みにくい魔剣の子 《本編完結・アフター開始》   作:えいちゃ

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弟と家族達、その2

 

 

 午後の第六層は、薄い雲を透かした白い光に包まれていた。

 空を仰げば、遠くに伸びる高層建築の輪郭が霞の向こうへ溶け、そのさらに奥では軌道エレベーターへ続く巨大な構造物が都市を縫うように空へ伸びている。道路沿いには自動運転車両が静かに流れ、建物の壁面を走る案内表示や広告は、人が近づくたび表示を切り替えていた。

 

 とはいえ、それはここで暮らす者にとって特別な風景ではない。

 通りには学校帰りらしい学生がいて、紙袋を提げた老人がいて、店先では若い店員が新商品のディスプレイを整えている。ガラス張りの店舗の向こうには衣類や雑貨が色別に並べられ、飲食店から漂う香りに足を止める者もいた。

 少し先では、浮遊型の配送端末が小さな荷物を抱えたまま、人波を避けて歩道の上をゆっくり進んでいる。

 

 運命は、その通りをリンデンと並んで歩いていた。

 黒いフード付きのロングコートは街中でもそれなりに目を引くものの、本人は気にした様子もなく、片手にはすでにいくつか買い物袋が提げられている。もう片方の手には薄型の端末があり、表示されたリストへ時折視線を落としていた。

 

『次は……牛乳と、卵と、それから調味料』

 

「随分と日常的ですね」

 

『買い物だからね』

 

 運命が顔を向ける。

 仮面の表示が、わずかに柔らかく変わった。

 

『リンデン、買い物ってもっと特別なものだと思ってた?』

 

「いえ。陛下がお持ちのリストが、もっと長いものだと思っていただけです」

 

『ああ』

 

 運命は端末を見た。

 画面には確かに、思っていたより短い項目しか並んでいない。

 

『今日は買い足しだけだから』

 

「でしたら、私一人でも問題なかったのでは?」

 

 ごく自然な言い方だった。

 運命はすぐには返事をしなかった。

 

 通りの角を曲がると、視界の先に大きな生活用品店が現れる。外壁は淡い灰色とガラスを基調にしており、入口脇では季節商品の広告が半透明の映像としてゆっくり回転していた。装飾は控えめで、都市の景観に溶け込むような造りになっている。

 

『ううん』

 

 運命は入口へ向かいながら答えた。

 

『一緒に来たかったから』

 

 リンデンの歩幅が、ほんのわずかに乱れた。

 運命は気づいていた。

 けれど、何も言わない。

 

 店へ入ると、外より少し低い温度の空気が二人を迎えた。照明は白く明るいが眩しさはなく、棚の縁には細い案内表示が埋め込まれている。近づけば商品の情報が浮かび、手に取れば産地や保存期限、在庫数まで小さく表示された。

 それでも、人が商品を手に取り、見比べ、カゴへ入れるという光景そのものは、昔からほとんど変わっていない。

 運命は入口付近で買い物用のカゴを一つ取り、リンデンへ渡そうとした。

 

「私が持ちます」

 

 先にリンデンが手を出した。

 

『じゃあお願い』

 

「はい」

 

 拒まず渡す。

 その方が、今は自然だった。

 リンデンはカゴを片手に持ち、運命の少し後ろを歩く。

 

 最初に向かったのは食品売場だった。

 冷蔵棚には乳製品が整然と並び、瓶や紙容器に混じって、軽量素材の保存容器もいくつか置かれている。どれも似たような白いパッケージで、違いは小さく表示された成分と産地程度だった。

 運命はその前で足を止めた。

 

『リンデン』

 

「はい」

 

『どっちがいい?』

 

 左右の手に一本ずつ取る。

 片方は濃厚なもの。

 もう片方は少し軽め。

 リンデンは両方を見る。

 

「どちらでも構いませんが」

 

『うん』

 

 運命は待った。

 

「……陛下のお好みでよろしいのでは?」

 

『私はどっちでもいいよ』

 

「でしたら――」

 

『だから、リンデンが選んで』

 

 そこでようやく、リンデンが言葉を止めた。

 困ったような顔をする。

 それは運命にとって、よく知っている表情だった。

 何かを任された時ではない。

 仕事の判断を求められた時でもない。

 自分自身のために何かを選ばなければならない時にだけ、昔から時折見せる顔だった。

 

 運命は急かさなかった。

 手にした二本をそのまま差し出し、リンデンが答えを出すのを待つ。

 

