんだから」

 

 プロブレムが何か言おうとして、やめた。

 代わりに自分の端末へ戻り、また暗号列と睨み合いを始める。

 

「ああ、そうだ」

 

 モノが手を伸ばし、傍らに置いてあった小型端末を取った。

 

「陛下。これ」

 

 差し出された端末を、運命が受け取る。

 

『これは?』

 

「解析が終わった分」

 

 モノは自分の画面を示した。

 

「戦闘ログ、神域内部の環境記録、輪壊者の構造情報。あと、魔剣に関するデータの一部。重複と明らかなダミーは除外してある」

 

『もうこんなに?』

 

「まだ全体の七割程度よ」

 

「七割“も”だよ!」

 

 プロブレムが横から割り込む。

 

「この難題を七割解いて『まだ』って言うの、天才界隈でも結構イヤなタイプだからね!?」

 

「あなたも天才を名乗るなら残り三割を手伝いなさい」

 

「もちろんやるけどぉ!」

 

 運命は端末を両手で持ち直した。

 画面には整理されたファイルが幾つも並んでいる。

 

『ありがとう、モノ。プロブレムも』

 

「どーいたしましてー♪ この天才にまっかせなさーいっ!」

 

「私は礼を言われるほどのことはしてないわ」

 

『でも、ずっとやってくれてるんでしょ?』

 

「仕事だから」

 

『今日も?』

 

「ええ」

 

 運命は少しだけ黙った。

 壁面の時計へ顔を向ける。

 すでに夕刻へ差しかかっていた。

 

『まだ続けるの?』

 

「当然」

 

 返事までに間はなかった。

 モノは新しい解析領域を開く。

 

『でも、無理しなくても――』

 

「してない」

 

 ぴしゃりと切る。

 

「この程度で無理とか言わないで」

 

 そして、ほんの少しだけ身体を椅子へ深く預けた。

 

「データ機密保持の暗号形成。情報の秘匿方法。暗号鍵の分散。偽装パケットの生成。通信傍受への対策。ログの改竄検知。データの自己修復。非常時の記録退避。敵性環境での情報保全」

 

 ひとつずつ、指先で画面を送る。

 

「全部、私が教えた」

 

 運命は何も言わなかった。

 モノの横顔を見る。

 

「リンデンが小さい頃から、何度もね」

 

 声に甘さはなかった。

 自慢する調子でもない。

 ただ、自分の仕事について説明する時と同じように、当然の事実として置いている。

 

「あの子が外へ出るようになってからは、もっと増やした。捕まった時。端末を失った時。通信が繋がらない時。自分で判断しなきゃいけない時。何があっても必要な情報だけは残せるように」

 

 モノはそこで一度、運命を見た。

 

「なら」

 

 淡い瞳が、すぐに画面へ戻る。

 

「それを解読するのも、私」

 

 室内へ、端末の駆動音が戻った。

 プロブレムは隣で頬杖をついたままモノを見ていたが、やがてにしし、と小さく笑う。

 

「モノ、なんだかんだお姉ちゃんしてるぅ」

 

「……は?」

 

「痛っ!」

 

 投げられたスタイラスが、プロブレムの額へ綺麗に当たった。

 

「暴力反対ー!」

 

「誰がお姉ちゃんよ」

 

「いやいやいや! 今の話どう聞いてもそれじゃーん!」

 

「仕事だって言ってるでしょ!」

 

『ふふ』

 

「あなたまで笑わないで!」

 

『ごめん。でも、ちょっと嬉しくて』

 

「何が」

 

『リンデン、色んな人に教えてもらってたんだなって』

 

 モノは僅かに眉を寄せた。

 すぐに顔を背ける。

 

「……当然でしょ」

 

 画面の向こうで、また一つ暗号層が解けた。

 

「一人で勝手に育ったみたいな顔されても困るもの」

 

 プロブレムがもう一度笑いそうになり、今度は飛んでくるものを警戒して口を両手で塞ぐ。

 運命の仮面には、青い笑顔が浮かんだままだった。

 

『じゃあ、先にこれを読んでくるね』

 

「そうして。分からない部分があったら印をつけておいて。あとで説明する」

 

『うん。ありがとう』

 

「はいはい」

 

 運命が扉へ向かう。

 部屋を出る直前、振り返った。

 

『二人とも、ちゃんと休んでね』

 

「はーい、運命くーん♪」

 

「分かってるわ」

 

 扉が閉じる。

 数秒後。

 

「よーし! じゃあ大天才プロブレムちゃん、残り三割もバリバリ解いちゃいますかー!」

 

「さっき難題って騒いでたのは誰よ」

 

