みにくい魔剣の子   作:えいちゃ

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3歳児と迷子

 昼下がりのGARDEN第六層――高層ビルが並び立つ市街地区画は、まばゆい陽光と人々のざわめきに包まれていた。

 霊子表示の案内板には次々と広告が流れ、ガラス張りの歩道橋の上では自動搬送機が静かにすれ違っていく。未来都市の真ん中で、けれどほんの少しだけ、場違いなふたりの姿があった。

 

 ひとりは、黒いワイシャツに身を包んだ青年。真面目そうな眼鏡と整えられた短髪、けれど頭の上では黒いクマ耳がぴくりと揺れていた。

 もうひとりは、小さな子ども――3歳になったばかりのリンデン。青年の隣で、つないだ手を頼りに小さな足を進めている。靴の先には小さな音声端子が埋め込まれているのか、歩くたびに「ぴこっ、ぴこっ」と可愛らしい電子音が鳴っていた。

 

 目的地は、区画の奥にある「ラーメン処・運命屋」。GARDENで唯一、そしてかつて失われた“ラーメン”という料理を復元し、提供しているという店だ。

 第九軌道人類史の文脈においてすら珍しいその味を求めて、日々多くの騎士やガーデナーが立ち寄るのだという。

 

「この道で間違いない。オレの鼻が、そう云っている」

 

 青年――ヴェクサスはそう言って、鼻先を少し持ち上げた。

 とはいえ、その言葉を聞いたリンデンは特に何も返さなかった。小さな手がふいに彼の袖をきゅっと掴み直す。少し強くなった風が、リンデンの髪を揺らした。

 ヴェクサスは歩きながら、時折ちらりと隣を見やった。

 リンデンは言葉もなく、ただ前を向いて歩いていた。ぴこっ、ぴこっ。

 歩道に響く小さな足音は、途切れることなく続いている。速度も変わらない。けれど――。

 

「リンデン、少し休もうか」

 

 そう声をかけた時、小さな足がふいに止まった。

 人通りを外れた歩道脇に、小さなベンチがあった。自動緑化された植え込みの陰で、少しだけ日差しが和らぐその場所に、ヴェクサスは先に腰を下ろした。

 リンデンは何も言わず、すぐ隣にとん、と座る。座面に脚が届かず、ぶらぶらと揺れる小さな足が、靴音の名残を微かに鳴らしていた。

 

「疲れていないか?」

 

 問いかけると、リンデンは首を横に振った。

 けれどその仕草には、わずかな“間”があった。答えるために考えるような、あるいは、自分の疲れに気づいていなかったような――そんな静かな間が。

 

「……まあ、念のため、もう少し休んでいこう。オレの鼻が、そう云っている」

 

 どこか真面目な表情で、けれどふっと微笑むような口調でヴェクサスは言った。

 リンデンは、そちらをちらりと見上げる。目線の先にあるのは、彼の頭にあるクマの耳。

 

「……にぃにの、みみ」

 

 ぽつりと、小さな声がこぼれた。

 

「む?気になるか?」

「うん。……やわらかい」

 

 それだけ言って、リンデンはまた静かになる。けれど、口元はほんの少しだけ緩んでいた。

 その変化に、ヴェクサスは何も言わず、ただほんの少しだけ姿勢を緩めた。

 遠くで輸送ドローンの影がビルの谷間を滑っていく。頭上の霊子モニターが、運命屋の看板広告を淡く表示していた。

 道は、まだ続いている。すぐ近くに、確かに――。

 

 十分ほどの休憩を挟んで、ふたりは再び歩き出した。

 リンデンはやはり言葉少なに、ヴェクサスの隣を黙って歩いていた。ぴこ、ぴこ。足元の音だけが、人の波に呑まれるように続いていく。

 けれど、その人の波が――少しずつ、濃くなっていた。

 

「……ふむ」

 

 ヴェクサスが、軽く息を吐くように立ち止まる。視線の先、前方の交差歩道には、何組もの家族連れや搬送ドローンの影。霊子ガイドの音声が少し高く、ざわつく空気の中で混ざり合っていた。

 

「リンデン、こっちだ。少しだけ人の少ない方を通ろう」

 