「……では」

 

 しばらくして、リンデンが右側を指した。

 

「こちらを」

 

『こっち?』

 

「はい。少し濃い方が、料理にも使いやすいかと」

 

『うん』

 

 運命は何の迷いもなく、その一本をカゴへ入れた。

 

『じゃあこれにしよう』

 

 それだけだった。

 褒めることもしなければ、理由を尋ねることもしない。

 リンデンも少しだけカゴの中を見たあと、そのまま隣の棚へ歩き始めた。

 次は卵だった。

 こちらも数種類ある。

 運命は二つ取る。

 

『どっち?』

 

「……またですか」

 

『うん』

 

「陛下は、今日は随分と私に選ばせますね」

 

『そう?』

 

「そう思います」

 

 運命は小さく首を傾げた。

 特別な意図があるわけではなかった。

 ただ、どちらでもいいものなら、一緒に使うリンデンが選んでもいいと思っただけだ。

 その程度のことだった。

 

『じゃあ嫌?』

 

「いえ」

 

 リンデンは二つを見比べた。

 

「……こちらで」

 

『了解』

 

 また一つ、カゴの中へ増える。

 そうして棚を一つ進むたびに、似たようなやり取りが何度か続いた。

 

 調味料。

 飲料。

 運命屋で使う保存食品。

 

 運命が二つを見せ、リンデンが最初に「どちらでも」と返し、最後にはどちらかを選ぶ。

 そのたびに、運命は選ばれた方をカゴへ入れた。

 

 買い物自体は、ひどく平凡なものだった。

 明日の朝に使うもの。

 数日後までにはなくなるもの。

 なくなれば、また買いに来ればいいもの。

 運命はそれをひとつずつカゴへ入れていく。

 リンデンも、その隣を歩いている。

 

 陳列棚の向こうから、店内放送が穏やかな音量で流れていた。少し離れた通路では子供が菓子を欲しがり、母親らしい女性に手を引かれている。

 自動清掃端末が人を避けながら床を進み、その上を店内照明が白く反射していた。

 

『リンデン』

 

「はい」

 

『明日の朝、パンとご飯どっちがいい?』

 

 リンデンがまた、少しだけ困った顔をする。

 運命は仮面越しにそれを見ながら、答えを待った。

 

「……パンで」

 

『うん』

 

 カゴの中へ、パンが入る。

 明日の朝に食べるものだった。

 そのことを、運命は特別には意識しなかった。

 リンデンもおそらく、同じだった。

 

 買い物を終える頃には、カゴの中もそれなりに埋まっていた。

 牛乳、卵、パン、いくつかの調味料。それに運命屋で使う保存食品と、途中でリンデンが選んだ小さな菓子がひとつ。必要なものだけを買ったはずなのに、こうして並べてみると、日々の生活というものは案外たくさんの物で出来ている。

 会計は店の出口手前にある無人レジで済ませた。カゴを台へ置くと、底面の読み取り機が中身を一括で認識し、商品名と金額が薄い光の一覧として宙に浮かぶ。運命が端末をかざすと、短い電子音とともに支払いが完了した。

 リンデンはその横で、買った物を袋へ詰め直している。

 

『重い方、私が持つよ』

 

「いえ。これくらいでしたら私が」

 

『リンデン』

 

「……はい」

 

 運命が片方の袋へ手を伸ばす。

 リンデンは一瞬だけ持ち手を握ったままにしていたが、やがて抵抗するのをやめた。牛乳や瓶類の入った重い方を自分に残し、軽い袋を運命へ渡す。

 

『半分こ』

 

「……半分ではありませんね」

 

『気持ちの話』

 

 仮面の表示が少しだけ楽しそうに変わる。

 リンデンはそれを見て、小さく息を吐いた。困ったような、諦めたような表情だった。

 

「では、お願いします」

 

『うん』

 

 自動扉が開く。

 店の外へ出ると、室内より少しだけ温い風が二人の間を抜けていった。

 通りには相変わらず人が多い。頭上では建物同士を繋ぐ連絡通路が影を落とし、その向こうでは半透明の広告がゆっくりと映像を切り替えている。

 服飾店のショーウィンドウには季節物の衣装が並び、少し先のカフェではガラス越しに客が談笑していた。

 

 近未来的な街並みの中に、休日めいた緩さがある。

 急いでいる人もいれば、特に目的もなく歩いている人もいる。二人組で店を覗き込む者、片手に飲み物を持って立ち止まる者、通り沿いのベンチで端末を眺めている者。

 運命は歩き出しかけて、少しだけ速度を落とした。

 