「それはそれ! これはこれ!」

 

「意味分かんない」

 

「にひひー♪」

 

 モノは呆れたように息を吐き、もう一度画面へ指を滑らせた。

 プロブレムも隣で新しい解析窓を開く。

 騎士待機所には再び、二人分の端末が刻む小さな駆動音と、時折混じるプロブレムの独り言だけが流れ始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本が一冊、白い空を滑っていった。

 頁を開いたまま浮かび上がったそれは、ゆっくりと回転しながら高い位置へ昇り、そこに漂っていた本棚の一角へ吸い込まれるように収まった。

 その隣では、また別の本が開く。

 文字が浮かぶ。図形へ変わる。頁そのものがほどけ、無数の記号となって空間へ広がった。

 どこまで続いているのか分からない白の中に、大小さまざまな本棚が浮かんでいる。足元にも床はあるはずだったが、少し遠くへ視線を送れば、その境界さえ淡い光へ溶けていた。

 

 運命の精神、その奥。

 知識の本屋。

 普段なら整然としているはずの場所は、今だけ随分と散らかっていた。

 開いた本が床へ積まれ、別の本がその上へ横向きに乗り、さらにそこから薄い紙片の束が突き出している。空中には十数冊が開かれたまま静止し、その周囲を細かな文字列が輪のように回っていた。

 

 その中心で、リリィは一冊の分厚い本を抱えていた。

 白銀の長い髪が床近くまで流れ、黒いベレー帽から覗く青緑の飾りが、頁をめくる度に小さく揺れる。

 

「……にしても我が読者よ」

 

 リリィは本から顔を上げなかった。

 

「とんでもないものを持ち込んでくれたな」

 

『ごめん』

 

「別に謝れとは言っていないぞ。むしろ読む価値だけなら、ここ最近で一番だ」

 

 頁が一枚めくられる。

 

「問題は、読み終わった後に気分が良くなる類の本じゃないことだな」

 

 運命は彼女の向かいへ腰を下ろした。

 現実では、自室の机にモノから受け取った端末が置かれている。その中身を意識へ取り込み、リリィの本屋で再構築した結果が、今周囲を埋め尽くしている本の山だった。

 

『どこまで分かった?』

 

「かなり」

 

 リリィは本を閉じた。

 ぱたん、と乾いた音が白い空間へ広がる。

 

「ただし、確定と推測は分けるぞ。キミはこういう時、分かった気になった瞬間に飛び出すからな」

 

『今日は飛び出さないよ』

 

「確信がもてないぞ、我が読者?」

 

 青緑の瞳が半分だけ細められる。

 運命の仮面には小さな困り顔が浮かんだ。

 リリィは息を吐き、膝の上へ本を置いた。

 

「まず、輪壊者から整理しよう」

 

 指を鳴らす。

 周囲を漂っていた何冊かの本が同時に開いた。

 白い頁の上へ、赤黒い大地と白い人型の輪郭が浮かび上がる。

 

「連中は最初からあの姿だったわけじゃない。元を辿れば、あの神域で生きていた人間たちだ」

 

『……やっぱり』

 

「そして主格個体。キミたちが最後まで同期元として追っていたあれは、おそらく魔剣カツラクの旧使用者だ」

 

 別の頁へ、一本の剣が現れる。

 色の濃い刀身。

 次の頁では、それが少し薄くなっていた。

 

「カツラクの能力は、未来を燃料へ変換すること。そこまではリンデンの残した記録からほぼ確定だ」

 

『未来を……燃やす』

 

「そう。ただし、ここでいう未来は『明日の天気』だとか『十秒後に右へ曲がる』みたいな細かい出来事じゃない」

 

 リリィの指先が頁を滑る。

 幾つもの絵が現れては、火へ変わった。

 

「もっと大雑把だ。ひとつの人生、ひとつの土地、ひとつの集団。その先にあり得た幸福な可能性をまとめて薪として扱う」

 

『それも、良い未来から』

 

 リリィの指が止まった。

 

「読んだか」

 

『リンデンが残したデータにあったよ』

 

 運命は膝の上で手を組んだ。

 

『一番良い未来ほど、強い燃料になる』

 

「その通り」

 

 リリィが頷く。

 

「普通なら、悪い未来を消費すると思うだろう? 違う。カツラクは価値の高い未来を選ぶ。幸福で、長くて、救いの多い未来ほどよく燃える」

 

 次の本が開く。

 刀身がさらに薄くなった。

 

「そして旧使用者は、それを何度も使った。神域外から来る敵を倒すために」

 