 そう言って、ヴェクサスはリンデンの手を引いた。

 いつもなら大通りを越えてまっすぐ進むはずのルートを、一本だけ、東側の裏手通路へとずらす。霊子整備用の搬入路を兼ねた道――作業員やその手の者たちには馴染み深いが、一般には少し分かりづらい、曲がりくねった道筋だ。

 そこに入った瞬間、空気が変わった。

 人の数がぐっと減り、代わりに壁際を這うような作業ドローンの音と、無機質な案内表示が増えてくる。

 

「このまま東回廊を抜けて、第五ブロックの交差点へ出れば……」

 

 ヴェクサスは周囲を見渡しながら呟く。が、その足取りは――ほんのわずかに、戸惑いを含んでいた。

 

「……ここで、間違いない。オレの鼻が、そう云っている」

 

 もう一度、自分に言い聞かせるようにそう告げて、彼は歩みを進める。

 リンデンは、変わらずその手を握ったまま、静かについていく。けれど、小さな靴の音は、少しずつ歩幅を詰めるように、速く、控えめに変化していた。

 分岐がある。壁に掲げられた看板には、《第五ブロック方面→》の文字。

 だが、ヴェクサスは看板を一瞥しただけで、逆の道を選んだ。

 進むほどに、人の気配はさらにまばらになった。

 曲がるたびに風景が変わる。壁の質感、天井の光、道幅の広さ。いつの間にか、街路のざわめきすら聞こえなくなっていた。

 

「第五ブロックの北側に出るはずだ……ここで、間違いなかったはずだが……」

 

 ヴェクサスは呟く。何度目かになるその言葉。けれどその声には、ほんの僅かに疑念が滲み始めていた。

 視線は周囲を忙しなく行き来している。看板、光のライン、壁の印――だが、一瞬たりとも隣を見なかった。

 その時、リンデンの足がふと止まった。

 大人の足に合わせた速度で歩き続けていた小さな足が、とうとう限界を迎える。

 呼吸は少し早く、手はまだ繋がっている。けれど、その力が緩んだ。

 

「にぃに……」

 

 声は、か細かった。けれど、届かなかった。

 その瞬間、人影がふたりの間をすっと通り過ぎた。

 搬送用ドローンを操作する技師か、別の作業員か。遮られた視界の先で、ヴェクサスは気づかぬまま一歩、また一歩と進んでいく。

 リンデンは、その背を見上げていた。

 ひと呼吸分の間、じっとその後ろ姿を見つめていた。

 手はもう、つながっていない。

 

「……にぃに」

 

 今度は、少しだけ大きな声で。

 だが、返事はなかった。靴音は遠ざかる。

 ヴェクサスは曲がり角へ、まっすぐに歩いていく。まるで「鼻」に導かれるように――。

 リンデンは動けなかった。

 足元で、小さな靴がぴこ、と鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 曲がり角を過ぎると、道はふたたび開けた。

 ビルの谷間を縫うように、細い歩道が伸びている。ところどころに配置された案内灯が、静かな呼吸のように淡く点滅していた。

 

「……ふむ、この道だ」

 

 ヴェクサスは独りごちるように呟き、また一歩、歩みを進める。

 人の姿は少ない。むしろまばらで、GARDEN職員の影が遠くに見える程度だった。

 けれど彼の足取りは確かだった。

 躊躇もなく、角を曲がり、段差を越え、霊子歩道を渡っていく。ときおり立ち止まっては周囲を見渡し、鼻を鳴らすように微かに顔を上げる。

 

「……やはり、このにおいだ。醤油、昆布、豚骨……それに――」

 

 歩道の先。商業区画の一角に、和風の暖簾が揺れていた。

 《ラーメン処 運命屋》。第六層にただ一つ、失われた料理“ラーメン”を復元した奇跡の店。店先にはすでに数人の列ができており、霊子掲示板には「本日限定、復刻・味玉肉肉醤油」の文字が点滅している。

 

「ふ……やはり、ここだったな」

 

 満足げに息を吐き、ヴェクサスは店の前に立った。

 鼻先には、濃厚で香ばしい出汁の香り。湯気の向こうから、運命の声が聞こえてくる。

 

『いらっしゃいませー……って、ヴェクサスだ。今日は早いね』

 