『ねぇ、リンデン』

 

「はい」

 

『何か見たいものある?』

 

 リンデンが顔を向ける。

 

「見たいもの、ですか」

 

『うん』

 

 運命は通りの先へ視線を向けた。

 

『買い物、もう終わったし。急いで帰らなくてもいいから』

 

「ですが、陛下にもご予定があるのでは」

 

『今日はもうないよ』

 

「では、運命屋の仕込みを――」

 

『それも夕方からで大丈夫』

 

 逃げ道をひとつずつ塞ぐような言い方ではなかった。ただ、リンデンが持ち出しそうな理由を先回りして、静かに外していく。

 リンデンは少し黙った。

 通りの向こうには、雑貨店、服飾店、書店、菓子店、電子機器を扱うショップ。どれも足を止めようと思えば、いくらでも理由を作れる店ばかりだった。

 

「……特には」

 

『ほんとに?』

 

「はい」

 

 返事はいつも通り丁寧だった。

 けれど運命は、すぐには歩き出さなかった。

 リンデンが自分のために何かを欲しがる時、その言葉が出てくるまで少し間がある。

 欲しいものがないのか、欲しがることそのものを後回しにしているのか。長く一緒にいるうちに、その違いは何となく分かるようになっていた。

 

『じゃあ、見るだけでもいいよ』

 

「見るだけ」

 

『うん。買わなくてもいいし』

 

 運命は少し先の通りを指した。

 

『気になる店があったら寄ろう』

 

 リンデンもその先を見る。

 視線がいくつかの店を通り過ぎる。

 服飾店。

 家具店。

 生活雑貨。

 少し奥には、古い紙の本と電子書籍端末を一緒に扱う大きな書店が見えた。

 

 そこで、リンデンの視線がほんの少しだけ止まった。

 運命は何も言わなかった。

 すぐに指摘すれば、リンデンはたぶん「いえ、特には」と戻す。

 だから、同じ方向を見たまま少しだけ待つ。

 

「……陛下」

 

『うん』

 

「少しだけ、あちらを見てもよろしいでしょうか」

 

 運命の仮面に、小さな笑顔の表示が浮かんだ。

 

『もちろん』

 

 リンデンは一度だけ頷いた。

 二人は並んで歩き出す。

 買い物袋が歩調に合わせて小さく揺れる。

 午後の光はまだ高く、帰るには少し早い時間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 書店へ入ると、通りの明るさが一枚薄くなった。

 外壁のほとんどを硝子で覆った店だったが、店内の照明は街路よりも幾分落ち着いている。天井から吊られた細長い照明が棚ごとに柔らかな光を落とし、木目を残した床の上には、紙の本と電子書籍端末を扱う区画が緩やかに入り交じっていた。

 壁際には検索用の薄型端末が並び、その横には昔ながらの案内板も残されている。新刊の表紙が空中表示でゆっくり入れ替わる一方、そのすぐ下では平積みにされた紙の本を手に取って頁を捲る客がいる。

 新しいものと古いものが、どちらかを押し退けることなく同じ場所に収まっていた。

 

『何か探してたの?』

 

「特定のものがあるわけではありません。ただ、少し見てみようかと」

 

『うん。じゃあゆっくり見よう』

 

 運命はそう答えて、リンデンの半歩ほど後ろを歩いた。

 買い物袋は二人で分けたままだった。リンデンが持っている方には食品が入り、運命の手元には比較的軽いものだけが収まっている。

 先ほどから何度か交換しようとはしたものの、そのたびリンデンが静かに首を振るので、今はそのままにしていた。

 

 リンデンが向かったのは、やはり専門書の並ぶ一角だった。

 霊子工学。エネルギー変換理論。材料科学。古典魔術体系の再検証。技術書の背表紙を順に追っていくその横顔には、食品売場で見せていた微かな迷いがほとんどない。棚から一冊を抜き、数頁を確かめ、元の場所へ戻す。その動きには、何を見るべきかを本人がよく分かっている者の迷いのなさがあった。

 運命は少し離れた場所からそれを眺めていた。

 

『リンデン』

 

「はい」

 

『仕事の本じゃなくてもいいんだよ?』

 

 頁を捲っていた指が止まる。

 リンデンが本から顔を上げた。

 

「……仕事の本、ですか」

 

『うん。今、お休みだから』

 

「これは純粋な興味ですが」

 

『ほんと?』

 