 鉄の艦隊。

 巨大な生物。

 奇妙な術式を使う人間。

 機械化された兵士。

 光輪を背負った者たち。

 時代も技術も異なる存在が、頁をめくる度に現れては消えていく。

 

「攻め込んできた連中の出自までは断定出来ない。ただ、複数の軌道人類史由来と思われる技術体系が混在している。つまり、あの神域は長い間、外から侵入する異なる人類史の存在と戦い続けていた」

 

『それを、カツラクで』

 

「ああ」

 

 頁が燃える。

 街が残る。

 次の頁では、水路がない。

 また燃える。

 次の頁では、子供が減っている。

 

「勝った。毎回な」

 

 リリィの声が少しだけ低くなる。

 

「その代わり、勝つたびに『勝った後の世界』が減った」

 

 運命は黙って頁を見つめた。

 

「最後には、神域そのものから未来が尽きた。人として生き続ける未来も、土地が立ち直る未来も、死んで終わる未来すら含めてな」

 

『それで、輪壊者に』

 

「おそらく」

 

 リリィは本を閉じる。

 

「現在だけが残った。だから終われない。肉体を繋ぎ、記憶を共有し、主核を切り替え、死を上書きする。あの異常な同期構造も、元を辿れば『未来へ進めないから現在を維持する』ために成立した可能性が高い」

 

 運命の仮面に浮かんでいた青い光が、僅かに沈んだ。

 

『じゃあ、あの人たちは』

 

「ああ」

 

 リリィは短く答えた。

 

「カツラクに救われ続けた結果、ああなった」

 

 白い空間へ、本の頁がめくられる音だけがしばらく続いた。

 やがて運命が顔を上げる。

 

『リンデンは違った』

 

「そうだ」

 

 リリィは即座に答えた。

 

「そこからが問題だ」

 

 今度は別の本を取る。

 それは他のものより薄かった。

 表紙には何も書かれていない。

 

「リンデンという存在について、便宜上名前をつける」

 

『名前?』

 

「分類名だ。既存の魔剣という枠だけで扱うと話がややこしくなる」

 

 リリィは頁を開く。

 そこには、人の形をした輪郭と、それを貫くように四方向へ伸びる線が描かれていた。

 

「――高次元構造体(テッセラクター)

 

『テッセラクター』

 

「高次元構造を持った魔剣。現実には人間の姿で投影されているが、あの子の本体構造は今いる三次元だけでは閉じていない」

 

 指先が、一本の線をなぞる。

 

「まず、位置」

 

 遠くにある点と近くにある点が、一瞬で重なる。

 

「リンデンが最後の白い個体へ使った、距離を無視した斬撃。あれは速く動いたわけじゃない。『遠い』という関係そのものをずらしている」

 

『片割れの子が使ってた力も』

 

「同系統だろうな。あちらは特に位置の操作へ適性が寄っていた」

 

 次の線。

 

 今度は、人の輪郭が上下にずれた。

 

「そして存在の高さ」

 

 運命の仮面が僅かに動く。

 

『私たちの不老不死』

 

「そう」

 

 リリィが指を止めた。

 

「キミたち騎士の不老不死は、単に傷が治ったり、時間から隔離された存在という訳じゃない。奇跡、呪術、医学、魔術――様々な要因があるとしても、形式としては、存在そのものが通常の人間とは少し違う階層へ固定されている」

 

 頁の上に、人型の輪郭が二つ現れる。

 一方は高い位置。

 一方は低い位置。

 

「片割れの少女がリンデンから奪った力を使ってやったことは、キミたちから不老不死能力を『消した』わけじゃない」

 

 上にあった輪郭が、下へ落ちる。

 

「リンデンと同じ高さまで落とした」

 

『……だから、死ぬようになった』

 

「そうだ」

 

 リリィは頁を閉じる。

 

「時間、因果、存在。どこまで能動的に触れられたかは不明だが、少なくともリンデンの構造には、複数の軸を通常とは違う位置から扱える素地がある」

 

『そんな魔剣が……人の形で歩いてたんだね』

 

「赤ん坊からな」

 

 リリィは少しだけ呆れたような顔をした。

 

「よくまあ、キミは拾ったものだ」

 

『拾っちゃったから』

 

「そういうとこだぞ」

 

 運命の仮面に、ごく小さな笑顔が浮かんだ。

 けれどリリィはすぐに別の本へ手を伸ばした。

 

「で、本当にまずいのはここからだ」

 

 表紙を開く。

 今度は数値の羅列だった。

 

「オーバーフローとエラーが、長い間秘匿していた記録」

 

 運命の表情表示が消える。

 

『……リンデンの能力』

 