 カウンター越しに、ディスプレイ仮面の奥から明るい声が飛んでくる。

 ヴェクサスはうなずき、言った。

 

「……ああ。案内は任されたからな。オレの鼻が、確かにここへ導いた」

 

 そして、ふと――

 自分の左手が、空であることに気づく。

 視線が、静かにその手へと落ちる。

 指の間には、何もない。さっきまで感じていた、小さな手の温もりが、どこにもなかった。

 

 「…………」

 

 言葉を失う。

 頭の中で、冷たい音がした。

 指先から、冷たく何かがこぼれ落ちていくような感覚だった。

 

「……いない」

 

 かすれた声が、ヴェクサスの喉から漏れた。

 振り返る。

 後ろにはラーメン屋の暖簾、数名の客たち、穏やかな昼の喧騒。

 だが――そこに、リンデンの姿はどこにもない。

 

「……すまない」

 

 低く、短く言い残して、ヴェクサスは踵を返した。

 シャツの裾が風を切る。クマ耳が跳ねる。彼の視線は街の奥へと鋭く向けられ、だがその足取りはどこか定まらない。

 

 「リンデンとはぐれた。オレの……責任だ」

 

 言葉は自分に向けられたものだった。

 そのまま、彼は人混みへと姿を消していく。左手はぎゅっと握られたまま、小さな温もりをもう一度思い出すように――。

 店のカウンターに残された数人が、ざわつく気配を見せる中、運命は静かに立ち上がった。

 仮面の奥、ディスプレイには変化がない。けれどその手は迷いなく、袖口の端末を開いていた。

 店内には、かすかな湯気と焦がし醤油の匂いがまだ漂っていた。

 けれど、運命の指はその余韻を振り切るように、淡く光る空中インターフェースへと滑らかに伸びる。

 

 『迷ったんだね……』

 

 仮面のディスプレイが一瞬だけ揺れた。静かに点滅するその文字は、彼女の内心の一部を映し出す。

 OTTER SKYの投稿ウィンドウが開く。

 運命は迷いなく、簡潔に、しかし焦りを悟らせぬように打ち込んでいく。

 

 『【拡散希望】

 第六層・市街地区画でリンデンが行方不明になっています。

 最後に確認されたのは東回廊付近。

 特徴:黒緑の髪、小柄な子ども、足元の靴が音を鳴らします。

 見かけた方はこの投稿に返信、もしくは店まで。』

 

 送信。

 画面に投稿が浮かび上がる。

 「#GARDEN連絡」「#市街層注意」などのタグが自動付与され、拡散の波に乗っていく。

 

 『これで、誰か気付いてくれれば……』

 

 運命の指先は静かに降ろされた。

 

 『……よし、次の方どうぞー!』

 

 仮面のディスプレイに、再び明るい文字が映る。

 その声色は変わらない。けれど、ほんの僅かに――仮面の奥の彼女のまなざしが、街の方角を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぴこっ。

 

 小さな音だけが、誰にも気づかれずに道端に響いた。

 リンデンはその場に立ち尽くしていた。

 誰もいないわけじゃない。けれど、知っている顔はひとつもなかった。

 クマ耳のにぃには、もう見えなかった。

 ――にぃに。

 もう一度呼ぼうと、声を出そうとした。でも、出なかった。

 代わりに、小さな手が胸元をぎゅっと握る。そこにはぬいぐるみも何もなかったけれど、何かがあった気がして。

 風が通り抜ける。壁の霊子広告がふっと切り替わり、ラーメン屋の案内が消える。

 足元のタイルは銀灰色。影が長く伸びて、リンデンの背中を静かに追い越していく。

 ――ついていかないと。

 そう思って、リンデンは一歩、足を出した。

 もう一歩。小さな靴が、控えめにぴこっと鳴る。

 けれど、音は虚ろだった。もう誰も、その音に振り返ってはくれない。

 

 「……にぃに、こっち……いった、かな……」

 

 リンデンは歩いた。

 道が正しいかは分からない。ただ、進めば、もしかしたら――そう思ったから。

 でも、その速度では到底、あの人には追いつけなかった。

 ほんの十数歩で、再び足が止まる。

 首を動かして、周囲を見渡す。高いビル。知らない人。自動ドローン。

 誰も、リンデンを見ていない。

 静かだった。

 