「はい」

 

 間はなかった。

 運命は少し考え、それから仮面の表示を柔らかくする。

 

『じゃあ、それならいいよ』

 

「……疑われましたか」

 

『ちょっとだけ』

 

「心外です」

 

 そう言いながらも、リンデンの口元は僅かに緩んでいる。

 その時だった。

 

「んんんんん……」

 

 低く唸る声が、ひとつ向こうの棚から聞こえた。

 運命がそちらを見る。

 

「ん~~~~……?」

 

 今度は少し長い。

 どうやら誰かが悩んでいる。

 しかも、それなりに真剣らしい。

 リンデンも本を棚へ戻し、声の方へ顔を向けた。

 二人で棚を回り込む。

 

 そこにいたのは、ブルーだった。

 本棚の前に立ち、一冊の本を両手で持っている。表紙と中身を交互に見ながら、眉間へこれ以上ないほど深い皺を寄せていた。

 

「……これ、たぶん……」

 

 頁を捲る。

 

「お料理……?」

 

 もう一頁。

 

「いや、違う……? でも食べ物の写真あるし……」

 

 何かに納得しかけて、また首を傾げる。

 運命は少しだけ近づいた。

 その瞬間だった。

 ブルーの肩がぴくりと動いた。

 続いて、ゆっくり顔が上がる。

 

「きゅぴーん!」

 

 小さな声だった。

 けれど確信に満ちている。

 

「この気配は――」

 

 勢いよく振り向く。

 

「運命さん!」

 

『正解』

 

「やったぁ!」

 

 ぱっと顔が明るくなる。

 そして、その隣にいる人物へ気づいた。

 

「……あ」

 

 青い瞳がさらに大きく開く。

 

「リンデン!」

 

「こんにちは、ブルー姉さん」

 

「わぁ! リンデンもいる!」

 

 本を抱えたまま駆け寄ってくる。

 

「えへへ、二人でお買い物?」

 

『うん。ブルーも?』

 

「私は――」

 

 そこでブルーが止まった。

 腕の中の本を見る。

 もう一度、運命を見る。

 

「……なんとなく入りました!」

 

『買い物じゃなかったんだ』

 

「うん!」

 

 胸を張った。

 リンデンが本へ視線を落とす。

 

「何をご覧になっていたのですか?」

 

「これ!」

 

 待ってましたとばかりに、ブルーが本を差し出した。

 

「何の本か分からない!」

 

「……」

 

『……』

 

「なんで二人とも黙るの?」

 

 リンデンが本を受け取る。

 表紙を確認し、数頁だけ捲った。

 

「発酵食品の専門書ですね」

 

「はっこう」

 

「はい」

 

「……食べ物?」

 

「食べ物です」

 

「やっぱり!」

 

 ブルーの顔が輝いた。

 

「私、合ってた!」

 

『そこまでしか合ってないけどね』

 

「えへへ」

 

 まるで褒められたように笑う。

 リンデンが本を返すと、ブルーはその表紙を改めて見た。

 

「じゃあ、この写真は……」

 

「麹ですね」

 

「こうじ」

 

「はい」

 

「何の骨?」

 

 一瞬だけ間が空いた。

 

「骨ではありません」

 

「ふぇっ?」

 

「菌を利用したものです」

 

「……きん」

 

 ブルーの表情が、明らかに分からないものへ変わる。

 

「小さい生き物?」

 

「大まかには」

 

「食べるの?」

 

「直接そのまま食べるというより、食品の加工に使います」

 

「……へぇぇ……」

 

 分かったのか分かっていないのか、ブルーは何度も頷いた。

 

「リンデン、やっぱりかしこいねっ!」

 

「この程度でしたら」

 

「私、この程度がわかんない!」

 

 胸を張って言うことではない。

 けれど本人は気にしていないらしい。

 運命は二人のやり取りを眺めながら、仮面の表示を小さく笑わせた。

 昔から変わらない。

 ブルーが知らないことをそのまま聞き、リンデンがひとつずつ答える。年齢も立場も、とっくに昔とは違っているのに、その時だけは妙に馴染んで見えた。

 

「ねぇリンデン、じゃあこっちは?」

 

 ブルーはすでに別の本を手に取っていた。

 

「ブルー姉さん。それは料理ではありません」

 

「まだ何も聞いてないよ!?」

 

「表紙に『分子栄養学』とありますので」

 

「ぶんし……」

 

 ブルーが本を棚へ戻した。

 

「やめとこ」

 