「ああ」

 

 リリィが頁を叩く。

 

「魔剣としての能力じゃない」

 

 数式が浮かぶ。

 

 入力。

 変換。

 出力。

 

 その間に、本来なら存在するはずの損失を示す欄だけが、綺麗にゼロを示していた。

 

「これはリンデン個人の才能だ」

 

『取りこぼしのない、一対一変換』

 

「正確には、理解出来るエネルギーを、理解出来る別形式のエネルギーへ一対一で変換する」

 

 リリィは眉を寄せた。

 

「普通、変換には損失が出る。熱を別のエネルギーへ変えるなら、一部は散る。霊子を運動へ変えても、全部が仕事になるわけじゃない。魔術だろうが機械だろうが同じだ」

 

 数字が流れる。

 

 百。

 七十三。

 五十八。

 四十一。

 

「ましてカツラクの未来燃焼は、本来かなり粗い」

 

『粗い?』

 

「燃やす範囲も、得られる出力もだ」

 

 リリィは別の頁を開いた。

 

「未来という曖昧なものを、神域単位や集団単位で大雑把に削り、その中から得られたエネルギーも大量に取りこぼす。それでも強い。燃料そのものの価値が馬鹿みたいに大きいからな」

 

『でもリンデンは』

 

「範囲を絞った」

 

 リリィの指先が、人型の輪郭一つだけを囲う。

 

「高次元構造によって、本来は世界や神域へ広くかかるはずの未来燃焼を、自分自身へ偏らせた」

 

 次に、ゼロだった損失欄を示す。

 

「そして燃えた未来から発生したエネルギーを、こいつでそのまま使った」

 

『……ほぼ全部』

 

「ほぼではなく、全部だ」

 

 リリィの表情から軽さが消えていた。

 

「これが異常なんだよ、我が読者」

 

 周囲に浮かんでいた本が、一斉に静止する。

 

「本来のカツラクは、巨大な森を無造作に燃やして、その熱の一部を拾っているような魔剣だ」

 

 リリィは一本指を立てる。

 

「リンデンは違う。燃やす木を一本単位で選び、その熱を一滴もこぼさず別の力へ変えられる」

 

 白い個体との最後の衝突が頁へ映る。

 

 炉。

 熱。

 そして。

 変換。

 

「最後にやったのがこれだ」

 

 未来燃焼によって得られた巨大な熱量が、別の形式へ変わる。

 

「構造そのものを破壊するエネルギーへの一対一変換」

 

 白い個体が、新しい構造を作る。

 壊れる。

 また作る。

 その成立より早く、次々と崩れていく。

 

「学習して適応する相手に対して、成立した構造そのものを作った端から壊す。こんな馬鹿げた使い方、普通はエネルギー効率の段階で成立しない」

 

 リリィは頁を閉じた。

 

「リンデンだから出来た。むしろ、リンデンでなければ出来ない」

 

 運命はしばらく何も言わなかった。

 やがて、小さく問いかける。

 

『これが、軌道修正に知られたら?』

 

 リリィは返事をしなかった。

 数秒間、運命を見つめる。

 

「最悪だな」

 

 軽口ではなかった。

 

「まずカツラク単体で危険だ。最良未来を燃料へ変える魔剣なんて、軌道修正が欲しがらない理由がない」

 

 新しい本が開く。

 頁には、人類史を思わせる光点が浮かんだ。

 

「人類を滅ぼすことを目的とする連中の手に渡れば、敵側には燃やして惜しい未来なんてない」

 

『……人類の未来を薪に出来る』

 

「そう」

 

 光点が一つ、火へ変わる。

 

「人類史が持つ最良の未来を燃やして、その力で人類史を潰す。あるいは、その人類史自身を現在の段階で終わらせる」

 

 もう一つ消える。

 

「これだけでも十分に終わっている」

 

 リリィは次の頁へ手を伸ばした。

 

「だが、リンデンまでセットなら話が変わる」

 

『もっと悪くなる』

 

「ああ」

 

 リリィは乾いた笑いを漏らした。

 

「カツラクが燃料を用意する。テッセラクターが対象と範囲を絞る。そしてロスレス変換が出力を必要な形へ変える」

 

 その三つが、頁の上で一本に繋がる。

 

「未来を選ぶ。燃やす。取りこぼさない。欲しい形へ変換する。距離すら無視して届ける。必要なら存在階層へ干渉する」

 

 リリィは眉間を押さえた。

 

「ボクでも言いたくないが、兵器として出来すぎてる」

 

 運命の指が膝の上で動いた。

 

『……だから、エラーとオーバーフローは隠してたんだ』

 