 靴の音も、もう鳴らない。

 リンデンは、もう呼ばなかった。にぃにの名前も、助けての声も。

 自分が――置いていかれたことも、迷ったことも、ちゃんとわかっていた。わかっていたけれど、泣いたりはしなかった。ただ、静かに立っていた。

 そして、また歩いた。

 靴の音は、さっきよりも静かになっていた。

 ぴこっ、ぴこっ。鳴るたびに、不思議と周囲が遠ざかっていくように感じた。

 ある角を曲がると、そこは通行の少ない補助搬送ルートだった。鉄骨のアーチと点滅する表示灯。子どもの歩く場所ではなかった。

 リンデンは、壁際の縁に座った。膝をかかえて、じっと前を見ていた。

 誰も来なかった。にぃにも来なかった。

 

 ――ここじゃ、ない。

 

 そう思って、また立ち上がる。

 別の道を選ぶ。出口の光が遠ざかる。人の声もしなくなる。

 標識には「関係者以外立入禁止」と書かれていたが、読めるわけがない。

 そのまま、彼は進む。

 時折、また立ち止まる。座り込む。

 膝に頬を乗せて、動かなくなる。

 でも、完全には止まらない。

 また歩く。まるで、迷路の中を漂うように。

 そうして――リンデンは、表通りから最も遠い側の、誰も通らない管理区画の入り口へと辿り着いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風が強くなってきた。

 高層区画の通気孔から抜ける人工風が、交差点の看板をきしませる。

 ヴェクサスはその風を顔に受けながら、歩道橋の上を駆けるように進んでいた。

 

「……いない。どこにも、いない……ッ」

 

 交差点、広場、立体歩道、搬送ステーションのベンチ。

 歩ける範囲はすべて見て回った。騎士用の監視フレームにも、幼い子どもの姿は映っていなかった。

 焦りが、指先を冷たくする。

 何度も確認した。ルートは合っていた。少なくとも、自分が辿った経路には矛盾は――

 

「……いや」

 

 一瞬、頭をよぎる。

 “ズラした”。ほんの少しだけ、人混みを避けるために、本道からそれた。

 

「――オレの、鼻が……」

 

 呟いた言葉に、自分で表情を歪めた。

 その鼻は、今や何ひとつ導いてくれなかった。

 ヴェクサスは、通信端末を取り出し、OTTER SKYの最新投稿を確認する。

 運命による投稿――「東回廊付近で行方不明」

 現在位置、既に東側は捜索済み。だとすれば――。

 

「……まさか、逆か」

 

 指が震える。

 リンデンが進むとしたら、自分とは逆に進んだ可能性がある。あの子が、黙って、声も上げずに――。

 

「っ……!」

 

 ヴェクサスは駆け出した。

 南西搬送区画、第五補助通路、立入制限区。

 滅多に人が通らない、“本来なら子どもが入り込むはずのない”エリアへ。

 

「リンデン……!」

 

 クマ耳が揺れる。呼びかける声は、ビルの谷間に吸い込まれていく。

 南西区画へ向かう搬送通路の手前、通常は立ち入り制限のかかる一角で、ヴェクサスは息を切らして立ち止まった。

 

「……この先だ。オレの――」

 

 鼻が、そう云っている。そう言いかけて、彼は口を噤む。

 あの言葉がどれだけ当てにならなかったか、今日だけで痛感していた。

 だが、次の一歩を踏み出す前――

 

「おーい、そこの迷ってそうな耳付きー」

 

 気の抜けたような声が背後から飛んできた。

 振り返ると、ゆるい白銀の髪を揺らして歩いてくる少女がいた。

 魔術教会の制服に黒のショートスカート、揺れる試薬瓶と抜けた笑み。玄鉄――第六起源魔術教会のWizard。

 その隣には、長い黒髪を編んだ少女。

 鋭い視線と整った装い、そして棒付きキャンディを片手に持った濡羽の姿があった。

 

「……なにしてるんですか、そんな顔で。訴えますよ?」

 

「うちら、ちょっと前にそこの交差点でリンデンっぽい子の目撃情報拾ってさー」

 