『早いね』

 

「難しい気配がした!」

 

 本人なりの危機察知らしい。

 そのまま棚を眺めていたブルーの視線が、少し離れた一角で止まった。

 

「あっ」

 

 声が弾む。

 

「リンデン! あっち!」

 

「何かありましたか?」

 

「料理の本!」

 

 リンデンの袖を摘まむ。

 

「これなら私にも分かるかも!」

 

 返事を待つより早く歩き出す。

 リンデンは袖を引かれるまま、特に抵抗することなくついていった。

 

『私もいるんだけどな』

 

 運命は小さく呟いた。

 もちろん、置いていかれたわけではない。

 少しだけ先を歩く二人を追う。

 料理書の棚には、初心者向けのものから専門的なものまで、色鮮やかな表紙が並んでいた。写真の比率が多いせいか、先ほどまでの専門書区画とは雰囲気もずいぶん違う。

 

「これ!」

 

 ブルーが一冊抜き取る。

 

「『誰でも作れる簡単ごはん』!」

 

「良いのではないでしょうか」

 

「ふんす!」

 

 なぜか得意げだった。

 頁を開く。

 

「……」

 

 数秒。

 

「リンデン」

 

「はい」

 

「バジルって何の骨?」

 

「葉です」

 

「葉っぱ!」

 

 ブルーの顔が明るくなる。

 

「それなら分かる!」

 

『骨だと思ってたんだ……』

 

「だって、とんこつは骨だったから……」

 

「豚骨は字の通り豚の骨ですが、バジルには骨という字がありません」

 

「そっかぁ……」

 

 ブルーは真剣に頷いた。

 次の頁へ進む。

 

「あっ、これなら作れそう!」

 

 リンデンが横から覗き込む。

 二人の距離が少し近づいた。

 

「こちらでしたら工程も少ないですね」

 

「ほんと?」

 

「はい。ただ、最初は分量をきちんと計った方が――」

 

 ブルーの返事がない。

 リンデンが顔を向ける。

 

「ブルー姉さん?」

 

「……えへへ」

 

「どうしました?」

 

「ううん」

 

 ブルーは本へ視線を戻した。

 

「なんでもないよ」

 

 耳元にかかる髪を指で避けながら、嬉しそうに頁を捲っていく。

 運命はその様子を少し離れたところから見ていた。

 何かを言うほどのものではない。

 ただ、以前にも似たような顔を見たことがある気がした。

 それ以上は考えず、二人のところへ歩み寄る。

 

『ブルー、それ買うの?』

 

「えっ」

 

 ブルーの手が止まる。

 本を見る。

 値札を見る。

 もう一度、本を見る。

 

「……買ったら、作らなきゃダメ?」

 

『別にそんなことないけど』

 

「よかったぁ」

 

「では、なぜ料理本を」

 

「いつか作れるかもしれないから!」

 

 何の迷いもなく答えた。

 リンデンが僅かに目を細める。

 

「その時は、お手伝いします」

 

「ほんと!?」

 

「はい」

 

「やったー!」

 

 ブルーが笑う。

 腕の中へ料理本を抱え、そのままレジの方向を確認する。

 

「じゃあ買ってくる!」

 

『うん。待ってるよ』

 

「すぐ戻るねー!」

 

 軽い足取りで離れていく。

 運命とリンデンは、その背中を並んで見送った。

 ほんの数秒。

 運命は何となく隣を見た。

 リンデンもブルーを見ている。

 それ自体は、何もおかしくない。

 

 ただ。

 レジへ向かうブルーの姿が人の間へ紛れても、リンデンの視線はすぐには戻らなかった。

 運命は何も言わず、その横顔を見た。

 やがてリンデンが先に気づく。

 

「陛下?」

 

『……ううん』

 

 運命は首を横に振った。

 

『何でもないよ』

 

 少し先では、ブルーが会計端末の前で早くも何かに手間取っているらしく、表示を前にして首を傾げていた。

 

「……ふぇ? ここ押すの? あれ? 戻った……」

 

 声まで聞こえてくる。

 リンデンが小さく息を吐いた。

 

「少し見てきます」

 

『うん』

 

 今度はすぐに歩き出した。

 運命もその後を追う。

 まだ、それ以上考える必要はないと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 書店を出る頃には、午後の光が少しだけ傾き始めていた。