「そういうことだろう」

 

 リリィは肩を竦める。

 

「リンデンが何者かまで完全に理解していたわけじゃない。ただ、あの一対一変換が外に知られた時点で危険だと判断した。賢明だよ」

 

『リンデン本人は?』

 

「おそらく、自分の能力が異常なのは理解していた。ただ、それがカツラクと組み合わさった時にどこまで行くかを知ったのは、最後の戦闘中だろうな」

 

 運命は目を伏せる。

 

『……それなら』

 

 言葉が途切れる。

 リリィは待った。

 

『リンデンが最後に剣を向けた理由』

 

「そこだ」

 

 一冊の本が、二人の間へ降りてくる。

 最後まで暗号化されていた記録。

 モノが復号したデータ。

 リンデン自身がGARDENへ送った、観測結果。

 頁にはカツラクとリンデンの構造が並んでいた。

 

「リンデンは蘇生時点で、カツラクと存在的に接続されていた」

 

『メイズも同じことを言ってた』

 

「医療側から見ても分かったなら、かなり深いな」

 

 リリィが頁を拡大する。

 

「リンデンは一度死んでいる。カツラクは戻す際に、欠けた部分を自分で補った。だから、蘇生後のリンデンは単独で完結していない」

 

『カツラクを壊せば……』

 

「リンデンも崩れる」

 

 運命の仮面から表示が消えた。

 ディスプレイだけが、静かに本を見つめている。

 

「そして逆も同じだ。リンデンだけを殺してカツラクを残す、という処理にも保証がない。接続がどう切れるか分からない以上、最悪の場合カツラクだけが別の使用者を探す」

 

『だから一緒に』

 

「……おそらくな」

 

 リリィは次の頁をめくった。

 そこで、動きを止めた。

 

「いや」

 

『リリィ?』

 

「まだある」

 

 青緑の瞳が細くなる。

 

「これだ」

 

 頁には、最終戦直前の観測データが残っていた。

 リンデンの未来反応。

 数値はゼロを示していた。

 その周囲。

 運命やトロイ、そして他の騎士たち。

 そこだけ、膨大な反応が記録されている。

 そして、微かな燃焼反応。

 リリィの表情が消えた。

 

「……なるほど」

 

『何?』

 

「我が読者よ」

 

 いつもの軽い呼び方だったが、声には重さがあった。

 

「リンデンは帰れなかったんじゃない」

 

 運命の身体が動かなくなる。

 

「帰らなかったんだ」

 

 白い空間へ、その言葉だけが残った。

 

『……どういうこと?』

 

「リンデン自身の未来は、白い個体との戦いで完全に燃え尽きている」

 

 リリィは周囲のデータを並べ替える。

 

「それでもカツラクはリンデンを維持していた。だが、未来を持たないリンデンが次の瞬間へ進むには、何か別の未来が必要になる」

 

 運命の未来。

 トロイの未来。

 いくつもの線に、薄い赤が灯る。

 

「カツラクは周囲を見た」

 

 運命が息を呑む。

 

「キミたちには未来があった」

 

『……まさか』

 

「そのまさかだ」

 

 リリィは低く答えた。

 

「リンデンがキミたちと一緒に生き続けるために、カツラクは周囲の未来を燃料として使い始めた」

 

 白い頁に、一本の透明な刀が現れる。

 火が灯るたび、その刀身へ色が戻っていく。

 運命は立ち上がっていた。

 

『じゃあ、リンデンは……』

 

「気づいたんだろう」

 

 リリィももう軽口を挟まなかった。

 

「自分が生き残れば、今度は家族の未来が燃える」

 

 運命の拳が震えた。

 

『だから、私たちに剣を向けた』

 

「それだけじゃない」

 

 リリィが運命を見る。

 

「リンデン自身が、この組み合わせの危険性を一番理解していたはずだ」

 

 カツラク。

 テッセラクター。

 ロスレスコンバージョン。

 

 三つの構造が再び並ぶ。

 

「カツラクを残せば、また誰かが使う。リンデンだけが残れば、軌道修正に捕捉される可能性がある。そして――」

 

 リリィの指が、リンデンを示した。

 

「未来を失った高次元魔剣が、軌道修正にどう利用されるか分からない」

 

『……』

 

「キミたちがずっと戦っている相手だぞ」

 

 リリィの声が低くなる。

 

「世界の因果を修正し、人類を滅ぼす方向へ歴史を押し戻す連中だ。未来を失っているからこそ通常の因果から外れた存在なんて、あいつらから見れば最高の楔になるかもしれない」

 

 運命の視線が落ちた。

 