 玄鉄がゆるく手を振る。

 

「ちょっと不安そうに歩いてたって情報、回ってきてるんだよねー。そっちの道で合ってるなら……ま、信じていいんじゃない?」

 

「……信じるもなにも、自分で見つけるまで帰れませんよね、当然」

 

 濡羽がきっぱりと言う。キャンディをひねりながら、ちらりとヴェクサスを見る。

 

「……君たちが、あの子を見たのか?」

 

 ヴェクサスの問いに、ふたりは同時にうなずいた。

 

「一瞬だけれどもねー。姿だけ。でも……泣いてはなかった。ちゃんと歩いてたよ」

 

「それが逆に、怖いんですけど」

 

 ヴェクサスは静かに息を吐くと、再び前を向いた。

 

「……助かる。ここから先は、オレの責任だ」

 

「責任とか言ってる暇ある? ほら、さっさと行こ」

 

 玄鉄が軽く笑って、歩を並べてくる。

 

「えっ、私たちも行くんですか。聞いてないんですけど?」

 

「うちらヒマだったしー。ね?」

 

 濡羽がため息をついた。だが、キャンディはくるりと口元へ戻ったままだった。

 そのまま三人は、ひとけのない管理区画の方角へと歩みを進めていく。

 その先で、リンデンが静かに、ただひとり、座っていることを――誰もまだ、知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光が届かない場所だった。

 管理区画のさらに奥、搬送路の裏手にある、古い整備用の通路。

 壁は剥がれかけ、照明は点滅している。使用される予定もない、誰も通らない場所。

 その隅に、リンデンはひとり、座っていた。

 膝を抱え、背中を壁に預けて。

 目は開いている。閉じても意味がないことを、どこかで知っているかのように。

 

『ここじゃ、ない』

 

 何度も思った。でも、どこなら正しいのか、もうわからなかった。

 

「……おこられる、かな」

 

 ぽつりと漏れた声は、誰にも届かなかった。

 誰も聞いてくれる人はいなかった。

 ――にぃにの声も、

 ――ねぇねの手も、

 ――へいかのあしおとも、

 ここにはなかった。

 冷たいタイルの上、小さな靴のつま先がわずかに揺れる。

 ぴこっ、ぴこっ、と鳴っていた音はもう止まっていた。

 

「……さむく、なってきた」

 

 でも泣かない。

 泣いてしまったら、声が出て、音がして、見つかってしまう気がした。

 それが“いけないこと”なのかどうかも、もう考えることはなかった。

 リンデンはただ――ひとりで静かに、そこにいた。

 寒い、というより――誰もいない。

 音がなかった。

 人の声も、足音も、あの“ぴこっ”って鳴る靴音もなかった。

 リンデンは、ひとりだった。

 だけど、怖いとは思わなかった。

 怖い、という言葉をまだ持っていなかった。

 それよりも、ただ静かだった。あまりに静かで、目を閉じるのも惜しいくらいに。

 呼べば、誰かが来てくれるのかもしれない。

 でも――呼ばなかった。呼んでしまったら、「来ない」ことがわかってしまう気がした。

 にぃにはきっと、気づいてない。

 ねぇねたちは、どこか遠くにいる。

 へいかは……おしごとで、忙しい。

 じゃあ――誰も悪くない。

 だれも、リンデンを“わざと”置いていったわけじゃない。

 それが、わかってしまった。だから、泣けなかった。

 泣いてしまったら、どうしていいのかわからなくなる気がした。

 

「……わるい子、じゃないよ」

 

 その言葉は、小さく、宙に溶けていった。

 誰も責めていないのに、誰にも責められていないのに、なぜか、そんな言葉を言いたくなった。

 リンデンは、じっと自分の手を見ていた。

 さっきまで、にぃにとつないでいた手。

 もうそのぬくもりも、かたちも、よく思い出せなかった。

 

 その時、

 わずかに――光が、遠くから差し込んできた。

 ひとつ、音がした。

 最初は風かと思った。

 でも、ちがう。耳が覚えている――あの、にぃにの声だった。

 

「リンデン……!」

 