 硝子張りの扉が背後で閉じると、店内の落ち着いた空気に代わって、第六層の街を満たすざわめきが戻ってくる。頭上を渡る連絡通路の影は歩道へ長く伸び、通り沿いの店舗では、壁面広告が夕方に向けた表示へ少しずつ切り替わり始めていた。

 買い物客も先ほどより増えたらしく、休日めいた緩やかさは残しながら、人の流れだけがわずかに密度を増している。

 運命の隣にはリンデンがいて、そのさらに隣をブルーが歩いていた。

 ブルーの腕には、つい先ほど買ったばかりの料理本が大事そうに抱えられている。

 

「えへへ……」

 

 何度目か分からない笑い声が、歩調に合わせて小さく零れた。

 

『嬉しそうだね、ブルー』

 

「うん!」

 

 返事に迷いはない。

 

「だって料理の本、買ったの初めてだもん。これがあれば、私でも何か作れるかもしれないよね?」

 

「最初から難しいものを選ばなければ、大丈夫だと思います」

 

 リンデンが隣から答える。

 

「ほんと?」

 

「はい。先ほど見ていたページのものでしたら、工程も少なかったですし」

 

「じゃあ今度、一緒に作ろうよ!」

 

 ブルーがすぐに顔を向けた。

 

「私ひとりだと、たぶん途中で何か違うものが出来ちゃう!」

 

「そこは否定されないのですね」

 

「私、へっぽこなので!」

 

 なぜか少しだけ誇らしげだった。

 リンデンが困ったように目を細める。

 

「では、私がお手伝いします」

 

「うん!」

 

 声が通りへ弾んだ。

 

「約束ね、リンデン!」

 

「はい」

 

 ほんの短いやり取りだった。

 運命は二人の横顔を見ながら歩いていた。

 

 “今度”。

 

 ブルーは何の引っ掛かりもなく、その言葉を口にする。リンデンもまた、ごく自然に返事をしていた。

 いつなのかも決めていない。数日後かもしれないし、もっと先になるかもしれない。三人の誰かが材料を買い、ブルーが何かを間違え、リンデンがそれを直す。おそらく、そんな程度の未来だった。

 

 午前から数えれば、リンデンは今日だけでもいくつかの“次”を選んでいる。

 明日の朝に食べるパン。数日のうちに使う食材。そして、いつかブルーと作る料理。

 運命は、それをいちいち特別なこととして数えてはいなかった。

 ただ、隣を歩くリンデンが、それらのどれにも当たり前のように頷いていることが少し嬉しかった。

 

「あっ」

 

 ブルーが急に足を止める。

 

「運命さん、リンデン! あれ見て!」

 

 通り沿いの服飾店だった。

 大きなショーウィンドウの中に、黒と青を基調にしたジャケットが飾られている。衣服そのものは現代的な形だが、素材には薄い発光繊維が織り込まれているらしく、襟や袖の縁が店内照明に合わせて僅かに光量を変えていた。

 

「わぁ……かっこいい……!」

 

 ブルーが硝子へ近づく。

 

「こういうの、私似合うかな?」

 

『似合うと思うよ』

 

「ほんと!?」

 

『うん』

 

「リンデンは?」

 

 唐突に振られ、リンデンがショーウィンドウへ目を向ける。

 

「ブルー姉さんには、少々大きいのではないでしょうか」

 

「ふぇっ!?」

 

 勢いよく振り返る。

 

「そ、そういう意味!?」

 

「サイズの話ですが」

 

『リンデン、たぶんブルーはデザインの話を聞いてるよ』

 

「……失礼しました」

 

「びっくりしたぁ……」

 

 ブルーは胸元へ手を当て、大きく息を吐いた。

 それでも数秒もすれば、もう同じ服へ視線を戻している。

 

「じゃあ、デザインは?」

 

 リンデンも改めて硝子の向こうを見る。

 

「似合うと思います」

 

「えへへ」

 

 今度は満足そうだった。

 三人はまた歩き出した。

 生活雑貨。

 菓子店。

 小型の家電や生活支援端末を扱う店。

 ブルーは目に入るものの多くに足を止め、そのたび二人も歩調を緩めた。

 

「運命さん、あれ何!?」

 

『加湿器』

 

「かしつき」

 

「室内の湿度を調整する機器です」

 

「へぇぇ……リンデンかしこい!」

 

「それほど難しいものでは」

 

「私には難しいよ!」

 

 やはり少し胸を張る。

 運命は仮面の表示を小さな笑顔へ変えた。

 気づけば、三人の歩く速度はずいぶん遅くなっている。何かを買わなければならないわけでも、急いで帰らなければならないわけでもない。ブルーが立ち止まれば二人も止まり、満足すればまた歩き始める。