「リンデンは、自分を残すリスクまで計算した」

 

 白い空間へ、一冊の本がゆっくり落ちてくる。

 最後の頁。そこには短い文章だけがあった。

 リリィは読まなかった。

 運命が、自分で手に取った。

 リンデンが最後にGARDENへ残した言葉だった。

 

 長くはない。

 謝罪もなかった。

 助けを求める文でもなかった。

 ただ、自分が確認したことと、自分がしなければならないことだけが、彼らしい整った文章で記録されている。

 運命は最後まで読んだ。

 しばらく、頁を閉じられなかった。

 

「……我が読者よ」

 

 リリィが静かに呼ぶ。

 運命は答えない。

 

「ボクが言えるのはここまでだ」

 

 白銀の髪が、僅かに揺れた。

 

「データから見れば、リンデンの判断は合理的だ。カツラクと自分を同時に消す。それが、周囲の未来も守り、軌道修正への流出も防ぐ最も確実な方法だった」

 

 そこでリリィは目を細める。

 

「だが」

 

 一拍置く。

 

「どうしてあの子が、直接キミたちに頼まず、敵として剣を向けたのか。そこから先は、本を読んだだけじゃ分からない」

 

 運命の指が、頁の端へ触れる。

 

『……分かるよ』

 

 リリィが顔を上げた。

 

『リンデンは、そういう子だったから』

 

「便利な言葉で済ませるなよ」

 

『ううん』

 

 運命はゆっくり首を振る。

 

『便利だからじゃない』

 

 仮面の青い光が、小さく揺れた。

 

『あの子は、自分のために誰かへ「殺して」ってお願い出来ない』

 

 リリィは黙って聞いている。

 

『私たちが理由を知ったら、絶対に別の方法を探すって分かってた』

 

「……キミなら探すだろうな」

 

『うん』

 

 運命は本を閉じた。

 

『トロイも。ブルーも。モノも。みんな』

 

 指が表紙の上で止まる。

 

『だから、選ばせなかった』

 

 白い本屋のどこかで、頁の落ちる音がした。

 

『私たちが止めるしかない状況にした』

 

 リリィはしばらく運命を見ていた。

 

「まったく」

 

 やがて、深く息を吐く。

 

「最後まで、とんでもないわからず屋だな」

 

 運命の仮面に、小さな困り顔が浮かぶ。

 

『……うん』

 

「そしてキミもだ」

 

『私も?』

 

「似た者親子だと言っている」

 

 運命は少しだけ黙った。

 それから、青い光がほんの僅かに笑った。

 

『そうかな』

 

「そこ、喜ぶところか?」

 

『ちょっとだけ』

 

「まったく……」

 

 リリィは肩を落とした。

 周囲に散らばっていた本が、ひとつずつ閉じていった。

 輪壊者の記録。

 カツラクの未来燃焼。

 テッセラクター。

 取りこぼしのない一対一変換。

 そして、リンデンが最後にGARDENへ残したデータ。

 

 閉じられた本は静かに浮かび上がり、白い空間の彼方へ並ぶ本棚へ戻っていく。

 運命は、その中の一冊だけを手元へ残していた。

 表紙には、名前がひとつ記されている。

 

 久条リンデン。

 

 リリィはその本と運命を交互に見てから、ふと何かを思い出したように口を開いた。

 

「――それで、あの子から貰ったものは、これで全部なのかい?」

 

 運命は腕の中の本へ視線を落とした。

 しばらくして、小さく頷く。

 

『うん』

 

 仮面に浮かぶ青い光が、ほんの僅かに揺れた。

 

『私が貰ったものは、これで全部だよ』

 

「……そうか」

 

 リリィはそれ以上問いかけなかった。

 運命も、すぐには顔を上げない。

 腕の中には、リンデンが残した記録がある。

 彼が見たもの。

 知ったもの。

 最後に何を危険と判断し、どうして自分たちへ剣を向けたのか。

 それらは今、確かに運命の手へ渡っていた。

 

 それでも。

 最後の最後まで、彼が抱えていたもの。

 記録には残らなかったもの。

 言葉にするより先に、砕けていったもの。

 それだけは、自分が受け取ったものではなかった。

 運命はようやく顔を上げる。

 

『――あとは、トロイが受け取ってくれたから』

 

 白い本屋に、頁をめくる音がひとつだけ響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 微かな花の香りがした。

 甘さは薄く、けれど身体の奥にはひどく馴染んでいる。いつから知っている匂いだったのかを思い出そうとして、リンデンはやめた。記憶を手繰るだけの力が、もうあまり残っていない。