 遠い。けれど、確かに呼んでいた。

 誰かの足音もした。複数の靴が、タイルを叩く乾いた音。

 リンデンは、そっと顔を上げた。

 目の奥がじんとした。でも涙は出なかった。

 もう一度、声がした。

 

「にぃに……」

 

 小さく呟いて、リンデンは、ゆっくりと立ち上がった。

 冷えていた膝がぐらりと揺れる。けれど、倒れなかった。

 何も言わず、ただ――その声の方へと歩き出す。

 ひとつ、またひとつ。

 ぴこっ、ぴこっ。

 沈黙を割る音が、また戻ってきた。通路の先に、わずかに灯る非常灯の明かり。その向こうから、誰かが駆けてくる気配。

 リンデンは止まらなかった。ゆっくりと、確かに、そのほうへと――。

 

 

 非常灯の明かりが、かすかに揺れていた。

 その先から、小さな足音が響いてくる。

 ぴこっ、ぴこっ。

 

「……」

 

 ヴェクサスの足が止まる。

 声も、出なかった。目の前に――その姿があった。

 リンデン。

 ほんの数時間前まで隣にいた、小さなその背が、今は、ひとりでこちらへ歩いてきていた。

 ゆっくりと、確かに、目をそらさずに。

 

「……ヴェクサス」

 

 玄鉄がそっとつぶやく。けれど彼は返事をしない。

 目を見開いたまま、ただ、その足音を聞いていた。

 リンデンは立ち止まった。数歩手前で、顔を上げる。

 言葉も、出さない。ただ、そこに立っていた。

 沈黙が落ちる。

 

「……なにやってんの、ふたりとも」

 

 その空気を軽く割ったのは、玄鉄の声だった。

 彼女はヴェクサスの脇腹を、肘でそっと小突く。

 

「ほら、なんか言っときなよー? 見つかったんだからさ」

 

「……」

 

 しばらく、ヴェクサスは口を開けなかった。

 けれど、目を伏せ、ゆっくりと息を吸って――ようやく、搾り出すように言葉が落ちた。

 

「……リンデン、すまなかった」

 

 その声は震えていた。

 でも、それは言葉の正しさではなく、気持ちの重さがそうさせたのだと、すぐにわかった。

 リンデンは首を横に振る。そして、一歩だけ近づいた。

 小さな手が、そっと、またヴェクサスの裾をつまんだ。

 

「……にぃに、みつけた」

 

 それだけ言って、リンデンは目を閉じる。

 ヴェクサスも何も言わなかった。ただ、その手の感触を確かめるように、そっと、そっと右手を伸ばす。

 温度が、まだそこにあった。

 ふたりがもう一度、手をつないだその瞬間。

 ようやく――場の空気に、わずかに呼吸が戻った。

 

「……まったく、探す側の気持ちも考えてくださいよ」

 

 濡羽が、キャンディをくわえたまま小さくため息をついた。

 けれど、その声はどこか安心の滲んだトーンだった。

 リンデンはその声に、そっと顔を向ける。

 けれど、濡羽は視線を合わせようとしない。ただ、少しだけ視線を逸らしていた。

 

「……別に、心配してたわけじゃないですからね。探しに来ただけです」

 

 ツン、とした口調。けれど、キャンディの棒がかすかに揺れていた。

 その様子に、玄鉄がくすっと笑う。

 

 「えー? でも濡羽って、リンデンが赤ちゃんの時、誰もいないと思って――」

 

 にやりと笑って、わざとらしく間をあける。

 

 「人目気にしながら、こっそりギューってしてたじゃーん?」

 

 「なっ……なな――!?」

 

 濡羽の顔が、一気に真っ赤になる。

 目を見開き、キャンディが口から落ちそうになり、手の中の三角帽(魔術教会制式の制帽)を慌てて前に持ち上げて――

 

 「何で知ってるんですか!! しかも、ここで言うんですか!!」

 

 「いやいや、可愛かったよー?ほんとに、ぎゅーってしてたし」

 

 「……っ訴えますよ! ホントに!! 名誉毀損で!!!」

 

 三角帽がばさっと顔を覆う。その下で耳まで真っ赤になっているのは、もう誰の目にも明らかだった。

 玄鉄は、ふふ、と楽しげに笑って。

 その横で、リンデンが小さく――ほんの少しだけ、肩を揺らした。

 それは、声のない笑いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕暮れが、静かに街を染めはじめていた。