 都市全体は変わらず忙しなく動いていた。頭上では交通網が静かに行き交い、遠くの高層建築の間を小型の輸送機が横切っていく。

 その中にある三人の時間だけが、少し余っていた。

 

「リンデン、こっち!」

 

 また何かを見つけたらしい。

 ブルーがリンデンの袖を摘まむ。

 

「急がなくても大丈夫ですよ」

 

「でも、なくなったらどうするの?」

 

「展示品は逃げません」

 

「そうなの?」

 

『たぶんね』

 

「じゃあ、ゆっくり行きます!」

 

 そう言いながら、摘まんだ袖から指は離れなかった。

 人通りの多い場所へ差しかかると、ブルーは自然とリンデンの側へ寄っていった。最初は、行き交う人にぶつからないためだったのだろう。袖を持つ指先がそのまま残り、歩いているうちに肩と肩の間もゆっくりと狭まっていく。

 運命は、その少し後ろを歩いていた。

 

 ブルーは、本来それほど遠慮なく誰かへ触れられる性格ではない。

 むしろ、意識してしまった後の方が分かりやすい。伸ばしかけた手を途中で引っ込めたり、何でもない一言に頬を赤くしたり、言いたいことを上手く言葉へ出来ず、困ったように笑って誤魔化したりする。

 けれど、リンデンの隣にいる時だけは少し違う。

 幼い頃から弟として可愛がってきた時間が長すぎるせいなのか。それとも、それだけでは片付かないものが今も残っているからなのか。ブルー自身がその二つをどこまで分けているのかは、運命にも分からない。

 

 ただ、リンデンの袖を掴んだ指は離れなかった。

 人波が近づくたび、むしろその腕へ少しずつ身体を寄せていく。そうして次の店先へ着いた頃には、肩が触れそうなほど近く並んでいた。

 リンデンも、それを咎める様子はない。

 昔からそうだったから、とでもいうように、その距離を自然に受け入れている。

 ブルー自身が気づいたのは、店先で足を止め、ひとしきりショーウィンドウを眺めた後だった。

 

「……あ」

 

 自分の指先を見る。

 掴んでいるのはリンデンの袖だった。

 さらに、そのすぐ横には彼の腕がある。

 ブルーの肩が僅かに縮こまった。

 

「どうしました?」

 

「う、ううん」

 

 返事が少しだけ上擦る。

 一度、手を離しかけた。

 指先が布地から浮く。

 けれど完全には離れず、袖の端へ僅かに残った。

 

「……えへへ」

 

 今度の笑い声は、先ほどまでより小さかった。

 

「ブルー姉さん?」

 

「なんでもないよ」

 

 そう答えてから、ブルーはほんの少しだけ視線を泳がせた。

 意識してしまった途端、急にどうしていいのか分からなくなったらしい。料理本を抱える腕に少し力が入り、足元へ目を落とし、またリンデンを見て、すぐに逸らす。

 それでも、袖を摘まむ指だけは残っていた。

 

「ただね」

 

 やがてブルーが口を開く。

 今度は少しだけ声が小さい。

 

「やっぱり……今でもドキドキするね」

 

 リンデンの表情が止まった。

 運命も、二人の少し後ろで足を止める。

 

「リンデンの近くにいると」

 

 ブルーは自分の胸元へ視線を落とした。

 耳の辺りまで、わずかに赤くなっている。

 

「ずっと一緒にいるし、昔からいっぱいくっついてたのに……こうやって意識すると、やっぱり、まだドキドキする」

 

 最後は照れ隠しのように笑った。

 

「えへへ……変だね」

 

「……ブルー姉さん」

 

「あっ、でも!」

 

 リンデンが何か言うより早く、ブルーが顔を上げる。

 

「困らなくていいよ?」

 

 言葉は慌てていたが、表情には悲しさがなかった。

 

「もう、どうにかしてほしいとかじゃないんだよ。リンデンに何かしてほしいとか、そういうのじゃなくて」

 

 少しだけ迷ってから、また笑う。

 

「好きなものは好きだから、仕方ないなぁってだけ」

 

 声に出してしまえば、それで落ち着いたらしい。

 ブルーはもう一度リンデンの袖へ目を落とした。

 今度は手を離さなかった。

 リンデンは、すぐには返事をしなかった。

 