 後頭部には柔らかな感触があり、頬には時折、細い髪が触れている。誰かの膝に頭を預けているのだと分かるまでにも、随分と時間がかかった。

 

 瞼を動かす意味はなかった。通常の視覚はとうに閉ざされ、そこにあるはずの光も色も、今の彼には届かない。それでも暗闇の向こうには、別のものが残っていた。

 

 幾重にも分かれながら遠くへ伸びていく、無数の枝。

 細いものもあれば、途中で消えているものもある。その中で、自分のすぐ傍から伸びているそれは驚くほど豊かだった。いくつもの可能性へ枝分かれし、その先でもさらに新しい道を作りながら、今いる場所など最初から小さな一点に過ぎなかったかのように遠くまで続いている。

 

 燃えていない。

 途切れてもいない。

 そこまで確かめたところで、胸の奥に残っていた力が僅かに抜けた。

 

「リンデンちゃん、おめざめー?」

 

 聞き慣れた声が、すぐ近くから落ちてきた。

 

 ――ああ。トロイ姉さんだ。

 

 薄桃色の髪も、アメジスト色の瞳も、もう見ることは出来ない。それでも分かる。頬へ触れる指の温度も、言葉の終わりを少しだけ伸ばす声も、こうして自分の頭を膝へ乗せている時の呼吸も、ずっと前から知っている。

 

「もー、ほんっと無茶ばっかりしちゃってさー。

 トロイさん、さすがに今回は怒ってお花散っちゃうからねー?」

 

 額に掛かっていた髪を払う指が、そのまま頬へ降りてくる。

 きっと、頬を膨らませている。

 

 そう思った途端、閉ざされた視界の代わりに、古い記憶がひとつ浮かんだ。

 幼い頃の隔離室。冷えた壁と、夜になっても消えなかった天井灯。その下に置かれた椅子へ腰掛け、何を返しても返さなくても翌日にはまた同じ場所に居た人がいた。

 眠れない夜には取り留めのない話をして、黙り込めば勝手に別の話題へ移って、時々どうしようもない冗談を挟んで笑っていた。

 あの頃から、声はほとんど変わっていない。

 

「でも」

 

 トロイの指が止まる。

 

「みんなを守ってくれて、ありがとねリンデンちゃん。

 多分、こうするしかなかったんでしょー?」

 

 返事をしたかったが、喉はもう動かなかった。肺へ入ってくる空気も浅く、胸が僅かに上下しているのかさえ自分では分からない。それでも、トロイから伸びている枝だけは鮮明に残っている。

 

 その先には、まだ時間がある。

 誰かをからかって笑う日も、懺悔を聞きながら悪戯めいた顔をする日も、理不尽な相手へ笑ったまま恐ろしいことを言う日もあるのだろう。

 新しい誰かと出会って、今と変わらない間延びした声で名前を呼び、時には手を伸ばし、時にはその手を引っ込める。そのどれも、自分がいなくなった先へ続いていた。

 

 よかった。

 

 その一言だけが、静かに胸へ落ちた。

 

「というわけでー」

 

 頬へ指が触れる。

 

「久々にトロイさんから花丸をあげよー。お花ー♪」

 

 指先が円を描き、その外側へ小さな花弁を足していく。

 昔と同じだった。

 何かが出来た時も、失敗して俯いた時も、どうにもならないことを自分の責任だと思い込んでいた時も、最後にはこうして頬へ指を滑らせてくれた。

 ただ、今はその軌跡が妙に小さい。

 

「……あれー?」

 

 トロイも気づいたらしい。

 頬の上へ描いた花丸を、もう一度指先でなぞる。

 

「昔はもうちょっと大きく描けたんだけどなー。

 そっかー、リンデンちゃん、大きくなったんだねー」

 

 その声に、幼い頃の自分が一瞬だけ重なった。

 いつの間にか、自分は彼女より大きくなっていた。昔は頭へ置かれた手が随分と大きく感じられたのに、今ではこうして頬へ描かれる花丸の方が小さくなっている。

 

「時の流れが早すぎて草ー。気づいたらトロイさんより大きくなってて森ー」

 

 言葉のあとに、ごく短い間があった。

 指先が、描いた花丸の縁を丁寧になぞる。

 

「……ちゃんと、いい子に育ってくれて花ー」

 

 もう一度、息が入った。

 浅く、細い。

 頷くことも出来なかったが、それでよかった。最後にはいつも花丸をくれる人だった。自分が何を失敗しても、何を背負い込んでも、最後の最後にはそこへひとつ、丸をつけてくれた。

 