 GARDEN第六層の空は高く、その間を縫うように伸びる高層ビル群の壁面に、金と橙の光がゆっくりと落ちていく。

 照明が灯るにはまだ少し早く、けれど人の影は少しずつ長く伸びはじめていた。

 「ラーメン処・運命屋」の軒先にも、斜陽の光がやさしく差し込んでいた。薄い暖簾がふわりと揺れるたび、仄かに焦がし醤油の香りが広がっていく。

 客足は落ち着き、喧騒はもうない。通りを吹き抜ける風が、遠くで誰かの笑い声をさらっていった。

 運命は、仮面越しに空を見上げながら、静かに厨房から出てくる。

 袖口の端末を切り、濡れた手を布巾で拭いながら、暖簾に手をかけた。

 もうすぐ閉店――その合図のはずだった。

 

「……陛下」

 

 静かな、けれど確かな声が、通りの向こうから響いた。

 顔を上げる。

 差し込む夕日を背に、4人の影がゆっくりとこちらに歩いてきていた。

 先頭にはヴェクサス。そしてその隣に、彼の左手をつかんだままのリンデン。

 濡羽と玄鉄が後ろに続いている。少し埃をかぶったその姿が、夕暮れの中で金色に縁取られていた。

 ヴェクサスは足を止めると、仮面の主へ向かって小さく頭を下げる。

 

「……すまない。責任は、すべてオレにある」

 

 その声音に、焦りも羞恥もなかった。あったのはただ、真っ直ぐな悔いと、子どもを見つけた安堵。

 運命は少しだけ黙り込み、それから仮面をわずかに傾けた。

 

『……それでもちゃんと、リンデンが戻ってきたなら――結果オーライだよ』

 

 ディスプレイに、やわらかな笑顔が映る。

 表情はひとつ。けれど、その光の具合が少しだけ、いつもより長く瞬いていた。

 そのやり取りを後ろで見守っていた玄鉄が、ふと気づいたようににやりと笑う。

 

「……あー、リンデン探してたらさー……ちょっと、お腹すいてきたんだよねぇ」

 

 おどけたような声色と、わざとらしくさするお腹。そして、横目で濡羽に目配せする。

 濡羽はキャンディの棒をくわえたまま一瞬きょとんとしたが、すぐに察したように目を細めて笑った。

 

「そうですねぇ。なんだか急に……ラーメンが食べたい気分になってきました」

 

 わざとらしく、しかしどこか楽しげに。小さく舌を出すような、悪戯めいた声音だった。

 ヴェクサスはちらりとふたりを振り返って、そして視線を仮面の店主へ向ける。

 

「……陛下、まだ時間はあるか?」

 

 運命は、すぐに答えた。

 

『もちろん。今日の最後のお客さんだから――とっておきのを出すね』

 

 その言葉を聞いた瞬間、

 玄鉄と濡羽はまるで息を合わせたように、手を上げて――ぱちん、と小さくハイタッチした。

 

「やりぃっ」

「ふふ、勝利です」

 

 軽やかな笑いが、ラーメン屋の前にやさしく広がる。

 ヴェクサスはそれを見て、ふっと小さく笑った。

 そして、左手に感じる小さな温もりへと、そっと目を向ける。

 リンデンも、こちらを見上げていた。

 疲れているはずなのに、その瞳は不思議と静かで――どこか誇らしげだった。

 

「リンデン」

 

 やさしく、短く名前を呼ぶ。

 それだけで、少年の指先がぴくりと動いた。

 

「今日の、陛下のラーメンは――きっとすごいぞ」

 

 そして、笑みを浮かべたまま言った。

 

「……オレの鼻が、確かにそう云っている」

 

恐らくここからひたすらボスラッシュばりの連続戦闘(10万字予想)が続くので、息継ぎの為に話の間(1.2.閑話.3.4みたいな感じ)でも閑話を差し込むべきかどうか。

  • ずっと戦闘でもいいよ、あまり気にしない
  • 息継ぎは欲しい、差し込んで欲しい
  • 叡智閑話
  • イベのトロイさんちゃんの掘り下げビビった
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