 運命は少し離れた場所から、その横顔を見ている。

 照れているようには見えない。

 困っているのとも少し違う。

 何かを言葉にしようとして、やめた。

 そんな短い間があった。

 

「……そうですか」

 

 結局、返したのはそれだけだった。

 

「うん」

 

 ブルーも、それ以上は求めなかった。

 嬉しそうに、小さく笑う。

 その笑顔は、以前リンデンへ想いを告げた頃とは少し違うように運命には見えた。

 

 薄れたというより、落ち着いた。

 消えたというより、自分の中で居場所を見つけた。

 昔ならもっと大きく心を揺らしていた感情を、今のブルーは抱えたまま普通に歩ける。リンデンの隣にも立てるし、こうして笑うことも出来る。

 恋そのものを、もう苦しみだけのものとして扱ってはいないのだろう。

 

「あっ!」

 

 その空気を長く引きずることもなく、ブルーの視線が別の店へ飛んだ。

 

「運命さん! あっち、なんかすごい!」

 

『今度は何?』

 

「わかんない!」

 

『分からないんだ』

 

「だから見てくる!」

 

 ブルーはようやくリンデンの袖から手を離し、人の流れを避けながら数歩先へ駆けていった。

 

「ちょっと見てくるねー!」

 

『走らないでね』

 

「はーい!」

 

 返事だけはよかった。

 運命はその背中を見送った。

 途中で誰かへぶつかることもなく、ブルーは目的の店先へ辿り着く。硝子越しに中を覗き込み、すぐに何か面白いものを見つけたらしく、楽しそうに身を乗り出している。

 

 その時、運命は何となく隣を見た。

 リンデンもブルーを見ている。

 それ自体は、何もおかしくない。

 つい先ほどまで、自分の袖を握っていた相手だ。しかも、その相手は今でも自分を好きだと、照れながら口にしたばかりだった。

 目で追うくらいはするだろう。

 けれど、ブルーが店先へ着いてもリンデンの視線は戻らなかった。

 運命は、すぐには声をかけなかった。

 ほんの数秒だった。

 それでも、長いと思った。

 

 普段リンデンが誰かを見る時とは、少し違う。

 心配しているようには見えない。

 さっきの告白めいた言葉に戸惑っているようにも見えない。

 もちろん、ブルーを嫌がっているわけでもなかった。

 目の前にいるブルーを見ている。

 それなのに、運命には、リンデンがその向こうにある何かまで一緒に見ているように思えた。

 遠い場所。

 あるいは、ここにはない何か。

 何なのかまでは分からない。

 運命には見えていないものを、リンデンだけが見ている。

 そんな、ごく薄い違和感だけが残る。

 

『……リンデン』

 

「はい」

 

 返事はすぐだった。

 リンデンがこちらを向く。

 もう、いつもの顔だった。

 

『ブルー、何か気になる?』

 

「……」

 

 ごく僅かな間があった。

 

「いえ」

 

 リンデンはもう一度だけ、少し先にいるブルーを見る。

 

「何でもありません」

 

『そっか』

 

 運命は、それ以上聞かなかった。

 “何でもない”という言葉を、そのまま信じたわけではない。

 けれど、今ここで無理に引き出す必要もない。

 リンデンが言葉に出来る時が来るなら、その時に聞けばいい。

 

「運命さーん!」

 

 少し先から、ブルーの声が飛んでくる。

 二人が顔を向けると、店先からこちらへ大きく手を振っていた。

 

「リンデーン! こっち来てー! これ何に使うのか全然わかんない!」

 

『今行くよ』

 

 運命も片手を上げる。

 

「……行きましょうか」

 

『うん』

 

 リンデンが歩き出した。

 運命も、その隣へ並ぶ。

 午後の街にはまだ十分な明るさが残っている。買い物袋には今日選んだ食材が入り、ブルーの腕には新しい料理本がある。帰れば運命屋の仕込みが待っていて、明日の朝にはリンデンが選んだパンを食べる。

 何でもない予定ばかりだった。

 その中を、三人で歩いていく。

 

 運命は一度だけ、隣にいるリンデンの横顔を見た。

 もう、さっきの表情は残っていない。

 それでも。

 ブルーの背中へ向けられていた、あの数秒の視線だけが、どうしてか少し胸の内に残った。

 





すっごく今更なんですけど、アンケートの『トブ一緒ルート』は『トロイとブルー3人で一緒ルート』の略でした……。
ちなみにみんなと一緒ルートの話はこんな感じの話を羅列していく感じになります。次回トロイルート入ります。

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