 ずっと、この声の近くにいたかったのだと思う。

 笑っているところが好きだった。気の抜けたような間延びした喋り方も、くだらないことでこちらを茶化すところも、シスターらしい顔をしながら拷問と懺悔の話を平然と同じ口で語るところも、何もかもを見透かしたくせに必要以上には踏み込んでこないところも好きだった。

 

 幼い頃には、それを何と呼ぶのか知らなかった。

 少し大きくなってから、ようやく名前を知った。

 

「それにしてもさー」

 

 花丸を描き終えた指が、今度は頬を撫でる。

 

「リンデンちゃん、前にトロイさん言ったよねー。思ってることは、ちゃんと相手に伝えないとダメだよーって」

 

 胸の奥で、何かが微かに動いた。

 何度でも言えたはずだった。

 運命屋の厨房に並んで立った時にも、任務から戻った夜にも、たまたま二人きりになった廊下でも、訓練のあとにどうでもいい話をしていた時にも。これから先がいくらでもあるつもりで、その度に次へ延ばした。

 

 けれど、今は口が動かない。

 

「トロイさん、人を見るのは得意だからねー。リンデンちゃんが誰を見てるとか、何を言いたそうにしてるとか……そういうの、割と分かっちゃうんだよねー」

 

 少しだけ、声が掠れていた。

 ごめんなさい、と胸の内で思う。

 

 待たせてしまって、ごめんなさい。

 ずっと言えなくて、ごめんなさい。

 それでも最後にひとつだけ伝えられるのなら、自分はきっと――。

 

 そこから先を形にしようとしたところで、思考がゆっくりとほどけ始めた。

 

 音の輪郭が薄くなる。頬を撫でている指も、頭を支える膝の温度も、花の香りも、少しずつ遠ざかっていった。けれどトロイの枝だけは最後まで残り、自分のいない場所へ向かって幾重にも分かれながら、遠く、遠くへ伸び続けている。

 その光景を見ているうちに、もう言葉を作る必要さえないように思えてきた。

 この人には、先がある。

 それならいい。

 自分がここまで来た理由は、それで十分だった。

 

「……もー」

 

 声が聞こえた。

 意味を拾うまでに時間がかかる。

 

「こんなところまで黙ってるんだから」

 

 頬の上で、指が止まった。

 何かが続いている。

 けれど、もう一つひとつの言葉を繋げることが難しい。声だけが柔らかな音として残り、遠いところから自分へ降ってくる。

 

「じゃあさー」

 

 トロイが少しだけ身を屈めた。

 

「いっそのこと、トロイさんが先に言おうかなー?」

 

 リンデンの中で、それを理解するためのものは、もうほとんど残っていなかった。

 ただ声がある。

 ずっと聞いていた声。

 それから、暗闇の向こうへ続く無数の枝。

 ひどく遠くまで伸びている。

 大丈夫だと思った。

 

「トロイさんにとってね、リンデンちゃんは――」

 

 トロイの声が止まった。

 腕の中から返ってくるものは、もうなかった。

 

 辛うじて続いていた呼吸も途切れ、頬へ触れている肌から少しずつ温度が抜けていく。けれどトロイは指を離さず、先ほど描いた小さな花丸の上へ親指を重ねたまま、しばらく何も言わなかった。

 

「大事な、大事な――」

 

 そこまで口にして、唇を閉じる。

 続きを言っても、もう届かない。

 紫の瞳を伏せ、トロイは浅く息を吸った。いつものように笑おうとしたのか、口元が僅かに持ち上がったものの、すぐにその形は崩れた。

 

「……っ」

 

 飲み込んだ息が喉の奥で小さく震える。

 それでも、髪を撫でる手は止めなかった。

 ずっと昔、隔離室で眠れなかった小さな子供へそうした時と同じように、何度も、ゆっくりと指を通していく。

 やがてトロイは、言いかけた言葉をそのまま胸の内へしまった。

 

「……いいよ」

 

 頬に残した花丸を、もう一度だけ撫でる。

 それから、小さく笑った。

 

「おやすみ、リンデンちゃん。ゆっくり休んでねー」

 

 

 

 

 






これにてハーメルン版(統合ルート)『みにくい魔剣の子』本編完結です。
ありがとうございました。
蛇足はもちろんあります。
pixiv版(継承ルート)を終わらせてからになると思いますが……。

アフターの展開どうしましょう。

  • ド本命トロイルート(全年齢+叡智
  • トブ一緒ルート(全年齢+叡智
  • みんなと一緒ルート(全年齢オンリー
  • やけくそハッピールート(叡智オンリー
  • リーインシアルート(IF、湿度特化叡智
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